永禄六年六月上旬。近江国観音寺城。
丹羽五郎左衛門長秀が観音寺城を訪れたのは、六月に入って間もない頃だった。
稲葉山城で初めて顔を合わせてから、今回で三度目の会談となる。以前にも観音寺城で話を交わしているが、その時とは美濃の情勢が大きく変わっていた。一色龍興が関城を追われ、遠山一族をはじめとする東美濃の国人たちも六角への帰属を選んでいる。今や織田と六角は、美濃と尾張の境を挟んで直接向き合う関係となっていた。
会談には父上と俺が出席し、後藤但馬守賢豊も同席した。五郎左衛門殿は挨拶を済ませると、織田上総介信長から預かった書状を差し出した。そこには両家の盟約を維持する意向と、東美濃の帰属に伴って生じた問題を改めて協議したい旨が記されている。
父上が書状を読み終えると、五郎左衛門殿は東美濃の国人たちについて話を切り出した。
「遠山修理亮殿をはじめ、東美濃の諸将とは以前から付き合いがございます。我が主も六角家への帰属を承知しておりますが、従来の縁まで絶つことは望んでおりませぬ」
五郎左衛門殿の言葉に、父上はすぐには答えられなかった。
遠山一族が織田と関係を持っていたことは、帰属を認める以前から分かっている。岩村の景任にしても、織田との縁を保ちながら周囲の情勢を見極めていた。その判断を責めるつもりはないし、今後も尾張との商いを続けることには何の問題もなかった。
ただし、織田からの求めに応じて兵を出すようでは話が違ってくる。六角の家臣となった以上、軍役に関する命令は父上から受けるべきものだった。
「従来の付き合いを禁じるつもりはない。だが、軍勢を動かすとなれば六角の許しが要る。その点は心得ていただきたい」
父上の言葉に、五郎左衛門殿は表情を引き締めた。
織田としても、遠山一族との関係を失うことは惜しいはずだ。だが、今の東美濃は六角領である。それを認めずに従来どおり軍事的な助力を求めれば、両家の間に新たな争いを生む恐れがあった。
五郎左衛門殿は、使者の往来や家同士の付き合いについては今後も認めてほしいと求めてきた。その口ぶりからは、東美濃との縁を残そうとする上総介の意向が窺える。
「使者の往来まで妨げるつもりはありません。ただ、兵を求める場合は別です。六角に従う者へ軍事上の要請をされるのであれば、まず父上へ話を通していただきたい」
俺がそう伝えると、五郎左衛門殿は暫く考えた後、承知したと答えた。
これまでの付き合いを保つことと、他家の家臣に軍勢を動かさせることは別だ。織田としても、その区別を曖昧にしたままでは困るのだろう。上総介の意向を改めて確かめる必要はあるものの、今回の会談では双方の立場を明確にすることができた。
続いて話題となったのは、木曽川沿いの商人の往来だった。
東美濃から尾張へ荷を運ぶ商人の中には、以前の領主から与えられた証文を持つ者がいる。ところが六角への帰属後、渡し場でその証文が認められず、荷を留め置かれる事例が出ているという。五郎左衛門殿が持参した書付には、布を運んでいた商人が二日も足止めされたことが記されていた。
証文そのものに不備があったわけではない。問題となったのは、そこに押されていた印だった。東美濃の領主が六角に従ったことで、従来の印を認めてよいのか、渡し場を預かる者が判断できなかったらしい。
俺は思わず顔をしかめた。
商人にしてみれば、領主が誰に従おうと約束した日に荷を届けることの方が大切だろう。渡し場で足止めされれば、取引先との関係にも差し障りが出る。織田と六角が互いに争うつもりはなくとも、現地でこうした問題が重なれば不満は募るはずだった。
「但馬守。東美濃の証文については、どのように扱っている」
「以前から認められていたものは当面そのまま扱わせております。ただし、内容を確かめる必要のあるものについては調べを進めているところにございます」
但馬守の答えに、俺は頷いた。
帰属した国人たちが従来から認めていた権利を、六角の都合で一度に取り消すつもりはない。しかし、すべてを無条件に認めれば、既に失われた権利や偽りの証文まで持ち込まれる恐れがあった。
父上は双方の商人が困らぬよう、従来の証文を当面認めながら、その内容を順に調べることを提案された。疑わしいものがあれば両家で確かめ、確認が済むまでという理由だけで荷を留め置くことは避ける。五郎左衛門殿も異存はなかったが、そこでもう一つの問題を口にした。
「商いの荷であっても、武具や馬を運ぶ場合がございます。その扱いはいかがいたしましょう」
父上が俺の方を見られた。
これは少々厄介だった。刀や槍も売り買いされる品ではあるが、まとまった数を他国へ運ぶとなれば軍勢の支度に関わってくる。商いだからといって何でも通せば、先ほど定めた軍事上の取り決めが意味を失ってしまう。
「通常の商いまで禁じる必要はないと思います。ただ、大量の武具や馬を運ぶとなれば、行き先や買い手を確かめるべきでしょう」
俺の言葉に、五郎左衛門殿は苦笑した。
「右衛門督殿には、容易に承知していただけませぬな」
「五郎左衛門殿も、同じ立場なら気にされるのではありませんか」
「確かに。そこは否定できませぬ」
互いに笑ったものの、譲れないところは譲らなかった。
通常の商いを妨げず、軍勢の支度に関わる規模の荷については個別に事情を確かめる。細かな扱いは現地の実情を調べてから定めることになった。さらに、境で争いが起きた場合には当事者だけで処置を決めず、双方の家へ報告することも確認された。
父上は会談を終えるにあたり、今回の合意を文書にまとめ、上総介の返答を待って正式な取り決めとするよう命じられた。
五郎左衛門殿も、持ち帰って主君へ報告すると約束した。
美濃を巡る両家の利害が完全に一致したわけではない。それでも今回は、以前のように互いの意向を探るだけで終わらず、国境で生じている問題への具体的な対処を定めることができた。
会談が終わると、父上から引き続き五郎左衛門殿の相手をするよう命じられた。俺は使者を別室へ案内し、茶を用意させた。
正式な会談では終始落ち着いていた五郎左衛門殿も、二人になると幾分表情を和らげた。三度も顔を合わせていれば、互いの言葉遣いや考え方にも多少は慣れてくる。とはいえ、織田の重臣であることに変わりはなく、気を許して何でも話せる相手ではない。
茶を飲みながら東美濃の近況について話していると、五郎左衛門殿が岩村のことに触れた。
「修理亮殿が六角家へ帰属されたことは、我が主も残念に思っておられます。以前からの縁も深うございましたので」
その言葉に俺は茶碗を置いた。
随分と率直に話してくれるものだ。上総介が東美濃を惜しんでいることは想像できたが、使者の口から聞くと、やはり少々気まずい。もっとも、ここで慰めるようなことを言っても仕方がない。遠山一族は自ら六角への帰属を選んだのであり、その判断を覆すつもりはなかった。
「修理亮が織田との縁を大切にしていることは承知しています。今後も従来の付き合いを続けていただいて構いません。ただ、六角に従ったことを理由に、上総介殿との間で不和が生じるのは避けたいですね」
五郎左衛門殿は少し笑った。
「我が主も、いつまでも過ぎたことに拘っておられる方ではございませぬ。ただ、右衛門督殿の御働きには随分と驚かされております」
「それならば、上総介殿にもお伝えください。美濃の国人たちが帰属を決めたのは、それぞれの家を守るためでもあります。こちらから無理に従わせたわけではありません」
そのことは五郎左衛門殿も承知しているらしい。遠山一族が帰属を選ぶまでの事情については、織田でも調べていたのだろう。少なくとも、六角が兵をもって岩村を屈服させたと考えている様子はなかった。
やがて夕餉が運ばれると、五郎左衛門殿が酒を所望した。俺は普段から酒を嗜まないが、相手に勧められてまで断るつもりはない。一献だけ付き合うことにすると、五郎左衛門殿は嬉しそうに杯を掲げた。
「此度の会談が、両家にとって良い縁となることを願っております」
「こちらも同じ思いです」
杯に口を付け、少しだけ酒を飲んだ。
五郎左衛門殿は酒を楽しみながら、尾張での近況を話してくれた。上総介は小牧山への移転を考えているらしく、城の普請や領内の手配で忙しいという。美濃を得られなかったとはいえ、その分だけ尾張の支配を固めようとしているのだろう。
そうした話が一段落した頃、五郎左衛門殿が声を落とした。
「ところで、我が主は右衛門督殿と一度お会いしたいと考えておられます」
俺は少し驚いた。
織田信長とは未だに面識がない。前世の知識がある俺にとっては、歴史上でも特に関心のある人物だった。もっとも、今の信長が前世で知っていた人物像と同じとは限らない。美濃の大半を六角が押さえたことで、織田の置かれた状況も大きく変わっている。
直接会えるのであれば、俺としても願ってもないことだった。
「機会があれば、こちらもお会いしたいと思っています。ただ、時期や場所については父上と相談する必要がありますね」
「無論にございます。具体的な日取りを決める話ではございませぬ。まずは右衛門督殿のお考えを伺えればと」
五郎左衛門殿の言葉に、俺は了承の意を伝えた。
上総介が俺に会いたいと考えている理由までは分からない。単に盟約を確かなものにするためなのか、それとも別の思惑があるのか。いずれにせよ、両家の当主や嫡男が顔を合わせるとなれば、相応の準備が必要になるだろう。
その後は政治の話から離れ、互いの領国の様子などを話して過ごした。五郎左衛門殿は酒を重ねていたが、俺は最初の一献だけで十分だった。無理に勧めてくることもなく、そのまま穏やかに夕餉を終えた。
翌朝、五郎左衛門殿は上総介への返書を携え、観音寺城を発った。
*
織田の使者を見送ってから数日後、但馬守が桑名について新たな報告を持ってきた。
以前から六角との接触を望んでいた商人たちが、ようやく近江へ人を遣わすことを決めたという。北伊勢の武士たちを恐れ、正式な使者ではなく、普段から近江と取引のある商人が訪れることになったらしい。
ただ、今回の報告には気になることがあった。
警固料を取り立てている者たちは、以前から桑名の道で権利を持っていた者たちと争っているという。しかも、奪われた荷の一部が桑名の市で売られていたとの話まで出てきたらしい。
「奪われた荷に間違いないのか」
「まだ確かめられておりませぬ。ただ、被害を受けた商人の取引先が、品に付けられた印を見たと申しております」
但馬守が差し出した書付には、売られていたという布の種類と印が記されていた。
確かに被害を受けた商人が扱っていた品と一致する。しかし、それだけで奪われた荷だとは断定できない。同じ印が付いた品を別の商人へ売っていた可能性もある。とはいえ、警固料という名目で荷を奪った者たちが、それを売り払っているのであれば、単なる通行料を巡る争いでは済まなかった。
俺は報告を父上へ届けるよう命じた上で、桑名から来る商人には以前の通行料に関する証文と、今回の徴収について分かるものを持参してもらうことにした。現地の事情を知らぬまま六角が動けば、権利を争う者たちの一方に利用される恐れもある。
その日の夕刻、但馬守から知らせが届いた。
桑名から来た商人が、既に城下へ到着しているという。
男は近江の商人に伴われており、以前からの通行料を記した帳面のほか、警固料を支払った際に渡されたという書付も持参していた。しかも、奪われた荷が市に出回っていた件について、直接話したいことがあるらしい。
俺は翌日、その商人と会うことにした。
但馬守の話によれば、男は道中で何度も後ろを振り返り、桑名から追ってくる者がいないか気にしていたという。無事に近江へ着いても警戒を解こうとしないところを見ると、余程恐ろしい目に遭ったのだろう。
織田との会談では、互いの権利を認め合うことで商人の往来を守る道筋を付けられた。だが、桑名では誰がその権利を持ち、何を根拠に銭を取り立てているのかさえ明らかになっていない。
翌朝、俺は但馬守とともに商人を迎えた。
部屋へ入ってきた男は四十前後だろうか。幾分やつれた顔をしており、座るよう勧めても落ち着かない様子だった。俺が用件を尋ねる前に、男は懐から折り畳んだ紙を取り出し、震える手で差し出してきた。
そこには、これまで桑名へ荷を運ぶ際に支払っていた通行料の控えと、今回新たに求められた警固料の記録が記されていた。
俺は二つを見比べた。
徴収する場所も名目も違う。しかも、警固料の方には従来の証文には見られない印が押されていた。
男はそれを指差すと、声を潜めた。
「右衛門督様。この印を使っている者が、誰の配下なのかをお伝えしたく参りました」
俺は男の顔を見た。恐怖のためか、その額には薄く汗が浮かんでいる。それでも男は逃げようとせず、こちらの返事を待っていた。
「分かった。聞かせてもらおう」
男は深く頭を下げ、ようやく口を開いた。
「取り立てをしている者たちは、横瀬の家中を名乗っております。ただ、本当に横瀬様の御命令なのか、桑名の者たちにも分かっておりませぬ」
男は源兵衛と名乗った。桑名で布や紙を扱う商人で、近江や美濃から荷を仕入れ、伊勢の商人へ売っているという。先日、荷を奪われた商人とも長い付き合いがあり、今回の騒ぎで自分の商いにも影響が出ているらしい。
源兵衛が持参した書付には、警固料を取り立てた場所と銭の額、徴収した者の印が記されていた。ただ、同じ道を通った商人でも求められた額が違い、支払いを拒めば荷を取り上げられるという。商人たちが従来の通行料を納めていると訴えても聞き入れられず、抗議した者が殴られたこともあったそうだ。
これでは警固料というより、武力を頼みにした脅迫に近い。
俺が印について尋ねると、源兵衛は横瀬の家中を名乗る者たちが使っているものだと説明した。しかし、横瀬の当主が徴収を認めたことを示す証文はない。家中の者が勝手に取り立てている可能性もあれば、他人が横瀬の名を騙っていることも考えられた。
源兵衛は説明を終えると、改めて姿勢を正した。
「此度は左京大夫様に、桑名の商人たちの窮状をお聞き届けいただきたく参りました。どうか御取り次ぎをお願い申し上げます」
なるほど。最初から父上への訴えを望んでいたのか。
北伊勢の武士が関わる騒動であり、他国の大名へ働き掛けるのであれば、当主である父上に願い出るのが筋だろう。俺が話を聞いたのは事情を確かめるためであって、六角として救済を約束するためではない。
但馬守も源兵衛の申し出を承知していたらしく、父上への取り次ぎについては既に準備を進めているという。ただ、商人の訴えをそのまま父上へ伝えるよりも、本人から直接事情を聞いていただいた方がよいと考えていたようだった。
俺は源兵衛に、父上へ面会を願い出ることを伝えた。男はようやく安堵した様子を見せたが、桑名へ残してきた家族や奉公人のことが気掛かりなのか、落ち着かない様子は変わらなかった。
*
翌日、源兵衛は父上の御前へ通された。
俺と但馬守も同席している。源兵衛は平伏したまま、しばらく顔を上げようとしなかった。商人として六角領内へ出入りすることはあっても、当主へ直接訴え出る機会など滅多にないのだろう。
父上が面を上げるよう促されると、源兵衛は懐から取り出した訴状を差し出した。
そこには桑名へ荷を運ぶ商人たちが受けた被害と、警固料を取り立てる者たちの振る舞いが記されていた。奪われた荷を返してほしいという願いに加え、今後も従来どおり商いを続けられるよう助力を求める内容だった。
父上は最後まで目を通されると、訴状を脇へ置かれた。
「源兵衛。六角へ助けを求めたことは分かった。だが、桑名は六角の領地ではない。そなたたちは、こちらに何を望んでおる」
源兵衛はすぐには答えられなかった。
訴状には商いを守ってほしいと記されているものの、そのために六角へ何をしてほしいのかまでは明確になっていない。兵を出して取り立てを行う者たちを追い払ってほしいのか、それとも北伊勢の武士との間を取り持ってほしいのか。そこによって六角の対応も変わってくる。
やがて源兵衛は、震える声で答えた。
「兵を出していただきたいとまでは申しませぬ。ただ、今のままでは荷を運ぶこともできず、商いを続けられませぬ。せめて、あの者たちが何の権利をもって銭を取り立てているのか、お確かめいただきとうございます」
父上は表情を変えずに聞いておられたが、源兵衛が続けて口にした話には興味を示された。
警固料を取り立てている者たちは、桑名で以前から通行料を得ていた者たちとも争っているらしい。さらに一部の商人が武士たちと結び付き、取り上げられた荷を安く買い取っているという噂まで広まっているそうだ。
源兵衛はその話を口にする際、明らかに言葉を選んでいた。
桑名の商人たちは、長い年月をかけて互いの付き合いを築いてきた。その中で特定の者の名を挙げ、他国の大名へ訴え出ることには相当な覚悟が要る。相手が実際に取り立てへ関わっていたとしても、桑名へ戻った後のことを考えれば容易に名前を明かせないのだろう。
「桑名の町衆は、これまで何をしておった」
「話し合いは幾度も行われました。されど、取り立てを止めるよう求めても聞き入れてもらえませぬ。中には北伊勢の武士を敵に回すつもりかと、我らを責める者までおります」
源兵衛はそこで言葉を詰まらせた。
商人同士でも意見が分かれているとなれば、桑名の者たちが一丸となって助けを求めているわけではないらしい。六角が介入することを嫌う者もいれば、取り立てを行う側と利益を分け合っている者もいるかもしれない。
父上はその点について、源兵衛に確かめられた。
六角へ助けを求めたことを、桑名の商人たちはどこまで承知しているのか。源兵衛の答えによれば、今回の訪問を知っているのは、古くから付き合いのある数人だけだという。
「他国の武家を頼れば、桑名の商いまで六角に奪われるのではないかと恐れる者もおります。私とて、そのようなことは望んでおりませぬ。されど、このままでは……」
源兵衛は膝の上で両手を握り締めた。
父上はその姿を見ながら、暫く黙っておられた。
源兵衛たちが望んでいるのは、六角の支配を受けることではない。これまでの商いを守るため、武士による不当な取り立てを止めてほしいということだった。しかし、そのために六角が兵を出せば、桑名の者たちが恐れている事態を自ら招くことにもなりかねない。
商人たちの不安は理解できる。だが、六角にとっても北伊勢の問題へ関わる以上、相応の理由と手順が必要だった。
「源兵衛。そなたたちの訴えは聞き届けた。ただし、この場で桑名の商いを守ると約束することはできぬ。まずは取り立てをしている者たちの素性と、その権利を確かめさせよう」
源兵衛は深く頭を下げた。
父上は続けて、近江や美濃の商人が被害を受けている以上、六角として事情を調べる理由はあると仰った。奪われた荷についても、被害が確かなものであれば返還を求めることはできる。ただし、他国の土地で起きたことを力ずくで解決するつもりはないと明言された。
俺はその言葉を聞いて、改めて父上の判断に納得した。
桑名の者たちが六角へ助けを求めているからといって、直ちに兵を出す理由にはならない。そもそも相手が誰なのかさえ明らかになっていないのだ。ここで不用意な約束をすれば、六角だけでなく源兵衛たちまで危険に晒す恐れがあった。
父上は俺に顔を向けられた。
「右衛門督。此度の件はそなたに調べを任せる。但馬守と相談し、取り立てをしている者たちの素性を確かめよ。ただし、他国への正式な働き掛けは儂の許しを得てからとする」
「承知いたしました」
源兵衛は俺と父上を交互に見た後、再び深く頭を下げた。訴えが退けられなかったことに安堵しているようだったが、これですべてが解決したわけではない。むしろ、六角が調べを始めたことで新たな危険が生じる可能性もあった。
父上は源兵衛に、当面の滞在先について尋ねられた。
桑名へ戻るのであれば止めはしないが、訴え出たことが知られれば報復を受ける恐れもある。源兵衛は家族や奉公人を残しているため迷っていたものの、今すぐ戻っても商いを続けられる見込みはないと考え、暫く近江に留まることを願い出た。
父上はそれを認められた。ただし、正式な使者として遇するのではなく、普段どおり商いのために滞在している形を取ることになった。
源兵衛が退出すると、父上は訴状を手に取られた。
「四郎。此度の騒ぎ、単なる銭の取り立てでは済まぬやもしれんな」
「はい。桑名の商人の中にも、取り立てを行う者たちと結び付いている者がいるようです。奪われた荷が市に出回っているという話もございます」
父上はその点を詳しく調べるよう命じられた。横瀬の家中を名乗る者たちが実際に誰の配下なのか、荷を奪われた商人と買い取った者の間にどのような関係があるのか。その二つが明らかになれば、今回の騒ぎの実態も見えてくるだろう。
*
父上から調査を任された後、俺は但馬守と源兵衛の持参した証文を調べ直した。
以前から徴収されていた通行料の控えと、今回の警固料について記された書付を並べると、幾つか気になる違いがあった。従来の通行料は荷の種類や量に応じて定められているが、警固料にはそうした決まりが見当たらない。取り立てた者の印が押されているだけで、誰の命令によるものなのかを示す記述もなかった。
さらに、荷を奪われた商人の中には、その後に桑名の市で自分の品とよく似たものが売られているのを見た者がいたという。証文に記された数量と一致するものもあり、偶然と片付けるには気になる話だった。
俺は但馬守へ、その品を扱った商人について調べるよう頼んだ。
ただし、桑名へ六角の者を大勢送り込むつもりはない。近江と取引のある商人を通じて、市で売られていた品の出所を確かめてもらう。調べを進める中で不審な者に気付かれれば、源兵衛の立場まで危うくなってしまうだろう。
但馬守はその点を承知した上で、桑名の商人たちとの連絡を引き受けた。
「横瀬については、いかがいたしましょう」
「家中を名乗る者がいるというだけでは、横瀬が命じたとは言えません。まずは北伊勢と縁のある者から話を聞きましょう。父上への報告も、その後で構いません」
横瀬が実際に取り立てを命じているのであれば、何らかの言い分があるはずだ。反対に、家の名を勝手に使われているのであれば、横瀬にとっても面白い話ではないだろう。しかし、正式な問い合わせを行えば、六角が桑名の問題へ関心を向けていることが相手に伝わる。その前に確かな情報を集めておきたかった。
但馬守が退出した後、俺は源兵衛から預かった訴状に目を通した。
最初に読んだ時には、荷を奪われた商人たちの窮状ばかりが目に入った。だが、改めて確かめると、取り立てを止めてほしいという願いのほかに、桑名の商人同士で争いが生じていることも記されている。
武士が銭を取り立てるようになったことで、利益を得ている商人がいる。その一方で、従来から桑名で商いを続けていた者たちが不利益を被っている。もし今回の騒ぎが町衆の間の争いと結び付いているのであれば、取り立てを行う者だけを追い払っても問題は残るだろう。
もっとも、現時点では推測にすぎない。源兵衛の証言だけで桑名の商人たちを疑うことはできなかった。
俺は但馬守からの報告を待つことにした。
*
数日後、桑名と取引のある近江の商人から、最初の返事が届いた。
取り立てを行っている者たちの中に、横瀬の家中と以前から付き合いのある者がいることは確からしい。しかし、横瀬の当主が直接命じたという証拠は得られていなかった。
一方、奪われた荷については、少し事情が分かってきた。
桑名の市で売られていたという布は、実際に美濃から運ばれてきた品だった。扱っていた商人は、荷を取り立てた者たちから買い受けたと話しているらしい。ただし、売り手が正当に品を得たものかどうかまでは確かめていなかったという。
この話を聞いた時、俺は思わず腹が立った。
荷を奪われた商人には、約束した取引先へ品を届けられなくなった者もいる。その一方で、取り上げられた品を安く買い取り、利益を得ている者がいるのであれば、納得できる話ではない。
だが、怒りに任せて相手を責めても、奪われた荷が戻ってくるわけではなかった。
俺は但馬守に、品を買い取った商人が誰から受け取ったのか、取引の記録を確かめるよう命じた。売り手が横瀬の家中を名乗る者と同じであれば、取り立てと荷の売却が繋がっている可能性は高くなる。
さらに、源兵衛にも新たな話を聞くことにした。
源兵衛は近江へ来てから幾分落ち着きを取り戻していたが、桑名の家族のことは気に掛けているようだった。俺が荷の売却について尋ねると、男は少し迷った後、以前から気になっていたことがあると打ち明けた。
警固料を取り立てる者たちは、荷を奪う際に必ずしも高価な品を選んでいるわけではないという。中には銭になりにくい品を取り上げられた商人もおり、源兵衛はそのことを不思議に思っていたらしい。
俺も少し考え込んだ。
ただ銭を得ることが目的なら、売りやすい品を選ぶ方が都合がよいはずだ。にもかかわらず、荷の種類に関係なく取り立てを行っているとすれば、別の目的があるのかもしれない。
「源兵衛。荷を奪われた商人たちは、皆同じ道を通っていたのか」
「いいえ。桑名へ入る道はいくつかございます。ただ、近頃は特定の道を通る者ばかりが狙われているように思います」
男の言葉に俺は興味を覚えた。
取り立てを行う場所が限られているのであれば、その道を押さえること自体に意味があるのかもしれない。荷を奪って利益を得るだけでなく、特定の商人を通さぬようにすることも考えられた。
俺は源兵衛へ、どの道で被害が多いのかを詳しく尋ねた。
男は桑名へ至る道の一つを挙げ、そこでは以前から通行料を得ていた者たちと、今の取り立てを行う者たちが争っていると説明した。しかも、その道を避けて別の場所から荷を運ぼうとした商人まで、途中で呼び止められたことがあるという。
そこまで聞いて、ようやく今回の騒ぎの輪郭が見えてきた気がした。
武士たちが警固料を名目に銭を奪っているだけではない。商人たちの通る道を押さえ、荷の扱いまで自分たちの都合に合わせようとしている可能性がある。
もしそうなら、桑名の町衆の間で争いが起きていることとも辻褄が合う。
ただし、まだ確かな証拠はない。俺は源兵衛から聞いた内容を但馬守へ伝え、被害のあった場所と荷の行方を改めて調べるよう頼んだ。
その日の夕刻、父上へ報告すると、今回の騒ぎが単なる不当徴収ではなく、桑名へ入る商いの道を巡る争いに関わっている可能性を伝えた。
父上は興味深そうに話を聞かれたが、すぐに結論を出そうとはされなかった。
「商人たちが何を争っておるのか、もう少し確かめる必要があるな」
「はい。横瀬の家中を名乗る者たちが、どこまで関わっているのかもまだ分かりません」
「うむ。ならば、まずはそこを調べよ。桑名の町衆の中にも、此度の騒ぎを快く思っておらぬ者がおるはずじゃ。その者たちの考えも聞いておくがよい」
父上はそう仰ると、北伊勢と縁のある商人を通じて桑名の有力者へ働き掛けることを認められた。ただし、六角が直接動いていると知られれば余計な警戒を招くため、当面は商人同士の付き合いを利用して事情を探ることになった。
俺は父上の命を受け、但馬守へ手配を伝えた。
桑名の町衆の中で、今の取り立てに反対している者が誰なのか。横瀬の家中を名乗る者たちと結び付いている商人はいるのか。そして、奪われた荷がどのような経路で市へ流れているのか。
それらが明らかになれば、六角として取るべき手段も定まってくるだろう。
翌朝、近江から桑名へ向かう商人たちが出立した。彼らは普段どおりの取引を続けながら、現地の様子を確かめてくることになっている。無理に危険な場所へ近付く必要はなく、聞き取れたことだけを伝えてもらえばよかった。
源兵衛もその出立を見送ったという。
男は桑名へ戻りたい気持ちを抑え、しばらく近江で待つことを選んでいた。家族や奉公人のことを思えば気が気ではないだろうが、今は下手に動かぬ方がよいと考えたらしい。
俺はその話を聞き、源兵衛が不自由なく滞在できるよう但馬守へ頼んだ。
今回の騒ぎは、六角が北伊勢へ関わる最初のきっかけになるかもしれない。しかし、今の段階で桑名をどう扱うかまで考えるのは早かった。まずは商人たちが置かれている状況を正しく知り、父上の判断を仰ぐための材料を揃えることが先だった。
数日後、桑名から戻った商人が、新たな知らせを持って観音寺城を訪れた。
その者によれば、警固料を取り立てている者たちが、今度は桑名の町衆に対しても強い態度を見せ始めているという。これまで不満を抱きながらも黙っていた商人たちの間で、取り立てを止めるよう求める動きが広がっているらしい。
俺は但馬守からその話を聞き、桑名の情勢が変わり始めていることを感じた。
今までのように、個々の商人が被害を訴えるだけではなくなっている。町衆の中でまとまった動きが生じれば、北伊勢の武士たちも無視することはできないだろう。
もっとも、対立が深まれば武力沙汰に発展する恐れもある。六角がどう関わるかは、これからの桑名の動き次第だった。
俺は但馬守に、町衆の中で話をまとめようとしている者を探すよう命じた。相手が見つかれば、六角として正式に話を聞くことも考えられる。
但馬守は承知すると、早速手配を進めるため退出していった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は源兵衛の訴状を手に取った。
桑名の商人たちが六角を頼るようになった理由は、少しずつ明らかになってきている。だが、その先に何が待っているのかは、まだ分からなかった。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
-
このまま
-
5000文字前後
-
15000文字前後
-
1~5000文字