千代丸が小姓として俺の側に付くようになってから、日々の過ごし方が少し変わった。父上が言った通り、まだ幼い千代丸に身の回りの全てを任せるわけではなく、着替えや食事にはこれまで通り乳母や女房たちが付いている。千代丸は学問や武芸を共にしながら、いずれ近習として仕えるための作法や務めを覚えることになっていた。俺が書を読んでいれば少し離れた場所に控え、屋敷の中を歩く時には後ろから付いてくる。初めの数日など、こちらが立ち上がっただけで慌てて腰を上げ、何か用向きがあるのかと尋ねてくる有様だった。
小姓なのだから当然の振る舞いなのだろうが、前世では人を従えて歩くような立場ではなかった俺にはどうにも落ち着かない。しかも相手はまだ幼い子供である。教師だった頃の感覚が残っているせいか、必要以上に畏まられるとかえってこちらが気を遣ってしまう。千代丸に悪気がないことは分かっているものの、これから毎日顔を合わせるのだから、もう少し肩の力を抜いてもらいたかった。
「千代丸」
「はい!」
「……そう固くなるな」
「は、はい」
「別に怒っておらぬ。もう少し普通にしていればよい」
「申し訳ございませぬ」
「そこで謝るから固いと言っておるのだ」
千代丸は困ったように口を結んだ。本人なりに一生懸命なのだろう。父親の加賀守から、六角家の嫡男に仕える以上は粗相のないようにと厳しく言い含められてきたのかもしれない。そう考えると、あまり強く言う気にもなれなかった。
「まあよい。そのうち慣れるだろう」
「……はい」
今度の返事は幾分か小さかった。
主従の関係にある以上、前世の学校で生徒に接していた時と同じようにはいかない。それでも四六時中緊張していては千代丸も疲れるだろうし、俺も気が休まらない。こちらからあれこれ言っても余計に畏まらせるだけなので、しばらくは好きにさせておくことにした。
それから幾日か過ぎると、千代丸も少しずつ俺に慣れてきた。初めは尋ねたことに答えるだけだったが、学問の合間には自分から話し掛けてくることも増えた。書を読むのはあまり得意ではないらしいが、武芸の稽古には随分と熱心である。弓を手にすると普段の遠慮がちな様子も薄れ、教えられたことを何度も繰り返していた。
ある日、弓の稽古を終えて休んでいる時に、ふと思い付いて尋ねてみた。
「千代丸には兄弟がいるのか?」
「はい。妹がおります」
「妹か。名は?」
「小夜と申します」
小夜。
その名前を聞いた瞬間、前世で読んだ『淡海乃海』の記憶が浮かんだ。
平井小夜。後に朽木基綱の妻となる女だ。千代丸が後の平井弥太郎高明であるなら、その妹が小夜というのも記憶と一致する。以前から気になっていた朽木という名前が、思いがけないところで再び頭に浮かんできた。
朽木基綱は『淡海乃海』の主人公である。俺と同じように前世の記憶を持って戦国の世に生まれ、朽木家を率いて勢力を広げていく男だった。最後に読んだ時には、その勢力はすでに天下の大半へ及んでいたはずだ。
もっとも、千代丸の妹が小夜というだけで、この世界があの物語と同じだと決まったわけではない。俺はまだ基綱の名を聞いたことさえなかったし、前世で読んだ内容をどこまで正確に覚えているのかも怪しかった。
「若様?」
千代丸の声で考えを中断した。
「いや、何でもない。小夜はいくつになる?」
「まだ幼うございます。ですが口だけは達者でございます」
「お主よりもか?」
「某は口達者ではございませぬ!」
普段は何を言うにも遠慮がちな千代丸が、珍しく間を置かずに言い返してきた。その勢いがおかしくて笑うと、本人は納得がいかないらしく不満そうな顔をしている。
「悪かった。それで仲は良いのか?」
「仲は……悪くはございませぬ。ただ、某の物を勝手に持っていくことがございます」
「それは仲が良いということではないか?」
「左様でございますか?」
「多分な。本当のところは分からんが」
千代丸は釈然としない様子だったが、俺はそれ以上からかわなかった。妹の話になると普段よりもよく喋るあたり、何だかんだ言いながらも大切に思っているのだろう。
前世の俺には兄弟がいなかった。両親の顔も知らず、物心が付いた頃には施設で暮らしていたため、兄妹がどのように付き合うものなのかはよく分からない。生徒たちから兄弟喧嘩の話を聞くことはあったが、自分が同じ経験をしたわけではなかった。
千代丸にとっての小夜は、俺が知っている物語の登場人物ではない。自分の物を勝手に持ち出しては兄を困らせる、少々生意気な妹なのだ。その話を聞いているうちに、一度会ってみたいと思うようになった。どんな子供なのか興味もあったし、千代丸が妹を前にするとどのような顔をするのか、少し見てみたかった。
それから幾日か経った頃、いつもなら俺より先に来ている千代丸が珍しく姿を見せなかった。何かあったのかと思っていると、しばらくして廊下の向こうから小走りにやって来た。俺を見つけるなり足を止め、息を整えてから深く頭を下げる。
「若様、遅くなりまして申し訳ございませぬ」
「構わぬ。それより何かあったのか?」
「父に呼ばれておりました」
「加賀守に?」
「はい。浅井の御方様と猿夜叉丸殿のことで人手が要るゆえ、少し手伝うようにと」
「……猿夜叉丸?」
聞き流しかけた名前に思わず千代丸の顔を見た。
「はい。浅井左兵衛尉様の御子にございます」
浅井。猿夜叉丸。
その二つが結び付く人物を俺は知っている。猿夜叉丸とは、後の浅井長政の幼名だ。
「その猿夜叉丸という者は、ここにいるのか?」
「ここ、と申しますと?」
「観音寺に、ということだ」
「はい。御母君と共に御屋形様がお預かりになっております。父も御世話を仰せ付かっておりますので」
浅井長政が観音寺城にいるとは思わなかった。しかも母親と共にというのだから、単なる訪問ではあるまい。
「御客人なのか?」
詳しい事情を知らない子供らしく尋ねると、千代丸は返答に迷ったようだった。
「客人とは……少し違うかと存じます」
「違う?」
「父は、浅井が御屋形様に従う証としてお預かりしているのだと申しておりました」
なるほど。人質か。
浅井久政の妻とその子である猿夜叉丸が、六角への服属の証として観音寺城に置かれているらしい。千代丸が父親の手伝いを命じられる程度には、平井家もその世話に関わっているようだった。
「千代丸は猿夜叉丸と話したことがあるのか?」
「何度かございます。父に付いて参った時などに」
「どんな者だ?」
「どんな、と申されましても……」
千代丸は首を傾げ、少し考えてから答えた。
「某より幼うございますし、まだ何とも。ただ、お元気な方だと思います」
「そうか」
俺はそれ以上尋ねなかった。今すぐ会わせてほしいと言い出すのも不自然だし、仮に会えたとしても相手はまだ幼い子供だ。俺が知っている浅井長政の姿になるのは、ずっと先のことである。
それにしても、久政が妻子を人質として差し出しているとは。
前世で浅井といえば、真っ先に長政の名前が浮かんだ。織田信長の妹であるお市を妻に迎え、後に信長と敵対した戦国武将だ。六角義治よりも遥かに馴染みのある名前だったが、今はその長政が父上のもとで暮らしている。
俺は少しばかり、後世の印象に引きずられていたらしい。
北近江の浅井家が後に勢力を伸ばすことは知っている。しかし、今は父上が久政を従わせ、その妻子を観音寺城に置いているのだ。屋敷へ出入りする家臣たちの話からも、六角が浅井に対して強い立場にあることは窺えた。
ならば、この関係がいつ、何をきっかけに変わるのか。
父上が評定で北近江のことを話していたのを思い出したが、あの時は詳しい内容まで聞き取れなかった。浅井についても知りたいことが増えてきたものの、今の俺が久政やその家臣たちと直接話せるわけではない。次に北近江の話が出た時には、もう少し注意して聞いてみようと思った。
そんなことを考えながら千代丸と廊下を歩いていると、向こうから一人の男がやって来た。俺の姿を認めると足を止めて礼を取る。
「若様」
顔には見覚えがあった。以前、評定を覗いていた時にも見た男だ。しかし、どうしても名前が出てこない。俺が返礼をしながら記憶を探っていると、隣にいた千代丸が小声で教えてくれた。
「後藤殿にございます」
後藤。
その名前を聞いた途端、男の顔と前世の知識が結び付いた。
後藤賢豊。
六角家の重臣であり、後に六角義治によって殺される男だ。
男は俺たちへ礼を済ませると、父上のいる方へ歩いていった。その後ろ姿を見送っているうちに、観音寺騒動のことが思い浮かんだ。
後藤とその子が殺害されたことをきっかけに、六角家臣団が反発した事件である。俺が六角義治として生まれたと知った時から、何としても避けたいと考えていた出来事の一つだった。
それなのに、当の後藤と顔を合わせたのは今日が初めてだった。
先ほどの男は、ごく普通に俺へ礼を取って通り過ぎていった。少なくとも今のところ、父上との間に問題を抱えているようには見えなかったし、俺が何かを警戒する理由もなかった。
それだけに、史実の義治が何故この男を殺したのか、改めて気になった。
権力争いがあったのか。後藤氏の力が強くなり過ぎたのか。それとも個人的な対立だったのだろうか。事件が起きたことは覚えているが、そこに至るまでの事情となると心許ない。俺が読んだ書物では詳しく触れられていなかったのか、それとも単に忘れてしまったのか。
いずれにせよ、今の後藤を見ただけでは分からなかった。
「若様?」
千代丸の声で我に返った。
「どうかなされましたか?」
「……いや、何でもない」
千代丸は不思議そうにしていたが、それ以上尋ねてはこなかった。
後藤の姿はすでに廊下の向こうへ消えていた。後藤家が六角家中でどのような立場にあるのかも、俺はまだ十分に知らない。父上やほかの重臣たちとの関係についても、評定で顔を合わせているところを見た程度である。
そう考えると、先ほどの男に対して俺が持っている印象のほとんどは、前世で知った事件によるものだった。今の後藤がどのような人物なのかは、まだ何一つ確かめていない。
「千代丸。後藤殿は、よく父上のところへ来られるのか?」
「はい。評定にもお出になられますし、御屋形様からお呼びになることもございます」
「そうか。ほかの方々とも親しいのか?」
「そこまでは……。申し訳ございませぬ」
「いや、よい。少し気になっただけだ」
千代丸はまだ若く、父親に連れられて評定へ出席することもない。六角家中の事情に詳しくないのは俺と同じだった。
それでも、今朝は随分と多くのことを知った気がする。
千代丸には小夜という妹がおり、観音寺城には久政の妻子が暮らしている。そして、前世では観音寺騒動の犠牲者として覚えていた後藤が、今は父上に仕える重臣として城内を歩いている。
知っている名前が増えるにつれ、知らないことも増えていくのは何とも奇妙だった。
俺が黙って歩いていると、千代丸が少し前で足を止めた。
「若様、こちらでございます」
「ああ、そうだったな」
考え事をしているうちに、いつもの部屋へ戻る道を通り過ぎるところだったらしい。千代丸が案内する方へ向きを変えると、向こうから学問を教えてくれる者が歩いてくるのが見えた。
俺は慌てて衣の裾を整え、千代丸と共に迎える支度をした。今日もまた、覚えなければならないことが山ほどありそうだった。
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