淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第二十五話「言葉の重さ」

 朽木を発ってから、しばらくの間は大きな問題も起きなかった。公方様と幕臣たちを中央へ置き、その前後を六角の兵で固めた列は、観音寺城を出た時よりさらに長くなっている。先頭が曲がり角へ差し掛かれば、俺のいる場所から後ろはほとんど見えず、逆に後ろで何か起きても、その知らせが届くまでにはどうしても時間が掛かる。それでも朽木へ来るまでの間に、五百という人間を動かすことへ少しは慣れた。何かあれば全部自分で見に行こうとするのではなく、前は前を預けた者に、後ろは後ろを預けた者に任せ、必要なものだけを自分のところへ上げさせる。馬の脚を痛めた者が出た時も、俺が馬を見に行くより先に後方を預けた家臣が荷を振り分け、隊列を整えていた。報告を受けて何もする必要がないと分かった時には少し拍子抜けしたが、それでいいのだろう。右衛門督になったからといって、俺が誰より上手く馬の脚を診られるようになったわけではない。

 

 問題が無いからといって、気を抜くわけにもいかなかった。俺たちが守っているのは、ただ身分の高い客ではない。室町幕府の将軍その人である。道の両側には、公方様が京へ戻るという話を聞き付けたのか、人が集まっているところもあった。遠くから頭を下げる者、珍しそうに列を眺める者、子供を抱き上げて見せる者もいる。彼らが何を思っているのかまでは分からない。公方様が戻ることで世が落ち着くと期待しているのかもしれないし、単にこれほど大きな一行が通ることを物珍しく思っているだけかもしれない。前なら、頭を下げた人数や集まった人の数を無意識に数えていた気がする。今も目に入れば数えたくなるのは変わらないが、それだけでは何も分からないと知った。少し離れたところに篠の姿が見えるたび、余計にそう思うようになった。

 

 竹若丸は公方様の近くを進んでいた。京まで同行するのではなく、朽木領内を抜けるまでは主として公方様の一行を見送るらしい。時折、幕臣の誰かから声を掛けられ、そのたびに年齢に似合わぬほど落ち着いて受け答えしている。少し前までなら、俺はあの一挙一動へ意味を探そうとしていただろう。目の動きがどうだ、言葉がどうだ、俺を見た時の間がどうだと、一つ一つを拾って「やはりそうなのではないか」と考えたに違いない。だが、初めて言葉を交わして分かったことは、竹若丸が年齢に比してかなり頭の回る子供らしいというところまでだった。それ以上はまだ何も分からない。前世の記憶と重なる部分はいくつもある。それでも、重なるからといって、その全てが同じだと決めつけるわけにはいかなかった。

 

「若様」

 

 横から弥太郎に呼ばれ、俺は竹若丸から視線を外した。

 

「なんじゃ」

 

「公方様がお呼びにございます」

 

「俺を?」

 

「はい。御側へとのことにございます」

 

 何の用だろう。隊列に何か不都合でもあったのかと思ったが、弥太郎の表情を見る限り急ぎの話ではなさそうだった。俺は近くの家臣へ一時その場を任せ、公方様の近くへ馬を進めた。供奉の最中なので馬を降りる必要はない。少し距離を空けて横へ付けると、公方様――足利義輝は俺の姿を確認してから僅かに笑った。

 

「右衛門督。道中、苦労を掛けるな」

 

「とんでもございませぬ。これが某の役目にございます」

 

「左京大夫は相変わらず堅い男よ。五百も出せば十分であろうに、その嫡男まで付けて寄越した」

 

 父上なら、五百だけ送って自分が観音寺城に残る方がよほど落ち着かないのだろう。俺を付けたのも、公方様への礼というだけではなく、経験を積ませる意味が大きい。そう思ったものの、わざわざ口にすることでもないので軽く頭を下げるだけにした。

 

「朽木は見たか」

 

 不意に聞かれ、俺は少しだけ目を上げた。

 

「はい」

 

「どう思った」

 

「人と荷がよく動いている土地にございます」

 

 答えてから、随分俺らしい感想だと思った。公方様も同じことを感じたのか、声を出して笑う。

 

「城でも田畑でもなく、最初にそこを見るか」

 

「父からも、朽木をよく見てくるよう命じられておりますゆえ」

 

「左京大夫が?」

 

「はい。幼い当主が継いだ後とは思えぬほど変わった土地だと聞く、自分の目で見てこいと」

 

 公方様の視線が前方へ向いた。その先には竹若丸がいる。本人へ届くほどの距離ではないが、完全に離れているわけでもない。

 

「左京大夫らしい」

 

 そう呟いた公方様の顔には、どこか懐かしむようなものが浮かんでいた。

 

「儂は朽木に随分世話になった」

 

 声の調子が少し変わる。京を追われ、朽木へ身を寄せてから長い年月が過ぎた。公方様がそこで何を考え、誰を恨み、誰へ失望したのか、俺には分からない。ただ、合流した時に見せた表情を思い返せば、朽木を離れられることを単純に喜んでいるわけではないことくらいは想像出来た。

 

「竹若丸にもな」

 

 やはり、その名が出た。

 

「あれはまだ幼い。だが、なかなか得難い者よ。朽木の者もよく支えてはおるが、あれ自身もよく見、よく考えておる」

 

「左様にございますか」

 

「右衛門督は如何見る」

 

 今度は俺の方へ返ってきた。本人と交わした言葉が頭を過る。荷は嘘を吐かないと言った俺に、荷を動かす人間は嘘を吐くと返した少年。人を見るのは好きだからではなく、見なければ分からないものがあるからだと言った竹若丸。確かに、ただ年齢の割に礼儀正しいというだけの子供ではない。

 

「まだ、分かりませぬ」

 

 正直に答えた。

 

 公方様の眉が僅かに上がる。

 

「分からぬか」

 

「初めてお会いしたばかりにございます。利発な御方とは思いまするが、それ以上を申せば、某の思い込みが混じりましょう」

 

「随分慎重じゃな」

 

「一度、思い込みで失敗しておりますゆえ」

 

 公方様はそれ以上追及せず、俺の顔をしばらく見た後で小さく笑った。

 

「左京大夫の子とは思えぬところで用心深い」

 

 父上は父上でかなり慎重な人だと思うが、口にはしなかった。何を基準に父上と比べているのか俺には分からないし、公方様と父上の間にどのようなやり取りが積み重なっているのかも全て知っているわけではない。

 

 そのまましばらく馬を並べて進んだ。話題は京へ戻った後のことへ移り、公方様は三好との和睦が成ったからといって全てが元へ戻るわけではないと話した。幕府の内側にも外側にも思惑を持つ者がいる。俺に何かを教えようとしているというより、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。十四の俺へ幕政の細かなところまで話すつもりはないらしく、具体的な名前はあまり出さなかったが、京へ戻れることと自由に政を行えることは別なのだということくらいは伝わってきた。

 

 そして話が途切れた時、公方様はもう一度竹若丸へ目を向けた。

 

「あれほどの者が、もう少し大きな地を持っておればな」

 

 何気ない口調だった。

 

 だが、俺の背中に僅かな緊張が走った。

 

「朽木だけでは惜しい。近江の半ばほども任せてみれば、さぞ面白いことになろう」

 

 ――これか。

 

 前世の記憶の奥から、一つの話が浮かび上がった。公方様が竹若丸をひどく褒め、近江半国もあればとまで口にした。それを聞いた六角右衛門督が面白く思わず、後々まで朽木に対して良い感情を持たなかった。細かな言い回しまでは覚えていない。だが、そのような話があったことだけは記憶に残っている。

 

 その六角右衛門督が、今は俺だ。

 

 思わず笑いそうになった。面白いという意味ではない。あまりにも分かりやすく、同じところへ話が転がってきたからだ。歴史が変わったところはいくつもある。俺は本来の六角義治とは違う行動を取り、竹若丸とも本来なら無かったはずの会話をした。それでも公方様は同じような言葉を口にした。

 

 だが、俺の胸に浮かんだのは嫉妬ではなかった。

 

 最初に思ったのは、――それを俺に言うのか、だった。

 

 近江の大半を握っているのは六角家である。その嫡男である俺を横へ置いて、朽木の当主へ近江の半分ほど与えれば面白いと言う。公方様に六角の領地を今すぐ取り上げる意図など無いのだろう。恐らく単純に、竹若丸の才をそれほど高く買っているという例えに過ぎない。悪意も無いはずだ。

 

 だからこそ、扱いに困る。

 

 俺は少し前方へ視線を移した。竹若丸はこちらへ顔を向けてはいない。しかし、近くにいる幕臣の何人かは今の言葉を聞いていたらしく、こちらを窺うような視線がある。あの中の誰かが別の誰かへ話し、それがさらに誰かへ伝われば、「公方様は朽木竹若丸へ近江半国を与えたいとまで仰った」という話だけが独り歩きする可能性もある。父上の耳へ届けば、竹若丸への評価より先に、公方様は何を考えているのかと警戒するだろう。

 

「右衛門督?」

 

 俺が黙ったため、公方様がこちらを見る。

 

 ここで不機嫌そうな顔をすれば、それもまた別の意味を持つ。

 

「竹若丸殿ほどの方を、公方様が高く買っておられることはよく分かりました」

 

「うむ」

 

「ただ――近江半国となれば、竹若丸殿ご本人が一番お困りになるかと」

 

 公方様の表情が止まった。

 

「竹若丸が?」

 

「はい」

 

「何故じゃ」

 

 俺は一度だけ言葉を選んだ。

 

「近江には、すでにそれぞれ土地を治める者がおりまする。公方様からそのようにまで仰せいただけば、竹若丸殿が何も望まれておらずとも、周囲が勝手に意味を考えましょう。某の父も、恐らく驚きまする」

 

 近くにいた幕臣が僅かにこちらへ視線を向けた。公方様もすぐには答えなかった。

 

「そなたは腹を立てぬのか」

 

 思っていたより直接的な問いだった。

 

「竹若丸殿が優れておられることへ、でございますか?」

 

「そなたより幼い者を、儂が褒めたことへじゃ」

 

 なるほど。そこまで分かっていて言っているのなら、少し話は違う。俺は公方様の顔を見た。からかっているようには見えない。純粋に俺の反応を知りたいらしい。

 

「竹若丸殿を褒められたからとて、某の役目が軽くなるわけではございませぬ」

 

「……なるほど」

 

「某は六角の嫡男として、父から渡されるものを受け取れるよう努めるだけにございます。竹若丸殿には竹若丸殿の役目がございましょう。それを比べても、今の某にはあまり意味がないかと」

 

 言い終えてから、少し格好を付け過ぎたかと思った。実際には、俺だって誰かと比べられて何も感じないほど達観しているわけではない。前世で教師をしていた頃でも、同年代の教師が評価されれば羨ましいと思うことくらいあった。ただ、その感情と相手を嫌うことは別だ。まして竹若丸が優秀なのは、俺にとって今さら驚くことですらない。むしろ困るのは、目の前の竹若丸が俺の知っている人物以上に動き始めた時だろう。

 

 公方様はしばらく俺を見た後、ふっと口元を緩めた。

 

「左京大夫から何を教わった」

 

「失敗した後に、随分叱られました」

 

「それだけか」

 

「それが一番効きましたので」

 

 今度は公方様が声を上げて笑った。周囲の幕臣が何事かとこちらを見るほどだったが、俺には何がそんなに面白かったのか分からない。

 

「右衛門督」

 

「はい」

 

「そなたも変わっておるの」

 

 それを公方様に言われるとは思わなかった。

 

「よく言われまする」

 

 そう返すと、また笑われた。

 

 しばらくして公方様は前へ戻り、俺も元の位置へ下がった。弥太郎がすぐ横へ馬を寄せてくる。先ほどの会話が全部聞こえていたわけではないはずだが、公方様が笑ったところは見えていたらしい。

 

「何をお話しになられたので?」

 

「竹若丸殿のことじゃ」

 

「随分お気に召しておられると聞きましたが」

 

「そのようじゃ」

 

 それ以上は話さなかった。今ここで弥太郎へ説明すれば、必要のないところまで話を広げることになる。父上には帰ってから伝えるべきだろう。公方様が竹若丸を高く評価していることも、その例えとして近江半国という言葉まで出たことも、六角家の嫡男として黙っておくべき話ではない。ただし、どう伝えるかは考えた方が良い。言葉は同じでも、どこを強く伝えるかで受け取られ方は変わる。

 

「若様」

 

「なんじゃ」

 

「右手が」

 

 言われて見ると、手綱を持つ右手の指が僅かに動いていた。反射的に止め、弥太郎を見る。

 

「篠ではないのだから、そこまで見るな」

 

「近くにおりますので」

 

 涼しい顔で返される。

 

「考え事でございますか」

 

「少しな」

 

「竹若丸殿の?」

 

「……それもある」

 

 嘘ではない。

 

 俺が何を考えているか全部話すことは出来ない。前世の記憶については、今のところ誰にも話すつもりはなかった。それでも、考え込んでいる時に一人で抱え過ぎるなということくらいは、弥太郎なりに伝えたいのだろう。

 

「後で篠にも聞く」

 

「何をでございます」

 

「公方様が今の話をされた時、周りがどんな顔をしておったか」

 

 弥太郎の目が少しだけ細くなった。俺が公方様の言葉そのものではなく、それを聞いた周囲を気にしていると分かったらしい。

 

「承知いたしました」

 

「そなたにも聞くぞ」

 

「では、今からよく見ておきまする」

 

「頼む」

 

 それだけ言って前へ向き直った。

 

 *

 

 昼近くになり、朽木領を抜ける前に一行は短い休みを取った。長く止まるつもりはなく、馬へ水を飲ませ、人も身体を休める程度である。公方様の周囲には幕臣が集まり、六角勢も前後に分かれてそれぞれ持ち場を確かめている。俺も経験ある家臣からここまでの状況を聞き、特に遅れも問題もないことを確認してから水を口にした。

 

 弥太郎が少し離れたところへ行った隙に、代わるように篠が近付いてきた。

 

「若様」

 

「ちょうど良かった。聞きたいことがある」

 

「公方様とのお話でございますか」

 

 先に言われ、俺は思わず眉を寄せた。

 

「聞こえておったのか」

 

「全てではございませぬ」

 

「では何故分かる」

 

「公方様がお笑いになった後、若様が随分難しい顔で戻ってこられましたので」

 

 そこまで顔に出ていたらしい。人の顔も見ろと言われておきながら、自分の顔は相変わらず隠せていない。

 

「公方様が、竹若丸殿のことを随分褒められた」

 

「はい」

 

「近江の半ばほどを任せても面白い、と」

 

 篠の表情はほとんど変わらなかった。それでも目だけが僅かに動く。

 

「……それはまた」

 

「やはりそういう顔になるか」

 

「私が六角の者だからでございましょう」

 

「だろうな」

 

 篠に、近くにいた幕臣たちの様子を尋ねた。彼女は少し考えた後、二人ほどが俺の顔を見ていたこと、別の一人は竹若丸の方へ視線を向けたことを教えた。竹若丸本人が言葉を聞いていたかどうかまでは分からない。ただ、朽木側の者で反応した者はいなかったという。

 

「若様は、如何思われたので?」

 

「公方様には悪気がない」

 

「はい」

 

「だから困る」

 

 篠が僅かに目を細めた。

 

「同じことを竹若丸殿も思われるかもしれぬな」

 

「お尋ねになりますか?」

 

「いや」

 

 俺は首を振った。

 

「今は聞かぬ。聞けば、答えさせることになる」

 

 竹若丸の立場で「近江半国を与えたいほど評価している」と将軍から言われたことへ、何と答えればいいのか。喜べば六角へ野心を疑われる。迷惑だと言えば将軍の好意を退けることになる。何も言わなければ、それはそれで周囲が勝手に意味を付ける。本人が聞いていたとしても、こちらから蒸し返すべき話ではない。

 

 篠は少しだけ俺を見つめた後、一礼した。

 

「分かりました」

 

「何がじゃ」

 

「以前なら、お尋ねになっていたやもしれませぬ」

 

 言われて、少し考える。確かにそうかもしれない。気になったものを確認したい。答えがあるなら聞きたい。それが俺の癖だった。今でも気になって仕方がない。しかし、聞けば相手へ負担を掛ける問いもある。答えを得ること自体が、別の何かを動かしてしまうこともある。

 

「……少しは成長したということにしておこう」

 

「はい」

 

「何故そこで笑う」

 

「笑っておりませぬ」

 

 口元が僅かに上がっている。

 

「笑っておるではないか」

 

 それ以上追及する前に、出立の準備が整ったとの声が掛かった。篠はすぐ表情を戻し、人の中へ消えていく。俺も馬へ戻ろうとしたところで、少し先に竹若丸の姿があることに気付いた。

 

 こちらを見ていた。

 

 一瞬だけ目が合う。

 

 俺が軽く頭を下げると、竹若丸も同じように返した。最初に会った時より少しだけ自然な仕草に見えたのは、俺の思い込みかもしれない。その時、公方様の言葉を竹若丸が聞いていたのかどうか、やはり俺には分からなかった。

 

 休息を終えた一行は再び動き出し、やがて朽木領の端へ近付いた。そこまで同行していた朽木勢は、その先へは進まない。街道の脇へ寄り、公方様と幕臣たちを見送るために列を整える。竹若丸もその先頭近くに立ち、馬を降りた公方様へ深く頭を下げていた。朽木で長く庇護を受けてきた義輝もすぐに先を急ごうとはせず、竹若丸や朽木の者たちへ改めて礼を述べている。何を話しているのかまでは聞こえなかったが、竹若丸が何度か頭を下げ、義輝がその肩へ目を向けながら言葉を掛けている姿を見ると、単なる一宿一飯の恩義では済まない年月が二人の間にあったのだろうと思えた。

 

 俺たち六角勢は少し離れた場所で待っていた。ここから先、公方様の護衛は完全に六角の役目となる。これまでの道中でも実質的にはこちらが主力だったが、朽木領内には竹若丸たちがいて、土地を知る者も多かった。それがここからは違う。先を見る者も、後ろを固める者も、何か起きた時に判断する者もこちらで用意しなければならない。そのことを改めて考えながら前方を見ると、竹若丸が公方様への挨拶を終え、こちらへ顔を向けた。

 

 目が合ったため、俺も馬を少し進めた。

 

「ここまでにございますな」

 

「はい。右衛門督殿、公方様をよろしくお願いいたしまする」

 

「承知した」

 

 それだけ答えて終わるつもりだったが、少しだけ言葉を足したくなった。

 

「少ししか話せなんだが、面白かった」

 

 竹若丸がほんの僅かに目を見開いた。

 

「私もにございます」

 

「次に会う時は、もう少しゆっくり話せればよいな」

 

「はい。その時を楽しみにしておりまする」

 

 表面だけ見れば、年長の六角家嫡男と年少の朽木家当主が交わした、ただの挨拶に過ぎない。それでも俺には妙に記憶へ残るやり取りだった。竹若丸も同じように感じているのかまでは分からない。ただ、最初に会った時より互いを見る目が少しだけ変わったようには思えた。

 

「では、またな。竹若丸殿」

 

「道中、御無事に。右衛門督殿」

 

 互いに頭を下げ、俺は馬首を返した。

 

 やがて公方様の一行が動き始める。朽木の者たちは道の脇に残り、竹若丸もその中にいた。しばらく進んでから一度だけ後ろを振り返ると、まだこちらを見送っている小さな姿が見えた。さらに進めば木々と道の曲がりに隠れ、やがて完全に見えなくなる。

 

 俺はそこで前へ向き直った。

 

 竹若丸が何者なのか、答えはまだ出ていない。それでも、名前だけを知っていた時よりは随分と違う。あれはもう前世で読んだ物語の登場人物ではなく、自分と実際に言葉を交わした一人の人間だった。次に会う時、俺たちがどんな立場にいるのかは分からない。それでも、もう一度話してみたいという気持ちだけは、今のところ素直なものだった。

 

 *

 

 それから数日、公方様の一行は京を目指して道を進んだ。五百の兵に幕臣や従者を加えた一行の進みは、少人数の旅ほど速くはない。朝になれば全員を動かすだけでも時間が掛かり、途中で一度止まれば、先頭から最後尾まで再び動き始めるにも間が生じる。馬の具合が悪くなることもあれば、草鞋が切れる者もいる。道幅が狭いところでは列を伸ばし、開けた場所へ出れば再び詰める。宿を取れる場所では屋根の下へ入れる者から休ませ、それだけでは足りない時には周辺へ分かれて夜を越した。観音寺城で絵図や帳面を見ながら考えていた時には、五百を動かすという言葉の中に、こうした小さな遅れが幾つも積み重なることまでは実感出来ていなかった。

 

 それでも、日を重ねるにつれて俺自身も少しずつ慣れていった。最初のうちは報告が遅ければ何か起きたのではないかと後ろを振り返り、休憩のたびに全体の人数や荷の具合を自分でも確認したくなった。だが、任せた者から必要な知らせが上がり、それで実際に列が動いていることを何度も経験すると、自分が見に行かなくても済むことまで見に行こうとは思わなくなった。弥七は先へ出て道の状態を知らせ、宗兵衛は宿や荷の具合を見て、篠は沿道の人々や幕臣たちの様子を拾ってくる。弥太郎はその間ずっと俺の近くにいて、各所から来た話を整理し、俺が一つのことへ気を取られ過ぎればさりげなく別の報告を差し出してきた。五百を率いるとは、自分一人が五百人を見ることではないのだということを、俺はこの数日でようやく身体でも理解し始めていた。

 

 公方様との間でも、道中に何度か言葉を交わした。朽木での暮らし、京へ戻った後のこと、父上のこと。どの話も長く続くわけではなく、公方様も俺へ幕府の事情を全て明かすつもりはない。当然、俺も六角家の内情を何でも話すわけではなかった。ただ、朽木領内で竹若丸について話した時のように、何気ない言葉の中へその人の考えが滲むことがある。だから以前よりも、言われた内容だけではなく、何故それを自分へ話したのかまで考えるようになった。考え過ぎるなと父上なら言うかもしれないが、聞いた言葉をそのまま受け取るだけよりはよいだろう。

 

 竹若丸の姿が列から消えてからも、公方様が口にした「近江の半ば」という言葉は頭の片隅に残っていた。竹若丸本人がそれを聞いていたのかどうかは最後まで分からなかったし、確かめようとも思わなかった。聞けば答えさせてしまう。そこまで考えられたことを篠から成長だと言われた時には少し複雑だったが、実際、以前の俺なら気になったことはその場で確かめたくなっただろう。答えを得ることが常に良いとは限らない。問いそのものが人を動かすこともある。公方様の一言が俺や幕臣の視線を変えたように、俺が発する問いにも同じような力がある。そのことは、右衛門督となってから以前より強く意識するようになった。

 

 その日の午後も、一行は朝から街道を進み続けていた。山間の道は次第に開け、人家や行き交う者の数も、これまでとは明らかに違ってきている。荷を積んだ馬、徒歩の商人、寺へ向かうらしい僧、籠を担ぐ者。道の両側へ広がる人の流れが、俺たちと同じ方向へ吸い寄せられていくように見えた。公方様の帰京を知って待つ者もいるらしく、場所によっては街道の脇に人が集まり、列が通るのを遠巻きに眺めている。幕臣たちにも朝までとは違う緊張が見え始め、公方様も時折前方へ視線を向ける回数が増えていた。

 

「若様」

 

 いつものようにすぐ横を進んでいた弥太郎が声を掛けてきた。

 

「なんじゃ」

 

 弥太郎は前方を見たまま、少しだけ表情を引き締める。

 

「まもなく京にございます」

 

 その言葉を聞いた瞬間、自然と背筋が伸びた。

 

 ついに来たか。

 

 前世で知っている京都とは当然まるで違う。高い建物も舗装された道もなければ、俺が知っている駅も道路も無い。それでも、進むにつれて増えていく屋根の数や、街道へ溢れ始めた人の多さだけで、近江の城下や朽木とは比べものにならない大きな町がこの先にあることは分かった。何度も戦火に晒され、昔の華やかさを失ったと聞く京でさえ、初めて見る俺には十分過ぎるほど大きい。その景色が少しずつ視界へ広がるにつれて、公方様の一行へ向けられる視線も増え、道端で頭を下げる者や、声を上げる者まで現れ始めた。

 

 その声へ応じるように幕臣たちの背筋が伸び、公方様も馬上で姿勢を正した。朽木を離れた時とは明らかに違う顔だった。長く身を寄せた土地を離れる者の表情ではなく、これから京へ戻る征夷大将軍として人々の前へ出る顔に変わっている。数日間、同じ道を進んできたことで少しだけ近く感じるようになっていた人物が、周囲から向けられる視線が増えた途端、再び遠い立場の者へ戻っていくようにも見えた。俺自身も同じなのかもしれない。弥太郎や篠といる時の俺と、六角右衛門督として公方を護衛する俺は別人ではない。それでも、誰の前に立つかによって求められる顔は変わる。

 

 六角の五百は、ここまで公方様を無事に連れてきた。まだ役目が完全に終わったわけではないが、一番大きな部分は果たせそうだった。観音寺城の馬場で弥太郎へ「少し怖い」と漏らした時には、五百という数が途方もなく大きく見えた。今も軽くなったとは思わない。だが、自分一人で五百を背負うのではなく、任せる者へ任せ、報告を受け、必要な時に決めることで動かせるのだということは、この数日の道中で少しだけ分かった。反対に、自分が表へ立つ以上、任せたから責任まで消えるわけではないことも同時に分かった。誰かへ仕事を渡した後でも、最後にその結果を引き受けるのは自分だ。その両方を忘れないことが、恐らく人を使うということなのだろう。

 

 それと同じくらい強く残ったのが、言葉の重さだった。公方様にとって何気ない褒め言葉であっても、それを聞いた幕臣がいて、六角の俺がいて、その先には父上がおり、竹若丸がおり、朽木がある。別の場所へ伝われば、同じ言葉が全く違う意味を持って歩き始めることもある。右衛門督という立場になった以上、それは公方様だけの話ではなかった。俺自身の言葉も、亀松丸と呼ばれていた頃より確実に重くなっている。思ったことを口にすれば、それを命令として受け取る者もいる。誰かを褒めれば、その人物が自分に重く用いられていると見る者も出るだろう。逆に何気なく否定しただけで、必要以上の意味を読み取られることもある。人の上に立つというのは、考えていた以上に面倒なことらしい。

 

 竹若丸との短い会話も頭には残っていた。荷を見る俺に、人も見なければ分からないと返し、その一方で人だけを見ても分からないものがあると言った少年。朽木領の端で別れた時には、次に会う時はもう少しゆっくり話そうと約した。その次がいつになるのかは分からない。俺の知っている未来がそのまま続くなら、嫌でも何度も名前を聞くことになるはずだ。だが、俺という本来とは違う六角義治がいる以上、何もかも同じ順番で起きる保証はない。

 

 それでも今は、答えを急ぐ必要はないと思える。

 

 見て、聞いて、比べればいい。分からないものは、分からないまま置いておけばいい。そして、決めなければならない時が来れば、その時に自分の持っているものから答えを出す。それが正しい答えになる保証はない。だが、条件が足りないからと永遠に立ち止まることも出来ない。そのことを、今回の供奉で少しずつ身体へ覚え始めていた。

 

 京へ続く街道の先で、人のざわめきが次第に大きくなっていく。四年ぶりに将軍を迎える者たちの声が、離れた場所からでも聞こえ始めていた。俺は一度手綱を握り直し、前後の列が崩れていないことを確かめてから、公方様の背へ視線を戻した。

 

 六角右衛門督義治として初めて京へ入る時が、もうすぐそこまで来ていた。

 

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