永禄六年三月下旬、近江国観音寺城。
朝餉を終え、書院で仕事に取り掛かろうとしたところへ、寿付きの侍女が慌ただしく駆け込んできた。普段は礼儀作法に厳しい近衛家出身の侍女が、息を切らして駆け込んでくるなど珍しい。何事かと思っていると、寿が朝から腹の痛みを訴え、産婆は産気づいたのではないかと見ているという。
いよいよ、その時が来た。
覚悟していたつもりだったのに、胸の奥が大きく跳ねた。
寿が懐妊していると分かったのは昨年の十月だった。あれから半年近くが経ち、腹も随分と大きくなっている。近頃は身体への負担を避けるため自室で過ごすことが多くなり、書院へ顔を見せることもほとんどなくなった。俺も仕事の合間に様子を見に行くようにしていたが、ここ数日は夜になると腹が張ることもあったらしい。産婆からはいつ始まってもおかしくないと言われており、父上とも相談して医師や産婆の手配を済ませ、必要なものも早くから揃えていた。
俺は手元の書状を置き、弥太郎へ後を頼んで寿の部屋へ向かった。廊下では侍女たちが忙しく行き来していたが、誰も取り乱してはいない。近衛家から付き従ってきた年長の侍女が中心となって準備を進めているらしく、湯や清潔な布を運ぶ者にも迷いはなかった。俺が姿を見せると皆が道を開けたが、手を止めさせてしまったことが少し気になった。
寝所へ入ると、寿は寝具の上に身体を起こしていた。傍らには産婆と年長の侍女が控えており、俺の姿を見ると静かに頭を下げた。寿は額に薄く汗を浮かべていたが、思っていたより顔色はよい。俺が近づくと少し困ったように笑い、朝から騒がせてしまって申し訳ないと口にした。こんな時まで周囲を気遣うのだから、まったく寿らしい。
「具合はどうだ。随分痛むのか」
「今は落ち着いております。ただ、少し前までは随分と……。四郎様、お仕事の途中だったのでしょう?」
「仕事なら後でもできる。寿の方が大事だ」
寿は微笑んだが、すぐに表情を曇らせた。再び痛みが始まったらしい。俺が傍らに腰を下ろすと、寿は俺の手を強く握り、しばらく目を閉じていた。何か言葉を掛けたかったが、軽々しく大丈夫だとは言えなかった。俺には出産の苦しさなど分からない。代わってやることもできず、ただその手を握り返すことしかできなかった。
やがて痛みが和らいだらしく、寿はゆっくり息を吐いた。産婆によれば、まだ産気づいたばかりであり、初めてのお産でもあるため時間が掛かるかもしれないという。腹の痛みが強くなったからといって、すぐに子が生まれるわけではないらしい。今のところ寿の身体に異常は見られないと聞き、少し安心した。
そのまま傍にいたかったが、部屋では出産の準備が続いている。年長の侍女から、今は産婆たちに任せてほしいと頼まれた。俺がいても役に立てることは少なく、むしろ寿が気を遣うだろう。そう考えて腰を上げると、寿が名残惜しそうにこちらを見た。
「四郎様、どうか御心配なさらないでくださいませ。私も頑張りますから」
「何かあればすぐに知らせてもらう。遠くへは行かんからな」
寿は小さく頷いた。握っていた手を離すと、少しだけ寂しそうな顔をしたのが気に掛かったものの、侍女たちが傍に付いている。俺は産婆へ寿のことを頼み、後ろ髪を引かれる思いで寝所を出た。
書院へ戻る途中、すれ違う者たちから次々に寿の様子を尋ねられた。どうやら産気づいたという話は、すでに城内へ広まっているらしい。まだ生まれるまでには時間が掛かりそうだと伝えても、皆どこか嬉しそうで落ち着きがない。普段なら静かな廊下にも人の往来が増えており、思わず苦笑してしまった。
中でも父上は、いつになく落ち着きがなかった。
書院へ戻ると、いつの間にか父上が俺の席の近くに腰を下ろしていた。傍らには弥太郎がおり、何やら説明していたようだが、俺の姿を見るなり父上が顔を上げた。こちらが座る前から寿の具合を尋ねてくる。俺が産婆の話を伝えると、一度は安心したように頷いたものの、今度は出産までどの程度掛かるのかが気になったらしい。
「初めてのお産ゆえ、時間が掛かることもあるそうです。今のところ心配するような様子はないと聞いております」
「そうか。それならよいが……。産婆は何人付いておる?」
「以前から頼んでいた者が付いております。寿の侍女たちもおりますから、手は足りているかと」
父上は頷きながらも、落ち着かない様子で膝の上の手を動かしていた。普段なら家臣からどのような報告を受けても、容易には表情を変えない人である。その父上が産婆の人数まで尋ねてくるのだから、笑いを堪えるのに苦労した。
しばらくして父上は自分の書院へ戻っていった。俺のところにいても寿の様子が分かるわけではないし、父上にも仕事がある。そう思っていたのだが、半刻も経たぬうちに再び姿を見せた。今度は寿が何か食べられそうかを尋ねてきたので、産婆と侍女たちに任せてあると答えた。必要なことは理解しているはずだが、何かしていなければ気が済まないのだろう。
俺は父上を見送り、ようやく仕事へ戻った。
机には美濃から届いた書状が積まれている。関城の帰属については、先日訪れた使者たちから申し出を受け、受け入れに向けた調査を進めているところだった。長井隼人佐道利を失った家臣たちがどのような形で残るのか、城内の兵糧や武具はどの程度あるのか。進藤山城守賢盛には関城の者たちと話を進めるよう伝えてあるが、今後の守備を考えるにも確かめなければならないことは多い。
その中の一通には、関城周辺の村々から寄せられた申し出について記されていた。長井家が以前から認めていた権利や年貢の納入先を、六角へ帰属した後も維持できるかという問い合わせらしい。まだ正式な帰属の手続きが終わったわけではないのに、周辺ではすでに六角の支配を前提とした話が出始めているようだった。国人たちの間でも、関城の行方は大きな関心事となっているのだろう。
俺は書状を読みながら、弥太郎へ以前の取り決めが分かる帳面を用意させた。関城の者たちが申し出てきた条件と、周辺の村々が求めていることを混同するわけにはいかない。まずは山城守に現地の事情を調べてもらい、必要なものから順に処理するつもりだった。
ところが、いつもなら手際よく帳面を探してくれる弥太郎が、今日はなかなか戻ってこない。何かあったのかと思って顔を上げると、棚の前で帳面を手にしたまま廊下を気にしていた。
「弥太郎。帳面は見つかったか」
「はっ。申し訳ございません、若様。こちらにございます」
慌てて戻ってきた弥太郎は、頼んだものとは別の帳面を差し出してきた。俺が表紙を指さすと、本人も間違いに気付いたらしく顔を赤くしている。珍しいこともあるものだ。いつもの弥太郎なら、俺が何を求めているのか先回りして揃えてくれる。それが今日は仕事の途中で何度も廊下へ目を向けていた。
弥太郎が改めて帳面を取りに行ったところへ、父上が三度目の顔を見せた。今度は別に尋ねたいことがあったわけではないらしく、俺の向かいへ座ると関城の書状に目を通し始めた。ただ、普段より頁を繰る手が早く、ほどなく書状を置いて庭へ視線を向けていた。
俺は父上に関城の調査について相談しようとしたが、どうにも仕事の話をする雰囲気ではなかった。父上は俺の説明を聞いて頷いているものの、どこか上の空である。弥太郎も同じように廊下から聞こえる足音を気にしており、俺が何か尋ねるたびに慌てて姿勢を正す始末だった。
そんな二人を見ているうちに、妙なことに俺の方が落ち着いてきた。
最初に寿が産気づいたと聞いた時は、俺も随分と動揺した。寝所を出た後も寿のことが頭から離れず、書院へ戻る足取りは決して軽くなかった。それなのに父上と弥太郎が揃ってそわそわしているのを見ると、自分まで同じようにしていては仕事にならないと、かえって気が引き締まった。
もちろん、寿のことが心配でなくなったわけではない。何かあればすぐに駆け付けるつもりだし、産婆からの知らせを待ち遠しく思っている。それでも今は、産婆と侍女たちが寿に付いてくれている。俺が廊下へ出て何度も様子を尋ねたところで、寿の苦しさが和らぐわけでもない。ならば任せるべきことは任せ、俺は自分にできることをしておこう。
そう考えると、不思議と手元の書状にも集中できるようになった。
父上はしばらくして自分の書院へ戻ったが、今度は後藤但馬守賢豊を伴って再び顔を見せた。但馬守も寿のことを案じているらしく、母子の無事を祈っておりますと頭を下げてくれた。ところが父上は、その言葉を聞くなり近衛家へ知らせる時期について話し始めた。但馬守は少し困ったように俺の方を見たが、俺にも今すぐ決めるつもりはない。
「父上。まずは無事に生まれてから考えましょう。今から使者を出しても、近衛家の方々を心配させるだけです」
「分かっておる。今すぐ出せと申しているわけではない。ただ、祝いの支度もあるだろう」
そう答える父上の顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。まだ子が生まれたわけでもないのに、すでに孫を迎える準備を考えているらしい。但馬守もその様子を見て少し笑っていたが、父上から何か言われる前に表情を改めていた。
結局、近衛家への使者については出産後に改めて相談することになった。父上は今度こそ仕事へ戻ると言い残して書院を出たものの、その後ろ姿を見送った弥太郎が小さく息を吐いたのが聞こえた。どうやら父上の相手をする方も、それなりに気を遣うらしい。
昼が近づいた頃、寿のもとから知らせが届いた。痛みは次第に強くなっているものの、産婆によれば今のところお産は順調に進んでいるという。ただ、まだ時間は掛かりそうだった。俺は知らせを届けてくれた侍女に礼を述べ、寿へ、すぐ近くにいると伝えてほしいと頼んだ。侍女は承知して部屋を辞したが、その姿が廊下の向こうへ消えるまで、弥太郎が目で追っていたことには気付いていた。
仕事に区切りを付け、昼餉を運ばせることにした。俺も朝から何かと気を張っていたため、少し腹が空いている。弥太郎にも食事を取るよう勧めたが、まだ仕事が残っているからと遠慮された。俺が構わないと言うとようやく腰を下ろしたものの、普段ほど食が進んでいないようだった。
何か気になることでもあるのかと尋ねると、弥太郎は少し迷った後、思い切ったように口を開いた。
「若様。一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ。改まって」
「生まれてくる御子は、若君でしょうか。それとも姫君でしょうか」
思いも寄らない問い掛けに、俺は箸を止めた。弥太郎は真面目な顔をしていたが、言われてみれば確かに気になることではある。寿の腹の中にいる子が男なのか女なのか、今の俺たちに確かめる術はない。産婆や侍女たちの間では腹の形などから生まれる子の性別を占うこともあるらしいが、当たるとは限らないそうだ。
弥太郎もそのような話を聞いたのだろうか。尋ねてみると、近頃は城内でも御子のことが話題になっており、若君が生まれると申す者もいれば、姫君に違いないと言い張る者もいるらしい。どちらが正しいのか気になって仕方がないのだという。
「弥太郎はどちらだと思う?」
「それが、まるで見当が付きませぬ。ただ、六角家の御世継ぎとなる若君が生まれれば、御屋形様もさぞお喜びになるかと」
「父上なら、どちらでも随分喜ぶと思うがな」
そう答えると、弥太郎は先ほどまでの父上の様子を思い出したらしく、笑いを堪えるように口元を押さえた。確かにあれほど落ち着かない父上を見ていれば、生まれてくる子が男か女かなど、もはや大した問題ではないように思える。
武家の嫡男として男子を望まれる立場にあることは、俺も理解している。いずれ六角家を継ぐことになる身であり、家の行く末を考えれば後継ぎの問題を避けて通ることはできない。しかし、だからといって最初の子が男子でなければならないなどと考えたことはなかった。何より今は、寿が無事に出産を終えられるかどうかの方が気掛かりだった。
「男でも女でも構わん。寿と子が無事なら、それでよい」
弥太郎は少し驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。俺としては当たり前のことを口にしただけなのだが、家臣たちから見ればそうでもないのかもしれない。六角家の嫡男に生まれる第一子となれば、どうしても家督のことが頭に浮かぶのだろう。それはそれで理解できるが、生まれる前から家の事情ばかりを背負わせたくはなかった。
その後、弥太郎は少し照れながら胸の内を話してくれた。男児であれば将来は若様のように武芸や政務を学ぶことになるのだろうし、女児であればどのような姫君に育つのだろうかと、あれこれ想像していたらしい。気の早いことだと思ったが、弥太郎が我が子の誕生をそれほど楽しみにしてくれているのは嬉しかった。
昼餉を終えたところへ、再び父上がやって来た。今度は何か尋ねるためではなく、俺がきちんと食事を取っているか確かめに来たという。どうやら自分ばかり落ち着かずにいることが気になったらしく、俺まで食事を抜いているのではないかと心配したらしい。膳が片付けられるところを見て安心したようだったが、弥太郎が御屋形様は食事を済まされたのかと尋ねると、少し妙な間が生まれた。
俺が顔を上げると、父上は何とも言えない表情をしていた。
「父上。まさか、まだ召し上がっておられないのですか」
「……後で食べるつもりだった」
思わず笑ってしまった。こちらの心配をする前に、御自身の食事を済ませてほしいものだ。父上は少々不満そうな顔をしたものの、弥太郎がすぐに膳を用意させると、結局は俺の書院で食事を取ることになった。
普段なら六角家の当主として家臣たちを前にしている父上が、今日は孫の誕生を待つ一人の祖父として過ごしている。そんな姿を見る機会は滅多にない。俺もいずれ子の成長を見守りながら、同じように落ち着かなくなる日が来るのだろうか。そう考えると少し可笑しかった。
午後になると、城内の慌ただしさも幾分落ち着いてきた。寿の部屋では相変わらず産婆と侍女たちが付き添っているが、必要なものはすでに揃っており、出入りする者も限られている。父上もようやく仕事へ戻り、弥太郎も普段通り帳面を整理し始めた。
俺は関城の書状を改めて手に取り、調査を進める上で確認すべきことを書き出していった。長井家の旧臣たちをどう扱うかは、現地の者たちと話を重ねて決める必要がある。所領の安堵についても、以前の取り決めを確かめずに認めれば後で争いになりかねない。山城守へ送る返書を認めながら、必要な指示を一つずつ整理していく。
ただ、時折筆を止めてしまうことはあった。
今頃、寿はどうしているだろう。朝よりも痛みが強くなっているのだろうか。産婆が付いているとはいえ、出産には危険が伴うこともある。母子ともに無事であってほしいと願っているが、結果が分かるまでは安心できない。
ふと窓の外へ目を向けると、春の陽射しが庭へ差し込んでいた。朝にはまだ冷たさの残っていた風も和らぎ、木々の若葉が揺れている。こうして書院で仕事をしている間にも、寿は新しい命を世に迎えるために苦しんでいるのだと思うと、何とも歯痒かった。
筆を握る手に力を込んだところで、産婆たちの働きに代わることはできない。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。弥太郎が顔を上げ、俺も筆を置く。現れたのは寿付きの年長の侍女だった。朝から何度も知らせを届けてきた者とは違い、今度は少し緊張した表情をしている。
侍女は俺の前へ進むと、静かに頭を下げた。
「右衛門督様。姫様のお産が、いよいよ進んでまいりました。産婆より、もう暫くお待ちいただきたいとのことでございます」
俺は頷き、寿の容体を確かめた。痛みは随分と強くなっているものの、今のところ異常は見られないという。その言葉に少しだけ胸を撫で下ろし、何かあればすぐに知らせるよう頼んだ。侍女は承知して戻っていったが、その後ろ姿を見送りながら、俺はしばらく席を立てずにいた。
弥太郎が新しい書状を差し出してきたので受け取ったものの、今度ばかりはすぐに目を通す気になれなかった。朝から何とか仕事を続けてきたが、寿がいよいよ出産を迎えようとしていると聞けば、さすがに落ち着いてはいられない。
俺は書状を机へ置き、弥太郎に残りの仕事を任せることにした。産婆たちの邪魔をするつもりはないが、せめて寿の部屋に近いところで待っていたかった。
書院を出ると、廊下には午後の柔らかな陽射しが差し込んでいた。朝から何度も通った道を、今度はゆっくりと進んでいく。遠くで侍女たちの声が聞こえたが、その中に寿の声が混じっているのかは分からなかった。
寿の寝所に近い控えの間へ向かうと、廊下では侍女たちが忙しく行き来していた。先ほどまでとは違い、皆の表情には幾分緊張が見られる。産婆の指示で湯や布を運んでいるらしく、俺が通り掛かっても立ち止まって挨拶をする余裕はないようだった。こちらも邪魔をするつもりはない。道を譲りながら控えの間へ入ると、そこにはすでに父上が座っていた。
どうやら俺より一足早く知らせを受けたらしい。父上は俺を見るなり寿の具合を尋ねようとしたが、こちらも詳しいことを知らないと分かると、少し残念そうな顔をした。普段なら家臣の報告を待つことくらい何でもない人なのに、今日ばかりは時間が経つのがもどかしいのだろう。膝の上に置いた手を何度も組み直しているのが目に付いた。
俺は父上の向かいへ腰を下ろし、産婆から新たな知らせが届くのを待つことにした。廊下の向こうからは時折侍女たちの声が聞こえ、湯を運ぶ足音が近づいては遠ざかっていく。そのたびに父上が顔を上げるため、俺までつられて入口へ目を向けてしまった。書院ではあれほど落ち着いて仕事をしていられたのに、ここまで来るとどうにも勝手が違う。
しばらくして年長の侍女が姿を見せた。寿は痛みに耐えながらも産婆の言葉に従っており、今のところ異常は見られないという。俺が寿の顔を見られないかと尋ねると、今は出産に集中しているため、落ち着くまで待ってほしいと頼まれた。無理を言うつもりはなかったので、そのまま頷いた。父上も何か尋ねかけたが、侍女が忙しそうにしているのを見て口を閉じた。
侍女が戻った後、父上は大きく息を吐いた。額には薄く汗まで浮かんでいる。春先とはいえ、室内はそれほど暑くない。どうやら本人が思っている以上に気を張っているらしい。
「父上。少しお休みになられてはいかがですか。朝からずっと気を揉んでおられるでしょう」
「四郎こそ、書院の仕事はよいのか」
「急ぎのものは片付けました。残りは弥太郎に任せてあります」
「そうか。それならよいが……」
父上はそこで言葉を切り、再び廊下へ目を向けた。今では俺も人のことを言えなくなっていた。寿の具合について異常はないと聞いているものの、痛みに耐えている姿を思い浮かべると気が気ではない。代わってやることができない以上、今は産婆たちに任せるしかなかった。
不意に父上が、俺の生まれた時のことを話し始めた。
父上も初めて子が生まれる時は、今と変わらず落ち着かなかったという。当時は家中の者たちが次々に様子を知らせてくれたものの、何を聞いても安心できず、結局は産声を聞くまで気を揉み続けたらしい。俺が生まれたと告げられた時のことは、今でもよく覚えているそうだ。
幼い頃の話を父上から聞くことはあっても、生まれた日のことまで聞いた覚えはない。普段の父上からは想像しにくい姿だったが、今日一日の様子を見ていれば、少しも不思議には思えなかった。父上はその頃を思い出したのか、懐かしそうに笑った。
「子が生まれるというのは、何度経験しても慣れるものではないな。今度は孫だというに、やはり気が気ではない」
その言葉を聞いて、俺も小さく笑った。父上がここまで楽しみにしてくれているのは嬉しい。もっとも、本人にはもう少し落ち着いてもらいたいところだった。先ほどから廊下へ目を向ける回数が増えており、俺が話し掛けても返事が遅れることがある。父上の様子が気になっていたおかげで、俺自身の不安が幾分紛れていたのも確かだった。
やがて日が傾き始めた頃、廊下の向こうが急に慌ただしくなった。侍女たちが足早に行き交い、産婆の指示を伝える声が聞こえてくる。俺と父上は思わず顔を見合わせた。しばらくすると寿の苦しそうな声まで届き、胸が締め付けられるような思いがした。朝から痛みに耐え続けているのだから、身体も随分と疲れているだろう。産婆が付いているとはいえ、何事もなく終わると決まったわけではない。
立ち上がりかけたところへ、年長の侍女が現れた。いよいよ子が生まれそうなので、もう少し待ってほしいという。俺が寿の容体を尋ねると、苦しそうにはしているものの、産婆の指示に従っていると教えてくれた。父上もそれを聞いて頷き、侍女へ必要なことがあれば遠慮なく申し出るよう伝えた。
俺は再び腰を下ろしたが、先ほどまでのように静かに待つことが難しくなっていた。寿の声が聞こえるたびに身体が強張り、気付けば膝の上で拳を握り締めている。戦場で敵を前にした時とはまるで違う緊張だった。あの時は自分の判断で兵を動かし、危険を避けるために策を講じることもできた。しかし今は、どれほど案じても寿の苦しさを和らげてやれない。
ふと向かいを見ると、父上も同じように手を握っていた。その姿に少しばかり可笑しさを覚えたが、笑う余裕まではなかった。
それからどれほど経っただろう。
廊下の向こうから聞こえていた声が一度静かになり、代わって何やら慌ただしく動く気配が伝わってきた。俺は息を詰めたまま耳を澄ませた。父上も顔を上げ、何かを待つように入口を見つめている。
その時、奥の方から小さくもはっきりとした泣き声が聞こえてきた。
最初は何の音なのか分からなかった。だが、間を置かずに再び響いた声を聞き、それが生まれたばかりの赤子の産声なのだと気付いた。俺は思わず立ち上がった。父上も同じように腰を浮かせ、互いに顔を見合わせる。何か言おうとしたものの、上手く言葉が出てこなかった。
やがて廊下を足早に近づいてくる音がした。現れたのは寿付きの年長の侍女だった。朝から世話をしていたため顔には疲れが見えたが、その表情にははっきりとした喜びが浮かんでいる。
「右衛門督様、御屋形様。姫様が無事に御出産なさいました。お生まれになったのは姫君にございます」
胸の奥に張り詰めていたものが緩みかけた。だが、寿の容体をまだ聞いていない。
「寿は無事なのか。身体に変わりはないか」
「はい。随分とお疲れではございますが、産婆も大事はないと申しております。御母子ともに御無事でございます」
思わず深く息を吐いた。自分でも気付かぬうちに、随分と息を詰めていたらしい。母子ともに無事。その言葉がようやく胸に染み込んできた。
父上は何度も頷きながら、侍女へ労いの言葉を掛けていた。よほど嬉しかったのだろう。声が普段より大きくなっている。赤子が女の子だと聞いたことも、父上にとっては喜びの一つだったらしい。早くもどちらに似ているのかと気にし始めたため、侍女が少し困ったように笑っていた。
もっとも、産後の寿にはまだ手当てが必要であり、すぐに対面することはできないという。父上も今度ばかりは無理を言わず、産婆たちに任せることにした。侍女が戻っていくと、父上は再び腰を下ろし、しばらく何も言わずに天井を見上げていた。
俺も向かいへ座り、先ほど聞こえてきた産声を思い返していた。あの声の主が、俺と寿の娘なのだ。まだ顔も見ていないというのに、そう考えるだけで胸が温かくなる。昨年の十月に懐妊を知らされた時には、父親になることさえすぐには実感できなかった。それが今、こうして無事に生まれてきてくれたのである。
父上が何やら小さく笑ったので顔を向けると、先ほどの俺の様子がよほど面白かったらしい。母子ともに無事だと聞いた途端、今にも座り込んでしまいそうな顔をしていたという。そう言う父上も、侍女が現れた時には随分と慌てていたはずだ。俺がそれを指摘すると、珍しく言い返す言葉が見つからなかったらしく、最後には声を上げて笑っていた。
しばらくして産婆から許しが出たため、まず俺が寿と娘に会うことになった。
寝所へ入ると、寿は寝具に身体を預けていた。額にはまだ汗が残り、朝に見た時よりも顔色は幾分白い。長い出産で随分と疲れたのだろう。それでも俺の姿を見ると、いつものように微笑んでくれた。その顔を見ただけで、また胸の奥が熱くなった。
傍らには小さな寝具が用意され、薄い布に包まれた赤子が横たわっている。産声を上げていた時とは違い、今は静かに眠っているようだった。
「寿。よく頑張ってくれた。苦しかっただろう」
「はい……。でも、無事に生まれてくれました。四郎様、女の子でございますよ」
「ああ。聞いた。二人とも無事で、本当によかった」
寿は安心したように目を細めた。俺が傍らへ腰を下ろすと、ゆっくりと手を伸ばしてくる。その手を握り返すと、思っていたよりも力が残っていた。長い時間を掛けて子を産んだのだから、すぐに元気になるはずもない。それでもこうして話ができることが、今は何より嬉しかった。
産婆が赤子を抱き上げ、俺の方へ連れてきてくれた。初めて間近で見る娘は、想像していた以上に小さかった。顔は赤みを帯び、目を閉じたまま口元を僅かに動かしている。布の隙間から覗く手など、指先まで驚くほど小さい。これが自分の子なのだと思うと、どうにも不思議な気持ちになった。
産婆から抱いてみるかと尋ねられ、俺は思わず寿の顔を見た。寿は少し可笑しそうに笑い、頷いてくれる。抱き方を教わりながら腕を差し出したものの、慣れぬことなのでひどく緊張した。首を支えるよう言われても、どの程度の力を掛ければよいのか分からない。ようやく腕の中へ収まった赤子は驚くほど軽く、その温かさに思わず息を呑んだ。
娘は一度小さく身じろぎしたが、すぐにまた静かになった。俺はしばらくその顔を見つめていた。目元が寿に似ているようにも思えたが、まだ生まれたばかりである。誰に似ているかを判断するには早いだろう。それでも、額や頬の形を眺めているうちに、どこか自分に似たところはないかと探してしまう。
寿が小さく笑った。
「四郎様。そのように緊張なさらなくても大丈夫でございますよ」
「そうは言ってもな。あまりに小さいから、少し怖い」
思わず本音が漏れた。これまで何度も戦場へ出てきたが、赤子を抱くことがこれほど難しいとは思わなかった。寿はそんな俺の様子を嬉しそうに眺めている。母親になったばかりだというのに、すでに俺よりよほど落ち着いているようだった。
やがて娘を産婆へ預けると、俺は再び寿の傍らへ腰を下ろした。疲れているだろうから、長く話すつもりはなかった。ただ、どうしても一つだけ聞いておきたいことがある。
娘の名前についてだった。
懐妊が分かってから、寿とは何度か生まれてくる子の名前について話したことがある。男か女か分からないため、具体的に決めるところまではいかなかったが、幾つか考えていた名前はあった。その中でも、春に生まれる女の子ならばと、俺の中で気に入っていた名がある。
「寿。この子の名だが、春というのはどうだろう」
「春、でございますか?」
「ああ。春に生まれた子だからというだけではないが、穏やかで明るい子に育ってほしいと思ってな」
寿はしばらく娘の寝顔を眺めていた。それから何度か小さく名前を口にし、嬉しそうに頷いた。気に入ってくれたらしい。俺としても、寿がよいと思ってくれるのであれば異存はない。
こうして俺たちの第一子は、春と名付けることになった。
寿が娘の方へ顔を向け、静かに名前を呼ぶ。まだ言葉の分かるはずもない赤子は、眠ったまま小さく口を動かした。それを見た寿が嬉しそうに笑うものだから、俺までつられて笑ってしまった。その穏やかな光景を見ていると、先ほどまでの張り詰めた時間が遠く感じられた。
その後、産婆から寿を休ませるよう勧められたため、俺は一度部屋を出ることにした。寿も疲れているはずなのに、俺が立ち上がると名残惜しそうにしていた。落ち着いたらまた顔を見に来ると伝えると、安心したように目を閉じた。
控えの間へ戻ると、父上が待ち構えていた。俺の顔を見るなり、寿はどうだったのか、赤子は元気なのかと尋ねてくる。二人とも無事であることを改めて伝え、娘を春と名付けたことも話した。
父上はその名を聞くと、少し驚いたように目を見開いた。それから何度か口の中で繰り返し、満足そうに頷いた。随分と気に入ったらしい。春という名を選んだ理由を尋ねられたので、寿と相談して決めたことを伝えると、ようやく安心したような顔をした。
しばらくして父上にも対面の許しが出た。
俺が付き添って寝所へ向かうと、父上は普段より随分と静かに歩いていた。先ほどまでの落ち着かなさが嘘のようである。寿の部屋へ入ると、まず産後の具合を確かめ、よく頑張ってくれたと声を掛けていた。その言葉を聞いた寿は嬉しそうに微笑み、深く頭を下げようとしたが、父上が慌てて止めていた。
やがて春を見せてもらうと、父上の顔がみるみる緩んだ。しばらく何も言わずに見つめていたかと思えば、今度は小さな手や足を眺め、何とも嬉しそうな表情を浮かべている。普段の父上しか知らない家臣たちが見れば、きっと驚くだろう。
産婆から抱いてみるかと尋ねられると、父上は一度俺の方を見た。どうやら先ほどの俺と同じように、赤子を抱くことに少し緊張しているらしい。俺が思わず笑うと、父上は咳払いをして姿勢を正した。
それでも、春を腕に抱くと表情はすっかり柔らかくなった。娘の小さな顔を見つめながら、何度も頷いている。やがて春が僅かに身じろぎすると、父上は驚いたように腕を止めた。その様子があまりに慎重だったので、寿まで小さく笑っていた。
父上はその笑い声を聞くと、少し照れくさそうな顔をしたものの、すぐに春へ目を戻した。初孫が生まれた喜びを隠すつもりなど、もはやないらしい。
ただ、産後の寿をいつまでも休ませないわけにはいかない。父上もそれは承知しており、春を産婆へ預けると、寿へゆっくり休むよう伝えて部屋を辞した。名残惜しそうに何度も振り返っていたが、今度ばかりは俺も何も言わなかった。父上がどれほど春を可愛がってくれるのか、よく分かったからだ。
その日のうちに、母子ともに無事であることが家中の主だった者たちへ伝えられた。後藤但馬守や平井加賀守をはじめ、知らせを受けた者たちから祝いの言葉が届き、城内には穏やかな喜びが広がっていった。近衛家や朽木家へも使者を送ることになったが、まずは寿の身体を休ませることを優先し、祝いの使者を迎えるのは日を改めることにした。
弥太郎も春の誕生を聞いて大いに喜んでいた。朝から男か女かを気にしていたことを思い出したらしく、少し照れくさそうにしていたが、俺が名前を伝えると何度も頷いていた。いずれ春が大きくなったら、きっと今日のことを話して聞かせるのだろう。そんなことを考えると、自然と笑みが浮かんだ。
夜になり、城内が静けさを取り戻した頃、俺はもう一度寿の寝所を訪ねた。
寿はすでに眠っており、春も傍らの寝具で静かに休んでいた。侍女から二人とも落ち着いていると聞き、俺は小さく頷いた。起こさぬよう足音を忍ばせて近づくと、春が布の中で小さく手を動かした。先ほど腕に抱いた時の温かさが蘇り、思わず口元が緩む。
寿の顔には疲れが残っていたが、その寝息は穏やかだった。朝から長い時間を掛けて春を産んでくれたのだから、今はゆっくり休んでほしい。俺は傍らへ腰を下ろし、眠っている二人をしばらく眺めていた。
春が小さく身じろぎすると、寿も僅かに身を動かした。目を覚ますほどではなかったが、娘の気配を感じ取ったのだろうか。二人が並んで眠っている姿を見ているうちに、今日一日の出来事が少しずつ実感を伴って胸に落ちてきた。
前世の俺には、恋人も家族もいなかった。仕事を終えて帰る先には誰も待っておらず、休日も自分一人で好きなように過ごしていた。それを寂しいと感じることはあっても、今さらどうにかしようと考えることもなかった。結婚して家庭を持つなど、どこか自分とは縁のない話だと思っていたのである。
それがどういう巡り合わせなのか、この時代に生まれ変わった俺には父上がいて、弟がいて、親しい者たちもいる。寿という妻を迎え、今日とうとう娘まで生まれた。前世では想像もしなかった暮らしだった。自分が父親になったという事実も、まだどこか不思議に思える。今までの人生を振り返れば、随分と遠いところまで来たものだ。
眠る寿へ目を向けた。祝言を挙げた頃には、こうして二人の間に子が生まれる日を思い描くこともあった。しかし、実際に春を腕に抱いた時の喜びまでは想像できていなかった。前世の俺が今の姿を見たら、果たして何と言うだろう。少なくとも、自分が妻や娘の寝顔を見て、こんなにも穏やかな気持ちになるとは信じないだろうな。
春が寝具の中で小さく手を動かした。布から覗いた指先へそっと触れると、俺の指に触れたまま再び動かなくなった。生まれたばかりの娘は、今の俺が何を考えているのかなど知るはずもない。それでも、その小さな手を見ているうちに、もう一つのことが頭に浮かんだ。
春という娘は、俺の知る史実には存在しない。
無論、この世界が前世で知っていた歴史と異なる道を歩み始めていることは、以前から理解していた。六角家の勢力も、近江や美濃の情勢も、俺の覚えているものとはすでに随分違っている。そうした変化に戸惑うことはあったが、これまでは戦や政の中で起きた出来事として受け止めてきたところがある。しかし、今こうして目の前にいる春は違う。俺がこの時代に生まれ、寿と夫婦になったからこそ、ここにいる娘なのだ。
この子がこれからどのように育ち、どのような人生を歩むのか。前世で覚えている歴史の中に、その答えはない。春だけではないだろう。俺たちが選んできた道によって、すでに多くの者の運命が変わっている。今後も俺の知る史実通りに世が動くとは限らず、むしろ違うものになっていくのだろう。
歴史が変わることは分かっていたつもりだった。だが、腕に抱いたばかりの娘を前にすると、その意味が以前とはまるで違って感じられた。覚えている知識が何の役にも立たなくなるとは思わないが、そこに書かれていない出来事が、これからいくらでも起きるのかもしれない。
俺の知る歴史に名のない娘が、今は目の前で確かに息をしている。そのことが何より不思議であり、嬉しかった。
やがて寿が目を覚まし、俺の姿を見て微笑んだ。まだ眠たそうだったので、無理に話す必要はないと伝えると、寿は春の方へ目を向けた。娘が静かに眠っていることを確かめ、安心したように息を吐く。
俺は寿の手を取り、今日は本当にありがとうと伝えた。寿は少し恥ずかしそうに笑い、こちらの手を握り返してくれた。そのまま二人で春の寝顔を眺めていると、また小さな手が動いた。
春の夜はまだ少し冷える。俺は二人の寝具を確かめ、寿が再び眠りに就くまでその傍に座っていた。廊下の向こうからは夜番の者が歩く足音が聞こえ、遠くでは風が庭木を揺らしている。普段と変わらぬ観音寺城の夜だったが、今日は寿の隣に春がいる。娘の小さな寝息に耳を澄ませながら、俺はもう一度その顔を覗き込んだ。
まだ生まれたばかりの春が、眠ったまま僅かに口元を動かした。俺は思わず笑みを浮かべ、寝具から覗いた小さな手をそっと布の中へ戻した。
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