高島の一件がようやく形の上では収まり、観音寺城にも少しずつ普段の空気が戻り始めた頃、父上から部屋へ来るようにとの使いが来た。高島の旧領や朽木について何か新しい話でも入ったのかと思いながら向かったが、部屋にいたのは父上と平井加賀守、それに三雲対馬守だけだった。机の上に高島の地図も書状も置かれていない。代わりに父上は俺が座るのを待ってから、前置きもなく一人の名前を口にした。
「猿夜叉丸を元服させる」
一瞬、言われた意味を考えた。猿夜叉丸も俺とそう歳は変わらない。元服すること自体は何もおかしくないし、むしろそろそろ話が出ても不思議ではない。それでも胸の奥に引っ掛かったのは、猿夜叉丸がただの少年ではなく浅井下野守久政の嫡男であり、長く観音寺城に置かれてきた存在だからだった。ここで元服させるということは、単に髪を改めて大人の名を与えるという話ではない。浅井家の次代を担う者として、六角が公に扱いを変えるということになる。
「名は新九郎。そして、儂の『賢』を与える。浅井新九郎賢政じゃ」
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で何かが繋がった。
浅井新九郎賢政。
知っている名前だった。猿夜叉丸がいつか元服すること自体は分かっていたし、父上から一字を受けることも前世の記憶に残っていた。それでも、猿夜叉丸という幼名で何年も顔を合わせ、一緒に食事をしたり、庭で身体を動かしたり、時にはくだらないことを言って笑ったりしてきたせいだろう。記憶の中にある「浅井賢政」と、目の前にいる猿夜叉丸が完全には重なっていなかった。それが父上の口から名前として出たことで、二つが急に一つになったような感覚があった。
「そして元服を済ませた後、小谷へ戻す」
今度は、さすがにすぐには返事が出来なかった。
「……戻されるのでございますか」
「そう申した」
「阿古の方も?」
「共に戻す」
父上は何でもないことのように答えたが、これはかなり大きな判断だった。猿夜叉丸と阿古の方を観音寺城へ置いておくことは、浅井家に対する分かりやすい楔になっている。浅井久政が六角へ逆らおうとすれば、妻と嫡男がこちらにいるという事実を無視出来ない。それを二人とも返してしまえば、少なくとも人質という形で浅井を縛るものは無くなる。
「よろしいのでございますか。二人を小谷へ戻せば、浅井を縛るものが減りまする」
「減るな」
「ならば何故」
父上は俺を見ると、少しだけ笑った。
「いつまで猿夜叉丸を童のまま此処へ置いておくつもりじゃ」
「それは……」
「浅井の嫡男ぞ。いずれ浅井を継ぐ者じゃ。十五、二十となっても観音寺に置き続ければ、浅井の者どもは何と思う。六角が次の浅井当主を奪っておると思う者も出よう。人質は長く置けば置くほど効く、というものではない」
言われてみれば、その通りだった。人質として価値があるから置き続ければよいと単純に考えていたが、猿夜叉丸が成長すれば意味は変わる。幼い嫡男を預けている間は浅井久政を従わせる力になる。だが、その嫡男が成人し、家臣たちから主として見られる年になっても六角が返さなければ、今度は「六角が浅井の次代を拘束している」という不満になる。縛るための縄が、締め過ぎれば相手に切る理由を与える。その程度のことに、俺は父上から言われるまで気付いていなかった。
「それに、返すと言うても六角との縁まで切るわけではない。儂の一字を与える。六角で元服をさせ、その上で浅井へ戻すのじゃ。猿夜叉丸を返すのではない。浅井新九郎賢政を、小谷へ帰す」
父上がどこを見ているのか、ようやく分かった。人質として身体を置いておく代わりに、名前と立場へ六角との関係を残す。観音寺城で元服し、六角義賢から「賢」の一字を受けた浅井嫡男。それが小谷へ戻れば、賢政が浅井家を継いだ後も、周囲からは六角と深い繋がりを持つ当主として見られる。人質という分かりやすい支配から、もっと長く残る関係へ形を変えるつもりなのだろう。
「浅井下野守殿には」
「話は通してある。異は申しておらぬ」
「左様にございますか」
「不満が無いとは思わぬがな」
父上は鼻で笑った。それ以上詳しくは聞かなかったが、浅井久政にとっても嫡男が戻ってくること自体は悪い話ではないだろう。ただし、その嫡男は六角の偏諱を受けた姿で戻ってくる。小谷でそれをどう見る者がいるのかまでは分からない。父上にとっては浅井との縁を強める手でも、浅井家中の者にとって同じ意味になるとは限らない。そのことを考えたところで、前世の記憶が嫌でも浮かんだ。
浅井は六角から離れる。
その前に、猿夜叉丸は賢政となる。
そして――野良田。
細かい順序や日にちまで覚えているわけではない。それでも、賢政という名前が出てきたことで、それまで少し遠くに置いていた未来が急に近付いた。高島の一件で前世の知識が結果しか教えてくれないことを思い知らされたばかりだ。だから浅井についても、記憶にある流れだけで全てを決めつけるつもりはない。それでも、「浅井新九郎賢政」という名前が野良田へ繋がっていることだけは忘れようがなかった。
「何を考えておる」
父上の声で我に返った。
「いえ。猿夜叉丸が戻れば、浅井家中も変わるのではないかと思いまして」
「変わるであろうな」
「よろしいので?」
「変わらぬ家など無い」
父上はあっさりと言った。
「その変わり方を、こちらにとって悪くないものにするのが政じゃ。全部を止めようとするから無理が出る」
高島の件を思い出した。あの時の俺は、不満が積もっているなら一度ぶつけて形を変えようとした。そして自分が思っていた以上に大きく変わった。今度は浅井だ。父上は猿夜叉丸を返すことで動きを起こそうとしている。ただし、俺のように結果を限定して考えているようには見えない。変わることそのものを前提にした上で、その中で六角に有利な位置を取ろうとしている。その違いが少し悔しかった。
「元服はいつにございますか」
「日取りは決めた。そう遠くない」
「某も立ち会わせていただけまするか」
「そのつもりじゃ。そなたも幼名を捨てたばかりであろう。見ておくとよい」
父上はそこで一度言葉を切り、平井加賀守へ視線を向けた。加賀守は静かに頭を下げる。何故この場にいるのか少し気になったが、この時はまだ尋ねなかった。
*
元服の日、猿夜叉丸は朝から普段とは違う顔をしていた。緊張しているのは見れば分かる。それでも、以前の千代丸が初めて俺の前へ出た時のように身体全体が固まっているわけではない。何年も観音寺城で暮らし、父上や六人衆の姿を見てきたからだろう。浅井の嫡男として人前に出ることにも、少しずつ慣れているように見えた。
俺自身の元服から、まだそれほど時間は経っていない。亀松丸という名を捨て、六角義治になった日のことはよく覚えている。名が変わったからといって、自分の中身まで突然変わるわけではなかった。朝まで亀松丸だった人間が、儀式を終えた瞬間に別人になるはずもない。それでも周囲の目は変わった。呼ばれ方が変わり、席が変わり、任されることが増えた。自分自身より先に、周りが「六角義治」として扱い始める。その積み重ねに合わせるように、俺も少しずつ義治という名前へ馴染んでいった。
猿夜叉丸も、これから同じことを経験するのだろう。ただ一つ違うのは、俺が元服しても帰る場所は変わらなかったのに対し、猿夜叉丸は元服したことで観音寺城を離れるということだ。
儀式は厳かに進んだ。幼い頃から見慣れていた髪が改められ、烏帽子を着けた姿になるだけで、随分と印象が変わる。普段なら落ち着きなく周囲を見ていることもある猿夜叉丸が、その時ばかりは正面を見たまま動かなかった。父上から新しい名を告げられる。
「これより新九郎を名乗れ。そして儂の『賢』の一字を取って、賢政とせよ」
「はっ。浅井新九郎賢政、名に恥じぬよう励みまする」
返ってきた声は少し固かったが、震えてはいなかった。
浅井新九郎賢政。
もう一度その名を耳にした時、今度こそ俺の中で猿夜叉丸と賢政が完全に重なった気がした。目の前にいる少年は昨日までと同じ顔をしている。それでも、今この場から先は誰も彼を猿夜叉丸として扱わない。浅井家の嫡男、新九郎賢政として見る。
俺も同じだった。
周囲から六角義治として見られるようになったことで、出来ることが増えた。その代わり、亀松丸だった頃なら許されたことが許されなくなった。
賢政も、今日からそうなる。
そして、その先にある未来を俺だけが少し知っている。
それが、妙に重かった。
儀式が終わった後、祝いの席が設けられた。父上や重臣たちの前では賢政も姿勢を崩さず、何を言われても丁寧に返していたが、席が少し落ち着いて俺と目が合った瞬間、ほんの少しだけ眉を下げた。その表情があまりに以前の猿夜叉丸と同じだったので、思わず笑いそうになった。
*
祝いの席を離れた後、庭に面した廊下で賢政と二人で話す時間が出来た。弥太郎は少し離れた場所に控えている。春にはまだ少し早く、庭を抜ける風には冬の冷たさが残っていたが、日差しは以前より柔らかくなっていた。
「随分と固かったな、新九郎」
俺が言うと、賢政は一瞬だけ不満そうな顔をした。
「右衛門督殿も、御元服の時は同じであったと弥太郎殿から聞いておりまする」
離れたところにいた弥太郎を見る。
視線を逸らされた。
「弥太郎」
「さて、何のことでございましょう」
「後で覚えておれ」
「恐ろしゅうございますな」
賢政が堪え切れずに笑った。その笑い方まで昨日までと変わらない。俺もつられて笑ったが、すぐに少しだけ寂しさを感じた。名前が変わっても、本人は本人だ。それなのに、もうすぐこの姿を観音寺城で日常的に見ることはなくなる。
「新九郎」
「はい」
「父上から聞いておるか」
賢政の表情が少しだけ変わった。
「小谷へ戻ることにございますか」
「ああ」
「聞いておりまする」
「嬉しいか」
すぐに頷くと思ったが、賢政は少し考えてから答えた。
「嬉しゅうございます」
「随分と間があったな」
「……怖くもございまする」
正直な答えだった。
「小谷で暮らした記憶はございませぬ。父上のことも、文では存じておりますが、共に暮らしたことはありませぬ。観音寺城の方が、私には知っている者が多うございます」
そうか。
俺は勝手に、猿夜叉丸にとって小谷が「帰る場所」だと思っていた。浅井の嫡男なのだから、小谷へ戻ることを待ち望んでいて当然だと。しかし実際には、生まれた時から観音寺城で暮らしてきた彼にとって、小谷は血筋の上では故郷でも、生活の上ではほとんど知らない場所なのだ。
「ならば、戻りたくないか」
「それは違いまする」
賢政はすぐに首を振った。
「私は浅井の者にございます。いつかは小谷へ戻らねばならぬと思っておりました。それに父上のお役にも立ちとうございます。ただ……」
「知らぬ場所へ行くような気分か」
「はい」
少しだけ笑った。
「俺が初めて京へ向かった時も似たようなものだった」
「右衛門督殿も?」
「当たり前じゃ。知らぬものは知らぬ。俺が右衛門督だからといって、京の道が勝手に頭へ入ってくるわけでもない」
「それはそうでございますが」
「だから、知らぬなら見ればよい。分からぬなら聞けばよい。最初から全部知っているふりをする方が危ない」
自分に言い聞かせているような気もした。高島で何度も思い知らされたことだ。知っている結果だけで途中まで分かった気になれば、見落とす。賢政が浅井へ戻った後、前世で知っている流れが起きるとしても、それだけを見て本人の考えまで決めつけてはいけないのだろう。
「それに、新九郎なら何とかするであろう」
「随分と簡単に申されますな」
「出来ぬと思っている者には言わぬ」
賢政は少し驚いたようにこちらを見た後、嬉しそうに笑った。
「では、何とかいたしまする」
「ああ。何とかせよ」
しばらく二人で庭を眺めた。元服の祝いで城の中は普段より賑やかなはずなのに、ここまで来ると人の声は遠い。こんなふうに落ち着いて話せるのも、あと何度あるのだろうと思ったところで、賢政が口を開いた。
「右衛門督殿は、小谷へ来られたことはございますか」
「ない」
「では、いつかお越しくだされ」
「小谷へか」
「はい。観音寺のことは私より右衛門督殿の方がお詳しい。ならば小谷のことは、私が御案内いたしまする」
返事をするまで、ほんの少し時間が掛かった。
小谷。
浅井。
野良田。
その三つが頭の中で並んだ。
賢政には、そんなことは分からない。ただ、自分がこれから帰る場所を、いつか俺に見せたいと思っているだけなのだろう。その言葉に別の意味を付けているのは俺だけだ。
「嫌でございますか」
「いや」
賢政がこちらを見る。
「行く。その時は案内してくれ」
「はい。約束にございます」
「ああ、約束じゃ」
俺はそう答えた。
未来がどうなるにしても、この時の約束まで嘘にする必要はないと思った。
*
賢政が小谷へ戻る日は、それから数日後に決まった。阿古の方も共に帰る。朝から観音寺城の一角では荷が運ばれ、供の者が行き来し、馬も用意されていた。長く城内にいた二人が出るだけあって、単なる旅立ちとは少し違う空気があった。これまで当然のようにいた者がいなくなるというのは、思っている以上に目につくらしい。
見送りには父上をはじめ、平井加賀守や幾人かの重臣も姿を見せた。弥太郎も俺の側にいる。そして少し離れたところに、小夜の姿もあった。猿夜叉丸と小夜も、観音寺城の中で何度も顔を合わせている。特別な何かがあるわけではない。ただ同じような年頃で、俺や弥太郎も含めて互いに見知っている。それだけに、小夜もいつもより口数が少なかった。
「新九郎様」
「小夜殿」
「小谷へ行っても、お元気で」
「小夜殿も」
それだけの短い言葉だった。それでも俺は二人を見ながら、前世の記憶にある別の出来事を思い出していた。
小夜は、いずれ賢政へ嫁ぐ。
そして、その婚姻は長くは続かない。
今ここにいる二人は、まだそんなことを知らない。小夜にとって賢政は、観音寺城で顔を合わせてきた一人の少年に過ぎない。賢政も同じだろう。俺も知識としては知っているが、目の前にいる小夜を「浅井賢政の妻」として見る気にはなれなかった。何年も近くにいた少女に、前世で読んだ出来事だけを重ねることに違和感があった。
父上と賢政の間では、もっと政治的な言葉が交わされていた。
「新九郎」
「はっ」
「浅井を支えよ。そなたはもう童ではない」
「承知しておりまする」
「下野守へも申しておけ。六角と浅井は争うためにあるのではない、と」
「必ず」
父上は賢政を見て頷いた。そこに人質を返す者の惜しさは見えなかった。むしろ、自分の手元で育った浅井の嫡男を、そのまま北近江へ送り込むような目に見えた。父上にとっては、猿夜叉丸を失うのではない。賢政という形で浅井との繋がりを強くするつもりなのだろう。
そして、その考えがどこまで上手くいくのかを、俺は知っている。
いや――知っているつもりだった。
高島の時と同じ過ちは繰り返したくない。前世の物語では浅井が六角から離れ、野良田で戦う。それは覚えている。だが、賢政が小谷へ戻ってから何を見て、誰と話し、何を考えた末にそこへ進むのかまで、俺は知らない。浅井久政だけで決まる話でもなければ、賢政一人だけで決まる話でもないだろう。家臣がいて、土地があり、これまで六角に従ってきた不満もある。その全部が動いた先に戦があるのなら、俺が覚えている「野良田」という二文字だけで未来を知った気になる方が危ない。
「右衛門督殿」
呼ばれて、賢政を見る。
「なんじゃ」
「先日の約束、お忘れなきよう」
「まだ言うか」
「忘れられては困りまする」
「分かった。忘れぬ」
賢政が笑った。
「では、小谷でお待ちしておりまする」
「ああ」
それ以上は言わなかった。気を付けて帰れと言うことも出来たし、浅井で頑張れと励ますことも出来た。だが何を言っても、別れを必要以上に重くしてしまう気がした。
賢政が馬へ乗る。阿古の方も輿へ入り、供の者たちが動き始めた。城門へ向かう一行を見ながら、俺は妙な感覚に襲われていた。猿夜叉丸が観音寺城へ来た時のことを、俺は直接覚えているわけではない。俺が物心を持った時にはすでに彼はここにいた。だから、観音寺城に猿夜叉丸がいることは俺にとって当たり前だった。
その当たり前が、今日終わる。
小谷へ向かっているのは、もう猿夜叉丸ではない。
浅井新九郎賢政だ。
俺も亀松丸ではなくなった。
あいつも猿夜叉丸ではなくなった。
同じように幼名を捨て、同じように家を背負う名を持った。それなのに、俺は観音寺城へ残り、賢政は小谷へ帰る。元服という同じ節目を越えたはずなのに、そこから先の道は別々の方向へ伸びていた。
やがて一行が城門の向こうへ消えた。
弥太郎が隣で小さく息を吐く。
「寂しくなりますな」
「ああ」
「また会えまする」
「そうじゃな」
会える。
それは間違いない。
ただ、その時に今日と同じように話せるかどうかは分からない。
俺は城門の向こうを見たまま、前世の記憶にある未来をもう一度思い出していた。浅井新九郎賢政。父上から一字を受けたその名が、今はまだ六角と浅井を結ぶ証になっている。だが、その証がいつまでも同じ意味を持つとは限らない。父上が言った通り、変わらぬ家など無い。
高島が変わった。
朽木も変わった。
そして今度は、浅井が変わり始める。
それがどのような形になるのか、今の俺にはまだ前世で知った結果しか分からない。だからこそ、その途中を見なければならないのだろう。
猿夜叉丸は、小谷へ帰った。
浅井新九郎賢政として。