翌朝になっても、三年前の帳面は机の上に置いたままだった。夜のうちに何度見返したところで書かれている数字が変わるわけではない。それでも気が付けば同じ場所へ目を戻し、商人の数、荷駄の数、関から上がった銭を順に追っていた。数字だけを見れば、三年前に行った試みが失敗だったとは思えない。関銭を下げた場所では通る商人が増え、市へ入る人間も増えた。父上へ報告した時にも確かな成果として認められたし、今になってそれを全て間違いだったと考える必要もない。ただ、当時の俺が見ていたのは増えた数字ばかりで、その裏側で減った数字が何を意味していたのかを最後まで追わなかった。そのことが妙に引っ掛かっていた。
「若様、まだ御覧になっておられるのでございますか」
朝餉を終えて戻ってきた千代丸が、昨夜と同じ場所に広げられた帳面を見て呆れたような声を出した。昨日、自分の失敗を調べているのだと言われたことをまだ根に持っていたので何か言い返してやろうとも思ったが、結局やめた。今は冗談で誤魔化すより、どうするかを決める方が先だった。
「千代丸」
「はい」
「この市へ行ってみようと思う」
帳面の上に置いた指を少し動かし、商人の数が減っていた場所を示す。千代丸は一瞬だけ数字を見た後、俺の顔へ視線を戻した。
「御自分で、でございますか?」
「ああ。三人に調べさせれば、どれほど商いが減ったのかも、今何を売っているのかも分かるだろう。だが、昨日父上に言われたことを考えていてな。見えるものが増えれば、それだけ正しいと思いやすくなる、と」
「それで御自分でも御覧になると」
「見たから正しいというわけでもないだろうが、帳面だけを見て考えるよりはましじゃろう」
千代丸は少し考えてから、「では御屋形様へお許しをいただかねばなりませぬな」と答えた。止められると思っていたので少し意外だったが、考えてみれば千代丸も三年前から俺の妙な試みに付き合わされている。今さら市を見に行く程度では驚かなくなったのかもしれない。
父上のところへ向かい、昨日調べるよう命じた市へ自分も行きたいと申し出ると、案の定すぐには返事が返ってこなかった。父上は手元にあった書状を置き、何を言い出したのかと確かめるように俺を見る。
「何を見に行く」
「まだ決めておりませぬ」
「決めておらぬのに行くのか」
「何を見るべきかも含めて、確かめとうございます」
そう答えると、父上は眉を寄せた。怒ったというより、俺の言葉の意味を考えている顔だった。
「三人を向かわせたのであろう」
「はい。ですが、あの者たちが持ち帰るものだけで考えれば、結局私は報告を聞いているだけにございます。少なくとも一度は、自分でもその市と道を見ておきたいのです」
「そなたが行けば、普段通りには見えぬぞ」
その指摘は予想していなかった。
「どういうことでございます?」
「六角の嫡男が来ると分かれば、迎える側は整える。汚いところは隠し、見せたいものを見せようとする。商人も村の者も、そなたが誰か分かれば普段通りには喋らぬ。自分の目で見れば何でも分かると思うな」
昨日と同じだった。目を持つことを認めた直後に、その目そのものを疑えと言われる。少し意地が悪いと思わないでもなかったが、父上の言っていることは正しい。俺が何人かの家臣を引き連れ、六角の嫡男として市へ入れば、その瞬間に見えるものが変わる。それでは三人の甲賀者が人の中へ紛れて調べるのとは意味が違う。
「では、行かぬ方がよろしいのでございますか」
「そうは言っておらぬ」
父上は小さく笑った。
「行きたいのであろう」
「はい」
「ならば行けばよい。ただし大勢は連れて行くな。派手なこともするな。それでもそなたを知る者は気付くだろうが、少なくとも行列を作って市を潰すよりはましじゃ」
「ありがとうございます」
「礼は戻ってからにせよ。見てきたものが、三人の報告より役に立たぬこともあるぞ」
「その時は、そのことを覚えておきます」
「……本当に可愛げのない返事をするようになったな」
そう言われても、どう返せば可愛げが出るのか分からなかった。
結局、連れて行くことを許されたのは千代丸と最低限の供、それに道を見ることを得意とする甲賀者の男一人だけだった。若い女も連れて行くつもりでいたが、今は噂を流した者たちの続きを追わせている。俺自身が見に行くからといって、その仕事を止めさせる理由はなかった。
観音寺城を離れてしばらくすると、空気の匂いが少し変わった。夏の終わりが近付いているとはいえ、陽が高くなればまだ暑い。道の両側には稲が伸び、風が通るたびに青さの残る穂が揺れる。遠くには近江の山々が見え、場所によってはその向こうに琵琶湖の光まで覗いた。こうして馬に乗りながら眺める近江と、評定の席で地名として聞く近江は同じ国とは思えない。帳面の中では一本の線でしかない道にも家があり、田があり、人が歩いている。その当たり前のことを、俺は随分久しぶりに意識していた。
「この辺りから、商人が減り始めた道にございます」
甲賀者の男が前方を示した。
道そのものは、先日の報告通り荒れているようには見えなかった。ところどころ轍は深くなっているし、雨が降れば泥になるだろうが、この時代の道として特別悪いというほどでもない。橋も壊れていない。道端に倒れた荷車があるわけでもなく、盗賊が出るような物騒な雰囲気も感じられなかった。
「以前は、もっと荷駄が多かったのか」
「はい。某が聞いたところでは、三年前と比べればかなり減っておりまする。ただ、まったく通らぬわけではございませぬ」
言われてからしばらく観察していると、確かに荷を背負った馬が何頭か通った。だが、俺たちが立ち止まって見ている間に来たのはそれだけだった。比較する相手が無いので、多いのか少ないのかは数字を見なければ分からない。自分の目で見れば分かると思っていたわけではないが、早くも父上の言葉を思い出すことになった。
市へ入る頃には、人の姿が増えていた。ただし、三年前に俺が何度か見た賑わいのある市とは随分違う。物が売られていないわけではない。野菜もあり、魚もあり、布もある。旅人向けの食い物を売る者もいるし、馬を預かる場所も残っている。それでも空いている場所が目に付いた。以前は店が並んでいたのだろうと思えるところに何も置かれていなかったり、広い場所を一軒だけが使っていたりする。人が消えたというより、少しずつ隙間が増えているような印象だった。
「若様」
千代丸が小さく声を掛けてきた。
「何じゃ」
「皆、こちらを見ております」
言われて周囲へ目を向けると、確かに何人かがこちらを窺っていた。服装を派手にしたつもりはないが、完全に身分を隠せるわけでもない。それに供を連れて歩いていれば、少なくとも普通の子供ではないと分かる。
「父上の言った通りになったな」
「何がでございます?」
「俺が来れば、普段通りにはならぬということじゃ」
小声で答えると、千代丸は周囲をもう一度見回した。先ほどまで大きな声で客を呼んでいた男が、こちらを見ると少し声を落とした。逆に、何かを売り込めると思ったのか近寄ってこようとする者もいる。確かに、既に普段通りではない。
それでも歩くことに意味がないとは思わなかった。少なくとも、帳面の数字だけでは分からなかったものが見えている。
一軒の馬屋の前で足を止めた。馬を繋ぐ柱はいくつもあるのに、繋がれている馬は二頭だけだった。年嵩の男が一人、縄を直している。こちらに気付くと手を止め、慌てて頭を下げた。
「そのままでよい」
「は、はい」
「以前は、もっと馬がおったのか?」
尋ねると、男は俺と供を見比べた後、慎重に答えた。
「左様でございます。今でも忙しい日はございますが、昔ほどではございませぬ」
「三年前からか」
男の顔が僅かに動いた。
「……その頃から、少しずつ」
「困っているか」
我ながら、随分直接的な聞き方だったと思う。だが男はすぐには答えなかった。困っていると言えば何かを求めていると思われるかもしれない。困っていないと言えば嘘になるのかもしれない。その迷いが顔に出ている。
「正直に申してよい」
「では……以前よりは厳しゅうございます。ただ、ここだけが悪いわけでもございませぬ。向こうの道を使う者が増えたのであれば、そちらでは潤っておりましょう」
意外な答えだった。
「腹は立たぬのか」
「立たぬと言えば嘘になりまする」
男は困ったように笑った。
「ですが、商人衆も銭の掛からぬ方へ行きます。早い道、安い道を選ぶのは当然のことでございましょう。某どもが怒ったところで、馬が増えるわけでもございませぬ」
その言葉に、胸の奥が少し重くなった。
怒っていないわけではない。だが、誰かを恨んだところで商売が戻らないことも分かっている。昨日まで俺は、噂を流した者の理由として「困っているから商人を戻したかったのではないか」と考えていた。それ自体は間違っていないのかもしれない。しかし、ここにいる全員が同じ方法を選んだわけではない。
「ここでは、何をして生きておる」
「馬を預かり、荷を運ぶ手配をし、必要なら人足も集めまする。以前は宿へ馬を回すことも多うございました」
「今は?」
「畑へ出る日が増えましたな」
男がそう言った後、後ろの小さな畑を指した。そこにある作物を見て、俺はようやく気付いた。馬屋だけで暮らせなくなったから、別の仕事を増やしたのだ。
帳面なら、商人が減ったと一行で終わる。
だが、その一行の中で、この男は馬を預かる日を減らし、畑へ出る日を増やした。
その違いは、数字だけを見ていた時には想像出来ていなかった。
少し先の宿でも似た話を聞いた。泊まる商人が減ったため、以前ほど米を仕入れなくなった。食事を作る人数も減らした。荷運びをしていた者の中には別の市へ移った者もいるという。一方で、この辺りを完全に捨てたわけではなく、近在の百姓や小商人を相手に細々と商いを続けている者もいる。それぞれが、それぞれの方法で三年間を生き延びていた。
俺はそこで初めて、自分が「三年前から商いが減った」と一つにまとめていたものの中に、随分多くの違いがあることを知った。大きく困った者、どうにか別の仕事を見つけた者、既に別の土地へ移った者、今でも昔と変わらず商いを続けている者。同じ政策の影響を受けても、その後は同じではない。
市の端まで歩いたところで、千代丸が小さく息を吐いた。
「若様」
「なんじゃ」
「全部を元に戻すのは、難しそうでございますな」
「ああ」
千代丸がそう考えた理由は聞かなくても分かった。三年前の状態に戻そうと思えば、向こうの道へ移った商人をこちらへ戻さなければならない。そうすれば今度は向こうで困る者が出る。既にこちらで別の仕事を始めた者もいる。三年という時間は、帳面の数字以上に人の暮らしを変えていた。
「戻すという考え方そのものが違うのかもしれぬ」
「と申しますと?」
「三年前と同じにするのではなく、今あるものから別の形を作る方がよいのかもしれん」
まだ具体的な案があるわけではない。ただ、昨日考えていた「商人を戻す理由を作る」という言葉も少し違う気がしてきた。昔と同じだけ人を通すことを目標にすれば、結局は別の場所と商人を奪い合うことになる。それより、この土地に今残っているものを使って、別の商いを作った方が良いのではないか。
「若様」
後ろにいた甲賀者の男が声を掛けた。
「先ほどから、こちらを窺っている者がおります」
反射的にそちらを見そうになり、ぎりぎりで止めた。
「誰じゃ」
「まだ分かりませぬ。市へ入った頃から何度か姿を見ております。商人のようにも見えますが、若様を見ておりまする」
昨日までなら、六角の嫡男が珍しいから見ているだけだと考えたかもしれない。実際、その可能性の方が高い。だが今は、噂を流していた者たちがこの市へ出入りしていることも知っている。
「気付いておらぬふりをせよ」
「はっ」
「帰るまで手を出すな」
自分でそう命じながら、妙な感覚があった。
俺は数字の向こうにいる人間を見に来た。
そしてどうやら、向こうからもこちらを見ている人間がいるらしい。
それがただの好奇心なのか、昨日から追っている噂に繋がる者なのかはまだ分からない。
分からない。
だからこそ、今度は決めつけない。
俺は何も気付いていない顔で歩きながら、そのまま市の奥へ進んだ。