淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

18 / 21
第十七話「同じ味」

 梅酸丸を売り始めてから半月ほど経つ頃には、最初のように一日ごとの売れ方へ一喜一憂することは少なくなっていた。旅人や商人、荷を運ぶ者が多く通る場所では比較的よく売れ、市の奥や近在の者が多い場所ではそれほどでもない。作った当日のものは評判がよく、翌日まで残れば固くなったと言われることが増える。誰が買い、どこで売れ、どれほど残ったかを帳面へ残し、甲賀の三人にも店先や道の様子を見てもらうようになってから、まだ大雑把ではあるものの梅酸丸という菓子がどういう者に求められているのかは少しずつ見え始めていた。特に、三人の中で人の顔や言葉を見ることが得意なあの女は、客が何を買ったかだけではなく、買う前に何を見ていたか、食べた後に誰と何を話していたかまで拾ってくる。俺が頼んだ以上のことまで見ているのは少々やり過ぎな気もするが、今のところその報告には随分助けられていた。

 

「若様。こちらの方が酸っぱくございませぬか」

 

 千代丸が左右の皿へ置かれた梅酸丸を一つずつ食べ比べ、怪訝そうに右側を指した。見た目に大きな違いはない。どちらも同じくらいの大きさに揃え、梅も米の粉も水飴も、帳面に記してある量を使っている。同じ料理人が、同じように作ったものだ。それなのに俺も食べ比べてみると、確かに右側の方が酸味を強く感じる。もっと正確に言えば、梅そのものが多いというより、左側の方が甘みを強く感じた。

 

「梅の量は同じか?」

 

「はい。若様から決められました通りにございます」

 

 料理人が答える。ならば米の粉かと思ったが、それも同じだった。作った数も変わらない。煮詰める時間に多少の差はあるのかもしれないが、それだけでここまで味が変わるのだろうか。俺が首を傾げていると、部屋の端に控えていた女甲賀者が僅かに視線を上げた。今日は売り場の様子を報告するために来ていたのだが、何か言いたそうにしている。

 

「何かあるか」

 

「一つだけ」

 

 促すと、女は少し前へ出た。

 

「昨日、市で二度目に買った者が、『前に食べたものより酸い』と申しておりました。店の者は、梅が多かったのだろうと答えております」

 

「二度目に買った者か」

 

「はい。荷を運ぶ者にございます。最初に買ったものを気に入り、同じものを求めたとのこと。ただ、昨日のものは前より甘くなかったと」

 

 千代丸の舌だけではなかったらしい。

 

 俺はもう一度二つの梅酸丸を見比べた。売れた数だけを記録していたら、こんな違いは「昨日も売れた」で終わっていたかもしれない。二度目に買った者が、前と違うと感じた。その情報を女が拾ってきたことで、目の前の味の違いがただの偶然ではなく、商いの問題として見え始めた。

 

「水飴は?」

 

「同じほど使っておりまする」

 

「同じものか?」

 

 そう尋ねると、料理人が一瞬だけ首を傾げた。

 

「同じ飴にございますが……作った者は違いまする」

 

 その答えを聞いて、俺はもう一度二つの梅酸丸を見比べた。そこで初めて、自分が当然のように同じだと思い込んでいたものが、本当に同じなのかを確かめていなかったことに気付いた。

 

「持ってきてくれ」

 

「何をでございます?」

 

「それぞれに使った飴をじゃ。残っておるなら両方とも」

 

 運ばれてきた二つの飴を小皿へ分けて並べてもらうと、違いは思っていた以上に分かりやすかった。一方は薄い褐色で、匙ですくえばゆっくりと糸を引く。もう一方はそれより僅かに濃い色をしていて、同じ量をすくったつもりでも落ち方が少し早い。口へ含めれば、甘さにも違いがあった。どちらも米や麦を使って作った、この時代では普通の飴だ。前世で見慣れた透明で癖の少ない水飴とは違い、穀物の風味も色も残っている。それ自体は分かっていたつもりだったが、「粗い」ということが見た目の違いだけではなく、作る者や出来具合によって甘さや水分まで変わるというところまでは考えていなかった。

 

「これ、同じ値で買っておるのか?」

 

「大きくは違いませぬ。出来の良いものは多少値が上がることもございますが、その時々にございます」

 

「出来の良い悪いは、何で決める」

 

「甘さや色、固さなどを見ておりまする。作る者によっても違いますし、その日の出来にもよります」

 

 料理人にとっては当たり前の話なのだろう。俺だけが、材料として帳面に「水飴」と一行書いた瞬間、それを一つの同じ物だと思い込んでいた。前世なら、同じ名で売られている材料はある程度同じ品質であることを無意識に期待していた。もちろんメーカーが違えば味も違うし、製品ごとの差もある。それでも砂糖百グラムと書けば、その百グラムが昨日とはまるで違う甘さになることまでは考えない。だが、ここではそうではない。誰が、何を使い、どれほど水を加え、どこまで煮詰めたかによって、同じ飴という名前でも中身が違う。それなのに俺は、梅を何匙、米の粉を何匙、水飴を何匙と決めただけで、同じ味を作れるつもりになっていた。

 

「若様?」

 

 千代丸の声で我に返る。

 

「……足りなかったな」

 

「何がでございます?」

 

「量だけ揃えても、元が違えば同じにはならん」

 

 帳面を開き、水飴と書かれた欄を見る。今まで俺は材料の量ばかり記していた。だが、必要なのは量だけではない。少なくともこの飴については、どこから来たものなのか、誰が作ったのか、色はどうか、柔らかさはどうか、その違いまで見なければ、同じ梅酸丸を繰り返し作ることは出来ない。そして、俺が帳面の前でそれを考えている間にも、女甲賀者は二つの飴を黙って見比べていた。

 

「お前」

 

「はい」

 

「この二つを作った者を調べられるか」

 

「出来まする」

 

「名前だけではなく、どこで作り、誰へ売り、普段どのような飴を作っておるかも見てほしい。ただし、何か悪事を探すのではない。作り方が違うのかを知りたいだけじゃ」

 

「承知いたしました」

 

 返事には迷いがなかった。こういう時、三人の中では彼女が一番使いやすい。道そのものを見るなら別の男の方が詳しく、商いの流れや値を追うならもう一人の男の方が向いている。だが、人が何をしているか、何を嫌がり、何を隠しているかを見るのは、この女が一番細かかった。

 

「他の二人にも頼む。飴がどこから入ってくるか、値に違いがあるかを見てもらえ。お前は作る者を見よ」

 

「はい」

 

 数日後、女は二人の飴作りについて調べた結果を持って戻ってきた。一人は城下からそう遠くない場所で昔から飴を作っている男、もう一人は少し離れた村で農の合間に作って商人へ卸している男だった。同じ飴作りといっても暮らし方からして違い、城下の男は飴を作って売ることを主な生業としているのに対し、村の男は米や麦の出来、農作業の忙しさによって作る量が変わるらしい。

 

「作り方は?」

 

「大きくは似ております。ただ、使う米と麦の割合は違います。火へ掛ける時間も、城下の者の方が長うございます。村の者は、飴が柔らかければ別の使い道へ回すので、毎度同じところまで煮詰める必要を感じておらぬようにございます」

 

「本人がそう言ったのか」

 

「いいえ」

 

 女は即座に首を振った。

 

「本人には、飴をどのように売るかを聞きました。それと、買っている商人と近くの者にも話を聞きました。本人は『いつも同じように作っておる』と申しておりましたが、周りは『日によって違う』と」

 

 思わず顔を上げた。

 

「本人は嘘をついたのか?」

 

「そうとは限りませぬ」

 

 女は少し考えてから続ける。

 

「本人にとっては、いつも同じやり方なのでございましょう。ただ、若様が仰る『同じ』とは違うのだと思いまする」

 

 その言葉には妙に納得させられた。

 

 同じ作り方をしているつもりでも、米が違い、火が違い、煮詰まり方が違えば出来上がりは変わる。本人が誤魔化しているわけではない。見ているものが違うのだ。

 

「二人とも呼べるか」

 

「すでに、対馬守様を通せば応じるとの返事を得ておりまする」

 

「……早いな」

 

「呼ばれると思いましたので」

 

 女は何でもないことのように答えた。

 

 思わず少し笑った。俺が何を知りたいのか、以前より先回りして考えるようになっている。

 

「勝手に決めるなよ」

 

「はい」

 

「だが、助かった」

 

 女は一瞬だけこちらを見て、それから静かに頭を下げた。

 

 数日後、観音寺城へ二人の飴作りが呼ばれた。六角家の嫡男から呼び出されたと聞いて、どちらも随分緊張していたので、最初に怒るために呼んだわけではないと伝えるところから始める羽目になった。千代丸はいつものように俺の側へ座り、少し離れた場所には例の女甲賀者も控えている。職人二人にとっては余計に緊張する配置かもしれなかったが、俺としては後で同じ話をもう一度説明するより、最初から聞かせておいた方がよかった。

 

「同じ飴を作ってほしい」

 

 そう言うと、二人とも意味が分からないという顔をした。

 

「同じ……とは?」

 

「甘さも、柔らかさも、出来るだけ同じものじゃ。昨日作ったものと今日作ったものが、なるべく変わらぬようにしたい」

 

 二人が顔を見合わせた。

 

「若様、それは……難しゅうございます」

 

「何故じゃ」

 

「米も麦も、その時々で違いまする。水も違いますし、火も同じにはなりませぬ。暑い日と寒い日でも出来は変わります。見ながら、触りながら作るものにございます」

 

 やはりそうなるか、と少し納得した。俺が求めているのは機械で作った工業製品ではない。材料そのものにばらつきがあり、火加減も温度計で測っているわけではなく、職人の経験で決めている。全てを完全に同じにするのは無理だろう。

 

「なら、完全に同じでなくてよい」

 

 二人がこちらを見る。

 

「今より違いを小さくしたい。どれくらい米を使い、どれくらい麦を使い、どれくらい水を入れ、どこまで煮ればよいか。それを出来るだけ同じにしたら、今よりは揃わぬか?」

 

 城下の男が少し考えてから答えた。

 

「近くはなるかもしれませぬ。ただ、量だけでは……」

 

「他に何を見る」

 

「煮詰め具合にございます。色を見たり、匙から落とした時の伸びを見たり、指へ取って確かめたりいたしまする」

 

 その言葉を聞いて、俺は少し身を乗り出した。

 

「それを教えてくれ」

 

「は?」

 

「どうなれば良い飴なのか。そなたが見ておるものを、全部知りたい」

 

 二人ともさらに困った顔になった。職人の勘を説明しろと言われても難しいのだろう。それは分かる。前世でも、長年同じ仕事をしている人間が「見れば分かる」と言うことは珍しくなかった。だが、俺が欲しいのはその「見れば分かる」の中身だった。

 

 その日から、飴作りを何度か見せてもらうことになった。最初に米や麦をどれほど使ったのかを記す。水をどれくらい入れたのかも残す。煮詰め始めてからどれほど経ったのかを測りたいところだが、正確な時計などないので、香を使ったり日を見る程度しか出来ない。それでも何もしないよりはましだった。火の強さも数字では表せないので、薪をどれくらい使ったか、鍋の中がどんな様子になったところで火を弱めたかを聞く。そして出来た飴を並べ、色、粘り、味を比べる。

 

 そこでも女甲賀者はよく動いた。帳面へ数字を書くのは俺や千代丸の役目だったが、職人がどこで迷ったか、何を「いつもと違う」と感じたのかを聞くのは彼女の方が上手かった。俺が「何故火を弱めた」と聞けば、職人は「頃合いです」としか答えない。それを女が「いつもより泡が細かかったのか」「匙へ取った時に何が違ったのか」と尋ねると、少しずつ具体的な話が出てくる。本人も言葉にしたことがなかったのか、話しているうちに「ああ、それを見ておるのかもしれぬ」と気付くことまであった。

 

 俺はその様子を横で見ながら、少し面白く感じていた。俺は数字へしたい。彼女は言葉を拾う。見ているものは違うが、知りたいことは同じだった。

 

 当然、最初からうまくいくわけではなかった。ほとんど同じ量を使ったつもりでも、出来上がったものには差が出る。作った男は「今日は火が強かった」「こちらの米は水を多く吸った」と言う。その度に帳面へ書き加える。俺にはその全てを理屈で説明することなど出来なかったし、前世の知識から化学的な答えを持ち出すことも出来ない。知っているのは、穀物から甘い飴を作れるという程度だ。だから、目の前で起きたことをそのまま残し、違いが出た時に何が違ったのかを一つずつ聞いていくしかなかった。

 

「若様、そこまでなさるのでございますか」

 

 何日目かに千代丸が呆れたように言った。目の前では飴作りの男が、匙から落ちる飴の伸びを俺たちへ見せている。

 

「梅酸丸の味が変わる方が困る」

 

「少しくらい違っても、食べる者は気付かぬのでは?」

 

「気付かぬ者もおるだろう。だが、前に食べたものが美味かったからもう一度買った者が、今度は違う味だったらどうする」

 

「運が悪かったと思うのでは」

 

「それでは二度と買わぬかもしれん」

 

 千代丸は少し考え込んだ。

 

「同じものを買ったのだから、同じ味がすると思う、と」

 

「ああ。少なくとも、なるべくそうしたい」

 

 すると、少し離れたところから女の声がした。

 

「先日の荷運びの者も、同じようなことを申しておりました」

 

「何と?」

 

「『前の方が美味かった』と。怒ってはおりませなんだが、次は別のものでもよいとも」

 

 それは俺が一番嫌な答えだった。

 

「一度違っただけでか」

 

「一度違ったからこそ、かもしれませぬ。前と同じだと思って買ったのでしょう」

 

 その言葉で、俺が揃えたいものの意味が少しはっきりした。単に自分が計算しやすくするためではない。買う側が「前と同じものだ」と思えることも大事なのだ。一度食べて気に入り、また買う。その時に味が大きく違えば、前回の経験が次の買い物へ繋がらない。何度も買ってもらいたいなら、同じ名前の商品はある程度同じでなければならない。

 

 梅酸丸の大きさを揃えようとした時には、材料費を計算しやすくするためだと思っていた。だが今では、それ以上の意味があるように思えた。同じ大きさ、似た味、同じくらいの固さ。同じ銭を払えば、昨日と大きく変わらないものが手に入る。その安心そのものに価値があるのかもしれない。

 

 だからといって、職人を帳面通りにしか動かさないつもりはなかった。実際に飴を作っている者の方が、俺より遥かに詳しい。米の状態を見て水を変えることもあれば、火の様子を見て煮る時間を変えることもある。その判断を全部捨てて「この量、この時間だけ守れ」と命じれば、かえって出来が悪くなるだろう。

 

 必要なのは、勘を無くすことではない。勘だけにしないことだった。職人がどこを見て判断しているのか、どの程度なら使えると考え、どこから先を出来の悪いものとして弾くのか。その境目だけでも残せれば、作る者が変わった時に何も分からないところから始めずに済む。

 

「この辺りならよい、という幅を決められぬか」

 

 ある日、俺は飴作りの二人へ尋ねた。

 

「幅、でございますか」

 

「ああ。これより柔らかければ梅酸丸には向かぬ。これより固くても向かぬ。色も、このくらいからこのくらいまでならよい。そういう決め方じゃ」

 

 一つの正しい飴を作れと言うから難しい。ならば、使える範囲を決めればいい。全く同じではなくても、その範囲へ入っていれば梅酸丸の味は大きく変わらない。そこまでなら職人の違いも残せる。

 

 二人は目の前に並べた幾つかの飴を見比べながら、これは柔らか過ぎる、こちらは煮詰め過ぎている、これは使える、と分け始めた。俺はその結果を帳面へ残し、それぞれで梅酸丸を作らせ、今度は出来上がった菓子の味を比べた。完全に同じにはならなかったが、最初に食べ比べた二つほど大きな差は出なくなった。千代丸にも何も説明せず食べてもらうと、「同じとまでは申しませぬが、随分似ております」と答えたので、それで十分だと思った。昨日と今日が寸分違わず同じである必要はない。食べた者が別の菓子だと思うほど違わなければ、今のところはそれでいい。

 

 その後は、梅酸丸へ使う飴について、誰が作ったものなのか、どの程度の固さなのか、色や粘りが決めた範囲へ入っているかを簡単に記録するようにした。作り手を一人へ絞ることはしなかった。一人だけへ頼れば、確かに味を揃えやすくなるかもしれないが、その者が病になったり、米が足りなくなったりすれば梅酸丸そのものが作れなくなる。それに、数を増やした時に一人へ全ての負担を押し付けることにもなる。二人、三人と作れる者を残し、その者たちの間で「梅酸丸へ使える飴」がどの辺りなのかを共有した方が、長く続けるには都合がよいと思った。

 

 ところが、味のばらつきが小さくなり、これなら一つ問題を越えられたと思い始めた頃、今度は別のところから話が返ってきた。それを持ってきたのも、対馬守ではなく例の女だった。

 

「若様。飴を作っております者のうち二人が、今の値では続けにくいと申しております」

 

 その言葉に帳面から顔を上げた。

 

「米か麦が上がったのか」

 

「いいえ」

 

「なら何故じゃ」

 

「若様が決められた飴を作るためでございます」

 

 意味が分からず、続きを促す。

 

「今までなら、その日の出来で売っておりました。少し柔らかくとも、色が濃くとも、それを買う者がおります。ですが梅酸丸へ使う飴は、若様の決められたところへ入らなければ買ってもらえない。何度か作り直す者もおりますし、良いところへ入るよう以前より火を見ている時間も長いそうにございます」

 

「本人たちがそう申したのか」

 

「一人は直接。もう一人は、最初は言いませなんだ」

 

「なら、どうして分かった」

 

「その者の妻が、最近は飴の鍋の前から離れられぬ時間が長くなったと愚痴を申しておりました」

 

 思わず黙った。

 

 俺が帳面へ書いていないところから、また一つ話が出てきた。

 

「その者は値を上げろと言ったか」

 

「いいえ。若様から頼まれているものだから、と」

 

 それが一番困る。

 

 俺が六角の嫡男だから、言いたいことを言わない。以前、商人へ梅酸丸を置いた時に警戒したことと同じだった。

 

「他の者は?」

 

「一人は今のままでよいと申しております。ただし、今より多く作るなら別だとも」

 

 三人とも同じではない。元々の作り方、他の売り先、飴作りを本業にしているか農の合間にしているか。それぞれ条件が違うのだから、同じ要求を受けても負担まで同じになるわけではない。ここでも「飴作り」という一つの言葉で全員をまとめて考えるべきではないのだろう。

 

「対馬守には」

 

「まだ申し上げておりませぬ。まず若様へと」

 

 そこで少し考えた。

 

「何故俺へ先に持ってきた」

 

 女は僅かに目を伏せた。

 

「若様が、御自分の目が欲しいと仰ったからにございます」

 

 一瞬、言葉が出なかった。

 

 俺自身が以前言ったことだった。

 

 父上や対馬守を通した情報ではなく、自分の近くで、自分へ直接届く目が欲しい。

 

 それをこの女は覚えていたらしい。

 

「そうか」

 

「差し出がましかったのであれば――」

 

「いや」

 

 首を振る。

 

「そのままでよい」

 

 むしろ、こういう情報こそ俺が欲しかったものだった。表立って苦情として上がってくる前の、不満ともまだ呼べない小さな違和感。本人が口へ出さないこと。家族や周囲の者の方が気付いていること。そういうものは帳面だけを見ていても拾えない。

 

「値は上げる」

 

「よろしいので?」

 

「ああ。ただし、何となく高く買うのではない。こちらで決めた範囲へ入る飴については、その分を上乗せする。今は値を上げなくてよいと言っている者についても、量を増やす時にはもう一度聞け。それと――」

 

「はい」

 

「今後、こういうことがあったら先に持ってこい。本人が言わぬことも含めてじゃ」

 

 女が俺を見る。

 

「私が、でございますか」

 

「ああ。三人の中で、お前が一番人を見ておる」

 

 口にしてから、少しだけ考えた。

 

「ただし、三人の報告を勝手に一つへまとめるな。誰が何を見て、誰から何を聞いたのかは分けて持ってこい。お前の考えと、他の二人が見た事実も混ぜるな」

 

 女は一瞬黙った後、深く頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

 そこから少しずつ、三人の使い方も変わっていった。道や荷の流れを見る男、商人や値を追う男、そして人の言葉や様子を拾う女。それぞれが別々に俺へ報告する形は残したが、急いで知らせるべきもの、三人の話を並べた方がよいものについては、女が最初に持ってくることが増えた。俺が彼女へ他の二人を指図する権限を与えたわけではないし、三人の頭にしたつもりもない。ただ、俺との間を繋ぐ役としては、自然と彼女が最も近い場所へ来るようになった。

 

 その日の夜、俺は梅酸丸の帳面へ新しい数字を書き加えた。飴の買値が上がった分だけ、一個当たりに掛かる銭も僅かに増える。今までの売値を変えなければ、当然こちらへ残る銭は減る。だが、その分だけ味のばらつきが小さくなり、二度目、三度目と買う者が増えるのであれば、目先の利益が減ったからといって損だとは言い切れない。反対に、利益を守ろうとしてすぐに売値を上げれば、今度は旅人や荷運びの者が買わなくなるかもしれない。材料の質、作り手の手間、売値、買う者の数、最後に残る銭は全て繋がっていて、どこか一つだけを良くして終わる話ではなかった。

 

 そして、その帳面の横には、甲賀の三人から上がってきた報告が置かれている。飴を運ぶ道、商人が払っている値、作り手の家で漏れた愚痴。同じ梅酸丸について調べていても、三人が拾ってくるものはまるで違う。もし一人だけを使っていたなら、俺はその一人が見た世界だけを全てだと思っていたかもしれない。三人いるから違いが分かり、その違いがあるから何を見落としているのかを考えられる。

 

 そこで、ふと妙なことに気付いた。

 

 梅酸丸でやっていることと、甲賀の三人でやっていることは、思っていたより近い。

 

 飴は作る者によって出来が違う。

 

 報告も、見る者によって違う。

 

 だからといって、どちらか一方を正しいとして他を捨てるのではなく、何が違うのかを見なければならない。梅酸丸では、味を完全に一つへ揃えるのではなく、「この範囲なら使える」という幅を決めた。情報も同じなのかもしれない。全員へ同じことを見ろと命じれば、それぞれの得意な目を潰すことになる。それよりも、報告の形だけをある程度揃え、誰が、どこで、いつ、何を見て、何を聞いたのかを残しておけば、違う目で見たものを並べられる。

 

 翌日、三人を呼んだ。

 

 女が一番近くへ座り、残る二人がその横へ並ぶ。まだ三人とも対馬守の目の届くところにいる者であり、完全に俺だけの忍になったわけではない。それでも、以前と比べれば俺から直接頼むことは増えていた。

 

「これから、報告する時に残してほしいものがある」

 

 三人がこちらを見る。

 

「まず、いつ見たのか。どこで見たのか。誰から聞いたのか。自分で見たことなのか、人から聞いた話なのか。それから、確かだと思うことと、そうではないものを分けてほしい」

 

 道を見る男が眉を寄せた。

 

「今まででも、そのようにはしておりまするが」

 

「ああ。しておる。だが三人で書き方が違う」

 

 目の前へ三つの報告を置く。

 

 一人は結論から書く。

 

 一人は見た順に書く。

 

 女は相手の言葉を多く残す。

 

 どれが悪いわけではない。むしろ、それぞれの癖があるから拾えるものも違う。だが、後で並べる時には少し手間が掛かる。

 

「中身を同じにせよとは言わぬ。見るものも変えなくてよい。ただ、初めに何を見た報告なのか分かるようにしてほしい」

 

 女が小さく頷いた。

 

「梅酸丸と同じでございますか」

 

 思わず彼女を見る。

 

「分かるか」

 

「同じ味にするために、全て同じ作り方へするのではなく、守るところだけ決めておられました」

 

「……そうじゃ」

 

 少し悔しいが、俺より先に言われた。

 

「その通りじゃ。お前たちを同じ目にはせぬ。道を見る者は道を見ればよい。商いを見る者は銭と人の流れを見ればよい。お前は人を見よ。ただし、俺が三つを並べた時、どこが同じでどこが違うのか分かる形で持ってきてほしい」

 

 女が頭を下げる。

 

「承知いたしました」

 

「それと、お前」

 

「はい」

 

「三人の中で、俺へ持ってくる役をしてくれ」

 

 残る二人が女を見る。

 

 本人も少し驚いたらしい。

 

「私が、でございますか」

 

「ああ。ただし頭ではない。二人へ命令せよとも言わぬ。急ぐものがあれば先に持ってこい。三つ揃ってから見せた方がよいものなら、揃えて持ってこい。だが、自分に都合よく削るな」

 

「いたしませぬ」

 

「ならよい」

 

 それだけのことだった。

 

 役職を与えたわけではない。

 

 特別な名を付けたわけでもない。

 

 それでも、その日から少しだけ何かが変わった。

 

 女は以前より俺の近くへ来るようになった。報告を持ってくる回数が増え、俺が何を知りたがるのかを尋ねることも増えた。俺もまた、三人へ同じ命令を出すのではなく、それぞれの得意なものを考えて頼むようになった。

 

 道を見る者には、人や荷がどちらへ流れたかを。

 

 商いを見る者には、値と売れ方を。

 

 女には、その間にいる人間が何を考えているのかを。

 

 もちろん、それだけで全てが分かるわけではない。むしろ、三つの報告が食い違うことも増えた。同じ市を見ているはずなのに、一人は「人が増えた」と言い、別の一人は「商いは増えていない」と言い、女は「見物する者が増えただけ」と持ってくる。最初なら、どれが正しいのかと迷ったかもしれない。今は、三つとも正しいこともあるのだと思える。

 

 人が増えた。

 

 だが買う者は増えていない。

 

 珍しい菓子を見に来ただけの者がいる。

 

 数字だけなら一つに見える変化でも、見る場所を変えれば意味が違う。

 

 梅酸丸の味を揃えるために、俺は職人の違いを消すのではなく、違いを残したまま使える範囲を決めた。甲賀の三人も同じだ。三人を同じように動かすのではなく、それぞれ違う目を持ったまま、報告の形だけを少し揃える。

 

 その方が、俺には使いやすい。

 

 そして、その三つの目を俺のところまで繋ぐ役を、今はあの女がしている。

 

 ある夕方、彼女が一人で報告を持ってきた。梅酸丸の売れ方とは別に、市の外れで米を買い集める商人が少し増えたという話だった。

 

「梅酸丸とは関係ないぞ」

 

「はい」

 

「なら、何故持ってきた」

 

「若様は、関係があるかないかを御自分で決めると仰いました」

 

 以前、噂を調べていた時のことだった。

 

 自分たちで結論を決めず、見たものを持ってこい。

 

 俺が言った。

 

「……よく覚えておるな」

 

「若様のお言葉ですので」

 

「全部覚えられても困る」

 

 女はほんの少しだけ笑ったように見えた。

 

「ならば、忘れた方がよいものは仰ってください」

 

「それも困る」

 

 思わず笑った。

 

 千代丸とは違う。

 

 父上とも違う。

 

 対馬守とも違う。

 

 この女との距離も、少しずつ形を持ち始めているのかもしれない。

 

 机の上には、最初に作った頃と比べれば随分形の揃った梅酸丸が並び、その横には三人分の報告が置かれていた。色も完全には同じではない。それでも、どれを口へ入れても最初に穏やかな甘みが広がり、その後から梅の酸味と塩気が追ってくる。報告の方も同じで、書いた者によって目の付けどころは違うが、いつ、どこで、何を見たのかは以前よりずっと追いやすくなっていた。

 

 千代丸が梅酸丸を一つ摘まみ、何気なく口へ入れた。

 

「若様。最近は、どれを食べても同じような味がいたしますな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、思わず口元が緩んだ。

 

「それが一番聞きたかった」

 

「美味いと言われるより、でございますか?」

 

「今はな。美味いものなら、運が良ければ一度は作れるかもしれん。だが、一度美味かったものを、次も、その次も、別の者が作っても大きく変わらぬようにする方が難しい」

 

 千代丸は梅酸丸をもう一つ手に取りながら、なるほどと小さく頷いた。俺自身も、口に出して初めて考えがはっきりした気がした。俺が目指していたのは、俺自身が毎回そばに立ち、材料を量り、鍋を覗き、出来上がったものを一つずつ食べて合格を出さなければ成立しない商いではない。料理人が変わっても、飴を作る者が変わっても、決めた範囲を守り、記録を見て、違いが出た時にはその原因を探せる形にしたいのだ。そうしなければ、梅酸丸はいつまでも俺が一つ一つ面倒を見なければ続かない。

 

 それは、甲賀の三人にも同じことが言える。俺が毎回細かな指示を出さなければ動けないのでは意味がない。何を見るべきかを理解し、それぞれの得意な目で見て、必要な形で戻してくる。そして、俺へ届く途中で情報が消えないようにする。そのための繋ぎとして、あの女が少しずつ役割を持ち始めていた。

 

 俺一人が知っていることには限界があるし、俺一人が見られるものにも限界がある。だったら、自分がその場にいなくても同じことを続けられる形を残せばいい。誰か一人の記憶や勘だけへ頼らず、何を見て、どこまでなら良しとし、違った時には何を確かめるのかを残しておけば、次の者がそこから始められる。もちろん帳面へ書けば全て解決するほど簡単ではない。それでも、何も残さず「上手い者に任せる」よりは、少しずつ同じ場所から始められる。

 

 その考えは、梅酸丸だけに使えるものではないような気がした。今はまだ、飴と梅を混ぜた小さな菓子と、たった三人の甲賀者で試しているだけだ。けれど、人が変わっても同じように出来る形を作ること、出来たものを記録し、比べ、必要なら直すことは、商い以外にも使えるのではないか。兵を集める時、荷を運ぶ時、関で人や物を数える時。そして、人から情報を集める時にも。

 

 その日の最後に帳面を閉じる前、俺は余白へ短く一つだけ書き残した。

 

 ――同じように出来る形を残す。

 

 その横には、女甲賀者が持ってきた報告が置かれていた。

 

 目の前にあるのは、まだ小さな梅酸丸と、三人の忍だけだ。

 

 けれど、そのどちらも、俺がいなくても動き続ける形へ変わり始めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。