弥七が持ち帰った「浅井方の使者が愛知郡へ出入りしている」という報告から、それほど日を置かずに行き先の一つが判明した。三雲対馬守から呼び出しを受けて父上の部屋へ向かうと、すでに後藤但馬守と進藤山城守が座っており、俺が席へ着くのを待って対馬守が愛知郡の地図を広げた。指が止まったのは北近江へ近い一角にある城だった。
「肥田城にございます」
その名を聞いた瞬間、記憶の奥で幾つかの言葉が繋がった。肥田城。高野瀬。そして水攻め。そのさらに先にある野良田までが一緒に浮かんだ。少し前に弥七から愛知郡へ浅井の使者が入っていると聞いた時にも似たものが頭を過ったが、その時はまだ行き先すら分からなかったため、記憶にある未来を目の前の出来事へ無理に重ねないよう抑えていた。しかし肥田城とまで聞けば、前世で読んだ流れとの重なりを無視することも難しい。城主の名さえ、対馬守が口にするより少し早く記憶の底から浮かんできた。
「城主は高野瀬備前守秀隆。浅井方の者が、少なくとも三度は備前守のもとへ入っておりまする。加えて、肥田城側から小谷方面へ向かった者も確認しております」
「話の中身は」
父上が尋ねると、対馬守は首を横へ振った。
「そこまでは。浅井から何を持ち掛けたのか、高野瀬が何と答えたのかまでは掴めておりませぬ」
「ならば、まだ備前守が浅井へ寝返ったとは申せぬな」
俺が口を挟むと、後藤但馬守がこちらを見る。
「三度も浅井の使いを城へ入れ、こちらへ何の報せも寄越さぬ。それでも疑うなと申されるか」
「疑うべきだとは思いまする。ただ、疑うことと決まったものとして扱うことは別かと。使者が入った。肥田城からも小谷へ人が出た。今分かっているのは、そこまでにございます」
但馬守が何かを言おうとしたが、父上が先に頷いた。
「ならば確かめればよい。備前守へ観音寺へ出るよう伝えよ。浅井の使者が何用であったかも聞く」
「はっ」
その日はそれで終わった。俺も自室へ戻り、帳面には「浅井方使者、肥田城高野瀬備前守秀隆のもとへ複数回」「肥田城より小谷方面への往来あり」とだけ書いた。頭の中にはその先が浮かんでいる。だが、それを書けば帳面が記録ではなく俺の記憶を証明するためのものになってしまう。高島の一件以来、何度も気を付けてきたことだった。答えを知っているつもりだからこそ、途中の式を自分に都合よく作ってはいけない。肥田城という名前を知っていたことと、今目の前で起きていることの理由まで知っていることは同じではなかった。
高野瀬備前守からの返事が届いたのは数日後だった。病のため観音寺城へ出ることは叶わず、浅井の使者については北近江の情勢を聞いただけで他意はない。そのような内容だったらしい。病であれば仕方がないと言えなくもないが、父上はもう一度使者を送った。身体が動かぬなら名代でもよい、浅井との話について説明を寄越せ、と。二度目の返事は一度目より遅れ、内容も曖昧だった。名代は出さず、詳しい説明もない。その間にも弥七から肥田城へ兵糧が運び込まれていることが報告され、宗兵衛が拾った商人の話からも、鉄や縄、矢に使う材料の買い入れが増えていることが分かった。
「これでも、まだ決まっておらぬと見るか」
次の評定で後藤但馬守に聞かれ、俺は少し考えてから答えた。
「少なくとも、六角からの呼び掛けに従うつもりが薄いことは確かかと存じまする」
「随分と慎重な言い方じゃな」
「寝返ったと申すなら、それを裏付けるものが欲しゅうございます。ただ、備前守が六角へ従う姿を見せる気がないのであれば、それだけでも放置出来ぬ話であることは分かりまする」
肥田城一つが浅井へ移っただけなら、土地の広さだけで見れば六角全体を揺るがすようなものではない。だが地図へ目を落とせば、問題は城そのものの大きさではないと分かる。肥田は浅井領と六角勢力圏の境に近く、そこに浅井方の足場が出来れば、次に別の国人へ使者を送ることも容易になる。さらに六角の呼び出しを二度拒んだ高野瀬をそのままにすれば、周囲から「六角を離れても何もされない」と見られる可能性がある。一城を失うことより、その一城を見た他の者がどう動くかの方が怖かった。
父上も同じところを見ていたらしい。高野瀬に最後の確認を送った後、それにも応じなければ肥田城を六角へ背いたものとして扱うと決めた。返ってきたのは返答ではなく、浅井方の者が肥田城へ入ったという報告だった。それで話は終わった。
「備前守は浅井へ走ったものと見る」
父上の言葉に異を唱える者はいなかった。
*
そのまますぐ大軍が動いたわけではない。浅井との全面戦にするつもりはなく、あくまで六角から離反した高野瀬備前守を服させるというのが父上の方針だった。季節が冬を越え、年が改まって永禄三年となり、春になって道と田の状態が兵を動かせる程度に落ち着いた頃、肥田城へ兵を向けることが正式に決まった。その評定が終わった後、父上から一人残るよう言われた俺は、何か別に命じられる仕事でもあるのかと思いながら席へ戻った。六人衆が退出し、最後の一人が襖を閉めたところで、父上は地図から目を上げて俺を見た。
「右衛門督」
「はい」
「此度、そなたも出る」
一瞬、返事が遅れた。いずれ戦場へ出ることは分かっていたし、元服を済ませ、六角右衛門督を名乗っている以上、いつまでも観音寺城で報告だけ聞いているわけにはいかない。それでも、父上の口から自分へ向けて告げられると、頭で理解していたこととは違う重さがあった。
「某も、でございますか」
「うむ。此度をそなたの初陣とする」
初陣。その言葉なら前世でも何度も目にした。誰々は何歳で初陣を飾った、敵将を討ち取った、そこで武名を上げた。歴史上の人物を語る時には、誕生、元服、初陣と並べられる一つの節目でしかなかった。だが今、その二文字が自分に向けられている。肥田城の向こうには実際に敵がいる。俺を六角の嫡男として歓迎する者ではなく、こちらが近付けば矢を射てくるかもしれない人間がいる。その場所へ、今度は俺自身が兵を伴って向かうのだ。
「首を取れとは言わぬ」
黙っていた俺へ、父上が続けた。
「……はい」
「此度は城攻めじゃ。そなたを物見遊山に連れて行くつもりもないが、初陣だからと申して槍を抱えて真っ先に城へ走れとも言わぬ。戦を見よ」
「戦を、でございますか」
「兵がどこで止まり、誰の命で動き、何を食い、何を恐れ、何処で疲れるかを見よ。城を落とすために何人が働き、その者らを食わせるために誰が動くのかもじゃ。敵の首一つ持って帰るより、そちらを覚えて戻れ」
その言葉に、少し肩から力が抜けた。父上らしいと思った。元服する前から、俺が何かを知ったつもりになる度に「見ろ」と言ってきた人だ。初陣でも同じらしい。
「生きて戻ることも忘れるな」
「はっ」
「そなたが討死して、初陣で立派に戦ったと褒められても儂は嬉しゅうない」
思わず父上を見ると、いつものように厳しい顔をしていた。それでも、その言葉だけは父親として俺へ向けられたものだと分かった。
「必ず戻りまする」
「戻るつもりで行け。必ず戻れると思うな。それが戦じゃ」
「……はい」
部屋を出てからも、その言葉はしばらく耳に残った。前世では戦場へ行った経験など無い。弓道も合気道も、人を殺すために身につけたものではなかった。歴史の本や小説でどれだけ戦を読んでも、そこに自分の命を置いたことは一度もない。高島では俺自身が一度戦わせるべきだと言い、その結果として人が死んだ。それでも実際に見たわけではなかった。報告に書かれた死者の数と、目の前で人が死ぬことが同じなのかどうかさえ、今の俺にはまだ分からなかった。
出陣を翌日に控え、具足や持たせる荷の確認を終えた頃、弥太郎が父へ挨拶をしておきたいと言った。平井加賀守も当然この戦へ兵を出すが、弥太郎は俺の側を離れない。親子で同じ戦へ出ても陣が別になる可能性は高く、出陣してしまえばゆっくり話す時間など無いだろう。俺も小夜の様子を見ておきたかったこともあり、弥太郎と一緒に平井の屋敷へ向かった。
加賀守への挨拶を済ませた後、俺たちが帰ろうとしていると、廊下の向こうから小夜が姿を見せた。離縁されて戻ったばかりの頃と比べれば顔色は良くなっているし、屋敷の者と話すことも増えたと聞いている。それでも大勢の集まる場所へ自分から出ることはまだ少ない。そんな小夜が俺たちの出立を聞き、自分から顔を見せに来たことが少し嬉しかった。
「若様。兄上」
「小夜」
弥太郎が少し驚いたように妹を見る。
「どうした。部屋におればよかったものを」
「お二人が明日お立ちになると聞きましたので」
「肥田へ行くだけじゃ」
弥太郎が軽く答えると、小夜は兄ではなく俺の方を見た。
「若様……浅井と、戦われるのでございますか」
問い掛け方に迷いがあった。小谷という名も、新九郎という名も口にはしない。それでも小夜が何を気にしているのかは分かった。
「今は違う。此度は肥田城の高野瀬備前守を服させるための出陣じゃ。浅井を討つと決まったわけではない」
「……そうでございますか」
小夜は僅かに息を吐いたように見えた。安心したのかどうかまでは分からない。高野瀬が浅井と繋がっている以上、この戦がその先へ続く可能性は俺自身が一番意識している。それでも、今分かっていること以上を小夜へ話す理由はなかった。
「小夜、心配するな」
弥太郎が言った。
「若様は某がお守りして戻る」
「待て」
思わず口を挟むと、兄妹が揃って俺を見る。
「何故、俺を守って戻る話しかしておらぬ。お主も戻るのだぞ」
「もちろんそのつもりにございます」
「なら最初からそう言え」
「若様をお守りするのが某の役目にございますれば」
「だからといって、自分の命を置いてこいとは言っておらぬ」
二人のやり取りを聞いていた小夜が、久しぶりに少し声を立てて笑った。その笑い方は、小谷へ嫁ぐ前に観音寺城で何度も見たものに近かった。
「お二人とも、御無事でお戻りくださいませ」
「ああ」
「わかった」
弥太郎はすぐに答えたが、小夜はそこで俺へ一歩近付き、少し迷った後にもう一度口を開いた。
「若様も……必ず、お戻りくださいませ」
必ず。その言葉に、胸の奥が少し引っ掛かった。以前、俺も小夜へ同じ言葉を使ったことがある。「新九郎と、必ず幸せになるのだぞ」と。あの時は、その言葉が相手にとってどれほど重くなるかまで考えていなかった。今の小夜も俺を縛るために言ったわけではない。ただ戻ってきてほしいと願っているだけだ。そして戦へ向かう側になった今なら、「必ず」が願い以上の何物でもないことも分かる。
父上の言葉も思い出した。戻るつもりで行け。必ず戻れると思うな。それが戦だ。
「ああ。戻ってくる」
俺はそれだけ答えた。
小夜は少しだけ目を細めて頷いた。
屋敷を出てから、弥太郎がしばらく黙っていた。珍しいと思って横を見ると、妙に満足そうな顔をしている。
「何じゃ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「小夜があのように人を見送りに出てきたのは、戻ってから初めてにございます」
俺も同じことを考えていた。
「少しは元に戻ってきたか」
「はい。若様のおかげでもございましょう」
「それは言い過ぎじゃ。お主や加賀守殿がおったからであろう」
「では、皆のおかげということにいたしましょう」
「最初からそう申せ」
屋敷から観音寺城へ戻る道を歩きながら、先ほどより少しだけ胸が軽くなっていた。明日から戦へ向かうことに変わりはない。それでも帰ってくる場所で待つと言ってくれる者がいることは、思っていた以上に心強かった。
*
観音寺城を出る朝、同じ城門が以前とは違って見えた。京への供奉でも五百の兵を伴ってここを出たが、あの時は戻ってくることを当然の前提として考えていた。今回は違う。父上の言った通り、戻るつもりではいる。だが必ず戻れるとは思うなと言われた。それは俺だけではない。前後を歩いている兵の中にも、もう一度この門を潜れない者がいるかもしれない。弥太郎も、俺自身もその中に入る可能性がある。そう考えると、これまで何度も見てきた石垣や門まで妙にはっきり目に入った。
俺の周囲には、父上から付けられた護衛と、元服後に俺の側へ置かれるようになった兵がいる。人数だけなら大軍の中では僅かなものだったが、その一人一人にも顔がある。何人かは日頃の稽古で知っているし、名前を覚えている者もいる。高島の戦を考えた時、俺は「兵」という言葉を使った。一千二百、三百、二百丁。それが便利だからだ。だが自分のすぐ側に並んだ者たちを見ると、兵という一文字だけでは足りないと感じた。
何か言った方がよいのだろうかと思った。六角の嫡男として初陣へ向かうのだから、勇ましい言葉の一つでも掛けるべきなのかもしれない。だが、俺自身が怖いのに「命を惜しむな」とは言えなかったし、「必ず勝つ」と言えるほど戦を知ってもいない。結局、口から出たのは随分と格好の付かない言葉だった。
「命があるまで勝手に動くな。俺の初陣だからといって、俺のために無駄に死ぬ必要もない。命じられたことをして、出来るだけ皆で戻るぞ」
一瞬だけ妙な静けさが出来た。何か間違えたかと思ったところで、兵たちから「はっ」と返事が返る。勇ましい訓示とは程遠い。後ろから弥太郎が小さく笑ったので振り返った。
「何がおかしい」
「若様らしい御言葉かと思いまして」
「褒めておるのか」
「もちろんにございます」
「ならよい」
たぶん半分くらいはからかわれている。それでも、不思議と少し気持ちは軽くなった。
肥田城の周囲へ着いてまず感じたのは、戦場というものが想像していたほど分かりやすく戦ってはいないことだった。川があり、田があり、低い土地と僅かに高い場所が続いている。その中へ六角の兵が次々に陣を作り、城へ通じる道を押さえ、荷を降ろし、人足が働き始める。敵城を前にしている以上、もっとすぐに矢が飛び交い、槍を持った兵が城へ押し寄せるものだと思っていた。しかし実際には、どこへ陣を置くか、兵糧をどこに積むか、馬をどこへ置くか、負傷した者を運び込む場所をどうするかといった準備の方が先だった。敵を討つより前に、戦を続けるための場所を作らなければならないらしい。
肥田城へ力攻めを掛ければ、少なくない死人が出る。そこで軍議に出たのが、周囲の地形を利用して水を入れる案だった。堤を築き、水を溜め、城の動きを封じる。俺の記憶にも「肥田城、水攻め」という組み合わせは残っていたから、話を聞いた時にはこれかと思った。だが実際にやるとなると、言葉ほど簡単ではなかった。
地図と現地を見比べながら水の高さや堤を作る場所を尋ねていると、後藤但馬守が面白そうにこちらを見る。
「右衛門督殿は水攻めがお好きか」
「好き嫌いではございませぬ。どれほどの仕事になるのかと思いまして」
「水を溜めればよい」
「その水を逃がさぬための土を、誰がどこから運ぶのでございます」
そう返すと、但馬守が少し笑った。俺は別に言い負かしたかったわけではない。実際、考えることはいくらでもあった。堤の長さと高さだけではなく、土を掘る場所、人足が通る道、籠や鍬の数、それを運ぶ人間、途中で雨が降った時に崩れないか、水が思った方向へ流れるか。数字に出来そうなところは計ってみたが、俺が帳面の上で長さと高さを掛ければ堤が出来上がるわけではない。地元の川を知る者は、水はここから漏れる、あの土地は見た目より低い、雨が続けばこちらへ回ると、俺の計算には無い話を次々に出してきた。
「……紙の上より面倒だな」
思わず呟くと、隣にいた弥太郎が笑った。
「戦で紙の上より簡単なことがございましたか」
「ないな。だが、初陣で土の量を気にすることになるとは思わなんだ」
「首の数より若様には似合っております」
「褒めておらぬだろう」
「褒めておりますとも」
そんな軽口を叩けるうちは、まだ俺にも余裕があったのだと思う。目の前では何百という人足が土を運び、兵がその作業を守っている。京への供奉で覚えたのは、五百人を歩かせるだけでも多くの物が必要になるということだった。今回は歩かせるだけではない。兵を食わせながら、人足を働かせ、堤を築き、その上で城を囲み続けなければならない。「水攻め」という三文字の裏にある人と物の量は、実際に見なければ分からなかった。父上が初陣で戦を見ろと言った意味を、少しだけ理解した気がした。
ただし、こちらが土を運んでいる間、城方が黙って見ているわけではなかった。最初のうちは遠くへ落ちていた矢が、作業が城へ近付くにつれて人足や護衛の近くへ飛んでくるようになった。弓の弦が鳴る音そのものは稽古でも聞いたことがある。だが、自分へ向けられているかもしれない矢が空気を切る音はまるで違った。一本が少し離れた地面へ突き立った時、身体が勝手に強張った。頭では届かない位置にいると分かっていても、次の一本が同じ場所へ落ちるとは限らない。
「若様、少しお下がりくだされ」
弥太郎に言われ、素直に数歩下がった。その時だった。俺の前方で土籠を担いでいた男が、突然膝から崩れた。最初は足を滑らせたのかと思った。周囲の者も同じだったらしく、一人が手を伸ばしかける。その男が横へ倒れたところで、背に刺さった矢が見えた。
「運べ!」
誰かが叫び、二人が男を抱えてこちらへ運んできた。俺も反射的に近寄りかけ、弥太郎に腕を掴まれた。
「若様」
「放せ。邪魔はせぬ」
「しかし」
「見ておく」
言った声が、自分でも分かるほど硬かった。
男はまだ息をしていた。苦しそうに胸が上下し、口を開いて何か言おうとしているが声にならない。矢を無理に抜くなと誰かが言い、傷を押さえようとする者がいる。血の匂いなら知っている。怪我をした時にも嗅いだことはあるし、前世で教師をしていた頃にも生徒が怪我をした場へ居合わせたことはあった。だが、目の前で人間の身体からこれほど血が流れ、それが土へ吸い込まれていくのを見たことはなかった。
やがて男の胸の動きが止まった。周りの者は少し黙った後、その顔へ布を掛け、それからまた作業へ戻っていった。城方から矢はまだ飛んでいる。誰か一人が死んだからといって、戦そのものが止まってくれるわけではないらしい。
高島でも人は死んだ。俺はそれを知っている。むしろ一度戦わせるべきだと言い出したのは俺だったし、戦えば死人が出ることも理解した上で決めたつもりだった。それでも、今目の前で布を掛けられた男を見ていると、「分かっていた」という言葉が急に薄っぺらく感じられた。高島で聞いた死者の数には顔が無かった。だが今は違う。名前すら知らない男なのに、少し前まで土籠を担いで歩いていた姿を覚えている。その人間が、一本の矢で動かなくなった。
「若様」
弥太郎が低い声で呼ぶ。
「ああ」
「お戻りになられますか」
少し迷ったが、首を横へ振った。
「いや。ここにいる。ただし、同じ場所へ人を集め過ぎるな。城から見えておる。土を運ぶ道も一つに寄せぬ方がよい」
「はっ」
「それと、あの男の名を後で調べてくれ」
「……承知いたしました」
何故名を知りたいのか、自分でも上手く説明出来なかった。名前を覚えたところで男が生き返るわけではないし、俺が直接死なせたわけでもない。それでも「一人死んだ」とだけ覚えておくのが嫌だった。戦場で最初に俺が出した命令らしい命令は、敵を討てでも前へ出ろでもなく、土を運ぶ道を分けろというものだった。それが妙に、自分の初陣らしい気がした。
水は少しずつ溜まった。だが肥田城は落ちなかった。高野瀬も何もせず待っていたわけではなく、こちらの作業を妨げ、城内から矢を飛ばし、夜になれば作ったものを壊そうと手を出してくる。思ったほど水位が上がらない場所もあり、補修すれば別の場所が傷む。日が経つごとに、城を囲むこちら側にも疲れが溜まり、負傷者も少しずつ増えていった。最初に見た死者の後にも人は傷付き、何人かはそのまま戻らなかった。二人目、三人目となれば慣れるのかと思ったが、そう簡単でもなかった。ただ、一人目ほど身体が固まらなくなった自分に気付く度、それはそれで嫌な気分になった。
四月も進み、田へ手を入れなければならない時期が近付くと、別の問題を無視出来なくなった。人足として出ている者の多くは、本来なら自分の村で田を作る者だ。目賀田次郎左衛門尉が持ち込んだ兵糧と人足の記録を見ても、肥田城一つへ長く貼り付く負担は少なくない。堤を伸ばすほど人は要り、その人間が田へ戻れない日数も増える。城を落とすために働かせている者が増えるほど、秋に取れる米が減る可能性が高くなるという、何とも皮肉な形だった。
「このまま人足を置けば、田植えに響きまする」
軍議でそう言うと、父上が俺を見る。
「城を落とさず帰れと申すか」
「落とせる見込みと、ここへ残す損を比べるべきかと存じまする。今ここで田を作れぬ者を増やせば、秋に取れる米が減ります。備前守を討つために、次に兵を動かす米を減らしては長く続きませぬ」
「城一つと米、どちらを取る」
「今であれば米にございます。ただし、備前守を許すという意味ではございませぬ」
父上は少し黙った後、六人衆へ意見を求めた。皆が喜んで退くわけではない。特に高野瀬をこのまま残せば六角の威信に傷が付くという意見は強かった。それでも田植えを潰してまで包囲を続けるべきだという者はいなかった。結局、肥田城への攻撃はいったん止めることになった。六角が戦場で打ち破られたわけではない。軍が崩れたわけでもない。農繁期を前に兵と人足を戻し、田を作らせる。ただそれだけだと、こちらは説明することが出来る。
撤兵が決まった夜、父上に呼ばれた。初めて敵城を前にして過ごした日々も、明日には終わる。城を落とせなかった以上、初陣で武功を挙げたとはとても言えない。それでも戦へ出た事実だけは残る。
「どうであった」
父上が聞いた。
「何が、でございますか」
「初陣じゃ」
少し考えた。怖かった。人が死んだ。水攻めは面倒だった。城は落ちなかった。いくらでも答えられる気がするのに、一言へまとめようとすると難しい。
「……思っていた戦とは、違いました」
「どのように違った」
「もっと、槍や刀を振るうものだと思っておりました」
父上が僅かに笑う。
「それも戦じゃ」
「はい。ですが、それだけではございませんでした。土を掘る者も、それを運ぶ者も、飯を炊く者も、荷を運ぶ者もおりました。水を溜めるために何百人と働いて、それでも城は落ちませぬ。城を落とすために人を集め過ぎれば、今度は田が作れなくなる。……その全てが戦なのでございますな」
「少しは見えたか」
「はい」
少し迷ってから、もう一つ続けた。
「それと、人が死ぬところを初めて見ました」
父上の表情から笑みが消えた。
「そうか」
「高島でも人は死んだと知っておりました。自分の決めたことの先で死んだ者もいたと分かっていたつもりでした。ですが、目の前で見るのとは違いました」
「忘れるな」
父上の声は静かだった。
「怖かったことも、気分が悪くなったことも、忘れるでない。何度か戦へ出れば、いずれ人が死ぬことにも今より慣れる。その時こそ忘れやすい」
「父上も、慣れましたか」
「慣れた」
即答だった。
「それでも、死なせてよいという意味ではない。兵を出せば死ぬ者は出る。だからこそ、何のために出したかを忘れてはならぬ。首を取ることだけが戦ではないと分かったなら、そなたの初陣としては十分じゃ」
「城は落とせておりませぬが」
「初陣のために城を一つ落とされては、備前守もたまるまい」
思わず少し笑った。
「それに、負けずに退くことも覚えたであろう」
「はい」
「戦は勝つか死ぬかの二つだけではない。退かねばならぬ時に退けぬ者は、勝てる戦まで失う。覚えておけ」
「承知いたしました」
その夜、自分の陣へ戻ってから弥太郎に最初に死んだ男の名を聞いた。何処の村から来た者で、家族がいるのかまではすぐには分からなかった。それでも名だけは帳面へ残した。死者の一覧を作るつもりではない。ただ、俺の初陣で最初に人が死ぬところを見たことと、その男が数字ではなかったことだけは忘れたくなかった。
翌日、六角勢は肥田城を後にした。来る時には敵城へ向かうことばかり考えていた道を、今度は落とせなかった城を背にして戻る。鎧の重さも、行きより少し違って感じられた。初陣を終えたから急に強くなったわけでも、戦が分かったわけでもない。むしろ分からないことが増えた。それでも少なくとも、戦というものを帳面の数字だけで考えることはもう出来なくなっていた。
*
観音寺城へ戻ってしばらくすると、肥田城を落とせなかったことは、こちらの事情とは違う形で周囲へ広がり始めた。篠が南北を行き来する者たちから拾ってきた話によれば、「六角は肥田城を落とせなかった」と申す者が増えているらしい。田植えのために兵を戻したことを知っている者もいる。それでも、高野瀬備前守が浅井へ走り、六角が兵を出し、その城が今も残っているという結果だけを見れば、周囲がそう受け取ることも不思議ではなかった。
「言葉はこちらの都合では動かぬ、か」
「何か仰いましたか」
「いや。続けてくれ」
高島でも何度も見たことだった。こちらがどういう意味で行動したかと、相手がどう受け取るかは別だ。肥田城を一時的に放置したつもりでも、「六角が落とせなかった」という話が広がれば、それが次の国人の判断へ影響する。俺自身にとって肥田城は初陣だったが、周囲にとってそんなことは何の意味もない。見られているのは六角が動いて高野瀬を屈服させられなかったという事実であり、たった一つの城が、最初に考えていた以上に重くなり始めていた。
田植えの時期が過ぎる頃になると、浅井側の動きも以前よりはっきりしてきた。小谷で浅井下野守久政の姿をほとんど見なくなったという報告が入り、やがて竹生島へ退いたらしいという話まで出てきた。ただし、久政が自ら退いたのか、新九郎や家臣たちによって退かされたのか、その辺りはまだ情報が揃わない。父上から「新九郎だけを見るな」と言われたこともあり、俺は久政についての過去の動きまで対馬守に洗い直してもらっていたが、北近江の内側で何年も前から何が進められていたのかを短期間で全て掴めるはずもなかった。
それでも、六角と浅井の関係が以前と同じではないことだけは誰の目にも明らかになりつつあった。小夜を返し、高野瀬をこちらから奪い、肥田城を守り切った。久政の立場まで変わったのだとすれば、小谷の中で何か大きな変化が起きている。父上ももう様子を見るだけで済ませるつもりはないらしく、七月に入る頃には浅井を相手とした軍勢の編成について評定で具体的な話が出始めた。
「此度は備前守一人を討つ話ではない」
父上の声に、評定の場が静まった。
「浅井が高野瀬を抱えたまま六角へ背くのであれば、浅井ごと叩く」
誰も反対しなかった。肥田城を攻めた時とは意味が違う。あの時は離反した一人の国人を服させるための出陣だったが、今度は北近江の浅井そのものが相手になる。動かす兵も桁が違い、前衛、中軍、後陣をどう組むか、どの道から進むか、兵糧をどこへ集めるかという話が次々に出た。六角の力からすれば浅井より多い兵を揃えることは出来る。それでも、俺には前世で知っている結果があった。六角は数で勝りながら野良田で敗れる。その事実だけは忘れられない。
「右衛門督」
「はい」
「随分と難しい顔をしておるな」
「浅井を軽く見るべきではないと思っておりまする」
父上が少し眉を上げた。
「誰が軽く見ておる」
「失礼いたしました」
「兵の数ではこちらが上じゃ。それを使えぬようなら、数を持つ意味がない。肥田で少しは戦を見たのであろう。此度は、それより大きなものを見ることになる」
「はい」
父上に慢心している様子はなかった。そのことが逆に厄介だった。前世の知識を持たない者が浅井六千ほどに対して一万を超える兵を用意し、それでも慎重に陣を組もうとしているなら、負けると思わないのが普通だ。俺だって前世の知識が無ければ、六角が有利だと判断しただろう。だからこそ「未来では負けます」などと言えない俺は、何が敗因になるのかを今ある材料から探さなければならなかった。
その軍議が一段落しかけたところで、後藤但馬守が口を開いた。
「御屋形様。朽木はいかがなされまする」
場の空気が僅かに変わった。
「兵を出させるか」
「出してもらえれば大きゅうございます。高島を押さえた今の朽木は、浅井の東へ出ることも出来まする。それに朽木の兵が強いことは、我らも知っております」
朽木。竹若丸。その名を聞き、俺は無意識に姿勢を正した。高島の一件から六角と朽木の関係は単純ではなくなっている。竹若丸は六角の関与を知りながら公然と責めず、その後も表向きは関係を切っていない。だからといって六角家臣になったわけではない。むしろ高島をほとんど手中にしたことで、以前よりずっと大きな独立勢力になっている。
「朽木へ命じることは出来ぬ」
父上が言った。
「承知しておりまする。さればこそ、頼むのでございます」
「誰をやる」
但馬守は少し考えるようにした後、一人の名を出した。
「鯰江備前守為定殿がよろしいかと。朽木とは縁もございますれば、いきなり六角の使者が参るより話もしやすいでしょう」
その名を聞いたところで、前世で読んだ記憶がもう一つ繋がった。そうだった。竹若丸のもとへは鯰江備前守が向かい、六角方への出兵を促していた。その結果、朽木は千ほどの兵を出し、戦場では六角方の後陣に加わる。肥田城の水攻め、小夜の帰還、高野瀬の離反、そして鯰江備前守による朽木への働き掛け。記憶にある出来事が一つずつ現実へ重なっていくことで、野良田が本当に近付いている実感が以前より強くなった。
「但馬守」
父上が声を掛ける。
「はっ」
「表向きは備前守自身の考えとして話を持って行かせるか」
「その方が角は立ちませぬ。六角から命を受けたとなれば、朽木も構えましょう。備前守殿から、六角と浅井が戦うのであれば共に兵を出してはどうか、と勧める形ならば、竹若丸殿にも選ぶ余地がございます」
話の意味は分かった。それでも、胸の奥に引っ掛かるものがあった。
「父上」
「なんじゃ」
「それでは、こちらが頼んでおらぬように見せながら、実際には兵を求めることになりまする」
「そうじゃな」
「竹若丸殿ならば気付くのでは」
「気付くであろう」
あまりに簡単に認められ、言葉が止まった。
「ならば、最初から六角の意向として頼んだ方がよいのではございませぬか」
後藤但馬守が僅かに顔を顰めたが、父上は怒らなかった。
「そなたは、儂が竹若丸へ『兵を出せ』と書けば良いと思うか」
「命じるのではなく、援兵を願う形にございます」
「書状は残る」
父上の言葉で少し考えた。
「朽木は六角の家臣ではない。公方様との縁もある。高島の件では、こちらが後ろで動いたことも竹若丸は知っておる。その六角が今度は浅井との戦へ兵を出せと正式な書状を寄越せば、朽木を六角の下に置こうとしていると受け取る者もおろう。断れば両家の溝が表へ出る。受ければ受けたで、朽木が六角の命に従ったように見える。どちらにしても要らぬものまで付いてくる」
「だから鯰江殿を」
「うむ。頼みはする。だが命ではない。断る道も残す」
完全に納得したわけではなかった。言葉を柔らかくしたところで、竹若丸なら鯰江備前守の後ろに六角がいると見抜くだろう。それでも、正式な命令ではないという形自体に意味があるのも理解出来る。高島の一件で嫌というほど見た、表と裏の使い分けだ。ただ今回は、高島六家を戦わせた時とは少し違う。断らせないための罠を作るのではなく、朽木が断ればそれを受け入れる余地を残している。
「一つお願いがございます」
「申せ」
「備前守殿には、断ったからと六角が朽木を敵と見ることはないと伝えていただきたく存じまする」
但馬守が俺を見る。
「随分と朽木へ気を使われますな」
「高島の時に一度こちらから仕掛けております。それでも竹若丸殿は六角を公に責めませんでした。その相手へ今度は兵だけ求め、断れば不満を持つというのでは筋が通りませぬ」
父上は少し俺を見た後、頷いた。
「よい。備前守にはそう伝えさせよう。ただし、兵が欲しくないわけではないぞ」
「それは承知しておりまする」
「ならばよい」
評定が終わった後も、朽木のことが頭から離れなかった。竹若丸とは朽木で、次に会う時はもっとゆっくり話そうと約束した。それが次に顔を合わせる場所が戦場になる可能性が高い。しかも相手は浅井だ。少し前まで観音寺城で一緒に暮らしていた新九郎が率いる側と、少し前にようやく話せるようになった竹若丸が六角方として向かい合う。そして俺自身も、肥田城で初陣を済ませた六角の嫡男としてそこへ立つ。人の繋がりが、短い間に随分と変わったものだと思った。
*
鯰江備前守が朽木へ向かってから、返事が来るまでには幾日か掛かった。その間にも観音寺城では出陣の準備が進んでいった。兵糧が集められ、荷駄の数が確認され、各家から出せる兵の報告が上がってくる。俺も京への供奉で取った記録と肥田城攻めで残した記録を引っ張り出し、軍勢がどれだけ米を食い、どれだけの荷が一日に進めるのかを目賀田次郎左衛門尉と一緒に確かめた。肥田では攻城のために人を留め続ける負担を知ったが、今度は一万を超える人間をまとめて移動させることになる。兵が倍になれば荷も単純に倍で済むわけではなく、軍が大きくなれば道の詰まりも増え、休ませる場所も広く必要になる。初陣を終えた後だからこそ、出陣前の数字が以前より生々しく見えた。一日分の米が足りないということは、帳面の一行が欠けることではなく、何千人もの腹が減るということなのだ。
そんな中、父上のもとへ鯰江備前守から返事が届いた。評定の場で読み上げられた内容は簡潔だった。竹若丸は六角方へ兵を出すことを承知した。兵は千ほど。ただし自身はまだ若く戦の場数も少ないため、無理な使い方は勘弁願いたい。そのような趣旨だった。
「言うことは言う小童じゃ」
父上が少し笑った。
「千も出すのであれば十分にございましょう」
蒲生下野守が言う。俺も同じだった。朽木の外征に使える兵力を考えれば、千は軽い数ではない。高島を手にしたとはいえ、領内の守りを全て空にするわけにもいかないのだから、竹若丸なりに六角との関係を重く見て出した数なのだろう。
「備前守から、竹若丸殿が文を預けたとのことにございます」
父上が俺を見る。
「そなたにも一通あるそうじゃ」
「某に?」
「後で渡させる」
評定を終えて自室へ戻ると、ほどなくして文が届いた。長いものではなかった。六角方へ千の兵を出すこと、戦場で顔を合わせることになるだろうということ、そして最後に、以前約束した「次はゆっくり話す」という話について、戦場では難しそうだと少し冗談めかして書いてあった。
思わず小さく笑ってしまった。
「何と書いてございました」
弥太郎に聞かれ、文を畳みながら答える。
「戦場ではゆっくり話せそうにないとな」
「確かに」
「笑い事ではないぞ」
「若様が先に笑っておられましたが」
「見ておったのか」
「目の前におりますので」
弥太郎の返しに苦笑しながらも、文をしまう手は少し重かった。竹若丸は兵を出す。前世で読んだ流れと同じだ。高野瀬が浅井へ走り、肥田城を六角が攻め落とせず、小夜が戻り、浅井家中が動き、そして朽木が六角方として出兵する。ここまで揃えば、野良田が近いことを否定する方が難しい。それでも俺は「同じだから同じように負ける」と決めるつもりはなかった。肥田城では、知っていた水攻めという言葉の内側に、土を運ぶ人間と、飛んでくる矢と、死んでいく兵がいることを知った。野良田について俺が覚えている「六角が敗れる」という一行の中にも、きっと同じように、まだ俺の知らない途中がある。今度はその途中を自分の目で見ることになる。
出陣の日取りが決まり、観音寺城の中は普段以上に慌ただしくなった。集まる兵の数、先陣に置く家、荷駄の順序、途中で使う道と宿営地について、昼夜を問わず確認が続いた。父上は浅井より多い兵を用意しながらも、それで勝ったつもりにはなっていなかったし、六人衆も肥田城を落とせなかったことを忘れてはいない。それでも皆の根底には六角の方が大きく、強いという認識がある。その認識自体は間違いではない。領地も兵も六角の方が上なのだから、普通に考えれば有利なのはこちらだ。それでも前世の記憶では、この先で六角は敗れる。その差がどこから生まれるのか、それだけは戦が始まる前から意識しておかなければならなかった。
出陣を翌日に控えた夜、俺は自室で地図を広げた。肥田城の南へ指を動かし、その先にある野良田と宇曽川の位置を確かめる。今度は、その名を帳面から避ける意味も薄くなっていた。浅井は六角との縁を切り、高野瀬を取り込み、父上は浅井を討つために軍勢を集めた。朽木からも千の兵が加わる。まだ両軍が野良田で向かい合うと決まったわけではないが、俺が知っている未来と目の前の現実は、もはや同じ方向へかなり近くまで進んでいる。それでも俺が見るべきなのは「野良田で六角が負ける」という答えではなく、その答えへ至る途中だった。肥田城で初めて人の死を目の前にした時、「戦えば人が死ぬ」という知識がどれほど薄いものだったかを思い知らされた。ならば今度も、「六角が負ける」と知っているだけで戦を分かった気になることは出来ない。どの家がどこに置かれ、兵がどう動き、命令がどこで遅れ、人が何を見て進み、何を見て崩れるのか。それを一つずつ見るしかなかった。
そして今回は、竹若丸も同じ戦場にいる。高島ではあいつがどう勝ったのかを後から報告で知ることしか出来なかったが、今度は自分の目で見ることが出来るかもしれない。朽木の千がどう動き、六角の一万を超える軍勢がどう動くのか。その違いまで見ることが出来れば、前世で知っている敗北とは別に、六角という家に足りないものも見えてくるはずだった。肥田城で俺が覚えたのは、初陣とは敵の首を取るためだけのものではなく、人と物を動かし、その結果として誰かが死ぬ場所を自分の目で見ることでもあるということだった。明日から始まる戦は、その肥田城より遥かに多くの人間が動く。俺は地図から目を離し、翌日の支度を改めて確認した。今度は初陣ではない。それでも、城壁の向こうにいる敵を囲んだ肥田とは違い、浅井の軍そのものと正面から向き合う戦になる。そこで何を見ることになるのかは、まだ前世の記憶にも書かれていなかった。