淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第十八話「二つの道」

 梅酸丸の売れ方を記した帳面とは別に、机の上にはもう一冊、なかなか閉じることの出来ない帳面が残っていた。三年前に関銭を変えた時から付け始めた、人と荷の動きを記したものだ。最初に開いた頃は、増えた商人の数を見るたびに自分の考えが当たったような気になっていた。それが今では、同じ数字の横にまるで別のものが見える。人が減った道には、空いた宿があり、使われなくなった馬がいて、仕事を失った荷運びの男がいた。逆に、人が増えた道の数字を見れば、まだ顔を知らない宿の主人や、新しく馬を扱い始めた者、その道を通る商人を相手に食を売る者たちがいるはずだった。一方の数字が減ったからといって、もう一方から数字を引き剥がして戻せばよいわけではない。そのことだけは、市から戻ってきた日以来、嫌というほど頭に残っている。

 

 噂そのものは止まった。道が危険だという嘘を広めていた荷運びの男たちには、これ以上同じことをして商人を他の道から奪うことは許さないと伝えてある。もしまた同じことをすれば、その時は生活が苦しいという理由だけで済ませるつもりもない。だが、噂を止めれば仕事まで戻ってくるわけではなかった。むしろ嘘を使ってでも人を呼び戻そうとした理由が分かったことで、問題の方が以前より大きく見えるようになったと言っていい。三年前には「通る商人が増えた」というところで見るのを止め、今度は「減った側が苦しんでいる」と知った。ここで可哀想だからと流れを元へ戻せば、今度は三年間の間に新しい道の上で暮らしを作った者たちを同じ目に遭わせる。父上から言われた「今日見たものだけが全てではない」という言葉は、帳面を開くたびに思い出された。

 

 そこで、次に見るべきものは最初から決まっていた。旧い道の側をもう一度詳しく見ること。そして、それと同じくらい、新しく商人が流れるようになった道を見ることだ。以前なら対馬守へ頼み、適当な者を動かしてもらっていたと思う。今も三雲対馬守の助けなしに何でも出来るわけではないが、俺の近くにはすでに三人、直接頼める甲賀者がいる。一人は人の表情や言葉、その場の空気を見ることが上手い若い女。一人は道や地形、人や馬の跡を辿ることを得意とする男。もう一人は商人や人足へ紛れ、値や荷、噂の動きを拾うのが上手い男だ。何度も使っているうちに誰へ何を頼めばよいのかは分かるようになってきたが、考えてみれば俺はまだ三人を役目でしか見ておらず、まともに名を聞いたことすらなかった。

 

 三人を前にして、まず机の上へ二枚の簡単な絵図を広げた。一枚は人が減った道と市場、その周囲の村や脇道を書いたもの。もう一枚は三年前から荷の流れが増えている方の道だ。精密な地図などではない。俺自身が現地で見たものと、以前三人から聞いた話を書き足した程度だが、二つを並べてみるだけでも片方だけ見ていた時とは違う。若い女は二枚の絵図を順に見た後でこちらへ視線を戻し、道を見る男は何も言わず道筋と周辺の村を目で追っている。商いを見る男だけが、俺が二つを並べた意味を測るように少し眉を上げた。

 

「今回は、両方を見る」

 

「どちらが良いかを比べるのでございますか」

 

 商いを見る男が尋ねる。声には疑問が混じっていたが、反対しているわけではないらしく、視線は絵図から離れていない。

 

「違う。どちらを通らせるべきかを決めたいのではない。何故、今そちらを通っておるのかを知りたい。それと、こちらには今も何が残っておるのかを知りたい」

 

 男の眉が僅かに寄る。俺の言い方ではまだ曖昧だったのだろう。

 

「商人が新しい方を使う理由なら、以前も見ておりまする。関で掛かる銭が少なく、道もそう悪くない。それだけでも十分かと」

 

「ああ。だが三年経った。今も同じ理由だけで通っておるとは限らぬだろう。三年前は安いから道を変えた。しかし今では、その道に宿が出来たから使う者もいるかもしれん。馬を替えられるからかもしれん。知った商人がいるからかもしれん。一度変わった後に出来た理由まで見たい」

 

 そこまで説明すると、男の眉間にあった皺が少し解け、今度は考えるように絵図へ目を落とした。

 

「承知いたしました」

 

「お前は商人を見てくれ。新しい道を使う理由、途中で何を買い、どこで休み、何に銭を払っているか。それと、旧い道へ戻るとしたら、何があればわざわざ寄るのかも聞いてほしい。『若様が戻せと言っている』などとは絶対に言うなよ」

 

 商いを見る男の口元がほんの少し緩んだ。

 

「申せば皆、戻ると答えましょうな」

 

「それでは何も分からん」

 

「左様にございます」

 

 次に道を見る男へ視線を移す。相変わらず表情の変化は少ないが、自分の番だと分かっていたらしく、俺が口を開く前から僅かに背筋を伸ばした。

 

「お前は道そのものを見てくれ。二つの道だけではない。旧い市場から周囲の村へ出る小さな道もじゃ。馬が通れるか、人が荷を背負えばどこまで行けるか、雨の後に使えなくなる場所があるか。それと、旧い市場に残っている馬や人足がどれくらい動けるかも知りたい」

 

「新しい道との速さも比べまするか」

 

「ああ。ただし、速い方を決めるためだけではない。どこへ行くならどちらが便利かを見てくれ」

 

 男は一度だけ頷いた。それ以上は聞かなかったので、話は通じたらしい。

 

 最後に若い女を見ると、こちらが何を頼むのかすでに予想しているのか、静かな顔のまま俺を見返していた。三人の中でも特に表情の変化が小さい女だが、何かを考えている時には僅かに瞬きが減ることには、最近になって気付き始めていた。

 

「お前は人じゃ。旧い市場と新しい道の両方へ行け。今困っていること、逆に三年前より良くなったことを聞いてほしい。ただし、こちらが何か助けると期待させるな」

 

「何故にございます?」

 

「期待して話す者と、何もないと思って話す者では、言うことが変わるかもしれん」

 

 女の目が僅かに細くなった。笑ったのではなく、意味を確かめるような顔だった。

 

「若様がお越しになった時と同じ、ということでございますか」

 

「……そうじゃな」

 

 痛いところを突かれた。

 

「俺が行けば、皆が俺に見せたい顔をする。お前なら俺よりはましであろう」

 

「若様よりは」

 

「そこはもう少し遠慮してもよいぞ」

 

 商いを見る男の口元が動き、道を見る男まで僅かに視線を逸らした。どうやら二人とも笑いを堪えたらしい。女だけは相変わらず澄ました顔をしていたが、それでもほんの僅かに口元が柔らかくなっていた。

 

 三人を送り出してから数日間、俺は梅酸丸の帳面を見ながら待った。何もせずにいたわけではない。旧い市場について以前集めた話をもう一度並べ、宿が何軒残っているか、馬を扱える者が何人いるか、人足のうち農へ戻った者がどれほどいるか、近くの村でどんな物が作られているのかを書き直した。最初に調べた時には「失ったもの」ばかりを見ていたが、今回は「まだ残っているもの」を分けて書いた。宿は客が減っているが建物は残っている。馬は以前ほど多くないが、扱える者はいる。人足の中には農へ戻った者も多いが、忙しい時なら荷を運べる者がいる。周囲の村には米だけでなく、薪や炭、麻、菜、桶や木の道具など、それぞれ少量ずつではあっても外へ売れるものがある。ただし、それらは一つの村だけでは商人がわざわざ寄るほどの量にならず、村ごとに売る相手を探しているらしい。そこまで書いたところで、一つ気になる形が見え始めた。

 

 最初に戻ってきたのは道を見る男だった。夕方、部屋へ入ってきた時もいつもと変わらず無駄のない動きで座ったが、膝元の草履に乾いた泥が残っており、本当に道を歩き回ってきたことが分かる。こちらが促すと、男は旧道、新道、その周囲の脇道を順に説明した。

 

「新しい道は、やはり通り抜けるには早うございます。大きな荷を持つ商人も、こちらの方を好みまする。道沿いに馬を替えられるところが二つ増え、以前は無かった宿もございます」

 

「三年前には無かったものか」

 

「はい。特に一つは、近くの者が商人相手に始めたものにございます。今では人足も幾人かおりまする」

 

 やはり新しい道は、単に関銭が安いから使われているだけではなくなっていた。人が通ったことで宿が生まれ、馬を替えられるようになり、人足まで集まり、それらがさらに商人を呼ぶ理由になっている。一度生まれた流れが、自分で次の理由を作っていた。

 

「旧い方は?」

 

「通り抜けるだけなら不利にございます。ただし――」

 

 男が絵図の一点を指した。節の浮いた指先が旧市場から三方向へ伸びる細い線を順に辿っていく。

 

「この市場から三方へ小道が延びておりまする。こちらは山寄りの村、こちらは田の多い村、もう一つは湖へ出る道に繋がります。大荷を遠くへ運ぶには向きませぬが、近くの荷を集めるなら悪くありませぬ。以前人足をしていた者も、その辺りの道には詳しゅうございます」

 

「馬は?」

 

「大きな荷車は難しゅうございますが、馬なら通れるところが多い。雨が続けば一部使いにくくなりまする」

 

 男の指が旧市場を中心に三方向へ動く。それを見ていると、一本の街道として比較するから旧い方が負けて見えるだけで、市場そのものには別の使い道があるように思えてきた。遠くから来た商人をそのまま通す道としては新道に劣る。しかし周囲の村から細かく荷を集める場所として見るなら、複数の小道が集まることそのものが利点になる。

 

「つまり、遠くへ抜ける道としては新しい方。近くから物を集めるなら旧い市場にも利がある、と」

 

「某が見た限りでは」

 

 男はそこで言葉を止めた。言い切らず、自分が見た範囲を越えて断定しない。それは以前から変わらない癖で、この男へ道や現場を任せやすい理由の一つでもあった。

 

「分かった。残る二人が戻るまで待とう」

 

 商いを見る男が戻ったのは翌日だった。部屋へ入ってきた時から口元に僅かな笑みが浮かんでおり、何か面白い話を拾ってきたらしいことはすぐ分かった。商人十数人ほどへ、直接尋ねるだけでなく別の商いの話へ混ぜながら、二つの道について聞いてきたという。

 

「新しい道を使う理由は、若様が仰った通り、今は関銭だけではございませぬ。宿が出来、馬を替えられ、どこで休めばよいか皆が知っております。一度使い慣れた道を、理由も無く変える者は少のうございます」

 

「旧い道へ戻りたい者はいなかったか」

 

「戻りたい、という者はほとんど。ですが――」

 

 男の口元が僅かに上がった。

 

「旧い市場へ寄る理由があれば寄る、とは申しておりまする」

 

「どういう理由じゃ」

 

「物にございます。近くの村の物を買う商人はおります。ただ、一つの村で欲しい物が揃うとは限りませぬ。薪を買うために一村、麻を買うために別の村、桶や木の器を見るためにさらに別のところへ回るくらいなら、初めから大きな市へ行った方が早い。ところが一か所へ集まっているなら、話は変わると」

 

「どれくらい集まれば寄る」

 

「それは商人によって違いまする。そこまで某が決めてはなりませぬので、数までは申し上げられませぬ」

 

 男の言い方に少し満足した。以前なら「皆が寄ると言っていた」とまとめられていたかもしれない。今は自分が実際に聞いたことと、自分の考えを分けようとしている。その違いは小さいようで、俺が後から判断する時には大きい。

 

「他には?」

 

「馬と人足ですな。荷を買っても自分の荷駄だけでは足りぬことがございます。その場で馬や運ぶ者を雇えるなら便利だと。旧い市場には、それがまだ残っておりまする」

 

 そこで、道を見る男の報告と繋がった。

 

「新しい道の商人を旧い道へ通らせる必要はないのかもしれんな」

 

 思わず口にすると、男が少し目を細める。

 

「と申されますと?」

 

「新しい道を通ったままでも、必要な時だけ旧い市場へ寄ればよい。あるいは旧い市場から荷を新しい道へ持っていけばよい」

 

 街道そのものを取り戻す必要はない。旧い市場に「通過する場所」以外の意味を持たせればいい。ただ、それを決める前に、まだ一つ足りないものがあった。

 

「女の話を聞いてからじゃな」

 

 若い女が帰ってきたのは、その二日後だった。普段なら戻ればすぐ報告を始めるのに、その日は座ってから少しだけ間があった。表情そのものは大きく変わっていないが、目線が一度だけ膝元へ落ち、口を開くまでの間も普段より長い。何をどう伝えるか選んでいるのだろう。

 

「何かあったか」

 

「難しい、と感じました」

 

 この女が自分の感想を先に言うのは珍しかった。

 

「何がじゃ」

 

「旧い市場の者と、新しい道の者が、互いに相手を気にしておりまする」

 

「争っておるのか」

 

「そこまでではございませぬ」

 

 女は小さく首を振り、こちらの反応を確かめるように一度目を上げてから続けた。

 

「旧い市場では、『新しい方へ皆持っていかれた』と申す者がおります。新しい道では、『若様が旧い方を助けるため、こちらから人を戻すのではないか』と心配しておる者がございました」

 

 やはりそうなるか。

 

「誰から聞いた」

 

「旧い市場では宿の女房、人足をやめて畑へ戻った男、馬を扱う家の息子。新しい方では、宿を始めた男と、その近くで飯を出す女にございます。ただし、皆がそう思っているとは申しませぬ」

 

「分かっておる。それでいい」

 

 俺がそう答えると、女の目元からほんの少し力が抜けた。自分の報告を全体の意見として受け取られることを警戒していたのかもしれない。

 

「他には?」

 

「旧い市場の者も、皆が昔へ戻したいわけではございませぬ」

 

 そこは予想と少し違った。

 

「どういうことじゃ」

 

「人が減った後、畑へ戻った者は、今さら毎日荷を担ぐ暮らしへ戻りたくはないと申しておりました。宿の女房も、昔ほど人が来なくてもよいから、今より少し客が増えれば十分だと。馬を扱う家では、以前ほど多くは飼えぬが、今いる馬を働かせる口が欲しいと」

 

 俺は黙って聞いた。旧い市場を「衰退した場所」と一括りにしていたが、そこに住む者たちも同じではない。完全な復活を望む者もいれば、生活の一部だけ戻ればよい者もいる。すでに別の暮らしへ移り、三年前そのままの生活へ戻る方が困る者までいる。

 

「新しい方は?」

 

「今の流れを奪われたくない、というところは共通しております。ただ、旧い市場で近在の物を集めることについては、特に嫌がってはおりませぬ。むしろ、新しい道の宿の男は『こちらまで持ってくるなら買う商人もいるだろう』と申しました」

 

「……なるほど」

 

 女がそこで俺の顔を真っ直ぐ見た。

 

「若様」

 

「なんじゃ」

 

「元へ戻されるおつもりは、もうございませぬか」

 

 問い掛けながら、女はほとんど表情を変えていなかった。ただ、いつもより視線が強く、こちらの答えをただの報告以上の意味で確かめようとしているのは分かった。

 

「ない」

 

 今回は迷わず答えられた。

 

「三年前へは戻さぬ。新しい道で暮らし始めた者まで、同じ目に遭わせることになる」

 

 その答えを聞くと、女の肩が僅かに下がった。緊張していたつもりは本人にはなかったのかもしれないが、少なくとも俺にはそう見えた。

 

「では、旧い市場は?」

 

「別の役目を作る」

 

 その日の夕方、三人の報告を並べ、俺は千代丸と一緒に帳面へ書き直した。新しい道は遠くへ抜ける商人に向き、宿や馬替えまで出来るようになっている。そこから流れを奪う理由はない。一方、旧い市場は遠くへ抜けるには不利だが、周囲の村へ複数の小道が繋がり、宿、馬、人足が完全には消えていない。周囲には少量ずつ外へ売れる物もある。ならば、旧い市場へ必要なのは「もう一度皆に通ってもらうこと」ではなく、「近くの物をそこへ持ってくる理由」と「そこから運び出せる仕組み」ではないか。

 

「若様、市場へ物を集めれば、それで商人が来るのでしょうか」

 

 帳面を覗き込んでいた千代丸が眉を寄せる。俺が答えを持っていると思っている顔だった。

 

「分からん」

 

「……随分あっさり申されますな」

 

「分からぬから試す」

 

 千代丸は一瞬呆れたような顔をした後、「またでございますか」と小さく笑った。

 

「いきなり大きくはせぬ。近くの村へ、余って売りたいものがあれば決めた日に市場へ持ってきてもらう。毎日では人も物も散る。まず日を決める。その日に何が来るかを商いを見る者から商人へ知らせる。ただし、買えとは言わぬ」

 

「馬と人足は?」

 

「市場で頼めるようにする。荷を買った商人が自分で全部運べないなら、そこから新しい道へ運ぶ仕事を旧い市場の者が取れる」

 

 言葉にしながら、形が少しずつ固まっていく。旧い市場を、もう一度「通る場所」に戻すのではない。「集める場所」にする。周囲の村から少しずつ出る荷を一か所へ集め、商人がまとめて見られるようにする。宿は遠くから来た者だけでなく、荷を待つ者や翌朝出る者が使える。馬と人足は、集めた荷を新しい道や別の村まで運ぶ。新しい道を敵にするのではなく、むしろそこへ荷を繋げる。

 

 もちろん、頭の中では綺麗に繋がっても、実際に人が動くかは別の話だった。だから父上へ話を持っていった時も、成功するとは言わなかった。

 

「試したいことがございます」

 

 そう切り出すと、父上は俺が持ってきた帳面へ一度だけ目を落とし、何も言わず続きを促した。以前ならすぐ何をするのか聞かれた気がするが、最近は俺が最後まで話すのを待つことが増えたように思う。

 

 新しい道から人を戻さないこと。旧い市場の周囲から物を集める日を設けること。その日に合わせて商人へ何が集まるかを知らせること。旧い市場に残る馬と人足を、荷を運ぶ仕事へ使うこと。まずは数度だけ試し、物が集まらなければやめる。商人が来なければ別の理由を探す。新しい道の宿や商いが減るほど流れが変わるなら、それも見る。

 

 一通り聞いた父上は、しばらく帳面の上へ視線を落としていた。右手の指で膝を二度ほど叩き、それから顔を上げる。

 

「そなたは、旧い市場を助けたいのか」

 

 思っていたのとは違う質問だった。

 

「助けたいとは思います」

 

「ならば、何故もっと人を戻さぬ。六角から命じれば、商人の幾らかは旧い道を通ろう」

 

「それでは、また同じことになりまする」

 

 父上の目が僅かに細くなる。

 

「同じとは?」

 

「今度は新しい道の者が、三年前の旧い市場と同じになります。私が動かした人の流れを、都合が悪くなったからまた動かす。それでは、どちらも私の気分次第で暮らしが変わりまする」

 

 言い終えると、父上の口元がほんの僅かに動いた。笑ったのか、それとも何かを評価したのかは分からない。

 

「では、何をする」

 

「選ばせまする。旧い市場へ物を持ってくるかは村の者が決める。寄るかは商人が決める。馬や人足を使うかも同じです。ただ、今は互いに物があることを知らぬ。そこを繋ぐところだけ試します」

 

「六角は何もせぬのか」

 

「場所を使う許しと、最初の知らせを出すこと。それから邪魔をする者が出れば止めること。それくらいにしたく」

 

 父上は今度こそ僅かに笑った。

 

「随分と慎重になったものじゃ」

 

「三年前に一度失敗しておりますので」

 

「失敗か」

 

「少なくとも、成功だけではございませんでした」

 

 父上はその言葉にすぐ返さず、少し長く俺を見た。その顔には以前のような試す鋭さより、何かを確かめるような静かな色があった。

 

「やってみよ」

 

「よろしいので?」

 

「小さく試すのであろう。ならば結果を持ってこい。ただし――」

 

 来ると思った。

 

「旧い方だけ見るな」

 

「はい」

 

「新しい道の方も数えよ。宿の客、馬、人足。そなたがこちらへ何かを足したことで、向こうから何かを奪っておらぬか見よ」

 

「承知いたしました」

 

 そこから最初の試しまでには、さらに十日ほど掛かった。近くの村へ「この日に売りたい物があれば市場へ持ってきてよい」と伝えるだけでも、最初は随分疑われたらしい。新しい税を取るのではないか、持っていけば六角に安く買われるのではないか、そもそも本当に商人が来るのか。若い女が拾ってきた話には、期待より警戒の方が多かった。それは当然だと思ったので、こちらから無理に集めることはしなかった。最初に持ってくると決めた者の品だけ商いを見る男に知らせ、それを普段からその品を扱う商人へ伝える。道を見る男には市場までの小道で壊れているところや、馬が通りにくい箇所だけ確認させた。大きな道普請まで始めれば試しではなくなるので、人が少し手を入れれば済むところだけ直した。

 

 最初の日に集まった物は、正直に言えば拍子抜けするほど少なかった。薪、炭、麻、干した菜、木で作った小さな道具。米も多少あったが、大量というほどではない。以前なら、その少なさを見て失敗だと思ったかもしれない。だが、商人は五人来た。全員が全部を買ったわけではなく、薪は値が合わず残り、麻はほとんど売れた。木の道具は一人の商人がまとめて買い、干した菜は宿の者まで買っていた。市場に残る馬が二頭使われ、人足も四人が新しい道まで荷を運ぶ仕事を得た。宿へ泊まった商人は一人だけだった。大した数字ではない。それでも、何も無かったところに新しい動きが生まれたことだけは確かだった。

 

「どう見る」

 

 その夜、三人を前に尋ねると、最初に商いを見る男が答えた。

 

「商人は、次も物が分かるなら来ると申しております。ただし、何があるか分からぬままでは毎度寄らぬとも」

 

 顔には喜びも落胆もない。自分が聞いたことをそのまま出す時の顔だった。

 

 次に道を見る男へ目を向けると、こちらが尋ねる前に口を開いた。

 

「新しい道の人足と馬に、目立った減りはございませぬ。今日こちらから運んだ荷のうち半分ほどは、新しい道へ出て、そこから商人の荷へ加わりました」

 

 つまり、今のところは競合するより繋がっている。

 

 最後に若い女を見る。女は少し考え、最初の日の市場で見た顔を一人ずつ思い返すように目を伏せてから答えた。

 

「旧い市場の者は、思っていたより喜んでおりませぬ」

 

 その答えに千代丸が意外そうに眉を上げた。

 

「何故じゃ」

 

「期待し過ぎぬようにしているように見えました。以前のようになると思って、また違えば苦しいのでしょう。ただ、人足をした男の一人は、久しぶりに荷を担いだ後、明日も畑へ出ると言いながら笑っておりました」

 

「新しい方は?」

 

「気にしております。ただ、今日の客が減っていないと分かると、宿の男は少し安心した顔をしておりました」

 

 それで十分だった。少なくとも、最初の一度で誰かを大きく傷付けてはいない。

 

 二度目は、最初より物が増えた。最初に麻が売れた話を聞いた者が持ち込み、木の器も増えた。ただし今度は麻が余った。前回売れたからと持ってきた者が増え過ぎたのだ。商人側も同じ人数ではなかったので、当然そうなる。三度目には、持ち込む品を前もって商いを見る男が聞き、商人へ「これだけある」とだけ伝えるようにした。買う約束はさせない。村の者にも売れる保証はしない。その代わり、何が余ったか、何が足りなかったか、商人がどの品へ手を伸ばし、どれを値だけ聞いて置いたのかまで残した。

 

 一月ほど経った頃、旧い市場の人通りは三年前へ戻ってはいなかった。宿が満室になることもなく、馬が何十頭も並ぶこともなく、昔のように一日中人足が荷を担いでいるわけでもない。だが、決めた日の前後だけは人が増えるようになった。近くの村から荷が来て、それを目当てに商人が寄り、買われた荷の一部は旧い道を通り、一部は人足と馬によって新しい道へ運ばれる。宿には前より少し客が戻り、馬を扱う家には以前とは違う仕事が入る。一方、新しい道の通行量はほとんど変わっておらず、宿の客も少なくとも今のところ減っていなかった。完璧な解決ではない。旧い市場で仕事を失った全員が元の暮らしへ戻れたわけでもなく、農へ移った者の多くはそのまま農を続けている。それでも、全てを昔へ戻すことだけが解決ではないと思えるくらいには、以前とは違う形が見え始めていた。

 

 ある日、改めて旧い市場を訪れた時、以前話した荷運びの男がこちらに気付き、少し離れたところで頭を下げた。前に見た時より日に焼けた顔は変わらず、手も相変わらず畑仕事と荷運びの両方をしている者の手だった。だが、最初に会った時には頬から口元まで張り詰めたような硬さがあったのに、今はそこまで追い詰められた顔ではない。だからといって、こちらへ感謝を見せようとして笑っているわけでもなかった。

 

「どうじゃ」

 

 尋ねると、男はすぐに「良うなりました」とは言わなかった。一度市場の方へ顔を向け、荷を積む者たちを眺め、少し考えてからこちらへ戻す。

 

「昔ほどではございませぬ」

 

「ああ」

 

「ですが、これくらいでも仕事はございます。畑もございますので」

 

 男の顔には以前のような追い詰められた硬さがなかった。ただ、その代わりに大きな期待もない。今の生活を今の生活として測りながら答えている顔だった。

 

「昔へ戻りたいか」

 

 聞いてから、少し意地の悪い問いだったかもしれないと思った。男もすぐには答えず、僅かに眉を下げて困ったように笑った。

 

「戻れば嬉しい者もおりましょう。ですが、あちらの道にも暮らしが出来たと聞きまする。某には、そこまでは」

 

 最後まで言わなかったが、それで十分だった。自分たちが苦しかったからといって、向こうも同じように苦しめとは言いたくないのだろう。その感情まで俺が勝手に決めるつもりはないが、少なくとも以前のように、嘘でも人を引き戻さなければどうにもならないというところからは離れ始めているように見えた。

 

 帰り道、千代丸が隣を歩きながら何度も市場を振り返っていた。以前来た時より人は増えているが、賑わう大市と呼べるほどではない。荷を積む馬も数頭だけで、宿の前にも人が溢れているわけではない。その半端とも言える姿が、かえって千代丸には気になったのだろう。

 

「若様。これで、解決なのでございますか」

 

 千代丸は本気で分からないという顔をしていた。眉を僅かに寄せ、口元にも笑いはなく、俺がどう考えているのかを知ろうとしている。

 

「分からん。だが、今のところはこれでよいと思う」

 

「昔ほどには戻っておりませぬ。それでも?」

 

「ああ。昔へ戻すことが答えではないからな」

 

 千代丸はしばらく黙ったまま歩き、もう一度だけ後ろを振り返ってから前へ向き直った。

 

「新しい方も、悪うなっておらぬからでございますか」

 

「それもある。それに、ここにいる者も皆が昔へ戻りたいわけではない。一つ増やすために、別の一つを減らす必要はないのかもしれん。全部がそうとは限らぬがな」

 

「今回だけは、ということですか」

 

「そうじゃ。今回うまくいったように見える方法が、別の場所でも使えるとは限らん。市場の位置も、周囲の村も、残っていた宿も、馬も、人足も、新しい道との距離も違えば結果は変わる。ここでは色々なものがたまたま残っていたから、別の役目を持たせることが出来た。だからこれは答えではない。一つの結果じゃ」

 

 そこは忘れないようにしたかった。数学なら条件が同じなら同じ解法を使えることも多いが、人の暮らしはそう簡単ではない。似た問題に同じ方法を当てはめても、条件が一つ違えば全く別の結果になるかもしれない。

 

 観音寺城へ戻り、父上へ報告すると、父上は最後まで黙って聞いていた。旧い市場の市日に人が増えたこと、新しい道の通行量がほとんど減っていないこと、宿や馬、人足に小さいながら仕事が戻ったこと、農へ移った者の多くはそのままであること。良い数字だけでなく、売れ残った荷や、まだ不満を持っている者がいることも話した。父上は途中で口を挟まず、時折帳面へ視線を落としながら聞いていたが、俺が話し終えると膝の上へ置いていた手を僅かに動かし、こちらを見た。

 

「それで、そなたは成功したと思うか」

 

 以前にも似たことを聞かれた。

 

「今のところは」

 

「随分と歯切れが悪いな」

 

 父上の口元に僅かな笑みが浮かぶ。

 

「前よりは、成功と言うのが怖くなりました」

 

 そう答えると、父上は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。

 

「それでよい。自分のしたことを疑い続けよとは言わぬ。決めねばならぬ時に決められぬ者は当主には向かぬ。だが、一度上手くいったからと、それがずっと正しいと思うな。そなたが三年前に失敗したのは、関銭を変えたことではない」

 

 そこで父上の表情から笑みが消え、俺を見る目だけが少し強くなった。

 

「変えた後を見なかったことじゃ。今回も同じだ。市日を作ったことが正しいかどうかは、今日では決まらぬ。半年後、一年後、周囲がどう変わるかを見よ」

 

「はい」

 

「ただ――今度は、三年放っておくな」

 

 最後だけ口元へ僅かな笑みが戻ったので、俺も思わず笑った。

 

「……気を付けます」

 

 父上の口元に浮かんだ笑みにつられるように笑いながらも、その言葉は思っていた以上に素直に胸へ落ちた。三年前の俺なら、ここで「成功した」と言われれば喜び、「まだ分からぬ」と言われれば自分の考えを否定されたように感じていたかもしれない。けれど今は、父上が言いたいのはそういうことではないと分かる。一度決めたことをいつまでも疑って動けなくなるのも駄目で、一度うまくいったからと目を離すのも駄目なのだ。決め、動かし、その後を見て、必要なら直す。言葉にすれば単純なことなのに、自分の判断で人の暮らしが変わってしまう立場になると、その「その後を見る」ことがどれほど重いのか、三年掛けてようやく少し理解出来た気がした。

 

 その夜、自室へ戻ってから、関と市場について使っていた帳面を久しぶりに最初から捲り直した。三年前、関銭を変える前に書いた数字。商人の数、荷駄の数、徴収する銭。変更後に増えた数字。その横へ喜んだように書き足した記録。当時の俺はそこまでで答えが出たと思っていたが、今ならその次の頁が本当は必要だったのだと分かる。別の道では何人減ったのか、どの宿から客が消えたのか、馬を手放した家が何軒あったのか、人足がどこへ移ったのか。反対に、新しい道ではいつ宿が出来、いつ馬が増え、どんな者がそこへ暮らしを移したのか。そういう数字を三年間繋げていれば、今回のように噂という形で不満が噴き出す前に、もっと早く気付けたかもしれない。後からなら何とでも言える。それでも、後からしか分からなかったことを次に残すために帳面はあるのだと思った。

 

 今回も、問題が完全に終わったわけではない。市日はこれからも続ける必要があり、商人がいつまで寄るのか、持ち込まれる荷が偏らないか、周囲の村で値が上がり過ぎないか、旧市場で宿や馬の仕事が増えた結果、今度は別の誰かへ負担が寄らないかを見なければならない。新しい道の方も同じで、今は客が減っていないからと安心するには早い。旧市場で荷を集めることが広がれば、人や馬の流れはまた少し変わるかもしれないし、商人が新しい利益を見つければ今とは違う道を選ぶかもしれない。だから帳面を閉じるといっても、終わったから仕舞うのではない。毎日そればかり追わなければならない段階を抜け、これからは決めた間隔で見直す段階へ移るだけだった。それでも、三年前から俺の中に引っ掛かっていたものへ、一つの区切りを付けられたという感覚は確かにあった。

 

 三年前、俺は人の流れを変え、その結果、一方を栄えさせ、一方を衰えさせた。今度は、栄えた方から無理に人を奪わず、衰えた側に以前とは違う役目を持たせた。旧い市場はもう、遠くへ向かう商人が必ず通る場所ではない。その代わり、周囲の村から少量ずつ出る荷を集め、そこへ商人を呼び、必要なら馬と人足を使って新しい道へ繋ぐ場所になり始めている。新しい道は遠くへ抜けるための道として残り、旧い市場は近くの物と人を束ねる場所として残る。同じ役目を奪い合うのではなく、違う役目を持ちながら繋がる。その形が半年後、一年後にも残っているかは分からない。それでも、少なくとも今の俺には、昔へ戻すよりこちらの方がずっと自然に思えた。

 

 帳面の最後には、今日までに集まった数字を改めて並べた。旧市場へ入った荷の量、実際に売れた荷、売れ残ったもの、使われた馬の頭数、働いた人足の人数、宿へ泊まった商人、新しい道を通った荷駄の数。以前の俺なら、そこから増減だけを見て「良い」「悪い」を決めようとしていただろう。今は、その横に若い女が拾ってきた言葉も残した。宿の女房が「昔ほど人が来なくてもよい」と言ったこと、畑へ戻った人足が「毎日荷を担ぐ暮らしへ戻りたいわけではない」と話したこと、そして以前噂へ加わった荷運びの男が、今の暮らしについて「昔ほどではないが、これくらいでも仕事はある」と答えたこと。数字だけを見れば、三年前より少ないものは多い。それでも、その少ない数字の中で今の暮らしを作り直している人間がいる。増えることだけが成功ではなく、昔と同じ姿へ戻すことだけが救うことでもない。俺が今度こそ忘れずに見続けなければならないのは、その数字が増えたか減ったかだけではなく、その向こうで人がどう暮らしているのかということなのだろう。

 

 最後の一行を書き終え、墨が乾くのを待ってから帳面を閉じた。三年前には、数字が増えたところで閉じてしまった帳面だった。今回は、増えた者だけでなく、減った者を見て、そこからさらに別の形を作るところまで追った。それでも、これで答えが出たとは書かなかった。半年後に開いた時、今日の判断がまた別の問題を生んでいる可能性もあるし、その時には今日見えなかった誰かの顔が新しく見えるかもしれない。ただ少なくとも、次に開く時の俺は、三年前の俺よりはもう少し多くのものを見るつもりでいられる。そう思いながら手を帳面から離すと、長く追い掛けていたものへようやく一つ区切りを付けられたような、静かな安堵が胸の奥へ残った。

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