永禄六年五月中旬。近江国観音寺城。
桑名から戻った商人の話を聞き終えた時、俺は思わず顔をしかめた。
近頃、桑名湊へ向かう商人たちが、北伊勢の武士の配下を名乗る者から警固料を要求されているという。従来の通行料とは別のもので、支払いを拒んだ商人は荷を取り上げられ、奉公人まで殴られたらしい。しかも被害を訴えようとしたところ、今後も桑名で商いを続けたいなら余計なことを話すなと脅されたそうだ。
訴え出た商人は、美濃から桑名へ紙や布を運んでいた。普段から同じ道を通っていたものの、昨年まではそのような銭を求められたことはなかったという。取り上げられた荷の中には取引先へ納める品もあり、約束した日に届けられなかったことで信用まで損なわれかねないと困り果てていた。
「怪我をした奉公人はどうしている」
「命に別状はございませぬ。ただ、腕を折られておりますので、しばらく働くことは難しいかと」
但馬守の答えに、俺は不快な気分になった。銭を取るだけでも腹立たしいが、商人を傷付けて脅すとなれば話は別だ。北伊勢の国人が正当な権利に基づいて徴収しているのか、それとも誰かが勝手に名目を作っているのか。そこを確かめなければ、対処する相手も決められない。
但馬守には被害を受けた商人から詳しく話を聞いてもらい、次郎左衛門尉には桑名へ至る道の通行料と古い取り決めを調べてもらうことにした。篠にも現地の様子を探らせるが、相手が武装している以上、無理に近付くことは禁じておく。
桑名は六角の領地ではない。商人が被害を受けたからといって、兵を送り込める場所ではなかった。
しかし、美濃を得たことで桑名を利用する六角領内の商人も増えている。湊へ荷を運べなくなれば、美濃で作られた品の売り先にも影響が及ぶだろう。今回の件を単なる他国の揉め事として片付けるつもりはなかった。
父上へ報告すると、まずは関わっている者の素性を調べるよう命じられた。桑名の権利関係は複雑であり、六角が横から口を挟めば、利権を奪おうとしていると受け取られる恐れもある。商人の安全を確保しつつ、湊の有力者が今回の騒ぎをどう見ているのか確かめることになった。
但馬守が退出した後、俺は残された報告に目を通した。
桑名とは別に、東美濃からも新たな書状が届いていた。修理亮が領内の様子を知らせてきたもので、帰属後の所領調査はおおむね順調らしい。ただし、信濃方面の情勢については注意が必要だと記されていた。
武田が川中島で大きな損害を受けた後、翌年にも上杉との争いで敗れ、北信濃から後退したという。東国から往来する商人の話でも、そのことは確かなようだった。信濃の国人たちの間では武田と上杉の動向を気にする者が多く、修理亮も今後の備えを考えているらしい。
川中島の戦いか。
永禄四年に報せが届いた時には、武田と上杉のどちらが勝ったのかさえ分からなかった。武田の本陣が攻められたという話もあれば、最後には上杉が退けられたという話もあった。遠国の出来事だけに、何が正しいのか判断する材料も乏しかったのである。
しかし、その後の動きを見れば、武田が受けた損害は相当なものだったのだろう。続く敗戦で北信濃の支配まで揺らいでいるとなれば、以前と同じ勢いを保っているとは思えない。
武田が北信濃で敗れたことは東美濃にとっても無関係ではなかった。信濃の国人たちが武田を見限れば、隣接する地域の情勢も変わるだろう。修理亮からの報告にはそうした動きを警戒する様子が窺えた。
もっとも、今の武田に東美濃へ兵を進める余裕があるとは思えない。だからこそ、国境の守りを固めるだけでなく、信濃の国人たちが誰に従おうとしているのか把握しておく必要があった。
桑名では商人が脅され、東美濃では武田の動きが気に掛かる。六角が治める土地が広がった分だけ、これまで遠国の話として聞いていた出来事も無関係では済まなくなっていた。
ただ、どちらも今すぐ兵を動かすような話ではない。桑名の件は被害の実態を確かめ、東美濃については修理亮からの報告を待つ。それぞれの書状を整えると、俺は弥太郎に使者の手配を頼んだ。
*
永禄六年五月中旬。尾張国清須城。
五郎左との話を終えた儂は、美乃の部屋へ向かった。
六角との盟約については、以前から話を進めている。東美濃まで六角の勢力下に入ったことで、織田が美濃へ進む道はますます狭くなった。面白くはないが、ここで六角と争えば尾張の西に強大な敵を抱えることになる。三河の元康との盟約を維持し、小牧山への移転も考えている今、無用な戦を避けることには十分な意味があった。
そのため、婚姻によって両家の関係を深めることを考えていた。
相手は六角右衛門督である。六角の嫡男として家中で重きをなし、美濃攻略でも大きな働きを見せた若者だ。五郎左は稲葉山城で顔を合わせており、年齢に似合わず落ち着いた男だったと申している。儂自身はまだ会ったことがないものの、これまでの働きを見れば凡庸な人物ではあるまい。
ただし、右衛門督には既に近衛家から迎えた正室がいる。先頃には娘も生まれたという。今から織田の娘を嫁がせるのであれば、側室となることは避けられなかった。
その相手として考えたのが美乃だった。
美乃は今年で十八、市は十七になる。年の差は一つしかないが、美乃は昔から周囲に気を配る娘だった。対して市は気が強く、思ったことをすぐ口にする。幼い頃から二人が揃って儂の後を付いて回ったことを思い出すと、いつの間に嫁ぎ先を考える年頃になったのかと感慨深いものがあった。
部屋へ入ると、珍しく市も同席していた。二人は衣の模様について話していたらしく、儂の姿を見るなり揃って顔を上げた。
以前、茶の相手をすると約束していたため、美乃は随分と喜んでくれた。仕事を理由に幾度も先延ばしにしていたことを責められ、市にまで笑われたのには閉口したが、妹たちが楽しそうにしている姿を見るのは悪くなかった。
茶が運ばれてくると、美乃は近頃の出来事を話し始めた。帰蝶から贈られた衣のことや城内の祝い事など、話題は尽きない。市も時折口を挟み、儂が別のことを考えているとすぐに気付いてくる。
頃合いを見て美乃へ縁談の話を持ち掛けると、妹は頬を赤らめながらも、織田の娘として他家へ嫁ぐ覚悟はあると答えた。ただ、できれば穏やかで、自分の話を聞いてくれる相手がよいらしい。
儂はその言葉を聞いた上で、六角との縁組を考えていることを伝えた。
「相手は右衛門督だ。六角の嫡男として、いずれ家を継ぐ立場にある」
美乃は驚いた顔をしたが、すぐに表情を曇らせた。右衛門督に正室がいることを知っていたのである。側室として嫁ぐことになると告げると、膝の上で重ねた手に力が入った。
無理もあるまい。家のために嫁ぐ覚悟があったとしても、初めから側室となることを喜べるはずがない。儂は返事を急がせぬつもりだったが、その前に市が口を開いた。
「兄上。その御縁談、姉上ではなく私にお任せいただけませぬか」
思わず市を見た。
冗談を言っている様子はない。姉の代わりに自分を六角へ嫁がせてほしいと、真剣な顔で申し出てきたのである。
市は、美乃が儂の決めたことなら自分の望みを抑えてでも従うと考えていたらしい。姉にはできる限り望みに合う相手と縁を結んでほしい。そのため、自分が代わりになりたいという。
美乃は妹の言葉に驚き、心配そうに袖を引いた。織田の娘として嫁ぐことは覚悟しているから、市が代わりに苦労を背負う必要はないと諭している。
姉妹が互いを案じていることは分かったが、それだけで縁談を決めるわけにはいかない。
儂は市に、側室として嫁ぐ意味を改めて確かめた。近衛家の姫を正室として戴くことになり、尾張から遠く離れた近江で暮らさねばならない。思うようにならぬことも多いはずだ。
それでも市は、織田のために自分ができることなら引き受けたいと答えた。姉を案じるだけでなく、六角との縁組が織田にとって重要だということも理解しているらしい。
儂はその気持ちを受け止めたものの、正式な申し入れはまだ行っていないと告げ、返事を預かることにした。市は不満そうだったが、相手の意向も分からぬうちに何かを約束するつもりはなかった。
茶を飲み終えて部屋を辞すると、程なく背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「兄上!」
振り返れば、市が小走りに近付いてくる。少し息を弾ませながら儂の前で立ち止まり、乱れた袖を直した。その様子に思わず笑みを浮かべると、市は不満そうな顔をした。
姉の前では申し上げにくいことがあるという。儂が近習を下がらせると、市は急に口数が少なくなった。先ほどまで堂々としていたというのに、今度は袖の端を指先で弄んでいる。
「……本当は、私だって正室として嫁ぎとうございました」
思わず目を瞬かせた。
市は頬を赤くしながら、初めから側室と決まっているのは悔しいのだと打ち明けた。織田の娘として育った以上、やはり正室として迎えられたいという望みがあったらしい。儂が笑うとますます不満そうな顔をしたが、近衛家の姫が既に正室である以上、そこは諦めるしかないと肩を落とした。
先ほどまで大人びたことを申していた妹にも、年相応の望みはあるらしい。儂はそのことに少し安心した。
ところが、市の話はそれだけでは終わらなかった。
右衛門督の正室は先頃娘を産んだが、男子はまだ生まれていない。今後も男子に恵まれぬ可能性はある。その場合、自分が男児を産めば、その子が六角家の嫡男に選ばれることもあるのではないか。市はそこまで考えていたのである。
儂は驚かされた。
確かに側室の産んだ男子が家督を継ぐことはある。だが、寿殿はまだ若く、これから男子を産む可能性も十分にあった。仮に市が先に男児を授かったとしても、その子が嫡男に定められるとは限らない。まして近衛家との関係がある以上、家督を巡る争いが起きれば、婚姻によって同盟を深めるという本来の目的まで損なわれてしまう。
儂がそのことを指摘すると、市は神妙な顔になった。それでも、自分の産んだ男子が六角の家督を継ぐことになれば、織田にとっても大きな利になるという考えは変わらぬらしい。
儂はその可能性を否定しなかったが、今の考えを軽々しく口にせぬよう申し付けた。まだ生まれてもいない子の家督を望んでいると知られれば、近衛家から余計な疑いを招く。何より、子は望めば必ず授かるものではない。市がそのことばかり気に病むようでは困る。
市は素直に頷いたものの、まだ話し足りない様子だった。
今度は六角と近衛家の関係についてである。
右衛門督が近衛家の姫を正室に迎えていることは、側室となる自分にとって悔しいばかりではない。六角へ嫁ぎ、寿殿とも良好な関係を築くことができれば、織田が近衛家と付き合う機会も生まれる。さらに近衛家を通じて、朝廷との繋がりを得られる可能性もあるのではないかと考えていたらしい。
「何の御縁もないよりはよろしいのではございませぬか。兄上のお力になれる、その初めの縁になれればと思うのです」
儂は腕を組んだ。
十七の娘にしては随分と先のことまで考えたものだ。もっとも、縁組をしたからといって、近衛家が直ちに織田を後ろ盾として扱うわけではない。朝廷との関係も同様である。市の考えには甘いところもあったが、可能性を見いだしたこと自体は悪くなかった。
そもそも儂は、六角との同盟を深めるために婚姻を考えたのである。近衛家や朝廷との繋がりまで視野に入れていたとはいえ、市がそこへ目を向けるとは思わなかった。
儂がいつからそのようなことを考えていたのか尋ねると、美濃を巡る争いが続く中で六角の名を聞く機会が増え、興味を持ったのだという。近衛家との縁については侍女たちからも話を聞き、自分なりに考えたらしい。
儂は改めて市を見た。
気の強さばかり目立つ娘だと思っていたが、知らぬ間に随分と成長していたようだ。もっとも、婚姻によって得られるものばかり考えていては、嫁いだ後の苦労を見誤る恐れもある。
「市。そなたの考えたことが、一つも叶わぬかもしれぬぞ。それでも六角へ嫁ぎたいと申すのか」
市はしばらく黙っていた。
自分の考えが必ずしも実現するわけではないと、改めて感じたのだろう。男子を授からぬこともあれば、近衛家との付き合いが思うように進まぬこともある。それでも市は、やがて顔を上げた。
「はい。兄上のお力になりたいのでございます」
その言葉に、儂は何も言えなかった。
市は戦場へ出ることも、儂に代わって政を行うこともできぬ。だが、六角へ嫁ぐことで少しでも力になれるなら嬉しいのだという。姉を案じる気持ちもあるが、それ以上に自分の意思で織田のために働きたいと考えていたらしい。
嬉しくないはずがなかった。
幼い頃は儂の後を追い掛け、遊び相手をせがんでいた妹が、今は遠い近江へ嫁ぐことを自ら望んでいる。市がこれほどまでに儂のことを考えていたと知り、胸の奥が熱くなった。
ただ、兄のために無理をする必要はないと伝えると、市は少し考えた後、やはり正室になれぬのは悔しいと呟いた。
思わず吹き出してしまった。
先ほどまで六角の家督や朝廷との縁について語っていた娘が、最後には正室になれぬ悔しさへ話を戻したのである。儂が笑うと市は頬を膨らませたが、その姿は昔と変わらぬ妹だった。
儂は市の肩へ手を置き、申し出を候補の一つとして考えると約束した。ただし、まずは右衛門督の意向を確かめねばならず、儂自身も一度顔を合わせてみたいと思っている。相手の人柄を知らぬまま妹を嫁がせるつもりはなかった。
市は嬉しそうに頷いたが、すぐに少し遠慮がちな顔になった。もし近江へ嫁ぐことになれば、時折は尾張へ戻ってもよいかと尋ねてきたのである。
その言葉に、儂は自然と笑みを浮かべた。
嫁ぎ先の都合もあるため自由に行き来できるとは約束できぬが、儂も妹の顔を見られなくなるのは寂しい。そのことを伝えると、市は嬉しそうに笑った。もっとも、嫁ぎ先で騒ぎを起こさぬか心配だと付け加えると、途端に不満そうな顔になったがな。
市が美乃の部屋へ戻った後、儂はしばらく廊下に立っていた。
六角との縁組が実現するかどうかは分からない。市の考えたことも、いずれも確かなものではなかった。だが、あの娘が自らの意思で儂の力になろうとしていることだけは、決して軽く扱うまい。
書院へ戻った儂は、五郎左に明日改めて話があると伝えさせた。六角との盟約については、これまでどおり交渉を進める。その上で婚姻の可能性を探るのであれば、まず右衛門督の考えを確かめる必要があるだろう。
机には小牧山の調査について新たな書付が届いていた。儂は腰を下ろして紙を広げたが、市が最後に見せた笑顔がしばらく頭から離れなかった。
あの気の強い妹が六角へ嫁ぐことになれば、右衛門督も随分と手を焼くことだろう。そう考えると、自然と口元が緩んだ。
もっとも、儂の妹を迎える以上、右衛門督にも相応の覚悟をしてもらわねばなるまい。
*
翌朝、五郎左を呼び出すと、儂は人払いを命じた。
小牧山のことなら家臣たちの前で話せばよい。だが、昨日の市とのやり取りは、まだ誰にでも聞かせてよい話ではなかった。六角へ正式な申し入れをしたわけでもなく、妹の嫁ぎ先が決まったかのような噂が広まれば、美乃にも市にも余計な気苦労を掛けることになる。
五郎左は儂の様子から何か察したらしい。普段なら用件を尋ねてくるところを、黙って座って待っていた。
「昨日、美乃に六角との縁談を持ち掛けた」
五郎左は驚かなかった。以前から婚姻の可能性について話していたのだから当然だろう。しかし、続けて市が自ら名乗り出たと告げると、さすがに目を見開いた。
「市様が、でございますか」
「ああ。美乃に代わって右衛門督へ嫁ぎたいと申してきた。儂も予想しておらなんだ」
五郎左はしばらく考え込んだ。
儂も昨日は随分と驚かされたが、一晩経ってみると、市の申し出には慎重に扱わねばならぬところが幾つもあった。美乃に縁談を持ち掛けることと、市が自ら嫁ぐことを望むのとでは、同じ婚姻であっても家中の受け止め方が違うだろう。
とりわけ気になるのは、相手に既に正室がいることだった。
右衛門督の正室は近衛家の姫である。六角にとって近衛家との縁は重く、織田の娘を側室に迎えることが、その関係にどのような影響を与えるのか分からない。こちらが縁組を望んでも、六角が容易に承知するとは限らなかった。
「五郎左。六角は近衛家との縁を重んじておろう。織田から側室を迎える話を持ち掛ければ、どう受け取ると思う」
「難しいところにございます。両家の関係を深めるという意味では利がございましょう。しかし、右衛門督殿が側室を迎えるお考えかどうかは存じませぬ」
五郎左の答えはもっともだった。
稲葉山城で顔を合わせたとはいえ、五郎左が右衛門督の家庭について詳しく知っているわけではない。まして先頃には娘が生まれたばかりである。六角では正室の出産を喜んでいるところだろう。その最中に他家から側室の話を持ち込まれても、快く思われるとは限らない。
市が考えていた嫡男のことも頭をよぎったが、それは五郎左にも話さなかった。
十七の妹が自分なりに考えたことであり、実際に男児を授かるかどうかさえ分からぬ。まして六角の家督は六角が決めることである。今から織田が口を挟むような真似をすれば、相手に警戒されるだけだ。
「婚姻はまだ持ち掛けぬ。まずは六角との盟約を進めたい」
「それがよろしいかと存じます。先方も東美濃の処置に追われておりましょう。今は両家の関係を整える方が先かと」
儂は頷いた。
東美濃の帰属が定まったとはいえ、遠山一族が従来の付き合いをすべて断ったわけではない。岩村や苗木は信濃へ通じる道を押さえており、商人の往来もある。六角へ従ったからといって、尾張との取引まで絶たれるようでは双方に不利益が生じるだろう。
国境で互いの兵が争わぬようにするだけでなく、商人の通行や国人同士の付き合いについても取り決めが必要だった。
その話を進めるなら、五郎左を改めて使者として遣わすのがよい。既に右衛門督と面識があり、これまでの交渉についても承知している。新たな使者を選び直すより、話が早いはずだった。
「左京大夫へ書状を送る。以前からの取り決めについて、改めて話を進めたいとな。そなたにはその使者を頼みたい」
「承知いたしました」
「ただし、美乃や市の名は出すな。婚姻の話も今は伏せておけ」
五郎左は静かに頷いた。
その後、使者として伝える内容を詰めた。国境を越える商人の扱い、双方に縁のある国人たちとの付き合い、軍勢が境を越える場合の連絡など、以前から話し合っていた事柄が中心となる。儂としては、六角が東美濃を得たからといって織田との関係を軽んじていないか、その考えも確かめておきたかった。
美濃を失った悔しさはある。だが、それを理由に六角との関係まで損なえば、織田にとって得るものはない。
五郎左が書状の案を整えるために退出すると、儂は昨日の市の言葉を思い返した。
正室になれぬことを悔しがりながらも、六角へ嫁いで儂の力になりたいと申した妹。その考えがどこまで通用するかは分からないが、あの決意を軽く扱うつもりはなかった。
しかし、妹の望みを叶えることと、織田のためになる婚姻を結ぶことは必ずしも同じではない。いずれ正式な話を持ち掛けるのであれば、右衛門督の人柄だけでなく、六角家がどのように受け止めるかも確かめねばならなかった。
儂自身、一度右衛門督と会ってみたい。
そう思うようになったのは、六角との盟約を考えているからばかりではなかった。妹が自ら嫁ぎたいと望んだ相手が、どのような男なのか。そのことも気になっていた。
*
永禄六年五月下旬。近江国観音寺城。
桑名について調べを命じてから幾日か過ぎた頃、但馬守が新たな報告を持ってきた。
今回、届けられたのは被害を受けた商人からの訴えだけではなかった。桑名で商いを営む者たちからも、今の騒ぎを何とかしてほしいという話が寄せられているらしい。荷を運ぶ者が道中で銭を奪われ、場合によっては怪我まで負わされている。そのため桑名への荷を控える商人が出始め、湊で取引を待つ者たちも困っているという。
但馬守は持参した書付を俺の前へ置いた。
「桑名の商人の中には、六角へ事情を申し立てたいという者もおります。ただ、北伊勢の武士たちとの関係を考え、表立って動くことを恐れているようです」
俺は書付を取り上げた。
そこには荷の往来が減り始めていることや、以前から取引のある近江の商人に相談を持ち掛けたことなどが記されていた。桑名の商人にしてみれば、他国の武家を頼るのは容易なことではないはずだ。それでも六角へ話を伝えようとしているのだから、相当に困っているのだろう。
ただ、気になることもあった。
桑名の者たちが求めているのは、奪われた荷を取り戻すことなのか。それとも、今後の商いを守るために六角の助けを得たいのか。そこが曖昧なまま話を受ければ、こちらの考えとは違う期待を抱かせる恐れがある。
「但馬守。桑名の者たちは、六角に兵を出してほしいと申しているのか」
「今のところ、そこまでは。ただ、警固料を取り立てている者たちを何とかしてほしいという思いは強いようです」
「ならば、まず直接話を聞こう。こちらが何をできるのかは、その後で考えればよい」
但馬守は頷いたが、少し迷うような様子を見せた。
理由を尋ねると、桑名の者たちは六角との接触が知られることを恐れているらしい。今の警固料を取り立てている者たちの背後に、北伊勢の有力な武士がいるのではないかと疑っているためだった。
無理もない。
桑名には以前から様々な権利が入り交じっている。湊の商人たちも、それぞれ付き合いのある武士や寺社を頼りに商いを続けてきたはずだ。その中で六角を頼ったと知られれば、今後の取引に差し障りが出ることも考えられる。
それならば、相手に無理をさせる必要はない。
「近江へ来られる者がいれば、商人同士の取引として迎えればよい。こちらから大勢の者を遣わして騒ぎにすることは避けよう」
「承知いたしました」
但馬守が帰った後、次郎左衛門尉から届いていた調べにも目を通した。
桑名へ至る道で徴収されている通行料について、古い取り決めや商人たちの証文を確かめたものだった。今回の警固料と同じ名目のものは見当たらず、以前からの権利に基づいているのか疑わしいという。
もっとも、それだけで勝手な徴収と決め付けることはできなかった。北伊勢の事情については、まだ調べが足りない。近頃になって新たな取り決めが結ばれた可能性もあるし、誰かが権利を得たと称しているだけかもしれない。
問題なのは、銭を求める者たちが武装し、支払いを拒んだ商人を傷付けていることだった。
仮に正当な徴収であったとしても、商人を殴り、荷を奪って脅すことまで認められるわけではない。まして近江へ戻った商人にまで口止めを求める者が現れたと聞いている。六角の領内でそのような振る舞いを続けられては、見過ごすこともできなかった。
俺は調べを終えた書付をまとめ、父上へ報告することにした。
*
父上は桑名の商人たちが六角との接触を望んでいると聞くと、少し意外そうな顔をされた。
「桑名の者が、こちらを頼ろうとしておるのか」
「はい。ただ、今のところ正式な救援を求めているわけではありません。商いに差し障りが出ているため、まずは事情を聞いてほしいということのようです」
父上はしばらく考え込まれた。
桑名湊の利は大きい。近江や美濃の商人が利用するだけでなく、伊勢湾を通じて各地の品が集まる場所でもある。その商いが妨げられているのなら、六角としても無関係では済まない。
しかし、桑名の者たちが困っているからといって、北伊勢へ兵を向ければ別の問題を生む。六角が湊の利権を奪いに来たと疑う者も出るだろう。今は美濃の統治を進めている最中であり、新たな争いを起こすべき時ではなかった。
「まず話を聞くというのであれば構わぬ。だが、何かを約束するのは慎重にな」
「承知しております。桑名の者たちが何を求めているのか、先に確かめたいと思います」
「うむ。それに、今の騒ぎで困っておるのは商人ばかりではあるまい」
父上の言葉に、俺は頷いた。
桑名へ荷が届かなくなれば、湊で取引をする者も困る。以前から通行料を得ていた者にとっても、荷の往来が減ることは望ましくないはずだ。今回の警固料によって誰が利益を得て、誰が損をしているのか。そこを調べれば、相手の素性を知る手掛かりにもなるだろう。
父上は北伊勢と縁のある商人たちを通じ、桑名の有力者の考えを探るよう勧められた。六角が直接動く前に、現地の者たちがどのように対処しようとしているのかを知っておくべきだという。
俺も同じ考えだった。
桑名の者たちが自ら騒ぎを収められるのであれば、それに越したことはない。しかし、武装した者による徴収が続き、商人の安全が脅かされるようなら、別の手立ても考えねばならないだろう。
父上との話を終えた後、俺は但馬守へ改めて指示を伝えた。
桑名の商人たちから話を聞くこと。ただし、相手の名が外へ漏れぬよう注意すること。そして、今の警固料を取り立てている者たちの背後に誰がいるのか、引き続き調べを進めること。
その手配を済ませたところで、弥太郎が新たな書状を持ってきた。
尾張の織田から使者を遣わしたいという知らせだった。
俺は書状を開き、思わず眉を上げた。
使者として来るのは、以前にも顔を合わせた丹羽五郎左衛門殿らしい。用件は両家の盟約について、改めて話を進めたいというものだった。美濃の情勢が変わったことを受け、以前の取り決めを確かなものにしたいという意向が記されている。
なるほど。織田も動き始めたか。
西美濃から東美濃へと六角が勢力を広げたことで、尾張との関係は以前より重要になっている。こちらとしても織田と争うつもりはなく、国境で無用な騒ぎを起こされるのは避けたかった。信長が盟約を進めたいというのであれば、話を聞く価値は十分にある。
もっとも、信長が何を考えているのかまでは分からない。
美濃を巡って織田と六角が争ってきたことは確かであり、信長にしてみれば面白くない結果だったはずだ。それでも改めて使者を遣わそうとしているのだから、何らかの考えがあるのだろう。
俺は書状を畳み、父上へ届けるよう弥太郎に命じた。
桑名の問題に加え、今度は織田との盟約か。美濃を得た後も、六角の周囲が落ち着く様子はない。
だが、織田と争わずに済むのであれば、それは六角にとっても大きな利になる。今は東美濃の統治を進め、桑名の調べも続けねばならない。西に新たな敵を抱えるような真似は避けたかった。
俺は五郎左衛門殿を迎えるための日取りを考えながら、机に置かれた書状をもう一度確かめた。
信長とはまだ直接会ったことがない。
その男が今、何を考えているのか。まずは五郎左衛門殿から話を聞いてみることにしよう。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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このまま
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5000文字前後
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15000文字前後
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1~5000文字