内容的には様子見のジャブってところですかね。
朽木領へ入ってからしばらく経った頃、俺は馬上から街道の先だけではなく、道の両側へ何度も視線を動かしていた。冬の山間に広がる土地そのものは、近江南部とは随分趣が違う。山が近く、田畑として使える土地も決して多くは見えない。それなのに、道を行き交う人と荷は俺が事前に想像していたより明らかに多かった。若狭から来たのか荷を背負った馬を連れる一団が通り過ぎ、その後ろからは商人らしい男が二人、こちらの五百を避けるように道の端へ寄って頭を下げる。少し進めば薪や炭を積んだ荷があり、別の場所では干した魚らしきものを運ぶ者まで見えた。俺自身、ここ数年は関や市場、人の流れというものを意識して見るようになったから余計に気付くのかもしれないが、単に近隣の村々が使う道という雰囲気ではない。ここを通り抜ける人間と、ここで商いをする人間、その両方がいる。そのことは、道に残る轍の多さを見るだけでも分かった。
これが朽木か。前世で読んだ物語の中では何度も目にした土地であり、この世界が自分の知っている戦国時代と少し違うのではないかと疑い始めてからは、甲賀の者たちにも何度となく調べさせた場所だった。宮内少輔が亡くなり、幼い竹若丸が家を継いだ。それから人と物の流れが変わり、商人が集まり、澄み酒のように俺の記憶に残っていたものまで現れたことで、ここが『淡海乃海』で読んだ世界なのだとほぼ確信するに至った。それでも、帳面へ書かれた報告と、自分の目で見るものはやはり違う。知識としては山間の小領主であることを知っているのに、今の朽木から受ける印象はそれだけでは収まらなかった。豪華な建物が並んでいるわけでもなければ、城下が京のように栄えているわけでもない。ただ、人と荷が動くことを前提にした土地になっている。その違いの方が、俺には余程気になった。
「若様。また数えておられますな」
すぐ横から聞こえた声に顔を向けると、弥太郎がこちらを見ながら僅かに口元を緩めていた。
「何をじゃ」
「先ほどから荷駄が幾つ、馬が何頭、商人が何人と目で追っておられまする」
「……癖じゃ」
「存じております」
否定出来ないのが腹立たしい。俺が前へ向き直ると、少し後ろにいた篠と一瞬だけ目が合った。こちらから何も聞いていないのに、その目が妙に言いたげに見える。
「何じゃ、篠」
「何も」
「その顔で何も無いと言われてもな」
「人の顔も御覧くださいませ」
言われた瞬間、弥太郎が横を向いた。肩が僅かに動いている。笑っているのだろう。
「……分かっておる」
つい先日も似たようなことを言われた覚えがある。篠はそれ以上何も言わず、何事もなかったように周囲へ視線を戻した。俺も少しだけ意識して、今度は荷ではなくその傍にいる者たちを見る。五百もの武装した人間が入ってきたのだから当然ではあるが、道端へ寄る者たちの表情には緊張があった。それでも怯え切っている様子はなく、こちらの兵が勝手に列を離れたり、荷へ手を伸ばしたりしないと分かるにつれて、頭を上げてこちらを眺める者も増えている。子供などは大人の後ろから顔を出し、槍を持った兵や馬を珍しそうに見ていた。俺たちにとっては公方様を御送りするための五百でも、ここに暮らす者からすれば、自分たちの土地へ入ってきた六角の兵だ。観音寺城を出る前に勝手な徴発を禁じておいて良かったと思う一方で、命令一つで全ての不安が消えるわけではないことも分かった。
先へ出していた弥七から、合流地までは間もないとの報告が入ったのは、それから半刻もしないうちだった。朽木城そのものまで五百を入れれば余計な混乱を招くため、公方様と幕臣たち、そして朽木側とは、城から少し離れた街道沿いの開けた場所で合流する手筈になっている。六角勢が到着する頃には向こうも支度を整え、そこから隊列を組み直して京へ向かう。父上から役目を言い渡された時から聞いていた予定ではあったが、弥七から「既に公方様の御一行がお待ちにございます」と告げられると、腹の奥へ小さな緊張が戻ってきた。五百を率いることへの緊張とは少し違う。これから会うのは足利将軍であり、その周囲には幕臣たちがいる。そして、もう一人――俺がこの朽木へ来るまで何年も気に掛け続けてきた人物がいる。
竹若丸。名前も、これまでに何をしてきたかも知っている。少なくとも俺の記憶にある物語と、甲賀者たちが持ち帰った報告はかなりの部分で重なっていた。だからこそ、知らない相手より始末が悪い。何も知らない相手なら、その場で見たものから判断すればいい。だが俺には、既に「竹若丸とはこういう人物だ」という像が頭の中に出来ている。父上からも、見たいものだけを見るなと言われた。自分でも同じことを考え、篠には俺自身まで見ておけと命じた。それでも、いざ本人がすぐ近くにいると知れば、前世の記憶が先に出てくるのを完全には止められない。俺は一度手綱を握り直し、意識して息を吐いた。
「若様」
弥太郎がこちらを見る。
「何でもない」
「まだ何も申し上げておりませぬ」
「顔に書いてある」
「若様ほどではございませぬ」
思わず睨むと、弥太郎は平然と前を向いた。少し離れた場所にいる篠までこちらを見ている。あいつには後で何を言われるのだろう。そんなことを考えているうちに、街道の先が開け、その向こうに人と馬のまとまりが見えてきた。
*
合流地には、すでに公方様の一行が待っていた。数そのものは六角勢の方が遥かに多いが、近付けばどちらが迎える側で、どちらが迎えられる側なのかは一目で分かる。幕臣たちが左右へ控え、その中央に一際上等な装束を身に着けた若い男がいる。足利義輝。前世の知識で名前だけなら子供の頃から知っていた人物が、生きた人間として目の前に立っているという事実には未だ不思議なものを感じたが、ここで見惚れているわけにはいかない。馬を降り、弥太郎や供の者たちを従えて前へ進む。細川兵部大輔をはじめとした幕臣たちの視線がこちらへ集まり、その中には十四の若造を値踏みしているように見えるものもあったが、今は気にしないことにした。
「六角右衛門督義治にございます。父、左京大夫義賢の命により、公方様を京まで御送りするため参上いたしました」
膝をつき、頭を下げる。元服してから何度か人前で「六角義治」と名乗ってきたが、足利将軍を前にして名乗ると、同じ言葉でも妙に重く感じた。
「面を上げよ、右衛門督」
言われて顔を上げる。義輝は俺が思っていたより穏やかな顔をしていた。武芸を好み、後に剣豪将軍などと呼ばれる人物という前世の印象があるため、もっと鋭い雰囲気を勝手に想像していたのだが、少なくとも今こちらを見ている目に威圧するような色はない。それでも人の上に立つことに慣れている者特有の落ち着きは感じられた。
「遠路、大儀であった。左京大夫にも礼を申しておいてくれ」
「はっ。必ず申し伝えまする」
「五百を出してくれたそうだな」
「はい。道中の御警護は、某どもにお任せくださいませ」
義輝はそこで一度、俺の後ろに並ぶ六角勢へ目を向けた。満足そうに頷いたものの、すぐにその表情へ微かな苦さが混じったように俺には見えた。朽木へ入ってから四年。何度も諸大名へ働き掛けながら、結局大軍を率いて京へ戻る願いは叶わず、三好との和睦によって帰京することになった。その胸の内まで俺に分かるはずはない。ただ、五百の兵を見て単純に喜んでいるわけではなさそうだということくらいは感じ取れた。
「京まで頼むぞ、右衛門督」
「はっ」
再び頭を下げる。横に控える幕臣たちからも幾つか言葉を掛けられた。細川兵部大輔は丁寧に礼を述べ、別の幕臣からは道中の隊列や警護について確認を受ける。そこは事前に六角側と話が通っていたため、同行している経験ある家臣に細かなところを任せながら、俺は必要な部分だけ答えた。以前の俺なら、全部自分で答えなければならないと思ったかもしれない。しかし、分からないことを分かったふりで答えるより、知る者へ任せる方が良い。それは観音寺城を出る前から散々考えてきたことだった。
そうして一通りの挨拶と確認が済みかけた頃、俺はようやく義輝たちから少し離れたところに立つ少年へ正面から目を向けた。
――あれが、竹若丸か。
最初に浮かんだ感想は、我ながら酷く平凡なものだった。
小さい。
いや、年齢を考えれば当然なのだが、前世の記憶に残っている竹若丸――後の朽木基綱は、俺の中ではすでに一人の戦国大名として出来上がっている。政を行い、商いを広げ、敵の動きを読み、数え切れないほどの人間を動かす人物だ。その印象を無意識に目の前の少年へ重ねていたらしい。実際に立っている竹若丸は、俺よりさらに幼く、身体つきだけ見ればどこにでもいる年少の武家の子と大きく違うようには見えなかった。
馬鹿なことを考えた、とすぐに自分を戒める。俺だって外から見れば十四の小僧だ。中身が前世で三十を越えていようが、関銭で失敗しようが、梅酸丸を売ろうが、甲賀者を三人使っていようが、黙って立っているだけならそれが顔に書いてあるわけではない。竹若丸だけ、見れば全て分かると思う方がおかしい。
ただ、目だけはよく動いていた。
こちらを見ている。俺だけではない。弥太郎、後ろの家臣、少し離れたところにいる兵、その配置まで順に見ているように感じた。篠ほど露骨に「見ている」と分かるものではない。むしろ自然だからこそ、俺には気になった。竹若丸の隣にいる年長の男――恐らく朽木民部少輔だろう――が俺を紹介すると、少年は一歩前へ出て頭を下げた。
「朽木竹若丸にございます。この度は公方様の御帰洛のため、御足労いただきありがとうございまする」
「六角右衛門督義治にござる。こちらこそ、朽木には道中世話になる」
まずは、それだけだった。
声も普通だ。礼も武家の子としておかしなところはない。いきなり前世の人間にしか分からないことを口走るわけもなく、俺の顔を見て驚くこともない。当たり前と言えば当たり前なのだが、心のどこかで何か起きるのではないかと構えていた自分が少し馬鹿らしくなる。
そこへ幕臣の一人から声が掛かり、朽木民部少輔がそちらへ向かった。出立前に隊列を改めて確認する必要があるらしい。竹若丸も一緒に行くものと思ったが、義輝から少し待つよう言われたらしく、その場へ残った。こちらも六角側の家臣が最後の調整をしているため、すぐに動く必要はない。結果として、ほんの僅かな間だけ、俺と竹若丸が近くに残る形になった。弥太郎は数歩後ろへ控え、篠はどこにいるのか見えない。恐らく、この状況そのものをどこかから見ているのだろう。
先に口を開いたのは俺だった。
「朽木は、人が多いな」
もっと気の利いた話題は無かったのかと、口にしてから思った。だが竹若丸は不思議そうな顔をすることもなく、俺の視線を追うように街道の方へ目を向けた。
「以前よりは、増えたと聞いておりまする」
「聞いている?」
「私が幼い頃の朽木を、よく覚えておりませぬゆえ」
一瞬、胸の内で何かが引っ掛かった。
だが、それだけだ。幼い頃の記憶が曖昧なのは何もおかしくない。ここで一言一言を拾って意味を持たせれば、まさに父上から言われた「見たいものだけを見る」ことになる。
「なるほどな。某も幼い頃の観音寺城下が今とどれほど違うかと問われれば、上手く答えられぬ」
そう返すと、竹若丸がこちらを見た。僅かに笑ったようにも見える。
「右衛門督殿は、道中ずっと荷を御覧になっていたそうにございますな」
「……誰から聞いた」
思わず声が低くなる。
「先に知らせが来ておりまする。六角の御一行は規律正しく、道中で乱暴をする者もおらず、右衛門督殿は人より荷や道をよく見ておられたと」
そこまで見られていたのか。こちらが朽木を見ていたように、朽木もこちらを見ていた。当然の話ではあるが、改めて言われると妙な気分だった。
「人も見ていたつもりなのだがな」
「荷の方が、お好きなのでございますか」
「荷は嘘を吐かぬからな」
口から出てから、自分でも少し妙な言い方だったと思う。竹若丸の目が僅かに細くなった。
「荷を動かす人は、嘘を吐きまする」
「……そうじゃな」
今度は俺が少し笑った。数字だけを見て失敗した自分には、妙に耳の痛い言葉だった。
「では、人を見ねばならぬか」
「人だけでも、分からぬことはございまする」
「荷だけでも駄目。人だけでも駄目か。難しいな」
「左様にございますな」
短い会話だった。
それだけなのに、不思議と引っ掛かった。言っている内容そのものは特別ではない。商いをする者なら似たようなことを口にするかもしれないし、幼い領主だからといって言えない言葉でもない。だが、竹若丸は俺が何を見ていたかを聞き、そのうえで「荷を動かす人は嘘を吐く」と返した。俺が期待していたような、転生者だと一目で分かる印ではない。それでも、ただ礼儀正しいだけの子供として片付けるには、少し気になる。
「竹若丸殿は、人を見るのが好きなのか」
俺が問うと、竹若丸は今度こそ少し不思議そうな顔をした。
「好き嫌いではございませぬ。見なければ、分からぬことがございますので」
その答えを聞いた瞬間、篠に言われた言葉を思い出した。以前より周りを見るようになった。以前より迷うようになった。その分、以前より多く見るようになった。まさか竹若丸と篠が同じことを言っているわけではない。それでも、胸の内で二つの言葉が妙に重なった。
「右衛門督殿は?」
「某か?」
「何故、荷を御覧になるのでございます」
今度はこちらが問われる番だった。
少し迷った。六角家の嫡男として格好の良い答えを返すことも出来る。商いの様子を知るため、領内の違いを見るため、そう言えば済む。だが、それでは何となく面白くないと思った。
「一度、数字だけを見て失敗したことがある」
竹若丸が僅かに目を見開いた。
「故に、今は数字の周りに何があるかを見るようにしておる。まだ上手くはないがな」
「失敗を、御認めになるのですか」
「無かったことにしても、失敗した事実は消えぬ」
竹若丸は何も言わず俺を見た。その目が先ほどまでとは少し違うように感じたが、何が変わったのかまでは分からない。俺もそれ以上話すつもりはなかった。初対面で自分の過去をべらべら話す必要はないし、何よりこちらは竹若丸を観察しに来ているのであって、自分を売り込みに来たわけでもない。
やがて遠くから弥太郎に呼ばれた。隊列の組み直しが終わったらしい。同時に朽木民部少輔も戻ってきて、竹若丸へ何かを告げる。二人だけになっていた時間は、実際にはほんの僅かなものだったのだろう。
「では、竹若丸殿。また後ほど」
「はい。道中、よろしくお願いいたしまする。右衛門督殿」
互いに軽く頭を下げる。
竹若丸が民部少輔とともに義輝の方へ戻っていく。その背を目で追いかけていると、いつの間に近くへ戻っていたのか、篠の声が横からした。
「随分と御覧になっておられましたな」
「……仕事をしていただけじゃ」
「左様で」
絶対に信じていない顔だった。
「何か見えたか」
声を落として尋ねると、篠はすぐには答えず、義輝の近くへ戻っていく竹若丸を一度見た。
「竹若丸様も、若様をよく御覧になっておられました」
「それだけか」
「今は」
以前、三雲対馬守から何かを問われた時のような返しだった。俺は小さく息を吐き、それ以上は聞かなかった。たった一度、ほんの僅かに言葉を交わしただけで何もかも分かるはずがない。むしろここで「間違いない」と決めつける方が危ない。俺が知っている竹若丸と、目の前にいる竹若丸。その二つがどこまで同じなのかは、これから見ればいい。
*
合流していた人々が再び動き始めたのは、それから間もなくだった。公方様の一行を中央へ置き、その前後を六角の兵が固める。朽木側からも領内を抜けるまで案内と護衛が付き、先行する者から順に街道へ出ていく。観音寺城を出た時とはまた違う緊張が六角勢の中にもあり、幕臣たちは幕臣たちで長く滞在した朽木を離れる支度に忙しい。義輝は馬へ乗る前、一度だけ朽木城のある方角を振り返った。四年を過ごした土地を去るのだから、思うところが無いはずはない。少し離れた場所では竹若丸が頭を下げ、朽木家の者たちも揃って公方を見送ろうとしていた。
やがて義輝が馬上から竹若丸へ声を掛け、朽木で世話になったことへの礼を述べた。竹若丸は深く頭を下げ、最後まで恭しく応じている。その姿だけを見れば、主家である足利将軍を送り出す小領主の少年にしか見えない。しかし俺には、それだけで終わらせることが出来なかった。この土地へ入ってから見た人と荷の流れも、先ほど交わした僅かな言葉も、前世の記憶を抜きにしても気に掛かるものがあった。
だが、今の俺にとって先に果たすべき役目は竹若丸を見極めることではない。公方様を無事に京へ送り届けることだ。俺は馬へ乗り、弥太郎から前後の準備が整ったとの報告を受けると、先頭側の家臣へ出立を伝えた。少しずつ人が動き、やがて公方を中心とした新しい列が街道へ伸びていく。朽木へ入ってきた時には六角の五百だけだった列の中に、今は将軍と幕臣たちがいる。その重みを改めて感じながら、俺は前方へ目を向けた。
その途中で一度だけ後ろを見ると、竹若丸もこちらを見ていた。
目が合ったのは僅かな間だった。竹若丸が先に小さく頭を下げ、俺も馬上から応じる。すぐに距離が開き、人と馬の間へその姿は隠れていった。
前世で知っていた名前が、ようやく一人の人間になった。だが、分かったことより分からなくなったことの方が多い。俺が知っている物語の竹若丸と、今この朽木で言葉を交わした少年が、本当に同じところへ辿り着くのか。そもそも俺という本来とは違う人間が六角義治としてここにいる以上、同じ未来が待っている保証など最初から無い。
だからこそ、見ていけばいい。
公方様を乗せた一行は、冬の朽木を離れ、京へ向かって動き始めた。俺もその列の中で手綱を握り直し、これから進む街道の先へ視線を向けた。