小夜が小谷へ嫁いでから、四月ほどが過ぎた。その間にも小夜から文は何度か届いたが、新九郎の名が書かれることは最後までなかった。最初の頃には小谷の景色や城内で覚えたことが細かく書かれていた文も、月日が経つにつれて少しずつ短くなっていった。それでも、自分は元気にしているという一文だけは必ず入っていた。新九郎から届く文も同じだった。浅井の土地を見て回ったこと、家臣たちから話を聞いたこと、観音寺城にいた頃には知らなかったことが多いと気付いたこと。俺との約束について触れることはあっても、小夜については一言もない。二人が互いについて書かないという不自然さは、もはや偶然とは思えなくなっていたが、それでも俺たちには何が起きているのか確かめる術がなかった。
篠や宗兵衛から拾った話を重ねれば、小夜が浅井家中で幸福な新妻として扱われていないことくらいは想像出来た。それでも「新九郎が小夜を妻として遠ざけている」と断じられるほどの証はない。俺は何度も小夜へ直接問い掛ける文を書こうとし、その度に筆を置いた。何か困っているのかと聞けば、小夜は恐らく「大丈夫です」と答えるだろう。もっと踏み込んで新九郎との仲を問えば、六角右衛門督が浅井家嫡男とその妻の関係を疑っているという意味まで生まれる。兄である弥太郎でさえ、妹本人が何も言わない以上は待つしかないと堪えていた。俺だけが立場を忘れて踏み込むわけにはいかなかった。
だから、何かが起きていると分かりながら待った。
そしてある朝、その答えは文ではなく人の姿で観音寺城へ戻ってきた。
その日は朝から妙に弥太郎の姿が見えなかった。普段であれば俺が朝餉を終える頃には側へ来ているはずなのに、使いを出しても平井の屋敷へ行っているという返事しかない。父親である平井加賀守に急な用でも出来たのかと思っていたところ、昼を少し過ぎた頃になってようやく戻ってきた。部屋へ入ってきた弥太郎の顔を見た瞬間、何か良くないことが起きたと分かった。いつものように軽口を交わす気配もなく、俺の前へ座るとしばらく俯いたまま口を開こうとしない。
「何があった」
問い掛けると、弥太郎の喉が僅かに動いた。
「……小夜が戻りました」
その一言で、何を意味しているのかほとんど分かった。それでも、確認しないわけにはいかなかった。
「戻った、とは」
「浅井から離縁され、今朝方、父上のもとへ送り返されました」
思った以上に、自分の中で何かが強く動いた。驚きではない。この未来は知っていた。小夜が浅井から戻されることも、その後に野良田へ繋がっていくことも、細部は曖昧でも覚えている。だからいつか来るとは思っていた。それなのに、実際に弥太郎の口から「離縁された」と聞くと、知識として覚えていた出来事とはまったく別の重さがあった。
「理由は」
「浅井からは、詳しいことは何も。縁を解く、その旨だけにございます」
「小夜は何と」
「何も」
弥太郎の声が硬い。
「戻ってから父上と少し話しただけで、自分の部屋へ入ったままにございます」
「新九郎に何かされたのか」
「分かりませぬ」
そこで弥太郎が顔を上げた。その目には普段見せない怒りがあった。
「若様。妹が何をしたのでございましょう」
答えられなかった。
「小夜が何をしたから、四月で妻を返されねばならぬのでございますか。新九郎様を存じている相手だからと、小夜はこの婚姻を受け入れました。六角の養女として役目を果たさねばならぬとも申しておりました。それが、何故」
「弥太郎」
「……申し訳ございませぬ」
「謝るな。俺にも分からぬ」
いや、推測なら出来る。小夜本人に問題があったのではなく、小夜が「六角義賢の養女」であることに意味があったのではないか。賢政という名も同じだ。父上から一字を受けた名を持ち、六角で元服し、六角の養女を妻として迎える。浅井家中で六角への従属を嫌う者から見れば、その全てが賢政を縛るものに映った可能性がある。新九郎自身がどう考えたのかまでは分からない。それでも婚姻の日から小夜を遠ざけていたのだとすれば、小夜個人ではなく、その背後にいる六角を拒んでいたと考える方が筋は通る。
だが、それを今の弥太郎へ言えるか。
お前の妹は六角の養女だったから拒絶されたのだと。
言えるはずもなかった。
「小夜に会ってもよいか」
俺が尋ねると、弥太郎は少し迷ってから頷いた。
「父上に聞いて参ります」
「無理ならよい。今は誰にも会いたくないのであれば、そうしてやれ」
「はい」
弥太郎が立ち上がる。襖へ手を掛ける前に一度止まり、こちらを振り返った。
「若様」
「なんじゃ」
「某は、新九郎様を許せそうにございませぬ」
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。俺だって、今は似たようなものだった。
*
平井加賀守から「小夜が若様にお会いしたいと申しております」と返事が来たのは、その日の夕方だった。俺は弥太郎を伴って平井の屋敷へ向かった。普段なら何度も出入りしている場所なのに、その日は妙に静かに感じられた。屋敷の者たちも俺たちへいつも通り頭を下げるが、その表情には何かを気遣うようなものが混じっている。それを見た時、篠から聞いた「お気の毒だ」という言葉が頭に浮かんだ。
小夜は、皆からこういう目を向けられているのかもしれない。
加賀守に案内された部屋へ入ると、小夜は奥に座っていた。嫁入りの日に見た華やかな衣装ではない。以前観音寺城で暮らしていた頃とそう変わらない装いだったが、僅か四月前より随分と小さく見えた。痩せたというほどではない。それでも肩を少し内側へ縮め、俺たちが入ってきてもすぐには顔を上げなかった。
「小夜」
「……若様」
顔を上げた小夜は笑おうとしたようだったが、上手くいかなかった。
「お帰りなさいませ」
一瞬、言葉を失った。
俺が訪ねてきたのに、小夜の方から俺へ挨拶をする。その癖があまりにも以前と変わらなくて、余計に胸が詰まった。
「ただいま、でよいのか?」
そう尋ねると、小夜は僅かに笑った。
「はい。ここは若様のおられる御城にございますから」
「そうか」
弥太郎は俺の後ろへ控えたまま何も言わない。兄として聞きたいことはいくらでもあるだろう。それでも小夜が自分から口を開くまで待つつもりらしい。
「身体は」
「何ともございませぬ」
「本当に?」
「はい」
「食べておるか」
「兄様と同じことを仰いますね」
「兄妹二人とも頑固だからな。聞かねば答えぬであろう」
小夜がまた少しだけ笑った。以前のような笑い方とは違ったが、それでも笑えることに少し安心した。
「小夜。聞いてもよいか」
小夜の表情から笑みが消えた。それでも頷いた。
「新九郎とは、何があった」
長い沈黙があった。
俺は急かさなかった。弥太郎も動かない。やがて小夜は膝の上で重ねていた手を少し強く握り、俯いたまま口を開いた。
「嫁いだ日に、新九郎様へ御挨拶をいたしました」
「ああ」
「妻として、これからよろしくお願いいたします、と。少し近付こうとしましたら……触れるな、と」
後ろで弥太郎の息を呑む音がした。
「それから、馴れ合うつもりはない、と仰いました」
胸の奥で怒りが湧いた。新九郎とは幼い頃から何度も話してきた。小谷へ戻る日には笑って別れ、いつか小谷を案内すると約束までした。その男が、小夜には婚姻の初日からそんな態度を取っていた。
「何故じゃ」
「分かりませぬ」
「何か聞かなかったのか」
「聞けませんでした」
小夜の声は小さい。
「その後も、新九郎様から私のところへおいでになることはございませんでした。私からお話ししようとしたこともございます。でも……お忙しいと。やがて、それもせぬ方が良いのだと思うようになりました」
「文には何故書かなかった」
問い掛けてから、少し強い言い方になったことに気付いた。
「責めているわけではない。ただ、俺にも弥太郎にも、困った時には書けと言ったであろう」
「……書けば、皆様を困らせます」
やはり。
「御屋形様の養女として嫁ぎました。私が新九郎様とうまくいっておらぬと書けば、父上にも御屋形様にも御迷惑をお掛けします。それに、若様は……」
「俺が?」
小夜はそこで一度言葉を止めた。
「幸せになるのだぞ、と仰いましたから」
胸を突かれたような気がした。
「小夜、それは――」
「若様を責めているのではございません」
小夜が慌てて顔を上げた。
「嬉しかったのです。私も、新九郎様となら上手くやっていけると思っておりました。ですから……もう少し待てば、何か変わるのではないかと。私が小谷のことを覚えれば、新九郎様にも認めていただけるのではないかと」
俺は何も言えなかった。
自分の言葉が小夜を黙らせたのかもしれないと考えていた。その通りだった、と単純に言うのも違うのだろう。小夜自身も上手くいくことを願っていた。その願いの中に、俺の言葉も少し混じっていた。それだけだ。それでも「必ず」と言ったことが、今になって重かった。
「すまぬ」
「若様が謝られることではございませぬ」
「それでもじゃ。俺はお主に、幸せになれと言った。何かあれば文を寄越せとも言った。それなのに、お主が何も書かぬからと待っておった」
「私が書かなかったのでございます」
「だからといって、俺が気付かなくてよい理由にはならぬ」
小夜は少し困ったような顔をした。これ以上謝れば、今度は小夜が俺を慰めることになる。それは違うと思い、言葉を止めた。
「新九郎を、まだ想っておるのか」
少し迷ってから尋ねると、小夜は驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくり首を横へ振った。
「分かりませぬ」
「分からぬ?」
「新九郎様をお慕いして嫁いだわけではございません。嫌いでもございませんでした。見ず知らずの御方へ嫁ぐより、ずっと良いと思っておりました。でも……」
小夜はまた俯いた。
「今、悲しいのは新九郎様と離れたからなのか、自分でも分かりませぬ」
その答えは意外だった。俺は勝手に、離縁されたのだから新九郎への未練で傷付いている可能性を考えていた。だが小夜の口から出たのは、それとは違うものだった。
「では、何が辛い」
小夜はすぐには答えなかった。しばらくして、膝の上の手が僅かに震えた。
「皆の目が、怖うございます」
ようやく分かった。
「戻ってきてから、皆様がお優しくしてくださいます。屋敷の者も、城の方々も、誰も私を責めませぬ。でも、だからこそ……」
声が少し震えた。
「可哀想な娘だと思われているのではないか。夫に捨てられた女だと思われているのではないか。何か悪いところがあったのではないかと、皆様が考えているのではないか。そう思いますと、人の顔を見るのが怖くて……」
俺が屋敷へ入った時に感じた空気を思い出した。
皆が小夜を気遣っていた。
悪意など無い。
それでも小夜からすれば、その気遣いそのものが「離縁された女」として見られている証に感じられるのだ。
「小夜」
「はい」
「俺は、お主が可哀想だとは思っておる」
小夜が顔を上げた。弥太郎まで驚いたようにこちらを見る。
「若様……」
「だが、お主が恥ずかしいとは思っておらぬ」
出来るだけゆっくり言った。
「離縁されたことと、お主が何をしたかは同じではない。少なくとも今聞いた限り、お主が新九郎に何かをしたわけではない。嫁げと言われて小谷へ行き、そこで暮らそうとした。それだけであろう」
「ですが……」
「皆が何を考えているかまでは、俺にも決められぬ。中には勝手なことを考える者もいるかもしれぬ。止めることも出来ぬ」
そこで一度言葉を切った。
「だから、今すぐ外へ出ろとも、気にするなとも言わぬ。怖いなら、しばらくここにおればよい。だが、お主まで自分を恥じる必要はない」
小夜の目に涙が浮かんだ。それでも泣き声は出さなかった。
「……はい」
後ろにいた弥太郎が顔を逸らした。
俺もそれ以上は何も言わなかった。
*
小夜が帰ってきたことは、その日のうちに父上の耳にも入っていた。いや、浅井から正式に離縁を告げる使者が来ている以上、俺より先に知っていたのだろう。小夜と話した翌朝、評定へ呼ばれた。六人衆が揃い、平井加賀守も普段通り席についている。表情は平静だったが、娘をわずか四月で返された父親として何も思っていないはずはなかった。
「浅井は、小夜を返してきた」
父上が最初に口にした。
「これは夫婦だけの話と思うか」
誰もすぐには答えなかった。
後藤但馬守が低い声で言う。
「思えませぬな。小夜殿は平井殿の娘であると同時に、御屋形様の養女にございます。それを理由も明らかにせず返す。六角との縁を軽んじていると見られても仕方ありますまい」
「加賀守」
「はっ」
「そなたはどう思う」
平井加賀守は少し間を置いた。
「父親として申せば、腹立たしゅうございます」
率直な言葉だった。
「されど六角の臣として申せば、新九郎殿一人の感情だけで決めたものかを確かめる必要があるかと存じまする」
俺は加賀守を見た。娘を返された直後でも、家臣としての判断を分けている。その姿に少し頭が下がる思いがした。
「対馬」
父上が三雲対馬守へ向く。
「浅井はどうなっておる」
「動きがございます」
場の空気が変わった。
「新九郎殿の周囲へ集まっていた者たちの動きが、以前よりはっきりしておりまする。浅井下野守殿と新九郎殿の間でも意見が割れることが増えているようにございます。ただし、どこまでが親子の争いで、どこからが六角との関係を巡るものかは、まだ掴み切れておりませぬ」
「兵は」
「今すぐ六角へ向ける様子はございませぬ。しかし、武具や兵糧を改めて数えている家はございます」
以前なら、その報告だけで「野良田が近い」と結論したかもしれない。今は違う。武具を数える理由はいくらでもある。浅井家中の主導権争いのためかもしれないし、他家への備えかもしれない。だが、小夜の離縁と同時に動きが大きくなっていることまで無関係と考えるのも無理があった。
「父上」
「なんじゃ」
「小夜を返したことは、六角との縁を切るための一つではございませぬか」
「そう見るか」
「まだ断じることは出来ませぬ。ですが、婚姻は父上が浅井との縁を強くするために結んだものでございます。その小夜を返すのであれば、浅井側もその意味を承知しているはずです」
父上は何も言わない。
「少なくとも、新九郎個人が小夜を嫌ったというだけで済ませるのは危ういかと」
自分で言いながら、胸の中に苦いものが残った。小夜にとっては、夫から拒絶されたことが何より大きい。だが六角右衛門督として評定へ座れば、その拒絶を「六角との関係を切る政治的な動き」として見なければならない。同じ出来事を、二つの目で見ている。そのことが嫌だった。
父上はしばらく黙った後、三雲対馬守へ向き直った。
「浅井を見よ。だが騒ぐな」
「はっ」
「新九郎だけを見るな。久政も、家臣どももじゃ」
俺は僅かに父上を見る。
新九郎だけを見るな。
その言葉が引っ掛かった。
「父上は、下野守殿も疑っておられるので?」
「疑うというほどではない」
父上は俺を見た。
「だが、そなたは新九郎が戻ってから新九郎ばかり見ておったであろう」
否定出来なかった。
「若い嫡男の周りへ者が集まり、いずれその者が父を退けて六角へ背く。そなたはそういう形を頭に置いているように見えた」
ぎくりとした。
「何故そうなると決める。久政が六角に従っておるからといって、腹の内まで六角に従っているとは限らぬ。家臣どもが新九郎へ期待しているからといって、新九郎が最初からその期待に応えているとも限らぬ。見える者だけを見ておれば、見えぬところで動いた者を取り逃がすぞ」
何も返せなかった。
前世で知っている浅井長政――今の賢政――を中心に考え過ぎていた。
野良田で六角と戦うのは賢政だ。
だから俺は、その戦へ至る動きも賢政の周囲から始まるものだと、どこかで決めていた。
だが、そうとは限らない。
「……承知いたしました」
「ならば見よ。今度は一人ではなく、浅井という家をな」
「はい」
父上はそこで評定を次の話へ進めたが、俺の中にはその言葉が残った。
*
それからしばらく、小夜は平井の屋敷からほとんど出なかった。俺も無理に外へ連れ出そうとはしなかったし、弥太郎も同じだった。時々様子を見に行けば、最初の頃より話すようにはなっていたし、屋敷の女たちと笑う声も少しずつ聞こえるようになった。それでも人が多い場所へ出ることは嫌がった。俺は城門で「幸せになるのだぞ」と言った時のことを何度も思い出したが、新九郎との婚姻が終わったからといって、小夜が幸せになる道そのものまで終わったわけではない。いずれ別の縁があるかもしれないし、そうでなくとも小夜自身の暮らしは続いていく。だが、そんな先のことを今の小夜へ言っても意味は無いだろう。まずは人の目を怖がらずに済むようになること、それだけで十分だと思った。
一方で、浅井から上がってくる報告は少しずつ変わっていった。以前は「新九郎の周りへ人が集まっている」程度だったものが、久政と家臣たちの間で話し合いが増えている、使者の往来が以前より多い、兵糧の数を調べる家がある、と具体的になり始めた。それでも六角へ兵を向けるという決定的な話は出てこない。父上も兵を集めることはせず、三雲へ目を増やすよう命じるだけに留めていた。俺もそれに倣って待った。ただし今度は、前世で知っている未来へ先回りして答えを出すためではない。小夜の離縁と浅井家中の動きが本当に繋がっているのか、久政と新九郎のどちらが何を考え、家臣たちがどこへ向かおうとしているのか、それを出来る限り今ある材料から見極めるためだった。
季節が一つ進んだ頃、その待ち時間を終わらせるように弥七が自室へ入ってきた。いつもなら道の状態や人馬の動きを順序立てて話す男が、その日は座る前から顔を硬くしている。それだけで、単なる道の報告ではないことが分かった。
「若様」
「どうした」
「北近江で動きがございます」
「浅井か」
「はい」
俺は手にしていた筆を置いた。すぐに野良田という名を頭へ浮かべそうになったが、まだ何も聞いていないうちから結論へ走るなと自分を抑え、続きを促した。
「申せ」
「浅井方の者が、六角方の国人へ接触しておりまする」
「誰に」
「まだ全ては掴めませぬ。ですが、愛知郡の方へ何度か使いが入っております」
「寝返りを誘っておると?」
「そこまでは分かりませぬ。使者が行き来していることまでにございます」
弥七の答えを聞きながら、記憶の底から幾つかの名が浮かび上がってきた。高野瀬備前守、肥田城、そして野良田。前世で読んだ流れを当てはめれば、その使者が何のために動いているのか答えを出すことは簡単だった。だが、高島で何度も思い知らされたように、知っている結果から途中を埋めれば、見たいものだけを見ることになる。愛知郡へ浅井の使者が入っている。それが今分かっている事実であり、誰に何を持ち掛けているかはまだ分からない。俺は浮かんだ名前を口には出さず、弥七へ確認した。
「対馬守には」
「すでにお伝えしておりまする」
「分かった。引き続き見よ。誰が、いつ、どこへ入ったか。それだけでよい。中身が分からぬものを、分かったように持ってくるな。特に俺が聞きたがっている答えへ合わせる必要はない」
「承知いたしました」
弥七が下がった後、俺は先ほどまで書いていた帳面へ視線を戻したものの、すぐに筆を取ることは出来なかった。小夜が戻ってきて、父上が浅井との間に結んだ婚姻はわずか四月で切れた。その時点では、新九郎個人が小夜を拒んだだけなのか、それとも浅井が六角との関係そのものを変えようとしているのか、まだ判断出来なかった。だが今度は、浅井方の使者が六角方の国人がいる愛知郡へ出入りしている。まだ戦ではないし、浅井が六角へ反旗を翻したわけでもない。使者の目的さえ確認出来ていない以上、何も決まってはいない。それでも、小夜が帰ってくる以前と同じ状態ではないことだけは確かだった。俺の記憶にある未来へ、目の前の出来事が少しずつ形を持って近付いている。その感覚だけは、もう無視出来なかった。
野良田という名が、久しぶりにはっきりと頭へ浮かんだ。だが俺は、その二文字を帳面へ書かなかった。まだ起きていない戦の名を先に書いてしまえば、これから入ってくる報告を全て「野良田へ向かう兆し」として読むようになる気がしたからだ。代わりに筆を取り、弥七が持ち帰った事実だけを残した。――浅井方の使者、愛知郡方面へ出入りあり。今の俺が帳面へ書いてよいのは、そこまでだった。小夜との縁はすでに切れたが、六角と浅井を結んでいたものまでどこまで切れ始めているのかは、まだ分からない。だからこそ次に見るべきなのは、知っている未来ではなく、この一行の先で実際に誰が動き、誰が何を選ぶのかだった。