2026/10/21 文章整理
小谷へ着いた日のことを、小夜は後になっても忘れられなかった。
観音寺城を発つ時、不安がなかったわけではない。長く暮らした城を離れ、ほとんど知らない土地で新しい生活を始める。浅井家の者たちが自分をどう迎えるのか、六角の養女として何を求められるのかも分からなかった。それでも嫁ぐ相手は見ず知らずの男ではない。幼い頃から何度も顔を合わせ、猿夜叉丸と呼ばれていた時から知っている新九郎だった。乱暴なところのある少年ではなく、話し掛ければ普通に答え、時には一緒に笑ったこともある。小谷へ戻る日の別れも、特別なものではなかった。互いに息災でいるよう言葉を交わし、また会う日が来るのだろうと自然に思えた。
六角家の養女として嫁ぐ以上、浅井と六角の間を繋ぐ役目があることは理解している。父の平井加賀守からも、養父となった六角義賢からも、その立場を忘れぬよう言い聞かされていた。だが家同士の結び付きだけが夫婦ではないとも思っていた。初めから深く親しいわけではなくとも、これまで知っていた相手なら、少しずつ夫婦としての関係を築いていける。知らない土地へ行く怖さはあっても、知らない男の妻になる怖さはない。そのことだけでも、自分は恵まれているのだと小夜は考えていた。
何より、観音寺城を出る直前に若様から掛けられた言葉が、今も心に残っている。
──新九郎と、必ず幸せになるのだぞ。
呼び止められて振り向いた時、若様はいつになく真面目な顔をしていた。家のために尽くせとも、六角の娘であることを忘れるなとも言わず、ただ幸せになるようにと願ってくれた。小夜はその言葉が嬉しくて、迷うことなく頷いたのだった。
小谷へ着いてからは、休む間もなく挨拶が続いた。婚姻のために整えられた衣を身にまとい、浅井家の者たちへ礼を述べ、阿古の方にも迎えられた。見知らぬ顔が多く、呼ばれた名や相手の立場を覚えるだけでも精一杯だったが、失礼のないよう一つずつ応じた。自分が平井の娘としてだけでなく、六角の養女として見られていることも分かる。だからこそ、慣れない場でも姿勢を崩さずにいようと努めていた。
そして、ようやく夫となった新九郎と向き合った時、小夜は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。周囲には知らない者ばかりだったが、目の前にいるのは昔から顔を知っている相手だ。元服して新しい名を持ち、装いも以前とは変わったものの、その顔には観音寺城で見ていた猿夜叉丸の面影が残っている。
「新九郎様。今後は妻として、どうぞよろしくお願いいたします」
小夜は丁寧に頭を下げ、顔を上げると、ほんの少しだけ相手との距離を詰めようとした。昔のように気軽に話すことはできなくとも、まずは夫婦としての挨拶を交わしたかった。ところが、その瞬間、新九郎の手が小夜を制するように上がった。
「触れるな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。聞き間違いかと思い、反射的に新九郎の顔を見たが、そこに冗談を言った時のような笑みはない。観音寺城で見ていた猿夜叉丸とも、小谷へ帰る日に笑っていた新九郎とも違う、冷えた表情だった。
「……新九郎様?」
「馴れ合うつもりはない」
続いた言葉で、聞き間違いではないことだけは分かった。
何故、と尋ねようとしても声が出ない。自分は何か失礼なことをしたのだろうか。挨拶の仕方が悪かったのか、近付き過ぎたのか。それとも六角の養女として嫁いできたことが気に入らないのか。平井の娘だからなのか、あるいは自分自身に何か不満があるのか。考えても答えは見つからなかった。
知らない相手なら、初めから警戒されることもあるのだと思えたかもしれない。だが目の前にいるのは何年も顔を合わせてきた新九郎だった。小夜が知っている彼は、少なくとも理由もなく人を遠ざけるような少年ではなかった。その相手から、説明もないまま拒まれたことが、すぐには受け止められなかった。
もう一度近付くことも、何が悪かったのかと尋ねることもできず、小夜はその場に立ち尽くした。婚姻のために整えられた衣が、急に自分のものではないように感じられる。ようやく知っている相手へ会えたと思ったのに、その相手が今は誰よりも遠くにいるようだった。
観音寺城を出る前、若様から掛けられた言葉が頭に浮かんだ。
あの時は迷わず頷いた。新九郎となら、きっと少しずつ夫婦になっていける。そう思っていた。
だが今は、何をすればその言葉に応えられるのかさえ分からなかった。
*
小夜を小谷へ送り出してから半月ほど経った頃、最初の文が届いた。俺へ直接宛てられたものだった。
嫁ぐ前から小夜は、文を送ってもよいかと何度も確かめていた。だから届いたこと自体に驚きはなく、むしろ思っていたより早かったな、という程度だった。封を開きながら、弥太郎にも後で見せてやろうかなどと考えていた。
内容も、一見すれば何もおかしくない。小谷には無事に着き、阿古の方にも挨拶を済ませたこと。観音寺城とは土地の様子が随分違い、覚えることが多いこと。山の風は思っていたより冷たく、まだ慣れないことも多いが、自分は元気にしているので心配はいらないこと。最後には俺と弥太郎、それに父親である加賀守へ、身体を大事にするよう伝えてほしいと添えられていた。
文章は小夜らしく、必要なことをきちんと伝えながらも、見慣れない土地への戸惑いが所々に滲んでいる。小谷での暮らしにまだ慣れていない様子は窺えたが、初めて訪れた土地であれば当然のことだろう。無事に着いたと分かっただけでも十分だと思い、文を畳みかけたところで手が止まった。
何かが足りない。
もう一度開き、今度は最初からゆっくりと読み直した。内容に不審なところがないか確かめるというより、先ほどから感じている違和感の正体を探すように目を動かす。
新九郎の名前が、一度も書かれていなかった。
小谷へ嫁いだからといって、夫について必ず書かなければならないわけではない。まして俺へ送る文なのだから、新しい土地での暮らしや観音寺城に残した者への気遣いだけでもおかしくはなかった。それでも出立前の小夜は新九郎のことを自然に話していた。昔から、自分が良いと思ったものは人にも見せたがる御方でした、と笑っていたくらいだ。
ところが嫁いだ後の最初の文には、夫となった相手について何一つ書かれていない。仲が良いとも悪いとも、忙しいとも元気にしているともない。本当に名前すらなかった。
「弥太郎。小夜から、そなたにも文は来たか」
「昨日届きました」
「新九郎のことは書いてあったか」
弥太郎の表情が僅かに変わった。その反応だけで、似たようなことを考えていたのだと分かる。
「……いえ。小谷へ無事に着いたことや、阿古の方様に良くしていただいていること、それに城内で知らぬ者が多く、覚えるのが大変だという話にございました。父上へも心配なさらぬよう伝えてほしい、と」
「こちらへ来たものと、ほとんど同じじゃな」
俺が新九郎の名は一字もなかったと告げると、弥太郎は黙り込んだ。兄なのだから、妹の文に少しでも気になるところがあれば当然心配するだろう。だが今のところ材料は文が二通あるだけだった。
小夜が新しい暮らしに慣れることで精一杯なのかもしれないし、新九郎も浅井家の嫡男として忙しくしているのかもしれない。俺が幸せになれと送り出したからこそ、勝手に幸せそうな文が届くことを期待していた可能性もある。期待していたものが書かれていないからといって、何か問題が起きていると決めつければ、それこそ俺自身が見たいものを見ようとしているだけになる。
「気にし過ぎであろうか」
そう口にすると、弥太郎は少し迷ってから首を横へ振った。
「私も、少し気にはなっておりました」
何故先に言わなかったのかと尋ねると、まだ嫁いだばかりであり、小夜自身が何も訴えていないのに兄が勝手に騒ぐのも違うと思ったのだという。その考えはもっともだった。俺も同じ違和感を覚えているからといって、弥太郎の慎重さを責める理由にはならない。
ただ、二人が別々に同じことを気にしたのは確かだった。
だからこそ、今は何もしない方がよいと思った。小夜本人が助けを求めているわけではない。ここで篠を小谷へ入れ、夫婦の様子を探らせるなど論外だ。妹の夫婦仲を忍びに調べさせるなど、弥太郎に対しても小夜に対してもできることではないし、六角の者が浅井家中へ無用な目を向ければ、それだけで政治的な意味まで生まれてしまう。
「今は何もするな。次の文を待とう。小夜が困っておれば、何か書いてくるかもしれぬ」
「……妹は、書くでしょうか」
弥太郎の言葉に、すぐには返せなかった。
小夜は自分から文を送ってもよいかと尋ねてきた。困ったことがあれば知らせろとも伝えてある。だから俺は、何かあれば書くだろうと思っていた。だが本当にそうだろうか。六角の養女として嫁いだばかりの小夜が、夫とうまくいっていないと観音寺へ書けば、それはただの夫婦の愚痴では済まない。六角と浅井を結ぶ婚姻そのものに問題があると知らせることになる。父上や平井家を心配させることも、小夜なら理解しているだろう。
自分一人が我慢すれば済むと思えば、あの娘は黙ってしまうかもしれない。
「……分からぬ。だから、今は待つしかあるまい」
書かれていないことを勝手に埋めてはいけない。だが、書かれていないから何もないとも決めてはいけない。その両方を忘れないようにしなければならなかった。
*
それから数日して、今度は新九郎から文が届いた。小谷へ戻ってから初めての便りだった。
内容は、以前交わした約束を思い出させるようなものだった。帰国してようやく家中の者たちの顔を少しずつ覚えてきたこと。父である浅井下野守から領内の事情を教わっていること。観音寺城で暮らしていた頃とは違い、自分が知らなかった浅井のことがいくらでもあると気付かされたこと。最後には以前の約束通り、いつか俺が小谷へ来ることがあれば自分が案内すると書かれていた。
読みながら、少しだけ笑った。
新九郎らしい。観音寺城を出る日に、約束を忘れないよう何度も念を押してきたことを思い出す。小谷へ戻っても、少なくとも俺との関係まで急に変えるつもりはないらしい。そのことには素直に安心した。
だが最後まで読み終えると、また手が止まった。
小夜の名前がない。
小夜の文には新九郎がいない。新九郎の文には小夜がいない。文を机の上へ並べると、その不自然さが余計にはっきりした。互いを嫌っていると書かれているわけではなく、夫婦仲が悪いとも書かれていない。ただ、互いがまるで存在しないように文の中から抜け落ちていた。
弥太郎も文を確かめ、同じことに気付いたらしい。新九郎へ直接尋ねるべきかと考えたが、妹を大事にしているかと問えば、相手を疑っているようにしか聞こえない。それも六角右衛門督の名で尋ねれば、ただの世間話では済まなくなる。
「……それは、嫌味にしか聞こえぬな」
「私もそう思いまする」
少しだけ苦笑したものの、胸の内の違和感は消えなかった。
夫婦になったからといって、文の中で必ず相手について触れるものだと決まっているわけではない。だが二人ともが同じように、互いの名だけを避けている。偶然で片付けるには、少し整い過ぎている気がした。
その夜、俺は二人からの文をもう一度読み直した。小夜は元気だと書いている。新九郎も小谷でやるべきことを見つけ始めている。どちらも嘘を書いているようには見えない。だからこそ厄介だった。二人とも本当のことを書きながら、大事な何かだけを伏せているのかもしれない。
城門で小夜を呼び止めた時のことを思い出した。
──新九郎と、必ず幸せになるのだぞ。
小夜は迷わず頷いた。その時の笑顔まで覚えている。
もし何か起きているのなら、俺が掛けた言葉は小夜にとって重荷になっていないだろうか。幸せになれと言われたから、うまくいっていないことを言い出せなくなっているのではないか。そんな可能性まで浮かび、嫌な気分になった。
けれど、それもまだ推測でしかない。自分を責める材料さえ、今の俺には足りていなかった。
*
しばらくして、三雲対馬守から小谷についての報告が上がった。俺が小夜と新九郎のことを特別に調べさせたわけではない。賢政が小谷へ戻ってから浅井家中がどのように動いているか、それまで通り見てもらっていた中に含まれていた話だった。
対馬守によれば、新九郎の周囲には少しずつ人が集まり始めているという。若い家臣だけでなく、浅井家に古くから仕える者たちも顔を出しているらしい。ただし、嫡男として帰国したばかりなのだから、家臣が若殿へ顔を繋ごうとすること自体は何もおかしくない。集まった者たちが具体的に何を話しているのかまでは掴めておらず、今の段階で特別な意味を持たせるべきではないとのことだった。
「ならば、人が集まっているというところまででよい。それ以上は決めるな」
「御意」
新九郎は浅井家の嫡男だ。将来の当主へ家臣が集まること自体に異常はない。俺が浅井離反の未来を知っているからといって、それを反六角派が新九郎を担ぎ始めたと解釈すれば早過ぎる。対馬守も同じことを分かっているからこそ、事実以上の言い方をしなかったのだろう。
浅井下野守久政についても、表向き大きな変化は見られないという。新九郎の婚姻を受け入れ、六角との縁が深まったことを喜んでいる様子で、家中でも父子の間に不和があるという話は聞かれないらしい。
「表向き、か」
「内まで見えぬ以上は、そのように申し上げるしかございませぬ」
「そうじゃな」
対馬守の答えはもっともだった。久政が静かなこと自体を怪しむのは行き過ぎかもしれない。婚姻を受け入れ、息子が六角から偏諱を受けたことも認め、そのまま六角との関係を続けている。それだけ見れば何も不自然ではない。むしろ俺の方が、いずれ浅井は六角から離れると知っているつもりだから、何も起きていないことまで怪しく見えている可能性があった。
だから、この段階で浅井について特別な手を打つ理由はない。賢政の周囲へ集まる者たちを警戒するにしても、具体的な動きが見えないうちから疑いを強めれば、こちらが浅井との関係を悪くすることにもなりかねなかった。
それでも、小夜と新九郎から届いた文だけは頭に残った。
浅井家中に大きな問題が起きていないことと、新しく夫婦になった二人がうまく暮らしていることは別の話だ。久政が婚姻を喜び、家臣たちが六角との縁を認めていたとしても、小夜と新九郎が互いをどう思っているのかまでは分からない。
同じ小谷で起きていることであっても、見なければならないものは一つではなかった。
*
次に小夜から届いた文は、最初のものより少し長かった。
小谷での暮らしにも僅かながら慣れ始めたらしく、城内の女たちと話す機会が増えたことや、阿古の方が何かと気に掛けてくれていることが書かれていた。観音寺城とは食事の味付けが少し違うこと、坂道が多く城内を歩き回るだけでも思っていたより疲れること。季節が変われば山々の景色も違って見えるのだろうと、そんな他愛のない感想まで添えられている。
知らない土地で少しずつ自分の暮らしを作ろうとしている様子が窺えた。最初の文よりも書かれていることが増えた分、小夜が何を見て、何に戸惑い、何を覚え始めているのかも伝わってくる。読みながら、少なくとも身の回りのことについては前向きに努めているのだろうと思えた。
だからこそ、余計にはっきりした。
新九郎だけが、いない。
最初の文なら、まだ新しい暮らしに慣れていないからだと思えた。書くべきことが多く、夫について触れる機会がなかっただけかもしれない。だが二通目には、城内で出会った女たちや阿古の方のことまで書かれている。それなのに、新九郎の名は一度も現れなかった。
偶然ではないのかもしれない。
そう思いながら、俺は文を机へ置いた。小夜は困っているとも、助けてほしいとも書いていない。自分は元気にしていると伝えているし、それが嘘だと分かる材料もない。ただ、夫のことを書いていない。その違いが気になった。
弥太郎へも文が届いていたため、互いの内容を確かめた。こちらへ来たものと大きな違いはなく、やはり新九郎のことは書かれていないという。弥太郎の返事は、以前より少し遅かった。
「弥太郎。小夜は、何か隠しておると思うか」
「分かりませぬ。ただ、妹は昔から嫌なことほど自分から申さぬところがございます」
理由を尋ねると、弥太郎は幼い頃の小夜について話してくれた。転んで膝を擦りむいた時も、父上に叱られた時も、聞かれるまでは平気な顔をしていたという。大したことではないと言ってしまえばそれまでだが、心配を掛けまいとして自分の中へしまい込むところがあったらしい。
それを聞いて、胸の奥が少し重くなった。
「……何故、今まで言わなんだ」
「若様が先に決めつけぬようにしておられましたので、私も同じようにと思っておりました」
思わず苦笑した。
「そなたにまで真似をされるとはな」
「悪いことでございましたか」
「いや。正しい」
正しいからこそ難しい。
小夜が何か隠している可能性は、少し高くなったように思えた。だが、それが新九郎との関係なのか、慣れない暮らしへの不安なのか、あるいは全く別のことなのかは分からない。弥太郎が知っている妹の性格も、あくまで判断の材料の一つでしかなかった。
少なくとも、小夜が自分から苦しいことを伝えてくるとは限らない。その点については、最初の文を受け取った時よりも注意しておく必要がありそうだった。
*
それから数日後、宗兵衛が別の報告を持ってきた。
浅井領を行き来する商人から拾った話だという。小谷へ布を運んでいる商人が、婚姻の後、城内には妙な空気があると聞いたらしい。若殿と新しく迎えた奥方について、家臣たちが夫婦仲の話をしない。婚姻したばかりであれば多少は祝いの話題が出てもよさそうなものだが、城内ではその話を避ける者がいるという。
「誰が申した」
「小谷へ布を運んでいる商人にございます。ただし、本人が直接見たものではなく、城内へ出入りする者から聞いた話とのこと」
「それだけでは事実と扱えぬな」
「承知しております」
宗兵衛は、聞いた話と自分で確かめたことを分けて報告している。以前から俺が繰り返し命じてきたことだった。商人がそう話していたことは事実でも、その商人が聞いたという城内の様子まで事実とは限らない。まして夫婦仲の話ともなれば、本人たちが何も言っていなくとも周囲が勝手に噂を作ることはある。
それでも、無視してよいとも思えなかった。
小夜から届いた二通の文。弥太郎も覚えた違和感。そこへ商人を介した噂が重なった。どれも単独では弱いが、同じ方向を向いているように見える。何かあるのかもしれない。そこまでは考えてもよいだろう。
だが、何があるのかまではまだ分からない。
宗兵衛を下がらせた後も、俺はしばらく机に向かったまま考えていた。これまで市や関所を調べる時には、複数の情報を重ねて確かめることを心掛けてきた。荷の数が減ったという報告があれば、商人の話を聞き、道の状態を見て、天候や扱う品の違いまで考える。それでも原因を一つに決められないことは珍しくなかった。
今回も同じなのだろう。夫婦の名が文へ出てこないことと、城内で話題にされないという噂が、必ずしも一つの原因から生まれているとは限らない。俺が二人の関係を疑い始めたからこそ、無関係な話までその疑いに結び付けている可能性もある。
そう考えていたところへ、今度は篠から報告が上がった。
浅井領から南へ来た女たちの話の中に、新しく嫁いできた六角の養女について「お気の毒だ」という言葉が混じっていたという。
「何が気の毒なのじゃ」
「そこまでは聞き出せませなんだ。詳しく聞こうとすると、話を止められたそうにございます」
誰が口にしたのか尋ねると、小谷へ出入りする家の女だという。ただし、直接城に仕えているわけではないらしい。何かを見聞きした上で話しているのか、他人から聞いた噂を繰り返しているだけなのかも分からなかった。
俺は一度、目を閉じた。
証拠ではない。だが、もう無視するには多過ぎる気がした。
小夜自身からは何も聞いていない。新九郎も変わらず文を寄越し、浅井家中が大きく乱れている様子もない。だが、夫婦について何かを知っているらしい者が、詳しい話を避けている。何も起きていないのなら、何故そのような言葉が出るのか。
その答えを知りたいと思った。だが、知りたいからといって何をしてもよいわけではない。
「篠。小夜のことを直接探るな」
篠が少し意外そうに目を上げた。
「よろしいのでございますか」
「ああ。夫婦の寝所まで忍びに覗かせるつもりはない。それに、六角の養女の様子をこちらが探っていると浅井へ知られれば、それだけで意味を持つ」
小夜は六角の養女として浅井へ嫁いだ。その暮らしを六角右衛門督の配下が調べていると知れれば、浅井家中は何を考えるだろう。単なる心配では済まず、六角が婚姻に不満を抱いている、あるいは新九郎を疑っていると受け取られるかもしれない。そうなれば、小夜本人が何も訴えていないうちから、こちらが夫婦の問題を家同士の問題へ変えてしまうことになる。
それだけは避けたかった。
「小谷の様子を見てくれ。新九郎が家中でどう扱われているか。六角との婚姻を浅井の者がどう受け止めているか。小夜個人を探るのではなく、その周囲で何が起きているのかを知りたい」
「承知いたしました」
篠は静かに頭を下げた。こちらが気にしていることは十分に伝わっただろう。それでも、それ以上踏み込むようなことは言わなかった。
篠が下がった後、俺は机の引き出しにしまっていた文を取り出した。小夜から届いた二通と、新九郎からの一通。それぞれを並べ、改めて目を通す。
どの文にも、嘘らしいことは書かれていない。小夜は知らない土地で少しずつ暮らしを覚え、阿古の方や城内の女たちに気遣われながら過ごしている。新九郎も浅井家の嫡男として家中の者と会い、久政から領内のことを学んでいる。書かれた内容だけなら、二人ともそれぞれ新しい生活を始めているように見えた。
だが、小夜は夫のことを書いていない。新九郎も妻について触れていない。
その事実をどう受け取ればよいのか、まだ分からなかった。
俺が小夜を送り出す時、必ず幸せになるようにと声を掛けた。あの時の小夜は笑って頷いていた。今でもその顔を思い出せる。もし小谷で何か起きているのなら、あの言葉が小夜を苦しめているのではないか。幸せになると答えたからこそ、うまくいっていないことを言い出せなくなっているのではないか。そう考えると、胸の奥に嫌なものが残った。
だが、それも俺が勝手に考えていることだった。
小夜は本当に何かを隠しているのかもしれない。あるいは、今の俺が知らないだけで、夫婦の間には別の事情があるのかもしれない。新九郎が何を考えているのかも、小夜が何に困っているのかも、まだ本人たちからは聞いていない。
だからこそ、疑いを確かめるために二人を追い詰めるようなことはしたくなかった。小夜が何も言わないからといって全てを放っておくのも違うが、俺が不安だからという理由で、浅井の中へ勝手に手を伸ばすこともできない。
高島の一件では、こちらの都合で一度人を動かせば、その先まで思い通りに止められるわけではないことを学んだ。言葉も同じだった。相手へ渡れば、こちらが込めた意味のまま残るとは限らない。今ここで俺が新九郎へ何かを問い掛ければ、その問い自体が夫婦の関係を変えるかもしれない。小夜を心配するつもりが、かえって小夜の立場を難しくしてしまうこともある。
そう考えると、今はまだ軽々しく動けなかった。
ただ、次の文を待つだけでよいのかという迷いも消えない。小夜が自分から苦しいことを口にしない娘なら、何も書かれていないから大丈夫だと考えるわけにはいかなかった。だからこそ、本人たちへ無理に踏み込まず、周囲で起きていることを確かめる必要があるのだろう。
俺は文を畳み直し、元の場所へ戻した。書かれていることだけを見れば、どれも穏やかな便りだった。小谷での暮らしを少しずつ覚え、家中の者と顔を合わせ、離れた観音寺城にいる者たちへ近況を知らせている。それぞれの言葉に、不自然な嘘があるようには思えない。
だからこそ、書かれていないことの方が気になった。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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