高島六家が清水山城を発ったという報せを受けてから、時間の進み方が妙に遅く感じられた。いつもなら帳面へ向かえば、それなりに集中出来る。数字を追い、前の記録と比べ、気付いたことを書き足していけば、半刻などすぐに過ぎる。だがその日は違った。筆を持っても同じ行を何度も読み返し、廊下から足音が聞こえる度に顔を上げる。観音寺城にいる俺には、朽木で何が起きているのかを見ることは出来ない。清水山城から朽木までは、地図の上なら指でなぞれる程度の距離しかないというのに、その間で何百、何千という人間が動いている今、俺に出来ることは報せを待つことだけだった。
竹若丸なら勝つ。そう思っているし、前世の記憶にもそう残っている。高島六家は数では勝っていても一つではない。互いを疑い、先に傷を負うことを嫌がり、誰かが前に出るのを待っている。対する朽木は三百ほどしかいないが、竹若丸の下で一つに動ける。朽木谷へ入る道も大軍の利を活かしやすい場所ではない。材料を並べれば、朽木が勝つ理由は幾つも出てくる。それでも、俺が考えていたのはあくまで「勝つ」というところまでだった。高島六家は千二百。朽木は三百。四倍の差がある以上、朽木も傷を負う。百人、二百人と失うほどではなくとも、双方が血を流した後に勝敗が決まり、そこへ六角が入って戦を止める。そんな形を、俺はどこかで当然のように想定していた。
最初の報せが届いたのは、日が傾き始めてしばらくしてからだった。篠でも弥七でもない。三雲対馬守の手の者が、途中で受け取った報せを急いで観音寺城まで運んできた。父上のところへ呼ばれて入ると、すでに六人衆のうち幾人かが集まっている。全員が揃うまで待つような内容ではなかったらしい。父上の前で男が息を整え、頭を下げた。
「高島勢と朽木勢、すでに戦端を開いたとのことにございます」
「勝敗は」
父上の問いに、男が一瞬言葉を止めた。
「朽木の勝ちにございます」
胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。予想通りだ。竹若丸は勝った。そのこと自体には驚かなかった。父上も同じだったのか、表情を大きく変えることはない。
「高島はどれほど失った」
「詳しくは、まだ。ただ……」
「申せ」
「高島、田中が先に崩れ、それを見た後方の四家もほとんど戦わず退いたとのことにございます」
眉を寄せた。高島と田中が先陣になったことは理解出来る。六家をまとめる立場にある高島が前へ出なければ、残りは動きにくい。田中も、高島だけに功を立てられることを嫌って並んだのかもしれない。だが、その二家が崩れただけで残り四家まで退いたというなら、戦そのものは俺が想像していたより短かったことになる。
「朽木の損害は」
後藤但馬守が尋ねた。
「それが……」
男がまた言い淀む。
「分からぬのか」
「いえ。今のところ、無いと」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「無い?」
俺が聞き返す。
「はっ。少なくとも最初の戦では、朽木方に討死した者は確認されておらぬと」
意味がすぐには頭へ入ってこなかった。三百が千二百を相手にした。四倍の敵だ。地形が味方し、高島六家が纏まっていないとしても、双方が槍を合わせれば怪我人も死人も出る。それが戦だと思っていた。だが男の報告は、朽木側がほとんど傷を負わないうちに高島勢が崩れたと言っている。
「どのように戦った」
「そこまでは、まだ」
父上が俺を見た。
「右衛門督」
「はい」
「勝つとは申しておったな」
「……はい」
「この勝ち方も読んでおったか」
「いいえ」
迷わず答えた。ここで知っていたふりをする意味はない。俺が覚えていたのは竹若丸が初陣で高島六家を破るという結果だけで、その中身は曖昧だった。今聞いているのが、その抜け落ちていた部分なのだろう。
「詳しい報せを待ちまする」
「そうせよ」
父上はそれだけ言ったが、俺の中では「朽木方に損害なし」という一言が残り続けた。竹若丸が勝つ。それは知っていた。だが、俺の考えていた勝利と、現実に起きた勝利は同じではないらしい。
*
詳しい報告が届いたのは、その翌朝だった。夜のうちにも断片的な報せはいくつか来ていたが、誰かが見た一部だけで全体を決めるのは避けたかった。篠、弥七、三雲の手の者。それぞれが別の場所から拾った話を持ち帰り、それを重ねることで、ようやく戦の形が見えてきた。
評定の場で、三雲対馬守が報告を始める。
「高島勢はおよそ千二百。先陣を巡って少々揉めたようにございますが、最終的には高島と田中が前へ出たとのこと。残る永田、平井、横山、山崎は後方に控えておりました」
「やはり先陣を嫌がったか」
蒲生下野守が呟く。
「はい。公方様の御意に背いて朽木を攻めれば、敗れた後に城まで攻められるという噂が効いていたようにございます。誰も最初に傷を負いたくなかったのでしょう」
以前、篠が持ち帰った噂だ。誰が流したかまでは掴めなかった。だが、その噂が高島六家の家臣にまで広がり、実際の動きに影響を与えたことはほぼ間違いないらしい。俺たちは公方様の言葉が六角へ向けられることを恐れていた。その同じ言葉が、高島六家の中を割るために使われた。
「朽木は」
「三百ほど。ここは以前の報告と変わりませぬ」
「兵の内訳は」
俺が尋ねると、三雲対馬守の視線がこちらへ向いた。
「そこが此度の肝かと存じまする。三百のうち、およそ二百が鉄砲を持っていたようにございます」
「……二百?」
今度は昨日よりはっきりと驚いた。三百のうち二百、三分の二が鉄砲。俺は朽木が鉄砲を持っていること自体は知っていた。領内で集め、使わせているという話も聞いていた。だが、二百丁もの鉄砲を一度の戦で集中して使えるとは思っていなかった。近江で鉄砲そのものが珍しいとは言わない。それでも、僅か三百の兵のうち二百人へ持たせ、それを一つの場所へまとめているとなれば話は別だった。
「残りは」
「弓が五十ほど、槍も五十ほどと見られておりまする」
後藤但馬守が小さく息を吐いた。
「随分と偏った軍じゃな」
「通常であれば、そう見えましょう」
俺は頭の中で三百を並べ直した。鉄砲二百、弓五十、槍五十。騎馬を主力にするわけでもなく、敵と槍を押し合うことを前提にもしていない。高島勢と同じように正面からぶつかる軍ではない。最初から、敵を近付けずに崩すための形だ。
「戦は、どのように」
父上が促した。
「高島、田中勢が前へ出て朽木へ押し寄せたところ、まず弓を受けました。それでも進んだようですが、距離が詰まったところで鉄砲を一斉に撃たれた。一度だけではなく、間を置かず二度。最初の二度で先頭が大きく崩れたとのことにございます」
「二度?」
「鉄砲を幾つかに分けていたようにございます。一度に全てを撃たず、順に使ったものかと」
俺は無意識に膝の上の手へ力を入れた。二百丁をただ一度に撃ったのではない。分けた。撃った後、次の隊を前へ出す。その間に先に撃った者は次の準備をする。どこまで意図して組んだものなのかは、現場を直接見ていない以上断定出来ない。だが少なくとも、鉄砲を持たせただけではない。複数の隊として使うことを前提に訓練していたと考える方が自然だった。
三雲対馬守が続ける。
「最初の射撃で高島、田中勢に多数の死傷者が出ました。田中勢では当主の子が倒れ、その混乱の中で次の射撃を受け、田中久兵衛重政も討たれたようにございます。そのため田中勢が先に崩れ、高島勢も前へ出られなくなった。そこへさらに鉄砲を受けたことで、高島も潰走したとのこと」
「高島越中は」
「一時は討死したと見られていたようですが、どうやら馬が撃たれ、その下敷きになったものを家臣が見誤ったらしいとの話もございます。生死については、まだ確かではございませぬ」
情報がまだ揃っていない。ならば決めつけるべきではない。俺は頷くだけに留めた。
「残り四家は」
「高島と田中が崩れると、まともに戦うことなく退いたようにございます。追撃も行われましたが、少なくとも最初の戦そのものは、長く続いておりませぬ」
千二百人が一度に崩れたのではない。先に出た高島と田中が崩れ、それを見た後ろの四家が逃げた。以前の俺が考えた通り、六家は六家だった。前の二家が壊れた瞬間、後ろの四家にとって戦う理由はさらに薄くなったのだろう。自分たちが前へ出れば、今度は自分たちが鉄砲を受ける。しかも高島と田中がどうなったか分からない。そこまでして朽木へ踏み込む覚悟など、最初から持っていなかった。
「朽木の損害は、本当に無いのか」
目賀田次郎左衛門尉忠朝が確認する。
三雲対馬守が頷いた。
「現時点では、そのように。少なくとも討死した者は確認されておりませぬ」
評定の場が静まった。俺は目を閉じることなく、正面を見たまま考えた。勝つとは思っていた。だが、これは違う。俺が想定したのは、朽木も傷を負った上での勝利だった。そうなれば六角が双方の間へ入り、高島六家には敗北を認めさせ、朽木には勝者として譲歩を求める。双方に傷があれば、双方に「これ以上続けるな」と言う理由が出来る。だが朽木はほとんど傷を負っていない。高島と田中だけが大きく崩れ、残る四家は逃げた。それでは力関係が明らかになったどころではない。片方が、もう片方へ「同じ立場で話し合え」と求められる状態ではなくなっている。
「右衛門督」
父上の声で思考を止めた。
「どう見る」
「……想定より、朽木が強うございます」
「それだけか」
父上の問いは短かった。
「いいえ。某は、朽木が勝てば六角が間へ入り、双方を止められると考えておりました。されど、これでは……」
「では?」
「朽木に止まる理由が少ない」
自分で口にして、その意味がはっきりした。こちらは勝敗が見えれば止めに入るつもりだった。だがそれは、朽木も戦で何かを失い、これ以上戦うより六角の仲裁を受けた方が得だと思うことを、どこかで前提にしていた。ところが竹若丸は、三百で千二百を崩し、自軍にほとんど損害を出していない。高島勢は逃げ、目前には清水山城と田中の領地がある。竹若丸から見れば、ここで兵を止める方に理由が必要になる。
父上の目が細くなる。
「ようやく気付いたか」
「……はい」
「勝敗が見えれば止める、とそなたは申した。だが、勝った者が止まるとは申しておらなんだな」
返す言葉がなかった。俺は戦を始める条件と、六角が止めに入る時期を考えた。だが、止められる側がこちらの都合通りに止まるかまでは、十分に考えていなかった。高島六家が暴走する可能性ばかり気にしていたが、勝った朽木が勝利をどこまで利用するかも同じくらい重要だったのだ。
「竹若丸殿は、どう動くと思われまする」
俺の問いに、父上はすぐには答えなかった。
「それを今から見るのであろう」
また同じ言葉だった。
最後まで見よ。
父上は答えを教えようとはしない。
*
その日の午後、弥七が戻ってきた。戦場そのものへ近付き過ぎないよう命じていたため、篠より少し遅れて道沿いの動きを拾ってきたらしい。部屋へ入るなり頭を下げ、俺が座るよう促すと、膝を折った。
「若様、高島勢の敗走はかなり酷うございます」
「どの程度じゃ」
「軍として退いたのではございませぬ。旗を捨てる者、武具を捨てる者もおります。道を外れて山へ入った者もいるようにございます」
「朽木は追ったか」
「はい。ただし、皆を無闇に追わせたわけではないように見えます。追う者と残る者を分けておりました」
敗走した敵を見れば、勢いのまま全軍で追いたくなるものだと思っていた。だが竹若丸は追撃する兵まで分けたらしい。勝った後も統制が残っている。
「村は」
「今のところ、大きく荒らされたところは見ておりませぬ。朽木の兵が村へ入り、勝手に物を取ったという話も、私が拾った範囲ではございませぬ」
胸の奥で、さらに何かが重くなった。俺は戦わせることを決めた時、村への放火や無用な略奪を避けるよう高島へ条件を付けるべきだと主張した。それは戦が広がらないための最低限の枠だった。だが、実際にそれを守るべきなのは高島だけではない。勝った朽木が追撃の勢いで高島領へ入り、村を荒らせば同じことになる。今のところ、その様子はない。
「高島の兵は、何と言っておる」
「公方様のことを口にする者が多うございます。負けたことで、あの噂を本気にしたのでしょう。朽木だけではない、幕府も来る。六角にも見捨てられる。そのように申す者がいると」
戦う前に流れていた噂が、負けたことで事実のように変わり始めた。噂は噂のままではない。現実の出来事と結び付けば、それを信じる理由になる。六角が高島を止めなかったという事実も、今度は逆向きに解釈されるかもしれない。六角は戦わせるだけ戦わせ、負ければ切り捨てるつもりだったのではないか、と。
「……厄介じゃな」
「はい?」
「いや、こちらの話じゃ」
弥七を下がらせてから、高島の地図を見る。竹若丸がどこまで考えていたのかは分からない。公方様の噂を流したのが本当に朽木なのか、それさえ確定していない。だが、もし意図していたのなら、戦場で勝つ前から戦の後を作っていたことになる。
俺は勝敗の後に六角が動くつもりだった。
竹若丸は、勝つ前から敗れた後の高島を動かしていたのかもしれない。
その違いは小さくなかった。
*
翌日、さらに報せが届いた。
「朽木勢が清水山へ向かっておりまする」
篠の言葉に、俺は顔を上げた。
「竹若丸殿もか」
「はい。そのように聞いております」
「田中は」
「そちらへも兵を向けているようにございます」
やはり止まらなかった。
勝敗が見えれば六角が入る。そのつもりだった。だが、六角から正式な使者を送るより先に竹若丸は次へ動いた。高島と田中は先陣を務め、最も大きく崩れた二家だ。その二家の本拠へ兵を向ける。戦場で勝っただけでは終わらせず、戦を始めた側がもう一度兵を集められないよう、その根まで押さえるつもりなのだろう。
「抵抗は」
「清水山城については、まだ詳しい報せはございませぬ。ただ、高島勢の敗北はすでに城にも伝わっております。家中はかなり動揺しているようにございます」
ここで俺が「止めろ」と言っても間に合うのか。考えて、すぐに答えが出なかった。竹若丸からすれば、攻められた側だ。公方様から朽木へ手を出すなという言葉があったにもかかわらず、高島六家はそれを無視して兵を出した。その上、戦場で負けた。朽木がそのまま高島と田中の城へ向かうことを、六角がどの理屈で止める。六角が裏で兵を動かしたことを伏せたまま「そこまでにせよ」と言えば、今度はこちらが高島を庇っているようにしか見えない。
「父上には」
「すでに対馬守様から報せが入っているかと」
「そうか」
席を立とうとして、やめた。父上ならもう知っている。そして、俺が来るのを待つような人でもない。必要なら呼ぶ。今は、自分で考えろということなのだろう。
それから半日もしないうちに、次の報せが来た。清水山城は朽木の手に落ちた。田中城も同じ。「落ちた」という言葉を聞いて、最初は激しい攻城戦を想像した。だが違った。戦場で主力を失い、さらに公方様の命に背いたという噂が広がっていたこともあって、まともな抵抗はほとんど無かったという。城を守る者にとって、戦えば朽木に殺されるだけでなく、その後に幕府や六角まで敵になると思えば、最後まで戦う理由は薄い。竹若丸は戦場で千二百を破っただけではない。その敗北を使って、城まで戦う前から崩していた。
高島家と田中家という二つの家が、この一戦だけで立場を大きく失おうとしている。俺が想定していたのは、高島六家へ「朽木の方が強い」と分からせることだった。それで一度力関係が明らかになれば、父上が間に入って条件を整えられると思っていた。だが現実には、高島と田中は単に敗れたのではない。戦場で主力を崩され、そのまま本拠まで押さえられ、家そのものが立ち直れないところまで追い込まれようとしている。俺が「一度当たらせる」と言った時に想像していた範囲を、竹若丸はすでに越えていた。
*
評定が開かれた時、場の空気は戦が始まる前とは明らかに違っていた。高島六家をどう動かすかを話していた時には、六角が全体を見下ろしているつもりだった。高島を動かし、朽木とぶつけ、頃合いを見て止める。その前提で意見を交わしていた。だが今、話題になっているのは「朽木をどう止めるか」ではなく、「朽木がどこまで行くか」だった。
「高島、田中の二家は、これで終わるかもしれませぬな」
蒲生下野守の声は重い。
「まだそうと決まったわけではあるまい」
進藤山城守が返す。
「当主や嫡子が残っておれば、の」
「高島越中の生死はまだ確かではございませぬ」
三雲対馬守が言う。
「田中久兵衛は討死したとの話が強うございます。嫡男についても同様にございます」
父上は黙って聞いていた。俺も同じだった。高島と田中が消えれば、高島七頭は五頭になる。名前だけの話ではない。二家が持っていた土地、人、城、道、税、商人、その全てを誰が持つのかという問題になる。
「朽木が返すと思うか」
父上が俺へ聞いた。
「……思いませぬ」
「何故じゃ」
「高島、田中から攻められた側にございます。しかも公方様の御意に背いて攻めた。竹若丸殿からすれば、再び攻められぬために城と土地を押さえたと申せまする」
「六角の土地を奪った、と言えばどうじゃ」
言葉に詰まった。言える。高島六家は六角に属する。その所領を朽木が取った。六角の力を示すだけなら、返せと命じる理由は作れる。だが、その次に何を言われるかも分かる。
「ならば何故、高島六家が公方様の御意に背いて朽木を攻めるのを止めなかったのか、と問われまする」
「そうじゃな」
父上が僅かに笑った。
「こちらが高島を動かしたことを知らずとも、その疑問は出る。知っておれば、なおさらじゃ」
誰も否定しなかった。勝敗が決まった後に六角が仲裁する。俺はその形を考えていた。だが仲裁するためには、両方から「間へ入る資格がある」と思われなければならない。高島六家は六角が自分たちを認めたと思って戦った。朽木は六角が裏にいる可能性を疑っているかもしれない。その状態で六角が中立の仲裁者として現れても、本当に中立だと受け取られるとは限らない。
「御屋形様」
三雲対馬守が声を上げた。
「朽木から使者が参っております」
場の視線が集まる。
「何と」
「此度の争いをこれ以上広げるつもりはない。残る永田、平井、横山、山崎の四家とは和睦したい。その仲裁を公方様と六角へ願いたい、とのことにございます」
俺は思わず父上を見た。父上もこちらを見ていた。仲裁を求めてきた。こちらが考えていた形になった。それなのに、胸の奥に安堵はほとんど無かった。
「……止まるのか」
「何か申したか、右衛門督」
「いえ」
止まらないと思い始めていた竹若丸が、自分から和睦を求めてきた。高島と田中の城を押さえたところで兵を止め、残る四家までは攻めない。その意味だけを見れば、俺たちの想定したところに近い。だが違う。高島と田中を取った後だ。戦場で圧勝し、二家を事実上潰し、その土地と城を手にした上で「残りとは和睦する」と言っている。竹若丸は止められたのではない。自分で、止まる場所を決めた。その違いが大きかった。
「受ける」
父上が言った。
「公方様へも話を通せ。こちらからは下野守を出す」
「はっ」
蒲生下野守が頭を下げた。
評定はそのまま、和睦へ向けて何を確認するかという話へ移った。高島、田中の扱い。残る四家への責任。公方様の御意に背いた件をどう収めるのか。六角がどこまで前へ出るのか。俺も話を聞きながら考えたが、頭の一部は別のところにあった。竹若丸は勝った。それは知っていた。だが俺が知らなかったのは、どう勝つかだけではなかった。勝った後、どこまで取り、どこで止まり、誰を仲裁の場へ引き出すか。そこまでが一つだった。俺は勝敗が決まった後に政治が始まると思っていた。竹若丸は、戦が始まる前から、その後の政治まで戦の中へ入れていたのかもしれない。もしそうなら、俺と竹若丸の間にある差は、鉄砲二百丁だけではない。
*
評定を出た後、弥太郎と並んで廊下を歩いた。冬の冷たい空気が入り込み、庭の枝が風に揺れている。しばらく互いに何も言わなかったが、弥太郎の方から口を開いた。
「竹若丸殿、勝たれましたな」
「ああ」
「若様の仰った通りに」
「勝つところまではな」
「その先は違いましたか」
足を止めた。
「かなりな」
弥太郎も止まる。
「俺は、朽木も傷を負うと思っておった。高島も朽木も傷付いたところで父上が入り、そこで終わると。だが朽木はほとんど傷付かず、高島と田中を潰した。その上で、自分から残る四家との和睦を求めてきた」
「それは、悪いことでございますか」
「いや」
悪くはない。村を焼き、残る四家まで滅ぼそうとしているわけではない。むしろ勝った勢いのまま高島全体を呑もうとしなかっただけ、抑えているとも言える。
「悪くない。だから厄介なんじゃ」
「厄介?」
「勝てるから全部取る、ではない。必要なところまで取って、そこで止まっておる。少なくとも今のところはな」
高島と田中を取れば、朽木の領地は広がる。残る四家まで敵に回して戦を続ければ、いくら勝てても負担は増える。ならば二家を取ったところで止まり、四家と和睦する。その仲裁を幕府と六角へ頼めば、自分が公方様の御意を尊重している姿も示せる。同時に、六角を争いの外へ置いた形で表へ引き出すことも出来る。そこまで竹若丸が考えていると決まったわけではない。決めつけてはいけない。だが、結果だけを見れば、そういう形になっている。
「若様」
「なんじゃ」
「少し嬉しそうにも見えまする」
思わず弥太郎を見る。
「俺が?」
「はい」
「どこを見ればそう見える」
「口元が」
手で触れてみたが、自分では分からない。
弥太郎が少し笑った。
「好感を持てる方だと申されておりましたからな」
「それとこれは別じゃ」
「左様でございましたな」
「……なんじゃ、その顔は」
「何も」
否定したものの、弥太郎に言われて初めて、自分の中にある感情を少しだけ認めざるを得なかった。驚いたのは間違いない。竹若丸が勝つこと自体は知っていたつもりだったのに、その勝ち方も、その後の動きも俺の想定を大きく越えていた。怖さもある。自分が「一度当たらせる」と決めた戦を、竹若丸は俺が思っていた以上の速さと深さで利用し、高島と田中という二家を一気に追い込んだ。自分の見通しが甘かったことも、嫌というほど思い知らされた。それでも、その全部とは別に、竹若丸が前世の記憶に残っていた通り――いや、俺の曖昧な記憶から想像していた以上にやる相手だと分かったことを、どこかで面白いと思っている自分がいた。敵として面白いという意味ではない。自分とは違う考え方で同じものを見て、俺では思い付かなかった答えを出してくる相手が、すぐ近くにいる。そのこと自体に強く惹かれているのだと思う。
竹若丸とは、まだ短い時間しか話していない。朽木で交わした言葉も、互いの考え方を知り尽くせるほど長いものではなかった。それでも、あの時に感じた「もう少し話してみたい」という気持ちは、この戦を経てむしろ強くなっていた。高島六家をどう見ていたのか。公方様の言葉をどこまで利用したのか。二百丁もの鉄砲をどう集め、どう兵に使わせ、なぜ高島と田中を取ったところで残る四家との和睦を選んだのか。聞いてみたいことはいくらでも浮かんでくる。もちろん、その全てを素直に答えてくれるとは限らないし、六角が高島の背後にいたと疑っているなら、次に会った時の竹若丸が以前と同じように話してくれる保証すらない。それでも、次に会う機会があるのなら、今度はもっと長く言葉を交わしてみたい。自分が見落としたものを、竹若丸が何を見て拾ったのか。それを知りたいと思っている自分がいることは、もう否定出来なかった。
だが、その興味に気を取られている場合ではない。父上から「最後まで見よ」と言われた戦は、槍を交えるところだけなら終わった。高島勢は敗れ、朽木が勝ち、竹若丸は高島と田中の本拠まで押さえた。だが、本当に見るべきものはむしろこれからなのかもしれない。高島家と田中家を失った土地がどう扱われ、その土地に暮らす者たちが誰を新たな主と認めるのか。敗れた残る四家が朽木へどのような感情を抱き、六角に対して何を思うのか。公方様は、自らの御意に背いて朽木へ兵を向けた高島六家をどう見るのか。そして何より、六角は高島を動かした側でありながら、表向きは仲裁する側として竹若丸と向き合わなければならない。その時、父上がどのような条件を示し、竹若丸が何を求め、残る四家が何を飲むのか。戦場の勝敗だけを見て終わったことにしてしまえば、俺はまた以前と同じ間違いをする。
父上から言われた「勝ったか負けたかだけを見るな」という言葉の意味も、ようやく少し分かってきた気がした。勝敗は一つの結果でしかない。その結果によって土地が動き、人の立場が変わり、それまで結ばれていた関係まで形を変える。勝者が何を取り、何を取らず、敗者へ何を残すのかによって、その戦が数年後に別の火種になるのか、それとも新しい秩序の始まりになるのかまで変わってくる。俺は竹若丸が勝つという結果だけを知っていたから、それを自分の判断を支える材料に使った。だが、その知識だけでは足りなかった。むしろ結果を知っていたことで、その途中や先にあるものを自分が分かっているような気になっていたのかもしれない。
竹若丸は勝った。それ自体は俺の記憶とも、俺が集めた材料から出した予想とも一致している。だが、俺が読み違えたのは勝敗ではない。三百で千二百をほとんど傷を負わずに崩し、その勢いのまま高島と田中を押さえながら、残る四家まで呑み込もうとはせず、自ら幕府と六角へ和睦の仲裁を求める。戦場で敵を破ることだけでなく、その勝利をどこまで使い、どこで止めるのかまで含めて竹若丸の戦だったのだとすれば、俺が見ていたものはその一部でしかなかった。勝つことは知っていた。けれど、勝つという一言の中にこれほど多くのものが詰まっているとは、俺は知らなかった。俺が読み違えたのは、その結果ではない。勝ち方だった。