淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第二十二話「見る者たち」ー中編ー

 公方を迎えるための出立が数日後に迫った早朝、観音寺城の馬場には夜の冷気がまだ濃く残っていた。東の空は明るくなり始めているものの、山の端から日はまだ完全には顔を出しておらず、吐いた息が白く浮かんでは消えていく。厩から引き出された馬が鼻を鳴らし、地面を掻く蹄の音に混じって、馬の身体を拭く者や鞍を確認する者の声が低く響いていた。普段ならもう少し遅い時間から人が増える場所だが、公方帰京に伴う供奉を控えている今は、日の出前から馬を扱う者たちが忙しく動いている。その中に、まだ右衛門督という官途名より若様という呼び名の方が馴染んで見える義治の姿があった。

 

 平井弥太郎高明は、少し離れたところからその姿を眺めていた。元服したのは自分の方が僅かに先だったが、義治が元服し、さらに右衛門督へ任ぜられてからは、二人を取り巻くものが明らかに変わっている。これまでも六角家の嫡男であったことに違いはない。それでも、亀松丸という幼名で呼ばれていた頃は、家臣たちの態度の中にどこか「御屋形様の御子」という見方が残っていた。それが今では、評定へ出れば一門の最上座へ座り、家臣たちは義治から出された言葉を命として受け取り、今度は五百の兵を伴って公方を迎えに行く。弥太郎自身も幼い頃のように身の回りの世話だけをする小姓ではなくなり、義治の命を受けて人へ伝えたり、任されたものを確かめたりすることが増えた。自分が千代丸でなくなったのと同じように、若様も亀松丸ではなくなったのだと頭では理解している。それでも、目の前で馬の口元へ手を伸ばし、嫌がられて僅かに身体を引いた姿を見ると、その認識は時々簡単に崩れた。

 

「こら、動くな」

 

 義治が眉を寄せて言っても、馬には右衛門督という官など関係がない。鼻先を振って手を避け、今度は隣にいた馬扱いの男へ顔を寄せる。その様子を見ていた弥太郎が思わず口元を緩めると、すぐ義治に気付かれた。

 

「何を笑っておる」

 

「何も」

 

「今、笑ったであろう」

 

「馬にも御役目の軽重が分かるのかと思いまして」

 

「どういう意味じゃ」

 

「若様より、あちらの者の方が好かれておりまする」

 

 義治は不満そうな顔をしたが、言い返しても馬の態度が変わるわけではないと分かったのか、それ以上は何も言わなかった。代わりに馬を扱う男へ状態を尋ね、脚、蹄、鞍を載せた時の様子まで聞いた後、自分で全て確かめようとするのをやめて次の馬へ視線を向けた。少し前までなら、気になったものは自分で一通り見なければ納得しなかっただろう。今でもその性質は残っているが、馬のことなら自分より毎日馬を扱っている者の方が詳しいと認め、その言葉を聞いたうえで必要なところだけを見るようになった。ほんの小さな変化ではある。けれど幼い頃から側にいる弥太郎には、そういう小さな違いの方が分かりやすかった。

 

「弥太郎。供奉に出す馬のうち、荷を運ぶものはそちらで見ておいてくれ。某が全部見ておったら、昼になっても終わらぬ」

 

 近くでは馬を扱う者たちが行き交っている。そのせいか、義治の口から出たのは、弥太郎と二人きりの時に使う「俺」ではなく「某」だった。元服したばかりの頃は、その言葉を口にするたび僅かに間があり、聞いている弥太郎の方まで妙なむず痒さを覚えたものだが、評定や家臣たちの前で使ううちに、最近では以前ほど引っ掛からなくなっている。もっとも、声の調子や顔まで別人になったわけではない。任せると言いながらこちらの返事を確かめるように目を向けてくるところも、一度気にしたことを後でもう一度確認するところも昔のままだった。弥太郎が承知したと答えると、義治はすぐ次へ向かおうとしたが、二、三歩進んだところで足を止め、馬場の向こうに並ぶ馬と、その周囲を動き回る者たちをしばらく黙って見た。その横顔から先ほどまでの軽さが消えていることに気付き、弥太郎も笑みを収めた。

 

「弥太郎」

 

「はい」

 

「五百というのは、大きいな」

 

 何を今さら、と言いかけて弥太郎はやめた。義治が数字そのものの話をしているのではないと、声を聞けば分かったからだ。

 

「評定では何度も聞いた数じゃ。帳面にも似たような数を書いたことはある。だが、飯を揃え、馬を揃え、実際に動く者の顔を見ておると、同じ五百には見えぬ」

 

 義治の視線の先では、馬を曳いていく男が一人、鞍の紐を締め直す男が一人、その横では草鞋を運んできた若者が別の者に呼び止められている。五百と書けば一つの数で済むが、実際にそこへいる者たちは一人ずつ違う顔を持ち、それぞれが飯を食い、それぞれが疲れ、それぞれが怪我をする。義治も、これから自分が率いることになる五百が帳面の上に置かれた数字だけではないことを、ようやく身体で感じ始めているのだろう。弥太郎は何も言わず続きを待った。

 

「……少し怖い」

 

 周囲へ聞かせるつもりのない低い声だった。馬場の端にはまだ人がいるが、皆それぞれの仕事に追われ、二人の話へ耳を澄ませる者はいない。義治もそれを分かっているのか、それまで人前で使っていた「某」ではなく、弥太郎が幼い頃から聞き慣れている言葉へ戻っていた。

 

「俺一人で五百を動かすわけではない。それくらい分かっておる。父上も経験ある者を付けると仰せになった。それでも、表に立つのは俺じゃ。止まれと言えば止まり、進めと言えば進む者が五百いると思うと……帳面の数字より、ずっと重い」

 

 弥太郎はしばらく義治の横顔を見ていた。人前で弱音らしいものを口にする姿は、ほとんど見たことがない。関銭の件で失敗した時には明らかに落ち込んでいたが、それはすでに人を困らせたと知った後のことだった。今回はまだ何も起きていない。それでも、自分の判断一つが多くの者へ及ぶことを先に想像し、その重さを怖がっている。以前より臆病になったと見る者もいるのかもしれない。しかし弥太郎には、そうは思えなかった。昔よりも、自分が命じた後に何が起きるのかを考えるようになった。その結果として、簡単に「大丈夫だ」と思えなくなっただけなのだろう。

 

「ならば、某が側におりまする」

 

 考えて用意した言葉ではなかった。口にしてから、あまりにも単純だったかと思ったものの、義治は笑わなかった。

 

「五百を半分にしてくれるのか」

 

「それは無理にございます」

 

「では何が変わる」

 

「若様お一人ではない、ということは変わりまする」

 

 義治がこちらを見る。弥太郎も視線を逸らさなかった。武のことなら経験を積んだ者がいる。道なら弥七が見る。商いと荷なら宗兵衛がいる。人の顔や言葉なら篠がいる。そして自分は、幼い頃からずっと義治の側にいる。それぞれが自分に出来ることをすればいいのであって、右衛門督となったからといって義治一人が五百人分のことを考え、五百人分の仕事を背負う必要はない。弥太郎がそう話すと、義治は数瞬だけ黙った後、肩から僅かに力を抜いた。

 

「そうじゃな。頼りにしておる」

 

「はい」

 

 短いやり取りだったが、その一言は弥太郎の胸に思った以上に深く残った。幼い頃、父に連れられて初めて義治の前へ出た時、自分はただ六角家の嫡男へ仕える子供だった。身支度を整え、呼ばれれば動き、共に学べと言われれば横に座る。その頃から若様の側にいることは自分の務めだったが、務めであることと必要とされることは、似ているようで少し違う。今の「頼りにしておる」は、父や御屋形様から言われたから側へ置いているのではなく、義治自身が弥太郎を自分の側に必要な者として見ている言葉に聞こえた。

 

 義治はそれ以上この話を続けるつもりはなかったらしく、すぐに普段の表情へ戻ると、先ほど任せた荷駄用の馬を昼までに確認しておけと念を押した。弥太郎が「一度任せたのであれば、二度言わずとも承知しておりまする」と返せば、「そなたが忘れるとは思っておらぬ。俺が忘れぬために言うておる」と返ってくる。その言い方に、弥太郎はまた小さく笑った。元服し、名が変わり、右衛門督となり、座る場所まで変わった。それでも全部が変わったわけではない。以前なら何でも自分でやろうとした人が、人へ任せることを覚え始めた。何かが起きる前から怖いと口に出来るようにもなった。そして、自分を側にいる者として頼るようになった。その変化を見ることが出来るのは、長く側にいた自分だからこそなのかもしれない。ならば、自分も千代丸だった頃のままでいるわけにはいかない。若様が六角義治として進むのなら、自分も平井弥太郎高明として、その隣に立てる者にならなければならない。義治の背を追いながら、弥太郎はいつの間にかそう考えていた。

 

 *

 

 日が高くなる頃には、観音寺城下の市にも供奉の準備が目に見える形で現れ始めていた。米、味噌、干物、草鞋、縄、馬の飼葉。五百人が何日も移動するために必要な物を一度に揃えようとすれば、普段の売買とは比べものにならない量になる。六角家が兵を出す際に必要な物を集めること自体は珍しくないが、今回は義治の意向で、城下の一か所からまとめて買い上げるのではなく、幾つかの市や商人へ量を分けて話が回されていた。そのため、一つの店へ急に大量の注文が入り、棚や蔵の中身が一度に消えるようなことは避けられていたものの、普段より多い荷が動いていることは、市を歩く者ならすぐに気付くほどだった。

 

 前日の兵糧確認で不足が出たことを知った義治は、その日の昼前に宗兵衛と数人の家臣を伴って城下まで下りていた。右衛門督自ら米俵を一つずつ数える必要はないと周囲から思われていることくらい、本人も分かっているらしい。以前なら気になった荷へ自分で近付き、数や状態まで確認しようとしただろうが、今はどこから何をどれだけ入れるのか、昨日と比べて値が動いていないか、普段ここで買っている者が品薄で困っていないかというところだけを自分で聞き、それ以外は家臣や宗兵衛へ任せている。宗兵衛が、今のところ米も味噌も目立った値上がりはないと報告しても、それだけでは安心せず、六角へ売った店以外の値も確かめたかと尋ねた。自分たちが買った先だけ値が変わっていなくても、その店へ品が集まった分、別の場所で足りなくなっていれば意味がない、という考えだった。

 

 商人たちから見れば、少々面倒な相手であることに変わりはなかった。六角家からまとまった買い付けが入るとなれば、普通ならまず求められた数を揃えることを考える。ところが義治は、揃うかどうかだけでなく、それを出した後に店や蔵へどれだけ残るのかまで尋ねる。無理に出せとは言わず、出せないなら別の場所から集めると言う一方で、「大丈夫です」とだけ答えれば何をもって大丈夫なのかと聞き返される。そのやり取りを初めて経験した商人は戸惑っていたが、梅酸丸や旧い市場の件で以前から義治を知っている者たちは、また細かいことを聞き始めたというように苦笑していた。ただ、昔と違うところもある。義治自身が全てを聞き取ろうとはせず、値や荷の出所については宗兵衛へ任せ、家臣が確かめた数も、理由まで筋が通っていれば自分で数え直そうとはしなくなっていた。

 

 ある米商人が、六角家からまとまった買い付けが入るのなら少しくらい値を上げても売れるでしょう、と冗談半分に口にした時、義治は怒るでもなく、「上げるだけの理由があるなら構わぬ」と答えた。予想していなかった返事だったらしく、男が一度目を瞬く。義治は、遠くから急いで仕入れれば運ぶ人足が増え、保管する荷が増えれば手間も掛かる。それで値が上がるのなら必要な銭なのだろうと話した。ただし、六角が買うのだから高くしても構わないというだけなら、次から別の者へ頼む。それだけのことだと言う。商人は少し言葉に詰まった後、苦笑しながら頭を下げた。近くで聞いていた家臣の中には、もっと安く出させればよいのではないかと思う者もいたが、別の者は、力で値を抑えて一度だけ安く買うより、今後も商人が荷を集めてくれる方が良いのだろうと受け取った。

 

 義治自身は、それを特別情け深いことだとは思っていないようだった。五百人分の物を一度に集め、市から米や味噌を消してしまえば、困るのは供奉とは何の関わりもない城下や近在の者である。安く出せと命じて今回の出費だけを抑えても、次に六角家が荷を求めた時、商人が同じように用意してくれるとは限らない。関銭を変えた時、一つの道だけを見て良くなったと思い、その外側で暮らしていた者へ負担を押し付けたことがある。そのことを忘れていない義治にとって、五百人を動かすために必要だからという理由だけで、その周囲へ何が起きても構わないとは考えられなかった。その考えを家臣たち全員が同じように理解しているわけではない。それでも、若様は必要だからと一言で済ませず、その後まで気にする御方らしいという見方は、準備へ関わる者たちの間へ少しずつ広がっていた。

 

 宗兵衛はその傍らで、商人たちが口にする言葉だけでなく、義治へ答える時と、義治が別の店へ向かった後とで顔つきが変わる者まで見ていた。商いを見るよう命じられてはいるが、義治が知りたがるのは値や荷の数だけではない。誰が今回の買い付けを好機と考え、誰が負担だと思い、誰が表では何も言わず不満を溜めているのか。そうしたものも後で尋ねられることを、宗兵衛はすでに知っていた。以前は義治自身が一つ一つの話へ入り込み、自分の耳で聞こうとするため、かえって相手が構えてしまうこともあった。それが今は宗兵衛へ任せて先へ進むため、義治がいなくなった後に商人同士が漏らす言葉まで拾える。自分へ任せる部分が増えたことで、以前より見えるものが増えた。そのことを宗兵衛自身も感じ始めていた。

 

 *

 

 夕刻、観音寺城の西側にある人通りの少ない曲輪では、沈み始めた日が土塀の上を赤く染めていた。昼間の騒がしさが嘘のように静かで、遠くから供奉の準備を続ける者たちの声が僅かに届く程度だった。篠は義治へ頼まれていたことを報告し終え、いつものように一礼して下がろうとしていた。見てきたのは城下の者たちの様子である。五百の兵が動くことへ不安を口にする者がいるか、公方帰京をどう受け止めているか、急な買い付けへ不満を持つ者がいないか。宗兵衛が荷と値を見るなら、篠は人が話す時の顔や声、誰の前で何を言い、誰が黙っているのかを見る。それはもう、何度も繰り返してきた仕事だった。

 

「篠」

 

 呼び止められ、篠は足を止めた。

 

「はい」

 

 義治はすぐには続きを言わなかった。夕日に照らされた横顔には、昼間まで家臣や商人を相手にしていた時の硬さが少し残っている。篠は急かさず、言葉が出るのを待った。義治が考えをまとめようとしている時に先を促すと、最初に口へ出た言葉を後から言い直すことがある。それも長く見てきたことで覚えた癖の一つだった。

 

「お主は、人を見るのが得意じゃな」

 

「それをするよう命じられておりますので」

 

「では、俺はどう見える」

 

 篠はほんの僅かに目を瞬いた。

 

「若様が、でございますか」

 

「ああ」

 

「何故そのようなことをお尋ねに?」

 

 義治は土塀の向こうへ沈み始めた日へ視線を向けた。皆から元服した、大人になった、右衛門督になったと言われるが、自分では亀松丸だった昨日までと何かが急に変わったようには思えない。それでも周囲の扱いは確実に変わり、自分の言葉で動く者も増えた。ならば、外から見た時に自分が以前とどう違っているのかを知っておきたいのだという。篠はその説明を黙って聞きながら、義治の顔だけでなく、首から肩、膝へ置かれた手まで順に見た。

 

「以前より、周りをよく見られるようになりました」

 

「それだけか」

 

「いいえ」

 

 篠がすぐ続きを言わなかったため、義治の眉が僅かに寄る。

 

「以前より、迷われるようにもなりました」

 

「……悪くなっておらぬか、それは」

 

 思わず出たらしい返答に、篠の口元がほんの少し動いた。ただ笑ったと分かるほどではない。

 

「そうとも限りませぬ。以前は、一つ答えを見つけられると、そちらへ真っ直ぐ行かれることが多うございました。今は、その答えで困る者がいないか、別のところから見れば違って見えぬかを考えておられます。その分、決めるまでが長くなりました」

 

「やはり遅くなっておるではないか」

 

「はい。遅くなられました」

 

 篠があっさり認めると、義治は何とも言えない顔をした。

 

「ですが、以前より多く見ておられます」

 

 その言葉で、義治の表情が少し変わった。篠から見れば、以前の義治は面白いほど目の向く先が分かりやすかった。気になるものがあればそこばかりを見る。数字を知りたければ、納得出来る数字が出てくるまで尋ねる。人の話も聞いてはいたが、自分が探している答えに近い言葉へ特に強く反応していた。それが今は、返ってきた言葉だけでなく、それを言った者の顔を見ることが増えている。何も言わなかった者へ目を向けることもある。まだ篠のように僅かな目の動きや口元の変化まで拾えるわけではなく、話へ夢中になれば相手の顔を見忘れることもあった。それでも、人の言葉だけでなく、その人そのものを見ようとしていることは、側にいれば分かった。

 

「ただし、考え始めると今でも右手の指が動きまする」

 

 義治が反射的に自分の右手を見る。いつの間にか親指と人差し指を軽く擦るように動かしていたらしく、気付いた瞬間に止めた。

 

「まだやっておるのか」

 

「はい」

 

「昔からか」

 

「少なくとも、私がお側へ付いた頃からは」

 

「……誰にも言うなよ」

 

「さて」

 

「そこは承知したと申せ」

 

 篠の口元が今度こそ僅かに緩んだ。義治も本気で怒っているわけではなく、小さく息を吐いただけだった。以前、弓を引く義治の左肩が疲れるにつれて上がっていくことを指摘した時もそうだったが、本人が自分で気付いていないところほど、篠にはよく見える。最初の頃は、その事実そのものを面白いと思っていた。変わった若様だと思った。甲賀者へ人を斬れとも、火を放てとも、誰かを攫えとも言わず、人の顔を見ろ、道を見ろ、市を見ろと命じ、挙げ句には勝手に命を捨てるなと言う。その珍しさが、篠が義治を気にするようになった最初の理由だった。

 

「朽木でも、俺を見ておけ」

 

 不意にそう言われ、篠は義治へ視線を戻した。

 

「竹若丸様ではなく?」

 

「竹若丸も見る」

 

「では、何故若様まで」

 

「俺が竹若丸を見ようとすれば、それに引っ張られるかもしれぬ。見たいものだけ見ておったら、父上にまた叱られる」

 

 義治は苦笑しながらそう答えたが、篠にはその言葉が冗談だけには聞こえなかった。義治が竹若丸という少年へ以前から強い関心を持っていることは知っている。報告の中でその名が出れば、他の領主について尋ねる時よりも質問が増えることもあった。何故そこまで気にしているのか、その理由までは篠も知らない。それでも、自分が強く気に掛けている相手だからこそ、自分の見方がそちらへ引かれるかもしれないと考えている。そのうえで、竹若丸だけでなく自分まで見ておけと甲賀者へ頼む主人を、篠は他に知らなかった。

 

「私が若様を見て、何か違うと感じれば申し上げてもよろしいので?」

 

「ああ。そのために言っておる」

 

「御機嫌を損ねられても?」

 

「内容による」

 

 即答され、篠は一瞬だけ義治の顔を見つめた。その後、ほんの僅かに目を細める。

 

「そこは、何を申しても怒らぬと仰るところではございませぬか」

 

「無理なことは約束せぬ」

 

 その返しに、篠は小さく頭を下げた。以前なら、ただ変わった主人だと思っていただろう。今も変わっているという見方そのものは変わっていない。だが、その言葉の中に含まれるものは、少しずつ増えていた。最初は珍しいから見ていた。次は、自分たちをどう使うのかが気になって見ていた。今は、この人がこの先どんなふうに変わっていくのか、それを見てみたいと思う時がある。それが忠なのか、単なる興味なのか、篠自身にもまだ分からない。特別に慕っているとまで言えるものでもない。ただ、命じられたから仕方なく見ているのとは、もう少し違っていた。

 

「承知いたしました。朽木では竹若丸様と、それから若様も見ておりまする」

 

「頼む」

 

 義治はそれだけ言うと、もう一度沈みかけた日へ顔を向けた。篠は一礼してその場を離れながら、数歩進んだところで一度だけ振り返った。土塀の向こうを見ている横顔は、元服して装束が変わっても、弓を引いて左肩を上げていた頃と同じ人物に見える。けれど、同じままではない。昔より迷い、昔より人へ任せ、昔より自分の見方まで疑うようになっている。その変化が良いものなのかどうか、篠にもまだ答えは出せなかった。だからこそ、もう少し見ていたいと思った。

 

 *

 

 夜になると、昼間の慌ただしさが少しずつ観音寺城から引いていった。供奉の準備そのものは完全には止まっていないものの、人の声は減り、廊下を行き交う足音も昼よりまばらになっている。その一角にある三雲対馬守定持の部屋へ、篠、弥七、宗兵衛の三人が揃っていた。三人は義治から直接命を受けることが増えているが、元を辿れば三雲が選び、その目の届くところへ置いた者たちである。義治のために見聞きしたことも、六角家へ仕える甲賀者として見聞きしたことも、今の三人にとってはまだ完全に別のものではなかった。

 

 定持は昼間までに入った報告を一通り聞いた後、供奉に使う道について弥七へ尋ね、市の荷と値について宗兵衛へ幾つか問い、それが終わると三人の顔を順に見た。

 

「右衛門督様は、どうじゃ」

 

 先に答えたのは弥七だった。何について聞かれたのかを確認することもなく、「以前より命は分かりやすうございます」とだけ言う。どこを見て、何を確かめればよいかを最初に示されるため動きやすいのだと、その後に説明した。道を見ろと言われても、単に通れるかどうかだけではなく、五百を通した時に詰まる場所、水を取れるところ、休ませられる場所まで確かめるよう言われる。求められているものが分かっていれば、現地で余計な迷いが減る。もっとも、義治自身が何を知るべきかまだ分かっていない時には質問が多くなるため、いつでも楽というわけではないらしい。

 

 宗兵衛は「細こうございます」と答えた。その言葉だけなら昼間の家臣たちと変わらなかったが、続けた内容は少し違っていた。値を聞けば、どこの値か、いつの値か、誰から聞いたものかまで尋ねられる。商人がそう言っていたと伝えれば、その商人自身が見聞きしたのか、それとも誰かから聞いた話なのかまで分けて持ち帰るよう求められるため、曖昧な噂を確かな話のように報告することは出来ない。その代わり、分からなかったことを分からないまま持ち帰っても、それだけで叱られることはなかった。「分からぬところを埋めるために、適当な話を持って帰る方を嫌われまする」と宗兵衛が言うと、定持はごく僅かに頷いた。それ自体は悪いことではない。ただ、細かく分けることへ拘り過ぎれば、急いで答えを出さねばならない時に遅れる。それは定持自身も以前から気にしているところだった。

 

 最後に定持の視線が篠へ向いた。夕方、義治から竹若丸だけではなく自分自身の様子まで見ておくよう頼まれたことを話すと、定持の眉がほんの僅かに動いた。

 

「自らも見よと申されたか」

 

「はい。竹若丸様を気に掛け過ぎることで、御自分の見方が偏るやもしれぬと」

 

「それで、お主はどう見る」

 

 篠は少し考えた。夕方に義治本人へ話したことを、そのまま繰り返すつもりはなかった。義治へ伝えるのと、三雲へ伝えるのとでは、必要な言葉も少し違う。

 

「人を使おうとはなされております」

 

「使われる側としては」

 

 定持の問いに、篠は一度視線を下げた。

 

「……嫌ではございませぬ」

 

 以前にも口にしたことのある言葉だった。しかし、あの頃とは少し意味が違っている。当初は、甲賀者へ無闇に死ねと言わない主人だから嫌ではない、その程度だった。今は、自分が見たものを必要としてくれること、自分にしか見えないものがあると義治が分かっていること、そして自分にとって都合の悪いことまで隠さず言えと求められることも含まれていた。

 

 定持は篠の返事について何も言わず、今度は三人をまとめて見た。

 

「忘れるな。お主たちは右衛門督様の目である。だが同時に、六角の目でもある」

 

「はっ」

 

 三人の声が重なる。

 

「右衛門督様が何をなさるかを見ることも、お主たちの務めじゃ。信を得ることと、目を閉じることは違う」

 

 篠は頭を下げたまま、その言葉を聞いていた。義治からは自分を見ておけと言われ、三雲からも義治を見よと言われる。言われた理由は違っても、見る相手は同じだった。右衛門督となった義治は、三人にとって以前より近い主人になりつつある。それでも三人は、義治一人だけに仕えるために六角家の外から集められた者ではない。三雲に選ばれ、六角の中で使われ、そのうえで今は義治の側へ置かれている。そのことを忘れれば、見えるものまで変わってしまうのだろう。

 

 報告を終えて部屋を出ると、外の空気は夕方よりさらに冷えていた。弥七は翌朝早く先へ出て道を見るため、そのまま支度へ戻り、宗兵衛も明日の荷の動きを確かめてくると言って別れた。篠だけが一度足を止め、暗くなった城内の向こうへ目を向けた。昼間まで多くの者が行き交っていた場所にはほとんど人影がなく、時折灯りを持った者が廊下を横切る程度だった。そのどこかで義治もまた、明日確かめることを帳面へ書き並べているのかもしれないと思うと、篠の口元がほんの僅かに緩んだ。

 

 右衛門督となっても、義治は全てを自分一人で出来るわけではない。弥太郎を側へ置き、弥七には道を、宗兵衛には商いを、自分には人を見ることを頼る。三雲や六人衆からすれば、ようやく人へ任せることを覚え始めた若者に過ぎないのかもしれない。だが、その任される側にいる篠には、以前と違うことが一つ見えていた。義治は、自分一人の目で見えるものには限りがあると知り始めている。そして、見えないものを無理に見えたことにするのではなく、誰か別の者に見てもらおうとするようになった。

 

 もっとも、人の目を借りれば、それで全てが正しく見えるわけではない。見る者が違えば、同じものを見ても言うことは変わる。信じ過ぎれば誤った話まで受け入れることになるかもしれず、反対に疑ってばかりいれば、人を置く意味そのものがなくなる。義治はまだ、その間のどこに立てばよいのかを探しているように篠には見えた。だからこそ、朽木へ行った時に何が起きるのかが少し気になった。竹若丸という少年を目の前にした時、義治はどんな顔をするのか。何を聞いた時に目を止め、どこで右手の指が動くのか。そして篠が何を見つけて伝えた時、義治がそれをどう受け取るのか。命じられたから見るだけなら、そこまで考える必要はなかったはずだった。

 

 出立まで、もう幾日も残っていない。観音寺城の中で義治を近くから見てきた者たちは、それぞれ自分に出来ることをしながら、その日を待っていた。弥太郎は、自分も元服した一人の武士として義治の側へ立とうとしている。弥七は五百を安全に通すための道を確かめ、宗兵衛は兵が動くことで荷や銭がどこへ流れるのかを追っている。そして篠は、これまで他人へ向けていた目を、初めて義治自身にも向けようとしていた。亀松丸と呼ばれていた頃から側にいる者も、少し遅れてその周りへ加わった者も、同じ形で義治を見ているわけではない。それでも、五百の兵を伴って観音寺城の外へ出る日が近付くにつれて、義治だけでなく、その周囲にいる者たちの立ち位置もまた、少しずつ変わり始めていた。

 

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