淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第三十二話「結ぶもの」

 浅井新九郎賢政が小谷へ向かってから十日余りが過ぎた。観音寺城の中から一人分の姿が消えたことにも、ようやく慣れ始めていた。最初の数日は庭を通る時や食事の席で無意識に賢政の姿を探すことがあり、その度に、あいつはもうこの城で暮らす猿夜叉丸ではないのだと思い直した。小谷へ戻った賢政については、三雲対馬守を通して幾つか報告が入っている。浅井下野守久政は嫡男の帰還を表向きには大いに喜び、家中の者たちも新九郎を浅井の次代として迎えたらしい。ただ、六角で元服し、父上から「賢」の一字を受けたことを好意的に見る者ばかりではないという。六角との結び付きを頼もしく思う者がいれば、浅井の嫡男にまで六角の名が刻まれたように感じる者もいる。だからといって、すぐに六角へ反抗しようという動きがあるわけではない。今のところは「六角との関係が深い若殿」と見る者と、「六角に近過ぎる若殿」と見る者が、同じ小谷の中にいる。それだけだった。

 

 その報告を聞いて、俺は少し安心すると同時に、自分自身へ釘を刺した。浅井が六角から離れることを俺は知っている。少なくとも前世で読んだ流れではそうなる。だが、その知識を理由に、今聞いたわずかな不満まで「やはり浅井は六角へ反旗を翻す」と結論付ければ、高島で犯したのと同じ間違いを繰り返すことになる。浅井家中に六角への不満を持つ者がいることと、浅井家が六角へ兵を向けることは同じではない。その間には、人がいて、出来事があり、判断がある。賢政自身が何を見るのか、久政が何を選ぶのか、浅井の家臣たちが何を求めるのか。その途中を知らない俺が、最後の結果だけを先に置いて今を測れば、都合の良い材料ばかり拾うことになるだろう。だから今は、起きたことだけを見る。そう決めていた。

 

 そんなある日、再び父上から呼ばれた。部屋へ入ると、先に平井加賀守が座っている。以前にも同じような顔触れを見たことを思い出し、そこでようやく、賢政の元服と小谷への帰還を聞かされた時に平井加賀守が同席していた理由をまだ聞いていなかったことに気付いた。あの時は猿夜叉丸が賢政になることと小谷へ戻ることに意識を取られ、そのまま流してしまったが、加賀守がただ見届けるためだけに呼ばれていたとは考えにくい。俺が腰を下ろすのを待つと、父上は加賀守へ一度視線を向けてから、前置きもなく口を開いた。

 

「小夜を儂の養女とする。その上で、新九郎へ嫁がせる」

 

 予想していたわけではなかった。それでも小夜の名を聞いた瞬間、その先に続く言葉だけは分かった。前世の記憶に残っていた流れが、また一つ目の前で形を持ったからだ。平井加賀守はすでに話を聞いていたのだろう。驚く様子もなく、静かに頭を下げている。父上は賢政を元服させ、小谷へ戻すと決めた時から、この縁談まで含めて考えていたのかもしれない。そうであれば、あの場に加賀守がいたことも自然に繋がる。

 

「浅井下野守殿にも、すでにお話を?」

 

「送ってある。断る理由もあるまい。新九郎は儂から一字を受け、小谷へ戻ったばかりじゃ。その新九郎へ儂の養女を嫁がせる。浅井にとっても悪い縁ではない」

 

「小夜は加賀守の娘にございますが」

 

「ゆえに一度儂の養女とする。加賀守の娘として嫁がせるだけでも浅井との縁にはなる。だが儂の養女となれば、意味は一つ増える。小夜は平井の娘であり、六角の娘として浅井へ入ることになる」

 

 父上の考えは分かりやすかった。賢政と阿古の方を小谷へ返したことで、人質という最も露骨な楔は自ら外した。その代わり、賢政へ自分の「賢」を与え、今度は養女を妻として送り込む。身体を観音寺城へ置かせて従わせる関係から、名前と婚姻によって浅井の中へ六角との結び付きを残す関係へ変えようとしている。賢政本人だけではなく、その妻まで六角と繋がっていれば、浅井家中から見ても両家の関係は以前より明確になるだろう。

 

「人質を返した代わり、でございますか」

 

 俺が尋ねると、父上は少し眉を上げた。

 

「代わり、ではない。人質と婚姻は同じものではない」

 

「失礼いたしました」

 

「だが、浅井との繋がりを弱めぬためかと聞かれれば、そうじゃ。新九郎を返した以上、浅井が六角から離れる理由を減らさねばならぬ。妻が六角の養女であれば、新九郎自身も六角との縁を軽く扱うことは出来ぬ。久政とて同じよ」

 

 理屈は分かる。そして、その理屈だけでは浅井を繋ぎ止められない未来を俺は知っている。浅井新九郎賢政はいずれ小夜と別れ、小夜は浅井から戻ってくる。その前後がどうだったのか、何が直接の理由になったのかまでは曖昧だが、六角との関係を断つ流れの中で婚姻も切られる。それから野良田へ進む。その結果だけは記憶に残っている。だからこそ、目の前で父上が合理的に組み立てている縁談が、未来では切れると知っていることに妙な気味の悪さがあった。父上の考えに明らかな間違いがあるようには見えない。それなのに最後には崩れる。ならば、どこで意味が変わるのか。誰が最初に違う方向を向くのか。それとも、一つの大きな間違いではなく、小さなずれが積み重なった末に切れるのか。今の俺にはそこが分からなかった。

 

「どうした」

 

「いえ。随分と早く話を進められるのだと思いまして」

 

「早いか?」

 

「新九郎が小谷へ戻ったばかりにございます」

 

「だからじゃ。小谷へ戻れば、新九郎は浅井の者として扱われる。久政の嫡男である以上、縁談の話が出てもおかしくはない。こちらが良いと思う相手を用意出来るのであれば、他家が入り込む前に結んでおく方がよい」

 

 これも筋が通っていた。賢政が観音寺城にいる間なら、婚姻について六角が大きく関与出来る。しかし小谷へ戻した以上、浅井家中も賢政の縁談を自分たちの問題として考え始める。越前や美濃、あるいは北近江の有力者との縁を求める者が出ても不思議ではない。浅井の婚姻に他家の影響が入り込む前に、六角から縁を結んでしまう。その速さも含めて父上の判断なのだろう。

 

「加賀守」

 

「はっ」

 

「そなたに異存はないな」

 

「ございませぬ。浅井新九郎殿は御屋形様より一字を賜りし御方。娘には過ぎた縁と心得ておりまする」

 

 加賀守の声に迷いはなかった。家臣として考えれば当然なのかもしれない。娘が主君の養女となり、北近江の浅井家嫡男へ嫁ぐ。平井家にとって大きな縁であり、加賀守自身の六角家中での立場にも影響する。それでも俺の頭に浮かんだのは、家と家ではなく小夜本人だった。少し前まで賢政の見送りで「お元気で」と言っていた少女が、今度はその賢政の妻として小谷へ向かうことになる。

 

「小夜は、この話を知っておりまするか」

 

 父上と加賀守の視線がこちらへ向いた。

 

「まだ詳しくは話しておりませぬ」

 

「左様ですか」

 

「何か気になるか、右衛門督様」

 

「いえ。ただ、知っている相手とはいえ、小谷へ嫁ぐことになりますれば、小夜自身にも思うところはあるかと」

 

 本人が嫌がれば婚姻を取り止めろ、とまで言うつもりはなかった。この時代の武家の婚姻が、本人同士だけではなく家同士を結ぶためのものであることくらいは理解している。俺自身だって、いずれ自分の意思だけでは決められない婚姻をする可能性は高い。それでも、小夜が何も知らされないまま荷物のように話だけ進められることには抵抗があった。

 

 父上は少し俺を見た後、加賀守へ向き直った。

 

「話してやれ。新九郎を知らぬ相手でもあるまい。それでも、観音寺から小谷へ嫁ぐのは小夜自身じゃ。何を思うかくらいは聞いておけ」

 

「承知いたしました」

 

 思っていたより簡単に認められたので、少し拍子抜けした。顔に出ていたのだろう、父上が鼻を鳴らす。

 

「何じゃ」

 

「いえ」

 

「儂とて娘を俵のように送り出しておるわけではない」

 

「そのようなことは申しておりませぬ」

 

「顔が申しておったわ」

 

 横で平井加賀守が笑いを堪えているのが見えた。余計なことを言えば藪蛇になると判断し、黙って頭を下げた。

 

 *

 

 小夜が縁談について聞かされたのは、その日のうちだったらしい。俺が直接その場に入ることはしなかった。父親と娘の話にまで首を突っ込む必要はないし、何より俺がいれば小夜も言いたいことを言いにくいだろう。翌日になって、弥太郎から妹が話を承知したと聞かされた。

 

「随分と簡単に言うな」

 

「何を申せと」

 

「小夜は何か言っておらなんだか」

 

 弥太郎は少し考えてから、「驚いてはおりました」と答えた。そして新九郎なら全く知らない相手へ嫁ぐよりは良い、と小夜が言っていたことを教えてくれた。その答えはいかにも小夜らしかった。喜んでいるとも嫌がっているとも違う。何年も顔を合わせてきた相手だから、少なくとも怖くはない。今の小夜にとっては、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。

 

「兄としてはどうなのじゃ」

 

「どう、と申されましても、いずれは嫁ぎまする」

 

「冷たいな」

 

「若様が気にし過ぎなのでございます。それに浅井新九郎様なら、某も幼い頃から存じております。乱暴な御方でもございませぬし、妹を酷く扱うとも思っておりませぬ」

 

 その言葉が胸に引っ掛かった。今の賢政なら、俺も同じように思う。小夜を理由もなく酷く扱うような少年ではないし、小夜だって賢政を嫌ってはいない。ならば二人の婚姻は、少なくとも今の時点では悪いものには見えない。それでも、いずれ終わる。その結果だけが、目の前にいる二人から浮いて見える。だからといって、未来を知っているつもりの俺が、今の二人へその終わりを重ねて見るのも違うのだろう。

 

「若様?」

 

「なんじゃ」

 

「また難しい顔をしておられまする」

 

「生まれつきじゃ」

 

「そのような顔でお生まれになった覚えはございませぬが」

 

「お主は俺が生まれた時を知らぬだろう」

 

「それも左様にございますな」

 

 弥太郎が笑い、俺も少し笑った。未来を知っているからといって、今の二人へそれを背負わせるべきではない。高島で思い知らされたのは、俺の知識が結果を知っているだけで、その途中までは保証してくれないということだった。ならば今は、今起きていることを見るしかない。

 

 *

 

 数日後、小夜の方から俺のところへ来た。珍しいことだった。小夜とは昔から何度も顔を合わせているが、わざわざ俺を訪ねてくることは多くない。部屋へ通すと、少し緊張した様子で座った。幼い頃ならもっと気軽に入ってきたものだが、俺が元服してからはこういうところにも少し距離が出来たように思う。俺自身は中身まで急に変わったつもりなどないのに、名と立場が変われば周囲との間に新しい線が引かれていく。それを小夜の様子からも感じた。

 

「どうした、小夜」

 

「若様に、一つお聞きしたいことがございまして」

 

「俺に?」

 

「はい。小谷とは、どのようなところなのでございましょう」

 

 なるほど、と納得した。嫁ぐ相手は知っている。だが嫁ぐ先は知らない。賢政自身が少し前まで抱いていた不安とよく似ている。

 

「俺も行ったことはない」

 

「……左様でございましたか」

 

「新九郎にも聞かれた。小谷へ来たことがあるかとな。いつか来いと約束までさせられたぞ」

 

 小夜が少し驚いた後、小さく笑った。

 

「新九郎様らしゅうございます」

 

「そうか?」

 

「はい。昔から、自分が良いと思ったものは人にも見せたがる御方でしたから」

 

 俺の知らない猿夜叉丸の姿を、小夜は知っているらしい。考えてみれば当然だった。同じ城で育ったのだから、俺がいないところでも二人は何度も顔を合わせてきたはずだ。俺にとって二人は「いずれ夫婦になる者」ではなく、それぞれ別に近くで育ってきた知人だった。前世の記憶にある婚姻だけを基準に二人を見る方が、むしろ不自然なのだろう。

 

「怖いか」

 

 尋ねると、小夜は少し俯いた。

 

「少し」

 

「そうか」

 

「新九郎様は存じております。でも、小谷は存じませぬ。浅井の方々も、ほとんど存じませぬ。それに私は、御屋形様の養女として参るのでございましょう。ならば、私が何か間違えば、平井だけではなく御屋形様にも御迷惑をお掛けすることになります」

 

 そこまで考えていたのか、と少し驚いた。前世なら、小夜くらいの年齢で家同士の関係まで背負って嫁ぐことなど考えもしなかっただろう。だが小夜は、もう自分が父親だけでなく六角家の名を背負って他家へ入ることを理解している。それが立派だと思う一方で、まだ若い少女がそこまで一人で抱える必要があるのかとも思った。

 

「小夜。間違えるな、とは言わぬ」

 

 小夜が顔を上げる。

 

「俺も間違える。父上も間違えることはある。新九郎だって間違えるであろう。最初から何も間違わずに小谷で暮らせる者などおらぬ」

 

「ですが……」

 

「六角の養女だからといって、何でも六角のために正しくやらねばならぬと思い過ぎるな。お主が小谷で暮らすのだから、まず小谷のことを知ればよい。分からぬことは聞け。それで何か困ったら、父上や加賀守へ文を送ればよい」

 

「若様にも?」

 

 不意に尋ねられ、少しだけ言葉に詰まった。

 

「俺にも?」

 

「送ってはいけませぬか」

 

「いや。送ればよい。答えられることなら答える」

 

 小夜の表情が少し和らいだ。

 

「では、そういたします」

 

 その顔を見ながら、胸の奥に僅かな痛みを感じた。いずれ小夜は戻ってくる。浅井から。少なくとも俺の記憶ではそうなる。だが、それを今の小夜へ言うことは出来ない。まして、どうせ戻ることになるのだから心配するな、などと言えるはずもなかった。今から嫁ごうとしている少女に、俺の曖昧な未来の記憶を理由に終わりを見せる必要はない。それなら今は、小夜がこれから始める生活を、そのまま始めるものとして扱うべきなのだろう。

 

「新九郎に何かされたら言え」

 

 少し空気を変えようと思って口にすると、小夜が目を丸くした。

 

「何か、とは?」

 

「……何かは何かじゃ」

 

「よく分かりませぬ」

 

「俺も言ってから何を想定したのか分からなくなった」

 

 小夜が吹き出した。

 

「若様は時々、変なことを仰いますね」

 

「時々か?」

 

「いつも、と申した方がよろしかったですか」

 

「それはお主の兄だけで十分じゃ」

 

 久しぶりに、小夜と子供の頃と変わらない調子で話した気がした。嫁ぐことが決まったからといって、小夜まで別人になるわけではない。その当たり前のことに、少しだけ安心した。

 

 *

 

 浅井から正式に婚姻を受けるとの返事が届くまで、それほど時間は掛からなかった。浅井下野守久政にとっても、六角義賢の養女を嫡男の妻として迎えることは、六角との関係を確かなものとして示す意味がある。父上は返事を確認すると、小夜を養女とする手続きを進め、嫁入りの日取りまで決め始めた。その一方で、三雲対馬守から届く小谷の報告にも少しずつ賢政の姿が増えていった。小谷へ戻ったばかりの頃は久政の後ろに控えることが多かったが、家臣たちとの顔合わせを重ね、領内の話を聞くようになり、若い家臣の中には賢政を慕う者も出始めているという。だからといって久政との間に亀裂があるわけではない。少なくとも今は、父と嫡男として同じ場所にいる。ただし、久政が長く六角へ従ってきたことに不満を持つ者ほど、若い賢政へ何かを期待する傾向があるらしい。

 

「何を期待しておる」

 

「まだ形のあるものではございませぬ。若殿であれば浅井を以前のように強くしてくださるのではないか、その程度にございます」

 

「六角から離れるよう求めておる者は」

 

「今のところ、表立っては」

 

「ならば、それ以上には扱わぬ方がよいな」

 

「御意」

 

 若い当主候補へ期待する。それだけなら、どこの家でも起きることだろう。父親の代に不満があれば、次の代へ期待が集まる。そこからすぐ六角への離反へ繋げれば、それこそ俺が知っている未来に合わせて今を歪めることになる。それでも一つだけ気になることはあった。六角との縁を強くするために賢政を返し、小夜を嫁がせる。父上の一手は理屈が通っている。だが浅井の中で賢政へ期待を寄せる者が、六角との繋がりそのものを久政の弱さの象徴として見るようになれば、その同じ一手が逆の意味を持つ可能性がある。賢政という名も、小夜との婚姻も、六角から見れば浅井との絆だ。だが見る者が変われば意味は変わる。高島で父上から教えられた、言葉は相手へ渡ればこちらだけのものではなくなる、という話とよく似ていた。

 

 *

 

 春も深まり始めた頃、小夜が観音寺城を出る日が来た。少し前に賢政を見送った時と同じ城門だったが、あの時とは荷の様子も、見送る者の顔も違っている。今回は嫁入りだ。衣装や道具が整えられ、父上の養女として恥ずかしくないようにと、平井家だけではなく六角家からも品が用意された。小夜自身も普段とは違う装いをしている。それでも近くで見れば、緊張を隠そうとしている表情には俺の知っている小夜が残っていた。平井加賀守は娘へ何かを言い聞かせ、弥太郎は少し離れたところに立って、いつもより妙に口数が少ない。

 

「弥太郎」

 

「なんでございましょう」

 

「寂しいのか」

 

「まさか」

 

「そうか」

 

「……多少は」

 

「素直でよろしい」

 

「若様に言われとうございませぬ」

 

 俺が少し笑うと、小夜がこちらへ近付いてきた。

 

「若様」

 

「なんじゃ」

 

「行って参ります」

 

「ああ」

 

「文をお送りしても、よろしいのでございますね」

 

「何度確認する」

 

「若様はお忘れになるかもしれませぬから」

 

「新九郎と同じことを言うな」

 

 小夜が笑った。その笑顔を見てから、一度だけ言葉を選ぶ。

 

「小夜、無理をするな。六角の養女として嫁ぐことを忘れろとは言わぬ。平井の娘であることもな。だが、そればかり考えて自分まで無くす必要はない」

 

「……はい」

 

「新九郎にも、そう言っておけ」

 

「何と?」

 

「妻を困らせるな、と右衛門督が申しておったとな」

 

「それを私から申すのでございますか?」

 

「夫婦になるのであろう。最初に言っておけ」

 

 少し困ったように笑った後、小夜は頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

 そのまま小夜が父上の前へ進む。父上は養父として幾つか言葉を掛けた。浅井と六角の間を取り持て。新九郎を支えよ。困った時は六角を頼れ。長い言葉ではなかったが、その一つ一つがこの婚姻の意味を示していた。これは小夜と賢政だけの婚姻ではない。平井と浅井を結び、六角と浅井を結ぶための婚姻でもある。父上は、人質を返したことで切れかけるかもしれない縄を、別の形で結び直した。少なくとも今は、その結び目はしっかりしているように見えた。

 

 父上への挨拶を終え、小夜が輿へ向かって歩き始める。その後ろ姿を見ながら、俺は最後に何か一つ言っておきたいと思った。元気でいろ、困ったら文を寄越せ、それならもう伝えた。それ以上に何を言う必要があるのかとも思う。何より、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にすることを躊躇わせる理由が俺にはあった。俺の記憶では、この婚姻は続かない。小夜はいつか浅井から戻ってくる。その未来を知っているつもりの俺が、「幸せになれ」と言うことが、どこか残酷なことのように感じられたからだ。叶わないと知っている願いを掛けるようで、口に出すのを迷った。

 

 けれど、本当に叶わないと決まったのか。高島で俺の知っている物語と違うことはすでに幾つも起きている。何より今ここにいる小夜は、前世で読んだ文章の中の人物ではない。笑えば笑い、怖ければ不安を口にし、俺へ文を送ってもよいかと確かめに来た一人の人間だ。賢政も同じだった。俺が覚えている未来を理由に、二人のこれからを最初から終わったものとして見る方が、よほど失礼なのではないか。そう思った瞬間、迷っていた言葉が口から出た。

 

「小夜」

 

 声を掛けてしまった。小夜がこちらを振り向き、首を傾げて俺を見る。隣にいた弥太郎も何事かという顔を向けた。ここまで呼び止めておいて、やはり何でもないとは言えない。俺は一度だけ息を吸い、覚えている未来ではなく、今目の前にいる小夜へ言葉を向けた。

 

「新九郎と、必ず幸せになるのだぞ」

 

 小夜だけではなく、隣にいる弥太郎までもが驚いた表情をした。自分でも少し驚いていた。武家の婚姻を前にして、家同士の役目でも、浅井を支えろでも、六角との縁を忘れるなでもなく、幸せになれなどと口にする者は多くないのかもしれない。それでも言ってしまったことを後悔はしなかった。

 

 小夜はしばらく俺を見た後、ふっと表情を柔らかくした。

 

「はい」

 

 答えは、それだけだった。だが迷いのない声だった。小夜は軽く頭を下げると、今度こそ輿へ向かって歩いていった。

 

 その背中を見ながら、「必ず」という言葉だけが自分の中へ残った。俺は小夜が浅井から戻る未来を知っている。そう思っている。それでも今、あえて必ずと言った。未来を変えてやると決意したわけではない。そんなことが出来るとも思っていない。ただ、知っている結末だけを理由に、これから始まる二人の暮らしまで最初から失敗したものとして扱いたくなかった。少なくとも今の賢政と小夜には、互いを憎む理由などない。ならば二人が幸せになる可能性まで、俺の記憶だけで消してしまう必要はないはずだった。

 

 小夜が輿へ入り、一行がゆっくりと動き始める。賢政の時と同じように、やがて城門を抜けて姿が見えなくなった。隣にいる弥太郎は、最後まで妹が消えた方向を見ている。

 

「行ったな」

 

「はい」

 

「お主も小谷へ行ってみたいか」

 

「妹が困っておれば」

 

「そうでなければ?」

 

「別に」

 

「嘘が下手じゃな」

 

「若様ほどではございませぬ」

 

 言い返すだけの元気はあるらしい。少しだけ笑った俺へ、今度は弥太郎が横目を向けた。

 

「それにしても、若様」

 

「なんじゃ」

 

「随分なことを仰いましたな」

 

「何がじゃ」

 

「『必ず幸せになるのだぞ』と」

 

「……聞いておったのだから、わざわざ繰り返すな」

 

「某でも、あれほどのことは申せませぬ」

 

「兄であろうが」

 

「兄だからこそ、あのようなことを真顔では申せませぬ」

 

「なら俺が言っておいて正解だったではないか」

 

「左様でございますか」

 

 弥太郎の口元が少しだけ緩んだ。からかわれているのか、礼を言われているのか分からない。そのどちらでもあるのかもしれないと思い、それ以上は何も言わなかった。

 

 俺も城門の向こうへ視線を戻した。猿夜叉丸を賢政として小谷へ返し、その賢政へ小夜を父上の養女として嫁がせた。六角から見れば、これで浅井との関係は以前より強くなったはずだ。人質として押さえ付ける関係から、名と婚姻で結ばれた関係へ変わった。父上の考え方に、今の時点で明らかな間違いがあるようには思えない。それでも、その先で浅井が六角から離れることを俺は知っている。だからこそ、何が崩れるのかが分からなかった。久政なのか。賢政なのか。浅井の家臣たちなのか。それとも、六角自身が何かを間違えるのか。おそらく一つだけではないのだろう。幾つもの小さな不満や判断が積み重なり、今は六角と浅井を結んでいるものが、いつか逆に浅井を六角から離す理由へ変わる。その途中を知らなければ、俺が持っている「浅井が離反する」という結果だけでは何の役にも立たない。

 

 ただ、先ほどまでとは一つだけ違うこともあった。小夜へ「必ず幸せになるのだぞ」と言った以上、俺自身もその言葉を忘れたくなかった。浅井と六角の関係だけを見て、小夜をその間に結ばれた一本の縄として扱えば、父上がどれだけ政治として正しい判断をしていても、俺まで小夜本人を見失うことになる。もし本当に記憶通りの日が来るとしても、その時に「知っていたことが起きた」で終わらせたくはない。何が起き、何故そうなり、小夜自身が何を思ったのかまで見なければならない。それが未来を知っている俺に出来る、最低限のことのように思えた。

 

 小夜を乗せた一行は、もう見えなくなっていた。それでも今この瞬間だけを見れば、父上が結んだ縁は確かに六角と浅井を繋いでいる。そして、その縁の中には家同士の思惑だけではなく、賢政と小夜という二人の人間もいる。俺はそのことを忘れずに、結び目がどこから緩み始めるのかを見なければならないのだろう。

 

 今はまだ、浅井と六角を結ぶための縁だった。

 

 そして俺は、その縁が二人にとっても良いものであることを願っていた。

 

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