淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第十八話「二つの道」

 梅酸丸の売れ方を記した帳面とは別に、机の上にはもう一冊、なかなか閉じることの出来ない帳面が残っていた。三年前に関銭を変えた時から付け始めた、人と荷の動きを記したものだ。最初に開いた頃は増えた商人の数を見るたびに、自分の考えが当たったような気になっていた。それが今では同じ数字の横に、まるで別のものが見える。人が減った道には空いた宿があり、使われなくなった馬がいて、仕事を失った荷運びの男がいた。逆に人が増えた道の数字を見れば、まだ顔を知らない宿の主人や新しく馬を扱い始めた者、その道を通る商人を相手に食を売る者たちがいるはずだった。一方の数字が減ったからといって、もう一方から数字を引き剥がして戻せばよいわけではない。そのことだけは市から戻ってきた日以来、嫌というほど頭に残っている。

 

 噂そのものは止まった。道が危険だという嘘を広めていた荷運びの男たちには、これ以上同じことをして商人を他の道から奪うことは許さないと伝えてある。もしまた同じことをすれば、その時は生活が苦しいという理由だけで済ませるつもりもない。だが噂を止めれば仕事まで戻ってくるわけではなかった。むしろ嘘を使ってでも人を呼び戻そうとした理由が分かったことで、問題の方が以前より大きく見えるようになったと言っていい。三年前には「通る商人が増えた」というところで見るのを止め、今度は「減った側が苦しんでいる」と知った。ここで可哀想だからと流れを元へ戻せば、今度は三年間の間に新しい道の上で暮らしを作った者たちを同じ目に遭わせる。父上から言われた「今日見たものだけが全てではない」という言葉は、帳面を開くたびに思い出された。

 

 そこで次に見るべきものは最初から決まっていた。旧い道の側をもう一度詳しく見ること。そしてそれと同じくらい、新しく商人が流れるようになった道を見ることだ。以前なら対馬守へ頼み、適当な者を動かしてもらっていたと思う。今も三雲対馬守の助けなしに何でも出来るわけではないが、俺の近くにはすでに三人、直接頼める甲賀者がいる。一人は人の表情や言葉、その場の空気を見ることが上手い若い女。一人は道や地形、人や馬の跡を辿ることを得意とする男。もう一人は商人や人足へ紛れ、値や荷、噂の動きを拾うのが上手い男だ。何度も使っているうちに誰へ何を頼めばよいのかは分かるようになってきたが、考えてみれば俺はまだ三人を役目でしか見ておらず、まともに名を聞いたことすらなかった。

 

 三人を前にして、まず机の上へ二枚の簡単な絵図を広げた。一枚は人が減った道と市場、その周囲の村や脇道を書いたもの。もう一枚は三年前から荷の流れが増えている方の道だ。精密な地図などではない。俺自身が現地で見たものと、以前三人から聞いた話を書き足した程度だが、二つを並べてみるだけでも片方だけ見ていた時とは違う。若い女は二枚の絵図を順に見た後でこちらへ視線を戻し、道を見る男は何も言わず道筋と周辺の村を目で追っている。商いを見る男だけが、俺が二つを並べた意味を測るように少し眉を上げた。

 

「今回は両方を見る。どちらを通らせるべきかを決めたいのではない。何故今そちらを通っておるのか、それから旧い方には何が残っておるのかを知りたい」

 

 商いを見る男は少し考えた後、新しい道が使われる理由なら以前にも調べており、関銭が安く道も悪くないことは分かっていると答えた。確かに三年前、商人が道を変えた最初の理由はそれだったのだろう。だが三年経った今も同じとは限らない。一度人が流れ始めれば宿が出来る。馬を替えられる場所が増え、顔見知りの商人が集まれば、それ自体が新しい道を選ぶ理由になる。俺が知りたいのは三年前に道を変えた理由だけではなく、変わった後に何が生まれたのかだった。

 

 そこまで説明すると男は納得したらしく、改めて絵図へ目を落とした。俺は新しい道を使う商人が途中で何を買い、どこで休み、何に銭を払っているのかを調べるよう頼んだ。旧い道へ戻るとしたら何があれば寄るのかも聞いてほしい。ただし六角の若様が商人を戻したがっているなどと口にしてはならない。そんなことを言えば相手は戻ると答えるに決まっている。商いを見る男もその点は承知しているらしく、僅かに口元を緩めて頷いた。

 

 次に道を見る男へ視線を移す。相変わらず表情の変化は少ないが、自分の番だと分かっていたらしく僅かに背筋を伸ばした。

 

「お主は道そのものを見てくれ。二つの道だけではない。旧い市場から周囲の村へ出る小さな道もじゃ。馬が通れるか、人が荷を背負えばどこまで行けるか、雨の後に使えなくなる場所があるか。それと、旧い市場に残っている馬や人足がどれくらい動けるかも知りたい」

 

 男は新しい道との所要時間も比べるべきかと尋ねた。俺はそれも頼んだが、単にどちらが速いかを決めたいわけではない。行き先によって便利な道は違うはずで、その違いを知りたかった。男は一度だけ頷き、それ以上は何も聞かなかった。

 

 最後に若い女を見ると、こちらが何を頼むのかすでに予想しているのか、静かな顔のまま俺を見返していた。三人の中でも特に表情の変化が小さい女だが、何かを考えている時には僅かに瞬きが減ることには最近になって気付き始めていた。

 

「お主は人じゃ。旧い市場と新しい道の両方へ行き、今困っていることと、逆に三年前より良くなったことを聞いてほしい。ただし、こちらが何か助けると期待させるな」

 

 期待して話す者と、何もないと思って話す者では言うことが変わるかもしれない。俺が市へ行った時も、六角の嫡男が来たと知った途端に相手の態度が変わった。女はその時と同じなのかと確かめ、俺が頷くと少し目を細めた。

 

「若様がお越しになるよりは、普段の話を聞けるかと存じます」

 

「そこはもう少し遠慮してもよいぞ」

 

 商いを見る男の口元が動き、道を見る男まで僅かに視線を逸らした。どうやら二人とも笑いを堪えたらしい。女だけは相変わらず澄ました顔をしていたが、それでもほんの僅かに口元が柔らかくなっていた。

 

 三人を送り出してから数日間、俺は梅酸丸の帳面を見ながら待った。何もせずにいたわけではない。旧い市場について以前集めた話をもう一度並べ、宿が何軒残っているか、馬を扱える者が何人いるか、人足のうち農へ戻った者がどれほどいるか、近くの村でどんな物が作られているのかを書き直した。最初に調べた時には「失ったもの」ばかりを見ていたが、今回は「まだ残っているもの」を分けて書いた。宿は客が減っているが建物は残っている。馬は以前ほど多くないが扱える者はいる。人足の中には農へ戻った者も多いが、忙しい時なら荷を運べる者がいる。周囲の村には米だけでなく薪や炭、麻、菜、桶や木の道具など、それぞれ少量ずつではあっても外へ売れるものがある。ただしそれらは一つの村だけでは商人がわざわざ寄るほどの量にならず、村ごとに売る相手を探しているらしい。そこまで書いたところで、一つ気になる形が見え始めた。

 

 最初に戻ってきたのは道を見る男だった。夕方、部屋へ入ってきた時もいつもと変わらず無駄のない動きで座ったが、膝元の草履に乾いた泥が残っており、本当に道を歩き回ってきたことが分かる。こちらが促すと、男は旧道、新道、その周囲の脇道を順に説明した。

 

「新しい道は、やはり通り抜けるには早うございます。大きな荷を持つ商人もこちらの方を好みまする。道沿いに馬を替えられるところが二つ増え、以前は無かった宿もございます」

 

 詳しく聞くと、特に一つの宿は三年前には存在せず、近くの者が通り始めた商人を相手に開いたものらしい。今では人足も幾人か集まっているという。やはり新しい道は単に関銭が安いから使われているだけではなくなっていた。人が通ったことで宿が生まれ、馬を替えられるようになり、人足まで集まり、それらがさらに商人を呼ぶ理由になっている。一度生まれた流れが、自分で次の理由を作っていた。

 

 一方、旧い道は通り抜けるだけなら不利だという。ただし男はそこで絵図の一点を指した。節の浮いた指先が、旧市場から三方向へ伸びる細い線を順に辿っていく。

 

「この市場から三方へ小道が延びておりまする。こちらは山寄りの村、こちらは田の多い村、もう一つは湖へ出る道に繋がります。大荷を遠くへ運ぶには向きませぬが、近くの荷を集めるなら悪くありませぬ」

 

 以前人足をしていた者たちも周辺の道には詳しく、大きな荷車を通すのは難しいものの、馬なら使える場所が多いという。ただし雨が続けば通りにくくなるところもあるらしい。

 

 男の指が旧市場を中心に三方向へ動く。それを見ていると、一本の街道として比較するから旧い方が負けて見えるだけで、市場そのものには別の使い道があるように思えてきた。遠くから来た商人をそのまま通す道としては新道に劣る。しかし周囲の村から細かく荷を集める場所として見るなら、複数の小道が集まることそのものが利点になる。

 

「つまり遠くへ抜ける道としては新しい方。近くから物を集めるなら旧い市場にも利がある、と」

 

「某が見た限りでは」

 

 男はそこで言葉を止めた。言い切らず、自分が見た範囲を越えて断定しない。それは以前から変わらない癖で、この男へ道や現場を任せやすい理由の一つでもあった。俺は礼を言い、残る二人の報告が揃うまで結論を出さないことにした。

 

 商いを見る男が戻ったのは翌日だった。部屋へ入ってきた時から口元に僅かな笑みが浮かんでおり、何か面白い話を拾ってきたらしいことはすぐ分かった。商人十数人ほどへ直接尋ねるだけでなく、別の商いの話へ混ぜながら二つの道について聞いてきたという。

 

 新しい道を使う理由は、やはり関銭だけではなかった。宿が出来、馬を替えられ、どこで休めばよいか皆が知っている。一度使い慣れた道を理由もなく変える者は少ないという。旧い道へ戻りたいと答えた者はほとんどいなかったが、旧い市場へ寄る理由があれば寄るという話は幾つも聞けたらしい。

 

「その理由は物にございます。近くの村で作られるものを買う商人はおりますが、薪のために一村、麻のために別の村、桶や木の器を見るためにさらに別のところへ回るくらいなら、初めから大きな市へ行った方が早い。ところが一か所へ集まっているなら話は変わると」

 

 どの程度の量があれば寄るのかは商人によって違い、そこまでは断定出来ないという。俺はその言い方に少し満足した。以前なら皆が寄ると言っていたとまとめられていたかもしれない。今は自分が実際に聞いたことと、自分の考えを分けようとしている。その違いは小さいようで、俺が後から判断する時には大きい。

 

 さらに商人たちは、旧い市場に残っている馬や人足にも関心を示していた。荷を買っても自分の荷駄だけでは足りないことがあり、その場で馬や運ぶ者を雇えるなら便利だという。そこで道を見る男の報告と繋がった。

 

「新しい道の商人を、旧い道へ通らせる必要はないのかもしれんな」

 

 思わずそう呟いた。新しい道を通ったままでも、必要な時だけ旧い市場へ寄ればよい。あるいは旧い市場から荷を新しい道へ運べばよい。街道そのものを取り戻す必要はない。旧い市場に「通過する場所」以外の意味を持たせればいい。ただ、それを決める前にまだ一つ足りないものがあった。

 

 若い女が帰ってきたのは、その二日後だった。普段なら戻ればすぐ報告を始めるのに、その日は座ってから少しだけ間があった。表情そのものは大きく変わっていないが、目線が一度だけ膝元へ落ち、口を開くまでの間も普段より長い。何をどう伝えるか選んでいるのだろう。

 

「何かあったか」

 

「難しい、と感じました」

 

 この女が自分の感想を先に言うのは珍しかった。詳しく聞くと、旧い市場の者と新しい道の者が互いに相手を気にしているという。争いになっているわけではない。だが旧い市場では新しい道に客を持っていかれたと話す者がおり、新しい道では六角の若様が旧い方を助けるため、こちらから人を戻すのではないかと心配している者がいたらしい。

 

 女は誰から聞いたのかも一人ずつ挙げた。旧い市場では宿の女房、人足をやめて畑へ戻った男、馬を扱う家の息子。新しい方では宿を始めた男と、その近くで飯を出す女だという。ただし皆がそう思っているとは限らないとも付け加えた。俺がそれでよいと答えると、女の目元からほんの少し力が抜けた。自分の報告を全体の意見として受け取られることを警戒していたのかもしれない。

 

 さらに話を聞くと、旧い市場の者も皆が昔へ戻したいわけではなかった。人が減った後に畑へ戻った者は、今さら毎日荷を担ぐ暮らしへ戻りたくないという。宿の女房も昔ほど人が来なくてもよいから、今より少し客が増えれば十分だと話したらしい。馬を扱う家では、以前ほど多く飼うことは出来ないが、今いる馬を働かせる口が欲しいと望んでいた。

 

 俺は黙って聞いた。旧い市場を「衰退した場所」と一括りにしていたが、そこに住む者たちも同じではない。完全な復活を望む者もいれば、生活の一部だけ戻ればよい者もいる。すでに別の暮らしへ移り、三年前そのままの生活へ戻る方が困る者までいる。

 

 一方、新しい道の者たちは今の流れを奪われたくないという思いこそ共通しているものの、旧い市場で近在の物を集めること自体は嫌がっていなかった。むしろ新しい道の宿の男は、こちらまで荷を運んでくれるなら買う商人もいるだろうと話していたらしい。

 

「若様。元へ戻されるおつもりは、もうございませぬか」

 

 女が俺の顔を真っ直ぐ見た。問い掛けながらほとんど表情を変えていなかったが、いつもより視線が強い。ただの報告以上の意味で、こちらの考えを確かめようとしているのは分かった。

 

「ない。三年前へは戻さぬ。新しい道で暮らし始めた者まで、同じ目に遭わせることになる」

 

 今回は迷わず答えられた。その言葉を聞くと女の肩が僅かに下がった。緊張していたつもりは本人にはなかったのかもしれないが、少なくとも俺にはそう見えた。

 

「では、旧い市場は?」

 

「別の役目を作る」

 

 その日の夕方、三人の報告を並べ、俺は千代丸と一緒に帳面へ書き直した。新しい道は遠くへ抜ける商人に向き、宿や馬替えまで出来るようになっている。そこから流れを奪う理由はない。一方、旧い市場は遠くへ抜けるには不利だが、周囲の村へ複数の小道が繋がり、宿、馬、人足が完全には消えていない。周囲には少量ずつ外へ売れる物もある。ならば旧い市場へ必要なのは「もう一度皆に通ってもらうこと」ではなく、「近くの物をそこへ持ってくる理由」と「そこから運び出せる仕組み」ではないか。

 

 千代丸は市場へ物を集めれば本当に商人が来るのかと尋ねてきたが、俺にも答えは分からなかった。だから試すしかない。千代丸にはまたかと呆れられたものの、いきなり大きく始めるつもりはなかった。

 

 近くの村へ、余って売りたいものがあれば決めた日に市場へ持ってきてもらう。毎日では人も物も散るので、まず日を決める。その日に何が集まるかを商いを見る男から商人へ知らせ、買うかどうかは相手に任せる。馬と人足も市場で頼めるようにしておけば、荷を買った商人が自分で運び切れない時には、旧い市場の者が新しい道まで運ぶ仕事を得られるかもしれない。

 

 言葉にしながら形が少しずつ固まっていく。旧い市場を、もう一度「通る場所」に戻すのではない。「集める場所」にする。周囲の村から少しずつ出る荷を一か所へ集め、商人がまとめて見られるようにする。宿は遠くから来た者だけでなく、荷を待つ者や翌朝出る者が使える。馬と人足は集めた荷を新しい道や別の村まで運ぶ。新しい道を敵にするのではなく、むしろそこへ荷を繋げる。

 

 もちろん頭の中では綺麗に繋がっても、実際に人が動くかは別の話だった。だから父上へ話を持っていった時も、成功するとは言わなかった。

 

「試したいことがございます」

 

 そう切り出すと父上は俺が持ってきた帳面へ一度だけ目を落とし、何も言わず続きを促した。以前ならすぐ何をするのか聞かれた気がするが、最近は俺が最後まで話すのを待つことが増えたように思う。

 

 新しい道から人を戻さないこと。旧い市場の周囲から物を集める日を設けること。その日に合わせて商人へ何が集まるかを知らせること。旧い市場に残る馬と人足を荷を運ぶ仕事へ使うこと。まずは数度だけ試し、物が集まらなければやめる。商人が来なければ別の理由を探す。新しい道の宿や商いが減るほど流れが変わるなら、それも見る。一通り説明すると父上はしばらく帳面へ視線を落とし、右手の指で膝を二度ほど叩いてから顔を上げた。

 

「そなたは旧い市場を助けたいのか」

 

「助けたいとは思います」

 

「ならば何故もっと人を戻さぬ。六角から命じれば、商人の幾らかは旧い道を通ろう」

 

 思っていたのとは違う問いだったが、答えは決まっていた。

 

「それではまた同じことになりまする。今度は新しい道の者が、三年前の旧い市場と同じになります。私が動かした人の流れを、都合が悪くなったからまた動かす。それでは、どちらも私の気分次第で暮らしが変わりまする」

 

 言い終えると父上の口元がほんの僅かに動いた。笑ったのか、それとも何かを評価したのかは分からない。俺は続けて、旧い市場へ物を持ってくるかは村の者が決め、そこへ寄るかは商人が決めるのだと説明した。馬や人足を使うかどうかも同じだ。今は互いに物があることを知らないのだから、まずはそこを繋ぐことだけ試したい。

 

 六角がするのは場所を使う許しを出し、最初の知らせを届けること。そして邪魔をする者が出れば止めること。その程度に留めたいと伝えると、父上は今度こそ僅かに笑った。

 

「随分と慎重になったものじゃ」

 

「三年前に一度失敗しておりますので」

 

「失敗か」

 

「少なくとも、成功だけではございませんでした」

 

 父上はその言葉にすぐ返さず、少し長く俺を見た。その顔には以前のような試す鋭さより、何かを確かめるような静かな色があった。

 

「やってみよ。小さく試すのであろう。ならば結果を持ってこい。ただし旧い方だけ見るな」

 

「はい。新しい道の方も数えます」

 

「宿の客、馬、人足。そなたがこちらへ何かを足したことで、向こうから何かを奪っておらぬか見よ」

 

「承知いたしました」

 

 父上の許しを得て、ようやく最初の試しへ向けて動き始めることになった。

 

 そこから最初の試しまでには、さらに十日ほど掛かった。近くの村へ「この日に売りたい物があれば市場へ持ってきてよい」と伝えるだけでも、最初は随分疑われたらしい。新しい税を取るのではないか、持っていけば六角に安く買われるのではないか、そもそも本当に商人が来るのか。若い女が拾ってきた話には期待より警戒の方が多かった。それは当然だと思ったので、こちらから無理に集めることはしなかった。最初に持ってくると決めた者の品だけ商いを見る男に知らせ、それを普段からその品を扱う商人へ伝える。道を見る男には市場までの小道で壊れているところや、馬が通りにくい箇所だけ確認させた。大きな道普請まで始めれば試しではなくなるので、人が少し手を入れれば済むところだけ直した。

 

 最初の日に集まった物は、正直に言えば拍子抜けするほど少なかった。薪、炭、麻、干した菜、木で作った小さな道具。米も多少あったが、大量というほどではない。以前ならその少なさを見て失敗だと思ったかもしれない。だが商人は五人来た。全員が全部を買ったわけではなく、薪は値が合わず残り、麻はほとんど売れた。木の道具は一人の商人がまとめて買い、干した菜は宿の者まで買っていた。市場に残る馬が二頭使われ、人足も四人が新しい道まで荷を運ぶ仕事を得た。宿へ泊まった商人は一人だけだった。大した数字ではない。それでも何も無かったところに新しい動きが生まれたことだけは確かだった。

 

 その夜、三人を前に結果を確かめた。商いを見る男によれば、商人たちは次も何が集まるか前もって分かるなら寄ると言っていたらしい。ただし品が分からないままでは、毎度立ち寄る気にはならないという。男は喜ぶでも落胆するでもなく、自分が聞いたことをそのまま伝えてきた。

 

 道を見る男の報告では、新しい道の人足や馬に目立った減りはなかった。しかも今日旧い市場から運んだ荷のうち半分ほどは、新しい道へ出て商人の荷へ加わったという。少なくとも最初の一度に限れば、二つの道は競合するよりも繋がっていたらしい。

 

 最後に若い女を見ると、彼女は少し考えた後、旧い市場の者たちは思っていたほど喜んでいないと話した。千代丸は意外そうに眉を上げたが、理由を聞けば何となく理解出来た。以前のようになると思って、また違えば苦しい。だから期待し過ぎないようにしているのではないかという。ただ人足をした男の一人は、久しぶりに荷を担いだ後、明日も畑へ出ると言いながら笑っていたらしい。

 

 新しい道の者たちも旧市場で何が始まったのかを気にしていた。それでも今日の客が減っていないと分かると、宿の男は少し安心した顔を見せたという。

 

 それで十分だった。少なくとも最初の一度で誰かを大きく傷付けてはいない。

 

 二度目は最初より物が増えた。麻が売れた話を聞いた者が新たに持ち込み、木の器も増えた。ただし今度は麻が余った。前回よく売れたからと持ってきた者が増え過ぎたのだ。商人側も同じ人数ではなかったので、当然そうなる。三度目には持ち込む品を前もって商いを見る男が聞き、商人へどれほど集まる予定なのかを伝えるようにした。買う約束はさせない。村の者にも売れる保証はしない。その代わり何が余ったか、何が足りなかったか、商人がどの品へ手を伸ばし、どれを値だけ聞いて置いたのかまで残した。

 

 一月ほど経った頃、旧い市場の人通りは三年前へ戻ってはいなかった。宿が満室になることもなく、馬が何十頭も並ぶこともなく、昔のように一日中人足が荷を担いでいるわけでもない。だが決めた日の前後だけは人が増えるようになった。近くの村から荷が来て、それを目当てに商人が寄り、買われた荷の一部は旧い道を通り、一部は人足と馬によって新しい道へ運ばれる。宿には前より少し客が戻り、馬を扱う家には以前とは違う仕事が入る。一方、新しい道の通行量はほとんど変わっておらず、宿の客も少なくとも今のところ減っていなかった。

 

 完璧な解決ではない。旧い市場で仕事を失った全員が元の暮らしへ戻れたわけでもなく、農へ移った者の多くはそのまま農を続けている。それでも全てを昔へ戻すことだけが解決ではないと思えるくらいには、以前とは違う形が見え始めていた。

 

 ある日、改めて旧い市場を訪れた時、以前話した荷運びの男がこちらに気付き、少し離れたところで頭を下げた。前に見た時より日に焼けた顔は変わらず、手も相変わらず畑仕事と荷運びの両方をしている者の手だった。だが最初に会った時には頬から口元まで張り詰めたような硬さがあったのに、今はそこまで追い詰められた顔ではない。だからといってこちらへ感謝を見せようとして笑っているわけでもなかった。

 

「どうじゃ」

 

 尋ねると男はすぐに良くなったとは言わなかった。一度市場の方へ顔を向け、荷を積む者たちを眺め、少し考えてからこちらへ戻す。

 

「昔ほどではございませぬ。ですが、これくらいでも仕事はございます。畑もございますので」

 

 男の顔には以前のような追い詰められた硬さがなかった。ただその代わりに大きな期待もない。今の生活を今の生活として測りながら答えている顔だった。

 

「昔へ戻りたいか」

 

 聞いてから少し意地の悪い問いだったかもしれないと思った。男もすぐには答えず、僅かに眉を下げて困ったように笑った。

 

「戻れば嬉しい者もおりましょう。ですが、あちらの道にも暮らしが出来たと聞きまする。某には、そこまでは……」

 

 最後まで言わなかったが、それで十分だった。自分たちが苦しかったからといって、向こうも同じように苦しめとは言いたくないのだろう。その感情まで俺が勝手に決めるつもりはないが、少なくとも以前のように嘘でも人を引き戻さなければどうにもならないというところからは離れ始めているように見えた。

 

 帰り道、千代丸が隣を歩きながら何度も市場を振り返っていた。以前来た時より人は増えているが、賑わう大市と呼べるほどではない。荷を積む馬も数頭だけで、宿の前にも人が溢れているわけではない。その半端とも言える姿が、かえって千代丸には気になったのだろう。

 

「若様。これで解決なのでございますか」

 

 千代丸は本気で分からないという顔をしていた。眉を僅かに寄せ、口元にも笑いはなく、俺がどう考えているのかを知ろうとしている。

 

「分からん。だが今のところはこれでよいと思う。昔へ戻すことが答えではないからな」

 

 千代丸はしばらく黙ったまま歩き、もう一度だけ後ろを振り返ってから前へ向き直った。新しい道の方も悪くなっていないからなのかと尋ねられ、俺はそれもあると答えた。旧い市場にいる者たちも皆が昔へ戻りたいわけではない。一つ増やすために別の一つを減らす必要はないのかもしれない。ただし今回上手くいったように見えるからといって、別の場所でも同じことが出来るとは限らなかった。

 

 市場の位置も周囲の村も、残っていた宿も馬も人足も、新しい道との距離も違えば結果は変わる。ここでは色々なものが残っていたから、別の役目を持たせることが出来たのだ。だからこれは答えではない。一つの結果に過ぎない。千代丸にもそう説明すると、ようやく少し納得したようだった。

 

 そこは忘れないようにしたかった。数学なら条件が同じなら同じ解法を使えることも多いが、人の暮らしはそう簡単ではない。似た問題に同じ方法を当てはめても、条件が一つ違えば全く別の結果になるかもしれない。

 

 観音寺城へ戻り、父上へ報告すると、父上は最後まで黙って聞いていた。旧い市場の市日に人が増えたこと、新しい道の通行量がほとんど減っていないこと、宿や馬、人足に小さいながら仕事が戻ったこと、農へ移った者の多くはそのままであること。良い数字だけでなく売れ残った荷や、まだ不満を持っている者がいることも話した。父上は途中で口を挟まず、時折帳面へ視線を落としながら聞いていたが、俺が話し終えると膝の上へ置いていた手を僅かに動かし、こちらを見た。

 

「それで、そなたは成功したと思うか」

 

 以前にも似たことを聞かれた。

 

「今のところは」

 

「随分と歯切れが悪いな」

 

 父上の口元に僅かな笑みが浮かぶ。

 

「前よりは、成功と言うのが怖くなりました」

 

 そう答えると父上は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。

 

「それでよい。自分のしたことを疑い続けよとは言わぬ。決めねばならぬ時に決められぬ者は当主には向かぬ。だが一度上手くいったからと、それがずっと正しいと思うな。そなたが三年前に失敗したのは、関銭を変えたことではない」

 

 そこで父上の表情から笑みが消え、俺を見る目だけが少し強くなった。

 

「変えた後を見なかったことじゃ。今回も同じだ。市日を作ったことが正しいかどうかは今日では決まらぬ。半年後、一年後、周囲がどう変わるかを見よ」

 

「はい」

 

「ただ──今度は三年放っておくな」

 

 最後だけ口元へ僅かな笑みが戻ったので、俺も思わず笑った。

 

「……気を付けます」

 

 父上の口元に浮かんだ笑みにつられるように笑いながらも、その言葉は思っていた以上に素直に胸へ落ちた。三年前の俺ならここで成功したと言われれば喜び、まだ分からぬと言われれば自分の考えを否定されたように感じていたかもしれない。けれど今は父上が言いたいのはそういうことではないと分かる。一度決めたことをいつまでも疑って動けなくなるのも駄目で、一度上手くいったからと目を離すのも駄目なのだ。決め、動かし、その後を見て、必要なら直す。言葉にすれば単純なことなのに、自分の判断で人の暮らしが変わってしまう立場になると、その「その後を見る」ことがどれほど重いのか、三年掛けてようやく少し理解出来た気がした。

 

 その夜、自室へ戻ってから関と市場について使っていた帳面を久しぶりに最初から捲り直した。三年前、関銭を変える前に書いた数字。商人の数、荷駄の数、徴収する銭。変更後に増えた数字。その横へ喜んだように書き足した記録。当時の俺はそこまでで答えが出たと思っていたが、今ならその次の頁が本当は必要だったのだと分かる。別の道では何人減ったのか、どの宿から客が消えたのか、馬を手放した家が何軒あったのか、人足がどこへ移ったのか。反対に新しい道ではいつ宿が出来、いつ馬が増え、どんな者がそこへ暮らしを移したのか。そういう数字を三年間繋げていれば、今回のように噂という形で不満が噴き出す前に、もっと早く気付けたかもしれない。後からなら何とでも言える。それでも後からしか分からなかったことを次に残すために、帳面はあるのだと思った。

 

 今回も問題が完全に終わったわけではない。市日はこれからも続ける必要があり、商人がいつまで寄るのか、持ち込まれる荷が偏らないか、周囲の村で値が上がり過ぎないか、旧市場で宿や馬の仕事が増えた結果、今度は別の誰かへ負担が寄らないかを見なければならない。新しい道の方も同じで、今は客が減っていないからと安心するには早い。旧市場で荷を集めることが広がれば人や馬の流れはまた少し変わるかもしれないし、商人が新しい利益を見つければ今とは違う道を選ぶかもしれない。だから帳面を閉じるといっても、終わったから仕舞うのではない。毎日そればかり追わなければならない段階を抜け、これからは決めた間隔で見直す段階へ移るだけだった。それでも三年前から俺の中に引っ掛かっていたものへ、一つの区切りを付けられたという感覚は確かにあった。

 

 三年前、俺は人の流れを変え、その結果一方を栄えさせ、一方を衰えさせた。今度は栄えた方から無理に人を奪わず、衰えた側に以前とは違う役目を持たせた。旧い市場はもう遠くへ向かう商人が必ず通る場所ではない。その代わり、周囲の村から少量ずつ出る荷を集め、そこへ商人を呼び、必要なら馬と人足を使って新しい道へ繋ぐ場所になり始めている。新しい道は遠くへ抜けるための道として残り、旧い市場は近くの物と人を束ねる場所として残る。同じ役目を奪い合うのではなく、違う役目を持ちながら繋がる。その形が半年後、一年後にも残っているかは分からない。それでも少なくとも今の俺には、昔へ戻すよりこちらの方がずっと自然に思えた。

 

 帳面の最後には今日までに集まった数字を改めて並べた。旧市場へ入った荷の量、実際に売れた荷、売れ残ったもの、使われた馬の頭数、働いた人足の人数、宿へ泊まった商人、新しい道を通った荷駄の数。以前の俺ならそこから増減だけを見て良い悪いを決めようとしていただろう。今はその横に、若い女が拾ってきた言葉も残した。宿の女房が昔ほど人が来なくてもよいと言ったこと、畑へ戻った人足が毎日荷を担ぐ暮らしへ戻りたいわけではないと話したこと、そして以前噂へ加わった荷運びの男が今の暮らしについて、昔ほどではないがこれくらいでも仕事はあると答えたこと。数字だけを見れば三年前より少ないものは多い。それでも、その少ない数字の中で今の暮らしを作り直している人間がいる。増えることだけが成功ではなく、昔と同じ姿へ戻すことだけが救うことでもない。俺が今度こそ忘れずに見続けなければならないのは、その数字が増えたか減ったかだけではなく、その向こうで人がどう暮らしているのかということなのだろう。

 

 最後の一行を書き終え、墨が乾くのを待ってから帳面を閉じた。三年前には数字が増えたところで閉じてしまった帳面だった。今回は増えた者だけでなく、減った者を見て、そこからさらに別の形を作るところまで追った。それでも、これで答えが出たとは書かなかった。半年後に開いた時、今日の判断がまた別の問題を生んでいる可能性もあるし、その時には今日見えなかった誰かの顔が新しく見えるかもしれない。ただ少なくとも次に開く時の俺は、三年前の俺よりはもう少し多くのものを見るつもりでいられる。そう思いながら手を帳面から離すと、長く追い掛けていたものへようやく一つ区切りを付けられたような静かな安堵が胸の奥へ残った。

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