淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第二十三話「見る者たち」ー後編ー

 出立の日の朝、観音寺城はまだ空が白み始めるより前から人の気配に満ちていた。普段なら夜番と早起きの下働きが行き交う程度の時刻にもかかわらず、その日は大手へ続く道のあちこちに松明が焚かれ、荷を背負った者、馬を曳く者、武具の具合を最後に確かめる者が絶えず行き来している。五百という数は数日前から何度も口にされ、そのための兵糧も馬も草鞋も揃えられてきたが、一人ずつが具足を着け、槍を持ち、荷駄が列を作り始めると、それまで帳面や評定の中にあった五百とはまるで違う姿になった。前日に確かめたはずの物がもう一度数えられ、決めたはずの隊列にも直前の入れ替えが入り、脚を痛めた馬が一頭外されれば、その荷を別の二頭へ分けるために人が集まる。何か一つを動かせば、その隣にあるものまで変わる。義治がここ数日かけて確かめてきたことを、城全体が朝からそのまま形にしているようだった。

 

 義治は大手へ下りる前に、一度だけ父の部屋へ呼ばれていた。すでに出立の装いを整え、腰には太刀を佩いている。元服以前なら、こうした朝に父の前へ出ても「亀松丸」と呼ばれていただろうが、今は違う。上座へ座る義賢はしばらく息子を見た後、「右衛門督」と呼んだ。義治がすぐ顔を上げたのを見て、ほんの僅かに口元を緩める。官途名で呼ばれて一拍遅れていた頃から比べれば、ようやく耳に馴染んできたらしい。

 

「此度は戦ではない。それを忘れるな」

 

「はい」

 

「公方様を朽木より京へお送りする。それが役目じゃ。三好と争うためでも、朽木で威を示すためでもない」

 

「承知しておりまする」

 

 義治の返事を聞いても、義賢はすぐ話を終えなかった。五百を率いるといっても、実際の行軍や隊列の差配まで全て義治一人へ任せるつもりはなく、戦や長い移動を経験した家臣を複数付けている。道中で判断に迷うことがあれば意地を張らずに聞け、と念を押したうえで、義賢は少し声を落とした。

 

「それと、朽木をよく見てこい」

 

 義治の表情が僅かに引き締まる。

 

「宮内少輔亡き後、幼子が家を継いだ土地とは思えぬと聞く。商いも、人の動きも、以前とは随分違うそうじゃ。そなたが三年前に関を弄った時も、人が動けばその先で何かが変わった。ならば、朽木で何が変わったのか、自分の目で見てこい」

 

「竹若丸殿も、でございますか」

 

「無論じゃ」

 

 義賢は短く答えた。

 

「噂で利口な童と聞いて、それで分かったつもりになるな。そなたは一度、それで痛い目を見ておる」

 

「……はい」

 

「人も土地も同じじゃ。見たいものだけを見るな」

 

 数日前、篠へ自分まで見ておけと頼んだ理由とほとんど同じことを父から言われ、義治の口元に僅かな苦笑が浮かんだ。それを見た義賢が目を細める。

 

「何じゃ」

 

「いえ。似たようなことを、先に自分へ言い聞かせたばかりにございます」

 

「ならば、少しは覚えたらしいな」

 

 義賢はそこでようやく笑った。だが、次に義治を見る目はすぐ当主のものへ戻る。

 

「右衛門督。無事に連れて行け。そして無事に戻ってこい。此度はそれが出来れば十分じゃ」

 

「はっ」

 

 義治は深く頭を下げた。勝てとも、名を上げろとも言われなかった。ただ無事に役目を果たし、戻ってこい。それが今の自分へ求められているものなのだと分かる。部屋を辞する義治の背を、義賢は襖が閉まるまで黙って見送った。

 

 *

 

 朝日が山の端を越える頃には、大手前へ五百の兵がほぼ揃っていた。全員が同じ場所へ密集しているわけではなく、先へ出る者、義治の近くを固める者、荷駄を守る者と役目に応じて列が分かれ、それぞれが出立の合図を待っている。槍の穂先に朝日が当たり、馬が身じろぎするたび鞍や金具が小さく鳴った。五百人全員の顔を一度に見ることなど出来ない。それでも義治が大手前へ姿を現した瞬間、近い者から順に声が止み、その静けさが波のように後ろへ伝わっていく。昨日まで城内で「細かい御方だ」「誤魔化しにくい」と笑っていた者たちも、今は自分たちの前へ立つ若い嫡男へ目を向けていた。

 

 蒲生下野守定秀、後藤但馬守賢豊をはじめ、見送りに出た重臣たちは少し離れたところからその様子を見ていた。義賢自身も大手近くまで出ているが、今日の中心はあくまで義治である。定秀には、数日前の評定で「五百をどう動かす」と問われ、先に道を見たいと答えた姿が思い出された。その五百が今、絵図ではなく人として義治の前に並んでいる。賢豊は義治の立ち方と、その視線がどこへ向くかを見ていた。兵の数を誇るように全体を眺めるのか、それとも自分の前にいる者だけを見て話すのか。武将としてはまだこれからだと評したばかりの若者が、初めてこれだけの人間を前に何を言うのか、その一点に興味を持っていた。

 

 義治は用意された位置へ進むと、一度だけ五百の列を見渡した。馬場で弥太郎へ怖いと漏らした時のように、右手の指を動かすことはなかった。篠が見ていれば、意識して止めているのだと気付いたかもしれない。長々と話すつもりはないらしく、息を一つ整えると声を上げた。

 

「此度は戦ではない。公方様を朽木よりお迎えし、京まで無事に御送りする。それが我らの役目じゃ」

 

 後ろの方まで聞こえるよう普段より強く声を張っているが、怒鳴っているわけではない。

 

「勝手に列を離れるな。止まる時は止まり、進む時は進め。道中で分からぬことがあれば、自分だけで決めず組頭へ聞け。具合が悪い者、馬や具足に不具合が出た者も同じじゃ。隠して進み、後で動けなくなる方が困る」

 

 そこまでは、昨日まで兵糧や馬を確かめていた義治を知る者には、いかにも若様らしい言葉だった。続いて義治は、近くの家臣たちだけでなく列の後ろへも届くよう、もう一度声を張った。

 

「それと、道中の村や市から勝手に物を取ることを禁ずる。必要な物があれば申し出よ。銭を払って求める。公方様を御護りするために出た六角の兵が、その道で民を困らせては話にならぬ」

 

 列の中で僅かに顔を見合わせる者がいた。戦ではない供奉である以上、略奪を禁ずること自体はおかしな話ではない。それでも出立前の言葉としてわざわざそこへ触れるところに、ここ数日兵糧を集めるだけで城下の値まで気にしていた義治らしさがあった。定秀はそれを聞いて僅かに目を細め、賢豊は特に表情を変えなかったものの、義治が五百を「自分の兵」としてだけ見ていないことは理解した。五百人が通れば、そこに住む者へも影響が出る。本人がその全てを防げるとは限らないが、少なくとも考えるべきものの中へ入れている。それだけでも、数年前とは違っていた。

 

「某も初めてのことが多い。故に、分からぬことは知る者へ聞く。そなたらも同じようにせよ。無事に公方様を京へ御送りし、皆で近江へ戻る。以上じゃ」

 

 最後の言葉だけは簡潔だった。大仰に武功を求めることも、自分へ忠を尽くせと叫ぶこともない。義治が下がると、列の各所から返事が上がり、それが次第に一つの声へまとまっていった。義治はその声を聞きながら僅かに肩を動かしたが、緊張が解けたのか、さらに固くなったのかは遠目には分からない。賢豊はしばらくその姿を見た後、小さく息を吐いた。五百を率いることと五百を戦わせることは違う。その考えは変わらない。ただ、五百を数としてだけ見ないところから始めるなら、最初としては悪くない。少なくとも、初めから自分なら出来ると思い込んでいる若者よりは、見ていて安心出来た。

 

 *

 

 人の列から少し離れた場所には、今日出立する者を見送るために城内の者たちも集まっていた。その中に小夜と猿夜叉丸の姿もあった。猿夜叉丸は五百もの兵が並ぶ光景そのものが珍しいのか、先ほどから落ち着きなく首を動かし、槍の列や馬の数を見ている。対して小夜は、兵よりもその前に立つ義治へ目が向いていた。数日前、渡り廊下で話した時には、弥太郎と並んでいる姿を見ても昔とそれほど変わらないと思った。それが今日は、五百人の前へ一人で立ち、普段より大きな声で命を出している。同じ人だと分かっていても、置かれている場所が変わるだけで随分違って見えるものだと、小夜は不思議に思った。

 

「随分偉そうになったな」

 

 隣で猿夜叉丸が小さく呟き、小夜は思わずそちらを見た。

 

「右衛門督様なのですから、偉いのでしょう」

 

「そういう意味ではない。前はあんなふうに兵の前へ立っておらなんだ」

 

「元服されたのですから」

 

「小夜はそればかりじゃな」

 

「では、猿夜叉丸様はどう思われるのですか」

 

 問われた猿夜叉丸はすぐには答えず、義治の方をもう一度見た。幼い頃から同じ城で顔を合わせることはあり、時には言葉を交わすこともある。自分より年長で、六角家の嫡男で、何を考えているのかよく分からない時もあるが、近寄り難いほど遠い人でもない。それが今日は、自分の知らない顔をして人の前へ立っている。そのことをどう言葉にすればよいのか分からないようだった。

 

「……前より忙しそうじゃ」

 

 結局出てきたのはそれだけで、小夜は少し笑った。

 

「私も、そう思います」

 

 好いているわけではない。猿夜叉丸を特別な意味で好いているわけではないのと同じように、義治へ向けているものもまだそこまで強い感情ではなかった。ただ、城の中にいて当たり前だった人が遠くへ出ると聞けば気になる。怪我をしないか、何か起こらないか、無事に戻ってくるかを考える。猿夜叉丸が同じように五百の兵を連れて遠くへ出ると言われれば、きっと同じように心配するだろう。だから自分の中にあるものは、その程度なのだと小夜は思っていた。それでも、五百人の前に立つ義治を見る目が自然とそちらへ向いてしまうことまで、否定するつもりはなかった。

 

 やがて出立前の確認を終えた義治が、弥太郎を伴って見送りの者たちの近くまで来た。義賢や重臣たちへ挨拶を済ませた後、少し離れたところに小夜と猿夜叉丸がいるのを見つける。義治の表情が、五百人の前で命を出していた時より少しだけ柔らかくなった。

 

「猿夜叉丸」

 

「何じゃ」

 

「留守の間、騒ぎを起こすなよ」

 

「起こさぬわ」

 

「前にもそう言っておった気がするが」

 

「若様こそ、朽木で変なことをするな」

 

「何故俺が言われる」

 

 近くにいた弥太郎が僅かに視線を逸らした。笑いを堪えているのだろうと小夜には分かった。義治もそれ以上猿夜叉丸をからかわず、小夜へ顔を向ける。

 

「小夜も息災でな」

 

「はい。若様も、お気を付けくださいませ」

 

「この前も聞いた」

 

「何度申し上げてもよいではございませぬか」

 

「それもそうか」

 

 義治は少し笑った。ほんの短いやり取りだったが、小夜にはそれで十分だった。右衛門督として五百人の前へ立っていても、こちらへ来れば以前と同じ調子で猿夜叉丸へ小言を言い、自分には普通に笑う。そのことが何となく嬉しかった。大人になったことで遠くへ行ける人にはなったのかもしれない。それでも、まだ戻ってきた時に同じように話せる人でもある。その両方が同時にあるのだと、今なら少し分かる気がした。

 

 義治が二人から離れようとしたところで、猿夜叉丸が呼び止めた。

 

「若様」

 

「なんじゃ」

 

「……ちゃんと帰ってこい」

 

 口にした本人が一番気恥ずかしかったのか、言い終わるとすぐ横を向いた。小夜が目を丸くし、義治も僅かに驚いた顔をする。だが、すぐにからかうことはせず、「ああ」とだけ答えた。その返事を聞いてから、小夜も小さく頷いた。

 

 *

 

 出立の合図が近付くと、大手前の空気は再び慌ただしくなった。先に出る者たちが動き始め、荷駄の位置が改められ、馬へ乗る者は手綱を受け取る。弥七はすでに先へ出ており、この場にはいない。宗兵衛も列の中へ紛れ、道中で荷や商人の動きを見る準備をしている。篠は義治の近くに立つわけではなく、見送りの者や兵の間へ溶け込むような場所から、その姿を見ていた。本人から「朽木でも俺を見ておけ」と言われた以上、仕事はすでに始まっていると言ってよかった。

 

 篠には、義治が緊張していることが分かった。五百を前に話していた時は右手の指を動かさなかったが、馬へ乗る直前、手綱を受け取った右手が一度だけ強く握られている。表情は崩れていない。周囲の家臣へ確認を出す声も普段と大きく違わない。それでも、乗る前に一度だけ大きく息を吐いたことと、義賢の方へ目を向けてから大手の外へ視線を移した時に、ほんの僅かに顎へ力が入ったことを篠は見逃さなかった。弓を引いて疲れると左肩が上がった頃と同じで、本人が隠しているつもりのないものほど、よく見えた。

 

 弥太郎は義治のすぐ側にいた。馬場で「若様お一人ではない」と言った通り、今日はその言葉を形にするように義治の隣へ付いている。ただし、自分が全てを支えるなどとは思っていない。前後には経験ある家臣がおり、隊列の差配を担う者も別にいる。自分に出来るのは、義治の近くにいて、必要な時に必要なことを伝え、任されたことを確かめることだ。それでも幼い頃、父に連れられて亀松丸の前へ出た時から比べれば、自分の立つ場所は大きく変わった。あの頃は命じられたから側にいた。今は、自分からここへ立ちたいと思っている。その違いを、弥太郎自身が一番よく感じていた。

 

 義賢はそんな息子と家臣たちを少し離れたところから見ていた。義治の側には弥太郎がいる。先には道を見る者がいて、荷を見る者も、人を見る者もいる。さらに行軍そのものについては経験ある家臣を付けてある。本人も以前ほど何でも自分で抱え込もうとはしていない。それでも、どれだけ人を付けても最後に自分で決めなければならない時は来る。その時にどうするかまでは、観音寺城の中から見ていても分からない。だから外へ出すのだと義賢は考えていた。失敗しないよう全て整えるのではなく、大きく取り返しのつかない失敗だけを避けられるよう支えを付け、その中で自分に足りないものを知ればよい。今の義治に必要なのは、もう城の中だけで教えられることではなくなりつつあった。

 

 やがて義治が馬上から父へ向かって頭を下げる。

 

「父上、行って参りまする」

 

「ああ。行ってこい、右衛門督」

 

 義賢の返事は短かった。

 

 義治が身体を起こし、今度は大手の外へ目を向ける。朝日はすでに山の上へ出て、城下の屋根や道を明るく照らしていた。これまで何度も観音寺城の外へ出たことはある。市場へも行った。道を調べにも行った。だが今日は、それまでとは違う。自分一人や僅かな供だけではなく、五百人が自分と同じ方向へ進もうとしている。

 

「参る」

 

 その一言で、先頭が動いた。

 

 馬の蹄が土を踏み、槍の列が少しずつ前へ進み、荷駄が軋みながら続いていく。五百が一度に動くのではなく、決められた順に少しずつ城門を抜けていくため、全てが出るには時間が掛かる。それでも最初の列が大手を出た瞬間から、それまで城内へ溜まっていた人の流れが外へ向かって動き始めた。見送りに集まった者たちは道の脇へ下がり、それぞれ自分の知る顔を探しながら声を掛ける。義治もその中を馬で進み、重臣たち、城内の者たち、小夜と猿夜叉丸がいる場所へ一度ずつ目を向けた。

 

 小夜と猿夜叉丸が並んでこちらを見ている。二人とも自分にとって特別な意味を持つ相手ではない、と義治なら考えるだろう。それでも、城へ戻れば顔を合わせるのが当たり前になっている者たちだった。猿夜叉丸が無茶をすれば気になるし、小夜が困っていれば放ってもおけない。先ほど二人から帰ってこいと言われたことを思い返すと、義治の胸の奥に奇妙な温かさが残った。ああいう顔で見送られると、無事に戻らなければならないという気持ちが、役目とは別のところからも湧いてくる。

 

 その少し後ろでは、義賢と六人衆が見ている。弥太郎はすぐ側にいる。篠がどこにいるのか、義治には見つけられなかった。恐らく、こちらから簡単に見つかる場所にはいないのだろう。それでいい。見える者も、見えないところから見ている者もいる。自分が全てを見る必要はない。その代わり、それぞれが見たものを後で聞けばいい。数年前には、そんな考え方は出来なかった。

 

 大手を抜け、観音寺城が少しずつ後ろへ遠ざかる。馬上の義治は一度だけ振り返った。見慣れた城が朝日の中にあり、その前にはまだ出立する兵と見送りの者たちが残っている。自分が生まれ、育ち、父に叱られ、失敗し、帳面を付け、弓を引き、人の使い方を覚え始めた場所だった。そこから今日は、六角家の名を背負う者として外へ出る。

 

 城に残る者たちもまた、その背をそれぞれ違う思いで見ていた。義賢には、まだ家督を任せられぬ息子に見えている。重臣たちには、長所も弱さもこれから確かめるべき若い嫡男だった。小夜には、以前より遠くへ行けるようになったけれど、また戻ってきてほしい人だった。弥太郎には、自分も隣に立てる者になりたいと思わせる主人であり、篠には、もう少し見続けてみたいと思う相手になっていた。同じ六角義治を見ていても、誰一人として全く同じものを見てはいない。

 

 それでも、その朝だけは誰もが同じ背中を見送っていた。

 

 観音寺城の者たちが長く知っていた亀松丸は、もういないわけではない。弥太郎へ言い返し、馬に嫌われれば不満そうな顔をし、小夜や猿夜叉丸とは今まで通りに話す。その姿はこれからも残るのだろう。ただ、その亀松丸の上に、六角義治という名と、右衛門督という立場と、自分の後ろを歩く者たちへの責任が少しずつ積み重なり始めている。

 

 その朝、六角右衛門督義治は五百の兵を伴い、初めて六角家を外へ背負う者として観音寺城を出た。

 

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