その辺は適当に決めて行こうかなと。
2026/10/21 文章整理
自分が亀松丸──後の六角義治として生まれたと知ってから、幾年かが過ぎた。赤子だった身体は随分と自由に動くようになり、自分の足で歩き、言葉を話し、文字も覚え始めている。まだできないことの方が多いものの、誰かに抱き上げてもらわなければ隣の部屋へ行くことすらできなかった頃に比べれば、大きな進歩だろう。中でもありがたいのは、自分から周囲の者へ問い掛けられるようになったことだった。
幼い子供という立場は思っていた以上に都合がよかった。誰がどの土地を治めているのか。何故あの男は父上に頭を下げ、別の男には父上の方から声を掛けるのか。大人であれば尋ねることを躊躇うような話でも、幼子の質問なら大抵は笑って教えてくれる。もっとも、話が難しくなると今は知らなくてもよいと言われることもあった。それでも、こうして得られる知識は前世で読んだ書物よりも遥かに具体的だった。
今日も父上は朝から重臣たちを集めて評定を開いていた。六角家の政を話し合う場であり、嫡男である俺もいずれ加わることになるのだろうが、今はまだ幼く席を与えられる立場ではない。
だから、少しだけ覗いていた。
障子の隙間から中を窺うと、父上を囲むように重臣たちが座っていた。聞き覚えのある地名や人名が時折耳に入るものの、声が重なると何を話しているのか分からない。それでも父上の問いに誰が答え、どのような時に別の者が口を挟むのかを見ているだけで興味が尽きなかった。以前、評定とは何かと尋ねた際には、父上から「六角のことを皆で話し合う場だ」と教えられたが、実際に見ると随分と複雑なことを話しているようだった。
いつかは俺もあの場所に座ることになる。
前世で職員会議に出席していた頃を思い出した。学校行事や生徒指導、授業の進め方について意見を交わすことはあったが、当然ながら所領や軍勢を巡って話し合うことなどなかった。父上の周囲にいる武将たちも今は落ち着いた様子で言葉を交わしているが、その判断によって多くの人間が動くのだろう。
しばらく様子を窺っていたものの、誰かに見つかって叱られる前に引き上げることにした。父上から評定を見てはならぬと命じられているわけではない。それでも勝手に覗いていたと知られれば、あまりよい顔はされないかもしれなかった。
自室へ戻ると、先ほど聞いた言葉を思い返した。知らない地名や人名ばかりではあったが、幾つかは以前にも耳にしている。意味の分からない役職もあったので、後で誰かに尋ねてみよう。父上の近くに座っていた武将についても、顔と名前を確かめておきたかった。
前世で覚えた歴史の知識は、今のところ大して役に立っていない。六角氏について知っていることなど限られているし、家臣の名前を聞いてもすぐに思い出せるとは限らなかった。分からないものは、その都度教えてもらうしかない。それに、歴史上の出来事を知っていることと、目の前にいる人間を知っていることは別の話だった。
そんなことを考えていると、廊下から足音が近付いてきた。
「若様」
「どうした?」
「御屋形様がお呼びにございます」
父上が呼んでいると聞いて、先ほどの評定が頭を過ぎった。まさか覗いていたことを知られたのだろうか。
「……何か仰っていたか?」
「いえ。ただ御部屋へ来るようにと」
「そうか」
呼びに来た者の様子からは、父上が何の用件で呼んでいるのか分からなかった。前世で職員室へ呼び出された生徒が、何か悪いことをしただろうかと不安そうにしていたことを思い出す。あの時は随分と落ち着かない様子だと思っていたが、今ならその気持ちも分かる。
案内されながら廊下を歩くうちに、先ほどのことをどう説明するか考え始めていた。とはいえ、悪いことをしたつもりはない。少し様子を見ていただけなのだから、尋ねられたら正直に答えればよいだろう。
「父上、亀松丸にございます」
「入れ」
父上の声に従って部屋へ入ると、先ほどまでの評定とは違い、一人で座っておられた。近くには幾つかの書状が置かれていたが、父上はそれらから手を離してこちらを見ている。
「そこへ座れ」
「はい」
言われた場所へ腰を下ろすと、父上は俺の顔を見て僅かに口元を緩めた。
「今日は随分と熱心に評定を見ておったようじゃな」
やはり見つかっていたらしい。
「……御存じだったのでございますか」
「あれだけ顔を覗かせておればな」
父上は愉快そうに笑った。どうやら怒っているわけではなさそうだが、勝手に覗いていたことは確かなので、ひとまず頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「何故謝る。興味を持つのは悪いことではない。いずれそなたが座る場所でもある」
その言葉を聞いて少し安心した。父上から評定で何を話していたか分かったのかと尋ねられたので、ほとんど理解できなかったと正直に答えた。すると、今から何もかも分かられては自分たちの立つ瀬がないと笑われた。
「父上。これからも評定を見てよいのでございますか?」
父上は少し考えてから頷いた。
「邪魔をせぬならな。ただし、分からぬことがあったからといって評定の最中に口を挟むでないぞ」
「はい」
これはありがたい。今後は隠れて様子を窺う必要がなくなる。家臣たちの顔や名前を覚える機会も増えるだろうし、繰り返し聞いていれば少しずつ話の内容も分かるようになるはずだ。
「それと亀松丸。今日はその話をするためだけに呼んだのではない。近頃のそなたを見ておって、そろそろ側に同じ年頃の者を置いてもよいと思うてな」
「同じ年頃の者、でございますか?」
「うむ。そなたは人一倍物事を知りたがる。書を読ませれば覚えも早い。評定まで覗くようになったとなれば、いつまでも乳母や女房どもに囲まれておるばかりというのも良くあるまい」
父上からそのように見られていたことは少々意外だった。確かに年齢の割には質問が多いのだろう。前世の記憶がある以上、知らないことを確かめたくなるのは仕方がないが、周囲からは好奇心の強い子供に見えているらしい。
父上は廊下へ向かって声を掛けた。
「入れ」
「はっ」
襖が開き、一人の男が少年を伴って入ってきた。男の顔には見覚えがある。先ほどの評定にも参加していた家臣の一人だった。二人は父上の前まで進むと、揃って頭を下げた。
「平井加賀守定武にございます」
平井定武。
その名前を聞いて、前世で読んだ『淡海乃海』のことを思い出した。六角家に仕える武将であり、物語にも登場していたはずだ。ただ、最後に読んでから随分と時間が経っている。多くの武将が登場する作品だったこともあり、一人一人について詳しく覚えているわけではなかった。
それでも平井という姓には確かに聞き覚えがあった。そして、この男には息子がいたはずだ。
平井弥太郎高明。
そこまで思い出したところで、加賀守の後ろに控えている少年が気になった。年の頃は俺より少し上だろうか。父親のすぐ後ろで姿勢を正しているものの、肩には随分と力が入っている。慣れない場所へ連れてこられたのか、それとも六角家の当主を前にして緊張しているのか。こちらからでも落ち着かない様子が分かった。
「千代丸」
「はいっ」
加賀守に促され、少年が一歩前へ出た。
「千代丸にございます」
千代丸。その幼名には聞き覚えがなかった。少なくとも前世で読んだ物語の中に、その名が登場した記憶はない。しかし、今はまだ幼い少年なのだから、元服すれば別の名を名乗ることになる。
加賀守の息子だからといって、必ずしも後の弥太郎高明とは限らない。次男や三男かもしれないし、そもそも俺の記憶が間違っている可能性もあった。
「加賀守」
「はっ」
「千代丸は、そなたの嫡男か?」
俺から尋ねられるとは思っていなかったのか、加賀守が僅かに顔を上げた。父上もこちらへ顔を向ける。幼い子供が相手の家での立場を気にするのは、少々妙に映ったかもしれない。
「はい。千代丸は某の嫡男にございます」
その答えを聞き、改めて少年を見た。
加賀守の嫡男で、幼名は千代丸。であれば、目の前の少年が後の平井弥太郎高明なのだろう。前世では物語の中でしか知らなかった人物が、今は緊張した面持ちで父親の隣に座っている。
「そうか」
それだけ答えると、父上が不思議そうに尋ねてきた。
「何故そのようなことを聞く?」
「私の側に置かれるのであれば、どのような者なのか知っておきたいと思いました」
咄嗟の返答だったが嘘ではない。これから自分の側に仕えるのであれば、相手の家について知っておくことも大切だろう。
父上は俺と千代丸を交互に見ると、納得したように頷いた。
「なるほどな。この者をそなたの小姓として側に置こうと思う」
「小姓、でございますか?」
「うむ。もっとも、今から全ての世話を任せるというわけではない。そなたも千代丸もまだ幼い。まずは側に置き、共に学ばせる。いずれはそなたを支える者になろう」
なるほど。そういうことだったのか。
小姓という役目については前世でも知っていたが、実際に自分の側へ置かれるとなると妙な感じがする。今まで身の回りの世話をしてくれていたのは、乳母や女房たちが中心だった。そこへ年の近い少年が加わるというのだから、日々の過ごし方も少し変わるかもしれない。
千代丸は父上の言葉を聞いて、いっそう背筋を伸ばしていた。加賀守も隣で息子の様子を見ている。二人ともこの話を事前に聞かされていたのだろうが、実際に主君の前へ出るとなれば緊張もするのだろう。
「千代丸」
「は、はい!」
呼び掛けると少年は勢いよく返事をした。声が少し裏返っていたので思わず笑いそうになったが、どうにか堪えた。
「そんなに固くならなくてもよい」
「申し訳ございませぬ!」
「いや、謝らなくてよい」
そう言うと千代丸は困ったように俺を見た。どうやら何と答えればよいのか分からなくなっているらしい。加賀守が何か言い掛けたが、父上が笑いながら手で制した。
「加賀守、そう案ずることはあるまい。亀松丸も千代丸も、これから共に学ぶ身じゃ。初めから何もかも上手くできるものではない」
「はっ。恐れ入ります」
加賀守は改めて頭を下げた。千代丸も父親に倣って頭を下げる。その動きがあまりに揃っていたので、今度こそ少し笑ってしまった。
前世では教師として子供たちと接してきたが、今の俺も外見は幼い子供である。千代丸とは教師と生徒ではなく、主従として付き合っていくことになる。そう考えると不思議なものだったが、いつまでも年上のつもりで接していては、かえって妙な関係になりそうだった。
「若様、これよりお側にてお仕えいたします」
「よろしく頼む、千代丸」
千代丸はようやく少しだけ表情を和らげた。父上はその様子を見届けると、今後のことを加賀守へ幾つか申し付けていた。俺と千代丸は並んで座り、大人たちの話が終わるのを待つことになった。
隣にいる少年を横目で見ると、千代丸は相変わらず背筋を伸ばしていた。時折こちらの様子を窺っているようだったので、目が合ったところで軽く笑い掛けてみた。すると慌てて前を向いてしまった。
どうにも緊張が解けないらしい。もっとも、今日初めて顔を合わせた相手なのだから無理もない。これから毎日のように顔を合わせるのであれば、いずれは気軽に話せるようになるだろう。
父上から退出してよいと告げられ、俺たちは揃って頭を下げた。部屋を出る際、千代丸が俺の歩く速さに合わせようとして僅かに足取りを乱した。父親に何か言われるのではないかと身構えたようだったが、加賀守は何も言わなかった。
「千代丸」
「はい、若様」
「後で、普段は何をしているのか教えてくれ。私も……」
そこで言葉が止まった。教師だった頃の癖が抜けないせいか、つい初対面の子供に話し掛けるような調子になってしまう。千代丸は不思議そうにこちらを見ていた。
「……そなたのことを色々と知っておきたい」
「はい。何なりとお尋ねくださいませ」
今度は少し落ち着いた返事が返ってきた。
俺は千代丸と並んで廊下を歩きながら、どのようなことを話そうかと考えた。年齢は近いのだから、好きな遊びや得意なことを聞いてみてもよいだろう。武芸を習い始めているのかもしれないし、すでに読み書きを教わっているのかもしれない。
平井弥太郎高明。前世では名前だけを知っていた人物だが、今はまだ千代丸という幼名を名乗る少年である。
俺が何かを尋ねるたび、千代丸は一生懸命に答えようとしていた。しばらく話しているうちに最初の緊張も少し和らいだらしく、自分から話し掛けてくることもあった。
その様子を見ていると、平井弥太郎という名前から思い浮かべていた人物像など、今はさほど重要ではないように思えてきた。目の前にいるのは、これから俺の側で共に学ぶことになった千代丸なのだから。
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