永禄六年四月上旬、美濃国岩村城。
西美濃から届いた書状を読み終え、儂は思わず苦笑した。差出人は安藤伊賀守守就。以前から付き合いのある男だが、書かれていることは随分と率直だった。六角家へ帰属してからの所領の扱いや軍役について触れた後、東美濃の国人たちもいつまでも態度を決めずにいるわけにはいくまいと結んでいる。余計な世話だと言い返したくもなったが、伊賀守の言葉が間違っているとも思えなかった。
伊賀守から書状が届いたのは、これが初めてではない。西美濃が六角家の支配下に入ってからというもの、氏家常陸介直元や稲葉伊予守良通からも折に触れて便りが届いていた。いずれも以前からの縁を頼ったもので、帰属を強く迫るような内容ではなかったが、近頃は六角家へ従った後の様子について書かれることが増えている。所領を失わずに済んだことや、従来の取り決めが直ちに覆されなかったこと。軍役や年貢についても、事情を聞かぬまま一方的に命じられるような扱いは受けていないという。
もちろん、書状に記されたことを全て鵜呑みにするつもりはない。伊賀守も常陸介も今では六角家に仕える身である。新たな主君の評判を悪くするような話を、わざわざ他家の者へ知らせるとも思えなかった。ただ、彼らが帰属してから半年ほどが経ち、少なくとも所領を取り上げられたり家中の者を追い払われたりしたという話は聞こえてこない。六角家が西美濃の国人たちを粗末に扱っていないことは確かなようだった。
その評判が東美濃にも伝わり始めている。
加治田城の佐藤紀伊守忠能は、既に六角家へ帰属を申し出ている。関城では長井隼人佐道利が処断された後、一色龍興を追放した家臣たちが六角方へ使者を送り、受け入れに向けた話を進めていた。ほかにも六角へ接近する家が増えているらしく、商人たちの話を聞いても、以前ほど一色家の名が出てこなくなった。一色家が美濃の主として振る舞っていた頃を思えば、何とも寂しい変わりようだった。
もっとも、そのような事態を招いたのは龍興自身である。稲葉山城を失ってなお主家を支えていた隼人佐を、内通の疑いだけで処断した。その結果、家臣たちから見限られ、美濃を離れることになったのだから、今さら同情する気にもなれなかった。関城を追われた後、各地の国人を頼って回ったという話も聞いているが、何処からも受け入れてもらえなかったらしい。長年一色家に仕えてきた者たちでさえ、もはや龍興を主君として仰ぐことができなくなったのだろう。
儂も以前から龍興の振る舞いには不安を覚えていた。それでも、こうまで早く一色家が崩れるとは思っていなかった。隼人佐が関城に健在であれば、東美濃の国人たちも容易には六角へ傾かなかったはずだ。主家のために奔走していた重臣を失い、その家臣たちまで敵に回したことで、龍興は自ら最後の拠り所を断ってしまったのである。
儂は書状を畳み、机の上に置いた。傍らには苗木と明知から届いた書状も並んでいる。どちらも六角家への帰属について、改めて相談したいという内容だった。以前であれば織田と六角の動向を確かめながら、当面は立場を明らかにしないことで意見が一致していた。しかし関城の変事を境に、皆の考えが変わり始めている。従うべき主君がいなくなった今、これまでどおりの態度を続けてよいのか。書状の端々からは、そのような迷いが感じられた。
儂自身も答えを出せずにいる。
織田信長との関係を考えれば、六角へ帰属することが必ずしも得策とは限らない。尾張との往来は岩村にとって重要であり、織田家と敵対することになれば、商人たちにも少なからぬ影響が出るだろう。信長は尾張をまとめ上げた実績があり、その力を軽く見ることはできなかった。こちらが六角へ従ったと知れば、面白く思わぬことも十分に考えられる。
その一方で、東には武田家が控えている。甲斐から信濃へ勢力を伸ばしてきた武田信玄が、いつまでも美濃へ目を向けずにいる保証はなかった。山々に囲まれた岩村を守るには、城の備えだけでなく周辺の国人たちとの協力も欠かせない。織田との縁を保つことに気を取られ、近隣の者たちと別々の道を選ぶことになれば、かえって遠山家の立場を危うくするかもしれなかった。
その日の夕刻、家臣たちを呼んで今後のことを話し合った。六角への帰属を勧める者もいれば、織田との関係を優先すべきだと申す者もいる。以前にも似たような話し合いをしたことがあったが、今回は周囲の情勢が大きく変わっていた。六角に従う家が増えれば、岩村だけが従来の立場を保ち続けることも難しくなるだろう。
儂は家臣たちの意見を聞いた上で、まず東美濃の主だった国人たちと話をすることに決めた。苗木や明知からも相談したいとの申し出が届いている。加治田や関城の者たちにも声を掛け、今後の方針について互いの考えを確かめた方がよい。各家がそれぞれ別の主君を選べば、今度は東美濃の国人同士で争うことにもなりかねなかった。
数日後、岩村城に苗木と明知の遠山一族をはじめ、近隣の国人たちが集まった。加治田からは佐藤紀伊守が訪れ、関城からも長井家の旧臣が使者として顔を見せた。既に六角へ帰属を申し出た者と、まだ態度を決めていない者とが同じ席に着くことになったが、誰もそれを咎めようとはしなかった。今の東美濃で何が起きているのか、皆が確かめたいと思っていたのだろう。
評議に先立ち、儂は集まった者たちと挨拶を交わした。苗木から来た者に道中の様子を尋ねると、以前より六角方の商人が増えたように感じると話していた。明知の者は武田の動きを気に掛けており、信濃との境で変わったことはないかと周囲へ確かめている。加治田の紀伊守は関城の使者と話し込んでいたが、隼人佐の名が出たところで表情を曇らせた。
皆が席に着いたところで、儂は集まってもらった理由を伝えた。一色家の力が失われた今、東美濃の国人たちは自らの進む道を考えねばならない。六角へ帰属するにせよ、織田との関係を重んじるにせよ、周囲の家々がどのような立場を取るのか知らずに決めるわけにはいかない。そのためにも、まずは互いの考えを聞いておきたいと告げた。
最初に口を開いたのは紀伊守だった。
「加治田では、既に六角へ帰属を申し出ております。西美濃での扱いを確かめた上での判断ですが、まだ全ての条件が定まったわけではございませぬ。それでも、今の一色家を頼るよりは先が見えると考えました」
紀伊守は帰属に至るまでの経緯を簡潔に話した。西美濃の国人たちが本領安堵を受けたことは以前から聞いていたが、東美濃でも同じ扱いになるかどうかは分からなかった。そのため商人を通じて六角方の意向を探り、帰属の意思を明らかにした後に正式な話を進めたという。
儂が所領について尋ねると、紀伊守はまだ確かめるべきことが残っていると答えた。ただし、六角方は加治田の事情を聞こうとしており、帰属の申し出を受けたからといって直ちに城や所領を取り上げる様子はないらしい。少なくとも話し合いを続ける余地はあるということだった。
次に関城の使者が口を開いた。長井家の旧臣であるその男は、隼人佐が処断された後の混乱について必要なことだけを語った。城内で龍興を討とうとする者もいたが、隼人佐の遺言を守って城から退去させたこと。その後、家臣たちの間で今後のことを話し合い、六角へ帰属を申し出たこと。既に観音寺城へ使者を送り、受け入れに向けた調査が進められていることも伝えられた。
話の途中、隼人佐の最期について尋ねる者がいた。使者は一度唇を引き結び、少し間を置いてから答えた。
「隼人佐様は、最後まで一色家を支えようとなさいました。我らもその御志を忘れるつもりはございませぬ。ただ、もはや治部大輔に仕えることはできぬと、家中の者たちで決めたのでございます」
その言葉を聞き、席上が静かになった。隼人佐を知る者は多い。儂も幾度か顔を合わせたことがあるが、主君を見捨てるような男ではなかった。その男が処断され、残された家臣たちが六角への帰属を選んだのである。一色家の再興を望む者がいても、もはや東美濃の国人たちをまとめるだけの力は残っていないのだろう。
しばらくして苗木の者が、六角への帰属について疑問を口にした。西美濃の国人たちが所領を守られたとしても、東美濃では事情が異なる。織田との縁が深い家もあれば、武田への備えを重んじる家もある。それらを六角家が何処まで認めるのか分からない以上、帰属を急ぐべきではないという。
その意見には儂も頷いた。六角が近江から美濃へ勢力を広げたとはいえ、東美濃の事情を全て理解しているわけではあるまい。岩村や苗木、明知では守るべき街道も異なり、近隣の家との付き合いも同じではない。西美濃で認められた条件が、そのまま東美濃にも適用されると考えるのは危うかった。
しかし、明知の者は別の心配をしていた。六角へ従うことを躊躇しているうちに周囲の国人たちが次々と帰属を決めてしまえば、後から申し出た家は不利な扱いを受けるのではないかという。今なら互いに話し合った上で条件を求められるが、各家が別々に使者を送れば、結局は六角方の示す条件を受け入れるしかなくなるかもしれない。
その場にいた者たちの間からも同意する声が上がった。既に帰属を決めた家がある以上、いつまでも態度を明らかにせずにいることは難しい。六角家が軍勢を動かさずとも、周囲の国人が従い始めれば、その影響は東美濃全体へ広がっていく。儂もそれを感じていたからこそ、今回の評議を開いたのである。
もっとも、帰属を急ぐあまり各家の事情を軽んじるわけにはいかない。
儂は集まった者たちに、織田との関係についてどう考えているのかを尋ねた。すると苗木の者は、尾張との往来が絶たれれば商いにも影響が出ると答えた。別の者からは、織田が六角との争いを避けようとしている今なら、すぐに国境で戦が起きることはないのではないかという意見も出た。ただし、それを誰も保証できないことは皆が承知していた。
武田についても意見が分かれた。東から兵が入ってくるようなことがあれば、岩村や明知だけで守り切れるとは限らない。六角へ帰属すれば援軍を求められるかもしれないが、遠く近江に本拠を置く家が何処まで兵を出してくれるのか、確かなことは分からなかった。そのため帰属に際しては、国境の守りについても話をしておくべきだという意見が出た。
儂は一つずつ話を聞きながら、机上に広げた美濃の絵図へ目を落とした。西には稲葉山城があり、そこから関城へ至る地域では六角方の勢いが強まっている。加治田も帰属を申し出ており、東美濃の国人たちの間でも六角を頼ろうとする者が増えていた。このまま岩村や苗木、明知がそれぞれ別の道を選べば、これまで協力してきた者たちと争うことになりかねない。
これまで儂は、織田との関係を失うことを恐れていた。尾張と敵対することになれば、岩村の立場は厳しくなる。しかし、そればかり考えているうちに周囲の家々が六角へ従い始めていることも事実だった。岩村だけが最後まで態度を明らかにしなければ、六角から疑われるだけでなく、近隣の国人たちとの関係まで損ねる恐れがある。
そこで気になったのが、苗木と明知の者たちの考えだった。両家とは遠山一族として縁が深いものの、互いに独立した立場を持っている。儂が六角へ従うと決めたからといって、必ず同じ道を選ぶとは限らない。逆に、彼らだけが織田や武田を頼ることになれば、今後の付き合いも難しくなるだろう。
儂が意向を尋ねると、苗木の者はすぐには答えなかった。しばらく絵図を眺めた後、周囲の家々が六角へ従うのであれば、自分たちだけが別の立場を取ることには不安があると認めた。ただし、織田との縁を断つつもりはなく、その扱いについては六角方と話しておきたいという。
明知の者も似た考えだった。武田への備えを考えれば、東美濃の国人たちが互いに争うような事態は避けたい。六角へ帰属することで周辺の家々と協力できるのであれば、それも一つの道だろうという。ただし、こちらも所領の安堵と軍役について、条件を確かめてから正式に従いたいとのことだった。
儂は二人の話を聞き、少し肩の力が抜けた。どうやら儂だけが判断に迷っていたわけではないらしい。皆それぞれの家を守ろうとするあまり、容易には結論を出せずにいたのだ。
その後も評議は続いたが、次第に話の方向が定まってきた。六角へ従うことそのものに強く反対する者は少なく、むしろ帰属した後の処遇を気にする声が多くなっていた。所領を守れるのか、軍役はどの程度求められるのか、織田や武田との境では誰が兵を出すのか。いずれも帰属する前に確かめておかなければならないことである。
儂は最後にもう一度、集まった者たちの顔を見渡した。苗木や明知の者たちは真剣な表情でこちらを見ている。紀伊守も関城の使者も、儂が何を言うのか待っているようだった。
「皆の考えは分かった。儂もいつまでも決めかねているわけにはいかぬと思っておる」
口にしてみると、不思議と迷いは少なかった。織田との関係を失うことも、武田の動向も気掛かりではある。しかし、それらを恐れて何も決めなければ、東美濃の国人たちが別々の道へ進むことになる。そうなれば、これまで互いに助け合ってきた者たちが敵味方に分かれるかもしれない。それだけは避けたかった。
「六角への帰属を考えたい。ただし、各家が勝手に使者を送るのではなく、まずは皆で条件を確かめるべきであろう。所領のことも軍役のことも、東美濃の事情を伝えた上で話を進めたい」
苗木の者が頷き、明知の者も異論はないと答えた。ほかの国人たちからも賛同する声が上がったが、全員がすぐに正式な臣従を約束したわけではない。家へ戻って家臣たちと相談する必要がある者もおり、その点は互いに認め合うことになった。ただ、六角へ帰属する方向で足並みを揃え、条件を確認するための使者を送ることについては、おおむね意見が一致した。
儂は胸の内に残っていた重荷が少し軽くなったように感じた。これで東美濃の全てが落ち着くわけではない。六角家がどのような条件を示すのかも分からず、織田や武田が今後どう動くのかも見通せない。しかし、少なくとも周囲の国人たちと互いの考えを確かめ、進むべき方向を定めることはできた。
評議を終えた後、儂は苗木と明知の者たちを引き留め、使者の人選や六角方へ伝える条件について話し合った。西美濃の国人たちにも、必要であれば間に入ってもらえるよう頼むことにした。伊賀守や常陸介が東美濃の事情を六角方へ伝えてくれれば、こちらの求めも理解してもらいやすいだろう。もっとも、帰属の条件を決めるのは六角家である。彼らの力だけで何もかも認められるとは思っていなかった。
その日の夕刻、儂は改めて伊賀守から届いた書状を取り出した。最初に読んだ時には余計な世話だと思ったものだが、今は少し違う気持ちで眺めていた。西美濃の国人たちも、六角へ帰属する際には様々な不安を抱えていたのだろう。実際に従ってみて初めて分かったことがあり、それを旧知の者たちへ知らせてくれた。その働き掛けがなければ、儂たちも今日のように話を進めることはできなかったかもしれない。
やがて家臣が姿を見せ、六角方へ送る書状の下書きができたと告げた。儂は受け取った紙を広げ、文面を確かめた。岩村をはじめ東美濃の主だった国人たちが六角家への帰属を考えていること、そのために所領の安堵や国境の守りについて話し合いたいことが記されている。まだ正式な帰属の申し出ではないが、これまでのように態度を明らかにせずにいるわけでもない。
儂は幾つか言葉を改めさせ、最後に自ら筆を取った。書状を仕上げながら、ふと織田信長の顔が思い浮かんだ。此度の判断を知れば、信長は何を思うだろうか。面白くはあるまい。それでも岩村を守るために選んだ道である。織田との縁を粗末にするつもりはないが、そのために東美濃の国人たちとの関係を損ねるわけにもいかなかった。
書状を家臣へ渡すと、儂は席を立って庭へ出た。夕暮れが近付き、山々の向こうには薄い雲が広がっている。城下からは仕事を終えた者たちの声が聞こえ、遠くの道を荷駄がゆっくりと進んでいた。明日もまた、岩村の者たちは普段どおりの暮らしを続けるのだろう。その暮らしを守るために、儂は六角へ使者を送ることを決めた。
使者が観音寺へ到着し、六角方との話がまとまるまでには、まだ幾日も掛かるはずだ。それでも東美濃の国人たちが互いの考えを確かめ、一つの方向へ進み始めたことは大きい。儂は城下へ続く道を眺めながら、明日には苗木と明知へ改めて使者を送り、今日の評議で決めたことに食い違いがないか確かめさせようと考えた。
*
永禄六年四月下旬、尾張国清須城。
美濃から届いた報告を聞き、儂は思わず舌打ちした。岩村城の遠山修理亮景任が東美濃の主だった国人衆を集め、六角家への帰属について評議を開いたという。加治田や関城からも人が訪れ、苗木や明知の遠山一族を交えて話し合いが行われたらしい。その結果、各家が六角への帰属を前提に条件を確かめることで、おおむね意見が一致したというのだから面白くない。
報告を持ってきた家臣は儂の顔色を窺っていたが、構わず続きを促した。岩村からは既に観音寺城へ使者を送る支度が進められており、苗木や明知もこれに同調する見込みだという。東美濃の国人たちが互いに連絡を取り合い、足並みを揃えようとしていることは以前から聞いていた。それでも景任だけは最後まで態度を決めずにいると思っていたのだが、どうやら見込みが甘かったようだ。
儂は報告を書き留めた紙を受け取り、改めて目を通した。岩村へ集まった者たちの名と、それぞれが示した意向が記されている。全ての家が直ちに臣従を誓ったわけではないようだが、六角へ従う方向で話が進んでいることは疑いようがなかった。既に加治田の佐藤紀伊守忠能が帰属を申し出ており、関城でも長井家の旧臣たちが六角方を頼っている。この上、岩村まで同じ道を選ぶとなれば、東美濃に残された余地は随分と狭くなる。
これまで景任とは使者を通じて幾度も言葉を交わしてきた。織田家との縁を大切にする男であり、こちらに対しても決して冷淡ではなかった。それだけに、今回の判断には腹立たしさが残る。もっとも、儂のために遠山家を危うくする義理など景任にはない。東美濃の諸将が六角へ傾く中、岩村だけが織田との関係を頼みに踏みとどまるのは容易ではあるまい。
それでも、せめてもう少し早くこちらへ相談してくれていればと思わずにはいられなかった。
儂は家臣を下がらせ、丹羽五郎左衛門長秀と柴田権六勝家を呼ぶよう命じた。美濃の情勢については以前から両名と話していたが、岩村の動きが明らかになった以上、今後の方針を考え直す必要がある。六角家が東美濃にまで勢力を広げることになれば、尾張と美濃の関係もこれまでとは変わるだろう。
しばらくして長秀と勝家が姿を見せた。儂が報告を差し出すと、長秀は静かに読み進めたが、勝家は途中で眉を寄せた。両名とも東美濃の国人たちの動向は承知していたものの、景任がほかの国人衆と協議して六角への帰属を決めようとしていることまでは知らなかったらしい。
「岩村まで六角に傾いたか。五郎左、どう見る」
「ここまで周囲が帰属を申し出ておりますれば、遠山も容易には抗えますまい。岩村だけが異なる主を仰げば、近隣の国人たちとの関係が難しくなります」
長秀は落ち着いた様子で答えたが、その表情は明るくなかった。かつて稲葉山城で六角右衛門督と会ったことのある男である。あの若者がどのような考えで美濃の国人たちを扱っているのか、儂よりも直接知る機会があった。その長秀が六角への帰属を当然の成り行きと見ているのだから、今の情勢を軽く考えるわけにはいかない。
勝家は納得がいかないらしく、岩村へ改めて使者を送ってはどうかと進言してきた。遠山家と織田家には以前からの縁があり、六角へ従う前ならば考えを改めさせる余地があるのではないかという。確かに景任がまだ正式な帰属を申し出ていないのであれば、使者を送ること自体はできるだろう。しかし、そこで何を約束できるというのか。
「権六。景任を引き留めるとして、何を約束する」
「岩村の所領を認め、織田の後ろ盾を与えればよろしいかと」
「六角も同じことを申すだろう。それで景任がこちらを選ぶか」
勝家は口を閉じた。所領の安堵だけならば、既に西美濃で実績のある六角に分がある。加えて岩村の周囲では六角へ従おうとする家が増えている。織田の後ろ盾を与えると言っても、岩村と周辺の国人たちが争うことになれば、儂はそのたびに兵を出さねばならない。東美濃のために尾張の兵を動かすとなれば、ほかの備えにも支障が出るだろう。
何より景任がそのような争いを望んでいるとは思えなかった。遠山家にとって重要なのは岩村を守り、所領を保つことである。儂との縁を重んじてくれていたとしても、家の存続に関わる判断となれば話は別だ。こちらが強く引き留めるほど、かえって景任を困らせるだけかもしれない。
長秀が机の上に広げられた美濃の絵図へ手を伸ばした。稲葉山城から関城、加治田へと目を向け、最後に岩村の位置を指で示す。儂もその指先を追った。六角家は西美濃を押さえた後、各地の国人たちを次々と帰属させている。一色龍興の失態によって美濃の国人たちが主君を失ったことも大きいが、それだけで今の情勢になったわけではない。
西美濃の国人たちが、東美濃の旧知の者へ六角への帰属を勧めているという話も届いていた。安藤伊賀守や氏家常陸介、稲葉伊予守らが書状を送り、自らの所領が守られていることを伝えているらしい。六角から直接帰属を迫られるより、以前から付き合いのある者に実情を聞かされる方が信用しやすいのだろう。しかも、今のところ六角家が西美濃の国人たちを粗末に扱っているという話は聞こえてこない。
儂は思わず鼻を鳴らした。六角右衛門督は、なかなか厄介なやり方をする。兵を進めて城を奪うのであれば、こちらも軍勢を動かして対抗することを考えられる。しかし国人たちが自ら帰属を申し出てくるとなれば、そこへ織田が割って入るのは難しい。下手に兵を出せば、東美濃の者たちから侵略者と見られかねなかった。
「六角右衛門督は、国人たちをよく使っておるな」
「西美濃での扱いが東美濃にも伝わっております。帰属した者たちを通じて話を進めれば、六角が自ら兵を動かす必要もございませぬ」
「面倒な相手だ。戦場で槍を交えるだけならば、まだ分かりやすいものを」
儂がそう言うと、長秀は僅かに笑った。稲葉山城を六角に押さえられた時から、右衛門督がただ戦に強いだけの若者ではないことは分かっていた。もっとも、今回の国人たちの働き掛けまで本人の差配によるものなのかは分からない。六角家の重臣たちが進めたことかもしれず、西美濃の者たちが自ら動いた可能性もある。それでも帰属した国人たちが、新たな主君のために働いていることは確かだった。
勝家はなおも東美濃への働き掛けを諦めきれない様子だったが、儂はすぐに兵を動かす考えがないことを伝えた。今の尾張は以前ほど不安定ではないものの、国境の備えを疎かにできるほど余裕があるわけではない。六角との戦になれば、岩村を味方に引き入れるどころか、近江から美濃へ広がる六角勢を敵に回すことになる。勝てる見込みがないとは思わぬが、今それをする必要もなかった。
ただし、何もしないつもりもない。
儂は長秀に、岩村との連絡を絶やさぬよう命じた。景任が六角へ従ったとしても、それだけで織田との縁が全て失われるわけではない。こちらから敵意を示さなければ、これまでどおり商人や使者が行き来する余地はあるだろう。無理に引き留めるより、今後も話のできる関係を残しておいた方がよい。
その上で、美濃との境にある城や街道について改めて調べさせることにした。六角家が東美濃を押さえるならば、そこは織田家にとって新たな国境となる。国境の向こうに一色家の残党がいるのと、近江から兵を動かせる六角家がいるのとでは事情が違う。城の備えだけでなく、どの道を通れば兵糧を運べるのか、周辺の村々がどのような関係を持っているのかまで確かめておかなければならなかった。
話が一段落したところで、長秀が少し言いにくそうに口を開いた。
「殿。美濃へ目を向けることは必要ですが、尾張の備えについても考え直す時期かと存じます」
儂は長秀の顔を見た。何を言おうとしているのかは、おおよそ見当が付いている。以前から考えていた小牧山のことであろう。清須城は尾張を治める上で重要な拠点だが、今後さらに勢力を伸ばしていくことを考えれば、不便なところもある。城下には多くの商人や職人が集まり、家臣たちも屋敷を構えているため、容易には動かせない。それでも、いつまでも清須に留まっていてよいとは思っていなかった。
「小牧山のことか」
「はい。以前から御検討なされていた場所にございます。新たに城を築くとなれば費用も人手も掛かりますが、今後の軍勢の動きを考えれば、十分に値するものかと」
小牧山は尾張の北方に位置し、周囲の平地を見渡せる場所にある。そこへ新たな城を築けば、美濃との境へ目を向けるにも都合がよい。もっとも、城だけを移して済む話ではない。家臣たちの屋敷をどうするか、商人を何処へ集めるか、道や水の確保をどう進めるか。考えなければならないことは多く、清須に暮らす者たちから不満が出ることも予想できた。
それでも儂には、新たな城を築くことが単なる居城の移転には思えなかった。尾張をまとめるために清須を拠点としてきたが、これから先も同じやり方でよいとは限らない。美濃の情勢が変わり、六角家が大きな力を持つようになった今だからこそ、織田家も次に備える必要がある。
「五郎左。小牧山の地を改めて調べよ。城を築く場所だけではない。城下に人を集めるならば、何処へ道を通し、どのように水を引くかも見ておけ」
「承知いたしました。先に調べさせたものと併せ、改めて御報告いたします」
「権六は北方の備えを確かめよ。六角と争うつもりはないが、何もせずに眺めているわけにもいかぬ」
勝家は勢いよく頭を下げた。先ほどまで東美濃へ兵を動かすことを考えていた男だけに、別の役目を与えられて少しは気が晴れたらしい。長秀も必要な手配について幾つか確かめた後、勝家とともに書院を辞していった。
儂は一人になった部屋で、再び美濃の絵図へ目を向けた。西美濃を失った時には、いずれ取り戻す機会もあると考えていた。一色家が残っている以上、六角と一色の争いが続く可能性もあったからだ。しかし龍興は自ら隼人佐を処断し、家臣たちから見捨てられた。そこへ六角が手を伸ばし、国人たちを次々と帰属させている。これほど早く美濃の情勢が変わるとは予想していなかった。
何より癪なのは、六角家が大きな戦を起こさずに東美濃をまとめようとしていることだった。儂であればどうしただろうか。国人たちの帰属を認めるにしても、相手の腹を探り、従わぬ者には力を見せることも考えたはずだ。六角がそれをせずに済んでいるのは、西美濃で積み重ねた働きがあるからだろう。自分たちの所領を守られた者が、今度は六角のために旧知の者へ働き掛けている。武力だけでは得られぬものを、右衛門督は手に入れつつあるのかもしれなかった。
もっとも、それで全てが順調に進むとも限らない。東美濃には東美濃の事情があり、岩村や苗木、明知といった遠山一族の間でも考え方は同じではないだろう。武田との境を守るとなれば、六角家にも相応の負担が生じる。遠く近江に本拠を置く六角が、何処まで東美濃を支えられるのか。今は帰属を望んでいても、いずれ不満を抱く者が現れないとは限らなかった。
だが、そのようなことを当てにして手をこまねいているつもりはない。こちらは織田家の力を蓄え、機会があれば動けるようにしておけばよい。右衛門督が美濃をまとめ上げるのならば、それに負けぬだけのものを築いてやる。儂は絵図を畳み、次に届いていた尾張の報告へ手を伸ばした。
それから数日後、東美濃について新たな知らせが届いた。
岩村から送られた使者が観音寺城へ到着し、六角方との話し合いが進められているという。今回の報告には、苗木や明知をはじめ主だった国人たちが帰属の意思を明らかにしたことも記されていた。六角家は各家の所領や軍役について調べた上で安堵を行う方針を示し、国境の守りについても今後の取り決めに含めることになったらしい。
まだ全ての手続きが終わったわけではない。それでも東美濃の主だった国人たちが六角へ従うことを決めたのであれば、帰属そのものが覆る可能性は低いだろう。少なくとも儂が美濃へ兵を進めようと考えた頃とは、まるで違う状況になっていた。
儂は報告を持ってきた家臣へ、岩村との連絡を続けるよう改めて命じた。六角へ従ったからといって、遠山家を敵として扱うつもりはない。こちらが無理に争いを仕掛ければ、かえって東美濃の国人たちを六角のもとへ結束させることになる。そんな愚かな真似をする気はなかった。
家臣が下がろうとしたところで、ふと思い出したことがあった。以前から東美濃の国人たちへ使者を送っていたが、その中には織田との縁を残したいと考える者もいるはずだ。景任もそうであろう。六角家に仕えるようになったからといって、これまでの付き合いを全て断たねばならぬ理由はない。
「岩村へは、これまでどおりの付き合いを望むと伝えよ。六角へ従ったことを咎めるつもりはないとな」
家臣は少し意外そうな顔をしたものの、すぐに承知した。儂自身、景任の判断を快く思っているわけではない。しかし、腹立ち紛れに遠山家との関係を断ってしまえば、これまで築いてきた縁まで失うことになる。それでは何の得にもならなかった。
その日の夕刻、長秀から小牧山についての報告が届いた。以前に調べさせた地形や周辺の道について、さらに詳しく確かめるため人を送ったという。城を築くには相応の手間が掛かるものの、北方の見通しや周辺の土地を考えれば、十分に検討する価値があるとのことだった。
儂はその報告を読みながら、清須城の外へ目を向けた。城下には多くの人が暮らし、商人たちの声が日々聞こえてくる。ここを離れることになれば、家臣たちから不満も出るだろう。城下の者たちも容易には納得すまい。それでも織田家が今後も勢力を伸ばしていくのであれば、何かを変える必要がある。
美濃へ向かう道が閉ざされたわけではない。ただ、これまでと同じように一色家の弱みに付け込んで勢力を広げることは、もはや難しくなった。六角家は一色家に代わって美濃の国人たちをまとめつつある。儂が次に美濃へ兵を進める時には、相手は龍興ではなく六角家となるのだろう。
儂はしばらく考えた後、小牧山の調査を急がせるよう返事を書いた。新たな城を築くことになれば、尾張の家臣たちを動かすだけでなく、周辺の土地や人の扱いについても決めなければならない。すぐに全てが整うわけではないが、今から手を付けておかなければ何も始まらなかった。
返書を認め終えたところで、長秀が再び書院へ姿を見せた。どうやら美濃から別の知らせが届いたらしい。観音寺城では六角右衛門督の妻が無事に娘を産み、家中が祝いに沸いているという。東美濃の帰属について話が進んでいる最中に、六角家ではそのような慶事まであったらしい。
儂は思わず笑ってしまった。
「右衛門督は、なかなか忙しい男だな。美濃をまとめる一方で、今度は父親になったか」
「母子ともに御無事とのこと。六角家にとっては喜ばしいことでございましょう」
長秀の言葉に頷きながら、儂はしばらく考えた。右衛門督とはまだ直接顔を合わせたことがない。稲葉山城で長秀が会った時の話は聞いているが、どのような男なのかは実際に会ってみなければ分からぬところもある。ただ、近江の六角家を支え、美濃にまで勢力を広げた若者である。いずれ顔を合わせる機会もあるだろう。
「五郎左。六角へも祝いの言葉を届けておけ。美濃のこととは別だ」
長秀は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。娘の誕生を祝うくらいで、織田家が不利になるわけではない。むしろ今後の付き合いを考えれば、こうした機会を無駄にする必要もなかった。
長秀が下がった後、儂は再び小牧山についての報告を広げた。六角右衛門督が美濃をまとめ上げるまでの間、儂もただ眺めていたわけではない。尾張を治めるために必要なことを進め、家臣たちを動かし、少しずつ力を蓄えてきた。それでも右衛門督が先んじたことは否めず、その差を埋めるには新たな手を打たねばならなかった。
儂は手元の紙に、小牧山へ築く城について確かめておきたいことを書き付けた。城の縄張りや城下の道、家臣たちの屋敷を置く場所。考え始めれば次々にやるべきことが浮かんでくる。清須を離れる決断は容易ではないが、こうして新たな城を思い描いていると、不思議と気持ちが高ぶってきた。
東美濃を巡る争いは、ひとまず六角に分があった。岩村を含む主だった国人衆が帰属を決めた以上、今はその事実を認めるしかない。しかし、六角が美濃を得たからといって、織田家の歩みまで止まるわけではなかった。
儂は筆を置き、庭の向こうへ目を向けた。夕暮れの清須城には、いつもどおり家臣や小者たちの声が響いている。この城で過ごした年月を思えば、離れることに多少の名残惜しさもあった。それでも、いつまでも同じ場所に留まっていては先へ進めぬ。
六角右衛門督が美濃で何を成し遂げるのか、今後も見届けることになるだろう。その間に儂は儂のやり方で、織田家をさらに強くしてみせる。新たな城を築き、国を整え、次の機会に備える。それが今の儂にできることだった。
机の上には小牧山の絵図が広げられていた。儂はそこへもう一度目を落とし、城を築く場所を指先で確かめた。明日には長秀からさらに詳しい話を聞くつもりである。尾張の北へ目を向けながら、新たな城下の姿を思い描いた。
*
その夜、書院での仕事を終えて居間へ戻ると、帰蝶が灯火の下で針仕事をしていた。儂の姿に気付くと手を止め、静かに迎えてくれる。いつもと変わらぬ様子だったが、美濃から届いた知らせについては既に耳にしているのだろう。帰蝶は儂の顔を見て何かを察したらしく、傍らに置いていた針仕事を片付けさせた。
儂は帰蝶の向かいへ腰を下ろし、運ばれてきた茶を一口飲んだ。昼間から美濃のことばかり考えていたせいか、こうして帰蝶と向き合っても、なかなか別の話をする気になれなかった。帰蝶にとって美濃は生まれ育った土地である。そこが六角家の手に渡ろうとしている以上、儂からも何か伝えておくべきだろう。
「帰蝶。美濃のことは聞いておるか」
「はい。岩村の遠山殿をはじめ、東美濃の方々も六角へ従うおつもりとか」
「ああ。まだ細かな取り決めは残っておるが、帰属そのものは覆るまい。西美濃に続いて東美濃まで六角のものになる」
帰蝶は静かに頷いた。その顔には寂しげな色が浮かんでいたが、驚いた様子はなかった。西美濃を六角に押さえられた時から、いずれこのようなことになるのではないかと考えていたのかもしれない。儂も美濃の国人たちが次々と六角へ傾く様子を見ながら、最後まで望みを捨てきれずにいた。岩村の景任が織田との関係を保ってくれていただけに、なおさらである。
儂は茶碗を置き、帰蝶へ目を向けた。
「すまぬな、帰蝶。美濃を六角に渡してしまった」
口にしてみると、思っていた以上に悔しさが込み上げてきた。美濃を手に入れられなかったことだけではない。帰蝶の故郷であり、かつてその父が治めていた国を、織田の力で守ることもできなかったのである。帰蝶に何かを責められたわけではない。それでも儂としては、一度詫びておきたかった。
帰蝶は少し驚いたように儂を見つめていた。やがて困ったように微笑むと、静かに首を振った。
「殿が詫びられることではございませぬ。美濃の国人衆が自ら選んだ道なのでしょう?」
「それはそうだが、儂にも考えがあった。六角に先を越されたのは事実だ」
「悔しく思われるのは分かります。ですが、無理に兵を進めて美濃が戦場となれば、苦しむのはそこに暮らす者たちでございます」
帰蝶の言葉に、儂はすぐには答えられなかった。美濃を得ることばかり考えていたが、帰蝶にとっては今も故郷であり、そこに暮らす者たちのことが気掛かりなのだろう。確かに一色家が崩れた後、六角と織田が美濃を巡って争えば、ようやく落ち着き始めた国人たちを再び戦へ巻き込むことになる。帰蝶がそのような事態を望まぬことは、儂にも理解できた。
「六角が美濃を治めるようになったからといって、すぐに国が安らぐとは限らぬぞ」
「はい。それでも、今は大きな争いにならずに済んだことを喜びとうございます。父の治めた国で、これ以上多くの血が流れるのは見たくありませぬから」
帰蝶はそう言って小さく笑ったが、その目には僅かに寂しさが残っていた。美濃の情勢が変わるたびに、かつてのことを思い出すのだろう。儂も帰蝶の父とは決して穏やかな縁ばかりではなかった。それでも今となっては、あの男がどのような思いで美濃を治めていたのか、考えることがある。国を手に入れることも難しいが、守り続けることはさらに難しい。此度の一色家の有様を見れば、それがよく分かった。
帰蝶はしばらく黙っていたが、やがて儂の方へ身を寄せた。
「それに、殿にはまだ尾張がございます。美濃を得られなかったからといって、織田家の行く末まで決まったわけではございませぬでしょう?」
「当然だ。儂がこのまま終わると思うか」
「いいえ。そうは思いませぬ。ですから、あまり御自分を責めないでくださいませ」
思わず笑みが漏れた。帰蝶は昔から、こちらが何を考えているのか妙なところで見抜いてくる。慰めているつもりなのか、それとも儂の負けず嫌いな性分をからかっているのか。どちらにせよ、その言葉は有り難かった。
儂は帰蝶に、以前から考えていた小牧山のことを話した。まだ城を移すと決めたわけではないが、尾張の北方に新たな拠点を築くことを考えている。清須から移るとなれば帰蝶にも不自由を掛けることになるだろう。それを伝えると、帰蝶は少し考えた後、儂が必要だと思うのであれば従うと答えた。ただし、今の屋敷を離れることになるのだから、支度だけは早めに知らせてほしいという。まったく、随分と気の早い話である。
「まだ移ると決めたわけではないぞ」
「殿がそこまでお考えでしたら、いずれお移りになるのでしょう?」
「……帰蝶には敵わんな」
帰蝶が声を立てて笑ったので、儂もつられて笑ってしまった。昼間は東美濃を失うことばかりが頭にあったが、こうして話しているうちに幾分気が晴れていた。美濃を六角に取られたことは面白くない。しかし、いつまでもそれを悔やんでいても何も変わらぬ。今あるものを守り、次の機会に備えるしかなかった。
帰蝶が再び茶を注いでくれた。儂は礼を言って受け取り、しばらく他愛のない話をした。美濃のことを口にする機会はもう少し先になるかと思っていたが、帰蝶と話せてよかった。あの国が今後どうなるかは六角の治め方次第である。それでも帰蝶が願うように、美濃の者たちが穏やかに暮らせるのであれば、今はそれでよいのかもしれない。
夜も更けてきたため、儂は翌朝の支度について帰蝶と幾つか話をしてから腰を上げた。明日は小牧山へ遣わした者たちの報告を確かめることになっている。美濃を巡る争いでは六角に先を越されたが、織田家にはまだ為すべきことが山ほどあった。帰蝶が見送る中、儂は明日の仕事を思い浮かべながら寝所へ向かった。
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