市の奥へ進みながら、俺は後ろを振り返らないよう意識した。見られていると知った途端、人間はどうしても相手を探したくなる。だが、こちらが気付いたと悟られれば、それだけで相手の動きは変わる。父上に「自分で見れば何でも分かると思うな」と言われたばかりなのに、今度は見ることそのものが相手へ影響を与えるという話になっているのだから面倒なものだ。後ろにいる甲賀者の男も余計な動きをせず、ただいつも通り供として歩いている。千代丸だけは事情を知らないので、時折店先を覗きながら俺の横を歩いていた。
市を一通り見て回った後、近くの宿で少し休むことにした。俺たちが中へ入ってからもしばらく甲賀者の男は戻ってこなかったが、半刻ほどすると何事もなかったような顔で姿を現した。
「どうであった」
「若様を見ておりました者は、やはりこの市の者にございます。荷を運ぶ仕事をしておりますが、近頃は仕事が減り、別の働きもしているとのこと」
「噂との繋がりは?」
「ございます」
男の返事は短かったが、俺の中で何かが重く沈んだ。やはり無関係ではなかったらしい。
「どこまでじゃ」
「先に調べました者の話と繋がりました。あの男自身が最初に噂を作ったかまでは分かりませぬが、『あちらの道は危ないらしい』『荷を運ぶならこちらへ回った方がよい』と何人かへ話しております。それを聞いた者が、さらに別の者へ伝えたようにございます」
「誰かに命じられたのか」
「そこまではまだ。ただ、あの者だけではございませぬ。似たことを申した者が他にもおりまする。宿を営む者、馬を扱う者、荷運びをする者。いずれも、この道を使う商人が減って困っている者たちでございます」
思っていた通りだった。それでも、実際に言葉として聞かされると胸の内に複雑なものが残る。六角を害したいわけではない。敵国から銭を渡されて動いているわけでもない。ただ、自分たちの仕事が減ったから商人を戻したかった。そのために、危なくもない道を危ないと言った。
「捕らえますか?」
甲賀者の男が尋ねる。俺はすぐには答えなかった。噂を流して商人の動きを変えたのだから、何も悪くないとは言えない。放置すれば、今度は別の場所でも同じことをする者が出るかもしれない。だが、数人捕らえて処罰すれば全て終わるとも思えなかった。
「いや。まず話を聞きたい」
「若様御自身が?」
「ああ。ただし、大勢で囲むな。逃げようとするなら止めてよいが、罪人のように引き立てる必要はない」
男は一瞬だけ俺を見た後、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
連れてこられた男は、先ほど市でこちらを窺っていた者だった。三十を少し過ぎたくらいだろうか。日に焼けた顔に疲れが滲み、手には太い縄を扱ってきた者特有の固い節がある。宿の一室へ入った途端、俺が誰なのか分かったらしく、顔色を変えて深く頭を下げた。
「顔を上げよ」
「は……」
「名はよい。今聞きたいのは、お前が何をしたかじゃ」
男の肩が僅かに固くなった。
「この道が危ないと、人へ話したことがあるか」
少しの沈黙の後、男は頭を下げたまま答えた。
「……ございます」
「本当に危ないのか」
「いいえ」
そこまで認めるとは思っていなかった。もっと言い逃れをされるかと考えていたので、逆にこちらが言葉を失いそうになる。
「何故そのようなことをした」
男はすぐには答えなかった。視線を畳へ落としたまま、指先を強く握っている。やがて、小さく息を吐いた。
「人が通らなくなったからにございます」
「それだけか」
「某は荷を運んで暮らしておりました。商人が来れば荷を運び、馬が足りなければ人を集め、宿から次の宿まで荷を送る。その銭で家族を養っておりました。ですが三年ほど前から、この道を使う者が減りました。最初は少しでございました。いずれ戻ると思っておりました。ですが、戻りませぬ。仲間の中には別の市へ移った者もおります。畑を借りた者もおります。某も今は、荷が無い日は人の田へ出ておりまする」
先ほど馬屋の男から聞いた話と似ていた。違うのは、この男はそれを受け入れきれなかったということだ。
「それで、嘘を流した」
「……はい」
「誰かに命じられたのか」
「いいえ。某だけではございませぬ。皆で相談したというほどでもありませぬ。ただ、誰かが『向こうの道は危ないとでも言えば商人も戻るのではないか』と申しました。それから、似たことを言う者が増えました」
「誰が最初に言った」
「分かりませぬ。本当に、誰が最初だったのか……」
男の声を聞く限り、嘘をついているようには見えなかった。もちろん、俺に人の嘘を見抜く力などない。だからこそ、後で甲賀者に確かめてもらう必要はある。ただ、少なくとも今ここで見えているものだけなら、誰か一人の悪意から始まった話ではなさそうだった。困っている者たちの間で生まれた一つの言葉が、都合が良かったから広がった。それだけなのかもしれない。
「俺を見ていたのは何故じゃ」
男が初めて顔を上げた。
「若様が、この市を見て回っておられると聞きましたので」
「俺だと知っていたのか」
「お姿は存じませなんだ。ただ、供の者を連れた御子が店々を回り、三年前からどう変わったかを尋ねていると聞きまして……もしやと思いました」
「それで何をするつもりだった」
「分かりませぬ」
男は自嘲するように口元を歪めた。
「何か申し上げようとは思いました。ですが、何を申せばよいのか。商いを戻してほしいと願えばよいのか、関の銭を元に戻してほしいと願えばよいのか。それをすれば向こうで困る者が出るとも聞いております。結局、遠くから見ているだけでございました」
その答えを聞いて、三年前の帳面が頭に浮かんだ。あの時の俺なら、この男を数字の中の一人としてしか見なかっただろう。商人が何人減った、荷駄が何頭減った、関から上がる銭がどれだけ減った。その変化は記録していた。だが、数字が減った後、この男がどう暮らすようになったのかは記録していない。
「お前たちが流した噂は止めてもらう」
男の顔が強張った。
「危なくない道を危ないと言って商人を動かすことは、許すわけにはいかぬ。この市のためなら、別の市の商いを嘘で奪ってよいということにはならぬ」
「……はい」
「だが、お前たちが困っていることまで無かったことにはせぬ」
男がゆっくり顔を上げた。
「すぐに昔と同じようにするとは約束出来ん。俺にも、何をすればよいかまだ分からぬ。ただ、この土地で何が出来るかは調べる。商人を無理に戻すのではなく、商人がここへ来る理由を作れるかどうかを見る」
「若様が……」
「勘違いするな。必ず良くなるとは言っておらぬ」
期待させ過ぎるのは怖かった。俺が何か言えば、それだけでこの男にとっては六角家からの約束になるかもしれない。出来るか分からないことを、出来るように聞かせるべきではない。
「それでもよければ、待て。噂は止めよ。仲間にも伝えよ。その代わり、俺たちが調べる時には本当のことを話してほしい。何が減ったのか、何が残っているのか、何が出来ると思うのか。俺たちには分からぬことを、お前たちは知っているはずじゃ」
男はしばらく動かなかった。やがて両手を畳について、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その声に安堵があったのか、まだ疑っているのかまでは分からない。俺も、あの男が本当に噂を止めるのかは分からない。ただ、少なくとも今はそれ以上を求めるべきではないと思った。
市を出る頃には、陽は随分と西へ傾いていた。来た時と同じ道を観音寺城へ向かって戻りながら、俺はほとんど口を開かなかった。昼間に見た馬屋や宿、荷を運んでいた男の顔が、頭の中で何度も浮かんでは消える。三年前、帳面の上で商人や荷駄の増減を追っていた時には、その数字が誰の暮らしと繋がっているのかまで考えていなかった。今では、数字を一つ思い出すたびに、その向こうへ具体的な顔が重なる。隣を進む千代丸も珍しく何も言わず、馬の蹄が乾いた道を叩く音と、時折すれ違う旅人の声だけがしばらく続いた。
「千代丸。今日見たものを、どう思う」
唐突に尋ねると、千代丸はすぐには答えなかった。前を向いたまましばらく考え、やがて困ったような顔で「難しゅうございます」とだけ言ったので、思わずそれだけかと返す。すると千代丸は僅かにこちらを見て、「若様も同じようなお顔をしておられます」と言った。言い返そうとして、それが事実なのでやめた。俺が黙ると、千代丸も少し考えを整理するように間を置いてから続けた。
「三年前のように戻せばよいのだと思っておりました。商人が減ったのであれば、もう一度こちらを通るようにすればよいのだと。ですが、今日見ておりますと、それだけでは済まぬのでございましょう。向こうの道へ商人が移れば、そこで宿を始めた者や、荷を運ぶようになった者もおります。こちらでも、商いだけでは暮らせぬから畑へ出るようになった者がおりました。それを三年前と同じに戻そうとすれば、今度はこの三年で別の暮らしを作った者たちを、また動かすことになるのでございましょう?」
「ああ。おそらくな」
「ならば、元へ戻すのではなく、今あるものから新しく作るしかないのではございませぬか」
思わず千代丸を見ると、本人は自分が何か大層なことを言ったつもりもないらしく、真面目な顔で前を向いていた。三年前なら、俺が関銭や商人の話を始めただけで戸惑っていた少年だ。それが今では、こちらが何を悩んでいるのかを理解し、自分なりに考えた答えを口にするようになっている。俺だけが三年間で変わったわけではないのだと、そんなところでも気付かされた。
「俺と同じことを言うようになったな」
「毎日若様のお側におりますので」
「それは褒めておるのか、それとも俺に似てしまったと嘆いておるのか」
「さて、どちらでございましょう」
千代丸が僅かに笑う。俺もつられて口元を緩めた。市を出てから胸の内に溜まっていたものが消えたわけではない。それでも、一人で抱えていた重さがほんの少しだけ軽くなったように感じた。
観音寺城へ戻ったのは、陽が山の端へ沈み始めた頃だった。旅装を解くより先に父上のもとへ向かい、その日のうちに見聞きしたことを報告する。市の様子、馬屋や宿で聞いた話、俺たちを見ていた荷運びの男が噂へ関わっていたこと、そしてその男を捕らえず、まず噂を止めるよう言い渡したことまで一通り話した。父上は途中で口を挟むことなく聞き終えると、すぐに良いとも悪いとも言わず、しばらく俺の顔を見ていた。
「噂を流した者を許したか」
「許したつもりはございませぬ。危なくもない道を危ないと言って商人を動かそうとしたことまで、良いとは思っておりませぬ。噂は止めさせますし、それでも続けるのであれば、その時は別に考えます」
「ならば、何故捕らえなんだ」
「捕らえれば、今流れている噂は止まるかもしれませぬ。ですが、あの者たちが何故そのようなことをしたのかは残ります。商いが減り、仕事が減り、このままでは暮らせぬと思ったことが始まりなら、その理由を何も変えずに人だけ捕らえても、いずれ別の者が同じことをするかもしれませぬ」
答えながら、昼間見た男の手を思い出していた。縄や荷を扱い続けて固くなった手。それでも仕事が減った今は、人の田へ出ていると言っていた。あの男がしたことを正しいとは思わない。だが、何も考えず六角へ害を加えようとした敵とも思えなかった。
「では、市を助けるのか」
「助ける、という言い方が正しいのかは分かりませぬ」
俺は今日見たものを一つずつ思い返しながら、自分の中でまだ形になりきっていない考えを言葉にした。三年前と同じ姿へ戻したいわけではない。こちらの道を通る商人を増やすために、今度は向こうの道から商人を奪えば、三年前と反対のことをするだけになる。それよりも、今この市に残っているものを調べ、その土地へ来る別の理由を作れないか考えたい。宿がある。馬を扱える者がいる。荷を運ぶことに慣れた人間もいる。近くの村で何が作られ、どの道がどこへ繋がり、今の商人が何を欲しがっているのか。それらを見た上で、この市が別の形で生きられる方法を探す方が良いのではないかと思っていた。
父上は俺の話を聞き終えると、しばらく考えてから小さく頷いた。
「それでよい」
「よろしいのでございますか」
「儂に答えを聞くな。そなたが考え、そなたが決めたのであろう」
またそれだ、と思った。分からないことを尋ねれば教えてくれる。間違えそうになれば忠告もしてくれる。それなのに最後のところまで来ると、父上は必ず俺へ返してくる。前世で教師だった頃、自分も生徒へ似たようなことをしていた気がして、少しだけ複雑な気分になった。
「ただし、一つだけ覚えておけ」
「はい」
「今日そなたが見た者たちだけが、この話の全てではない。あちらで商いが減ったのなら、別の場所では増えたのであろう。そちらには、商人が増えたことで新しく宿を始めた者も、馬を買った者も、荷運びを仕事にした者もおるかもしれぬ。この市を助けるために何かを動かせば、その者たちにも影響は出る。今日見たものが本物であることと、今日見たものだけが全てであることは、同じではないぞ」
その言葉を聞いた瞬間、昼間の自分が少し恥ずかしくなった。馬屋の男が畑へ出るようになったと聞き、宿が仕入れる米を減らしたと知り、荷運びの男が苦しんでいる姿を見た。それらは全て本当なのだろう。だからこそ、知らず知らずのうちに今度はこちら側へ気持ちが寄り始めていた。三年前は増えた側ばかりを見て、今度は減った側ばかりを見る。それでは、向きが変わっただけで本質は何も変わっていない。
「……はい。向こうも見ます」
「それでよい。全部を見ることなど出来ぬ。だが、自分が何を見ておらぬのかくらいは忘れるな」
父上の言葉は、今日一日で俺が得たものを否定するものではなかった。自分の目で見たからこそ分かったことは確かにある。ただし、それを見たことで今度は別のものが見えなくなる可能性もある。そのことまで含めて考えなければ、自分の目を持った意味がないのだろう。
自室へ戻ると、机の上には三年前の帳面が朝と変わらぬ姿で置かれていた。開けば、そこには商人の数、荷駄の数、関から上がる銭が整然と並んでいる。試みを始めた場所では商人が増え、荷駄が増え、市へ落ちる銭も増えた。その数字自体は今見ても間違っていない。一方で別の道では商人が減り、その結果として馬屋の男は馬を預かる日を減らして畑へ出るようになった。宿では泊まる者が減り、仕入れる米を減らし、荷を運んでいた者の中には別の市へ移った者もいる。数字だけなら「増えた」「減った」の二つで済む変化の中に、実際にはそれだけ多くの暮らしがあった。
だからといって、数字を見ることそのものが間違っていたとは思わない。数えなければ、そもそも商人が増えたことにも減ったことにも気付けなかった。比べなければ、関銭を変えたことで何が起きたのかを判断することも出来なかっただろう。前世で数学を教えていた頃から続く、数え、比べ、そこから違いを探すという俺のやり方は、これからも使うつもりだ。むしろ六角ほど大きな家を動かすなら、勘や印象だけに頼るより、出来る限り数字を残した方がよいと思っている。
間違えていたのは、数字そのものではない。その数字だけで全部を見たつもりになっていた俺の方だった。商人が十増えた時、その十人が何処から来たのか。別の場所で十減ったのなら、その十人を相手に暮らしていた者たちはどうなったのか。政策を始めた直後だけではなく、一年後、二年後、三年後に何が残ったのか。そこまで追わなければ、本当に良かったのか悪かったのかは分からない。
三年前の帳面をゆっくり閉じる。紙の上では、増えた数字も減った数字も静かなままだ。しかし今の俺には、その向こうに今日見た馬屋の男や宿の者、荷運びの男の顔が浮かぶ。そして、まだ会っていない向こうの道の者たちも同じように暮らしているのだろうと思える。
数字が動いた時、その向こうでは必ず誰かが動いている。得をする者がいて、困る者がいて、それでも人はその後の暮らしを続けていく。その全部を見ることは出来なくても、少なくとも数字だけを見て分かった気にはならないようにしよう。
朝までただの記録に見えていた帳面は、もう同じものには見えなかった。