淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第二十八話「手を離れたもの」

 年が明け、永禄二年となった。観音寺城では例年通り年始の挨拶が続き、城内を出入りする人の数も普段より多い。重臣や国人、寺社からの使者が祝いの言葉と品を持って現れ、父上も朝から人と会う時間が増えていた。表だけを見れば穏やかな正月だった。雪こそ深くはないものの、朝夕の冷え込みは厳しく、廊下を渡る風には冬らしい鋭さがある。だが俺にとっては、昨年の暮れに閉じたはずの高島の帳面が、年を跨いでも頭の中から消えることはなかった。

 

 父上から高島越中へ話が伝えられたのは、年が変わる少し前だったと聞いている。俺はその場に立ち会っていない。書状として「朽木を攻めよ」と残したわけでもない。誰かの手に残れば、それだけで公方様の御意に背いた証になる。だから父上は信用出来る者を介し、口頭で高島越中へ六角の考えを伝えた。まず朽木へ自分たちの不満を示せ。話で収まるのであればそれでよい。朽木が応じず、高島の者たちが自ら兵を動かすのであれば、六角は直ちにそれを咎め立てることはしない。ただし、村への無用な乱取りや放火を目的とするな。朽木を滅ぼすための戦ではなく、高島の中に積もった問題へ一度決着を付けるためのものとせよ。俺が評定で口にした考えを、父上が父上なりの言葉へ直して伝えたのだろう。

 

 紙には残っていない。六角からの正式な軍令でもない。高島六家が兵を動かしたとしても、表向きには彼ら自身の判断ということになる。以前の俺なら、そこに少し安心したかもしれない。六角が直接命じたわけではないのだから、と。だが今は違う。父上に言われた言葉が残っている。六家が勝手に動いた、六角は知らぬ。言葉にすればそれで済む。だが、本当に知らぬ者にはなれぬ。まさにその通りだった。紙に残っていないからといって、無かったことになるわけではない。むしろ、残せないと分かった上で動かしている分だけ、自分たちが何をしているのかはよく理解している。誰かが後から帳面を調べても俺の名前は出てこないかもしれないが、それで俺が何も知らなかった者になれるわけではなかった。

 

 それでも松の内は何事もなく過ぎた。高島から戦が始まったという報せもなく、朽木から助けを求める使者が来ることもない。俺は普段通り弓を引き、身体を動かし、帳面を開き、市の記録にも目を通した。だからといって高島から目を離したわけではない。三雲対馬守の手の者が拾った情報に加えて、弥七、宗兵衛、篠から上がってくるものにも出来るだけ毎日目を通した。三雲の情報網と比べれば三人が見られる範囲は狭いが、見ているものが違う。弥七には道と兵の動き、宗兵衛には商人と物の流れ、篠には人の言葉と空気を見てもらっている。同じ数字を競わせるより、それぞれの目で見えるものを持ち帰らせた方が、今の俺には役に立った。

 

 弥七から届く報告によれば、高島六家の領内では平時より武具を運ぶ者が増え、米や味噌をまとめて動かす姿も見られるという。馬も少しずつ集められ、清水山城へ出入りする者も増えていた。ただし、六家全体が一つの命令で整然と動いているわけではない。ある家が人を集めれば別の家が様子を見て、その家が兵糧を運び始めれば今度は別の家が慌てて後を追う。一つの軍が戦支度を整えているというより、六つの家が互いの出方を窺いながら、同じ方向へ進もうとしているように見えるらしい。戦の準備をしているという結論は同じでも、その中身まで見れば、すでに六家が一枚岩ではないことが分かる。

 

 宗兵衛の報告は、それとは違った。商人の間では、まだ誰も槍を合わせていないうちから「高島と朽木が揉めるらしい」という話が広がり、それを聞いて荷の道を変えようとする者が出始めていた。高島を通るより、少し遠回りしてでも危険の少ない道を選ぶ。戦になる前に荷を売ってしまおうと値を下げる者もいれば、逆に兵が集まれば米や酒が売れると踏んで品を抱える者もいる。宿では旅人が減ることを恐れ、人足は仕事が途切れることを気にし、商人はどの道を使えば損をしないかを考えていた。まだ一人も死んでいない。それでも戦になるかもしれないという話だけで、人が動き、物が動き、値が動き、その土地の日常まで少しずつ形を変え始めていた。

 

 報告を読みながら、俺は机の上に広げた高島の略図へ目を落とした。戦が始まれば人と物が動く。それは分かっていたつもりだった。だが、戦は槍を交えた瞬間から始まるわけではないのだろう。兵を集めるという噂が広がった時点で商人は道を変え、宿は客の数を気にし、米を持つ者は値が上がるかもしれないと考える。評定で俺が口にした「一度、当たらせる」という言葉は、俺の中では高島六家と朽木が一度兵をぶつけるという意味でしかなかった。だが実際には、その一度へ向かう前から数え切れない人間が動かされている。そのことを、俺はまだ全部見ていなかったらしい。

 

 その日の夕方、篠が戻ってきた。

 

「若様、高島の者たちの間で、少々気になる言葉が増えております」

 

「どのようなものじゃ」

 

「六角が我らの言い分を認めた、と」

 

 俺は筆を置き、篠を見る。

 

「誰が申しておる」

 

「一人ではございませぬ。家臣の間でも、商人の間でも聞きました。高島越中殿がそのように申した、と断じる者はおりませぬが、六角が止めぬ以上は我らの言い分を認めたのだろう、と考えているようにございます」

 

 父上が伝えたのは、高島六家の不満そのものを否定しないことと、話で収まらなければ兵を動かすことを直ちには咎めないという程度のはずだ。少なくとも「朽木を攻めてよい」と許可したわけではないし、六角が高島六家の主張を全て正しいと認めたわけでもない。だが受け取った側では、すでに意味が変わり始めている。止めないことが、認めたことになり、認めたことが、いずれ味方するという期待へ変わる。その先まで進めば、こちらが最初に伝えた言葉などほとんど残らないかもしれない。

 

「他には」

 

「『公方様が何を申されようと、高島は六角の内』と申す者もおります」

 

「……それは誰が」

 

「家中の若い者が酒の席で申したものにございます。ですが、その場にいた者で咎めた者はいなかったと聞いております」

 

 篠がこちらを見ていた。何かを言うかと思ったが、黙っている。あの夜に「本当に、若様が思われたところで止まるでしょうか」と聞いた本人だ。その問いへの答えが、戦の前から少しずつ形になっているのかもしれない。だからこそ、俺は自分の考えに都合のいい形で報告を受け取らないよう意識して口を開いた。

 

「篠。六角が『朽木を叩け』と命じた、という話は出ておるか」

 

「今のところは聞いておりませぬ」

 

「ならば、それと今の話は分けよ。『六角が認めたと思っている者がいる』ことと、『六角が認めた』ことは同じではない。広がっている言葉と、実際に誰が何を申したのかも分けて持ってこい」

 

「承知いたしました」

 

 篠が頭を下げる。以前なら、俺自身が聞きたい答えに近い話を拾えば、それで納得していたかもしれない。だが今は、そうするのが怖かった。高島六家は戦いたがっている。六角の意向を都合よく解釈している。その二つが見えたからといって「もう戦は避けられない」と決めてしまえば、俺自身が戦を起こしたい側に都合の良い材料だけを選ぶことになる。戦わせるべきだと言ったのは俺だからこそ、それを正当化する材料ばかり集めるようになれば、自分で自分の目を潰すことになる。

 

 *

 

「少し、話が変わっておりまする」

 

 翌日、俺は父上の部屋にいた。評定を開くほどの話ではないと判断したのか、いるのは父上と三雲対馬守、それに俺だけだった。篠から聞いた内容と、宗兵衛から上がった噂の広がり方を伝える。父上は最後まで口を挟まずに聞き終えると、手元の湯呑みに触れながら俺を見た。

 

「何が変わった」

 

「こちらは高島六家の言い分を認めたわけではございませぬ。されど向こうでは、そのように受け取る者が増えておりまする。六角が止めぬことを、六角が自分たちを支持していると考えているようにございます」

 

「それで?」

 

「もう一度、越中へ釘を刺した方がよいのではないかと」

 

「何と申す。戦をするな、と伝えるか」

 

「……それでは、先に伝えたことを覆すことになりまする」

 

「ならば、戦ってもよいが六角はそなたらの味方ではない、とでも申すか。越中は何と受け取る」

 

 問い返されて、すぐには答えられなかった。六角が味方ではないと言えば、高島越中は兵を動かすことを躊躇うだろう。それどころか、自分たちは六角に使われただけなのかと疑うかもしれない。逆に「六角は高島の味方だが、朽木を攻めよと申したわけではない」と伝えたところで、受け取る側からすれば都合の良い部分だけを残せる。何を言い足しても、最初の意図を完全な形へ戻せる気がしなかった。

 

 父上が僅かに息を吐いた。

 

「言葉は、一度相手へ渡せば、こちらの物ではなくなる。儂が越中へ伝えたのは、朽木と話をせよ、話で済まぬなら高島の者らがどうするかまで六角は縛らぬ、ということじゃ。だが越中がそれを家中へ話す時、儂と同じ言葉を使ったと思うか」

 

「……思いませぬ」

 

「さらに、その家臣が下の者へ話す時は?」

 

「また変わりまする」

 

「そういうことじゃ」

 

 三雲対馬守も静かに頷いた。

 

「人を介すれば、言葉は少しずつ変わりまする。それが己に都合の良い話であれば、なおさらにございます」

 

 兵を動かせば思った通りには止まらない。あの評定でそう考えた。だが、その前に言葉すら思った通りには動かない。俺はまだ、命令を出す側の視点でしか考えていなかったのかもしれない。伝えた内容が正確なら、相手もその通り理解する。数学の式ならそうだ。書かれた式は見る者が変わっても同じ式だ。だが人間の言葉は違う。聞く側にも都合があり、期待があり、恐れがある。同じ言葉でも、その全部を通った後では違う意味になる。しかも、その変化を後から完全に元へ戻すことは難しい。

 

「それでも、放っておきまするか」

 

「放っておくのではない。見るのじゃ」

 

「見る」

 

「越中らがどこまで行くかをな。そなたが申したのであろう。最後まで見ると」

 

 父上の言葉に返すものはなかった。自分で始める方向へ押した以上、思っていた形と違い始めたからといって、その度に手を入れて自分の望む形へ戻そうとすれば、それは最初から高島六家を駒として扱っているのと変わらないのかもしれない。見る。簡単な言葉だったが、今回はそれが一番難しかった。

 

 *

 

 松の内が明けると、高島六家はすぐに動いた。報せを持ってきたのは三雲対馬守だった。六家が連名で朽木へ使者を送ったという。まだ兵は出ていない。まずは話し合いという形を取ったらしい。父上の意向を守ったとも言えるし、最初から戦の形を整えるために使者を立てたとも言える。その時点ではどちらとも決められなかったが、数日後に要求の中身まで届くと、俺の受け取り方は少し変わった。

 

「六千貫?」

 

 思わず聞き返した。

 

「はい。一家につき一千貫。六家合わせて六千貫を朽木へ求めたとのことにございます」

 

 三雲対馬守の声は淡々としていた。

 

「理由は」

 

「朽木が民の負担を軽くしたため、高島の者らが悪政を敷いているように見られる。朽木へ民が移り、税を納める者が減った。兵として出せる者も減る。関所を減らしたため、商人も朽木へ流れ、自領を通る荷が減って物の値にも影響が出た。その損を朽木が償え、ということのようにございます」

 

 以前から調べてきた内容そのものだった。違うのは、それが不満や噂ではなく、六家連名の正式な要求になったことだ。人と銭を奪われた。商人を奪われた。民を奪われた。その結果として自分たちは損をした。だから朽木が補償せよ。高島側から見れば筋が通っているのだろう。だが六千貫という額は安くない。いや、金額の大小以前の問題だった。竹若丸がそれを払えば、朽木の政策によって高島六家へ損害を与えたと認めることになる。負担を軽くしたことも、関所を減らしたことも、人や商人を集めたことも、自分たちの領内を良くするために行ったはずだ。それを「他家を害した」と認め、賠償を払う。竹若丸がそんなことをするとは思えなかった。

 

「高過ぎるな」

 

 父上が言った。

 

「はい」

 

「払えぬか」

 

「いえ。払えるかどうかではないと思いまする」

 

「ほう」

 

「払わぬでしょう」

 

「何故じゃ」

 

「六千貫を払えば、竹若丸殿は己の政が間違っていたと認めることになりまする。朽木の負担を軽くしたことも、関所を減らしたことも、民や商人を集めたことも、高島六家へ損害を与えたゆえ改めるべきものだった、と。あの御方がそのように考えるとは思えませぬ」

 

 後藤但馬守が眉を寄せた。

 

「金を払って終わらせる、という考えもあろう」

 

「一度払えば、次も求められまする。朽木が今の政を続ける限り、高島六家から見れば損は続きます。今度は六千貫。来年も商人が戻らねば、また損をしたと申せる。民がさらに朽木へ移れば、その分も求められましょう。竹若丸殿が一度認めれば、終わりませぬ」

 

 口にしているうちに、六千貫という要求が単なる交渉条件には見えなくなってきた。竹若丸が呑むことを本気で期待しているのなら、もう少し譲れる形を作るはずだ。商人の道をどうするのか、関所をどうするのか、民の移動をどうするのか。そういう話なら交渉の余地がある。だが六家それぞれへ一千貫を払えとだけ求めるなら、竹若丸が拒否することまで見込んでいるのではないか。拒否されれば、「話し合おうとしたが朽木が応じなかった」という理由を得られる。そこから先に兵を動かせば、高島側の中では少なくとも筋を通したことになる。

 

「父上。これは、竹若丸殿に断らせるための要求ではございませぬか」

 

 評定の場が静かになり、蒲生下野守定秀が目を細めた。

 

「戦の理由を作るため、と申すか」

 

「その可能性があると思いまする」

 

「越中は、そこまで考えておるかの」

 

 父上が三雲対馬守を見る。

 

「越中一人がどこまで考えているかは分かりませぬ。されど六家が話をまとめた以上、皆が六千貫で朽木が折れると本気で思っているとも考え難うございます」

 

「ならば、もう始まっておるということか」

 

 後藤但馬守の言葉に、誰もすぐには答えなかった。まだ兵は動いていない。槍も交わっていない。それでも、六家は竹若丸が飲まない可能性の高い条件を突き付け、拒まれた後に兵を動かすための理由を自分たちの手で整え始めている。俺が望んだのは、一度ぶつかることだった。だが、そのための道筋まで俺が決めたわけではない。戦わせると決めた瞬間から、その先は高島六家自身の都合と理屈で形を持ち始めていた。

 

「右衛門督」

 

「はい」

 

「止めるか?」

 

 父上の問いに、一瞬答えが出なかった。ここならまだ止められる。高島六家へ使者を出し、要求を取り下げさせる。公方様の御意もある。六角が強く命じれば、少なくとも今すぐの戦は避けられる可能性が高い。だが、それをすればこれまで考えてきたところへ戻る。高島六家の不満は残り、朽木が今の政を続ける限り、いずれまた同じ問題が形を変えて現れる。

 

「……いいえ」

 

「そうか」

 

 父上はそれだけだった。止めない、と口にしたのはこれで二度目になる。最初はまだ、戦は頭の中にしかなかった。今は竹若丸へ拒否される可能性の高い要求が実際に突き付けられ、戦うための理由まで形になり始めている。それでも俺は止めなかった。その違いが、自分で思っていたより重かった。

 

 *

 

 朽木から返答があったという知らせは、それからそう日を置かずに届いた。六家の要求は拒否された。使者そのものは礼を失することなく帰されたらしいが、答えが柔らかくなったわけではない。朽木には高島六家へ六千貫を支払う理由も責任もない。それが竹若丸の答えだった。

 

 ――やはり。最初に浮かんだのは、その言葉だった。前世の記憶でも、竹若丸がここで折れた覚えはない。今の状況だけを材料に考えても同じ答えになる。自分の政策を誤りと認める意味を持つ賠償など、竹若丸は飲まない。予想は当たった。だが、嬉しくはなかった。答えが当たったことで、この先も記憶通りに進む可能性が高くなったからだ。高島六家が朽木を攻め、竹若丸が迎え撃ち、竹若丸が勝つ。そこまでは覚えている。以前なら、それを前世で読んだ物語の出来事として考えられた。だが今は違う。この戦が始まる前に、俺は父上へ「一度当たらせた方がよい」と進言し、高島六家が動くことを止めないと二度も答えた。知っていた未来へ自分が乗ったのではない。少なくとも一部は、自分でその未来を押した。

 

「若様。先ほどから、同じところを見ておられまする」

 

 弥太郎に言われて手元を見ると、朽木が拒否したという短い報告の同じ行を、何度も目で追っていたらしい。

 

「竹若丸殿が断ると、分かっておられたのでしょう」

 

「そう思っておった」

 

「ならば、何故そのようなお顔を」

 

「思っていたことと、本当にそうなることは違うからじゃ。六千貫など飲まぬ。飲めば竹若丸殿が今までやったことを自分で否定することになる。そう考えたし、実際その通りになった。だが、これで戦になる。そこも考えておった」

 

「それでも、違いまするか」

 

「ああ」

 

 自分でも何が違うのか説明しにくかった。数学なら、予想した答えと計算結果が一致すれば、それでいい。だが人間は違う。予想が当たった先で、本当に人が動き、傷付き、死ぬ。答えが合っていたからといって、それで終わらない。むしろ今回は、当たったことで先にあるものが現実へ近付いてきた。その違いなのだろう。

 

 *

 

 その頃から、高島や朽木に近い地域で別の噂も聞かれるようになった。公方様は朽木へ手を出すなと命じている。それに背いて朽木を攻めれば、公方様は高島六家を許さない。戦に負ければ、六家は朽木だけでなく幕府にも攻められる。最初に持ち込んだのは篠だった。

 

「誰が流しておる」

 

「分かりませぬ」

 

「高島の者か」

 

「それも分かりませぬ。商人の口からも聞きましたし、村でも聞きました。ただ、同じような話が幾つかの場所で出ております」

 

「最初に言い始めた者は」

 

「追っておりますが、まだ」

 

「ならば、竹若丸殿の策だとは決めるな」

 

「はい」

 

 そう言ったものの、俺自身の頭には竹若丸の名前が浮かんでいた。偶然広がった可能性はある。公方様が朽木を守る意向を示したことは、知っている者なら知っている。それを高島六家の戦支度と結び付ければ、誰かが同じことを考えてもおかしくない。だが、複数の場所で似た話が出ている。もし意図的に流されているのなら誰が一番得をするかと考えれば、真っ先に浮かぶのは朽木だった。

 

 高島六家は六つの家の集まりであり、全てが同じ覚悟で戦うわけではない。敗れれば自分たちの城まで朽木や幕府に攻められるかもしれない。そう思わせれば、誰が先に危険を負うのかで揉める。先陣になれば一番損をするかもしれない。他家が後ろで様子を見て、自分だけが傷を負うかもしれない。疑いが一度生まれれば、六つの家を一つに動かすのはさらに難しくなる。俺たちは公方様の御意をどう隠すか考えた。竹若丸は――もしこれが竹若丸の策なら――逆にどう使うかを考えている。同じ一つの言葉でも、見る側が変われば使い方まで変わるらしい。

 

「篠。この噂は追え。誰が言い始めたか分からぬなら、分からぬままでよい。だが、どこで、いつ頃から、どのような者が口にしているかは残せ」

 

「承知いたしました」

 

 篠が去った後も、しばらくそのことを考えた。竹若丸とは長く話したわけではない。それでも好感を持てる相手だと思ったし、その印象は今も変わっていない。だが、好感を持てることと、相手として厄介でないことはまったく別の話だった。むしろ相手が冷静に状況を見ているほど、こちらの思惑通りには動いてくれない。公方様の言葉まで使うところを含め、もし本当に竹若丸が仕掛けているのなら、俺はまだあの少年をかなり甘く見ているのかもしれなかった。

 

 *

 

 二月へ入る頃には、清水山城へ集まっている兵の数がおおよそ掴めるようになった。

 

「千二百ほどにございます」

 

 三雲対馬守の報告に、父上が僅かに首を傾げた。

 

「それだけか」

 

「はい」

 

 俺も同じことを思った。六家が揃って出るのなら、もう少し多いと考えていた。六つの家が全力で集めれば、千二百で終わるとは思えない。

 

「六家の足並みが揃っておらぬか」

 

「そのように見えまする。それぞれが他家の出す兵を気にしております。己だけ多く出して損をしたくない、己だけ先に傷を負いたくない。そのような考えがあるのでしょう」

 

 父上は俺へ視線を移した。

 

「右衛門督。そなたの申した通りになっておるぞ。六家は六家、であったな」

 

「はい」

 

「嬉しくはなさそうじゃな」

 

「これから戦になりますれば」

 

「そうか」

 

 六家は六家。以前の評定で俺が口にしたことだった。一つの家として動く朽木と、六つの家が集まった高島。兵の総数だけを見れば高島が多いが、六つの意思を同時に動かす難しさは、わずか五百とはいえ実際に兵を率いた俺にも少しは分かる。しかも供奉の五百人は、少なくとも同じ六角の命令に従っていた。高島六家には「誰が一番兵を出すのか」「誰が一番傷を負うのか」「勝った時に誰が一番得をするのか」という互いへの疑いまで混ざっている。千二百という数字を一つの塊として見るのは、やはり間違いなのだろう。

 

「朽木はどれほど集めておる」

 

 父上の問いに、三雲対馬守が答えた。

 

「三百ほどかと」

 

 評定の場が僅かにざわつき、後藤但馬守が眉を寄せる。

 

「三百? 四倍ではないか」

 

「はい」

 

 千二百対三百。紙の上へ二つの数字だけを書けば、確かに四倍だった。兵の数だけで勝敗が決まるなら、高島が負ける理由を探す方が難しい。だが俺の中では、数字ほど一方的な差には見えなかった。朽木谷へ入る道は大軍が好きなだけ横へ広がれる場所ではない。高島六家が千二百を集めても、前に出せる人数には限りがある。一方の朽木は、少なくとも指揮する者が一人で、その一人が竹若丸だ。

 

「右衛門督。以前、朽木が勝つと申したな」

 

「はい」

 

「今も変わらぬか」

 

 少し考えてから頷いた。

 

「変わりませぬ」

 

「四倍ぞ」

 

「承知しておりまする」

 

「理由は」

 

「朽木谷へ入る道は、大軍が横へ広がれる場所ではございませぬ。数が多くとも、一度に前へ出せる数には限りがございます。それに高島は六家。今の報告を見る限り、互いを疑っておりまする。一度前が崩れれば、後ろまで同じように動けるとは思えませぬ」

 

「朽木の兵が三百で耐えられれば、か」

 

「はい」

 

 問題はそこだった。竹若丸が勝ったことは覚えている。だから何らかの形で耐えるはずだ。だが、どうやって。朽木が鉄砲を持っていることは知っているし、領内で集め、兵に使わせていることも耳には入っている。だが何丁あるのか、その鉄砲をどのように配置し、どう戦わせるのかまでは掴めていなかった。竹若丸が何の準備もせず四倍の敵を迎えるとは思えない。それでも、「竹若丸なら何かする」というだけでは、理由としてはあまりに曖昧だった。前世の記憶がなければ、俺は同じだけ強く朽木の勝ちを口に出来ただろうか。そこには自信がなかった。

 

 評定を出た後、側へ寄ってきた弥太郎が声を落とした。

 

「若様。本当に朽木が勝ちまするか」

 

「勝つと思う」

 

「思う、でございますか」

 

「戦じゃ。必ずなどと言えるか」

 

「ですが、先ほどはかなりはっきりと申されておりました」

 

「六家が纏まっておらぬのは事実じゃ。道が狭いのも事実。竹若丸殿が何もせず待っているとも思えぬ。ならば、朽木が有利になる材料はある」

 

「三百と千二百でも?」

 

「ああ」

 

 弥太郎はしばらく黙って歩き、それからこちらを見た。

 

「若様なら、戦いまするか」

 

 答えようとして、やめた。俺ならどうするか。それは考えていなかった。今の俺は安全な観音寺城にいて、朽木なら勝つと評定で言い、戦を止めるかと問われても止めないと答えた。だがもし三百を率いるのが俺で、目の前に千二百の敵が迫っていたら、それでも同じように勝てると言えるのか。地形がある、相手は六家だ、まとまりに欠ける。そんな材料を並べたところで、四倍の敵を前にした時の恐怖まで消えるわけではない。

 

「……分からぬ」

 

 弥太郎が少し驚いた顔をした。

 

「分からぬものは分からぬ。だから見ておる。それに、俺ならどうするかと、竹若丸殿がどうするかも同じではない」

 

「左様にございますか」

 

「ああ」

 

 そう答えながら、少し悔しかった。竹若丸の方が戦について多くを知っていると認めたようなものだからではない。自分で戦を選ぶ方向へ押したのに、その戦をどう勝つかについては、俺にはまだ具体的な像がない。その事実が悔しかった。

 

 *

 

 そして、その日は来た。昼を少し回った頃、俺は自室で高島の地図と報告を見比べていた。冬の日差しは弱く、障子越しに入る明かりにもどこか冷たさがある。火鉢へ手を近付けながら、清水山城と朽木の間にある道を指で辿っていたところで、廊下を急ぐ足音が近付いてきた。普段の歩き方ではない。襖の向こうから弥太郎の声がする。

 

「若様」

 

「入れ」

 

 襖が開くと、弥太郎の後ろには三雲家の者が一人控えていた。顔を見るだけで、いつもの報告ではないことが分かる。

 

「高島からにございます」

 

「申せ」

 

「高島六家の兵、およそ千二百。清水山城を発しました」

 

 地図の上を動いていた指が止まった。

 

「向かう先は」

 

「朽木にございます」

 

 来た。知っていたし、こうなると考えていた。何より、自分自身がこうなることを選ぶ側へ回った。それでも、実際に千二百人が清水山城を発ったという報告を聞いた瞬間、身体の奥へ冷たいものが落ちた。頭の中で考えていた戦と、実際に人が歩き始めた戦は同じものではない。さっきまで地図の上でしか存在しなかった千二百という数字が、突然、一人一人の身体を持ったように感じられた。

 

「朽木は」

 

「すでに動きを掴んでいるものと思われます。兵を集めておりますれば、迎え撃つでしょう」

 

「どれほどで接触する」

 

「道の具合にもよりまするが、そう長くは掛からぬかと」

 

「そうか」

 

 男を下がらせた後も、俺はしばらく地図を見たまま動かなかった。千二百と三百。四倍という差は昨日まで帳面の上の数字だったが、今、その千二百人は鎧や胴を身に着け、槍を持ち、弓を背負い、朽木へ続く道を歩いている。三百人もまた竹若丸の命で集まり、それを迎える準備をしているだろう。兵糧を食い、武具を確かめ、隣の者と何かを話しながら歩く者もいるはずだ。帰れば妻や子がいる者も、親や兄弟が待っている者もいる。その全部を、俺は「一度当たらせる」という一言にまとめていた。

 

「父上のところへ行く」

 

「はい」

 

 父上の部屋には、すでに同じ報せが届いていた。俺が入ると父上は人払いを命じ、最後の一人が下がると襖が閉まった。部屋には父上と俺だけが残る。

 

「始まったぞ」

 

「はい」

 

「まだ止められる。使者を飛ばし、兵を退けと命じれば、越中も無視は出来まい。間に合うかどうかは分からぬがな」

 

 父上は俺をまっすぐ見ていた。最初に戦わせるべきだと進言した時には、まだ戦は頭の中にしかなかった。六千貫の要求が出た時にも、兵そのものは城や村にいた。だが今は違う。千二百人が実際に朽木へ向けて歩いている。俺が「一度当たらせた方がよい」と言った、その一度へ向かっている。それでも父上は、最後にもう一度だけ戻る道を示している。

 

「止めるか」

 

 同じ問いをされるのは三度目だった。だが、重さはこれまでとは違う。止めれば、何人かは死なずに済むかもしれない。公方様の御意にも沿える。竹若丸も危険に晒さずに済む。それでも高島六家の不満は残る。朽木が今の政を続ける限り、また同じ問題は起きる。俺はそう考えてここまで来た。ここで千二百人が歩いていると聞いて怖くなったから止めるのか。それとも、怖いと分かった上で、それでも自分が出した答えを最後まで見るのか。正しい方がどちらなのかは、今も分からなかった。

 

「……いいえ。止めませぬ」

 

 父上は俺から目を逸らさなかった。

 

「理由は」

 

「ここで止めれば、某がこれまで申したことを、自分で否定することになりまする」

 

「意地か」

 

 一瞬、息が詰まった。否定しようと思えば出来た。だが、それをすれば父上だけでなく自分にも嘘を吐くことになる。

 

「……それもあるかもしれませぬ。ですが、それだけではございませぬ。高島六家の不満は、兵を戻せば消えるものではないと思っております。今止めれば、また元へ戻りまする。それならば、此度は最後まで見ます」

 

 父上はしばらく黙ったまま俺を見ていたが、やがて小さく頷いた。

 

「ならば見ておけ。勝ったか負けたかだけを見るな」

 

「承知しておりまする」

 

 それ以上、父上は何も言わなかった。勝敗だけを見るな。その言葉は、これまで何度も教えられてきたことと同じだった。結果だけを見て成功や失敗を決めるな。その間に何が起こり、誰が何を失い、何が次へ残ったのかまで見ろ。市でも道でも同じだった。そして今度は、人が死ぬ戦でそれをやらなければならない。

 

 *

 

 部屋へ戻った時には、空が少し傾き始めていた。篠が戻ってくるのを待つ。いや、待っているのは篠だけではない。三雲の手の者も、弥七も、使える限りの目が高島と朽木を見ている。俺自身が戦場へ行くわけではない以上、出来ることは報告を待つことしかない。以前なら、それをもどかしいと感じたかもしれない。だが今は、それよりも怖さの方が大きかった。竹若丸なら勝つ。そこは、おそらく間違っていない。そう何度も自分に言い聞かせていること自体、俺が前世の記憶へ寄り掛かっている証拠なのかもしれない。

 

 やがて篠が姿を見せた。

 

「若様」

 

「どうじゃ」

 

「高島勢は朽木へ向かっております。数はやはり千二百ほど。六家の旗が確認されております」

 

「朽木は」

 

「迎え撃つ構えにございます。兵は三百ほどと」

 

「鉄砲は?」

 

「持っております。ただ、数までは確かには」

 

「そうか」

 

 俺は地図へ目を落とした。清水山城と朽木、その間を繋ぐ道。紙の上なら指一本で辿れる距離だった。だが今は、その線の上に千二百人がいる。反対側には三百人がいる。昨日までなら、その二つを数字として比べることが出来た。今はもう、同じようには見えなかった。

 

「若様。このまま見ておきまするか」

 

「ああ」

 

「どこまで」

 

 あの夜にも聞かれた問いだった。今度は迷わなかった。

 

「終わるまでじゃ。勝敗だけではない。高島勢がどう動いたか。朽木がどう迎えたか。誰が先に崩れたか。追ったか、追わなかったか。その後、六家がどう動くか。分かるものは全部持ってこい。それから、無理はするな。見届けるために、お主たちまで死ぬ必要はない」

 

 篠が一瞬こちらを見て、それから小さく頭を下げた。

 

「心得ております」

 

 篠が下がり、襖が閉じる。机の上には高島の地図と、これまで積み重ねてきた報告が残された。千二百と三百。帳面の上なら、ただ二つの数字だった。だが今、その千二百人は朽木へ続く道を歩き、三百人もまた竹若丸の下で彼らを迎えるために動いている。俺が評定で口にした「一度、当たらせる」という言葉が、ようやく本当の意味を持った気がした。一度と言葉にすればそれだけだが、その一度で何人が傷付き、何人が死ぬのか、俺はまだ知らない。

 

 竹若丸なら勝つ。そう思っている。だが今は、それだけでは足りなかった。勝った後に何が残るのか。負けた側に何が残るのか。公方様の言葉はどう使われ、六角の名はどう見られるのか。そして、自分が選んだものがどこまで広がるのか。父上に言われた通り、最後まで見るしかない。俺の手を離れた戦は、もう歩き始めていた。

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