某、歴史がそこまで得意ではないので調べる方法があると助かるぅ……。
あと、ストックがきれました。 テヘペロッ
朝晩に吹く風が少しずつ冷たさを帯び始め、観音寺城から見下ろす近江の田にも、夏の濃い緑とは違う色が混じり始めていた。関を巡って起きた噂の件は、嘘を広めていた者へ止めるよう申し渡した後、その土地で暮らす者たちが何を失い、何を残しているのかを見るところまで進めた。だからといって、俺が一つの市を救うために新しい商いを無理矢理押し付けたわけではない。今ある宿や馬、人足、周囲で作られている物、通じている道を調べさせ、その中から何が使えるのかを見ていくことにしただけだ。梅酸丸の方も、売れ方、材料、作る者の手間、水飴の出来まで帳面へ残すようになり、少なくとも俺が朝から晩まで横へ張り付かなければ作れない段階からは抜けつつあった。まだ大きな商いと呼べるほどではないものの、最初の頃のように一つ売れるたび俺が口を挟む必要もない。ようやく二つのことから少し手を離せるようになり、そこで父上から言われたのが、「そろそろ帳面以外の物も持て」という、実に分かりやすい一言だった。
何のことか聞き返す必要はなかった。六角家の嫡男として学ばなければならないものは、政や商いだけではない。むしろこの時代なら、そちらだけを覚えて武を疎かにする方がおかしい。弓、太刀、馬。いずれ人を率いて戦場へ出る可能性がある以上、少なくとも武器を扱えず、馬にも乗れない当主では話にならない。前世の俺なら、生徒へ「勉強だけ出来ればいいわけではない」と言っていたこともある。それが今度は自分へ返ってきたと思えば、何とも言えない気分だった。
ただ、武稽古そのものが嫌いなわけではない。前世では弓道を続けていたし、合気道にも通って段を取るくらいには身体を動かすことが好きだった。教員になってからは学生時代ほど時間を取れなくなったものの、弓を引いた時の張り詰めた感覚や、相手の力を受けながら崩す感覚は今でも記憶に残っている。だから、この身体でも少しくらいは役に立つのではないかと思っていた時期があった。
実際にやってみれば、そんな考えが随分甘かったことを思い知らされた。
「肩が上がっておりまする」
「……分かっておる」
「分かっておられるのでしたら、下げてくだされ」
「下げようとしておる」
弓を持ったまま答えると、俺の稽古を見ている武者が困ったように眉尻を下げた。言われなくても、自分の左肩が少し上がっていることくらい分かっている。前世なら直せた。肩を落とし、背中を使い、腕だけで引かない。頭では分かっている。身体の使い方だって覚えているつもりだ。それでも今の身体は、前世の三十代の身体ではない。腕の長さも違えば肩回りの強さも違い、握った時の手の大きさも、足を開いた時の重心もまるで違う。しかも、今使っている弓は前世で慣れ親しんだ競技用の和弓ではなく、この時代に実際に使われているものだ。形だけ前世の射法へ寄せればよいというものでもない。
何より困るのは、頭の中に「出来ていた頃」の感覚が残っていることだった。初めて弓へ触れる子供なら、出来ないことを一つずつ覚えていけばいい。だが俺の場合、身体を動かすたびに前世の感覚との差が出る。もう少し引けるはずだ、ここまで伸び合えるはずだ、離れはもっと自然に出るはずだと思う。その「はず」が今の身体を余計に力ませる。自分では抑えているつもりでも、的へ向ける目が次第に険しくなっていたらしく、少し離れたところで見ていた千代丸が、こちらの顔を窺うように何度か視線を寄越していた。
「もう一度」
矢を番え直し、足を定める。息を整え、弓を上げ、ゆっくり引き分ける。前世で染み付いた動作をそのままなぞろうとはしない。今の身体で出来るところまで、今の弓で安定する形を探す。そう意識したつもりだったが、弦を離れた矢は的の左へ外れた。
「また左でございますな」
少し後ろから千代丸の声がした。声だけ聞けばいつも通りだったが、振り返らずとも、口元が少し笑っているのが分かるような調子だった。
「見れば分かる」
「先ほどから五本のうち四本が左にございます」
「数えるな」
「若様がいつも数えておられますので」
言い返せなかった。千代丸は俺が梅酸丸で何個売れた、何個残ったと数えていたことをよく覚えているらしい。自分が数えられる側になると、あまり愉快ではない。
「もう一本」
「少しお休みになられては」
「まだ引ける」
意地になっていたのは自分でも分かっていた。ただ、前世で出来ていたことが出来ないというのは、思っていた以上に腹が立つ。自分の知識が役に立たないのならまだ諦めもつく。知っている。何が悪いかも大体分かる。なのに直せない。それが一番腹立たしかった。
六本目を番え、同じように引く。今度こそ肩を上げないよう意識した。ところが、意識を肩へ向け過ぎたせいか、離れた矢は左どころか的の手前へ落ちた。さすがに息を吐くと、千代丸は笑うのを堪えるように一度口を結び、それから真面目な顔を作り直した。稽古を見ていた武者は何も言わなかったが、目だけが「だから休めと言った」と語っているように見える。
「……駄目じゃな」
「先ほどより悪うございます」
「千代丸」
「はい」
「少し黙っておれ」
「はい」
素直な返事がかえって腹立たしい。
弓を下ろし、腕を軽く回す。確かに疲れていた。前世の感覚で「まだ引ける」と考えても、この身体では筋力が足りない。同じ動作を繰り返せば少しずつ形も崩れる。頭の中で原因を並べていると、稽古場の端にいた一人がほんの僅かに動いたのが目に入った。
いつの間にか見慣れてしまった女だった。
俺に付けられた三人の甲賀者のうち、人を見ることを得意としている若い女。市や職人の様子を調べさせる時には何度も使っているし、最近では三人の報告を俺のところへ持ってくることも増えている。今日ここへいるのは、俺が稽古をする姿を見るためではなく、昼から頼む予定の話があったからだった。それでも、普段と同じように目立たぬ位置へ座り、こちらへ正面から視線を向けるでもなく、けれど何一つ見落としていないような静かな顔をしていた。その女が一瞬だけ唇を開きかけ、何も言わず閉じたのを見て、かえって気になった。
「何じゃ」
声を掛けると、女は少しだけ目を見開いた。驚いたといっても、普通の者なら見逃すほどの小さな変化で、すぐにいつもの落ち着いた顔へ戻る。
「何が、でございましょう」
「今、何か言おうとしたであろう」
「……よく御覧になっておられまする」
「お前に言われたくない」
人を見ることが仕事のような女である。俺が気付かなければ、そのまま黙っているつもりだったのだろう。
「何を思った」
「武のことは、私より御師範へお尋ねになられる方がよろしいかと」
「それは分かっておる。だが、お前が何を見たのかを聞いておる」
女はすぐには答えず、一度だけ俺の左肩から手元へ視線を落とした。口元は変わらないが、言葉を選んでいる時にはほんの僅かに瞬きが少なくなる癖があることに、最近になって気付いていた。
「疲れてこられますと、若様は引かれる前に左の肩が上がりまする」
思わず黙った。
「それは先ほどから言われておる」
「はい。ただ、初めからではございませぬ」
「初めからではない?」
「最初の二本では上がっておりませなんだ。三本目から少しずつ。四本目の前には一度、左の手を握り直しておられます。五本目では弓を上げられる前から、左の肩が右より高うございました」
そこまで見ていたのか。自分でも左肩が上がっていることは分かっていた。だが、いつから崩れ始めたかまでは意識していなかった。
「六本目は?」
「肩を下げようとなさることばかり気にされて、今度は引きが浅く見えました」
稽古を見ていた武者が小さく咳払いした。横目で見ると、口元を真一文字にしてはいるものの、目の端には僅かに笑いが残っている。俺がそれに気付くと、すぐ真面目な顔へ戻った。
「合っておるか」
「某も同じように見ておりました。ただ、若様が御自分で気付かれるかと思い、申さなんだところにございます」
「言ってくれ」
「先ほど休まれるよう申し上げました」
「……そうであったな」
完全に俺が悪かった。
もう一度女を見る。
「お前、弓をやるのか」
「人並みに扱う程度にございます」
「なら、何故そこまで分かる」
「弓を見ていたのではございませぬ」
「何を見ておった」
「若様を」
あまりにも当然のように答えられ、一瞬返す言葉を失った。女の表情には得意げなところも、からかう様子もない。ただ、当たり前の仕事を説明しただけという顔だった。
「人を見るのが、私の役目にございますので」
以前なら、その言い方に少し不気味さを覚えたかもしれない。だが今は、むしろ納得出来る。市で噂を拾わせた時も、梅酸丸を買った者の反応を見させた時も、この女は相手が何を言ったかだけでなく、その時どんな顔をしていたか、誰の言葉へ反応したか、何を言わなかったかまで持ってきた。ならば俺が弓を引く時の癖を拾っていても不思議ではない。
「面白いな」
「何がでございましょう」
「お前の目じゃ。俺は左肩が上がっていることは分かっていた。だが、いつからそうなったかを見ていなかった」
帳面を見ている時と同じだった。結果だけを見れば、矢が左へ外れた。けれどその前には、疲れ、手の握り直し、肩の上がり、引きの崩れがある。そう並べれば、ただ「下手だから外れた」で終わらずに済む。俺がそんなことを考えているのが顔に出ていたのか、女の目がほんの少し細くなった。
「若様」
「なんじゃ」
「今、また帳面へ書くことを考えておられませぬか」
「……何故分かる」
「その顔をなされておりました」
千代丸が横で吹き出した。慌てて口を押さえたものの、肩が一度大きく揺れたので隠せていない。
「若様。武稽古まで帳面にされるおつもりですか」
「悪いか」
「いえ。いかにも若様らしゅうございます」
馬鹿にされているような気もしたが、完全には否定出来ない。ただ、武稽古まで何本中何本当たったと数字だけで追うつもりはなかった。それでは関銭の時と同じことになる。的中だけを増やそうとして形を崩せば意味がないし、今の年齢で無理をして身体を痛めれば、もっと悪い。まずは今の身体でどこまで安定して引けるかを知る。その方が先だろう。
「今日はここまでにする」
俺がそう言うと、武者が目に見えて肩の力を抜き、満足そうに頷いた。
「それがよろしゅうございます」
「嬉しそうじゃな」
「御自分で止められることも稽古にございます」
耳が痛かった。
弓を預け、濡らした布で手と顔を拭く。腕には心地よいというには少し強い疲労が残っていた。前世なら、この程度で音を上げることはなかっただろう。だが、何度考えても、前世と比べても仕方がない。今の俺はこの身体で生きるしかないのだ。知識は持ってこられた。記憶もある。けれど身体まで持ってきたわけではない。だったら、もう一度この身体で覚えるしかない。
その日の弓稽古を終えた後、少し休んでから木剣を持った。こちらも弓と事情は似ている。前世で学んだ合気道のおかげで、相手との間合いや体勢の崩れを見る癖は残っている。真正面から力をぶつけるより、相手の重心がどちらへ乗っているかを見ようとするのも自然に出来る。だが、それをそのまま戦国時代の剣術へ持ち込めばよいわけではない。合気道は刀を持った敵と戦場で斬り合うために習っていたものではないし、俺自身、前世で剣術家だったわけでもない。木剣を握れば、そこは素直に一から習うべきだった。
それでも、相手の動きを見るという点だけは役に立った。俺より遥かに大きい稽古相手が踏み込んでくる。木剣の速さそのものには身体が追いつかない。だから剣先だけを見るのをやめ、肩と腰を見る。どちらの足へ体重が乗ったか、踏み込む直前にどこが動くかを拾う。前世で人と組んでいた時の感覚に近い。一度目は間に合わず、木剣を止められた。二度目は下がり過ぎた。三度目でようやく相手の踏み込みに合わせて横へ外れることが出来ると、稽古相手の強張っていた眉が僅かに開き、「今のは良うございました」と素直に褒められた。こちらも少し嬉しくなった。
もちろん、俺が強いという話ではない。相手は俺に合わせて動いているし、本気で打ち込まれれば何も出来ないだろう。それでも、自分が今どこまで出来て、何が出来ないのかが分かるのは面白かった。知識があるから最初から上手いのではない。どこが悪いかを考える材料が少し多い。それだけだった。
稽古が一通り終わる頃には、空に出ていた朝の薄雲もかなり流れ、観音寺城の庭には柔らかな日が差していた。汗を拭い、着替えを済ませてから自室へ戻る。千代丸も一緒だったが、今日はもう三人待たせている。
部屋へ入ると、いつもの女と、二人の男が控えていた。これまで何度も使ってきた三人だ。一人は人や荷がどの道を通ったのかを見るのが上手い。道の状態、近道、馬が通った跡、最近人が増えたか減ったかといった現場を見る時に頼りになる。もう一人は商人へ紛れ、値や荷の動き、市でどんな噂が流れているのかを拾うのが得意だ。そして女は、人そのものを見る。
だが、改めて三人を目の前にすると、妙なことに気付いた。俺はこの三人を何度も動かしている。誰に何を見てほしいかも分かるようになってきた。それなのに、まともに名前を呼んだことがない。三雲対馬守を通して紹介された時も、役目の方ばかり気にしていた。三人も甲賀の者だからなのか、自分から名乗りを強く求めることはなかった。俺自身、「女」「道を見る者」「商いを見る者」で頭の中では区別出来ていたため、そのままにしてしまった。
急にそれが気になった。
「そういえば、いつまでも『お前』では不便じゃな」
三人がほぼ同時にこちらを見る。女は僅かに首を傾げ、道を見る男は表情を変えず、商いを見る男だけが目の奥に小さな笑いを浮かべたように見えた。
「何がでございましょう」
「名じゃ。俺はお前たちを動かしておるのに、まともに名を聞いておらん」
そう言うと、三人の間にほんの僅かな間が出来た。道を見る男が女へ一瞬だけ視線を送り、女も同じように商いを見る男へ目をやる。声も出さず、それでも互いに「どうする」と確かめているように見えたので、こちらから付け加えた。
「本名を聞こうというのではない。甲賀の者なら、名をそのまま出したくないこともあるのだろう。俺が呼ぶための名でよい。今後も使うつもりなら、いつまでも役目だけで呼ぶわけにもいかぬ」
最初に頭を下げたのは女だった。普段から表情の変化が小さい女だが、この時は少しだけ考えが決まったように目元の力が抜けた。
「では、篠とお呼びくださいませ」
「篠」
口にしてみる。短く、覚えやすい。女は呼ばれても何も変わらない顔をしていたが、ほんの僅かに顎を引いた。
「それは本名か」
「若様がお知りになる必要のある名にございます」
「上手く逃げたな」
「甲賀者にございますので」
今度は口元がほんの少し緩んだ。笑ったのかもしれない。
次に、道を見る男が頭を下げる。篠よりもさらに表情が乏しく、目線も真っ直ぐこちらへ向けるだけで余計な動きがない。
「弥七と」
「弥七」
「はい」
「お前も、それ以上は聞くなということか」
「御用に不足がございませんでしたら」
声にも顔にも余計なものがない。その簡潔さが、かえってこの男らしく感じられた。
「分かった」
最後の男は、こちらが目を向ける前から少し口角を上げていた。三人の中では一番、商人や人足の中へ紛れた時に自然なのだろうと思わせる柔らかさがある。
「宗兵衛にございます」
「宗兵衛。お前は随分普通に名乗るな」
「普通に聞こえる名を使うのが一番目立ちませぬ」
「なるほど」
宗兵衛はそう言いながら、わずかに肩をすくめた。その仕草まで含めて、なるほど商人の中へ入るのが上手そうだと妙に納得する。
三人の名を頭の中でもう一度並べた。篠。弥七。宗兵衛。それぞれらしいと言えば、それぞれらしかった。たったそれだけのことなのに、三人が急に今までより人間らしく見えた気がする。もちろん、前から人間だった。ただ俺の中で「甲賀者」という役目が先に立ち過ぎていたのだと思う。関の件では情報を集める目として、梅酸丸では人や商いの動きを拾う目として、必要なものを持ってきてくれる者として見ていた。けれど、目の前にはそれぞれ違う顔があり、違う癖があり、俺の言葉を聞いた時の反応も同じではない。篠はほとんど表情を動かさない代わりに、考えている時だけ瞬きが減る。弥七は余計なことを言わず、必要がなければ口元すら動かさない。宗兵衛は一見柔らかいが、こちらの言葉を聞く時には目だけが先に細くなり、頭の中で損得や意味を測っているように見える。三人には三人の得意不得意があり、考え方があり、おそらく俺にはまだ見せていない暮らしも家族もある。以前、関で暮らす人々を数字の一部としてしか見ていなかったのと、少し似ている。
「若様?」
篠に呼ばれ、考えから戻った。俺が三人を順に眺め過ぎていたらしく、篠は普段と変わらぬ顔をしているものの、わずかに訝しげに首を傾けていた。
「いや。今まで名前も聞かずに使っておったと思ってな」
「それで困ったことはございませぬ」
「俺が困る」
「若様が、でございますか」
篠の眉がほんの少しだけ上がる。珍しく、本当に不思議そうな顔だった。
「ああ。誰に何を頼んだか、後で分からなくなる」
半分は本当だった。だが、それだけではない。名前で呼んだ方が、誰に何を任せ、誰が何を返してきたのかを俺自身が意識しやすい。それは帳面のためだけではなく、人を使う側として必要なことに思えた。
「それに、お前たちは同じではない」
三人を見る。弥七は姿勢を変えず、宗兵衛は少しだけ目を細め、篠は俺の次の言葉を待つように正面から視線を向けている。
「弥七は道を見るのが上手い。宗兵衛は商いと噂。篠は人を見る。三人へ同じことをさせるつもりはない。得意なことが違うなら、その違いを使った方がよい」
宗兵衛の目が僅かに細くなった。笑っているわけではなく、こちらの考えを測っている時の顔らしい。
「甲賀者を、そのように分けてお使いになるので?」
「駄目か」
「いいえ。ただ、珍しゅうございます」
そう答えながら宗兵衛は一度だけ弥七へ視線を向けた。弥七はほとんど反応を見せなかったが、ほんの僅かに顎を引いたので、宗兵衛の言葉に同意しているのだろう。
「普通は違うのか」
「必要なところへ必要な者を入れまする。ただ、若様ほど細かく『誰が何を見るか』を分けて考える御方は、あまりおりませぬ」
「そうか」
俺にはその方が自然に思える。同じことを三人へさせる意味がある時もある。最初の噂の時のように、同じ問題を別の目で見れば違いを比べられる。だが、いつも三人全員へ同じことをさせる必要はない。適材適所という言葉は前世ならありふれていたが、人を動かす立場になってみると、その「適」を知ること自体が思っていたより難しい。本人が何を得意としているかだけでなく、何を嫌がり、どんな場所で力を出し、どこでは見落としが増えるのかまで知らなければ、本当の意味で任せたことにはならないのだろう。
「篠」
「はい」
呼ぶと、篠はすぐにこちらへ目を向けた。名を呼ばれることにまだ慣れていないのか、返事の前にほんの僅かな間があった。
「先ほど俺の弓を見ておったな」
「はい」
「これからも、俺がおかしなことをしていたら言え」
篠が少し目を瞬いた。驚きは小さいが、それでも普段より明らかに反応がある。
「武稽古についても、でございますか」
「技を教えろとは言わぬ。お前が見たことを言え。疲れて動きが変わったとか、普段と違うとか、それでよい」
篠は一度だけ視線を下げ、俺の腕の辺りを見てから、また顔を上げた。先ほどの稽古を思い返しているように見える。
「承知いたしました」
「弥七」
「はっ」
「俺が城の外へ出る時は、道の方を頼む。危険があるかだけではない。人が多いか、馬が通れるか、雨の後ならどうなるか。俺はまだ近江の道を知らぬ」
弥七はほとんど表情を変えない。ただ、役目を聞いた瞬間に背筋が僅かに伸びたのが分かった。
「御任せを」
「宗兵衛」
「はい」
「市や商人を見る時は、これまで通り頼む。ただし値だけではなく、誰が何を買い始めたかも見てほしい。梅酸丸とは関係ないものでもよい」
宗兵衛の口元から笑いが消え、今度は本当に考える顔になった。
「何故にございます?」
「変化の前には、何かが動くかもしれぬ」
言いながら、自分でも随分曖昧な頼みだと思った。宗兵衛も同じように感じたらしく、少し眉を寄せたままこちらを見ている。
「何が重要か、今の俺には分からん。だから、変わったことがあれば持ってきてほしい。ただし、お前の考えと、実際に見たことは分けろ」
宗兵衛の眉間の皺がほどけ、今度は納得したように小さく頷いた。
「承知いたしました」
三人が揃って頭を下げる。その姿を見ながら、妙な感覚があった。自分の人間が増えた、とでも言えばいいのだろうか。千代丸が初めて俺の小姓として来た時にも似たことを感じた。ただ、あの時より少し違う。千代丸は父上が俺の側へ置いた者だった。この三人も元を辿れば対馬守が選び、父上の許しで付けられた者だ。それでも今、誰に何を見てほしいかを決めているのは俺で、その頼み方によって三人が危険な場所へ行くこともあれば、誰かと敵対することもある。その分だけ、責任もこちらへ寄ってくる。
「一つだけ言っておく」
三人が顔を上げる。篠は静かに、弥七は真っ直ぐ、宗兵衛は少しだけ探るような目でこちらを見る。
「俺は、お前たちを死ぬために使うつもりはない」
言った瞬間、三人の表情がそれぞれ違う形で変わった。弥七は僅かに眉を寄せ、宗兵衛は一度だけ瞬きを止め、篠だけは目元の動きこそ小さいものの、明らかにこちらを見直すように視線を強くした。
「危ないことをするな、とは言わぬ。そんなことを言えば甲賀者を使う意味が無いことくらいは分かる。だが、俺が知りたいというだけで無駄に命を張るな。戻ってきて報告するところまでが役目じゃ」
弥七が少しだけ困ったような顔をした。普段表情をほとんど変えない男なので、それだけでも随分分かりやすい。
「若様。それは、時と場合にございます」
「分かっておる」
戦国の世で絶対に死ぬなと言っても無理なのは分かる。敵地へ入れば見つかることもある。逃げられない時もある。誰かを守るために危険を引き受けなければならないことだってあるだろう。それでも、少なくとも「忍だから死んでも構わない」とは考えたくなかった。
「どうしても選ばねばならぬ時まで、勝手に命を捨てるなということじゃ。死ねば終わりではない。お前たちが見たことも、知ったことも、そこで途切れる。戻ってきて初めて、俺の目になる」
その言葉に、宗兵衛の表情からいつもの柔らかさが消えた。少しだけ真面目な目で俺を見てから、先に頭を下げる。
「……承知いたしました」
弥七も続き、最後に篠が頭を下げた。ただし篠だけは、その前に少し長く俺を見ていた。何か言いたいのは分かったが、こちらから促さなければ黙るつもりらしい。
「何じゃ」
「いえ」
「言え」
篠は一度だけ視線を外し、宗兵衛と弥七の方を見た。二人とも余計な口を挟む気はないらしく、静かに座っている。それを確かめてから、もう一度俺へ目を戻した。
「若様は、甲賀者を随分変わった使い方をなされまする」
「またそれか」
「人を斬れとも、火を放てとも、誰かを攫えとも、今まで一度も仰いませぬ」
「今は必要ないからな」
「そして、死ぬなと仰る」
「おかしいか」
篠はすぐには答えなかった。口元は結ばれたままだが、目だけが僅かに揺れ、どう答えるべきか迷っているのが伝わる。やがて、ほんの少し肩の力を抜いた。
「少し」
「少しか」
「ですが、嫌ではございませぬ」
そう言った時だけ、篠の口元がほんの僅かに柔らかくなった。笑顔と呼べるほどではない。それでも、これまで見てきた中では珍しい表情だった。
俺もそれ以上は聞かなかった。こういう時に踏み込み過ぎれば、かえって何も見えなくなる気がした。
三人を下がらせた後、千代丸が残った。障子が閉じる音を聞いてから、千代丸はしばらく黙っていたが、やがてこちらを見て、いかにも何か言いたそうに口元を曲げた。
「若様」
「なんじゃ」
「篠殿を随分お気に入りでございますな」
「何故そうなる」
「一番よく話されておりますので」
千代丸の目には完全に面白がっている色が浮かんでいた。こういう時だけ年相応の少年らしい顔になる。
「一番よく持ってくる情報が、人の話だからじゃ」
「左様でございますか」
「その顔は何じゃ」
「何でもございませぬ」
口ではそう言いながら、目元も口元も全く何でもない顔ではなかった。絶対に何か考えているのは分かったが、追及するのも面倒なので放っておいた。
それより、自分の腕の方が重い。弓を引いた疲れがまだ残っている。左肩を回すと、軽い張りがあった。
「千代丸」
「はい」
「明日も弓じゃ」
さっきまで笑っていた千代丸の顔が、一瞬で呆れたようなものへ変わった。
「御休みになられた方がよろしいのでは」
「毎日同じところを使うつもりはない。明日は軽く形だけ確かめる」
「また帳面に書かれるのですか」
「……少しは書く」
千代丸が声を立てずに笑い、俺もつられて少しだけ笑った。
その夜、自室へ戻ってから、今日の稽古について帳面を開いた。以前なら「六本射て一本だけまとも」と書いて終わっていたかもしれない。だが、今はそれだけでは足りないと分かっている。三本目辺りから左肩が上がり、四本目の前には左手を握り直した。五本目では構える前から肩の高さが変わり、六本目ではそこばかりを意識したせいで引きが浅くなった。数字だけ見れば酷い結果でも、そこまで残しておけば次に何を見るべきかが分かる。何本当たったかだけではなく、どの辺りから身体が崩れ、何を意識した時に別のところが悪くなったのか。その流れを残す方が、今の俺にはよほど意味がある。
そして、今日もう一つ書き残しておきたいことがあった。篠は人を見る。言葉そのものより、顔や仕草、言わなかったことまで拾う。弥七は道を見る。人や馬がどこを通り、どこが危険で、どこなら逃げられるのかを現場で確かめる。宗兵衛は商いを見る。値、荷、商人の動き、噂の広がり方を見る。三人の名と役目を並べて書くと、今まで「甲賀者三人」としか見えていなかったものが、少しだけ輪郭を持って見えるようになった。まだ父上や対馬守の影から完全に離れたわけではないし、俺自身も三人を使いこなしているなどと言える段階ではない。それでも、誰に何を頼み、誰がどう返してきたのかを意識するだけで、自分の手元に出来つつあるものの形が少し分かる。
商い。帳面。情報。そして武。どれか一つだけでよいわけではないのだろう。六角の嫡男として生きるなら、全部必要になる。前世の知識があれば何でも上手くいく、などとはもう思っていない。弓一本ですら、頭で分かっているだけでは当たらない。今の身体で覚え直し、失敗し、その理由を探し、また試すしかない。人を使うことも同じだ。名前を知っただけで三人を分かった気になってはいけない。篠が何を見落とし、弥七がどこで判断を誤り、宗兵衛がどんな噂に引っ張られるのかは、これから使い、話し、間違えながら知っていくしかない。
帳面の最後に三人の名をもう一度見てから、俺は筆を置いた。昼間、篠が「若様を見ていた」と言った時の、あのほとんど動かない顔を思い出す。弥七が「時と場合」と言った時に見せた僅かな困惑も、宗兵衛が俺の命令を測るように目を細めた顔も、今なら前より少しは意味を持って見える。人の表情も、数字と同じなのかもしれない。見たから分かるのではなく、前と比べて初めて変化に気付くことがある。
明日になれば、また違うものが見えるだろう。その時に、今日より少しだけましに見られればいい。武稽古も、人を使うことも、どうやら一度で身に付くようなものではなさそうだった。