淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第三十二話「結ぶもの」

 浅井新九郎賢政が小谷へ向かってから、十日余りが過ぎた。観音寺城の中から一人分の姿が消えたことにも、ようやく慣れ始めていた。最初の数日は庭を通る時や食事の席で無意識に賢政の姿を探し、そのたびに、あいつはもうこの城で暮らす猿夜叉丸ではないのだと思い直した。同じ城で長く過ごしてきた相手がいなくなるというのは、思っていた以上に日々の暮らしへ影響するらしい。特別な用事があったわけでもないのに、いつもの場所で顔を見掛けなくなったことで、初めてその存在が当たり前になっていたのだと気付かされた。

 

 小谷へ戻った賢政については、三雲対馬守を通して幾つか報告が入っている。浅井下野守久政は嫡男の帰還を表向きには大いに喜び、家中の者たちも新九郎を浅井の次代として迎えたらしい。ただし、六角で元服し、父上から「賢」の一字を受けたことを好意的に見る者ばかりではないという。六角との結び付きを頼もしく思う者がいる一方で、浅井の嫡男にまで六角の名が刻まれたように感じる者もいる。だからといって、すぐに六角へ反抗しようという動きがあるわけではない。今のところは、六角との関係が深い若殿と見る者と、六角に近過ぎる若殿と見る者が同じ小谷の中にいる。それだけだった。

 

 報告を聞いて少し安心したものの、同時に自分自身へ釘を刺す必要も感じた。浅井が六角から離れることを、俺は前世の記憶として知っている。少なくとも以前読んだ物語ではそうなる。だが、その知識を理由に家中の僅かな不満まで離反の兆しと決めつければ、高島で犯したのと同じ間違いを繰り返すことになる。六角への不満を持つ者がいることと、浅井家が実際に兵を向けることは同じではない。その間には人がいて、出来事があり、それぞれの判断がある。賢政が小谷で何を見て、久政が何を選び、浅井の家臣たちが何を求めるのか。途中を知らない俺が結末だけを先に置いて今を測れば、都合の良い材料ばかり拾うようになるだろう。だから今は、起きたことだけを見る。そう決めていた。

 

 そんなある日、再び父上から呼ばれた。部屋へ入ると、先に平井加賀守定武が座っている。以前にも同じ顔触れを見たことを思い出し、そこでようやく賢政の元服と帰国について聞かされた際、加賀守が同席していた理由を確かめていなかったことに気付いた。あの時は猿夜叉丸が賢政となり、小谷へ戻ることに意識を取られ、そのまま流してしまった。だが、平井家の当主がただ見届けるためだけに呼ばれていたとは考えにくい。俺が腰を下ろすと、父上は加賀守へ一度視線を向け、それから前置きもなく告げた。

 

「小夜を儂の養女とする。その上で、新九郎へ嫁がせる」

 

 予想していたわけではなかった。それでも小夜の名を聞いた瞬間、その先に続く言葉だけは分かった。前世の記憶に残っていた出来事が、また一つ目の前で形を持ったからだ。加賀守はすでに話を聞いていたのだろう。驚く様子もなく、静かに頭を下げている。父上は賢政を元服させ、小谷へ戻すと決めた時から、この縁談まで含めて考えていたのかもしれない。そうであれば、あの場に加賀守がいた理由も自然に繋がる。

 

 久政へはすでに縁談を伝えてあるという。父上は、六角から偏諱を受けて帰ったばかりの新九郎へ、さらに自らの養女を嫁がせるのだから、浅井にとっても悪い縁ではないと考えていた。小夜は加賀守の娘であり、そのまま嫁がせても浅井との縁は生まれる。だが一度六角義賢の養女とすることで、小夜は平井の娘であると同時に六角の娘として小谷へ入ることになる。その違いには、家と家の関係を定める上で大きな意味があった。

 

 父上の考えは分かりやすかった。賢政と阿古の方を小谷へ返したことで、人質という最も露骨な楔は自ら外した。その代わり、賢政へ「賢」の一字を与え、今度は養女を妻として送り込む。身体を観音寺城へ置かせて従わせる関係から、名前と婚姻によって浅井の中へ六角との繋がりを残す関係へ変えようとしている。賢政本人だけでなく、その妻まで六角と結ばれていれば、浅井家中から見ても両家の関係は以前より明確になるだろう。

 

「人質を返した代わり、でございますか」

 

 俺がそう尋ねると、父上は僅かに眉を上げた。

 

「代わりではない。人質と婚姻は同じものではない。だが、浅井との繋がりを弱めぬためかと聞かれれば、その通りじゃ。新九郎を返した以上、浅井が六角から離れる理由は減らさねばならぬ。妻が儂の養女であれば、新九郎も久政も六角との縁を軽く扱うことは出来まい」

 

「失礼いたしました」

 

 理屈は分かる。そして、その理屈だけでは浅井を繋ぎ止められない未来を俺は知っている。賢政はいずれ小夜と別れ、小夜は浅井から戻ってくる。その前後に何があったのか、直接の理由が何だったのかまでは曖昧だが、六角との関係を断つ流れの中で婚姻も切られ、それから野良田へ進む。その結果だけは記憶に残っていた。

 

 だからこそ、目の前で父上が合理的に組み立てている縁談が、未来では破綻すると知っていることに妙な気味の悪さがあった。少なくとも今の父上の判断に、明らかな間違いがあるようには見えない。賢政が小谷へ戻ったばかりの時期に婚姻を結べば、浅井家中へ六角との関係を強く示せる。小夜自身も賢政を知っている。それでも最後には崩れるのだとすれば、どこで意味が変わるのか。誰が最初に違う方向を向くのか。それとも一つの大きな間違いではなく、小さなずれが積み重なった末に切れるのか。今の俺にはそこが分からなかった。

 

 父上から何を考えているのかと問われ、俺は縁談を随分と早く進めるのだと思っただけだと答えた。すると父上は、新九郎が小谷へ戻ったばかりだからこそ急ぐのだと説明した。小谷へ帰れば賢政は浅井家の嫡男として扱われる。久政の後継ぎである以上、家臣たちも縁談を考え始めるだろう。越前や美濃、あるいは北近江の有力者との縁を求める者が出ても不思議ではない。他家が入り込む前に六角から良い相手を示せるのであれば、その機会を逃す理由はないという。

 

 これも筋が通っていた。観音寺城にいた間なら、婚姻について六角が大きく関与できた。だが小谷へ戻した以上、浅井家中も賢政の婚姻を自分たちの問題として考え始める。その前に六角との縁を結んでしまう。父上は新九郎を返すことと小夜を嫁がせることを別々に考えているのではなく、一連の手として扱っていたのだろう。

 

 父上が加賀守へ異存はないかと確認すると、加賀守は迷いなく頭を下げた。

 

「ございませぬ。浅井新九郎殿は御屋形様より一字を賜りし御方。娘には過ぎた縁と心得ておりまする」

 

 家臣として考えれば当然なのかもしれない。娘が主君の養女となり、北近江の浅井家嫡男へ嫁ぐ。平井家にとっても大きな縁であり、加賀守自身の六角家中での立場にも影響する。だが俺の頭に浮かんだのは、家と家ではなく小夜本人だった。少し前まで賢政の見送りで「お元気で」と言っていた少女が、今度はその賢政の妻として小谷へ向かうことになる。

 

「小夜は、この話を知っておりまするか」

 

 父上と加賀守の視線がこちらへ向いた。加賀守によれば、まだ詳しくは聞かせていないという。俺は、小夜自身にも思うところがあるのではないかと伝えた。

 

 本人が嫌がれば婚姻を取り止めろ、とまで言うつもりはなかった。この時代の武家の婚姻が、本人同士だけでなく家同士を結ぶためのものであることくらいは理解している。俺自身も、いずれ自分の意思だけでは決められない婚姻をする可能性が高い。それでも、小夜が何も知らされないまま話だけ進められることには抵抗があった。

 

 父上は少し俺を見た後、加賀守へ向き直った。

 

「話してやれ。新九郎を知らぬ相手でもあるまい。それでも観音寺から小谷へ嫁ぐのは小夜自身じゃ。何を思うかくらいは聞いておけ」

 

 加賀守が承知したと頭を下げる。思っていたより簡単に認められたので、少し拍子抜けした。顔に出ていたのだろう。父上が鼻を鳴らした。

 

「儂とて娘を俵のように送り出しておるわけではないぞ」

 

「そのようなことは申しておりませぬ」

 

「顔が申しておったわ」

 

 横で加賀守が笑いを堪えている。これ以上何か言えば余計な話になると判断し、俺は黙って頭を下げた。

 

 *

 

 小夜が縁談について聞かされたのは、その日のうちだったらしい。俺が直接その場へ入ることはしなかった。父親と娘の話にまで首を突っ込む必要はないし、何より俺がいれば小夜も言いたいことを言いにくいだろう。翌日、弥太郎から妹が話を承知したと聞かされた。

 

 あまりにあっさりした報告だったので、小夜が何か言っていなかったか尋ねると、最初は驚いていたものの、新九郎なら全く知らない相手へ嫁ぐよりは良いと話していたらしい。

 

 いかにも小夜らしい答えだった。喜んでいるとも嫌がっているとも違う。何年も顔を合わせてきた相手だから、少なくとも相手がどのような人物なのかは分かっている。今の小夜にとっては、それが一番大きいのだろう。

 

「兄としては、どうなのじゃ」

 

 俺が尋ねると、弥太郎は少し不思議そうな顔をした。妹もいずれは嫁ぐのだから、特に異存はないという。浅井新九郎のことは幼い頃から知っており、乱暴な人物でもなければ、小夜を酷く扱うとも思わない。その言葉には、長く二人を見てきた兄なりの判断があった。

 

 今の賢政なら、俺も同じように思う。小夜を理由もなく酷く扱うような少年ではないし、小夜も賢政を嫌っていない。少なくとも今の時点で、二人の婚姻を悪いものだと考える理由は見当たらなかった。それでも、いずれ終わる。その結果だけが、目の前にいる二人から浮いて見える。

 

 だからといって、未来を知っているつもりの俺が、今の二人へその終わりを重ねて見るのも違うのだろう。

 

「若様。また難しい顔をしておられまする」

 

 弥太郎に指摘され、俺は生まれつきだと答えた。すると、そんな顔で生まれてきたとは思えないと言い返されたので、そもそも生まれた時を知らぬだろうと返す。弥太郎はそれもそうだと笑い、俺もつられて少し笑った。

 

 未来を知っているからといって、今の二人へそれを背負わせるべきではない。高島で思い知らされたのは、俺の知識が結果を知っているだけで、その途中までは保証してくれないということだった。ならば今は、実際に起きていることを見るしかない。

 

 *

 

 数日後、小夜の方から俺のところへ来た。珍しいことだった。小夜とは昔から何度も顔を合わせているが、わざわざ俺を訪ねてくることは多くない。部屋へ通すと、少し緊張した様子で座った。幼い頃ならもっと気軽に話し掛けてきたものだが、俺が元服してからは、こういうところにも僅かな距離ができたように思う。俺自身は中身まで急に変わったつもりなどないのに、名と立場が変われば周囲との間に新しい線が引かれていく。そのことを小夜の様子からも感じていた。

 

「どうした、小夜」

 

「若様に、一つお聞きしたいことがございまして」

 

 改まった様子で尋ねられたのは、小谷がどのような土地なのかということだった。嫁ぐ相手は知っている。だが、嫁ぎ先の暮らしは知らない。少し前まで賢政が抱いていた不安とよく似ていた。

 

「残念ながら、小谷へ行ったことはない。新九郎にも同じことを聞かれてな。いつか来いと、約束までさせられたぞ」

 

 小夜は少し驚いた後、新九郎らしいと笑った。理由を尋ねると、昔から自分が良いと思ったものを人にも見せたがるところがあったのだという。

 

 俺の知らない猿夜叉丸の姿を、小夜は知っているらしい。考えてみれば当然だった。同じ城で育ったのだから、俺がいないところでも二人は何度も顔を合わせてきたはずだ。俺にとって二人は、いずれ夫婦になる者として知り合ったわけではない。それぞれ近くで育ってきた知人だった。前世の記憶に残る婚姻だけを基準に二人を見る方が、むしろ不自然なのだろう。

 

 小谷へ行くことが怖いかと尋ねると、小夜は少し俯き、正直に不安があると認めた。新九郎自身は知っているが、小谷も浅井の家臣たちもほとんど知らない。しかも自分は平井の娘であるだけでなく、父上の養女として嫁ぐことになる。何か間違えば平井家だけでなく、六角家へも迷惑を掛けるかもしれない。そのことが気になっているらしい。

 

 そこまで考えていたのかと、少し驚いた。前世なら、小夜くらいの年齢で家同士の関係まで背負って嫁ぐことなど考えもしなかっただろう。だが小夜は、もう自分が父親だけでなく六角家の名を背負って他家へ入ることを理解している。それが立派だと思う一方で、まだ若い少女がそこまで一人で抱える必要があるのかとも思った。

 

「小夜。間違えるな、とは言わぬ。私とて間違える。父上も間違えることはある。最初から何も間違わずに小谷で暮らせる者などおらぬ」

 

 小夜が顔を上げた。

 

「ですが、私は御屋形様の養女として参りますので……」

 

「それを忘れろとは言わぬ。平井の娘であることもな。だが、六角のために何でも正しくやらねばならぬと思い過ぎるな。実際に小谷で暮らすのは、そなたなのじゃ。まずは向こうのことを知ればよい。分からぬことは聞け。それでも困ったなら、父上や加賀守へ文を送ればよい」

 

 俺の言葉を聞いていた小夜が、少し躊躇うように口を開いた。

 

「若様にも、お送りしてよろしいのでございますか」

 

 不意に尋ねられ、返事が一拍遅れた。

 

「無論じゃ。答えられることなら答えよう」

 

 そう告げると、小夜の表情が僅かに和らいだ。どうやら父親や兄だけでなく、俺にも相談してよいと分かったことが安心に繋がったらしい。

 

 その顔を見ながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 

 いずれ小夜は戻ってくる。浅井から。少なくとも俺の記憶ではそうなる。だが、それを今の小夜へ言うことはできない。まして、どうせ戻ることになるのだから心配するな、などと言えるはずもなかった。これから嫁ごうとしている少女に、俺の曖昧な記憶を理由に終わりを見せる必要はない。それなら今は、小夜がこれから始める生活を、そのまま新しい暮らしとして受け止めるべきなのだろう。

 

 少し空気を変えたくなり、俺は何かあれば新九郎のことでも遠慮なく知らせろと付け加えた。ところが小夜は、何かとは何のことかと真面目な顔で尋ね返してきた。

 

「……何かは何かじゃ」

 

「よく分かりませぬ」

 

「言ってから、何を想定したのか分からなくなった」

 

 小夜が堪え切れずに笑った。

 

「若様は時々、変なことを仰いますね」

 

「時々で済むのか。そなたの兄なら、いつもと申すぞ」

 

「では、兄上の方がよく御存じなのでしょう」

 

 すぐに切り返され、今度は俺が笑う番になった。久しぶりに、小夜と子供の頃と変わらない調子で話した気がした。嫁ぐことが決まったからといって、小夜まで別人になるわけではない。その当たり前のことに、少しだけ安心した。

 

 *

 

 浅井から正式に婚姻を受けるとの返事が届くまで、それほど時間は掛からなかった。久政にとっても、六角義賢の養女を嫡男の妻として迎えることは、六角との関係を確かなものとして示す意味がある。父上は返書を確認すると、小夜を養女とするための手続きを進め、嫁入りの日取りや支度についても加賀守らと話を詰め始めた。賢政を小谷へ帰した時と同じように、今回も一つ一つの手配が滞りなく進んでいく。

 

 その一方で、対馬守から届く小谷の報告にも、少しずつ賢政の姿が増えていった。帰還したばかりの頃は久政の後ろに控えることが多かったが、家臣たちとの顔合わせを重ね、領内の事情を聞く機会も増えているらしい。若い家臣の中には賢政を慕う者も出始めているという。だからといって、久政との間に亀裂が生じているわけではない。少なくとも今は、父と嫡男として同じ場所にいる。

 

 ただし、久政が長く六角へ従ってきたことに不満を持つ者ほど、若い賢政へ期待を寄せる傾向があるらしかった。

 

 何を期待しているのか対馬守へ確認したところ、まだ形のある要求ではないという。若殿であれば浅井を以前のように強くしてくれるのではないか。その程度の言葉が、家中の若い者たちから聞かれるらしい。六角との関係を断つよう求める者も、今のところ表立ってはいなかった。

 

「ならば、今はそれ以上の意味を持たせぬ方がよいな」

 

「御意」

 

 若い当主候補へ期待する。それだけなら、どこの家でも起きることだろう。父親の代に不満があれば、次の代へ期待が集まる。そこからすぐ六角への離反へ繋げれば、それこそ俺が知っている未来に合わせて今を歪めることになる。

 

 それでも、一つだけ気になることはあった。

 

 六角との縁を強くするために賢政を返し、小夜を嫁がせる。父上の一手は理屈が通っている。だが浅井の中で賢政へ期待を寄せる者が、六角との繋がりそのものを久政の弱さの象徴として見るようになれば、その同じ一手が逆の意味を持つ可能性がある。賢政という名も、小夜との婚姻も、六角から見れば浅井との絆だ。だが見る者が変われば、その意味も変わる。

 

 高島で父上から教えられた、言葉は相手へ渡ればこちらだけのものではなくなる、という話とよく似ていた。父上が込めた意味が、浅井の家臣たちにもそのまま伝わるとは限らない。賢政や小夜がその縁をどう受け止め、周囲が二人をどう見るのか。その違いが積み重なった時、何が起きるのかはまだ分からなかった。

 

 今は何も起きていない。だからこそ、起きてもいない離反を前提に動くのではなく、小谷で実際に何が変わっているのかを見続けるしかないのだろう。

 

 *

 

 春も深まり始めた頃、小夜が観音寺城を出る日が来た。

 

 少し前に賢政を見送った時と同じ城門だったが、あの時とは荷の様子も、見送る者たちの顔も違っていた。今回は嫁入りである。衣装や道具が整えられ、父上の養女として恥ずかしくないようにと、平井家だけでなく六角家からも品が用意された。荷を確かめる者、輿の支度をする者、供の者たちへ道中の役目を伝える者が行き交い、出立前の城門周辺には普段とは違う忙しさがあった。

 

 小夜自身もいつもとは違う装いをしている。それでも近くで見れば、緊張を隠そうとしている表情には俺の知っている小夜が残っていた。加賀守は娘へ何かを言い聞かせ、弥太郎は少し離れたところに立って、いつもより妙に口数が少ない。

 

「弥太郎。寂しいのか」

 

「まさか」

 

 即座に否定したくせに、しばらくすると多少は、と小さく付け加えたので笑ってしまった。素直でよろしいと返すと、若様に言われたくはないと不満そうな顔を向けられる。普段ならここからまた言い合いになるところだが、今日は弥太郎もあまり続ける気がないらしい。妹が嫁ぐのだから、兄として思うところはあるのだろう。

 

 やがて小夜がこちらへ近付いてきた。

 

「若様。行って参ります」

 

「ああ。道中、気を付けよ」

 

 小夜は頷いたものの、すぐには離れず、以前約束した文のことを改めて確認してきた。何度も聞かずとも構わぬと答えると、忘れられては困るからだという。賢政からも似たようなことを言われたのを思い出し、思わず苦笑した。どうやら俺は、身近な者たちから約束を忘れそうな人間だと思われているらしい。

 

 冗談を交わしたことで小夜の表情が少し和らいだところで、俺は改めて言葉を選んだ。

 

「小夜、無理をするな。六角の養女として嫁ぐことを忘れろとは言わぬ。平井の娘であることもな。だが、そればかり考えて自分まで無くす必要はない」

 

「……はい」

 

「新九郎にも、妻を困らせるなと右衛門督が申しておったと伝えておけ」

 

 そう付け加えると、小夜は少し困ったように笑った。夫となる相手へそんなことを自分から言うのかと尋ねられたので、夫婦になるのだから最初に伝えておけばよいと返す。小夜はしばらく俺を見た後、承知しましたと頭を下げた。

 

 そのまま父上の前へ進んだ小夜へ、父上は養父として幾つか言葉を掛けた。浅井と六角の間を取り持つこと、新九郎を支えること、困った時には六角を頼ってよいこと。決して長い言葉ではなかったが、その一つ一つがこの婚姻の意味を示していた。

 

 これは小夜と賢政だけの婚姻ではない。平井と浅井を結び、六角と浅井を結ぶための婚姻でもある。父上は、人質を返したことで緩むかもしれない繋がりを、別の形で結び直そうとしていた。少なくとも今は、その結び目はしっかりしているように見えた。

 

 父上への挨拶を終え、小夜が輿へ向かって歩き始める。その後ろ姿を見ながら、俺は最後に何か一つ言っておきたいと思った。

 

 元気でいろ。困ったら文を寄越せ。それならもう伝えた。それ以上に何を言う必要があるのかとも思う。何より、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にすることを躊躇わせる理由が俺にはあった。

 

 俺の記憶では、この婚姻は続かない。小夜はいつか浅井から戻ってくる。

 

 その未来を知っているつもりの俺が、幸せになれと口にすることが、どこか残酷なことのように感じられた。叶わないと知っている願いを掛けるようで、言葉にするのを迷った。

 

 けれど、本当に叶わないと決まったのか。

 

 高島では、俺の想像を越えることが幾つも起きた。竹若丸が勝つという結果は知っていた。それでも、どう勝ち、何を得て、どこで止まるのかまでは分からなかった。今の俺が知っているのは、あくまで前世で読んだ物語の流れに過ぎない。この世界に六角義治として俺がいる以上、全てが同じように進む保証などない。

 

 何より、今ここにいる小夜は、前世で読んだ文章の中の人物ではない。笑えば笑い、怖ければ不安を口にし、俺へ文を送ってもよいかとわざわざ確かめに来た一人の人間だ。賢政も同じだった。俺が覚えている未来を理由に、二人のこれからを最初から終わったものとして見る方が、よほど失礼なのではないか。

 

 そう思った瞬間、迷っていた言葉が口から出た。

 

「小夜」

 

 声を掛けてしまった。小夜が振り向き、少し首を傾げてこちらを見る。隣にいた弥太郎も、何事かという顔を向けた。ここまで呼び止めておいて、やはり何でもないとは言えない。

 

 俺は一度だけ息を整え、記憶の中にある未来ではなく、今目の前にいる小夜へ言葉を向けた。

 

「新九郎と、必ず幸せになるのだぞ」

 

 小夜だけでなく、隣の弥太郎まで驚いた表情をした。自分でも少し驚いていた。武家の婚姻を前にして、家同士の役目でも、浅井を支えろでも、六角との縁を忘れるなでもなく、幸せになれなどと口にする者は多くないのかもしれない。

 

 それでも、言ってしまったことを後悔はしなかった。

 

 小夜はしばらく俺を見た後、ふっと表情を柔らかくした。

 

「はい」

 

 答えはそれだけだった。だが、迷いのない声だった。小夜は丁寧に頭を下げると、今度こそ輿へ向かって歩いていった。

 

 その背を見ながら、必ずという言葉だけが自分の中へ残った。

 

 俺は小夜が浅井から戻る未来を知っている。そう思っている。それでも今、あえて必ずと言った。未来を変えてやると決意したわけではない。そんなことができるとも思っていない。ただ、知っている結末だけを理由に、これから始まる二人の暮らしまで最初から失敗したものとして扱いたくなかった。

 

 少なくとも今の賢政と小夜には、互いを憎む理由などない。小夜は嫁ぐことに不安を抱いているが、相手が賢政であることまで嫌がってはいない。賢政も、小夜を粗末に扱うような少年ではなかった。ならば二人が幸せになる可能性まで、俺の記憶だけで消してしまう必要はないはずだった。

 

 やがて小夜が輿へ入り、一行がゆっくりと動き始めた。賢政を送り出した時と同じように、先頭から順に城門を抜けていく。平井家から付き従う者たちも、六角から添えられた供の者たちも、それぞれの役目に従って進んでいった。

 

 隣の弥太郎は、最後まで妹の輿が消えた方向を見ていた。

 

「行ったな」

 

「はい」

 

 小谷へ行ってみたいかと尋ねると、弥太郎は妹が困っていれば、と答えた。そうでなければどうするのかと重ねて聞けば、別に用はないと言う。その割に、城門の向こうへ向けた視線はなかなか戻ってこない。

 

「嘘が下手じゃな」

 

「若様ほどではございませぬ」

 

 言い返すだけの元気はあるらしい。俺が少し笑うと、弥太郎は今度はこちらを見て、随分なことを言ったものだと指摘してきた。

 

「必ず幸せになるのだぞ、とは。兄である私でも、あれほどのことは申せませぬ」

 

「聞いておったのだから、わざわざ繰り返すな。それに兄なら、なおさら言ってやればよかろう」

 

「兄だからこそ、あのようなことを真顔では申せませぬ」

 

「ならば、言って正解だったではないか」

 

 弥太郎の口元が少し緩んだ。からかわれているのか、礼を言われているのか分からない。恐らく、そのどちらでもあるのだろう。それ以上は何も言わず、俺も城門の向こうへ視線を戻した。

 

 猿夜叉丸を賢政として小谷へ返し、その賢政へ小夜を父上の養女として嫁がせた。六角から見れば、これで浅井との関係は以前より強くなったはずだ。人質として押さえ付ける関係から、名と婚姻で結ばれた関係へ変わった。父上の考え方に、今の時点で明らかな間違いがあるようには思えない。それでも、その先で浅井が六角から離れることを俺は知っている。

 

 だからこそ、何が崩れるのかが分からなかった。

 

 久政なのか。賢政なのか。浅井の家臣たちなのか。それとも六角自身が何かを間違えるのか。恐らく一つだけではないのだろう。幾つもの小さな不満や判断が積み重なり、今は六角と浅井を結んでいるものが、いつか逆に浅井を六角から離す理由へ変わる。その途中を知らなければ、俺が持っている浅井が離反するという結果だけでは何の役にも立たない。

 

 ただ、先ほどまでとは一つだけ違うこともあった。

 

 小夜へ必ず幸せになるのだぞと言った以上、俺自身もその言葉を忘れたくなかった。浅井と六角の関係だけを見て、小夜をその間に結ばれた一本の縄として扱えば、父上がどれだけ政として正しい判断をしていても、俺まで小夜本人を見失うことになる。

 

 もし本当に記憶通りの日が来るとしても、その時に知っていたことが起きたというだけで終わらせたくはない。何が起き、何故そうなり、小夜自身が何を思ったのかまで見なければならない。それが未来を知っている俺にできる、最低限のことのように思えた。

 

 そして、それは賢政についても同じだった。

 

 あいつが小谷で何を見て、何を考え、浅井家中の者たちとどのような関係を築いていくのか。久政と同じ道を歩くのか、それとも別の考えを持ち始めるのか。そこへ小夜が嫁ぐことで、何が変わるのか。今はまだ、誰にも分からない。

 

 小夜を乗せた一行は、もう見えなくなっていた。それでも今この瞬間だけを見れば、父上が結んだ縁は確かに六角と浅井を繋いでいる。そしてその縁の中には家同士の思惑だけでなく、賢政と小夜という二人の人間もいる。

 

 これから浅井で何が起こるのかは分からない。前世の記憶にある結末が近付いているとしても、まだ何も起きていない今から二人の行く末を決めつけることはしたくなかった。

 

 今はまだ、浅井と六角を結ぶための縁だった。そして俺は、その縁が二人にとっても良いものであることを願っていた。

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