京が近付くにつれて、道の両脇へ集まる人の数は目に見えて増えていった。初めは遠巻きにこちらを見る者がいる程度だったものが、やがて家々の前や道の脇に人だかりが出来るようになり、公方様の姿が見えると頭を下げる者、声を上げる者、その様子を少し離れたところから黙って眺めている者まで現れる。全員が公方様の帰京を心から喜んでいるのか、それとも単に珍しいものを見ようとしているだけなのかまでは分からない。それでも、朽木からここまでの道中で見てきたものとは、明らかに空気が違っていた。
俺は馬上から前方と道の両脇へ視線を動かした。京へ入るというだけなら、前世では何度も経験している。修学旅行の引率で来たこともあれば、個人的に寺社を見て回ったこともある。だが当然、目の前に広がっているのは俺の知っている京都ではない。高い建物も、舗装された広い道路も無い。代わりに土埃の立つ道があり、その両側へ木と土で造られた家々が続き、所々には寺社の大きな屋根が見える。何度も戦火を受け、昔ほどの姿ではないと聞かされていた。それでも人の数も、荷の量も、近江で見てきた町とは比較にならない。これだけの人間が毎日食べ、物を売り、物を買い、どこかへ運ぶ。そのことを考えただけで、頭の中で勝手に数字を並べたくなる。
「若様」
弥太郎の声に、俺はそちらを見た。
「なんじゃ」
「前を」
言われて視線を戻す。人の流れへ気を取られていたらしい。公方様の一行が少し速度を落とし、幕臣たちが位置を整え始めている。京へ入ったからといって、こちらの役目が終わったわけではない。むしろ人が増え、見通しが悪くなる分だけ気を付けることは増えている。
「……すまぬ」
「珍しいものが多うございますからな」
「笑うな」
「笑ってはおりませぬ」
口元が僅かに上がっている。
「篠と同じことを申すようになったな」
「それは困りまする」
「何故じゃ」
「若様を見る者が二人になりますゆえ」
「俺が困るのだが」
小さく返しながらも、視線は前へ戻した。五百を率いている以上、自分一人だけが町を眺めていればいいわけではない。先へ出ている者からは道に大きな支障はないと報告が来ている。後ろも遅れてはいない。荷駄の一頭が少し歩みを鈍らせているらしいが、交替させるほどではないという。数日前なら、その報告を聞けば自分で確かめたくなったかもしれない。今は、任せた者が問題無しと判断したなら、その判断を受け取るだけでいいと思えるようになっていた。
公方様の周囲には、京へ近付くにつれて人が増えている。朽木を出た頃には見なかった顔も混じり始め、出迎えに来たらしい武士や使者が順に挨拶へ進んでいる。そのたびに列が少し緩み、また整う。義輝公自身も、道中で俺と話していた時とは明らかに違う顔をしていた。背筋を伸ばし、周囲へ向ける視線も強い。こちらへ冗談を言い、竹若丸のことを楽しそうに話していた人物と同じであるはずなのに、今は近付く者全てから「将軍」として見られている。その視線を受け止めるためなのか、本人の中でも何かを切り替えているように見えた。
立場が人を作る、という言葉を前世で何度か聞いたことがある。あまり好きな言葉ではなかった。立場に就いただけで人間が急に立派になるわけではないと思っていたからだ。教師になったからといって、採用されたその日から全員が立派な教育者になるわけではない。俺自身、何年経っても分からないことはあった。けれど、立場によって求められる顔が増えるという意味なら、今は少し分かる気がする。公方様は朽木にいる時には一人の人間として笑うことが出来た。だが京へ戻れば、周囲はそれだけを許してはくれない。将軍として見られ、将軍として判断し、将軍として言葉を発することを求められる。
それは俺も同じなのだろう。弥太郎や篠の前で「俺」と言っている時と、五百の前で「某」と口にする時。どちらかが嘘なのではなく、どちらも自分なのだ。ただ、背負っているものが違う。そう考えているうちに、一行はさらに京の内へ入っていった。
*
公方様を御座所まで送り届ける頃には、空はすでに傾き始めていた。途中、何度か列を止めることはあったものの、大きな混乱は無かった。公方様の周囲を固める幕臣たちも、京へ入ってからはそれぞれの役目へ戻っていくように動き始め、六角勢も最後まで護衛の形を崩さず目的地へ着いた。門を潜り、公方様と幕臣たちが中へ入っていくのを確認した時、俺はようやく肩から少し力が抜けた。
「終わりましたな」
隣で弥太郎が言う。
「まだじゃ」
「は?」
「五百を連れて帰らねばならぬ」
一瞬、弥太郎が目を瞬かせた後、僅かに笑った。
「若様らしいお答えにございます」
「何がじゃ」
「公方様をお送りすれば終わりだと思うておりました」
「俺も少し前までなら、そう思っておったかもしれぬ」
言いながら、後方へ目を向ける。五百の兵がそれぞれ決められた場所へ移動し始めている。京の内で全員を一か所へ置くわけにもいかず、今夜の宿も幾つかへ分けてある。馬も休ませなければならない。兵糧の残りも確認が必要だ。帰路へ使える草鞋の数も足りているか確かめる必要がある。御座所へ着いた。それで終わりではない。帰るまでが役目だ。いや、正確には帰ってから父上へ報告するところまでだろう。
「弥太郎」
「はい」
「今夜の宿割り、もう一度見ておけ。馬もじゃ。帰りに使えぬほど疲れているものがおれば、明日のうちに替えを考える」
「承知いたしました」
「それと、怪我人と具合の悪い者も」
「そちらはすでに確認させておりまする」
「早いな」
「若様が言われると思いましたので」
先を越された。
「……頼りにしておる」
「存じておりまする」
少し得意そうに答えられ、俺は苦笑した。
弥太郎が離れていった後も、しばらくその場に残って周囲を見ていた。兵たちの顔には、明らかに安堵が見える。戦へ来たわけではないとはいえ、将軍を護衛して山を越え、京まで来たのだ。緊張していなかった者の方が少ないだろう。戦わなかった。誰とも槍を合わせず、矢も飛んでこなかった。だからといって何も無かったわけではない。五百人を数日歩かせ、飯を食わせ、馬を動かし、荷を運び、予定した場所へ連れてきた。その途中には、馬が脚を痛めたこともあった。草鞋が切れた者もいた。予定していた場所で十分な水が取れず、少し先まで進んだこともある。休憩を取るにしても、五百人全員が腰を下ろして食事を終えるまでには時間が掛かった。先頭が動き出しても最後尾はまだ止まっていることがある。
帳面の中では五百と一つの数字だったものが、実際に動かせば五百個の身体になる。腹も減れば、疲れもする。怪我もする。そんな当たり前のことを、俺は今回初めて本当の意味で知ったのかもしれない。
*
夕刻近くになって、公方様から呼び出しがあった。御前へ出ると、義輝公は京へ入った直後ほど張り詰めた顔ではなかったが、それでも道中とは違う。周囲には幕臣が控え、俺も自然と背筋を伸ばした。
「右衛門督」
「はっ」
「此度は大儀であった」
「勿体なき御言葉にございます」
「左京大夫にも礼を伝えよ。五百もの兵を出してくれたこと、忘れぬとな」
「必ず申し伝えまする」
義輝公は頷き、それから少しだけ俺を見た。
「そなたも、初めての供奉であったな」
「はい」
「如何であった」
一瞬、答えに迷った。何を聞かれているのか。京を見た感想なのか、五百を率いた感想なのか、公方様を送った感想なのか。少し考えた後、正直に答えることにした。
「五百という数を、少し軽く考えていたようにございます」
周囲の幕臣の何人かがこちらを見る。
「軽く?」
「はい。五百を率いる、と申すだけなら簡単にございます。されど実際には、五百人が腹を空かせ、疲れ、馬も草鞋も傷みまする。止まれば全員が止まるまで時間が掛かり、進めば全員が動き出すまで時間が掛かる。思っていたより随分、大きなものにございました」
義輝公の口元が少し緩んだ。
「戦ではなかったぞ」
「はい」
「それでもか」
「戦でなくとも、人を動かせば同じかと」
言ってから、少し生意気だったかと思った。だが義輝公は怒らなかった。
「左京大夫がそなたを寄越した理由が、少し分かった気がするわ」
「父が何を考えておったかまでは、某にも分かりませぬ」
「分からぬことばかりじゃな、そなたは」
朽木領で言われたことを思い出し、思わず口元が緩んだ。
「以前よりは、分からぬと申せるようになりました」
「それは良いことなのか?」
「恐らくは」
「そこも分からぬか」
「はい」
義輝公が声を立てて笑った。周囲の幕臣の中には僅かに困った顔をしている者もいたが、公方様が楽しそうなので何も言わなかった。
「右衛門督」
「はっ」
「また京へ来い」
少し意外な言葉だった。
「此度は供奉であった。そなた自身は京をほとんど見ておらぬであろう」
「……よく御存じで」
「道中でも荷ばかり見ておったからな」
「人も見るようにしておりまする」
「竹若丸にも似たようなことを言われておったな」
そこまで覚えているのか。
義輝公はもう一度笑った後、表情を少しだけ改めた。
「京には人がおる。人がおれば、思惑もある。近江だけ見ていては分からぬことも多い。右衛門督を名乗るのであれば、いずれ嫌でも関わることになろう」
「肝に銘じまする」
「うむ」
それ以上長く話すことはなかった。俺は改めて礼を述べ、御前を退いた。廊下へ出てから一度だけ息を吐く。将軍と普通に話せるようになったわけではない。むしろ話せば話すほど、あの人の一言が周囲へ与える影響を考えてしまう。
竹若丸へ近江半国。
あれも本人にとっては単なる褒め言葉だったのだろう。けれど、聞く者によって意味は変わる。今日の「また京へ来い」も、誰かが聞けば俺と公方様が親しいと受け取るかもしれない。立場が付けば、言葉には自分の意図とは別の意味が増えていく。そのことだけは忘れない方がよさそうだった。
*
京での一夜を終えた翌朝、六角勢は帰路へ就いた。行きと違い、公方様と幕臣たちはいない。守るべき中心が一つ消えた分だけ、隊列そのものは動かしやすくなった。それでも五百人であることに変わりはなく、帰りだからといって気を抜くわけにはいかない。
兵たちの空気は行きより明らかに軽かった。役目を終えた安心感があるのだろう。行きには黙々と歩いていた者たちの間にも、小さな話し声が増えている。宿で京の話をしていた者も多かったらしい。宗兵衛からは、何人かが土産を買いたがったため、出立に遅れぬ範囲で許したと報告を受けた。
「若様も何か買われればよろしかったのでは?」
馬上で弥太郎が言う。
「何をじゃ」
「京まで来られたのですから」
「何がある」
「それを私に聞かれましても」
「ならば言うな」
「小夜や猿夜叉丸様へ何かあれば喜ばれたかもしれませぬぞ」
「……それは少し考えた」
「買われなかったので?」
「時間が無かった」
実際には、商人の荷や店先を見るたび別のことを考えてしまっていた。何がいくらで売られているのか。どこから運ばれてきたのか。人が多いところではどんな品が目立つのか。そんなことばかり見ていて、土産まで頭が回らなかった。
「次に来た時でよい」
「公方様にも、また来いと言われたのでしょう?」
「何故知っておる」
「御前を出られた後、随分難しい顔をしておられましたから」
また顔に出ていたらしい。
「お主も篠の真似をするな」
「真似ではございませぬ。長く側におりますので」
「余計に悪い」
弥太郎が笑う。その顔を見ながら、俺も少し肩の力を抜いた。
帰路は行きよりも楽だった。道を一度通っていることも大きい。どこで休めるか、どこで水を取れるか、どの辺りで道が狭くなるかを皆が知っている。弥七から上がってくる報告も、行きほど細かく確認する必要はなかった。その分、俺は兵たちを見る余裕が出来た。
歩きながら干飯を口へ入れている者がいる。休憩になるとすぐ水を飲み、しばらく何も食べず横になる者もいる。道中、飯を炊く時間が取れない時には、携えている物で済ませるしかない。五百人全員へ十分な食事を、毎回決まった時刻に用意する。言葉にすれば簡単だが、現実には難しい。天候で遅れることもある。道が塞がることもある。敵がいれば、飯を炊いている場合ではないこともあるだろう。
戦になれば、もっと酷い。
ふと、昔作った梅酸丸が頭を過った。あれなら小さい。荷にもなりにくい。水飴を使っているから、疲れた時に口へ入れれば多少は腹の足しになる。梅と塩気もある。今の物をそのまま使えるかは分からないが、少なくとも歩きながらでも食べられる。
――いや。
すぐに結論を出すのは止めた。
使えるかもしれない。
まずはそれでいい。
どの程度持つのか。暑い時にどうなるのか。一人一日にいくつ必要なのか。五百人なら何個になる。千人なら。五千人なら。作れる数は。材料は。値は。考えることは多い。だが、今回実際に五百人を動かしたからこそ見えた問題だった。
城に戻ったら、帳面を見直そう。
そう思った。
*
観音寺城が見えたのは、それからさらに数日後だった。遠くに見慣れた山と城が見えた瞬間、兵たちの間から僅かに声が上がった。京へ入った時とは違う声だった。珍しいものを見た時ではなく、自分の家へ帰ってきた者の声である。
俺自身も、思っていた以上にほっとしていた。出立した朝には、城があれほど遠く感じるとは思わなかった。大手へ近付くにつれ、見送りの時と同じように城内の者たちが集まり始める。先に帰還を知らせる者を出してあったため、父上にもすでに話は届いているはずだ。
列を整えたまま大手を潜り、最後の兵が城内へ入ったことを確認する。
五百。
行きに出た数から、大きく欠けてはいない。怪我人はいる。馬も何頭か替えた。途中で体調を崩した者もいた。それでも、全員が戻ってきた。そのことに気付いた瞬間、胸の中にあったものがようやく少し軽くなった。
「若様」
弥太郎が隣から声を掛ける。
「なんじゃ」
「今度こそ、終わりましたな」
俺は大手の内側へ視線を向けた。
少し先に父上がいる。
「いや」
「まだでございますか?」
「父上へ報告するまでじゃ」
「……左様にございますか」
「何故溜息を吐く」
「いえ。若様らしいと思いまして」
「悪かったな」
二人で馬を進めた。
父上は見送りの時と同じように、大仰な姿勢を取ることなく待っていた。俺が馬を降りて前へ進み、膝をつく。
「父上。ただ今戻りました」
「ああ」
義賢は俺の顔を一度見た後、後ろへ目を向けた。
「公方様は?」
「無事、京へお送りいたしました」
「道中は」
「大きな支障はございませぬでした。怪我をした者、具合を崩した者はおりまするが、此度連れて出た者は皆、戻っております」
父上はしばらく後方を見ていた。それから俺へ視線を戻す。
「ならば、それでよい」
その一言だけだった。
褒められたというほどでもない。
けれど、出立前に言われた言葉を思い出した。
無事に連れて行け。
そして無事に戻ってこい。
それが出来れば十分だと。
「はい」
俺は頭を下げた。
*
その夜、自室へ戻ってからも、すぐには眠る気になれなかった。
机の上には、京から持ち帰った道中の記録が置かれている。兵の数、馬の数、荷の量、使った兵糧、途中で補った物、休んだ場所、遅れた時間。担当した者が記録したものを集めただけでも、それなりの量になっている。だが、帳面に並んだ数字を眺めていると、そこに記された一つ一つが、単なる数ではなかったことを思い知らされる。兵糧の一俵は、誰かが背負って運んだ荷であり、馬一頭の不調は、その馬に荷を預けていた者の足を止め、隊列全体の進みを遅らせる。休憩の時間が僅かに延びれば、先の宿場へ着く時刻が変わり、日が暮れれば野営の準備や警戒に割く人手まで増える。五百という数字の裏側には、五百人分の腹、足、眠り、疲れ、怪我、そしてそれぞれを支える荷と人手があった。
その横には、以前から付け続けていた別の帳面があった。
三年に渡って試してきた市の記録。
商人の数。
荷の動き。
宿。
人足。
市から入る銭。
その周囲で増えたもの、減ったもの。
以前は、それぞれを別々の問題として見ていた。市を開けば商人が集まり、商人が集まれば荷が動き、荷が動けば人足が必要になり、人足が増えれば宿や飯を用意する者も要る。そこから銭が生まれ、また別の品や材料が運び込まれる。だが、どこか一つが滞れば、他のものも連鎖して止まる。商人が来ても道が悪ければ荷は届かず、荷が届いても人足が足りなければ売り場へ並べられず、品が売れても宿が無ければ次の商人は戻ってこない。市というものは、ただ人を集めて店を並べれば成り立つものではなかった。
さらに棚の奥には、昔作らせた梅酸丸の記録も残っている。材料の量、出来上がった数、硬さ、保存した日数、売れた場所。最初は単に売れる物を作って、自分の目を持つための銭を少しでも得ようと始めたものだった。味を整え、形を揃え、包み方を考え、どのような場所で売れるのかを確かめる。その程度の小さな試みだったはずなのに、今になって見返すと、そこにも材料を集める者、作る者、包む者、運ぶ者、売る者がいる。梅酸丸一つを作るだけでも、決して一人の工夫だけで完結するものではない。
その三つが、今は別々のものに見えなかった。
人が動く。
物が動く。
銭が動く。
兵が動く。
どれも、数だけでは動かない。
その後ろには必ず人がいる。
そして人を動かすには、食わせなければならない。食わせるには、食べ物を運ばなければならない。運ぶには道が要り、道を使うには人足と馬が要る。人足や馬を動かすには銭が要り、銭を得るには物を売り、物を売るには人が集まる場所が必要になる。市も軍も、表面だけを見れば別のものに思えるが、実際には同じように多くの人と物の流れによって支えられている。
五百の兵を動かした今回の供奉で、一つだけはっきりしたことがある。
兵を増やすだけが、家を強くすることではない。
五百人を予定した場所へ連れて行き、腹を空かせたまま倒れさせず、怪我や遅れへ対処し、馬を休ませ、荷を失わず、また五百人を連れて帰る。そのために必要な仕組みを整えることも、兵を持つ者の務めなのだろう。槍を増やし、弓を揃え、兵を集めるだけでは、いざという時にその力を使い切れない。戦場へ着く前に疲れ果て、腹を空かせ、荷が尽きれば、数の多さなど何の意味も持たなくなる。
それも軍の力だ。
いや、軍だけではない。
市を開き、道を整え、宿を増やし、物を作り、銭を巡らせることも、いずれは同じところへ繋がっていく。領内で人と物が滞りなく動けば、兵を動かす時にも余裕が生まれる。逆に、普段から人も物も動かない領地では、急に兵を集めても必要な物を揃えられない。
ならば、まだ出来ることはある。
俺は一番上にあった道中の帳面を開いた。
まずは、何がどれだけ必要だったのか。
兵一人が一日に食べる量。馬一頭が必要とする飼葉。荷駄の数と、それぞれに積める重さ。休憩を取るために必要な時間。怪我人が出た時に隊列へ生じる遅れ。道中で補える物と、城から持ち出さなければならない物。梅酸丸を携えるなら、どの程度の数を用意し、どれほどの期間保存出来るのか。
考えるべきことは多い。
だが、今までのように思い付いたことを一つずつ試すだけでは足りない。人を動かすために必要なものを、最初から最後まで一つの流れとして見なければならない。
俺は筆を取り、帳面の端へ小さく書き始めた。
兵糧。
水。
飼葉。
荷駄。
休息。
道。
人足。
書き並べた言葉の一つ一つに、今回の道中で見た兵たちの顔が重なっていく。歩きながら干飯を口へ入れていた者。休憩に入るなり水を飲み、地面へ腰を下ろした者。脚の痛む馬を気遣いながら、荷を別の馬へ移していた者。誰か一人の不調が、本人だけでなく周囲の者たちの手を必要とする場面も何度もあった。
数字の向こうにいる者を忘れずに。
それだけは、これからも忘れてはならない。
俺は帳面へ視線を落としたまま、もう一度筆を動かした。
今度は、最初から。