その辺は適当に決めて行こうかなと。
自分が亀松丸――後の六角義治として生まれたと知ってから、幾年かが過ぎた。赤子だった身体は随分と自由に動くようになり、自分の足で歩き、言葉を話し、文字を覚える。まだ出来ないことの方が圧倒的に多いが、誰かに抱き上げてもらわなければ隣の部屋へ行くことすら出来なかった頃と比べれば雲泥の差だ。そして何より、自分から人に問い掛けられるようになったことが大きかった。
幼子という立場は、思っていた以上に便利だった。大人ならば何か意図があるのではないかと勘繰られるような質問でも、子供が口にすれば好奇心で済む。誰がどこを治めているのか、何処と仲が良く、何処と争っているのか。何故あの男は父に頭を下げ、別の男には父から声を掛けるのか。そんなことを一つずつ尋ねながら、俺は頭の中にこの時代の地図を作っていた。
もっとも、何でも好きなように知ることが出来るわけではない。例えば今日も、父は朝から重臣たちを集めて評定を開いている。六角家の政を決める場なのだから、当然その中心には当主である父がいる。そして幼い俺が堂々と参加出来る場所でもない。だから、少しだけ覗いていた。障子の向こうから幾人もの声が聞こえてくる。内容まではよく分からない。時折聞き覚えのある地名や人名が混じる程度だ。それでも、誰が父の近くに座り、誰が頻繁に発言しているのかを見るだけでも意味はある。以前、評定とは何かと父に尋ねた時には、「六角のことを皆で話し合う場だ」と教えられた。随分簡単な説明だったが、幼児に説明するならそんなものだろう。
いずれ俺も、あの場所に座ることになる。そう考えると、不思議な気分だった。前世では職員会議に出ることはあっても、そこで決まるのは学校行事や生徒指導、授業や進路についてのことだ。間違えたからといって国が傾くわけではない。それが今度は領地や戦、人の生死に関わる話になる。まだ先のこととはいえ、気楽に考えられるものではなかった。しばらく様子を窺っていたが、誰かに見つかって叱られる前に引き上げることにした。別に父から「評定を見てはならぬ」と言われているわけではない。それでも、堂々と覗き見をしていたと知られるのは少々具合が悪い。
自室へ戻ると、先ほど耳にした言葉を頭の中で整理した。知らない地名、知らない人名、意味の分からない言葉。覚えておけるものには限界があるが、気になったものだけは忘れないようにする。今の俺が優先すべきなのは、知ることだ。ただし、一つだけ気を付けている。知っているふりをしないこと。前世の俺は三十代半ばまで生きた数学教師で、戦国時代についても一般人より多少詳しい自覚はある。しかし歴史教師ではない。六角氏について知っていることなど、織田信長や武田信玄と比べれば遥かに少なかった。まして、この時代の日常や六角家内部の人間関係など教科書には載っていない。ならば、知らないことは知らないと認めればいい。数学でも同じだ。条件が足りない問題に無理矢理答えを出したところで、それは解答ではなく推測に過ぎない。
そんなことを考えていると、廊下から足音が近付いてきた。
「若様」
「どうした?」
「御屋形様がお呼びにございます」
父が? 一瞬、先ほどの覗き見が頭を過った。まさか見つかったのか。
「……何か言っていたか?」
「いえ。ただ、御部屋へ来るようにと」
「そうか」
少しだけ嫌な予感がする。教師だった頃、職員室へ呼ばれた生徒が「俺、何かやったっけ」と不安そうな顔をしていた理由が、今になって妙によく分かった。呼びに来た者に案内され、父の部屋へ向かう。廊下を歩きながら、頭の中で言い訳を考える。いや、そもそも何も悪いことはしていない。少し見ていただけだ。聞かれたら正直にそう言えばいい。
「父上、亀松丸にございます」
「入れ」
声に従って中へ入ると、父は先ほどまで評定をしていた時とは違い、一人で座っていた。
「そこへ座れ」
「はい」
言われた場所へ腰を下ろし、何を言われるのかと待っていると、父は俺の顔を見るなり僅かに口元を緩めた。
「今日は随分と熱心に評定を見ておったようじゃな」
ばれていた。
「……御存じだったのでございますか」
「あれだけ顔を覗かせておればな」
父が笑う。怒っている様子はない。
「申し訳ございませぬ」
「何故謝る。興味を持つのは悪いことではない。いずれそなたが座る場所でもある」
そう言われて少し安心した。
「何を話していたか分かったか?」
「ほとんど分かりませぬ」
「それでよい。今から全て分かられては、儂らの立つ瀬がないわ」
正直に答えると、父はまた笑った。どうやら本当に叱るために呼んだわけではないらしい。
「父上」
「なんじゃ」
「私は、評定を見てもよいのでございますか?」
父は少し考えてから答えた。
「邪魔をせぬならな。ただし、分からぬことがあったからと評定の最中に口を挟むでないぞ」
「はい」
これはありがたい。堂々と見られるなら、今後の情報収集はかなり楽になる。
「それと亀松丸。今日はその話をするためだけに呼んだのではない。近頃のそなたを見ておって、そろそろ側に同じ年頃の者を置いてもよいと思うてな」
「同じ年頃の者、でございますか?」
「うむ。そなたは人より物を知りたがる。書を読ませれば覚えも早い。評定まで覗くようになったとなれば、いつまでも乳母や女房どもに囲まれておるばかりというのも良くあるまい」
思いがけない評価だった。確かに、周囲から見れば年齢の割に妙に物を知りたがる子供に見えているだろう。中身が三十代半ばの男なのだから当然と言えば当然だが、それを父に知られるわけにはいかない。
父が廊下へ向かって声を掛けた。
「入れ」
「はっ」
襖が開き、一人の男が少年を伴って入ってきた。男には見覚えがあった。先ほどの評定にも参加していた家臣の一人だ。二人は父の前へ進み、揃って頭を下げた。
「平井加賀守定武にございます」
平井。その名前を聞いた瞬間、記憶の中に引っ掛かるものがあった。平井定武。六角家の家臣。それだけではない。前世で読んだ『淡海乃海』にも出てきた名前だ。もっとも、細かいところまでは覚えていない。何しろ最後に読んだ時から時間が経っているし、登場人物の名前を一人残らず暗記していたわけでもない。それでも平井という姓には覚えがある。そして確か、この男には息子がいたはずだ。弥太郎――平井弥太郎高明。そこまで思い出したところで、定武の後ろに控えている少年へ自然と目が向いた。
「千代丸」
「はいっ」
定武に促され、少年が前へ進んだ。俺より少し年上だろう。身体は見るからに固く、緊張しているのがこちらにも伝わってくる。
「千代丸にございます」
千代丸。聞き覚えはない。少なくとも『淡海乃海』で、そんな名前の人物がいた記憶はなかった。だが、幼名なら話は別だ。元服すれば別の名を名乗る。この少年が平井定武の息子だからといって、それだけで後の弥太郎高明だと決めつけることは出来ない。次男かもしれないし、三男かもしれない。あるいは俺の記憶そのものが間違っている可能性だってある。条件が一つ足りない。
「加賀守」
「はっ」
「千代丸は、そなたの嫡男か?」
俺から声を掛けられるとは思っていなかったのか、定武が僅かに顔を上げた。父もこちらを見る。子供が気にすることとしては、少し妙だったかもしれない。だが、今さら取り消すことも出来ない。
「はい。千代丸は某の嫡男にございます」
その答えを聞いて、俺はもう一度目の前の少年を見る。平井定武の嫡男で、今は千代丸と名乗っている。そして俺の記憶にある平井定武の息子は、平井弥太郎高明。ならば恐らく間違いない。この千代丸が、後の弥太郎だ。
胸の奥で何かが小さく動いたが、それを顔には出さない。ここで俺が「弥太郎」という名前を知っているはずがないのだから。
「そうか」
それだけ答えると、父が少し不思議そうにこちらを見た。
「何故そのようなことを聞く?」
「私の側に置かれるのであれば、どのような者なのか知っておきたいと思いました」
咄嗟に答えたが、嘘ではない。父は俺と千代丸を交互に見ると、特に追及することもなく頷いた。
「なるほどな。この者を、そなたの小姓として側に置こうと思う」
「小姓、でございますか?」
「うむ。もっとも、今から全ての世話を任せるというわけではない。そなたも千代丸もまだ幼い。まずは側に置き、共に学ばせる。いずれはそなたを支える者になろう」
なるほど。そういうことか。
小姓。その言葉自体は知っている。主君の身辺に仕え、やがて近習や家臣として働く者。歴史上の制度としてなら何度も目にしたことがある。しかし知識として理解するのと、実際に自分の側へ少年を置かれるのとでは全く違った。しかも、相手はただの名も知らない少年ではない。後の平井弥太郎高明。前世で読んだ物語の中にいた人間が、今は千代丸という幼名を名乗り、俺の目の前に座っている。
もっとも、それだけで何かが決まったわけではない。この世界が『淡海乃海』そのものだと、この時点で断定する材料にはならない。平井定武も弥太郎高明も、この時代に存在する人間なのだから、目の前にいてもおかしくはない。ただ、知っている名前がまた一つ、俺の周囲に現れた。それだけは確かだった。
「千代丸」
「は、はい!」
声が裏返った。思わず笑いそうになったが、どうにか堪える。
「そんなに固くならなくてもよい」
「申し訳ございませぬ!」
「いや、謝らなくてよい」
余計に緊張させてしまったらしい。教師だったから子供と話すことには慣れている。しかし今の俺も外見だけなら子供だ。教師と生徒のように接するわけにもいかない。それに、千代丸は単なる遊び相手として来たわけではない。今は共に学ぶ相手でも、いずれ俺を支える家臣になることを期待されているのだ。
「若様、これより、お側にてお仕えいたします」
「よろしく頼む、千代丸」
そう答えながら、胸の奥に奇妙な重さを感じた。俺に、自分の側に仕える者が出来た。今はまだ幼い小姓に過ぎず、俺の身の回りの全てを任されるわけでもない。それでも、この少年はこれから俺と共に学び、成長し、やがては俺の判断によってその人生を左右される立場になるのかもしれない。
前世では家族すら持たなかった俺が、今では父を持ち、自分に仕える者まで持つ。そして、その最初の一人が俺の記憶にも残っている人間だった。
今はまだ平井千代丸。いずれ平井弥太郎高明と名乗る少年。歴史の中で「六角家臣」と一括りにしていた言葉に、初めて一人の顔が付いた瞬間だった。