あれから幾年かが過ぎた。自分では毎日同じ顔を見ているから分かりにくいが、久しぶりに会う者から「大きくなられましたな」と言われることが増え、数えで十四となった身体は、まだ幼さを残しながらも以前とは比べものにならないほど動くようになっていた。数本弓を引いただけで左肩が上がり、頭の中に残る前世の感覚へ身体が追いつかないことに苛立っていた頃から考えれば、今では自分の身体がどこまで動き、どの辺りから崩れるのかもある程度分かるようになった。腕も伸び、肩回りにも肉が付き、木剣を持った時も相手の動きを見るだけで精一杯ということはない。それでも大人の武者を相手にすれば力では敵わず、弓も毎回思った場所へ飛ぶほど上手くはない。前世で知っていたことをそのまま持ち込むのではなく、知識を材料に今の身体で覚え直す。そのやり方だけは、何年経っても変わらなかった。
変わったのは身体だけではない。梅酸丸は、もう俺が一つ一つ出来を確認しなければ売れない物ではなくなり、作る者と売る者が決めた範囲の中で動けるようになっていた。関を変えたことで衰えた旧い市場も、昔の姿へ戻ったわけではないが、周囲の村から少量ずつ荷を集める場所として役目を持ち続けている。半年、一年と数字を追い、新しい道の宿や人足を潰すほど人の流れが変わっていないことも確認した。篠、弥七、宗兵衛の三人も、今では頼む前からこちらが何を知りたがっているのかをある程度察するようになっていた。ただし、察したからと勝手に動くことだけはさせていない。篠が人を見て、弥七が道と現場を見て、宗兵衛が商人や荷の流れを見る。その違いは年月とともにはっきりしてきたが、三人をどう使うかを決めるのは俺であり、その判断に責任を持つのも俺だ。自分の人間が出来たと喜ぶより、三人が持ってきたものをどう使うかを間違えないことの方が、今ではずっと重く感じられる。
評定についても、以前のように廊下から覗き込んでいるだけではなくなった。六角家の全てを決める場へ一人前として加わっているわけではないが、父上から呼ばれれば末席へ座り、話を聞き、時には「そなたならどう見る」と問われる。最初の頃は、分かることと分からないことを区別するだけで精一杯だった。それが今では、少なくとも自分が何を知らないのかを以前より早く見つけられるようになったと思う。もっとも、父上や蒲生下野守、後藤但馬守たちの話を聞いていると、俺が帳面を何冊埋めようが、積んできた年数そのものには敵わないと思い知らされることも多い。数字で比べられるものならまだいい。誰が何を言わずにいるのか、どの家とどの家が昔からどんな因縁を持っているのか、表面上の賛成と本心からの賛成がどう違うのか。そういうものは、篠が人の顔を見るのと同じように、俺自身が時間を掛けて覚えていくしかない。
その日の評定でも、俺はほとんど話を聞いているだけだった。京と三好のこと、朽木に在る公方様のこと、近江を通る商人から上がってくる話。父上と蒲生下野守が何度か言葉を交わし、後藤但馬守が低い声で補足を入れ、対馬守はいつものように余計な口を挟まず全体を見ていた。評定が終わり、皆が順に立ち上がる中で俺も腰を上げようとすると、上座の父上から声が掛かった。
「亀松丸。そなたは残れ」
思わず動きを止めた。昔ならこの一言だけで「何かやったか」と考えていたが、さすがに今では毎回叱られると思うほど子供でもない。ただ、父上の横に平井加賀守が残り、その加賀守がいつもより少し硬い顔をしていることには気付いた。怒っているわけではなく、背筋を真っ直ぐ伸ばし、口元を引き締めながらも、目の奥にはどこか落ち着かないものがある。隣には千代丸も控えていて、こちらは父親以上に緊張しているらしく、膝の上へ置いた手の指先が僅かに強く握られていた。
「何でございましょう、父上」
皆が退出した後で座り直すと、父上はすぐには答えなかった。こちらを上から下まで一度眺め、その視線が昔より長くなった俺の腕や肩へ移り、最後に顔へ戻ってくる。その見方が、久しぶりに会った親戚が子供の成長を確かめるようなものに見えて、少し居心地が悪い。
「大きくなったな」
「急に何でございます」
「父が子を見てそう思うことがおかしいか」
「おかしくはございませぬが、評定の後にわざわざ残されて言われれば、他に何かあると思いまする」
そう答えると、父上の口元が僅かに緩んだ。その横で加賀守も視線を下げながら小さく笑っている。千代丸だけは何の話なのか完全には聞かされていないらしく、俺と父上を交互に見ていた。
「相変わらず可愛げがないのう」
「父上に似たのでございましょう」
「誰がそのような口を利けと教えた」
叱るような言葉とは裏腹に、父上の目には笑いが残っていた。だが、その笑みは長く続かなかった。一度息を吐くと、父上は膝へ置いた手を正し、当主として話す時の顔へ戻った。
「亀松丸。そなたも、そろそろ幼名を捨てる頃じゃ」
予想していなかったわけではない。むしろ、いつ言われてもおかしくないと思っていた。それでも実際に父上の口から聞くと、胸の奥が一瞬だけ重くなった。
「元服、でございますか」
「そうじゃ」
父上は短く頷いた。その横で加賀守が姿勢を正す。
「そして、そなたより先に一人、幼名を捨てる者がおる」
父上の視線が千代丸へ向く。俺もつられて横を見ると、千代丸の肩が僅かに動いた。どうやらまったく知らなかったわけではないらしい。ただ、父上の前で正式に話が出たことで、ようやく現実になったという顔をしていた。
「千代丸も、でございますか」
「若様より僅かとはいえ年長にございます」
答えたのは加賀守だった。自分の息子へ目を向けた時、普段評定で見る武将の顔とは違い、目尻が僅かに柔らかくなっている。
「本来ならば、もう少し早うても不思議ではございませぬ。ただ、若様のお側に幼き頃より仕えて参りましたゆえ、某も頃合いを見ておりました」
「俺に合わせて遅らせておったのか?」
思わず千代丸を見ると、本人は慌てたように首を振った。
「い、いえ、そのようなことでは」
「そなたに聞いておらぬ」
「若様」
千代丸が困った顔をする。その顔が昔とほとんど変わらないことに、妙な安心を覚えた。
加賀守はそんな息子を見て少しだけ口元を緩めた後、俺へ視線を戻した。
「若様のためだけではございませぬ。この者にもまだ幼いところがございましたので。ただ、もう頃合いでございましょう。御屋形様にも御相談し、先に元服させることとなりました」
「先に、か」
その言葉を口の中で繰り返す。千代丸が先に幼名を捨てる。そして、その後に俺も亀松丸ではなくなる。自分のことだけを聞いた時より、そちらの方が妙に現実味があった。生まれてからずっと亀松丸だった俺と、俺の側へ来てからずっと千代丸だった少年。その片方が先に別の名になる。
「千代丸」
「はい」
「よかったな」
何を言うべきか少し迷った末に出てきた言葉がそれだった。千代丸は一瞬目を丸くし、それから緊張で強張っていた口元を少しだけ緩める。
「ありがとうございまする」
その返事を聞きながら、俺は初めて、この少年を「千代丸」と呼べる時間が本当に残り少ないのだと理解した。
千代丸の元服は、それから間を置かずに行われた。六角家の嫡男である俺の元服とは規模も意味も違うが、平井家にとって嫡男の元服が大事でないはずはなく、加賀守は普段より早くから落ち着かない様子を見せていた。当の千代丸は前日まで「いつも通りでございます」と言い張っていたものの、朝になって顔を合わせると、いつもなら真っ先に俺の身支度へ手を出すところを自分の袖へ何度も目を落とし、帯が曲がっていないか気にしている。こちらが見ていることに気付くとすぐ真面目な顔を作ったが、耳が少し赤い。
「緊張しておるな」
「しておりませぬ」
「では、その帯を三度も触っておるのは何故じゃ」
指摘すると、千代丸の手がぴたりと止まった。少し離れたところに控えていた篠の口元がほんの僅かに動き、弥七は顔を変えないまま目線だけを千代丸の手へ落とした。宗兵衛に至っては隠す気もないらしく、肩を揺らしている。
「皆して見るでない」
珍しく千代丸が声を強めたので、今度は俺まで笑ってしまった。
「今日までじゃからな」
「何がでございます」
「俺が好きに千代丸と呼べるのが」
言った瞬間、千代丸の表情が変わった。先ほどまでの恥ずかしさが消え、代わりに少し寂しそうなものが目元へ浮かぶ。ただ、それを見せるのが照れ臭いのか、すぐ視線を下へ落とした。
「……若様も、間もなくにございます」
「ああ」
「ならば、お互い様にございますな」
そう言って顔を上げた千代丸は、今度はきちんと笑っていた。
儀式そのものは、俺が前世で想像していたほど派手ではなかった。幼い頃とは違う髪を整え、烏帽子を着け、童子の姿から一人の武家の男として扱われる形へ変わる。父である加賀守は終始厳しい顔を崩さなかったが、息子の姿が整った瞬間だけ、目元が僅かに細くなったのを俺は見逃さなかった。あれは家臣を評価する顔ではない。自分の子が成長したことを見ている父親の顔だった。俺が父上から向けられる視線にも、同じものが混じっていることがある。以前なら気付かなかっただろう。
そして、名も変わった。
平井千代丸ではなく、平井弥太郎高明。
聞いた瞬間、前世の記憶の中にあった名と、目の前の少年――いや、もう少年と呼ぶべきか迷う姿がようやく一つに重なった。初めて会った日、俺は平井定武の嫡男だと聞きながら、「この千代丸が後の平井弥太郎高明なのか」と頭の中だけで確かめていた。あの時には未来の名前だったものが、今は本人の名前として俺の前にある。
儀式が終わり、しばらくして二人きりになった時だった。
「千代丸」
「はい」
返事をしてから、弥太郎が止まった。俺も止まった。互いに相手の顔を見て、ほとんど同時に気付く。
「あ」
「あ」
弥太郎の眉が僅かに上がり、俺も自分の口から出た名前に気付く。数秒見つめ合った後、弥太郎の口元がゆっくりと上がった。
「若様」
「分かっておる」
「まだ何も申しておりませぬ」
「顔に書いてある」
「若様ほどではございませぬ」
「篠のようなことを言うようになったな」
思わず苦笑し、それから改めて目の前の男を見る。服装も髪も変わっている。昨日までと同じ顔なのに、確かに少しだけ違って見える。
「弥太郎」
呼び直すと、今度は返事まで少し間があった。
「……はい」
「そなたも慣れておらぬではないか」
「当然にございます。今日からでございますので」
「ならば俺だけを笑うな」
「笑ってはおりませぬ」
そう言いながら口元には笑みが残っている。
「それに――」
弥太郎はそこで言葉を止め、少しだけ俺を見た。目の中に先ほどまでのからかいとは違うものが浮かぶ。
「若様を亀松丸様とお呼び出来るのも、もう僅かにございます」
不意に言われて、今度は俺が黙った。自分が元服することは分かっている。六角義治になることも、もっと昔から分かっていた。だが、亀松丸という名が無くなることを、俺はきちんと考えていなかった。
前世では生まれてから死ぬまで同じ名を使っていた。大人になったからといって、昨日まで呼ばれていた名前を捨てることなどなかった。だから元服を歴史の知識として知っていても、「幼名を捨てる」という感覚を本当の意味では理解していなかったのだろう。
「そうじゃな」
ようやくそう答えると、弥太郎は何も言わず頭を下げた。その表情は穏やかだったが、長く側にいた名前との別れを感じているのは俺だけではないように見えた。
俺の元服の日も、それからほどなくして決まった。その準備が始まると、観音寺城の空気は弥太郎の時とはまるで違った。六角家嫡男の元服である以上、俺個人の祝いだけでは済まない。蒲生下野守、後藤但馬守、進藤山城守、三雲対馬守、目賀田次郎左衛門尉、平井加賀守をはじめ、六角を支える者たちが顔を揃え、その先にはそれぞれの家と国人がいる。俺が幼名を捨てるということは、六角家が次の当主となる男を内外へ示すことでもある。これまで何度も評定で顔を合わせ、俺が何をするのか見てきた者たちが、今度は子供ではなく元服した嫡男として俺を見る。そのことを考えると、武稽古の前とは別の種類の緊張が腹の底へ沈んだ。
前日の夜、父上の部屋へ呼ばれた。中へ入ると父上は一人で、灯明の光が横顔へ落ち、昼間の評定より幾分柔らかい顔に見える。俺が座ると、父上はしばらく何も言わずこちらを見ていた。最近、この沈黙が増えた気がする。昔は俺が何か言う前に父上が先へ進めることが多かった。それが今では、自分で考えて口を開くのを待っていることがある。
「緊張しておるか」
「少しは」
「弥太郎の時には随分楽しそうにしておったではないか」
「見る側とされる側では違いまする」
「それもそうじゃな」
父上は小さく笑った。
「名について話しておこう」
その一言で、背筋が自然に伸びた。
「はい」
「公方様より一字を賜る」
分かっていたはずなのに、心臓が一度だけ強く打った。
「『義』じゃ」
足利義輝。今は朽木に在る将軍から与えられる一字。前世の知識の中でも、六角義治という名の「義」が将軍家から来るものであることは知っていた。父上自身もまた、将軍家との関わりの中で名を得ている。六角家にとって、それは単に格好の良い一字を使うという話ではない。公方と六角の関係を示し、俺がその関係の中へ正式に入ることを意味する。
「そして、治」
父上が続ける。
「そなたは、義治と名乗れ」
六角義治。
その四文字が、部屋の中で声になった。
ずっと知っていた名前だった。まだ赤子の頃、この家が六角で、父上が義賢で、自分がその嫡男だと知った時から、いつか自分が名乗ると分かっていた名前。前世で読んだ物語の中では、決して良い印象だけの名ではなかった。短慮で、周囲との関係を誤り、朽木基綱と対立し、六角を危うくしていく人物。その六角義治を、俺は読む側として知っていた。
だが今、父上の口から告げられた「義治」は、あの物語の中の男の名前ではなかった。
俺の名前だった。
「どうした」
父上の声で我に返る。俺が黙り込んでいたので、不思議に思ったらしい。眉を僅かに寄せている。
「いえ」
「名が気に入らぬか」
「まさか。良い名だと思いまする」
「そうか」
父上の眉間から力が抜けた。ただ、俺が何を考えていたのかまでは分からないだろう。
名前を知っていたからといって、その人間になるわけではない。だが、違う人間だと思っているだけで、違う未来になるわけでもない。俺はこの数年で、それを嫌というほど学んだ。関銭を変えた時、自分では正しいと思っていた。数字も良かった。それでも見えていなかった人間がいた。善意で元へ戻せば、それも別の誰かを傷付けたかもしれない。ならば未来を知っていることも同じだ。「六角義治はこうなる」と知っているだけでは、避けたことにはならない。明日から俺が何をするか、誰の言葉を聞き、誰の言葉を聞き流し、どこで立ち止まり、どこで決めるか。その積み重ねの先でしか、俺の六角義治は出来上がらないのだろう。
「父上」
「なんじゃ」
「この名、恥じぬようにいたしまする」
そう言うと、父上は一瞬だけ目を見開いた。あまりに真面目な答えが返ってくるとは思っていなかったのかもしれない。だが、すぐに目元を緩めた。
「名を恥じるかどうかなど、死ぬ間際に考えればよい」
「随分先の話でございますな」
「ならば、それまで恥じぬように生きよ」
いかにも父上らしい言い方だった。
元服の日、観音寺城には朝から普段とは違う緊張があった。俺自身が見慣れない装束へ身を包み、髪を整えられていく間も、周囲の者たちはいつも以上に静かだった。弥太郎は側に控えながら、何度か何か言いたそうにこちらを見る。それでも今は口を挟む場ではないと思っているのか、視線が合うたび僅かに頭を下げるだけだった。篠たち三人も、今日は仕事の報告ではなく必要な時に動けるよう離れた位置へ控えている。篠の顔はいつも通りほとんど動いていなかったが、俺が慣れない装束の袖を気にして一度手を動かした時、口元がほんの少し緩んだのを見た。
重臣たちの前へ出る。蒲生下野守はいつものように落ち着いた顔で座り、その目には俺を測る鋭さと、幼い頃から見てきた者の柔らかさが同居していた。後藤但馬守は口元を固く結びながらも、俺と目が合うと小さく頷いた。進藤山城守は表情を崩さない。対馬守は俺より、その周囲にいる者たちの反応を見ているように思えた。目賀田次郎左衛門尉は僅かに目を細め、加賀守の隣には元服したばかりの弥太郎が控えている。その弥太郎が、俺と目が合った瞬間だけ、昨日までの千代丸と同じ顔で笑った。その顔を見たことで、少しだけ肩の力が抜けた。
儀式が進み、烏帽子を戴き、幼い姿から武家の男としての姿へ変わる。そして、人々の前で新しい名が告げられた。
六角義治。
前夜に父上から聞いた時ほどの衝撃はなかった。むしろ、腹の奥へ静かに収まっていくような感覚だった。亀松丸という名前で生きてきた時間が消えるわけではない。六角義治になった瞬間に別人になるわけでもない。関銭の失敗も、梅酸丸の試行錯誤も、武稽古で的を外し続けたことも、篠たちをどう使えばいいか分からず迷ったことも、その全部を持ったまま名前だけが変わる。そう考えると、少し気が楽になった。
儀式が終わり、人が少しずつ退いた後で、弥太郎が俺の側へ来た。元服したばかりの互いの姿を見比べるようにしながら、しばらく何も言わない。
「何じゃ」
俺から声を掛けると、弥太郎は少しだけ困った顔をした。
「いえ。何と申せばよいものかと」
「昨日までは普通に話しておったではないか」
「昨日までは、亀松丸様でございましたので」
「だから、名で呼ぶことは元から無かったであろう」
六角家の家臣である弥太郎が、俺を直接「義治」と呼ぶわけではない。元服しても、呼び掛けるなら今まで通り若様だ。
弥太郎は少し考え、それから小さく笑った。
「それもそうでございますな。若様は若様にございます」
「何じゃ、それは」
「篠なら、そう申すかと思いまして」
「人の言葉を勝手に使うな」
そう言ったところで、少し離れていた篠がこちらを見る。
「何でございましょう」
「呼んでおらぬ」
「左様にございますか」
篠はそれだけ答えて視線を戻した。だが、その口元が僅かに緩んでいる。弥太郎が声を立てないように笑った。
「やはり、変わりませぬな」
「何がじゃ」
「名が変わっても、若様は若様にございます」
その言葉を聞いて、今度は俺も笑った。
名前が変わったからといって、今朝までの俺が消えるわけではない。ただ、外から見た意味は確実に変わる。もう俺は、幼名を持つ六角家の子供ではない。六角義治という名を持ち、いずれこの家を継ぐ者として公の場へ出ることになる。その変化を実感する出来事は、元服からそう日を置かずにやって来た。
父上に呼ばれて部屋へ入ると、その日は蒲生下野守と後藤但馬守も同席していた。元服祝いの続きではないことは、三人の顔を見ればすぐ分かった。父上の前には一通の書状が置かれており、俺が座るのを待ってから父上が口を開く。
「義治」
「はい」
まだ新しい名で呼ばれることには少し慣れない。返事が僅かに遅れたのを父上も気付いたらしく、目元がほんの少し動いたが、何も言わなかった。
「朝廷より沙汰があった」
「私に、でございますか」
「そうじゃ」
父上は膝の前に置かれた書状へ一度視線を落とした。
「そなたを、右衛門督に任ずるとのことじゃ」
一瞬、何を言われたのか頭の中で言葉を組み直した。
右衛門督。
知っている。
これも前世から知っていた。
六角右衛門督義治。
小説の中で、そして六角義治という人物を調べた時に何度も目にした呼び名だった。それが今、名だけでなく官職まで含めて自分へ与えられる。
「右衛門督……」
思わず口にすると、父上の口元が僅かに緩んだ。
「不満か」
「いえ。ただ、まだ少し実感がございませぬ」
「元服して間もないからのう」
蒲生下野守が横から穏やかな声を挟む。その表情はいつもより僅かに柔らかいものの、目だけは俺の反応をよく見ていた。
「若様とお呼びする我らには大きく変わらぬように思えても、外ではそうは参りませぬ。これよりは六角右衛門督として見られることも増えましょう」
後藤但馬守も静かに頷いた。
「名だけではございませぬ。官を得れば、それだけ六角の嫡男として外へ示されるものも大きくなりまする」
その言葉で、胸の奥に別の重さが落ちた。元服の時には、「六角義治」という名を自分がどう生きるかばかり考えていた。だが、右衛門督という官職は俺一人の内面など関係なく、外から見た俺の立場を変える。京の公家も、他家の武士も、俺を六角家の幼い嫡男ではなく、六角右衛門督義治として見るようになる。
「公方様にも御取り成しをいただいた」
父上がそう続けた。
「忘れるでないぞ」
「はい」
偏諱の一字だけではなく、官職まで将軍家との関係の中にある。それを聞くと、右衛門督という名乗りが一層重く感じられた。
「これで、そなたも外へ出すに足る形は整った」
父上が言う。
「形は、でございますか」
「形だけ整って中身が追いついておらぬ者など、いくらでもおる」
淡々と言われ、返す言葉に困る。蒲生下野守が僅かに目を伏せ、笑いを隠しているように見えた。
「父上は、私を褒めるつもりがあるのでございますか」
「褒められたいのか」
「たまには」
「ならば右衛門督らしい働きをしてから来い」
「……分かりました」
完全に負けた気がする。
だが、父上はそこで少しだけ表情を緩めた。
「そう急ぐな。官を得たからと今日から別人になるわけではない。そなたが亀松丸であった頃に覚えたものが無くなるわけでもない。ただ、それを使う場がこれから増えるということじゃ」
その言葉は、元服の時に俺自身が考えたこととよく似ていた。
そして、父上の言う「使う場」は思っていたより早く来た。
右衛門督への任官からさらに少し後、再び評定の場へ京と朽木の話が上がった。公方様と三好の間の話が大きく動き、長く朽木に在った公方様が京へ戻られる見込みが立ったという。評定の中では京へ戻った後のこと、三好との関係、六角がどこまで関与するのか、護衛をどれほど出すのかが話されていた。元服前とは違い、今の俺が座っているのは部屋の末ではない。上座に座る父上から見て右手側、評定へ連なる者たちの先頭だった。蒲生下野守や後藤但馬守をはじめとする重臣たちより上座に置かれ、父上に最も近い出席者側の席から彼らの顔を見ることになる。その位置に初めて座った時には、畳二、三枚分しか違わないはずなのに、末席から見ていた評定とは景色そのものが変わったように感じた。誰が父上へ視線を向け、誰が俺の反応まで確かめ、どの言葉に誰の眉が動いたのかが以前より近く見える一方で、こちらの顔もまた全員から見られている。元服とは名前や装束だけが変わるものではなく、こうして家中で置かれる場所そのものまで変えるのだと、否応なく実感させられた。
だからといって、上座へ移った途端に俺の経験まで重臣たちを上回るわけではない。席順は六角家の嫡男、一門としての立場を示すものであって、政や戦の知識までそれに合わせて増えるわけではなかった。俺は余計に口を挟まず、父上と重臣たちのやり取りを聞きながら、必要なところだけ頭の中で整理していた。むしろ以前より上座に置かれたことで、自分の発言が単なる子供の感想として流されなくなる怖さの方が大きい。何かを言えば「六角の嫡男がそう考えている」という意味を持つ。そう思えば、末席にいた頃より黙っていることにも理由が必要になった。
やがて父上が俺を見る。
その視線に気付いた瞬間、何となく次に何が来るのか分かった。
「右衛門督」
初めてだった。
父上が俺を、義治でも亀松丸でもなく、官途名で呼んだ。
一瞬だけ、自分が呼ばれたのだと理解するのが遅れた。
「……はい」
「何を呆けておる」
「まだ慣れませぬ」
正直に答えると、俺より下座に並ぶ後藤但馬守の口元が僅かに動き、蒲生下野守も目元へ笑いを浮かべた。父上だけは呆れたように眉を寄せたが、その顔にも完全に笑いが無いわけではない。
「慣れぬなら慣れよ。そなたが右衛門督であることに変わりはない」
「はい」
背筋を伸ばす。
父上の表情が変わった。
「公方様が京へ戻られる」
「はい」
「六角からも兵を出す。護衛じゃ」
予想していた言葉だった。
「戦をしに行くのではない。公方様を朽木より京まで無事に御送りする。それが役目じゃ」
「承知いたしました」
「五百を出す」
五百。
数字だけを聞けば、これまで帳面で何度も扱ってきた数だった。商人五百人、荷駄五百、米五百俵。数字は同じでも、今度は人間五百人である。食う者が五百人。歩く者が五百人。命令を聞いて動く者が五百人。そして俺が間違えば、その五百人が別の方向へ動く。
「そなたが行け」
父上が続ける。
「私が、でございますか」
「何のために右衛門督となったと思っておる」
少し意地の悪い言い方に聞こえたが、父上の目は笑っていなかった。
「無論、そなた一人で五百を動かせと言うのではない。経験ある者を付ける。だが表に立つのはそなたじゃ。六角右衛門督義治として、公方様を京へ御送りせよ」
その言葉を聞いた瞬間、前世の記憶の中にあった場面が一つ浮かび上がった。
そうだ。
六角義治は、公方様が朽木から京へ戻る時に供をしている。
しかも、その時にはすでに右衛門督だった。
名前だけではない。官職まで同じところへ来た。
偶然という言葉で片付けるには、あまりに前世で知っていた物語に近い。
「義治」
父上の声に意識を戻す。
「はい」
「何を考えておる」
「大役だと思いまして」
「そう思えるなら結構。軽い仕事ではない」
父上はそこで言葉を切り、一度だけ蒲生下野守と視線を交わした。
「それと、朽木を見てこい」
その一言に、今度こそ心臓が僅かに強く打った。
「朽木を、でございますか」
「宮内少輔亡き後、幼子が家を継いだ土地とは思えぬと聞く。商いも、人の動きも、以前とは随分違うそうじゃ」
竹若丸。
朽木基綱。
俺が前世で読んでいた物語の主人公。
「噂を聞いて答えを決めるな」
父上の視線が真っ直ぐ俺へ向いた。
「そなたは、それで一度痛い目を見たであろう」
「……はい」
関のことだ。
「自分の目で見よ。何故、朽木が変わっておるのか。竹若丸という者がどういう者か。見て、聞いて、それから考えよ」
「承知いたしました」
それは、今の俺にとって一番ありがたい命令だった。
前世で知っている竹若丸。
報告の中で知った竹若丸。
そして、実際に目の前で見る竹若丸。
その三つが同じなのか、違うのか。
ずっと確かめたかった。
評定が終わって部屋を出ると、廊下の先に弥太郎が待っていた。こちらの顔を見るなり、何かあったと察したらしい。元服してから少し経ち、髪や装束にはもう違和感がなくなっているが、俺の表情を読む時の目は千代丸だった頃と変わらない。
「若様」
「弥太郎」
「はい」
「朽木へ行く」
弥太郎の眉が僅かに上がった。
「公方様にございますか」
「ああ。京へお戻りになる。六角から五百を出す」
そこまで言うと、弥太郎の表情が引き締まった。
「若様が率いられるので?」
「俺一人ではない。だが、表に立つのは俺だ」
「右衛門督として、でございますな」
弥太郎がそう言った。
一瞬、返事が遅れた。
「……お前までそう呼ぶのか」
「某は若様とお呼びいたしまする」
「ならば今のは何じゃ」
「確認にございます」
口元が少し笑っている。
「随分楽しそうじゃな」
「先日まで亀松丸様であった御方が、今では右衛門督として五百を率いて公方様をお迎えに行かれると思いますと」
「笑うところではなかろう」
「笑ってはおりませぬ」
明らかに笑っている。
「そなたはどうする」
問い返すと、弥太郎の表情から笑みが消えた。
「御命令があれば御供いたしまする」
「無くても来そうな顔をしておるな」
「若様のお側が役目にございますので」
その答えはあまりにも当然のようで、返す言葉がなかった。
その日の夜、自室へ戻って帳面を開いた。以前なら日付の下に「亀松丸」と書いていたところへ、今は「六角義治」と書く。その隣に、小さく「右衛門督」と加えてみた。
六角右衛門督義治。
前世で何度も見た呼び名だった。
だが、紙の上に自分の手で書くと、まるで別物に見える。
亀松丸から義治になり、義治から右衛門督義治になった。名前と官職だけを並べれば、俺は着実に前世で知っていた六角義治へ近付いているようにも見える。これから公方様を朽木から京へ御送りするという出来事まで同じなのだから、なおさらだった。
けれど、同じ道を歩いているからといって、同じところへ着くとは限らない。
少なくとも、そう信じたい。
関の問題で俺が学んだのは、結果だけを見て答えを決めないことだった。梅酸丸では、同じ材料名でも中身が同じとは限らないと知った。武稽古では、前世で出来たことでも今の身体では一から覚え直すしかなかった。名前だって同じなのだろう。六角義治という名が同じだからといって、中身まで同じになる必要はない。ただし、自分は違うと思い込むだけでは足りない。違う選択を積み重ねなければ、結局同じ場所へ辿り着くことだってある。
その最初の大きな節目が、もう目の前に来ていた。
公方様の帰京。
朽木。
竹若丸。
そして、前世の物語では六角義治と朽木基綱の関係が悪い方向へ進んでいく、その入口の一つ。
父上からは「自分の目で見ろ」と言われた。
ならば、その通りにする。
竹若丸がどんな顔で人の話を聞くのか。誰へどう声を掛けるのか。公方様や朽木の家臣たちが彼をどう見るのか。報告や前世の記憶ではなく、目の前にいる人間を見る。
帳面の最後に、明日から確認したいことをいくつか書き出した。五百の兵を動かすために必要な道、休む場所、食、馬の扱い。朽木へ入ってから見るべき人と物の動き。そして、竹若丸。
ただし、その名の横には何も書かなかった。
前世で知っている評価を書けば、それに引っ張られる気がしたからだ。
最後に、今日書いた自分の名へもう一度目を落とす。
六角右衛門督義治。
亀松丸という幼名を捨ててから、まだそれほど日が経っていない。それなのに、もう周囲は俺を次の段階へ押し出している。父上も、重臣たちも、朝廷も、公方様も、俺が心の中で名前に慣れるまで待ってはくれない。
元服とは、大人になったという証ではないのかもしれない。
大人として扱われ始める、その最初の日なのだろう。
筆を置き、墨が乾くのを待ってから帳面を閉じた。次にこれを開く時、俺はもう観音寺城の中で考えているだけではない。六角右衛門督義治として五百の兵と共に朽木へ入り、公方様を迎え、京へ向かうことになる。そしてそこで、前世から名前だけは知り続けてきた少年を、自分の目で見ることになる。
亀松丸として過ごした時間は終わった。
その代わりに始まった六角義治の最初の大仕事は、思っていたよりずっと早く、俺のところへやって来た。
まだ出会わんの?いつ出会うの?竹若丸ぅ!!