高島六家が清水山城を発ったという報せを受けてから、時間の進み方が妙に遅く感じられた。いつもなら帳面へ向かえば、それなりに集中できる。数字を追い、前の記録と比べ、気付いたことを書き足していけば、半刻などすぐに過ぎる。だが、その日は違った。筆を持っても同じ行を何度も読み返し、廊下から足音が聞こえるたびに顔を上げる。観音寺城にいる俺には、朽木で何が起きているのかを見ることはできない。清水山城から朽木までは、地図の上なら指でなぞれる程度の距離しかないというのに、その間で千を超える人間が動いている今、俺にできることは報せを待つことだけだった。
竹若丸なら勝つ。そう思っているし、前世の記憶にもそう残っている。高島六家は数では勝っていても一つではない。互いを疑い、先に傷を負うことを嫌がり、誰かが前へ出るのを待っている。対する朽木は三百ほどしかいないが、竹若丸の下で一つに動ける。朽木谷へ入る道も、大軍の利を活かしやすい場所ではない。材料を並べれば、朽木が勝つ理由は幾つも出てくる。それでも俺が考えていたのは、あくまで勝敗が決まるところまでだった。
高島六家は千二百、朽木は三百。四倍の差がある以上、朽木も相応の傷を負う。百人、二百人と失うほどではなくとも、双方が血を流した後に勝敗が決まり、そこへ六角が入って戦を止める。そんな形を、俺はどこかで当然のように想定していた。
最初の報せが届いたのは、日が傾き始めてしばらくしてからだった。篠でも弥七でもなく、三雲対馬守の手の者が途中で受け取った情報を急いで観音寺城まで運んできた。父上のところへ呼ばれて入ると、すでに六人衆のうち幾人かが集まっている。全員が揃うまで待つような内容ではなかったらしい。父上の前で男が息を整え、頭を下げた。
「高島勢と朽木勢、すでに戦端を開いたとのことにございます」
「勝敗は」
「朽木の勝ちにございます」
胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。予想通りだ。竹若丸は勝った。そのこと自体には驚かなかった。父上も表情を大きく変えず、続けて高島側の損害を確かめたが、男はまだ詳しい数を掴んでいないという。ただし、高島と田中の二家が先に崩れ、それを見た後方の四家もほとんど戦わずに退いたらしい。
高島と田中が先陣になったことは理解できる。六家をまとめる立場にある高島が前へ出なければ、残りも動きにくい。田中も高島だけに功を立てられることを嫌い、並んで進んだのかもしれない。だが、その二家が崩れただけで残る四家まで退いたというなら、戦そのものは俺が想像していたより短かったことになる。千二百という兵数の差を考えれば、前の二家が押し返されても後ろから兵を入れる余地はあったはずだ。それすらできずに退いたのなら、六家の足並みの乱れは思っていた以上に深刻だったのだろう。
後藤但馬守賢豊が朽木側の損害を尋ねると、報告の男は再び言葉を詰まらせた。今度は情報がないのではなく、届いている内容をどう伝えればよいのか迷っている様子だった。
「今のところ、朽木方に討死した者は確認されておらぬとのことにございます」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。俺も思わず聞き返したが、男の答えは変わらない。少なくとも最初の戦では、朽木側に討死が確認されていないという。
三百が千二百を相手にした。四倍の敵だ。地形が味方し、高島六家がまとまっていないとしても、双方が槍を合わせれば怪我人も死人も出る。それが戦だと思っていた。だが届いた報告は、朽木側がほとんど傷を負わないうちに高島勢が崩れたと言っている。どのように戦ったのかを確かめても、そこまでの情報はまだ届いていなかった。
「右衛門督。勝つとは申しておったな」
父上の視線がこちらへ向いた。
「……はい」
「この勝ち方も読んでおったか」
「いいえ。ここまで一方的になるとは考えておりませなんだ」
迷わず答えた。ここで知っていたふりをする意味はない。俺が覚えていたのは、竹若丸が初陣で高島六家を破るという結果だけで、その中身は曖昧だった。今聞いているのが、その抜け落ちていた部分なのだろう。父上には詳しい報せを待ってから考えたいと伝え、その場ではそれ以上の判断を控えた。
朽木方に討死なし。その一言だけが、部屋を辞した後も頭から離れなかった。竹若丸が勝つことは知っていた。だが、俺の考えていた勝利と、現実に起きた勝利は同じではないらしい。
*
詳しい報告が届いたのは、その翌朝だった。夜のうちにも断片的な報せはいくつか来ていたが、誰かが見た一部だけで全体を決めるのは避けたかった。篠、弥七、三雲の手の者。それぞれが異なる場所から拾った話を持ち帰り、確認できたものと人づてに聞いたものを分けて重ねることで、ようやく戦の形が見えてきた。
評定の場では、三雲対馬守定持が集まった情報を整理して報告した。高島勢はおよそ千二百。先陣を巡って少々揉めたものの、最終的には高島と田中が前へ出て、残る永田、高島の平井、横山、山崎の四家は後方に控えていたという。蒲生下野守定秀が先陣を嫌がったのかと確認すると、対馬守はそのように見えると答えた。公方様の御意に背いて朽木を攻めれば、敗れた後に自分たちの城まで攻められる。その噂が家中へ広がり、誰も最初に傷を負いたくなかったらしい。
以前、篠が持ち帰った噂だった。誰が流したかまでは掴めなかったが、高島六家の家臣にまで広がり、実際の動きに影響を与えたことはほぼ間違いない。俺たちは公方様の言葉が六角へ向けられることを恐れていた。その同じ言葉が、今度は高島六家の足並みを乱すものとして働いていた。
朽木の兵数は以前の報告と変わらず三百ほどだった。だが、その内訳を尋ねたところで、俺は今回の戦がどのようなものだったのかをようやく理解し始めた。
「三百のうち、およそ二百が鉄砲を持っていたようにございます」
「……二百でございますか」
思わず聞き返してしまった。朽木が鉄砲を持っていること自体は知っていた。領内で集め、兵に使わせているという話も聞いている。だが、二百丁もの鉄砲を一度の戦で集中して使えるとは思っていなかった。近江で鉄砲そのものが珍しいとは言わない。それでも僅か三百の兵のうち二百人へ持たせ、それを一つの場所へまとめているとなれば話は別だった。
残りは弓が五十、槍も五十ほどと見られている。但馬守が随分と偏った軍だと漏らしたが、俺にはむしろ、その偏りにこそ意味があるように思えた。
鉄砲二百、弓五十、槍五十。騎馬を主力にするわけでもなく、敵と槍を押し合うことを前提にもしていない。高島勢と同じように正面からぶつかる軍ではない。最初から、敵を近付けずに崩すための形だ。道が狭く、一度に多くの兵を前へ出せない朽木谷なら、四倍の兵力差もそのまま戦場へ持ち込まれるわけではない。高島勢の先頭が詰まったところへ、二百丁の鉄砲を集中して向ける。そう考えるだけでも、高島と田中が受けたものの大きさが想像できた。
父上に促され、対馬守は戦の経過を説明し始めた。
高島、田中勢が前へ出て朽木へ押し寄せたところ、まず矢を射掛けられた。それでも進んだようだが、距離が詰まったところで鉄砲を一斉に撃たれたという。しかも一度だけではない。間を置かずに二度の射撃を受け、先頭が大きく崩れたらしい。対馬守の説明によれば、鉄砲を幾つかの隊に分け、一度に全てを撃たず順に使っていた可能性が高いという。
俺は無意識に膝の上の手へ力を入れた。二百丁をただ一度に撃ったのではない。分けて使った。一隊が撃った後に次の隊が撃てば、敵が最初の射撃から立ち直る前に再び弾を浴びせられる。先に撃った者たちは、その間に次の装填へ取り掛かれるだろう。実際にどのような隊形で、どれほどの間隔を置いて撃ったのかまでは分からない。現場を見た者の話もまだ完全には揃っていない。それでも、鉄砲を持たせただけではないことは明らかだった。幾つかの隊として使うことを前提に、兵を訓練していたと考える方が自然だった。
最初の射撃で高島、田中勢に多数の死傷者が出た。田中勢では当主の子が倒れ、その混乱の中で次の射撃を受け、田中久兵衛重政も討たれたと見られている。そのため田中勢が先に崩れ、高島勢も前へ出られなくなった。さらに鉄砲を受けたことで高島側も潰走したという。高島越中については、一時討死したと見られていたものの、馬が撃たれてその下敷きになった姿を家臣が見誤ったという話もあり、生死はまだ確かめられていなかった。
残る四家は、高島と田中が崩れるとまともに戦うことなく退いたらしい。朽木側から追撃も行われたが、少なくとも最初の戦そのものは長く続いていない。千二百人が一度に崩れたのではなく、先に出た二家が崩れ、それを見た後ろの四家が逃げた。以前の俺が考えた通り、六家は六家だった。前の二家が壊れた瞬間、後ろの四家にとって戦う理由はさらに薄くなったのだろう。自分たちが前へ出れば、今度は自分たちが鉄砲を受ける。しかも高島と田中がどうなったかも分からない。そこまでして朽木へ踏み込む覚悟など、最初から持っていなかったのかもしれない。
目賀田次郎左衛門尉忠朝が朽木側の損害を改めて確認したが、対馬守の答えは前日と変わらなかった。現時点で討死は確認されておらず、少なくとも高島側のように大きく崩れた様子はないという。
俺は正面を見たまま、頭の中で戦の経過を並べ直した。勝つとは思っていた。だが、これは違う。俺が想定したのは、朽木も傷を負った上での勝利だった。そうなれば六角が双方の間へ入り、高島六家には敗北を認めさせ、朽木には勝者として譲歩を求める。双方に傷があれば、これ以上続けるなと言う理由もできる。だが実際には、朽木はほとんど傷を負っていない。高島と田中だけが大きく崩れ、残る四家は逃げた。それでは力関係が明らかになったどころではない。片方が、もう片方へ同じ立場で話し合えと求められる状態ではなくなっている。
「右衛門督。どう見る」
父上の声に顔を上げた。
「……想定より、朽木が強うございます」
「それだけか」
短い問いだったが、俺が何を考えているのか確かめようとしていることは分かった。
「いいえ。某は朽木が勝てば六角が間へ入り、双方を止められると考えておりました。されど、これでは朽木に止まる理由が少のうございます」
自分で口にして、その意味がはっきりした。こちらは勝敗が見えれば止めに入るつもりだった。だがそれは、朽木も戦で何かを失い、これ以上戦うより六角の仲裁を受けた方が得だと思うことを、どこかで前提にしていた。ところが竹若丸は三百で千二百を崩し、自軍にほとんど損害を出していない。高島勢は逃げ、目前には清水山城と田中の領地がある。竹若丸から見れば、ここで兵を止める方に理由が必要になる。
父上の目が細くなった。
「ようやく気付いたか。勝敗が見えれば止めるとそなたは申した。だが、勝った者が止まるとは申しておらなんだな」
「……はい」
返す言葉がなかった。俺は戦を始める条件と、六角が止めに入る時期を考えた。だが、止められる側がこちらの都合通りに止まるかまでは、十分に考えていなかった。高島六家が暴走する可能性ばかり気にしていたが、勝った朽木が勝利をどこまで利用するかも同じくらい重要だったのだ。
「父上は、竹若丸殿がどう動くとお考えにございますか」
「それを今から見るのであろう」
父上はそれだけ答えた。最後まで見よ。以前から何度も言われてきたことだったが、今度は勝敗を知った後でさえ、まだ見なければならないものが残っているらしい。父上は答えを教えようとはしなかった。
*
その日の午後、弥七が戻ってきた。戦場そのものへ近付き過ぎないよう命じていたため、最初の報せより遅れて道沿いの動きを拾ってきたらしい。部屋へ入るなり頭を下げ、俺が座るよう促すと、膝を折って報告を始めた。
「若様、高島勢の敗走はかなり酷うございます。軍として退いたのではございませぬ。旗や武具を捨てる者もおり、道を外れて山へ入った者もいるようにございます」
敗走という言葉から想像していたものより、ずっと乱れているらしい。後方の四家がまともに戦わず退いたと聞いていたから、ある程度は隊列を保って戻った者もいると思っていたが、少なくとも弥七が確かめた範囲では、そのような整った退却ばかりではなかった。
朽木側の追撃について尋ねると、逃げる高島勢を追ってはいるものの、全軍が無闇に進んだわけではないという。追う者と残る者を分け、勝った後も兵をまとめて動かしているように見えたらしい。
敗走した敵を見れば、勢いのまま全軍で追いたくなるものだと思っていた。相手が逃げているならなおさらだ。だが竹若丸は追撃する兵まで分けたという。戦場で鉄砲を使って敵を崩すことだけでなく、崩した後に誰を追わせ、誰を残すかまで考えていたのだろう。少なくとも勝ったことで指揮が乱れ、兵が勝手に敵を追い始めたという様子ではない。
「道沿いの村はどうだ。朽木の兵が入り込んではおらぬか」
「今のところ、大きく荒らされたところは見ておりませぬ。勝手に物を取ったという話も、私が拾った範囲ではございませぬ」
その答えを聞いて、胸の奥にあった重さが別の形へ変わった気がした。俺は戦わせることを決めた時、村への放火や無用な略奪を避けるよう高島へ条件を付けるべきだと主張した。それは戦が広がらないための最低限の枠だった。だが実際にそれを守るべきなのは、高島だけではない。勝った朽木が追撃の勢いで高島領へ入り、村を荒らせば同じことになる。
今のところ、その様子はない。弥七の見ていない場所で何があったのかまでは分からないものの、少なくとも竹若丸の兵は、勝利の勢いに任せて周囲へ手を伸ばしているわけではなさそうだった。
続けて敗走した高島の兵たちが何を話しているのか尋ねると、公方様のことを口にする者が多いという。朽木へ手を出せば幕府まで敵になるという噂を、敗北したことで本気にしたのだろう。朽木だけではなく幕府も来る、六角にも見捨てられる。そのような言葉が逃げる兵の間に広がっているらしい。
戦う前に流れていた噂が、負けたことで事実のように変わり始めた。噂は噂のままではない。現実の出来事と結び付けば、それを信じる理由になる。六角が高島を止めなかったという事実も、今度は逆向きに解釈されるかもしれない。六角は戦わせるだけ戦わせ、負ければ切り捨てるつもりだったのではないか。そう思う者が出てきても不思議ではなかった。
弥七には引き続き道と人の動きを見てもらい、確認できた話と噂を分けて持ち帰るよう命じた。報告を終えた彼が下がると、俺はもう一度高島の地図へ目を向けた。
竹若丸がどこまで考えていたのかは分からない。公方様の噂を流したのが本当に朽木なのか、それさえ確定していない。だが、もし意図していたのなら、戦場で勝つ前から戦の後を考えていたことになる。高島六家が敗れれば公方様の言葉を恐れ、その恐れがさらに敗走を大きくする。六角がどう動くか分からないという不安まで加われば、逃げた兵が再び集まることも難しくなるだろう。
俺は勝敗が決まった後に六角が動くつもりだった。竹若丸は、勝つ前から敗れた後の高島を動かしていたのかもしれない。
その違いは小さくなかった。
*
翌日、さらに報せが届いた。
「朽木勢が清水山へ向かっておりまする」
篠の言葉に顔を上げた。竹若丸自身も兵と共に進んでいると聞き、続けて田中の方にも兵を向けていることを確かめる。
やはり止まらなかった。
勝敗が見えれば六角が入る。そのつもりだった。だが、六角から正式な使者を送るより先に竹若丸は次へ動いた。高島と田中は先陣を務め、最も大きく崩れた二家だ。その二家の本拠へ兵を向ける。戦場で勝っただけでは終わらせず、戦を始めた側がもう一度兵を集められないよう、その根まで押さえるつもりなのだろう。
清水山城の詳しい様子はまだ分かっていないものの、高島勢が敗れたという報せはすでに届き、城内はかなり動揺しているらしい。田中の方も主力が崩れ、当主とその子が討たれたという話まで伝わっている。どちらの城も、普段通りの指揮を保てているとは思えなかった。
ここで止めろと言っても、間に合うのか。そう考えて、すぐには答えが出なかった。
竹若丸からすれば、攻められた側だ。公方様から朽木へ手を出すなという言葉があったにもかかわらず、高島六家はそれを無視して兵を出した。その上、戦場で敗れた。朽木がそのまま高島と田中の城へ向かうことを、六角がどの理屈で止める。六角が裏で兵を動かしたことを伏せたまま、そこまでにせよと命じれば、今度はこちらが高島を庇っているようにしか見えない。
父上にも報せが届いているか篠へ確認すると、対馬守からすでに伝わっているはずだという。俺は席を立ちかけたが、そのまま腰を下ろした。父上ならもう知っている。そして俺が来るのを待つような人でもない。必要なら呼ばれるだろう。今は自分で考えろということなのかもしれなかった。
それから半日もしないうちに、次の報せが来た。
清水山城は朽木の手に落ちた。田中城も同じだった。
最初に落城と聞いた時には、激しい攻城戦を想像した。高島と田中の主力が戦場で崩れたとはいえ、城には城を守る者がいる。多少なりとも籠城し、朽木側も攻めあぐねる時間が生まれるかもしれない。だが、実際にはまともな抵抗はほとんどなかったらしい。
戦場で主力を失い、さらに公方様の御意に背いたという噂が広がっていたことも、城内の動揺を大きくしていたという。城を守る者にしてみれば、戦えば朽木に討たれるだけでなく、その後に幕府や六角まで敵になるかもしれない。高島越中の生死も分からず、田中家では当主とその子まで討たれたと伝わっている。その状況で最後まで城を守り抜こうと考える者が、どれほどいただろう。
竹若丸は戦場で千二百を破っただけではない。その敗北を利用して、城まで戦う前から崩していた。
高島家と田中家という二つの家が、この一戦だけで立場を大きく失おうとしている。俺が想定していたのは、高島六家へ朽木の方が強いと分からせることだった。それで一度力関係が明らかになれば、父上が間に入って条件を整えられると思っていた。
だが現実には、高島と田中は単に敗れたのではない。戦場で主力を崩され、そのまま本拠まで押さえられ、家そのものが立ち直れないところまで追い込まれようとしている。俺が一度当たらせると言った時に想像していた範囲を、竹若丸はすでに越えていた。
*
評定が開かれた時、場の空気は戦が始まる前とは明らかに違っていた。高島六家をどう動かすか話していた頃には、六角が全体を見渡し、成り行きを左右できるつもりでいた。高島を動かし、朽木とぶつけ、頃合いを見て止める。その前提で意見を交わしていた。だが今、話題になっているのは朽木をどう止めるかではなく、朽木がどこまで進むかだった。
下野守は、高島と田中の二家がこのまま家として立ち行かなくなる可能性に触れた。進藤山城守賢盛は、当主や嫡子が残っているならまだ分からないと返したものの、対馬守からは厳しい情報が続いた。高島越中の生死は依然として確かではなく、田中久兵衛重政については討死したとの話が強い。その子についても同様で、少なくともこれまでと同じ形で家を保つことは難しくなりつつある。
俺は黙って話を聞いていた。高島と田中の二家が消えれば、高島七頭は五頭になる。だが、それは名前だけの話ではない。二家が持っていた土地、人、城、道、税、商人。その全てを誰が持つのかという問題になる。たとえ当主の生死が後から確かめられたとしても、戦場で主力を失い、本拠を奪われたという事実は変わらない。以前のような勢力を保てるかどうかは、また別の話だった。
「朽木が取ったものを返すと思うか」
父上が俺へ問い掛けた。
「……思いませぬ」
理由を求められ、俺は竹若丸の立場から考えられることを述べた。高島と田中から攻められたのは朽木であり、しかも高島側は公方様の御意に背いている。竹若丸からすれば、再び攻められぬために城と土地を押さえたと説明できる。戦場で勝った以上、その後に敵の本拠を押さえることも、朽木の側から見れば不自然な行動ではなかった。
父上は今度、六角に属する高島の土地を朽木が奪ったと主張すればどうなるかを尋ねてきた。
言える。高島六家は六角に属する。その所領を朽木が取ったのだから、返せと命じる理由は作れる。六角の力を示すだけなら、それなりに筋の通った話にもなるだろう。だが、その次に何を言われるかも分かる。
「ならば何故、高島六家が公方様の御意に背いて朽木を攻めるのを止めなかったのか、と問われまする」
「そうじゃな」
父上が僅かに口元を緩めた。
「こちらが高島を動かしたことを知らずとも、その疑問は出る。知っておれば、なおさらじゃ」
誰も否定しなかった。
勝敗が決まった後に六角が仲裁する。俺はその形を考えていた。だが仲裁するためには、双方から間へ入る資格があると思われなければならない。高島六家は、六角が自分たちを認めたと思って戦った。朽木は、六角が裏にいる可能性を疑っているかもしれない。その状態で六角が中立の仲裁者として現れても、本当に中立だと受け取られるとは限らない。
しかも、こちらには公方様の御意という問題まである。六角が高島を止めなかった理由を、朽木へ納得させられるとは思えなかった。高島と田中の城を返せと求めれば、竹若丸は六角が高島側の損害ばかり気にしていると受け取るだろう。だからといって何も言わなければ、高島六家に対する六角の立場まで揺らぎかねない。
どちらへ動いても、最初に考えていたほど簡単には収まりそうになかった。
その時、対馬守が静かに声を上げた。
「御屋形様。朽木から使者が参っております」
場の視線が集まった。父上に促され、対馬守が使者の申し出を説明する。
此度の争いをこれ以上広げるつもりはない。残る永田、平井、横山、山崎の四家とは和睦したい。その仲裁を公方様と六角へ願いたい。竹若丸からは、そのような話が届いているという。
俺は思わず父上を見た。父上もこちらを見ていた。
仲裁を求めてきた。こちらが考えていた形になった。それなのに、胸の奥に安堵はほとんどなかった。
止まるのか。そう思い始めたところで、ようやく竹若丸が自分から和睦を求めてきた。高島と田中の城を押さえたところで兵を止め、残る四家までは攻めない。その意味だけを見れば、俺たちの想定したところに近い。
だが違う。高島と田中を取った後だ。
戦場で圧勝し、二家を事実上潰し、その土地と城を手にした上で、残りとは和睦すると言っている。
竹若丸は止められたのではない。自分で止まる場所を決めたのだ。
「受ける」
父上の声で意識を戻した。
「公方様へも話を通せ。こちらからは下野守を出す」
「はっ」
下野守が頭を下げた。
評定はそのまま、和睦へ向けて何を確認するかという話へ移った。高島、田中の扱い。残る四家への責任。公方様の御意に背いた件をどう収めるのか。六角がどこまで前へ出るのか。実際に交渉へ当たる下野守だけでなく、六角家全体として何を認め、何を求めるのかを考える必要がある。
俺も話を聞きながら考えたが、頭の一部は別のところにあった。
竹若丸は勝った。それは知っていた。だが俺が知らなかったのは、どう勝つかだけではなかった。勝った後にどこまで取り、どこで止まり、誰を仲裁の場へ引き出すか。そこまでが一つだった。
俺は勝敗が決まった後に政治が始まると思っていた。竹若丸は、戦が始まる前から、その後の政治まで見据えていたのかもしれない。
もしそうなら、俺と竹若丸の間にある差は、鉄砲二百丁だけではない。
*
評定を出た後、弥太郎と並んで廊下を歩いた。冬の冷たい空気が入り込み、庭の枝が風に揺れている。しばらく互いに何も言わなかったが、やがて弥太郎が竹若丸の勝利について話し始めた。
「若様の仰った通り、朽木が勝ちましたな」
「ああ。勝つところまではな」
「その先は違いましたか」
「かなりな」
俺が足を止めると、弥太郎も隣で立ち止まった。朽木も傷を負い、高島と朽木の双方がこれ以上戦いたくないと思ったところで父上が仲裁へ入る。そんな形を考えていたのだと説明すると、弥太郎は少し考え込んだようだった。
「だが朽木はほとんど傷付かず、高島と田中を潰した。その上で、自分から残る四家との和睦を求めてきた。こちらが止める前に、竹若丸殿が止まる場所を決めておった」
「それは、悪いことでございますか」
「いや。悪くない。だから厄介なんだ」
悪いことではない。村を焼き、残る四家まで滅ぼそうとしているわけではない。むしろ勝った勢いのまま高島全体を呑もうとしなかっただけ、抑えているとも言える。だが、その抑え方が俺の考えていたものとは違った。
勝てるから全部取る、ではない。必要なところまで取って、そこで止まっている。少なくとも今のところは、そう見える。
高島と田中を取れば朽木の領地は広がる。残る四家まで敵に回して戦を続ければ、いくら勝てても負担は増える。ならば二家を取ったところで止まり、四家と和睦する。その仲裁を幕府と六角へ頼めば、自分が公方様の御意を尊重している姿も示せる。同時に、六角を争いの外へ置いた形で表へ引き出すこともできる。
そこまで竹若丸が考えていると決まったわけではない。戦の結果を見て、これ以上進む必要はないと判断しただけかもしれない。最初から二家を取るつもりだったのか、戦場での勝ち方を見て考えを変えたのか、それさえ分からない。だが、結果として竹若丸が最も有利なところで兵を止め、幕府と六角へ仲裁を求めたことは確かだった。
考え込んでいると、弥太郎がこちらの顔を覗き込むようにして、少し嬉しそうにも見えると言ってきた。
「……私がか?」
「はい。口元が」
思わず手で触れてみたが、自分では分からない。弥太郎は僅かに笑い、以前から竹若丸は好感を持てる人物だと言っていたではないかと指摘した。
「それとこれは別だ」
「左様でございましたな」
分かっているのかいないのか、曖昧な笑みを浮かべている。何を考えているのかと問い詰めても、長く側にいる弥太郎が素直に答えるとは思えなかった。
ただ、その指摘には少し考えさせられた。
驚いたのは間違いない。竹若丸が勝つこと自体は知っていたつもりだったのに、その勝ち方も、その後の動きも俺の想定を大きく越えていた。怖さもある。自分が一度当たらせると決めた戦を、竹若丸は俺が思っていた以上の速さと深さで利用し、高島と田中という二家を一気に追い込んだ。自分の見通しが甘かったことも、嫌というほど思い知らされた。
それでも、その全部とは別に、竹若丸が前世の記憶に残っていた通り、いや、俺の曖昧な記憶から想像していた以上にやる相手だと分かったことを、どこかで面白いと思っている自分がいた。
敵として面白いという意味ではない。自分とは違う考え方で同じものを見て、俺では思い付かなかった答えを出してくる相手が、すぐ近くにいる。そのこと自体に強く惹かれているのだと思う。
竹若丸とは、まだ短い時間しか話していない。朽木で交わした言葉も、互いの考え方を知り尽くせるほど長いものではなかった。荷を見ていた俺に、荷を動かす人間は嘘を吐くと返し、人を見ることについても、好き嫌いではなく見なければ分からないものがあるからだと言っていた。あの時は、年齢に似合わず落ち着いた少年だと思った程度だったが、今となっては、あの言葉の裏にどれほどの経験や考えがあったのかも気になってくる。
あの時に感じた、もう少し話してみたいという気持ちは、この戦を経てむしろ強くなっていた。
高島六家をどう見ていたのか。公方様の言葉をどこまで利用したのか。二百丁もの鉄砲をどう集め、どのように兵へ使わせたのか。何故、高島と田中の二家を押さえたところで、残る四家との和睦を選んだのか。戦う前から決めていたのか、それとも実際に敵を崩してから判断したのか。聞いてみたいことはいくらでも浮かんでくる。
もちろん、その全てを素直に答えてくれるとは限らない。竹若丸が六角の関与を疑っているなら、次に会った時も以前と同じように話してくれる保証すらなかった。俺自身、高島六家を動かすべきだと進言したことを、竹若丸へ正直に話せるかと問われれば簡単には答えられない。相手の考えだけを知りたがり、こちらの都合の悪い部分は隠したままにする。それでどこまで互いを理解できるのかという問題もある。
それでも次に会う機会があるのなら、今度はもっと長く言葉を交わしてみたい。俺が見落としたものを、竹若丸は何を見て拾ったのか。何故、俺とは違う答えに辿り着いたのか。それを知りたいと思っている自分がいることは、もう否定できなかった。
だが、その興味に気を取られている場合ではない。
父上から最後まで見よと言われた戦は、槍を交えるところだけなら終わった。高島勢は敗れ、朽木が勝ち、竹若丸は高島と田中の本拠まで押さえた。だが、本当に見るべきものはむしろこれからなのかもしれない。
高島家と田中家が失った土地はどう扱われ、そこに暮らす者たちは誰を新たな主と認めるのか。敗れた残る四家が朽木へどのような感情を抱き、六角に対して何を思うのか。公方様は、自らの御意に背いて朽木へ兵を向けた高島六家をどう見るのか。そして何より、六角は高島を動かした側でありながら、表向きは仲裁する側として竹若丸と向き合わなければならない。
その時、父上がどのような条件を示し、竹若丸が何を求め、残る四家が何を呑むのか。朽木が手にした二家の土地について、六角はどこまで認めるのか。高島七頭の勢力関係が変わった後、周囲の国人たちはどう動くのか。今まで高島と田中の下で暮らしていた者たちが、新しい支配をすんなり受け入れるとも限らない。領主が替われば年貢の納め先も変わり、城を守る者も道を管理する者も変わる。そのようなところまで考えれば、戦が終わったからといって全てが収まるわけではなかった。
俺が昨年から調べ続けてきた市の問題とも、結局は同じなのだろう。人が増えた場所だけを見て成功と決めれば、その隣で人を失った場所を見落とす。戦で勝った側だけを見れば、負けた側がその後どうなるかを見落とす。今回はその結果が商人や荷の数ではなく、城と土地、それを治めていた家の存続にまで及んでいる。
父上から言われた「勝ったか負けたかだけを見るな」という言葉の意味も、ようやく少し分かってきた気がした。
勝敗は一つの結果でしかない。その結果によって土地が動き、人の立場が変わり、それまで結ばれていた関係まで形を変える。勝者が何を取り、何を取らず、敗者へ何を残すのかによって、その戦が数年後に別の火種になるのか、それとも新しい秩序の始まりになるのかまで変わってくる。
俺は竹若丸が勝つという結果だけを知っていたから、それを自分の判断を支える材料に使った。高島六家が朽木へ不満を抱き続けるのなら、一度戦わせて力関係を明らかにした方がよい。朽木が勝つと分かっていたからこそ、そのように考えられた部分もあっただろう。
だが、その知識だけでは足りなかった。むしろ結果を知っていたことで、その途中や先にあるものまで自分が分かっているような気になっていたのかもしれない。朽木が勝つなら六角が止めればよい。その程度の考えで、人を戦わせる判断へ踏み込んだ。勝った朽木が何を求めるのかも、どこまで兵を進めるのかも、十分に考えていなかったというのに。
竹若丸は勝った。それ自体は俺の記憶とも、集めた材料から出した予想とも一致している。だが、俺が読み違えたのは勝敗ではない。三百で千二百をほとんど傷を負わずに崩し、その勢いのまま高島と田中を押さえながら、残る四家まで呑み込もうとはせず、自ら幕府と六角へ和睦の仲裁を求める。その一連の動きまでが、竹若丸の勝利だった。
戦場で敵を破ることだけでなく、その勝利をどこまで使い、どこで止めるのかまで含めて竹若丸の戦だったのだとすれば、俺が見ていたものはその一部でしかなかった。
勝つことは知っていた。けれど、勝つという一言の中にこれほど多くのものが詰まっているとは、俺は知らなかった。
俺が読み違えたのは、その結果ではない。勝ち方だった。
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