第三十四話「切れた縁」
小夜が小谷へ嫁いでから、四月ほどが過ぎた。その間にも小夜から文は何度か届いていたが、新九郎の名が記されることは一度もなかった。最初の頃には小谷の景色や城内で覚えたことが細かく書かれていた文も、月日が経つにつれて少しずつ短くなっていった。それでも、自分は元気にしているという一文だけは必ず添えられている。一方、新九郎から届く文には、浅井の土地を見て回ったことや家臣たちから聞いた話、観音寺城にいた頃には知らなかったことが多いと気付かされたことなどが記されていた。俺と交わした小谷へ行く約束について触れることはあっても、小夜については一言もない。
二人が互いについて何も書かないという不自然さは、もはや偶然とは思えなくなっていた。篠や宗兵衛から拾った話を重ねれば、小夜が浅井家中で幸福な新妻として扱われていないことくらいは想像できる。それでも、新九郎が小夜を妻として遠ざけていると断じられるほどの証拠はなかった。
俺は何度も小夜へ直接問い掛ける文を書こうとし、そのたびに筆を置いた。何か困っているのかと尋ねれば、小夜は恐らく大丈夫だと答えるだろう。もっと踏み込んで新九郎との仲を問えば、六角右衛門督が浅井家嫡男とその妻の関係を疑っているという意味まで生まれる。兄である弥太郎でさえ、妹本人が何も言わない以上は待つしかないと堪えていた。俺だけが立場を忘れて踏み込むわけにはいかない。
だから、何かが起きていると感じながらも待ち続けた。
そしてある朝、その答えは文ではなく、一人の人間の帰還という形で観音寺城へ届いた。
その日は朝から弥太郎の姿が見えなかった。普段であれば俺が朝餉を終える頃には側へ来ているはずなのに、使いを出しても平井の屋敷へ行っているという返事しかない。父親である平井加賀守に急な用でもできたのかと思っていたところ、昼を少し過ぎてようやく戻ってきた。
部屋へ入ってきた弥太郎の顔を見た瞬間、何か良くないことが起きたと分かった。いつものように軽口を交わす気配もなく、俺の前へ座ると、しばらく俯いたまま口を開こうとしない。
「弥太郎。何があった」
問い掛けると、弥太郎は一度喉を動かし、ようやく声を絞り出した。
「……小夜が戻りました。浅井から離縁され、今朝方、父上のもとへ送り返されたのでございます」
その一言で、事情はほとんど分かった。
胸の内で何かが強く動いた。驚きではない。この未来は知っていた。小夜が浅井から戻されることも、その後に野良田へ繋がっていくことも、細部は曖昧ながら覚えている。いつか来るとは思っていた。それなのに、実際に弥太郎の口から離縁されたと聞くと、前世の記憶にある出来事とは全く違う重さがあった。
理由を尋ねたが、浅井からは縁を解くという申し出があっただけで、詳しい説明はなかったらしい。小夜自身も、戻ってから加賀守と少し話した後は自室へ籠もり、何も語ろうとしないという。
「新九郎に何かされたのか」
「分かりませぬ」
弥太郎が顔を上げた。その目には、普段の穏やかな表情からは想像できないほどの怒りがあった。
「若様。妹が何をしたのでございましょう。何故、僅か四月で妻を返されねばならぬのでございますか。新九郎様なら昔から存じている相手だからと、小夜はこの婚姻を受け入れました。六角の養女として役目を果たさねばならぬとも申しておりました。それが、何故……」
言葉の終わりが震えていた。
答えられなかった。いや、推測ならできる。小夜本人に問題があったのではなく、小夜が六角義賢の養女であることに意味があったのではないか。賢政という名も同じだ。父上から一字を受け、六角で元服し、六角の養女を妻として迎える。浅井家中で六角への従属を嫌う者から見れば、その全てが賢政を縛るものに映った可能性がある。
新九郎自身がどのように考えたのかまでは分からない。それでも婚姻の日から小夜を遠ざけていたのだとすれば、小夜個人ではなく、その背後にいる六角を拒んでいたと考える方が筋は通る。
だが、それを今の弥太郎へ言えるだろうか。そなたの妹は六角の養女だったから拒絶されたのだと。そんな言葉を、この場で口にできるはずもなかった。
「弥太郎。分からぬ。だが、今は謝る必要などない」
詫びようとした弥太郎を制し、俺は小夜に会ってもよいか尋ねた。弥太郎は少し迷ってから、父親へ確かめてくると答える。
「無理ならよい。今は誰にも会いたくないのであれば、そうしてやれ」
「承知いたしました」
弥太郎は立ち上がり、襖へ手を掛けたところで足を止めた。
「若様。某は、新九郎様を許せそうにございませぬ」
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。俺も今は、似たような気持ちだった。
*
平井加賀守から、小夜が若様に会いたいと申しているとの返事が来たのは、その日の夕方だった。俺は弥太郎を伴って平井の屋敷へ向かった。
普段なら何度も出入りしている場所なのに、その日は妙に静かに感じられた。屋敷の者たちも俺たちへいつも通り頭を下げるが、表情には何かを気遣うようなものが混じっている。それを見た時、以前、篠から聞いた「お気の毒だ」という言葉が頭に浮かんだ。
小夜は、これからもこういう目を向けられるのかもしれない。
加賀守に案内された部屋へ入ると、小夜は奥に座っていた。嫁入りの日に見た華やかな衣装ではなく、以前観音寺城で暮らしていた頃とそう変わらない装いだった。痩せたというほどではないが、僅か四月前より随分と小さく見える。肩を少し内側へ縮め、俺たちが入ってきてもすぐには顔を上げなかった。
「小夜」
「……若様」
顔を上げた小夜は笑おうとしたようだったが、上手くいかなかった。それでも、いつものように俺へ挨拶をする。
「お帰りなさいませ」
一瞬、言葉を失った。俺が訪ねてきたというのに、小夜の方から帰ってきた者を迎えるような挨拶をする。その癖があまりにも以前と変わらなくて、余計に胸が詰まった。
「ただいま、でよいのか?」
「はい。ここは若様のおられる御城にございますから」
小夜が僅かに笑ったので、俺も短く頷いた。
弥太郎は後ろに控えたまま何も言わない。兄として聞きたいことはいくらでもあるだろう。それでも小夜が自分から口を開くまで待つつもりらしい。
俺は小夜の身体の具合を確かめた。何ともないという返事をそのまま受け取れず、食事は取れているのかと重ねて尋ねると、兄上と同じことを仰いますね、と小夜が少しだけ笑った。
「兄妹揃って頑固だからな。聞かねば答えぬであろう」
冗談めかして返すと、小夜はもう一度笑った。以前のような笑い方とは違ったが、それでも笑えることに少し安心した。
しばらくして、俺は小夜へ断りを入れた上で、新九郎との間に何があったのかを尋ねた。小夜の顔から笑みが消えたものの、拒むことはなく静かに頷いた。
長い沈黙が続いた。
俺も弥太郎も急かさなかった。やがて小夜は膝の上で重ねていた手を強く握り、俯いたまま口を開いた。
「嫁いだ日に、新九郎様へ御挨拶をいたしました。妻として、これからよろしくお願いいたします、と。少し近付こうとしましたら……触れるな、と仰せになりました」
後ろで弥太郎が息を呑む音がした。
「それから、馴れ合うつもりはない、と。それきり、新九郎様が私のところへおいでになることはございませんでした。こちらからお話ししようとしたこともございます。でも、お忙しいと断られ……やがて、私から近付かぬ方がよいのだと思うようになりました」
胸の奥に怒りが湧いた。
新九郎とは幼い頃から何度も話してきた。小谷へ戻る日には笑って別れ、いつか小谷を案内すると約束までした。その男が、小夜には婚姻の初日からそんな態度を取っていた。
何故なのか尋ねても、小夜には分からないという。最初の挨拶から拒まれた以上、理由を確かめようにも近付くことさえできなかったのだろう。
「小夜。何故、文には書かなかった」
問い掛けてから、少し強い言い方になったことに気付いた。
「責めているわけではない。ただ、困った時には知らせよと言ったであろう。弥太郎にも、こちらにもじゃ」
「……書けば、皆様を困らせます」
小夜の返事を聞き、やはりそうかと思った。
「御屋形様の養女として嫁ぎました。私が新九郎様とうまくいっておらぬと書けば、父上にも御屋形様にも御迷惑をお掛けします。それに、若様は……」
「何じゃ」
小夜は一度言葉を止め、少し躊躇ってから続けた。
「幸せになるのだぞ、と仰いましたから」
胸を突かれたような気がした。
俺が何か言おうとすると、小夜は慌てて顔を上げた。
「若様を責めているのではございません。嬉しかったのです。私も新九郎様となら上手くやっていけると思っておりました。ですから、もう少し待てば何か変わるのではないかと。私が小谷のことを覚えれば、新九郎様にも認めていただけるのではないかと……」
俺は何も言えなかった。
自分の言葉が小夜を黙らせたのかもしれないと考えていた。その通りだったと単純に言うのも違うのだろう。小夜自身も、新九郎と上手く暮らしていけることを願っていた。その願いの中に、俺の言葉も少し混じっていた。それだけだ。それでも、必ずと言ったことが今になって重かった。
「……すまぬ」
「若様が謝られることではございませぬ」
「それでもじゃ。文を読んで、何かあるのではないかと思っておった。だが、そなたが何も書かぬからと待ってしまった」
「私が書かなかったのでございます」
「だからといって、こちらが気付かなくてよい理由にはならぬ」
小夜は少し困ったような顔をした。これ以上謝れば、今度は小夜が俺を慰めることになる。それは違うと思い、言葉を止めた。
そして、もう一つだけ確かめておきたいことがあった。
「小夜。新九郎を、まだ想っておるのか」
小夜は驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと首を横へ振った。
「分かりませぬ。新九郎様をお慕いして嫁いだわけではございません。嫌いでもございませんでした。見ず知らずの御方へ嫁ぐより、ずっと良いと思っておりました。でも、今、悲しいのは新九郎様と離れたからなのか、自分でも分からないのです」
その答えは意外だった。俺は勝手に、離縁されたのだから新九郎への未練で傷付いている可能性を考えていた。だが小夜の口から出たのは、それとは違うものだった。
ならば何が一番辛いのか。そう尋ねると、小夜はしばらく黙り込み、膝の上の手を僅かに震わせた。
「皆の目が、怖うございます」
ようやく分かった。
「戻ってきてから、皆様がお優しくしてくださいます。屋敷の者も、御城の方々も、誰も私を責めませぬ。でも、だからこそ……可哀想な娘だと思われているのではないか。夫に捨てられた女だと思われているのではないか。何か悪いところがあったのではないかと、皆様が考えているのではないか。そう思いますと、人の顔を見るのが怖くて……」
俺が屋敷へ入った時に感じた空気を思い出した。屋敷の者たちは皆、小夜を気遣っていた。悪意などなかったのだろう。だが小夜からすれば、その気遣いそのものが、離縁された女として見られている証に感じられるのだ。
「小夜。そなたを気の毒だと思っておる」
小夜が顔を上げた。後ろにいる弥太郎まで驚いたようにこちらを見る。
「だが、そなたが恥ずかしいとは思っておらぬ」
できるだけゆっくりと言葉を継いだ。
「離縁されたことと、そなたが何をしたかは別じゃ。少なくとも今聞いた限り、そなたが新九郎に何か悪いことをしたわけではない。嫁げと言われて小谷へ行き、そこで暮らそうと努めた。それだけであろう」
小夜が何か言おうとしたが、俺は首を横へ振った。
「皆が何を考えているかまでは、誰にも決められぬ。中には勝手なことを考える者もいるかもしれぬし、それを全て止めることもできぬ。だから今すぐ外へ出ろとも、気にするなとも言わぬ。怖いのであれば、しばらくここにおればよい。だが、そなたまで自分を恥じる必要はない」
小夜の目に涙が浮かんだ。それでも泣き声は出さず、少し俯いてから小さく頷いた。
「……はい」
後ろにいた弥太郎が顔を逸らした。
俺もそれ以上は何も言わなかった。
*
小夜が帰ってきたことは、その日のうちに父上の耳にも入っていた。いや、浅井から正式に離縁を告げる使者が来ている以上、俺より先に知っていたのだろう。
小夜と話した翌朝、評定へ呼ばれた。父上の前には六人衆が揃い、平井加賀守も席に着いている。表情は平静だったが、娘を僅か四月で返された父親として、何も思っていないはずはなかった。
「浅井は、小夜を返してきた。これは夫婦だけの話と思うか」
父上が口を開くと、場に短い沈黙が落ちた。
最初に答えたのは後藤但馬守賢豊だった。小夜は平井加賀守の娘であると同時に、六角義賢の養女でもある。それを明確な理由も示さずに返すということは、六角との縁を軽んじていると受け取られても仕方がない。但馬守の言葉に、異を唱える者はいなかった。
父上は頷き、今度は加賀守へ意見を求めた。
「父親として申せば、腹立たしゅうございます」
加賀守の声は静かだったが、迷いはなかった。
「されど六角の臣として申せば、新九郎殿一人の感情だけで決めたものかを確かめる必要があるかと存じまする」
俺は加賀守を見た。娘を返された直後でありながら、父親としての怒りと家臣としての判断を分けている。その姿に少し頭が下がる思いがした。
もっとも、加賀守が怒りを表へ出さないからといって、何も感じていないわけではない。昨夕に会った小夜の姿を思い出せば、父親である加賀守がどのような気持ちで娘を迎えたのか、想像することさえ辛かった。
父上は続いて三雲対馬守定持へ浅井の動きを尋ねた。
「動きがございます。新九郎殿の周囲へ集まっていた者たちの動きが、以前よりはっきりしてまいりました。浅井下野守殿と新九郎殿の間でも意見が割れることが増えているようにございます。ただし、どこまでが親子の争いで、どこからが六角との関係を巡るものかは、まだ掴み切れておりませぬ」
場の空気が引き締まった。
兵の動きについても報告があり、今すぐ六角へ向ける様子はないものの、武具や兵糧の数を改めて調べている家があるという。
以前なら、その話を聞いただけで野良田が近いと考えたかもしれない。だが今は違う。武具を数える理由など幾らでもある。浅井家中の主導権争いへ備えているのかもしれないし、他家への備えかもしれない。兵糧についても、数を確認したという事実だけで出陣の準備と決めつけるわけにはいかなかった。
それでも、小夜の離縁と同じ頃に家中の動きが大きくなっていることまで、無関係と片付けるのは難しい。
「父上。小夜を返したことは、六角との縁を切るための一手ではございませぬか」
俺が尋ねると、父上はこちらへ顔を向けた。
「そう見るか」
「まだ断じることはできませぬ。ですが、この婚姻は父上が浅井との縁を強くするために結んだものにございます。その小夜を返すのであれば、浅井側もそれが何を意味するのか承知しているはずです。少なくとも、新九郎個人が小夜を嫌ったというだけで済ませるのは危ういかと」
自分で言いながら、胸の中に苦いものが残った。
小夜にとっては、夫から拒絶されたことが何より大きい。婚姻の日から冷たく扱われ、何も分からないまま四月を過ごし、理由も告げられず観音寺城へ返された。その傷が簡単に癒えるはずもない。
だが六角右衛門督として評定へ座れば、同じ出来事を六角との関係を断つ政治的な動きとして見なければならない。小夜がどれほど傷付いたかという問題と、浅井が六角へ何を示そうとしているのかという問題。その二つを分けて考えなければならないことが、ひどく嫌だった。
父上はしばらく黙った後、対馬守へ命じた。
「浅井を見よ。だが騒ぐな。新九郎だけを見るな。久政も、家臣どももじゃ」
その言葉に、俺は僅かに顔を上げた。
「父上は、下野守殿も疑っておられるのでございますか」
「疑うというほどではない。だが、そなたは新九郎が戻ってから、新九郎ばかり見ておったであろう」
否定できなかった。
父上は、若い嫡男の周囲へ人が集まっているからといって、その者たちが必ず久政を退け、六角へ背くとは限らないと指摘した。久政が長く六角に従っているからといって、その腹の内まで従っているとは限らず、家臣たちが新九郎へ期待しているからといって、新九郎自身が最初からそれに応えているとも限らない。
「見える者だけを見ておれば、見えぬところで動いた者を取り逃がすぞ。何故、新九郎が全てを決めると考える」
ぎくりとした。
俺は前世で知っている浅井長政──今の賢政──を中心に考え過ぎていた。
野良田で六角と戦うのは賢政だ。だから、その戦へ至る動きも賢政の周囲から始まるものだと、どこかで決めていた。久政は六角に従う者であり、賢政はその父とは違う考えを持つ者。そんな単純な形に当てはめ、その二人の間にあるものを十分に見ようとしていなかったのかもしれない。
だが、そうとは限らない。
久政にも考えがあり、浅井家中には久政を支持する者も、新九郎へ期待する者もいる。両者の考えが違ったとしても、それがすぐ六角への離反に繋がるわけではない。誰が何を望み、どのような利害で動いているのかを知らなければ、野良田という結果だけを覚えていても意味はなかった。
「……承知いたしました」
「ならば見よ。今度は一人ではなく、浅井という家をな」
「はい」
父上はそれ以上追及せず、評定を次の話へ進めた。だが俺の中には、その言葉が残り続けた。
高島の時も同じだった。竹若丸が勝つという結果を知っていたことで、勝った後に何が起きるのかまで分かっているつもりになった。今度は賢政が六角へ背くという結果を知っていることで、そこへ至る原因まで賢政の周囲にあると決めかけていた。
目の前にいるのは、前世で読んだ物語の登場人物ではない。それぞれの思惑を持ち、今を生きている人間なのだということを、また忘れかけていたらしい。
*
それからしばらく、小夜は平井の屋敷からほとんど出なかった。
俺も無理に外へ連れ出そうとはしなかったし、弥太郎も同じだった。時々様子を見に行けば、最初の頃よりは言葉を交わすようになっていた。屋敷の女たちと話し、時には笑う声も聞こえるようになったという。それでも人が多い場所へ出ることは嫌がり、城内の知り合いへ顔を見せに行く気にもなれないようだった。
屋敷の者たちは小夜を気遣っている。加賀守も、娘が落ち着くまで無理に何かをさせるつもりはないらしい。弥太郎も普段通り俺の側で務めながら、時間を見つけては妹の様子を確かめに戻っていた。
俺は城門で幸せになるのだぞと告げた時のことを、何度も思い出した。
あの時、小夜は笑って頷いた。小谷で新しい暮らしを始めることに不安はあっても、嫁ぐ相手が賢政であることにまで恐れを抱いてはいなかった。俺自身、二人なら少しずつ夫婦としての関係を築いていけると思っていた。
だが、そうはならなかった。
それでも、新九郎との婚姻が終わったからといって、小夜が幸せになる道そのものまで閉ざされたわけではない。いずれ別の縁があるかもしれないし、そうでなくとも小夜自身の暮らしは続いていく。誰かの妻であることだけが、小夜の全てではないのだから。
もっとも、そんな先のことを今の小夜へ言っても意味はないだろう。本人はまだ、周囲から向けられる視線を恐れている。誰も責めていないと分かっていても、自分がどう見られているのか気になって仕方がないのだ。
ならば、今すぐ元気になれと求める必要もない。人の目を怖がらずに済むようになること。それだけでも、今は十分だった。
一方、浅井から上がってくる報告は少しずつ変わっていった。
以前は新九郎の周囲へ人が集まっているという程度だったものが、久政と家臣たちの間で話し合いが増えていることや、使者の往来が以前より多くなっていること、兵糧を数え直している家があることなど、具体的な動きとして伝わり始めた。
それでも、六角へ兵を向けるという決定的な話は出てこない。父上も兵を集めることはせず、対馬守へ目を増やすよう命じるだけに留めていた。俺もそれに倣い、篠たちへ新しい動きを探らせながら報告を待った。
ただし今度は、前世で知っている未来へ先回りして答えを出すためではない。小夜の離縁と浅井家中の動きが本当に繋がっているのか。久政と新九郎のどちらが何を考え、家臣たちがどこへ向かおうとしているのか。それをできる限り、今ある材料から見極めるためだった。
小夜が戻ってきたという事実は変わらない。父上が浅井との間へ結ぼうとした婚姻も、僅か四月で解かれた。だが、そのことを浅井が何のために行ったのかは、まだ確かめられていなかった。
そして、季節が一つ進んだ頃だった。
その待ち時間を終わらせるように、弥七が自室へ入ってきた。
いつもなら道の状態や人馬の動きを順序立てて話す男が、その日は座る前から表情を硬くしている。それだけで、単なる街道の報告ではないことが分かった。
「若様。北近江で動きがございます」
「浅井か」
「はい。浅井方の者が、六角方の国人へ接触しておりまする」
俺は手にしていた筆を置いた。
「誰にじゃ」
「まだ全ては掴めませぬ。ですが、愛知郡の方へ何度か使いが入っております」
「寝返りを誘っておると?」
「そこまでは分かりませぬ。使者が行き来していることまでにございます」
弥七の答えを聞きながら、記憶の底から幾つかの名が浮かび上がってきた。
高野瀬備前守。肥田城。そして、野良田。
前世で読んだ流れをそのまま当てはめれば、浅井の使者が何のために動いているのか、答えを出すことは簡単だった。だが、高島で何度も思い知らされたように、知っている結果から途中を埋めれば、見たいものだけを見ることになる。
愛知郡へ浅井の使者が入っている。それが今分かっている事実であり、誰に何を持ち掛けているかはまだ分からない。俺は頭に浮かんだ名前を口には出さず、対馬守へ報告したか確かめた。弥七はすでに伝えてあると答える。
「ならば、引き続き見よ。誰が、いつ、どこへ入ったか。まずはそれだけでよい。中身が分からぬものを、分かったように持ってくるな。こちらが聞きたがっている答えへ合わせる必要もない」
「承知いたしました」
弥七が下がった後、俺は先ほどまで書いていた帳面へ目を戻した。しかし、すぐに筆を取ることはできなかった。
小夜が戻ってきて、父上が浅井との間に結んだ婚姻は僅か四月で切れた。その時点では、新九郎個人が小夜を拒んだだけなのか、それとも浅井が六角との関係そのものを変えようとしているのか、判断できなかった。
だが今度は、浅井方の使者が六角方の国人がいる愛知郡へ出入りしている。
まだ戦ではないし、浅井が六角へ反旗を翻したわけでもない。使者の目的さえ確認できていない以上、何も決まってはいなかった。それでも、小夜が帰ってくる以前と同じ状態ではないことだけは確かだった。
俺の記憶にある未来へ、目の前の出来事が少しずつ形を持って近付いている。その感覚だけは、もう無視できなかった。
野良田という名が、久しぶりにはっきりと頭へ浮かんだ。
だが俺は、その二文字を帳面へ書かなかった。まだ起きていない戦の名を先に記してしまえば、これから入ってくる報告を全て野良田へ向かう兆しとして読むようになる気がしたからだ。
代わりに、弥七が持ち帰った事実だけを書き留める。
──浅井方の使者、愛知郡方面へ出入りあり。
今の俺が帳面へ記してよいのは、そこまでだった。
小夜との縁はすでに切れた。だが、六角と浅井を結んでいたものまで、どこまで緩み始めているのかは分からない。久政が何を考え、新九郎がどのような立場に置かれ、家臣たちが何を望んでいるのか。その中で六角方の国人へ接触する者が現れたとしても、誰の意思で動いているのかを確かめなければ、浅井という家の動きは見えてこない。
だからこそ、次に見るべきなのは知っている未来ではない。実際に誰が動き、誰が何を選ぶのか。
俺は書き終えた文字をもう一度確かめ、静かに帳面を閉じた。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
-
このまま
-
5000文字前後
-
15000文字前後
-
1~5000文字