京から戻って数日が過ぎた。供奉についての細かな報告も一通り終わり、観音寺城の中は俺が出立する前と同じ日常へ戻りつつある。もっとも、俺自身について言えば、出る前と全く同じというわけにはいかなかった。五百人を連れて朽木を通り、京へ入り、また観音寺城まで連れ帰った。戦をしたわけではなく、槍を合わせたわけでも矢を射られたわけでもない。それでも自分の中に残ったものは思っていた以上に多かった。五百という数字の向こうに五百人分の腹と足があり、一頭の馬が止まれば、その後ろにいる者たちまで影響を受ける。人を動かすということは、単に人数を数えるだけではなく、その一人一人が動くために必要なものまで考えることなのだと、今回の供奉では嫌というほど思い知らされた。
机の上には供奉の道中で集めた記録と並んで、もう一つ厚い帳面が置かれている。三年間続けてきた市の記録だった。商人の数、荷駄の数、扱われる品、宿を使った者、馬借や人足の仕事、市から直接入る銭、周囲で新しく生まれた仕事、季節による違い、天候による増減。一年目には見えなかったものが二年目には見え、二年目までなら偶然かもしれないと思えたものが、三年目まで続いたことでようやく傾向として扱えるようになったものもある。記録を始めた頃には、これほど多くの項目を残すことになるとは思っていなかった。最初は単純に人が増えたか、銭が増えたか、それくらいを見ればよいと思っていたからだ。
数字だけを並べれば悪くない。いや、試した市だけを見るなら、良いと言ってもいい。商人は増え、荷も増え、扱う品も増えた。宿を使う者も増え、人足や馬借の仕事も増えている。その一方で、市へ入る段階で取っていた銭は減った。入口だけ見れば減収だが、市の周りまで広げて見ると、人が泊まり、飯を食い、倉を借り、馬を使い、土地を借りる。そのたびに別の場所で銭が動いている。市銭として一か所に入ってくる銭が減っても、その周囲で以前にはなかった商いが生まれ、別の形で領内へ銭が残っている。最初の頃なら、これを見て「成功した」と喜んでいたかもしれない。だが今は、その言葉を帳面へ書く気にはなれなかった。
俺は別の紙を手元へ引き寄せた。試した市の近くにある、幾つかの市の記録だった。こちらでは商人の数が僅かに減っているところがあり、荷の数も同じだった。大きく落ち込んでいるわけではないし、年によって上下もある。豊作と不作でも変わるし、道の状態や扱う品によっても違う。全てを楽市のせいだと決めるには材料が足りない。それでも無視はできなかった。
人間は地面から生えてくるわけではない。こちらへ来た商人の中には、以前なら別の市へ行っていた者もいるはずだ。荷を運ぶ人足も馬借も同じだろう。新しく仕事が生まれたことで働き始めた者もいるだろうが、別の場所から仕事を求めて移ってきた者もいる。その区別をせず、こちらで増えた数だけを見て良くなったと言ってよいのか。俺が見ている増加の向こう側には、別の場所で減った数字があるかもしれない。
三年前とは違う。今度はそちらも見なければならない。俺は帳面を閉じ、今日の評定で話すことを決めた。
*
評定の場に入ることにも、以前ほど身体が固くなることはなくなった。父上の前には六人衆が並び、俺にも席がある。幼い頃、廊下から覗いていた場所へ自分が座っていることを考えると、今でも時折妙な気分になる。ただ、それを意識している余裕も昔ほどない。席が与えられれば、その分だけ聞くべきことも答えるべきことも増える。黙って座っているだけなら簡単だが、一度意見を口にすれば、その後に起きたことまで無関係ではいられない。それを今回の供奉で少しずつ理解し始めていた。
まず公方様の供奉について、改めて正式な報告を行った。朽木領で公方様、幕臣、竹若丸らと合流したこと。道中、大きな問題は起きなかったこと。京へ無事送り届けたこと。公方様から父上へ礼を伝えるよう言われたこと。そして五百の兵も、一人も欠けることなく観音寺城へ連れ帰った。
「公方様からは、また京へ来いとの御言葉も頂戴いたしました」
そう告げると、父上が僅かに眉を動かした。
「ならば覚えておけ。だが、公方様が一度そう申されたからといって、御心を全て知ったつもりになるな」
「承知しておりまする」
一瞬、朽木から京へ向かう途中で聞いた言葉を思い出した。近江の半ばほども任せれば面白い。本人にとっては好意から出た言葉でも、受け取る者が変われば意味も変わる。公方様が竹若丸を気に入っていることは間違いないだろう。それがどこまで政治的な意味を持つのかは別の話だ。俺が頭を下げると、父上はそれ以上何も言わなかった。
供奉についての話が終わり、幾つか別の案件を挟んだところで、俺は手元に置いていた帳面へ触れた。
「父上。もう一つ、御相談したきことがございます。以前より試しておりまする市のことにございます」
「あれか。もう三年になるのう」
「はい。三年経ちましたので、結果を申し上げたく」
その言葉を口にしながら、俺は以前の関銭のことを思い出していた。あの時は人の流れを変えた後、三年間その影響を見なかった。今度は違う。同じ三年間でも、その間ずっと数字を取り、周囲の変化を追ってきた。
帳面を開き、数字を一つずつ読み上げるようなことはせず、必要なところだけを抜き出して試す前と後、一年目と二年目、二年目と三年目を比べた。商人の数、荷駄、宿、人足、馬借、扱われる品。市銭だけを見ると減っているが、それ以外のところでは人と銭の動きが増えている。
次郎左衛門尉が帳面の一部へ目を落とし、市から直接入る銭が減った以上、損をしたとも言えるのではないかと指摘した。俺は市だけを見ればその通りだと認めた上で、周囲に生まれた商いについて説明した。商人が増えれば宿を使い、飯を食う。荷を運ぶ者や馬が必要になり、倉を借りる者も現れる。入口で徴収していた銭は減っているが、市の周囲まで含めれば動く銭そのものは増えている。次郎左衛門尉はすぐに納得したわけではないようだったが、少なくとも続きを聞く姿勢になった。
「ならば広げたいということか」
父上が尋ねる。
「そのつもりでございました。ただ、試した市だけを見れば、にございます」
俺は別の紙を取り出した。周囲の市について集めた記録である。全ての市を調べられたわけではないが、幾つかの市では商人や荷の数が僅かに減っていた。そのことを説明すると、山城守が楽市へ流れたのではないかと尋ねてきた。
「その可能性がございます。ただ、全てがそうだとは申せませぬ。豊作、不作、道、天候、扱う品でも変わりまする。それでも人が急に増えるわけではございませぬ。こちらへ来た商人の中には、以前は別の市へ行っていた者もいるはずです」
父上が腕を組んだ。
「つまり、楽市が人を生んだのか、隣から奪っただけなのか分からぬと申すか」
「はい。一つの市だけを変えておりますれば、三年見続けても、そこまでは分かりませなんだ」
自分で答えながら、少しだけ苦く感じた。三年間見続ければ答えが出ると思っていた。だが見続けたからこそ、別の疑問が出てきた。それは悪いことではないのだろう。分からないものが増えたということは、以前なら見えていなかったものが見えたということでもある。次は市だけではなく、その周りを見る必要がある。
そう考えていたところで、対馬守が静かに声を上げた。
「右衛門督様。その話と、少々似た話がございます」
俺も父上も対馬守を見る。
「高島にございます。高島七頭のうち、朽木を除いた六家が、ここ暫く妙な動きをしておりまする」
対馬守によれば、六家は武具を整え、人を集め、互いの家を行き来することも増えているという。未だ出陣というほどではないが、平時の動きとも思えない。相手までは確かめられていないものの、朽木である可能性が高いらしい。
その言葉を聞いた瞬間、指先が帳面の上で止まった。
高島七頭、朽木、六家。
武具を整え、人を集め、互いの往来を増やしている。まだ出陣には至っていないというが、平時の動きではない。ならば六家が兵を向けようとしている相手は朽木であり、その先にいるのは竹若丸だ。
頭の奥に引っ掛かっていたものが、急に形を持ち始める。
──待て。これ、あった。
前世で読んだ物語の中に。竹若丸の初陣。確か、高島七頭のうち朽木を除いた六家が朽木へ攻め込んでくる。数では高島側が勝っていて、朽木は周囲を敵に囲まれ、竹若丸は初めて自ら兵を率いる。そして竹若丸が──。
そこまで思い出したところで、記憶が途切れた。
勝った。確かに竹若丸は勝ったはずだ。だが、どのように勝ったのか、誰がどこで動き、どれほどの兵が失われ、戦の後に何が残ったのか。そこまでは霧の向こうに隠れている。物語の筋として知っていたはずなのに、肝心なところだけが抜け落ちていた。
「右衛門督。何か気になるか」
父上の声に我に返る。
「申し訳ございませぬ。高島六家が何故、今になって朽木へ兵を向けようとしているのかと思いまして」
嘘ではない。記憶の細部は曖昧だった。何月だったか、誰が最初に兵を集めたのか、六家がどのような要求を突き付け、朽木がどう返したのか、戦が始まるまでにどれほどの時間があったのか。そこまでははっきりしない。ただ、公方様が京へ戻った後だった。そしてそう遠くない。それだけは覚えている。
下野守が、高島の者と朽木が折り合わぬのは今に始まったことではないと述べた。ただ但馬守が指摘したように、六家揃って兵を整えるとなれば話は別である。父上に促された対馬守は、これまで掴んだ理由を説明し始めた。
朽木には商人が集まっている。関所も少なく、民への負担も周囲より軽い。道を通る商人にとって、どこを選ぶべきかは明らかだった。負担が少なく、商いがしやすく、人が集まっている場所へ向かう。商人が集まれば品が増え、品が増えればさらに商人が集まる。朽木ではその流れがすでに出来上がりつつあり、移り住む者までいるという。
商人が道を変えれば、高島六家の領内を通る荷が減る。荷が減れば宿も人足も馬借も仕事を失い、人が移れば耕す者も商う者も減る。領主が直接取る銭だけでなく、領内で動く銭そのものが細っていく。
話を聞いているうちに、俺の視線は自然と手元の帳面へ落ちていた。
楽市の記録。人が増えた市。その隣で人が減ったかもしれない市。そして朽木。
同じだ。規模も事情も違うが、構造は似ている。竹若丸は自分の領地を良くした。商人を呼び、人を呼び、負担を軽くした。領民にとっても商人にとっても、それは歓迎すべきことだったはずだ。朽木の中だけを見れば、誰も竹若丸を責める理由はない。むしろ領主としては正しい。だが、その結果として周囲から人や銭が流れた。人を得た側だけを見れば成功でも、失った側から見ればそうではない。
しかも失った側にしてみれば、自分たちが何かを間違えたつもりはないのだろう。ただ隣の領地が、より良い条件を示した。それだけで商人が去り、人が移り、収入が減った。自分たちの努力とは関係のないところで、領内の力が削られていく。
「……似ている」
「何がじゃ」
「某の市と朽木にございます。どちらも自分のところへ人を集めました。人が集まれば商いが増え、宿も荷運びも潤いまする。されど、こちらへ来た者は元々どこかにいた者でもございます。人も銭も何もないところから生まれたわけではございませぬ。良くなった側だけを見れば成功に見えまするが、その隣で何が起きたかを見ねば、本当に良かったのかは分かりませぬ」
父上は何も言わず、ただ俺を見た。
以前の俺なら朽木が栄えたという結果だけを見て、竹若丸はやはり凄いと考えていたかもしれない。今もその評価は変わらない。短い時間しか話してはいないが、竹若丸は好感を持てる相手だった。俺より幼い身体でありながら周囲をよく見ていたし、公方様や幕臣たちの前でも萎縮せず、かといって無遠慮に振る舞うわけでもない。相手の言葉を受け止めてから返すところにも、落ち着いたものがあった。出来ることなら次に会った時には、もう少しゆっくり話してみたいと思える相手だった。
だが、それとこれは別だった。竹若丸が良い領主であることと、高島六家が不満を抱かないことは同じではない。竹若丸に悪意がなくとも、朽木が栄えるほど周囲には不利益を受ける者が生まれる。相手から見れば竹若丸の善意や才覚など関係ない。ただ、自分たちの領地から人と銭が流れ出ているという事実だけが残る。
しばらく沈黙が続いた後、父上が口を開いた。
「高島越中を使うか」
評定の者たちが父上を見る。
「越中に朽木へ少し因縁を付けさせる。戦にする必要はない。揉めたところへ六角が入ればよい」
なるほど。高島六家の不満を外へ出させ、その後に六角が仲裁する。高島側には六角が自分たちを見ていると示せるし、朽木にも六角の影響力を意識させられる。そして両者の間に立つのは六角だ。高島六家が朽木へ直接兵を向ける前に、こちらから小さな揉め事を作る。そこで双方の言い分を聞き、六角が条件を示す。上手くいけば戦を避けたまま高島の不満を抑え、朽木にも周囲への配慮を求められる。
「悪くないと思いまする。ただし、もう少し調べとうございます」
父上に理由を尋ねられ、六家の不満がどこまで深まっているのかを確かめたいと説明した。少し銭を失ったため交渉の材料を求めているだけなのか、それとも兵を動かしてでも朽木を叩きたいと思うほどなのか。それによって同じ揉め事でも意味が変わる。
武具を整え、人を集め、家同士の往来を増やしている。それが単なる脅しなら、まだ話し合いの余地はある。だがすでに家中の者たちが戦を望み、当主たちがその声を抑えられなくなっているのであれば、こちらが用意した小さな揉め事など火に油を注ぐだけになるかもしれない。
対馬守が調べさせると答えたので、俺からも篠たち三人を動かしてよいか父上へ尋ねた。対馬守の邪魔をしないのであれば構わないとの許しを得て、早速それぞれに見てもらうものを頭の中で整理する。
対馬守の情報網と比べれば、俺の三人などまだ小さい。だからこそ同じことを競わせる必要はない。弥七には道と兵の動きを見てもらう。どの道を人が通り、どこに兵が集まり、どの村で馬や食糧が動いているのか。兵の数だけでなく、戦をするための準備がどこまで進んでいるのかを見れば、六家の本気度も少しは分かる。
宗兵衛には商人、市、関所、値の変化を見てもらう。朽木へ向かう商人がどれほど増え、高島六家の領内でどれほど荷が減っているのか。商人たちが自分の意思で道を変えたのか、それとも誰かに誘われたのかも確かめる必要がある。
篠には人を見てもらう。六家の家臣たちは本当に戦いたがっているのか。領民はどうなのか。当主たちは家中の声に押されているのか、それとも自分たちの意思で兵を集めているのか。そして当主たちの言葉が単なる交渉のための強がりなのか、それとも本気なのか。
見えるものを増やしてから考える。今の段階で戦を避けられると決めつけるのも、避けられないと決めつけるのも早い。必要なのはこちらの都合に合わせて状況を見ることではなく、高島六家が何を失い、何を恐れ、何を望んでいるのかを知ることだった。
*
報告が揃い始めたのは、それから数日後だった。結果は俺が思っていたよりも悪かった。単に朽木へ商人を取られたという程度ではない。高島六家の中では、朽木だけが別の方向へ進んでいることそのものへの不満が積もっていた。朽木は関所を減らし、商人を受け入れ、領内での負担を軽くしている。そのため商人は朽木を選び、朽木を通る荷が増え、宿や人足が潤う。一方、高島六家の領内では以前なら通っていた荷が減っている。商人が減れば宿の収入が減り、荷が減れば人足や馬借の仕事が減る。市へ来る者が減れば、そこで買われる飯や品も減る。領主が取る銭だけでなく、領民の手元へ回る銭まで細っていく。
関所、負担、商人、人、収入。一つずつなら交渉できる話だったかもしれない。関所の扱いを見直し、商人を呼ぶための条件を整え、朽木と道の使い方を話し合い、六角が間に入って互いに譲るところを決める。そうした手段はまだ残されている。だが、それらが積み重なることで朽木への感情そのものが悪くなっていた。自分たちが努力しても商人は朽木へ流れ、何かを変えようとしても朽木がさらに良い条件を出せば追いつけない。そう考える者が増えれば、話し合いよりも先に相手を止めるという発想が出てくる。
宗兵衛から上がった報告には、商人が朽木を選ぶ理由が幾つも書かれていた。通る際の負担が少なく、商いがしやすい。人が集まるから品も集まり、品が集まるからさらに商人が来る。一度流れができれば、その流れは自然と太くなる。以前、関銭を変えた時にも見たことだった。最初は僅かな違いだ。関銭が少し安い、道が少し通りやすい、宿が一つ多い。それだけの差でも商人は利益のある方へ動く。商人が動けば人足が動き、馬が動き、宿が賑わう。動いた先では新しい仕事が生まれ、さらに人を呼び込む。反対に流れを失った側では、何かを奪われたという実感だけが残る。
そして篠の報告が、一番気になった。六家の家臣たちの間では、朽木だけが得をしていると口にする者が多く、兵を動かしてもよいと考える者も少なくないという。当主たちの本心まで直接確かめられたわけではないものの、家中から出る言葉を見る限り、単なる交渉のための強がりとは思えないらしい。
「戦を望んでおる者がいるということか」
「はい。少なくとも、兵を動かすことを厭わぬ者はおりまする」
篠の答えを聞き、俺は黙り込んだ。
今回、父上が止めれば戦は起きないかもしれない。六家へ朽木へ手を出すなと命じればよい。六角の命令に逆らうほどではないと、今は思わせることもできるだろう。だが、それで終わるだろうか。
竹若丸が今の政策を止めるとは思えない。むしろ朽木はこれからもっと豊かになり、商人も人もさらに集まるだろう。朽木が力を増すほど、高島六家は自分たちが取り残されていると感じる。こちらが一度命じて兵を引かせても、その感情まで消えるわけではない。むしろ六角に押さえつけられたという新しい不満が加わる可能性すらある。
そうなれば高島六家の不満は今より大きくなる。来年、再来年、その時も六角が止めるのか。止め続ければ問題はなくなるのか。
違う。蓋をするだけだ。中身は残り、しかも蓋を押さえている手を少しでも緩めれば、今度は以前より大きな力で噴き出すかもしれない。
篠はしばらく俺の顔を見た後、戦を避けることが必ずしも良い結果になるとは限らないのかと尋ねてきた。難しい顔をしているのは分かっている。だが、今考えていることは簡単に答えの出るものではなかった。
「……そうかもしれぬ」
戦を避ければ人は死なない。少なくとも今すぐには。だが不満が消えなければ別の形で残る。商人を奪われたという感情が朽木への敵意に変わり、六角に抑えられたという屈辱が次の機会を待つ理由になる。
──戦わせる。
頭に浮かんだ言葉を、すぐには認められなかった。
人を戦わせる。前世の俺には、そんな判断をする機会などなかった。教師だった。喧嘩を止める側だった。話を聞き、できるだけ互いが納得する場所を探す。それが普通だった。原因を確かめ、誤解を解き、どちらかが少し譲れば済むならそうさせる。少なくとも殴り合う前にできることはあると信じていた。
だが今は違う。俺は六角家の嫡男だ。ここで必要なのは目の前の喧嘩を止めることだけではない。高島六家と朽木の関係が、この先どう変わるのか。六角がどこまで介入し、どこで手を引くのか。その判断を誤れば、戦を避けたつもりで、もっと大きな戦を招くことになる。
それだけではない。公方様は朽木を発つ際、朽木へ無用な手出しをせぬよう周囲へ言い置いている。そのことも俺は知っている。高島六家を止めれば公方様の御意にも沿う。それでも戦わせるということは、高島の内輪の問題だけでは済まない。六角が裏から高島を動かしたと知られれば、公方様から見れば自らの言葉を軽んじたことになる。今考えているのは兵の数だけの話ではなかった。六角家の信用そのものまで天秤に載っている。
止めればその場は収まる。では、その次はどうなるのか。
*
再び評定が開かれた。父上の前には、数日前より詳しい高島の報告が置かれている。商人の流れ、関所の収入、六家の兵の動き、家中で交わされている言葉。どれも一つだけなら決定的な証拠にはならない。だが幾つも重ねて見れば、高島六家の不満が一時のものではなく、すでに家中全体へ広がりつつあることは分かった。
「右衛門督。どう見る」
父上が俺へ尋ねた。すぐには答えられなかった。竹若丸の顔が浮かぶ。朽木領で短く言葉を交わした時のこと。長く話したわけではない。それでも、もう少し話してみたいと思った。好感を持てる相手だった。だからこそ、これから口にすることが少し重かった。
竹若丸に悪意がないことは分かっているし、朽木を良くしようとしていることも分かる。それでも竹若丸が正しいからといって、高島六家の不満が間違いになるわけではない。双方にそれぞれの理があり、その理が同じ場所でぶつかっている。
「父上。此度、揉め事だけで終わらせても、いずれまた同じことが起こると思いまする」
俺は朽木が今のやり方を改めるとは思えないこと、そのため高島六家の不満が今後も大きくなると考えていることを説明した。朽木が商人を集め、人を集め、負担を軽くすることで豊かになるのであれば、竹若丸が止める理由はない。一方、高島六家の不満には、すでに自分たちが何をしても朽木に追いつけないという諦めに近いものまで混じり始めている。条件を一つ整えた程度で消えるものではないだろう。
誰も口を挟まなかった。父上は最後まで聞いてから、どうすべきと考えるのかを尋ねてきた。
言葉が喉に引っ掛かった。ここで口にすれば、もう後戻りはできない。一度息を吸ってから答えた。
「一度、当たらせた方がよいかと存じまする」
評定の間の空気が変わった。父上の目が僅かに細くなり、但馬守が低い声で問い返す。
「右衛門督様。戦となれば、人が死にまするぞ」
「承知しておりまする」
「承知して、それでも戦わせると?」
「はい。今ここで止めるだけでは、後へ延ばすだけだと思いまする。高島六家が朽木に対して抱いている不満を、六角の命令だけで消すことはできませぬ。ならば、どこかで力関係を明らかにし、その後に六角が間へ入る方が、長い目で見れば話をまとめやすいかと」
但馬守はすぐには答えず、僅かに眉を寄せてから父上へ視線を向けた。そこから指摘されたのは、俺も考えずにはいられなかった問題だった。
公方様の御意である。
公方様は帰京に際し、朽木へ無用な手出しをせぬよう周囲へ示している。高島六家が兵をもって朽木へ攻め入れば、その御意に背くことになる。しかも高島七頭の内輪揉めという形で通そうとしても、六家はいずれも六角へ従っている。公方様がそのことを知らないはずはなく、六家が勝手に動いたと言って済むかどうかも分からない。
分かっていた。俺自身、考えなかったわけではない。ただ他人の口から出たことで、その重さがはっきりした。公方様が朽木を発つ時のことを思い出す。自分を匿い、支えた朽木へ恩を感じていたのだろう。それだけではない。公方様は竹若丸をかなり高く評価している。帰京して間もない今、朽木が高島六家から攻められ、その背後に六角の影があると知られたら、少なくとも良い顔はしない。下手をすれば六角家そのものへの不信に繋がる。
「右衛門督。聞いたな。それでもか」
父上に問われ、先ほどより答えるまでに時間が掛かった。戦で人が死ぬ。それだけなら、すでに覚悟したつもりだった。だが今度は六角家の信用まで巻き込む。しかも相手は、つい先日まで自分が五百の兵で護衛して京へ送った公方様だ。その公方様が朽木を守ろうとして残した言葉を、六角が裏から崩すことになる。
「……公方様の御意向に背いたと見られる可能性はございます」
父上の目が僅かに細くなった。
「可能性ではない。知れれば、そう見られる。六角が越中へ兵を出せと命じたと知られれば、公方様へ申し開きが立たぬ。本当に分かっておるか」
言い逃れを許さない言葉だった。俺はすぐには答えず、父上の顔を見た。
試されているのだろう。戦を起こす理由を考えたからといって、それだけで政治を分かったつもりになるなということだ。兵を動かすという判断の後ろには戦場だけでなく、誰が命じたのか、誰が責任を取るのか、その事実を誰が知った時に何が起こるのかまで続いている。
「承知しておりまする。公方様の御言葉を知りながら高島を動かしたとなれば、六角が公方様を軽んじたと思われましょう。朽木からも、高島六家からも、六角が裏で両者を動かしたと見られるかもしれませぬ。その後に仲裁へ入ろうとしても、最初から六角が仕組んだと知られれば、仲裁する者としての信用も失いまする」
自分で口にするほど危うい。それでも、高島六家の不満を押さえ続ければよいとも思えなかった。公方様の御意があるからこそ、今は止められる。しかし公方様の御意が、いつまでも高島の不満そのものを消してくれるわけではない。
「ならば、公方様の御意を承知で戦をさせると?」
但馬守の問いに、俺は六角から朽木を攻めよと公に命じるべきではないと答えた。だが、それが言葉を変えているだけだと指摘されれば、否定することはできなかった。
「……左様に見えるでしょう。六角が直接兵を出さず、高島七頭の争いという形にしたとしても、我らが意図を持って越中を動かすなら、責任まで消えるわけではございませぬ」
評定の場が静かになった。父上の口元がごく僅かに動いた。笑ったのではない。だが、少なくとも俺が言葉だけで逃げなかったことは見ているようだった。
「そこまで分かっておるなら、何故する」
「今なら、まだ六角が見ておりまする。高島六家が何を考え、どこまで兵を集め、何故朽木を憎んでいるのかを我らは知っております。越中へ条件を付けることもできまする。勝敗が見えれば止めに入る準備もできまする。ですが一度全てを押さえ込み、数年後に我らの知らぬところで爆発すれば、その時も同じように止められるとは限りませぬ」
俺は言葉を切り、父上の反応を確かめた。父上は何も言わず続きを待っている。
「危険なのは承知しておりまする。公方様の御意にも触れます。それでも今ここで蓋をするだけよりは、六角がまだ手を入れられる間に、決着の形を作る方がよいと考えまする」
但馬守は難しい顔をしたままだった。父上も俺をじっと見ていたが、やがて竹若丸とは話していたな、と尋ねてきた。
「長くは話しておりませぬ。ですが、好感を持てる方だと思っておりまする」
「ならば、止めたいとは思わぬか」
「思いまする。竹若丸殿に危険が及ばぬ方がよいと思っております。されど親しくなれそうだと思うことと、六角として何をすべきかは別にございます。某は朽木を滅ぼせと申しているのではございませぬ。一度、力の差をはっきりさせる。その後、六角が間へ入りまする。どちらが優位であるかも分からぬまま不満だけを積もらせるより、一度ぶつかった方が条件を決めやすくなるかと」
「勝敗を六角が利用するか」
「……はい」
口に出してみると、随分と冷たいことを言っている気がした。戦を利用する。人が死ぬ可能性を知りながら勝敗を見極め、その結果を六角の立場を強めるために使う。しかも今回は公方様の御意を表立って破らぬよう、六角は自分の姿を前へ出さない。表向きは高島七頭の争いだ。だが、それだけで俺たちが無関係になるわけではない。
もし後になって竹若丸が全てを知ったらどう思うだろう。公方様は。そして六角の名を信じている者たちは。
政治とはこういうものなのかもしれない。いや、それを言い訳にしてはいけない。選ぶのは俺だ。
父上が少し身体を前へ傾けた。
「ならば聞こう。どちらが勝つ」
答えは知っている。前世の知識なら。だが、それを使わずとも考えられる材料はある。六家は数で勝る。しかし六家は一つではない。朽木は領地こそ大きくないが、竹若丸の下で一つに動ける。商人や人足を集め、道と物の流れを把握し、必要なものを先に整えることにも慣れている。供奉の道中で見た竹若丸の様子を思い返しても、あの者がただ兵の数だけで戦うとは思えなかった。
「朽木かと」
下野守が僅かに眉を上げた。
「六家を相手に、でございますか」
「六家だからこそ、にございます。六家は合わせれば数で勝るでしょう。しかし六家は六家。それぞれ家が違い、当主が違い、考えも違いまする。兵を出す理由も、戦の後に得たいものも、同じではございませぬ」
俺は供奉の時に見た五百を思い出した。一つの隊でも動かすのは難しかった。命令を伝え、列を整え、食糧を運び、疲れた者を休ませる。五百でさえ少し道を外れれば全体の動きが乱れる。ならば六つの家を一つの軍として動かすのは、もっと難しい。
「朽木は竹若丸殿の下で一つに動けまする。それに、あの御方は人と物を動かすことに慣れております」
父上は俺の答えを聞き、随分竹若丸を買っているようだと指摘した。そこは否定しなかった。実際、出来る人物だと思っている。公方様が褒める理由も分かる。短い会話しかしていない俺でさえ、竹若丸が周囲を見て、相手の言葉を聞き、自分の立場を考えていることは感じ取れた。長く話していない以上、俺が知っているのは一部に過ぎない。それでも朽木があれほど短い間に変わった理由を、竹若丸の才覚と結び付けることに無理はなかった。
ただし俺は、一つ読み違えていた。朽木が勝つ。それは分かる。だが高島六家は数で勝る。多少の損害を受けながら朽木が勝ち、その後父上が仲裁へ入る。その程度を想定していた。六家そのものが立ち直れなくなるほど叩かれるとは、この時の俺は考えていなかった。
「父上。一つお願いがございます。戦わせるとしても、際限なくさせるべきではございませぬ。村へ火を放つこと、無用な略奪、朽木を滅ぼすことを目的とするのは避けるべきかと。勝敗が見えれば六角が入る。その前提で高島へ話を通すべきです」
但馬守が難しい顔のまま口を開いた。
「戦が、そのように思い通り止まればよいがな」
その言葉に返事が詰まった。正しい。戦は計算通りにはならない。どれほど当主が命じても、兵が敵を前にすれば恐怖や怒りで動きが変わる。勝ち始めれば深追いし、負け始めれば逃げる。村へ入った兵が命令にない略奪を始めることもある。戦を始める前に終わり方を決めておくことなど、本当はできないのかもしれない。
教師だった頃の喧嘩でさえ、止めに入る頃には最初に何が原因だったのか分からなくなることがあった。戦ならもっと酷いだろう。
「……必ず止まるとは申しませぬ。それでも、今のまま不満を積もらせるよりは、六角が動きを把握できているうちに決着させた方がよいと思いまする」
父上は俺から視線を外し、六人衆を順に見た。下野守、但馬守、山城守、対馬守、次郎左衛門尉、加賀守。それぞれが今回の高島について、これまで得た報告と俺の意見を踏まえて考えを述べた。
戦を認める危険、高島六家を放置する危険、朽木が強くなり過ぎることへの警戒、六角が高島へどこまで介入するのか、戦を始めた後どの時点で止めに入るのか、朽木が勝った場合に竹若丸へどのような条件を示すのか。そして公方様の御意に背いたと見られぬため、六角がどこまで表へ出ずにいられるのか。議論すべきものは多く、俺の案に全員が賛成したわけではない。
当然だ。俺自身ですら、自分の答えに自信があるわけではない。ただ、止めれば正解とも思えなかった。高島六家の不満を押さえ込むだけなら六角の力でできる。だが押さえ込んだ不満が消えるわけではない。
但馬守は最後まで慎重だった。仮に越中へ御意を伝えるとしても、六角から朽木を攻めよと命じる形だけは避けるべきだと進言した。父上もそこは当然だと答え、高島の内で積もった問題をどうするかは、あくまで高島の者たち自身が決めることだとした。
言葉だけを聞けば、六角は何も命じていない。だが、その言葉が何を意味するのか分からぬ者は、この場にはいない。
高島越中に朽木へ因縁を付けさせる。要求を出させ、朽木が退けばそこで終わる。退かなければ六家が兵を出すことを黙認し、勝敗が見えたところで六角が仲裁へ入る。表へ出るのはその時だ。
公方様から問われれば、高島七頭の争いを収めたという形になる。それがどこまで通るのかは分からない。竹若丸が六角の意図に気付かない保証もない。むしろ、あの竹若丸なら疑うだろう。
やがて父上が口を開いた。
「分かった。越中には儂から話をする」
胸の奥が僅かに重くなった。
正式に決めたのは父上だ。命令を出すのも父上。表へ出ない形を整えるのも父上だろう。だが、揉め事で止めず、一度当たらせるべきだと主張したのは俺だった。
「右衛門督。そなたが申したことじゃ。最後まで見よ。それとな、公方様の御意を忘れるな」
「はい」
「六家が勝手に動いた。六角は知らぬ。言葉にすればそれで済む。だが、本当に知らぬ者にはなれぬぞ」
「……はい。承知いたしました」
父上はそれ以上何も言わなかった。
そうだ。今度は決めた後を見なければならない。戦を始めるまでではない。戦が始まった後、どこまで広がり、誰が傷つき、何が残るのか。勝った側と負けた側の双方に六角が何を示すのか。さらにその後で、公方様や朽木が六角をどう見るのか。そこまで見届けなければ、俺が口にした理屈はただの言い訳になる。
*
評定を出ると、弥太郎が廊下で待っていた。俺の顔を見るなり何も言わず隣へ並び、しばらく歩いてから、若様が戦を望まれるとは思わなかったと静かに口にした。
「……私もだ」
その答えに弥太郎が意外そうな顔をしたが、俺自身、自分がこんな判断をするとは思っていなかった。
前世の俺が今の自分を見たら、何と言うだろう。
人を戦わせる判断をした。死人が出ると分かっているのに。しかも戦を避けるための手段を探すのではなく、戦を一度起こした方がよいと自分の口で父上へ進言した。その上、公方様が朽木へ手を出すなと示したことも知っている。知らずにした判断ではない。知った上で選んだ。
「正しいかは分からぬ。ただ、止めるだけでは終わらぬと思った」
弥太郎は何も言わず、俺の隣を歩いていた。それ以上理由を尋ねることもなかったが、納得したのかどうかまでは分からない。俺自身が納得しきれていないのだから、当然かもしれない。
いや、本当は止めるだけでは終わらないという理由だけでもなかった。
竹若丸が勝つと知っている。その知識が判断を後押ししていないと言えば嘘になる。もし勝敗が分からなければ、俺は同じ答えを出しただろうか。高島六家が勝つ可能性を考えていたなら、それでも戦わせると言えただろうか。それは自分でも分からなかった。
竹若丸への好感も、前世の記憶も、どちらも俺の判断に混じっている。そして今回は、そこへ公方様の言葉まで加わった。正しいと思って選んだのではない。他に何もしなければ、もっと悪くなるかもしれない。その可能性を恐れて選んだだけだ。だからこそ、自分の考えを完全に正しいとは思えなかった。
*
夜になってから、篠が部屋へ来た。高島についての追加報告だった。
六家の動きはまだ止まっておらず、人を集める動きも続いている。兵糧の手配、馬の確保、道の確認。表向きにはまだ出陣の命令は出ていないが、戦を始めるための準備は少しずつ進んでいる。父上が高島越中へ話を通すまでに、六家がどこまで動くのかは分からない。
報告を終えた篠は、いつものようにすぐ下がろうとはしなかった。何かを確かめるように俺の顔を見た後、静かに口を開いた。
「若様。一つ伺ってもよろしいでしょうか。本当に、若様が思われたところで止まるでしょうか」
答えられなかった。
高島越中へ条件を付け、父上が仲裁へ入り、朽木も六家もそれに従う。頭の中では流れができている。まず高島側が朽木へ圧力を掛ける。朽木が応じれば六角が間へ入る。応じなければ兵が動く。兵が動いたとしても、勝敗が見えたところで六角が止める。そうすれば戦は大きくならず、双方に力関係を理解させた上で話し合いへ持ち込める。
だが、戦場の人間までその通り動く保証などどこにもない。高島六家が一度兵を出せば、当主たちの命令だけで止められるとは限らない。朽木側も攻められれば黙って退くわけではないだろう。竹若丸が勝てるとしても、勝つためには兵を動かし、敵を倒し、場合によっては追撃する必要がある。
それだけではない。戦が終わった後も全てが終わるわけではない。公方様は朽木へ手を出すなと示した。その朽木が攻められた。もし誰かが、高島六家の背後に六角がいたと口にすればどうなる。勝敗とは別の問題が、その瞬間に始まる。
「……分からぬ。分からぬが、決めた」
篠は何も言わず、続きを待っていた。
「だから見ておけ。高島六家も朽木も、戦の前も最中も、終わった後もだ。兵の数だけではない。どの道が使えなくなり、どれほどの商人が離れ、領民が何を恐れるのか。勝った側が何を得て、負けた側が何を失い、その後にどのような不満が残るのか。それに加えて、誰が六角を疑い、誰が六角を頼り、誰が六角を恐れるのかも知りたい」
俺は篠を真っ直ぐ見た。
「こちらが見たいものではなく、起きたことを持ってこい」
「承知いたしました」
篠は静かに頭を下げた。それ以上は何も言わず、襖を開けて部屋を出ていく。その背を見送りながら、先ほどの問いがまだ胸の内へ残っていることに気付いた。
本当に思ったところで止められるのか。
篠へ分からぬと答えたのは、その場を取り繕うためではなかった。どれほど考えても、今の俺には答えを出せない問いだった。
襖が閉じ、部屋に一人残される。机の上には二つの帳面が置いてある。一つは三年間の市。もう一つは高島。
人が動き、物が動き、銭が動く。そして今度は兵が動く。自分の市へ人を集めたことで、その隣から人が減ったかもしれない。竹若丸が朽木を良くしたことで、その隣の六家が不満を持った。誰かにとって良いことが、別の誰かにとっても良いとは限らない。分かっていたつもりだった。
だが今度は、その歪みを解決するために俺自身が戦を選んだ。しかも公方様が朽木を守ろうとして残した言葉を知った上で。
六角が表へ出なければ、知られずに済むかもしれない。高島七頭同士の争いとして終わるかもしれない。勝敗が決まり、父上が仲裁へ入り、双方が条件を飲めば、それで収まるかもしれない。
だが、そう考えるたびに別の可能性も浮かぶ。高島六家が思った以上に損害を受ければどうなる。朽木が勝っても追撃を止めなければ。父上が仲裁へ入る前に決着が付いてしまえば。誰かが六角の関与を疑い、公方様の耳へ入れば。どれも今の俺には確かなことが言えなかった。
それでもこの道を選んだのは、竹若丸なら勝つと思っているからだ。そこまでは恐らく間違っていない。だが、本当に問題なのはその先なのだろう。勝った竹若丸が何をするのか。負けた高島六家が何を思うのか。公方様が何を知るのか。そしてその間に立つ六角が、どのような顔をして何を差し出すのか。
俺はそこまで考えたつもりになって、帳面を閉じた。
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