淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第三十一話「帰る場所」

 高島の一件がようやく形の上では収まり、観音寺城にも普段の落ち着きが戻り始めた頃、父上から部屋へ来るようにとの使いがあった。高島の旧領や朽木について新しい報告でも入ったのかと思いながら向かったが、部屋にいたのは父上と平井加賀守、それに三雲対馬守だけだった。いつもなら広げられている地図や書状もなく、三人の様子にも差し迫った問題を抱えているようなところは見られない。俺が席へ着くのを待ってから、父上は前置きもなく一人の名前を口にした。

 

「猿夜叉丸を元服させる」

 

 一瞬、何を言われたのか考えた。猿夜叉丸も俺とそれほど歳は変わらず、元服すること自体は何もおかしくない。むしろ、そろそろ話が出ても不思議ではなかった。それでも胸の奥に引っ掛かるものがあったのは、猿夜叉丸が浅井下野守久政の嫡男であり、長く観音寺城に置かれてきた存在だからだ。ここで元服させるということは、単に髪を改めて大人の名を与えるだけでは済まない。浅井家の次代を担う者として、六角が公にその扱いを変えることになる。

 

「名は新九郎。そして儂の『賢』を与える。浅井新九郎賢政じゃ」

 

 その名前を聞いた瞬間、記憶の中で別々になっていたものが繋がった。

 

 浅井新九郎賢政。知っている名前だった。猿夜叉丸がいずれ元服し、父上から一字を受けることも前世の記憶には残っている。それでも猿夜叉丸という幼名で何年も顔を合わせ、一緒に食事をしたり、庭で身体を動かしたり、時にはくだらないことで笑ったりしてきたせいだろう。記憶の中にいる浅井賢政と、今の猿夜叉丸が完全には重なっていなかった。それが父上の口から告げられたことで、ようやく同じ人物として実感できた。

 

 だが、父上の話はそれだけでは終わらなかった。

 

「元服を済ませた後、新九郎は小谷へ戻す。阿古の方も共にな」

 

「……お二人とも、戻されるのでございますか」

 

「そう申した」

 

 父上は当然のことのように答えたが、これはかなり大きな判断だった。猿夜叉丸と阿古の方を観音寺城へ置いておくことは、浅井家に対する分かりやすい楔になっている。久政が六角へ逆らおうとすれば、妻と嫡男がこちらにいるという事実を無視できない。二人を返してしまえば、少なくとも人質という形で浅井を縛るものは無くなる。

 

 その懸念を伝えると、父上は否定せず、むしろ少し笑ってみせた。

 

「いつまで猿夜叉丸を童のまま此処へ置いておくつもりじゃ。浅井の嫡男ぞ。いずれ家を継ぐ者を、十五、二十となっても観音寺に置き続ければ、浅井の者どもは何と思う。六角が次の当主を奪っておると考える者も出よう。人質は長く置けば置くほど効くものではない」

 

 言われてみれば、その通りだった。人質として価値があるから置き続ければよいと単純に考えていたが、猿夜叉丸の成長に伴って、その意味も変わっていく。幼い嫡男を預かっている間は久政を従わせる力になる。だが本人が成人し、家臣たちから次代の主として見られるようになっても六角が返さなければ、今度はその拘束自体が不満の種になる。相手を縛るための縄でも、締め過ぎれば切ろうとする理由を与える。その程度のことに、俺は父上から言われるまで気付いていなかった。

 

「それに、返すと言うても六角との縁まで切るわけではない。儂の一字を与え、六角で元服させた上で浅井へ戻すのじゃ。猿夜叉丸を返すのではない。浅井新九郎賢政を、小谷へ帰す」

 

 父上がどこを見ているのか、ようやく分かった。人質として身体を置いておく代わりに、名前と立場へ六角との関係を残す。観音寺城で元服し、六角義賢から「賢」の一字を受けた浅井嫡男。それが小谷へ戻れば、賢政が家督を継いだ後も、周囲からは六角と深い繋がりを持つ当主として見られるだろう。人質という目に見える支配から、長く残る関係へ形を変えるつもりなのだ。

 

 久政にはすでに話を通してあり、異論は出ていないという。もっとも父上は、不満が無いとは思わぬがな、と鼻で笑った。久政にとっても、妻と嫡男が戻ってくること自体は悪い話ではない。ただし、その嫡男は六角の偏諱を受けた姿で帰ってくる。小谷でそれをどう受け取る者がいるのかまでは分からなかった。父上にとっては浅井との縁を強める手でも、浅井家中の者たちが同じ意味に受け取るとは限らない。

 

 そう考えたところで、前世の記憶が嫌でも浮かんだ。

 

 浅井は六角から離れる。その前に猿夜叉丸は賢政となり、やがて野良田へと繋がっていく。細かな順序や日付まで覚えているわけではない。それでも賢政という名前が出てきたことで、それまで少し遠くに置いていた未来が急に近付いた気がした。

 

 高島の一件では、前世の知識が結果しか教えてくれないことを嫌というほど思い知らされた。だから浅井についても、記憶にある流れだけで全てを決めつけるつもりはない。それでも浅井新九郎賢政という名前が、野良田へ繋がっていることだけは忘れようがなかった。

 

「何を考えておる」

 

 父上の声で我に返った。猿夜叉丸が小谷へ戻れば浅井家中も変わるのではないか、と答えると、父上は当然のように頷いた。

 

「変わるであろうな。変わらぬ家など無い。その変わり方を、こちらにとって悪くないものにするのが政じゃ。全部を止めようとするから無理が出る」

 

 高島の件を思い出した。あの時の俺は、不満が積もっているなら一度ぶつけて関係を変えようとした。そして実際には、自分が思っていた以上に大きく変わった。今度は浅井だ。父上も猿夜叉丸を返すことで新たな動きを起こそうとしている。ただし、俺のように結果を狭く決めているようには見えない。変わることそのものを前提に、その中で六角に有利な位置を取ろうとしている。その違いが少し悔しかった。

 

 元服の日取りはすでに決まっており、そう遠くないという。俺も立ち会いたいと申し出ると、父上は初めからそのつもりだと答えた。

 

「そなたも幼名を捨てたばかりであろう。見ておくとよい」

 

 そう言って父上は一度言葉を切り、加賀守へ視線を向けた。加賀守は静かに頭を下げる。何故この場にいるのか少し気になったが、猿夜叉丸の元服と帰国に関わる手配を任されているのだろうと思い、この時は尋ねなかった。

 

 *

 

 元服の日、猿夜叉丸は朝から普段とは違う顔をしていた。緊張しているのは見れば分かるものの、身体全体が固まっているわけではない。何年も観音寺城で暮らし、父上や六人衆の姿を見てきたからだろう。浅井の嫡男として人前に出ることにも、少しずつ慣れているように見えた。それでも普段より口数が少なく、装束を整える者が袖へ触れるたび、僅かに視線を動かしている。

 

 俺自身の元服から、まだそれほど時間は経っていない。亀松丸という名を捨て、六角四郎義治になった日のことはよく覚えている。名が変わったからといって、自分の中身まで突然変わるわけではなかった。朝まで亀松丸だった人間が、儀式を終えた瞬間に別人になるはずもない。それでも周囲の目は変わった。呼ばれ方が変わり、席が変わり、任されることが増えた。自分自身より先に周りが六角右衛門督義治として扱い始め、その積み重ねに合わせるように、俺も少しずつ新しい名と立場へ馴染んでいった。

 

 猿夜叉丸も、これから同じことを経験するのだろう。ただ一つ大きく違うのは、俺が元服しても暮らす場所は変わらなかったのに対し、猿夜叉丸は元服したことで観音寺城を離れるということだ。

 

 儀式は厳かに進んだ。幼い頃から見慣れていた髪が改められ、烏帽子を着けた姿になるだけで随分と印象が変わる。普段なら落ち着きなく周囲を見ていることもある猿夜叉丸が、その時ばかりは正面を向いたまま動かなかった。父上から新しい名を告げられると、僅かに背筋を伸ばす。

 

「これより新九郎を名乗れ。そして儂の『賢』の一字を取って、賢政とせよ」

 

「はっ。浅井新九郎賢政、名に恥じぬよう励みまする」

 

 返ってきた声は少し固かったが、震えてはいなかった。

 

 浅井新九郎賢政。改めてその名を耳にした時、俺の中で猿夜叉丸と賢政がようやく重なった。目の前にいる少年は昨日までと同じ顔をしている。それでも今この場から先は、周囲の者たちも彼を猿夜叉丸ではなく、浅井家の嫡男、新九郎賢政として見るようになる。

 

 俺も同じだった。周囲から六角右衛門督義治として見られるようになったことでできることが増えた反面、亀松丸だった頃なら許されたことが許されなくなった。賢政も今日からそうなる。そして、その先にある未来を俺だけが少し知っていることが、妙に重かった。

 

 儀式の後には祝いの席が設けられた。父上や重臣たちの前では賢政も姿勢を崩さず、掛けられる言葉へ丁寧に答えていた。だが席が少し落ち着き、俺と目が合った瞬間、ほんの僅かに眉を下げた。その表情があまりに以前の猿夜叉丸と同じだったので、思わず笑いそうになった。

 

 *

 

 祝いの席を離れた後、庭に面した廊下で賢政と二人で話す時間ができた。弥太郎は少し離れた場所に控えている。春にはまだ早く、庭を抜ける風には冬の冷たさが残っていたが、日の当たる場所に座っている分には、それほど寒さを感じなかった。

 

「随分と固かったな、新九郎」

 

 俺がからかうと、賢政は一瞬だけ不満そうな顔をした。

 

「右衛門督殿も、御元服の時は同じであったと弥太郎殿から聞いておりまする」

 

 思わず離れたところにいる弥太郎を見ると、こちらと目が合う前に視線を逸らされた。何を吹き込んだのかと問い詰めても、本人は何も知らないという顔をしている。後で覚えておけと告げると、恐ろしゅうございますな、と涼しい顔で返された。

 

 そのやり取りを見ていた賢政が、とうとう堪え切れずに笑い出した。笑い方も、少し得意そうにこちらを見る顔も昨日までと変わらない。俺もつられて笑ったが、すぐに少しだけ寂しさを感じた。名前が変わっても本人は本人だ。それなのに、もうすぐこの姿を観音寺城で日常的に見ることはなくなる。

 

「新九郎。小谷へ戻ることは聞いておるな」

 

「はい。父上より伺っておりまする」

 

「嬉しいか」

 

 尋ねればすぐに頷くと思っていた。だが賢政は庭へ視線を移し、少し考えてから嬉しいと答えた。その声に、祝いの席で見せていた晴れやかさとは違うものが混じっていた。

 

「……怖くもございまする」

 

 思いがけない答えだった。理由を尋ねると、賢政は小谷で暮らした記憶がほとんどなく、父である久政についても文を通じて知っているだけで、共に暮らしたことはないのだと話した。観音寺城には長く顔を合わせてきた者がいる。父上や重臣たち、側仕えの者たちもそうだ。俺や弥太郎とも幼い頃から言葉を交わしてきた。だが小谷には血縁のある者がいる一方で、日々の暮らしを知っている相手は少ないらしい。

 

 俺は勝手に、猿夜叉丸にとって小谷が帰る場所なのだと思っていた。浅井の嫡男なのだから、小谷へ戻ることを待ち望んでいて当然だと。しかし実際には、生まれて間もない頃から観音寺城で暮らしてきた彼にとって、小谷は血筋の上では故郷でも、生活の上ではほとんど知らない場所なのだ。

 

「ならば、戻りたくないか」

 

「それは違いまする。私は浅井の者にございます。いつかは小谷へ戻らねばならぬと思っておりましたし、父上のお役にも立ちとうございます。ただ、知らぬところへ行くような気がいたします」

 

 賢政はそう言って、少し困ったように笑った。

 

 浅井の嫡男として小谷へ帰ることは、本人にとっても望ましいことなのだろう。だが望んでいることと、不安がないことは別だ。家臣たちは六角で元服した新しい嫡男を迎える。久政も長く離れていた息子と向き合うことになる。賢政自身は、その中で少しずつ自分の居場所を作っていかなければならない。

 

「初めて京へ向かった時も、似たようなものじゃった」

 

「右衛門督殿も?」

 

「ああ。知らぬものは知らぬ。右衛門督を名乗ったからといって、京の道が勝手に頭へ入ってくるわけでもないからな。知らぬなら見ればよいし、分からぬなら聞けばよい。最初から全て知っているふりをする方が危ない」

 

 自分で言いながら、少し苦笑したくなった。高島の一件では、知っているつもりになっていたことで多くのものを見落とした。竹若丸が勝つという結果を知っていたからこそ、その先まで自分の考え通りに進むものと思い込んでいた。賢政へ偉そうに話せるほど、俺自身が物事を正しく見られているわけではない。

 

 それでも知らないことを恥じて見栄を張るより、周囲へ聞く方がよいという考えは変わらなかった。小谷には小谷のやり方があり、浅井の家臣たちにもそれぞれ積み重ねてきたものがある。観音寺城で過ごした年月だけで、すぐに全てを理解できるはずもない。だが、その違いを一つずつ覚えていけば、賢政も自分の立つ場所を見つけられるだろう。

 

「それに、新九郎なら何とかするであろう」

 

「随分と簡単に申されますな」

 

「できぬと思っている者には言わぬ」

 

 賢政は少し驚いたようにこちらを見た後、嬉しそうに笑った。

 

「では、何とかいたしまする」

 

「ああ。何とかせよ」

 

 しばらく二人で庭を眺めた。元服の祝いで城の中は普段より賑やかなはずなのに、ここまで来ると人の声は遠い。こうして互いに余計な気兼ねもせず話せる時間が、これからどれほど残っているのか。小谷へ戻れば賢政には浅井の嫡男としての務めがあり、俺にも六角の嫡男として果たすべき役目がある。以前のように、同じ城で暮らしているからという理由だけで顔を合わせることはなくなる。

 

 そんなことを考えていると、賢政から小谷へ来たことはあるかと尋ねられた。まだないと答えると、ではいつか来てほしいと言う。観音寺城のことなら俺の方が詳しいのだから、小谷のことは自分が案内したいというのだ。

 

 返事をするまで、ほんの少し時間が掛かった。

 

 小谷。浅井。そして野良田。

 

 その三つが頭の中で並んだ。

 

 賢政には、そんなことは分からない。ただ自分がこれから帰る場所を、いつか俺に見せたいと思っているだけなのだろう。その言葉に別の意味を付けているのは俺だけだ。

 

「嫌でございますか」

 

「いや。行く。その時は案内してくれ」

 

「はい。約束にございます」

 

「ああ、約束じゃ」

 

 そう答えると、賢政は満足そうに笑った。未来がどうなるにしても、この時の約束まで嘘にする必要はないと思った。これから浅井がどのように変わり、六角との関係がどうなるのかは分からない。だが、まだ起きてもいない出来事を理由に、目の前の賢政を遠ざけることはしたくなかった。

 

 *

 

 賢政が小谷へ戻る日は、それから数日後に決まった。阿古の方も共に帰ることになり、朝から観音寺城の一角では荷が運ばれ、供の者たちが忙しく行き来していた。馬の支度も整えられ、輿の周囲では出立前の確認が続いている。長く城内にいた二人が出るだけあって、普段の使者や家臣を送り出す時とは少し違う空気があった。これまで当然のようにいた者がいなくなるというのは、思っている以上に目につくものらしい。

 

 見送りには父上をはじめ、加賀守や幾人かの重臣も姿を見せた。弥太郎も俺の側に控えている。少し離れたところには、小夜の姿もあった。猿夜叉丸と小夜は観音寺城の中で何度も顔を合わせており、俺や弥太郎も含めて互いによく見知っている。特別なことがなければ顔を合わせるのが当たり前だっただけに、小夜も今日は普段より口数が少なかった。

 

「新九郎様。小谷へ行かれても、お元気で」

 

「小夜殿も、息災でな」

 

 交わされたのは、それだけの短い言葉だった。二人とも別れを必要以上に惜しむような様子はなく、賢政は穏やかに笑い、小夜も丁寧に頭を下げている。それでも俺は二人を見ながら、前世の記憶にある別の出来事を思い出していた。

 

 小夜は、いずれ賢政へ嫁ぐ。そして、その婚姻は長くは続かない。

 

 今ここにいる二人は、まだそんなことを知らない。小夜にとって賢政は、観音寺城で顔を合わせてきた一人の少年に過ぎない。賢政も同じだろう。俺も知識としては知っているが、目の前にいる小夜を浅井賢政の妻として見る気にはなれなかった。何年も近くにいた少女に、前世で読んだ出来事だけを重ねることに違和感があった。

 

 婚姻というものは、本人たちの気持ちだけで決まるわけではない。まして六角と浅井の間であれば、両家の関係を左右する大きな意味を持つ。父上が賢政を六角で元服させ、偏諱を与えて小谷へ戻すことと同じように、いずれ婚姻も両家を繋ぐための手として考えられるのだろう。

 

 だが、それを今の二人へ当てはめることはできなかった。小夜には小夜の考えがあり、賢政には賢政の暮らしがある。まして小谷へ戻った賢政がどのような人物になっていくのか、まだ何も分かっていない。前世の記憶を持っているからといって、それだけで二人の先を決めつけてよいはずもなかった。

 

 父上と賢政の間では、もっと政治的な言葉が交わされていた。六角で元服した浅井嫡男を小谷へ戻す以上、父上にとっても単なる別れの挨拶ではない。浅井を支え、すでに童ではなくなったことを忘れるなと告げた上で、久政へも六角と浅井は争うためにあるのではないと伝えるよう命じた。

 

「必ず申し伝えまする」

 

 賢政が深く頭を下げると、父上も頷いた。その顔に、人質を返すことへの惜しさは見えなかった。むしろ自分の手元で育った浅井の嫡男を、六角との繋がりを持たせたまま北近江へ送り込むような目だった。

 

 父上にとっては、猿夜叉丸を失うのではない。賢政という形で浅井との関係を強くするつもりなのだろう。

 

 そして、その考えがどこまで上手くいくのかを、俺は知っている。

 

 いや、知っているつもりだった。

 

 高島の時と同じ過ちは繰り返したくない。前世の物語では浅井が六角から離れ、野良田で戦う。それは覚えている。だが賢政が小谷へ戻ってから何を見て、誰と話し、何を考えた末にそこへ進むのかまで、俺は知らない。久政だけで決まる話でもなければ、賢政一人で決まる話でもないだろう。家臣がいて、土地があり、これまで六角に従ってきたことへの不満もある。その全てが動いた先に戦があるのなら、俺が覚えている野良田という二文字だけで未来を知った気になる方が危ない。

 

「右衛門督殿」

 

 呼ばれて賢政を見ると、先日の約束を忘れないようにと言われた。小谷へ帰る直前になってまで念を押すこともなかろうと思ったが、本人は忘れられては困ると真面目な顔をしている。

 

「分かった。忘れぬ」

 

「では、小谷でお待ちしておりまする」

 

「ああ」

 

 賢政が笑った。俺もそれ以上は言わなかった。気を付けて帰れと伝えることもできたし、浅井で励めと送り出すこともできた。だが何を言っても、別れを必要以上に重くしてしまう気がした。

 

 やがて賢政が馬へ乗り、阿古の方も輿へ入った。供の者たちがそれぞれの位置へ付き、先頭からゆっくりと動き始める。見送りの者たちが道を空けると、長く観音寺城で暮らしてきた二人を乗せた一行が、城門へ向かって進んでいった。

 

 その姿を見ながら、俺は妙な感覚に襲われていた。

 

 猿夜叉丸が観音寺城へ来た時のことを、俺は直接覚えているわけではない。物心が付いた頃にはすでに彼はここにいて、顔を合わせれば声を掛けることもあった。同じ年頃の者として庭で身体を動かし、時にはくだらないことを言い合った。六角と浅井の関係がどういうものなのかを知るようになってからも、猿夜叉丸が城内にいること自体は俺にとって当たり前だった。

 

 その当たり前が、今日終わる。

 

 小谷へ向かっているのは、もう猿夜叉丸ではない。浅井新九郎賢政だ。

 

 俺も亀松丸ではなくなった。あいつも猿夜叉丸ではなくなった。同じように幼名を捨て、家を背負う名を持った。それなのに俺は観音寺城へ残り、賢政は小谷へ帰る。元服という同じ節目を越えたはずなのに、そこから先の道は別々の方向へ伸びていた。

 

 やがて一行が城門の向こうへ消えると、隣にいた弥太郎が小さく息を吐いた。

 

「寂しくなりますな」

 

「ああ」

 

「また、お会いできまする」

 

「そうじゃな」

 

 会える。それは間違いない。互いの家が近江にある以上、今後全く顔を合わせなくなるとは考えにくい。父上が望んでいるように六角と浅井の関係が続くのであれば、評定や祝いの席、あるいは別の用向きで顔を合わせることもあるだろう。先日交わした小谷へ行くという約束も、果たす機会があるかもしれない。

 

 ただ、その時に今日と同じように話せるかどうかは分からない。

 

 俺は城門の向こうを見たまま、前世の記憶にある未来をもう一度思い出していた。浅井新九郎賢政。父上から一字を受けたその名が、今はまだ六角と浅井を結ぶ証になっている。だが、その証がいつまでも同じ意味を持つとは限らない。久政の考えも、浅井家臣たちの思惑も、小谷へ戻った賢政自身の判断も、これから少しずつ変わっていくだろう。父上が言った通り、変わらぬ家など無いのだ。

 

 高島が変わり、朽木も変わった。そして今度は、浅井が変わり始める。俺は野良田という結果を知っている。だが、その結果へ至る途中で誰が何を考え、どのような選択をするのかまでは分からない。それを見ずに前世の記憶だけを頼れば、また高島の時と同じように肝心なところを見落とすことになるだろう。

 

 父上は賢政を返すことで浅井との関係を強めようとしている。俺も今は、それが悪い手だとは思わない。だが小谷へ戻った賢政が何を見て、浅井の家臣たちが彼をどう迎え、久政が息子へ何を任せるのか。その積み重ねを見なければ、今日の判断がどのような結果へ繋がるのかは分からなかった。

 

 猿夜叉丸は、小谷へ帰った。浅井新九郎賢政として。

 

 その背を見送った俺には、もう一つ確かなことがあった。これから浅井に何か動きがあった時、俺はそれを見知らぬ国人の話として聞くことはできない。浅井家の嫡男となった新九郎は、俺が長く顔を合わせてきた猿夜叉丸でもあるのだから。

 

 城門の向こうから人馬の音が聞こえなくなっても、俺はしばらくその場を離れなかった。

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