淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第二十七話「知らぬ者にはなれぬ」

 京から戻って数日が過ぎた。供奉についての細かな報告も一通り終わり、観音寺城の中は、俺が出立する前と同じ日常へ戻りつつある。もっとも、俺自身について言えば、出る前とまったく同じというわけにはいかなかった。五百人を連れて朽木を通り、京へ入り、また観音寺城まで連れ帰った。戦をしたわけではなく、槍を合わせたわけでも矢を射られたわけでもない。それでも、自分の中に残ったものは思っていた以上に多かった。五百という数字の向こうに五百人分の腹と足があり、一頭の馬が止まれば、その後ろにいる者たちまで影響を受ける。人を動かすということは、一人一人を数として扱うことではなく、その数の後ろにあるものまで含めて考えることなのだと、今回の供奉では嫌というほど思い知らされた。

 

 机の上には、供奉の道中で集めた記録と並んで、もう一つ厚い帳面が置かれている。三年間続けてきた市の記録だった。商人の数、荷駄の数、扱われる品、宿を使った者、馬借や人足の仕事、市から直接入る銭、周囲で新しく生まれた仕事、季節による違い、天候による増減。一年目には見えなかったものが二年目には見え、二年目までなら偶然かもしれないと思えたものが、三年目まで続いたことでようやく傾向として扱えるようになったものもある。記録を始めた頃には、これほど多くの項目を残すことになるとは思っていなかった。最初は単純に、人が増えたか、銭が増えたか、それくらいを見ればよいと思っていたからだ。

 

 数字だけを並べれば悪くない。いや、試した市だけを見るなら、良いと言ってもいい。商人は増え、荷も増え、扱う品も増えた。宿を使う者も増え、人足や馬借の仕事も増えている。その一方で、市へ入る段階で取っていた銭は減った。入口だけ見れば減収だが、市の周りまで広げて見ると、人が泊まり、飯を食い、倉を借り、馬を使い、土地を借りる。その度に別の場所で銭が動いている。市銭として一か所に入ってくる銭が減っても、その周囲で以前にはなかった商いが生まれ、別の形で領内へ銭が残っている。最初の頃なら、これを見て「成功した」と喜んでいたかもしれない。だが今は、その言葉を帳面へ書く気にはなれなかった。

 

 俺は別の紙を手元へ引き寄せた。試した市の近くにある、幾つかの市の記録だった。こちらでは商人の数が僅かに減っているところがあり、荷の数も同じだった。大きく落ち込んでいるわけではないし、年によって上下もある。豊作と不作でも変わるし、道の状態や扱う品によっても違う。全てを楽市のせいだと決めるには材料が足りない。それでも無視は出来なかった。人間は地面から生えてくるわけではない。こちらへ来た商人の中には、以前なら別の市へ行っていた者もいるはずだ。荷を運ぶ人足も馬借も同じだろう。新しく仕事が生まれたことで働き始めた者もいるだろうが、別の場所から仕事を求めて移ってきた者もいる。その区別をせず、こちらで増えた数だけを見て「良くなった」と言ってよいのか。俺が見ている「増えた」という数字の向こう側には、「減った」という数字があるかもしれない。三年前とは違う。今度は、そちらも見なければならない。俺は帳面を閉じ、今日の評定で話すことを決めた。

 

 *

 

 評定の場に入ることにも、以前ほど身体が固くなることはなくなった。父上の前に六人衆が並び、俺にも席がある。幼い頃、廊下から覗いていた場所へ自分が座っていることを考えると、今でも時折妙な気分になる。ただ、それを意識している余裕も昔ほど無い。席が与えられれば、その分だけ聞くべきことも答えるべきことも増える。黙って座っているだけなら簡単だが、一度意見を口にすれば、その後に起きたことまで無関係ではいられない。それを今回の供奉で、少しずつ理解し始めていた。

 

 まず公方様の供奉について、改めて正式な報告を行った。朽木領で公方様、幕臣、竹若丸らと合流したこと。道中、大きな問題は起きなかったこと。京へ無事送り届けたこと。公方様から父上へ礼を伝えるよう言われたこと。そして五百の兵も、大きく欠けることなく観音寺城へ連れ帰った。

 

「公方様からは、また京へ来いとの御言葉も頂戴いたしました」

 

 そう告げると、父上が僅かに眉を動かした。

 

「そうか」

 

「はい」

 

「ならば覚えておけ。だが、公方様が一度そう申されたからといって、公方様の御心を全て知ったつもりになるな」

 

「承知しておりまする」

 

 一瞬、朽木から京へ向かう途中で聞いた言葉を思い出した。近江の半ばほども任せれば面白い。本人にとっては好意から出た言葉でも、受け取る者が変われば意味も変わる。公方様が竹若丸を気に入っていることは間違いないだろう。それがどこまで政治的な意味を持つのかは別の話だ。俺が頭を下げると、父上はそれ以上何も言わなかった。

 

 供奉についての話が終わり、幾つか別の案件を挟んだところで、俺は手元に置いていた帳面へ触れた。

 

「父上。もう一つ、御相談したきことがございます」

 

「なんじゃ」

 

「以前より試しておりまする市についてにございます」

 

「あれか」

 

「はい。三年経ちました」

 

「もう三年か」

 

 その言葉に、自分でも僅かに息を止めた。以前、俺は自分が変えた関銭の後を三年間見なかった。今度は違う。三年間、見続けた。

 

「結果を申し上げまする」

 

 帳面を開き、数字を一つずつ読み上げるようなことはせず、必要なところだけを抜き出して、試す前と後、一年目と二年目、二年目と三年目を比べた。商人の数、荷駄、宿、人足、馬借、扱われる品。市銭だけを見ると減っているが、それ以外のところでは人と銭の動きが増えている。

 

 目賀田次郎左衛門尉忠朝が、帳面の一部へ目を落とした。

 

「市から直接入る銭は、やはり減っておりますな」

 

「はい」

 

「ならば、損をしたとも言えるのではござらぬか」

 

「市だけを見れば、そのようにも見えまする」

 

「市だけを?」

 

「商人が増えれば宿を使いまする。飯も食いまする。荷を運ぶ者も要り、馬も使う。倉を借りる者もおりまする。入口で取っていた銭は減っておりまするが、市の周囲まで含めれば動く銭そのものは増えております」

 

「なるほど」

 

 忠朝はすぐに納得したわけではないようだったが、少なくとも続きを聞く姿勢になった。父上が俺を見る。

 

「ならば広げたいということか」

 

「そのつもりでございました」

 

「ございました?」

 

 俺は別の紙を取り出した。

 

「試した市だけを見れば、にございます。こちらは周囲の市の記録にございます。全てではございませぬが、幾つかの市では商人や荷の数が僅かに減っておりまする」

 

 進藤山城守賢盛が口を開いた。

 

「楽市へ流れた、と?」

 

「その可能性がございます」

 

「可能性?」

 

「はい。全てがそうだとは申せませぬ。豊作、不作、道、天候、扱う品でも変わりまする。ただ、人が急に増えるわけではございませぬ。こちらへ来た商人の中には、以前は別の市へ行っていた者もいるはずです」

 

 父上が腕を組んだ。

 

「つまり、楽市が人を生んだのか、隣から奪っただけなのか分からぬと申すか」

 

「はい」

 

「三年見てもか」

 

「一つの市だけを変えておりますれば」

 

 自分で答えながら、少しだけ苦く感じた。三年間見続ければ答えが出ると思っていた。だが、見続けたからこそ、別の疑問が出てきた。それは悪いことではないのだろう。分からないものが増えたということは、以前なら見えていなかったものが見えたということでもある。

 

「市だけではなく、その周りを見る必要がございます」

 

 そう言った時だった。

 

「右衛門督様」

 

 三雲対馬守定持が静かに声を上げた。

 

「その話と、少々似た話がございます」

 

 俺も父上も対馬守を見る。

 

「高島にございます。高島七頭のうち、朽木を除いた六家が、ここ暫く妙な動きをしておりまする」

 

「妙とは」

 

「武具を整え、人を集めておりまする。六家同士の往来も増えております。未だ出陣というほどではございませぬが、平時の動きとも思えませぬ」

 

「相手は?」

 

「確とは申せませぬ。されど、朽木である可能性が高いかと」

 

 その言葉を聞いた瞬間、指先が帳面の上で止まった。高島七頭、朽木、六家。武具を整え、人を集め、互いの往来を増やしている。まだ出陣には至っていないというが、平時の動きではない。ならば、六家が兵を向けようとしている相手は朽木であり、その先にいるのは竹若丸だ。

 

 頭の奥に引っ掛かっていたものが、急に形を持ち始める。――待て。これ、あった。前世で読んだ物語の中に。竹若丸の初陣。確か、高島七頭のうち朽木を除いた六家が朽木へ攻め込んでくる。数では高島側が勝っていて、朽木は周囲を敵に囲まれ、竹若丸は初めて自ら兵を率いる。そして竹若丸が――。そこまで思い出したところで、記憶が途切れた。勝った。確かに竹若丸は勝ったはずだ。だが、どのように勝ったのか、誰がどこで動き、どれほどの兵が失われ、戦の後に何が残ったのか。そこまでは霧の向こうに隠れている。物語の筋として知っていたはずなのに、肝心なところだけが抜け落ちていた。

 

「右衛門督?」

 

 父上の声に我に返る。

 

「申し訳ございませぬ」

 

「何か気になるか」

 

「……いえ。高島六家が何故、今になって朽木へ兵を向けようとしているのかと思いまして」

 

 嘘ではない。記憶の細部は曖昧だった。何月だったか、誰が最初に兵を集めたのか、六家がどのような要求を突き付け、朽木がどう返したのか、戦が始まるまでにどれほどの時間があったのか。そこまでは、はっきりしない。ただ、公方様が京へ戻った後だった。そして、そう遠くない。それだけは覚えている。

 

 蒲生下野守定秀が静かに口を開いた。

 

「高島の者と朽木が折り合わぬのは、今に始まったことではございませぬ」

 

「それでも、六家揃って兵を整えるとなれば話は別でしょう」

 

 後藤但馬守賢豊が返す。

 

「対馬守。理由はどこまで掴んでおる」

 

「幾つかございます」

 

 三雲定持が答えた。朽木には商人が集まっている。関所も少なく、民への負担も周囲より軽い。道を通る商人にとって、どこを選ぶべきかは明らかだった。負担が少なく、商いがしやすく、人が集まっている場所へ向かう。商人が集まれば品が増え、品が増えればさらに商人が集まる。朽木では、その流れがすでに出来上がりつつある。その結果、朽木へ移る者もいる。商人が道を変えれば、高島六家の領内を通る荷が減る。荷が減れば宿も人足も馬借も仕事を失い、人が移れば耕す者も商う者も減る。領主が直接取る銭だけでなく、領内で動く銭そのものが細っていく。

 

 話を聞いているうちに、俺の視線は自然と手元の帳面へ落ちていた。楽市の記録。人が増えた市。その隣で人が減ったかもしれない市。そして朽木。同じだ。規模も事情も違うが、構造は似ている。竹若丸は自分の領地を良くした。商人を呼び、人を呼び、負担を軽くした。領民にとっても商人にとっても、それは歓迎すべきことだったはずだ。朽木の中だけを見れば、誰も竹若丸を責める理由はない。それ自体は悪くない。むしろ領主としては正しい。だが、その結果として周囲から人や銭が流れた。人を得た側だけを見れば成功でも、失った側から見ればそうではない。しかも失った側にしてみれば、自分たちが何かを間違えたつもりはないのだろう。ただ隣の領地が、より良い条件を示した。それだけで商人が去り、人が移り、収入が減った。自分たちの努力とは関係のないところで、領内の力が削られていく。

 

「……似ている」

 

「何がじゃ」

 

「某の市と、朽木にございます。どちらも自分のところへ人を集めました。人が集まれば商いも増えまする。商いが増えれば、宿も荷運びも潤いまする。されど、こちらへ来た者は、元々どこかにいた者でもございます。人も銭も、何もないところから生まれたわけではございませぬ。どこかから流れてきたのであれば、流れ出た場所には、その分だけ空きが出来まする」

 

「つまり?」

 

「良くなった側だけを見れば成功に見えまする。しかし、その隣で何が起きたかを見ねば、本当に良かったのかは分かりませぬ。少なくとも、良くなった側だけが、その成功を喜んで終われる話ではないかと」

 

 父上は何も言わず、ただ俺を見た。以前の俺なら、朽木が栄えたという結果だけを見て、竹若丸はやはり凄いと考えていたかもしれない。今もそう思う。短い時間しか話してはいないが、それでも竹若丸は好感を持てる相手だった。俺より幼い身体でありながら周囲をよく見ていたし、公方様や幕臣たちの前でも萎縮せず、かといって無遠慮に振る舞うわけでもない。話していて不快になるようなところはなく、短い会話の中でも、相手の言葉を受け止めてから返していることが分かった。長く話していないからこそ竹若丸の全てを知っているわけではないが、それでも、出来ることなら次に会った時にはもう少しゆっくり話してみたいと思える相手だった。だが、それとこれは別だった。竹若丸が良い領主であることと、高島六家が不満を抱かないことは同じではない。竹若丸に悪意がなくとも、朽木が栄えるほど、その周囲には不利益を受ける者が生まれる。相手から見れば、竹若丸の善意や才覚など関係ない。ただ、自分たちの領地から人と銭が流れ出ているという事実だけが残る。

 

 しばらく沈黙が続いた後、父上が口を開いた。

 

「高島越中を使うか」

 

 評定の者たちが父上を見る。

 

「越中に朽木へ少し因縁を付けさせる。戦にする必要はない。揉めたところへ六角が入ればよい」

 

 なるほど。高島六家の不満を外へ出させ、その後に六角が仲裁する。高島側には六角が自分たちを見ていると示せるし、朽木にも六角の影響力を意識させられる。そして両者の間に立つのは六角だ。高島六家が朽木へ直接兵を向ける前に、こちらから小さな揉め事を作る。そこで双方の言い分を聞き、六角が条件を示す。上手くいけば戦を避けたまま高島の不満を抑え、朽木にも周囲への配慮を求められる。

 

「悪くないと思いまする」

 

 俺はそう答えた。少なくとも、この時は。戦にならずに済むのであれば、その方がいい。竹若丸に危険が及ぶ必要もない。高島六家の不満を言葉にさせ、その上で条件を整えればいい。朽木に何かを譲らせるのか、高島側へ別の利を与えるのか、あるいは六角が道や市の扱いを調整するのか。まだ具体的な形は見えていないが、戦を避けるための手段なら探せると思っていた。

 

「ただし、もう少し調べとうございます」

 

「何をじゃ」

 

「六家がどの程度、朽木を憎んでいるのかにございます。少し銭を失ったゆえ不満を申しているだけなのか、それとも兵を動かしてでも朽木を叩きたいと思うほどなのか。それによって同じ揉め事でも意味が変わりまする」

 

 武具を整え、人を集め、家同士の往来を増やしている。それが単なる脅しなら、まだ話し合いの余地はある。だが、すでに家中の者たちが戦を望み、当主たちがその声を抑えられなくなっているのであれば、こちらが用意した小さな揉め事など、火に油を注ぐだけになるかもしれない。

 

 三雲定持が頷いた。

 

「調べさせましょう」

 

「お願いいたしまする。父上、某の者たちも使ってよろしいでしょうか」

 

「篠らか」

 

「はい」

 

「対馬の邪魔をせぬなら好きにせよ」

 

「ありがとうございまする」

 

 三雲の情報網と比べれば、俺の三人などまだ小さい。だからこそ、同じことを競わせる必要はない。弥七には道と兵の動きを見てもらう。どの道を人が通り、どこに兵が集まり、どの村で馬や食糧が動いているのか。兵の数だけでなく、戦をするための準備がどこまで進んでいるのかを見れば、六家の本気度も少しは分かる。宗兵衛には商人、市、関所、値の変化を見てもらう。朽木へ向かう商人がどれほど増え、高島六家の領内でどれほど荷が減っているのか。商人たちが自分の意思で道を変えたのか、それとも誰かに誘われたのかも確かめる必要がある。篠には人を見てもらう。六家の家臣たちは本当に戦いたがっているのか。領民はどうなのか。当主たちは家中の声に押されているのか、それとも自分たちの意思で兵を集めているのか。そして当主たちの言葉が、単なる交渉のための強がりなのか、それとも本気なのか。見えるものを増やしてから考える。今の段階で戦を避けられると決めつけるのも、避けられないと決めつけるのも早い。必要なのは、こちらの都合に合わせて状況を見ることではなく、高島六家が何を失い、何を恐れ、何を望んでいるのかを知ることだった。

 

 *

 

 報告が揃い始めたのは、それから数日後だった。結果は、俺が思っていたよりも悪かった。単に「朽木へ商人を取られた」という程度ではない。高島六家の中では、朽木だけが別の方向へ進んでいることそのものへの不満が積もっていた。朽木は関所を減らし、商人を受け入れ、領内での負担を軽くしている。そのため商人は朽木を選び、朽木を通る荷が増え、朽木の宿や人足が潤う。その一方で、高島六家の領内では、以前なら通っていた荷が減っている。商人が減れば宿の収入が減り、荷が減れば人足や馬借の仕事が減る。市へ来る者が減れば、そこで買われる飯や品も減る。領主が取る銭だけでなく、領民の手元へ回る銭まで細っていく。

 

 関所、負担、商人、人、収入。一つ一つだけなら、交渉出来る話だったかもしれない。関所の扱いを見直し、商人を呼ぶための条件を整え、朽木と道の使い方を話し合い、六角が間に入って互いに譲るところを決める。そうした手段は、まだ残されている。だが、それらが積み重なることで、朽木への感情そのものが悪くなっていた。自分たちが努力しても商人は朽木へ流れ、何かを変えようとしても、朽木がさらに良い条件を出せば追いつけない。そう考える者が増えれば、話し合いよりも先に相手を止めるという発想が出てくる。

 

 宗兵衛から上がった報告には、商人が朽木を選ぶ理由が幾つも書かれていた。通る際の負担が少ない。商いがしやすい。人が集まるから品も集まり、品が集まるからさらに商人が来る。一度流れが出来れば、その流れは自分で太くなる。以前、市の道を変えた時にも見たことだった。最初は僅かな違いだ。関銭が少し安い、道が少し通りやすい、宿が一つ多い。それだけの差でも、商人は利益のある方へ動く。商人が動けば人足が動き、馬が動き、宿が動く。動いた先では新しい仕事が生まれ、さらに人を呼び込む。反対に、流れを失った側では、何かを失ったという実感だけが残る。

 

 そして篠の報告が、一番気になった。

 

「六家の者たちは、朽木だけが得をしている、と口にする者が多うございます」

 

「当主たちもか」

 

「直接聞けたわけではございませぬ。ただ、家中から出る言葉を見る限り、単なる交渉のためだけとは思えませぬ」

 

「兵を動かしたいと?」

 

「動かしてもよい、と思う者は少なくないかと」

 

 俺は黙った。今回、父上が止めれば戦は起きないかもしれない。六家へ「朽木へ手を出すな」と命じればいい。六角の命令に逆らうほどではないと、今は思わせることも出来るだろう。だが、それで終わるだろうか。竹若丸が今の政策を止めるとは思えない。むしろ朽木はこれからもっと豊かになり、商人も人もさらに集まるだろう。朽木が力を増すほど、高島六家は自分たちが取り残されていると感じる。こちらが一度命じて兵を引かせても、その感情まで消えるわけではない。むしろ、六角に押さえつけられたという新しい不満が加わる可能性すらある。そうなれば高島六家の不満は、今より大きくなる。来年、再来年、その時も六角が止めるのか。止め続ければ問題は無くなるのか。違う。蓋をするだけだ。中身は残り、しかも蓋を押さえている手を少しでも緩めれば、今度は以前より大きな力で噴き出すかもしれない。

 

「若様」

 

「なんじゃ」

 

「難しい顔をしておられます」

 

「難しいからな。簡単なら、こんな顔はしておらぬ」

 

 篠の口元が僅かに緩んだが、すぐに表情を戻した。

 

「戦を避けることが、必ずしも良い結果になるとは限らぬ、ということでございますか」

 

「……そうかもしれぬ」

 

 戦を避ければ、人は死なない。少なくとも、今すぐには。だが不満が消えなければ別の形で残る。商人を奪われたという感情が朽木への敵意に変わり、六角に抑えられたという屈辱が次の機会を待つ理由になる。――戦わせる。頭に浮かんだ言葉を、すぐには認められなかった。人を戦わせる。前世の俺には、そんな判断をする機会など無かった。教師だった。喧嘩を止める側だった。話を聞き、出来るだけ互いが納得する場所を探す。それが普通だった。原因を確かめ、誤解を解き、どちらかが少し譲れば済むならそうさせる。少なくとも、殴り合う前に出来ることはあると信じていた。

 

 だが今は違う。俺は六角家の嫡男だ。ここで必要なのは、目の前の喧嘩を止めることだけではない。高島六家と朽木の関係が、この先どう変わるのか。六角がどこまで介入し、どこで手を引くのか。その判断を誤れば、戦を避けたつもりで、もっと大きな戦を招くことになる。それだけではない。公方様は朽木を発つ際、朽木へ無用な手出しをせぬよう周囲へ言い置いている。そのことも俺は知っている。高島六家を止めれば、公方様の御意にも沿う。それでも戦わせるということは、高島の内輪の問題だけでは済まない。六角が裏から高島を動かしたと知られれば、公方様から見れば自らの言葉を軽んじたことになる。今考えているのは兵の数だけの話ではなかった。六角家の信用そのものまで天秤に載っている。止めれば、その場は収まる。では、その次は。

 

 *

 

 再び評定が開かれた。父上の前には、数日前より詳しい高島の報告が置かれている。商人の流れ、関所の収入、六家の兵の動き、家中で交わされている言葉。どれも一つだけなら決定的な証拠にはならない。だが、幾つも重ねて見れば、高島六家の不満が一時のものではなく、すでに家中全体へ広がりつつあることは分かった。

 

「どう見る」

 

 父上が俺へ尋ねた。俺はすぐには答えなかった。竹若丸の顔が浮かぶ。朽木領で短く言葉を交わした時のこと。長く話したわけではない。それでも、もう少し話してみたいと思った。好感を持てる相手だった。だからこそ、これから口にすることが少し重かった。竹若丸に悪意がないことは分かっているし、朽木を良くしようとしていることも分かる。それでも、竹若丸が正しいからといって、高島六家の不満が間違いになるわけではない。双方にそれぞれの理があり、その理が同じ場所でぶつかっている。

 

「父上」

 

「なんじゃ」

 

「此度、揉め事だけで終わらせても、いずれまた同じことが起こると思いまする。朽木が今のやり方を改めるとは思えませぬ。商人を集め、人を集め、負担を軽くする。それで朽木が良くなるのであれば、竹若丸殿が止める理由はございませぬ。ですが、朽木が良くなるほど高島六家の不満は大きくなる。此度六角が止めても、その不満は消えませぬ」

 

 俺は一度、周囲を見た。誰も口を挟まない。

 

「高島六家が朽木へ向ける不満は、すでに商人や関所の話だけではございませぬ。自分たちの領地が、何をしても朽木に追いつけぬという諦めに近いものまで混じっておりまする。そのような不満は、条件を一つ整えただけでは消えませぬ」

 

「ならばどうする」

 

 言葉が喉に引っ掛かった。ここで口にすれば、もう後戻りは出来ない。一度息を吸ってから答えた。

 

「一度、当たらせた方がよいかと存じまする」

 

 空気が変わった。

 

「戦わせると申すか」

 

「はい」

 

 後藤但馬守賢豊が低い声を出した。

 

「右衛門督様。戦となれば、人が死にまするぞ」

 

「承知しておりまする」

 

「承知して、それでもか」

 

「はい。今ここで止めるだけでは、後へ延ばすだけだと思いまする。高島六家が朽木に対して抱いている不満を、六角の命令だけで消すことは出来ませぬ。ならば、どこかで力関係を明らかにし、その後に六角が間へ入る方が、長い目で見れば話をまとめやすいかと」

 

 後藤但馬守はすぐには答えず、僅かに眉を寄せてから父上へ一度視線を向けた。

 

「されど御屋形様、もう一つございます」

 

「申せ」

 

「公方様にございます。公方様は御帰京に際し、朽木へ無用な手出しをせぬよう周囲へ御意を示されておりまする。高島六家が兵をもって朽木へ攻め入れば、その御意に背くことになりましょう」

 

 心臓の奥を軽く突かれたような気がした。分かっていた。俺自身、考えなかったわけではない。ただ、他人の口から出たことで、その重さがはっきりした。進藤山城守もゆっくり頷いた。

 

「高島七頭の内輪揉めで通すにしても、六家はいずれも六角へ従っております。公方様がそのことを御存じでないとは考えられませぬな」

 

「六家が勝手に動いた、と申して済むかどうか」

 

 目賀田忠朝が続ける。

 

 俺は黙って聞いた。公方様が朽木を発つ時のことを思い出す。自分を匿い、支えた朽木へ恩を感じていたのだろう。それだけではない。公方様は竹若丸をかなり高く評価している。帰京して間もない今、朽木が高島六家から攻められ、その背後に六角の影があると知られたら、少なくとも良い顔はしない。下手をすれば、六角家そのものへの不信に繋がる。

 

 父上が俺を見る。

 

「右衛門督」

 

「はい」

 

「聞いたな。それでもか」

 

 問われた瞬間、先ほどより答えるまでに時間が掛かった。戦で人が死ぬ。それだけなら、すでに覚悟したつもりだった。だが今度は六角家の信用まで巻き込む。しかも相手は、つい先日まで自分が五百の兵で護衛して京へ送った公方様だ。その公方様が朽木を守ろうとして残した言葉を、六角が裏から崩すことになる。

 

「……公方様の御意向に背いたと見られる可能性はございます」

 

 父上の目が僅かに細くなった。

 

「可能性ではない。知れれば、そう見られる」

 

 言い逃れを許さない言葉だった。

 

「はい」

 

「六角が越中へ兵を出せと命じたと知られれば、公方様へ申し開きが立たぬ。本当に分かっておるか?」

 

 すぐには答えなかった。父上は俺を試している。戦を起こす理由を考えたからといって、それだけで政治を分かったつもりになるなと言っているのだろう。兵を動かすという判断の後ろには戦場だけでなく、誰が命じたのか、誰が責任を取るのか、その事実を誰が知った時に何が起こるのかまで続いている。

 

「公方様の御言葉を承知した上で高島を動かしたと知られれば、六角が公方様を軽んじたと思われまする。朽木からも、高島六家からも、六角が裏で両者を動かしたと見られる可能性があります。その後に仲裁へ入ろうとしても、最初から六角が仕組んだと知られれば、仲裁する者としての信用も失いまする」

 

 自分で口にするほど危うい。それでも俺は続けた。

 

「されど、高島六家の不満を押さえ続ければよいとも思えませぬ。公方様の御意があるからこそ、今は止められます。しかし、公方様の御意が永く高島の不満そのものを消してくれるわけではございませぬ」

 

 後藤但馬守が俺を見る。

 

「ならば公方様の御意を承知で、戦をさせると?」

 

「六角から朽木を攻めよと公に命じるべきではないと思いまする」

 

「言葉を変えるだけではござらぬか」

 

 鋭かった。俺は否定出来なかった。

 

「……左様に見えるでしょう」

 

「実際、そうではないのか?」

 

「はい。六角が直接兵を出さず、高島七頭の争いという形にしたとしても、我らが意図を持って越中を動かすなら、責任まで消えるわけではございませぬ」

 

 評定の場が静かになった。父上の口元がごく僅かに動いた。笑ったのではない。だが、少なくとも俺が言葉だけで逃げなかったことは見ているようだった。

 

「ならば何故する」

 

「今なら、まだ六角が見ておりまする。高島六家が何を考え、どこまで兵を集め、何故朽木を憎んでいるのかを我らは知っております。越中へ条件を付けることも出来る。勝敗が見えれば止めに入る準備も出来まする。ですが、一度全てを押さえ込み、数年後に我らの知らぬところで爆発すれば、その時も同じように止められるとは限りませぬ。危険なのは承知しておりまする。公方様の御意にも触れます。それでも、今ここで蓋をするだけよりは、六角がまだ手を入れられる間に決着の形を作る方がよいと考えまする」

 

 後藤但馬守は難しい顔をしたままだった。父上が俺をじっと見る。

 

「竹若丸とは、話しておったな」

 

「長くは話しておりませぬ。ですが、好感を持てる方だと思っておりまする」

 

「ならば止めたいとは思わぬか」

 

「思いまする。竹若丸殿に危険が及ばぬ方がよいと思っております。されど、親しくなれそうだと思うことと、六角として何をすべきかは別にございます。某は、朽木を滅ぼせと申しているのではございませぬ。一度、力の差をはっきりさせる。その後、六角が間へ入りまする。どちらが優位であるかも分からぬまま不満だけを積もらせるより、一度ぶつかった方が条件を決めやすくなるかと」

 

「勝敗を六角が利用するか」

 

「……はい」

 

 口に出してみると、随分と冷たいことを言っている気がした。戦を利用する。人が死ぬ可能性を知りながら、勝敗を見極め、その結果を六角の立場を強めるために使う。しかも今回は、公方様の御意を表立って破らぬよう、六角は自分の姿を前へ出さない。表向きは高島七頭の争いだ。だが、それだけで俺たちが無関係になるわけではない。もし後になって竹若丸が全てを知ったらどう思うだろう。公方様は。そして六角の名を信じている者たちは。政治とはこういうものなのかもしれない。いや、それを言い訳にしてはいけない。選ぶのは俺だ。

 

 父上が少し身体を前へ傾けた。

 

「ならば聞こう。どちらが勝つ」

 

 答えは知っている。前世の知識なら。だが、それを使わずとも考えられる材料はある。六家は数で勝る。しかし、六家は一つではない。朽木は領地こそ大きくないが、竹若丸の下で一つに動ける。商人や人足を集め、道と物の流れを把握し、必要なものを先に整えることにも慣れている。供奉の道中で見た竹若丸の様子を思い返しても、あの者がただ兵の数だけで戦うとは思えなかった。

 

「朽木かと」

 

 蒲生定秀が眉を上げた。

 

「六家を相手に?」

 

「六家だからこそ、にございます。六家は合わせれば数で勝るでしょう。しかし六家は六家。それぞれ家が違い、当主が違い、考えも違いまする。兵を出す理由も、戦の後に得たいものも、同じではございませぬ」

 

 俺は供奉の時に見た五百を思い出した。一つの隊でも動かすのは難しかった。命令を伝え、列を整え、食糧を運び、疲れた者を休ませる。五百でさえ、少し道を外れれば全体の動きが乱れる。ならば六つの家を一つの軍として動かすのは、もっと難しい。

 

「朽木は竹若丸殿の下で一つに動けまする。それに、あの御方は人と物を動かすことに慣れております」

 

「随分買っておるな」

 

「はい」

 

「好感を持てるというだけではないようじゃな」

 

「出来る方だとは思いまする」

 

 そこは否定しなかった。公方様が褒める理由も分かる。短い会話しかしていない俺でさえ、竹若丸が周囲を見て、相手の言葉を聞き、自分の立場を考えていることは感じ取れた。長く話していない以上、俺が知っているのは一部に過ぎない。それでも、朽木があれほど短い間に変わった理由を、竹若丸の才覚と結び付けることに無理はなかった。

 

 ただし俺は、一つ読み違えていた。朽木が勝つ。それは分かる。だが高島六家は数で勝る。多少の損害を受けながら朽木が勝ち、その後父上が仲裁へ入る。その程度を想定していた。六家そのものが立ち直れなくなるほど叩かれるとは、この時の俺は考えていなかった。

 

「父上。一つお願いがございます」

 

「なんじゃ」

 

「戦わせるとしても、際限なくさせるべきではございませぬ。村へ火を放つこと、無用な略奪、朽木を滅ぼすことを目的とするのは避けるべきかと。勝敗が見えれば六角が入る。その前提で高島へ話を通すべきです」

 

 後藤但馬守が再び口を開いた。

 

「戦が、そのように思い通り止まればよいがな」

 

 その言葉に返事が詰まった。正しい。戦は計算通りにはならない。どれほど当主が命じても、兵が敵を前にすれば恐怖や怒りで動きが変わる。勝ち始めれば深追いし、負け始めれば逃げる。村へ入った兵が、命令にない略奪を始めることもある。戦を始める前に終わり方を決めておくことなど、本当は出来ないのかもしれない。教師だった頃の喧嘩でさえ、止めに入る頃には最初に何が原因だったのか分からなくなることがあった。戦ならもっと酷いだろう。

 

「……必ず止まるとは申しませぬ。それでも、今のまま不満を積もらせるよりは、六角が動きを把握出来ているうちに決着させた方がよいと思いまする」

 

 父上は俺から視線を外し、六人衆を順に見た。戦を認める危険、高島六家を放置する危険、朽木が強くなり過ぎることへの警戒、六角が高島へどこまで介入するのか、戦を始めた後どの時点で止めに入るのか、朽木が勝った場合に竹若丸へどのような条件を示すのか。そして、公方様の御意に背いたと見られぬため、六角がどこまで表へ出ずにいられるのか。それぞれの立場から意見が出たが、俺の案に全員が賛成したわけではない。当然だ。俺自身ですら、自分の答えに自信があるわけではない。ただ、止めれば正解とも思えなかった。高島六家の不満を押さえ込むだけなら六角の力で出来る。だが、押さえ込んだ不満が消えるわけではない。

 

 後藤但馬守は最後まで慎重だった。

 

「御屋形様。越中へ御意を伝えるとしても、六角から『朽木を攻めよ』という形は避けるべきかと存じまする」

 

「当然じゃ」

 

 父上が短く答えた。

 

「越中には、六角が兵を出すとは言わぬ。高島の内で積もった話を、高島の者ら自身がどうするかじゃ」

 

 言葉だけを聞けば、六角は何も命じていない。だが、その言葉が何を意味するのか分からぬ者は、この場にはいない。高島越中に朽木へ因縁を付けさせる。要求を出させる。朽木が退けばそこで終わる。退かなければ、六家が兵を出すことを黙認する。勝敗が見えれば、六角が仲裁へ入る。表へ出るのはその時だ。公方様から問われれば、高島七頭の争いを収めたという形になる。それがどこまで通るのかは分からない。竹若丸が六角の意図に気付かない保証もない。むしろ、あの竹若丸なら疑うだろう。

 

 やがて父上が口を開いた。

 

「分かった。越中には儂から話をする」

 

 胸の奥が僅かに重くなった。正式に決めたのは父上だ。命令を出すのも父上。表へ出ない形を整えるのも父上だろう。だが、揉め事で止めず、一度当たらせるべきだと主張したのは俺だった。

 

「右衛門督」

 

「はい」

 

「そなたが申したことじゃ。最後まで見よ。それとな、公方様の御意を忘れるな」

 

 顔を上げる。

 

「六家が勝手に動いた。六角は知らぬ。言葉にすればそれで済む。だが、本当に知らぬ者にはなれぬぞ」

 

「……はい」

 

「ならば、覚えておけ」

 

 父上はそれ以上何も言わなかった。そうだ。今度は、決めた後を見なければならない。戦を始めるまでではない。戦が始まった後、どこまで広がり、誰が傷つき、何が残るのか。勝った側と負けた側の双方に六角が何を示すのか。さらに、その後で公方様や朽木が六角をどう見るのか。そこまで見届けなければ、俺が口にした理屈はただの言い訳になる。

 

 *

 

 評定を出ると、弥太郎が廊下で待っていた。俺の顔を見るなり何も言わず隣へ並び、しばらく歩いたところで俺から声を掛けた。

 

「何か言いたそうじゃな」

 

「分かりまするか」

 

「長く側におるからな」

 

「私の台詞を取られましたな」

 

「たまにはよいであろう」

 

 弥太郎は少し笑ったが、すぐ真面目な顔へ戻った。

 

「若様が戦を望まれるとは思いませなんだ」

 

「俺もじゃ」

 

「……御自身でも?」

 

「ああ」

 

 前世の俺が今の自分を見たら、何と言うだろう。人を戦わせる判断をした。死人が出ると分かっているのに。しかも戦を避けるための手段を探すのではなく、戦を一度起こした方がよいと、自分の口で父上へ進言した。その上、公方様が朽木へ手を出すなと示したことも知っている。知らずにした判断ではない。知った上で選んだ。

 

「正しいかは分からぬ」

 

「では、何故」

 

「止めるだけでは、終わらぬと思った」

 

「……左様にございますか」

 

「それだけじゃ」

 

 いや、本当はそれだけではない。竹若丸が勝つと知っている。その知識が判断を後押ししていないと言えば嘘になる。もし勝敗が分からなければ、俺は同じ答えを出しただろうか。高島六家が勝つ可能性を考えていたなら、それでも戦わせると言えただろうか。それは自分でも分からなかった。竹若丸への好感も、前世の記憶も、どちらも俺の判断に混じっている。そして今回は、そこへ公方様の言葉まで加わった。正しいと思って選んだのではない。他に何もしなければ、もっと悪くなるかもしれない。その可能性を恐れて選んだだけだ。だからこそ、自分の考えを完全に正しいとは思えなかった。

 

 *

 

 夜になってから、篠が部屋へ来た。高島についての追加報告だった。六家の動きはまだ止まっておらず、人を集める動きも続いている。兵糧の手配、馬の確保、道の確認。表向きにはまだ出陣の命令は出ていないが、戦を始めるための準備は少しずつ進んでいる。父上が高島越中へ話を通すまでに、六家がどこまで動くのかは分からない。

 

「若様」

 

「なんじゃ」

 

「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」

 

「申せ」

 

 篠はすぐには言わず、少しだけ俺の顔を見てから静かに口を開いた。

 

「本当に、若様が思われたところで止まるでしょうか」

 

 答えられなかった。高島越中へ条件を付け、父上が仲裁へ入り、朽木も六家もそれに従う。頭の中では流れが出来ている。まず高島側が朽木へ圧力を掛ける。朽木が応じれば六角が間へ入る。応じなければ兵が動く。兵が動いたとしても、勝敗が見えたところで六角が止める。そうすれば戦は大きくならず、双方に力関係を理解させた上で話し合いへ持ち込める。だが、戦場の人間までその通り動く保証などどこにもない。高島六家が一度兵を出せば、当主たちの命令だけで止められるとは限らない。朽木側も、攻められれば黙って退くわけではないだろう。竹若丸が勝てるとしても、勝つためには兵を動かし、敵を倒し、場合によっては追撃する必要がある。

 

 それだけではない。戦が終わった後も全てが終わるわけではない。公方様は朽木へ手を出すなと示した。その朽木が攻められた。もし誰かが、高島六家の背後に六角がいたと口にすればどうなる。勝敗とは別の問題が、その瞬間に始まる。

 

「……分からぬ」

 

 篠は何も言わなかった。

 

「分からぬが、決めた」

 

「はい」

 

「だから、見ておけ」

 

「何をでございますか」

 

「全部じゃ。高島六家も、朽木も、戦の前も、戦の最中も、終わった後も。兵の数だけではない。どの道が使えなくなり、どれほどの商人が離れ、領民が何を恐れるのか。勝った側が何を得て、負けた側が何を失い、その後にどのような不満が残るのか。それに加えて、誰が六角を疑い、誰が六角を頼り、誰が六角を恐れるのか」

 

 俺は篠をまっすぐ見た。

 

「俺が見たいものではなく、起きたことを持ってこい」

 

「承知いたしました」

 

 篠は静かに頭を下げ、襖が閉じた。

 

 部屋に一人残され、俺は机へ目を向ける。そこには二つの帳面が置いてある。一つは三年間の市。もう一つは高島。人が動き、物が動き、銭が動く。そして今度は、兵が動く。自分の市へ人を集めたことで、その隣から人が減ったかもしれない。竹若丸が朽木を良くしたことで、その隣の六家が不満を持った。誰かにとって良いことが、別の誰かにとっても良いとは限らない。分かっていたつもりだった。だが今度は、その歪みを解決するために、俺自身が戦を選んだ。しかも、公方様が朽木を守ろうとして残した言葉を知った上で。

 

 六角が表へ出なければ、知られずに済むかもしれない。高島七頭同士の争いとして終わるかもしれない。勝敗が決まり、父上が仲裁へ入り、双方が条件を飲めば、それで収まるかもしれない。だが、「かもしれない」が多い。それでも俺は、この道を選んだ。竹若丸なら勝つ。そこまでは、おそらく間違っていない。問題は、その先だ。勝った竹若丸が何をするのか。負けた高島六家が何を思うのか。公方様が何を知るのか。そして、その間に立つ六角が、どのような顔をして何を差し出すのか。

 

 俺はそこまで考えたつもりになって、帳面を閉じた。

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