出陣の日の朝は、まだ空が白み始めたばかりだというのに観音寺城の内外はすでに騒がしかった。馬の嘶き、荷駄をまとめる声、槍や具足が触れ合う音が重なり、城下から集まった兵もそれぞれの旗の下へ並び始めている。肥田城へ向かった時にも同じような光景を見たはずなのに、今回は軍勢の数からして違った。高野瀬備前守一人を服させるためではなく、浅井という一つの家そのものと戦うための出陣だ。昨夜までは帳面と地図を前にしていたから、まだ数字として考える余地があった。だが城内を埋めるほどの兵を実際に見ると、一万を超えるという数が人間の姿を取って目の前へ押し寄せてくる。
俺も具足を身につけ、弥太郎とともに父上のもとへ向かおうとしていたところで、平井家の者から声を掛けられた。加賀守が出陣前の挨拶に来たのだと思ったが、案内された先にいたのは加賀守だけではなかった。少し離れたところに小夜も立っている。肥田城へ出る時には平井の屋敷までこちらから顔を見に行ったが、今日は小夜の方から観音寺城へ来たらしい。以前なら人の多いところを避けていたことを考えれば、それだけでも随分変わった。
「若様」
「小夜。来ておったのか」
「父上と兄上が出られますので」
小夜はそう答えた後、少しだけ俺から視線を外した。今日は肥田城の時と違い、「浅井と戦うのか」と尋ねる必要はない。城中の誰もが知っている。俺たちがこれから向かう先には浅井の軍がいて、その中心には小夜がわずか四月だけ夫と呼んだ男もいる。
弥太郎もそれが分かっているのか、いつものような軽口を挟まなかった。
「小夜」
「はい」
「何か気になることがあるなら、今のうちに言っておけ」
俺がそう言うと、小夜は一度兄を見、それから俺へ視線を戻した。
「……新九郎様と、戦われるのでございますね」
「ああ」
今度は誤魔化さなかった。肥田城へ向かう時なら、高野瀬を服させるためだと言えた。だが今は違う。浅井を討つために一万を超える兵が集められ、その浅井の先頭に立つのは新九郎だ。
「ただし、新九郎一人を討ちに行くわけではない。六角と浅井の戦じゃ」
「はい」
小夜は静かに頷いたが、その顔から何を考えているかまでは読み取れなかった。未練があるのかと以前聞いた時、小夜自身が分からないと答えている。婚姻の日から拒まれ、四月で離縁された相手だ。それでも、一度は知っている相手だからと安心して嫁ぎ、夫と呼んだ男でもある。その男と父や兄、そして俺たちが殺し合うことになると聞いて、何も感じない方が不自然だろう。
「小夜」
「はい」
「お主のせいではないぞ」
小夜が目を見開いた。
「何が、でございますか」
「この戦じゃ」
加賀守と弥太郎もこちらを見る。
「お主と新九郎の婚姻が終わったから戦になったわけではない。高野瀬のことも、浅井家中のことも、それより前から動いておった。自分が戻ってきたからこうなったなどとは考えるな」
小夜はすぐには答えなかった。少しして、視線を落とす。
「……少しだけ、考えておりました」
「やはりか」
「私がもう少し上手く出来ていれば、と」
「それで六角と浅井の間にあるもの全てが変わるなら、俺たちは随分楽が出来たであろうな」
なるべく軽く言うと、小夜は困ったようにこちらを見る。
「お主一人に二つの家の仲を背負わせるほど、父上も浅井下野守殿も無責任ではなかったはずじゃ。少なくとも、俺はそう思っておる」
「若様……」
「だから、俺たちが出て行く背中を見て、自分のせいだとは思うな」
しばらくして、小夜は小さく「はい」と答えた。その声だけで本当に納得したかどうかは分からない。それでも今は、それ以上言葉を重ねる必要もないと思った。
加賀守が娘へ声を掛け、そろそろ行くぞと告げる。小夜は父へ頭を下げ、それから弥太郎へ向き直った。
「兄上」
「なんじゃ」
「御無事で」
「心配するな。今度も戻る」
「若様をお守りして、でございますか」
肥田城へ出る前のことを覚えていたらしい。弥太郎が一瞬言葉に詰まり、俺は思わず笑った。
「ほれ。前に俺が言った通りになったであろう」
「若様、こういう時だけ妹の側へ付かれるのは卑怯にございます」
「自分も戻ると言えば済む話じゃ」
「分かっておりまする。小夜、某も戻る。これでよいか」
「はい」
小夜が笑った。その後で俺へ目を向ける。
「若様も、御無事でお戻りくださいませ」
「ああ」
今度は「必ず」とは言わなかった。肥田城へ送り出された時に小夜が使ったその言葉を、本人も覚えているのかもしれない。俺も「必ず戻る」とは返さなかった。それでも互いに、それで十分だった。
俺たちが歩き出すと、小夜はその場に残って見送っていた。少し先へ進んでから振り返ると、まだそこにいる。以前は人から見られることそのものを怖がっていた小夜が、兵や家臣が行き交う城の中まで自分から出てきた。そのことを少し嬉しく思う一方で、次に戻った時にも今と同じようにあの姿を見られるのかと考えてしまった。肥田城では初めて人が死ぬところを見た。今度は、その時とは比べ物にならない数の人間が互いに殺し合う。小夜へ「戻る」と言った言葉を守れるかどうかは、これからの俺たち次第だった。
*
城門を出ると、軍勢は時間を掛けて北へ動き始めた。肥田城への出陣でも兵と荷駄が同じ道を使う面倒さは知ったが、今回は規模がまるで違う。先頭が歩き始めても後ろではまだ隊列を整えており、狭い道へ入ればすぐに兵と荷駄の列が長く伸びた。荷駄の馬が一頭立ち止まっただけでも後ろに詰まりが出来、前では何事もなかったように進んでいるのに、少し離れた後方では人馬が止まっていることさえある。六角一万余りと一口に言っても、一つの巨大な集団が同じ足で歩いているわけではない。蒲生、後藤、進藤をはじめ、それぞれの家が自分たちの兵を率い、それらを使番と命令で一つの軍へ繋ぎ合わせているのだ。
「若様、また後ろを見ておられますな」
馬を並べていた弥太郎が言った。
「肥田の時と比べておる」
「如何でございます」
「人数が増えれば、面倒も同じ割合で増えると思っておった」
「違いましたか」
「ああ。多分、人数より早く増える」
五百を率いて京へ行った時、俺は五百を動かすだけでも人と物が要ることを知った。肥田城では兵を一か所へ留め、人足を働かせ続ける難しさを知った。今度は一万を超える軍を動かしている。前と後ろの距離が広がれば、命令一つを伝えるにも時間が要る。先頭から見えているものと後陣から見えているものさえ違うだろう。父上が正しい命令を出したとしても、それが必要な場所へ届く頃には状況が変わっているかもしれない。反対に、前で何かが起きても、父上がそれを知るまでにはやはり時間が掛かる。
「弥太郎」
「はい」
「戦が始まったら、使番をよく見ておけ」
「敵ではなく?」
「敵も見る。だが、命令がどれだけで届くのかも知りたい」
「初陣の時には土を見て、今度は使番でございますか」
「刀や槍を振るうだけが戦ではないと父上に教えられたからな」
「若様らしい戦の見方にございます」
「また褒めておらぬだろう」
「今度は褒めておりまする」
肥田城へ向かった時より、弥太郎との会話には少し余裕があった。怖くないわけではない。むしろ、目の前で人が死ぬことを一度知っているからこそ、これから何が起きるかを以前より具体的に想像出来てしまう。ただ、何も知らないまま初陣へ向かった時とは違い、怖いという感情をどう扱えばいいのかも少しだけ分かるようになっていた。怖いから見る。怖いから勝手に前へ出ない。怖いから戻るための方法を考える。それでいいのだと思うことにした。
愛知郡へ入る頃には、夏の日差しが容赦なく軍勢へ降り注いでいた。肥田城の南、野良田と呼ばれる辺りへ近付くにつれて、先へ出していた物見から浅井勢も動いているという報せが相次いだ。浅井方はおよそ六千。こちらは朽木の千を加えて一万二千ほど。兵の数だけならほぼ倍になる。評定でも、この数を不利と見る者はいなかったし、俺自身も前世の記憶が無ければ六角が有利だと考えたはずだった。
それでも、実際にここまで軍勢を運んできた後では、「一万二千対六千」という数字だけで安心する気にはなれなかった。一万二千の兵全てを同じ瞬間、同じ場所へ置けるわけではない。道があり、川があり、田があり、それぞれの家ごとに陣を置く必要がある。数が多いことは力だが、その力を一つの方向へ動かすことが出来なければ、帳面の数字ほどの差にはならない。そのことを、行軍だけでも十分に思い知らされていた。
野良田へ着くと、宇曽川を挟んだ向こう側に浅井の旗が見えた。青々とした田が広がり、川の水は夏の日を反して光っている。戦さえ無ければ、ごく普通の近江の景色にしか見えなかっただろう。しかし今日は、その田の向こうへ六千の兵が並んでいる。肥田城でも敵はいた。矢も飛んできたし、人も死んだ。それでも相手は城壁の向こうにいた。今回は違う。川を挟んで見える人間の全てが、こちらを敵として並んでいる。
「肥田とは違いますな」
隣にいた弥太郎が、俺と同じことを考えていたように呟いた。
「ああ。あの時は城を囲んだ。今度は向こうも俺たちを見ておる」
六千という数字は知っていた。それでも、実際に旗が並び、その下に人の影が幾重にも続いているのを見ると、数字とはまるで違う圧力がある。あの中に新九郎もいる。観音寺城で猿夜叉丸と呼ばれ、小夜と話し、俺へ「いつか小谷を案内する」と笑った少年が、今は俺たちと戦うために軍勢の中へいる。その事実を考えると妙な感覚になったが、もう昔のことだけを見ていられる場面でもなかった。
六角側の陣立ては、先陣に蒲生下野守をはじめ永原、進藤、池田らの兵が合わせて四千ほど。第二陣には楢崎、田中、木戸、和田、吉田らの兵が同じく四千ほど置かれ、父上と後藤但馬守、そして朽木勢を含む残りが後陣となる。俺も父上の近くに置かれた。肥田城では作業の様子を見るため前へ出ることもあったが、今回は父上から後陣を離れるなと念を押されている。初めて経験する本格的な野戦で、武功を求めて前へ出るよりも、全体がどう動くかを見ろということなのだろう。
布陣が進む中、少し離れた場所へ見慣れない旗の一団が入ってきた。見慣れないと言っても、旗に記された九字を見れば誰の軍かはすぐに分かる。
「朽木でございますな」
「ああ」
千ほどの兵が大きく乱れることなく後陣へ入ってくる。その中には鉄砲を持つ者の姿が目立った。事前に聞いた数では三百ほど。高島六家との戦では三百の兵に二百丁もの鉄砲を持たせていた。それからさらに数を増やしている。鉄砲そのものを揃えるだけなら銭があれば出来るかもしれない。だが、それを扱う者を増やし、一つの隊として動かすことは別だ。今日ようやく、それを自分の目で確かめられる。
やがて朽木勢から数人がこちらへ向かってきた。先頭にいる少年の姿を見つけ、俺も父上の側から少し前へ出る。朽木で別れて以来になる竹若丸は、以前より僅かに背が伸びたように見えた。もっとも、こちらも同じだけ成長しているのかもしれない。
「左京大夫様。このたびはお招きいただき、恐悦にございます」
竹若丸はまず父上へ丁寧に頭を下げた。父上も兵を出したことへの礼を述べ、無理をさせるつもりはないと応じる。そのやり取りを終えた後、竹若丸が俺へ顔を向けた。
「右衛門督殿。御無沙汰しておりまする」
「久しいな、竹若丸殿」
「文にも書きましたが、どうやらゆっくり話す場所ではなさそうにございますな」
周囲へ視線を巡らせるので、俺も少し笑った。
「俺もそう思う。次に会う場所まで間違えたようじゃ」
「では、次こそは戦場ではない場所で」
「そうしたいものじゃ」
ほんの短いやり取りだったが、高島の一件を挟んだ後でも以前と大きく変わらない調子で話せたことには少し安心した。竹若丸が六角をどこまで信用しているかは分からない。それでも六角からの頼みを受け、千という軽くない兵を率いてここへ来た。その選択まで疑う必要はないだろう。
そこで、近くまで来た竹若丸の姿に改めて目が止まった。
「竹若丸殿」
「はい」
「鎧はどうした」
周囲の武者が具足を身につける中、竹若丸だけは戦場へ来た者とは思えないほど身軽な姿をしている。
「重うございますゆえ」
「……それでよいのか」
「高島でもこれでございました。今さら着ければ、かえって動けませぬ」
悪びれる様子もない。後ろに控えている朽木の家臣たちを見ると、何人かが諦めたような顔をしていた。以前から何度も言われているのだろう。
「父上に前へ出されても知らぬぞ」
「その時は右衛門督殿から、未熟者を前へ出すものではないと御口添えを」
「俺を使うな」
竹若丸が笑う。高島ですでに兵を率いて戦った男だ。年齢なら俺より下でも、戦場へ立つことでは先輩になる。肥田城を経験した今なら、その落ち着きが以前とは少し違って見えた。戦を知らないから笑えるのではなく、戦を知った上で普段通りに振る舞っているのかもしれない。
竹若丸が自軍へ戻った後、俺はしばらく朽木勢を眺めていた。目についたのは、兵の多くが立ち続けていないことだった。武器の確認を終えた者から腰を下ろし、水を飲み、身体を休めている。鉄砲を持つ者たちも火縄や火薬の確認をしているが、それが終われば無闇に動かない。一方、六角勢ではいつ戦が始まってもよいようにと具足姿のまま立っている者も多い。この暑さの中で、どちらが後まで力を残せるかを考えれば答えは分かりやすかった。
「弥太郎」
「はい」
「こちらの者にも水を惜しませるな。交替で休ませろ。敵が動いたという報せが来るまでは、立って待つ必要はない」
「朽木を御覧になって、でございますか」
「良いと思ったものを真似して何が悪い」
「何も申し上げておりませぬ」
「顔が言っておる」
「御屋形様と同じことを仰いますな」
嫌な顔をすると弥太郎が笑った。俺の側にいる兵など父上の軍全体から見れば僅かなものだが、少なくとも自分の手が届くところで無駄に疲れさせる理由はない。梅酸丸も持ってきている。肥田城では人足や兵に試しながら使ったが、今回は暑さの中で長く兵を動かす時にどれほど役に立つかを見ることが出来る。敵と向かい合っている最中にそんなことまで考えている自分へ少し呆れたが、父上から「戦を見ろ」と言われた以上、これも戦の一部なのだろう。
*
日が落ちると、昼間とは違う不気味さが陣を包んだ。あちらこちらで焚かれた火が暗闇に浮かび、馬の嘶きや兵の話し声が絶えることなく聞こえてくる。肥田城の夜にも敵が動く可能性を警戒して眠りは浅かったが、今回は川の向こうにも同じように何千もの兵が夜を過ごしている。昼間には見えていた相手が闇に隠れると、かえって浅井の存在を強く意識した。
父上の陣では最後の軍議が開かれた。物見の報告では、浅井勢はやはり六千前後。宇曽川を挟んだ北側に布陣している。こちらは兵も兵糧も多く、時間を掛ければ浅井の方が先に苦しくなる。そのため、数で劣る浅井は早い段階で攻めてくるのではないかという見方が強かった。
「先陣が受け、第二陣が支える。無理に川を渡って追うな」
父上が地図へ手を置く。
「浅井に来させる。数で勝っておるからと、勝手に前へ出て陣を崩すな」
異論は出なかった。俺もその方が良いと思う。川を渡る側はそれだけ隊列が乱れる。向こうから来るのであれば、先陣で受け止め、第二陣で支えれば数の差を使いやすい。ただ、昼間から陣立てを見ているうちに一つ気になることがあった。
「父上」
「なんじゃ」
「後陣は、どこまで動かさぬおつもりで?」
「先が崩れぬ限りは動かさぬ」
「浅井が先陣を避け、別の場所からこちらへ回ることはございませぬか」
何人かの視線が俺へ向いた。
「六千を分ければ、一つ一つが薄うなる」
後藤但馬守が口を開いた。
「正面に八千を置く六角を前にして、浅井がわざわざ兵を割きますかな」
「大きく割くことは出来ぬと思いまする。ですが、千ほどならば」
「千で後陣へ?」
「本陣を落とす必要はございませぬ。本陣が攻められていると前へ伝われば、それだけでも戦っている者は後ろを気にするかと」
言葉にしながら、自分の考えが前世の記憶に引かれていることは分かっていた。野良田で六角が数に勝りながら敗れた。その結果を知っているから、正面以外で数の差を崩す方法を探している。だが、だからといって考える価値が無いわけでもない。一万二千全てが一か所で戦えない以上、相手がこちらの動かせない場所を作ろうとする可能性はある。
父上はしばらく地図を見た後、三雲対馬守へ視線を向けた。
「対馬」
「はっ」
「明朝、川沿いの物見を増やせ。正面だけを見るな。左右へ動く兵がおれば早めに報せよ」
「承知いたしました」
「右衛門督」
「はい」
「考えることは悪くない。ただし、自分が考えた通りに相手も動くと思うな」
「承知しておりまする」
「ならばよい」
父上はそれ以上言わず、軍議を続けた。肥田城の前なら、未来の記憶から浮かんだ考えをそのまま答えにしたくなったかもしれない。今は違う。可能性として口にし、物見を増やし、実際に動くかどうかを見る。それで十分だ。
軍議を終えて自分の陣へ戻る途中、朽木勢の近くを通った。鉄砲隊らしい者たちが火縄や火薬を確認している。必要な作業を終えると、やはり余計なことはせず身体を休めていた。肥田城で一人目の死者を見た夜のことを思い出す。あの時は翌日にまた矢が飛んでくることを考えるだけで身体が強張った。今日はそれとは違う怖さがあった。明日になれば、城壁の向こうから飛んでくる矢を待つのではない。何千もの人間がこちらへ向かって走ってくるかもしれない。
「若様」
弥太郎が声を落とした。
「なんじゃ」
「肥田の時とは、違いますな」
「ああ」
「怖くございませんか」
「怖い」
考えるまでもなく答えた。
「今度は驚かれぬのだな」
「肥田で同じことを聞きましたから」
「そうだったか」
「その時も、若様は怖いと仰いました」
俺は少し笑った。
「なら今回も同じじゃ。怖いものは怖い」
「某もにございます」
「分かっておる。だから勝手に死ぬな」
「若様も」
「ああ」
肥田城へ向かう前と同じような会話だったが、意味は少し違った。あの時は「戦」というもの自体を知らずに怖がっていた。今は一人の人間が死ぬところを知った上で怖がっている。怖さが無くなったわけではない。むしろ形が見えるようになった。ただ、その怖さを隠す必要は無いと思えるようにもなっていた。父上が言ったように、いずれ人の死へ慣れる時が来るのかもしれない。それでも、今はまだ怖い。そのことを忘れないでいようと思った。
*
翌朝、太陽が高くなるより前から軍勢は動き始めた。物見から浅井勢にも動きがあると伝わり、先陣では弓を持つ者が前へ出る。俺は父上のいる後陣から宇曽川の向こうを見ていたが、距離があるため一人一人の動きなど到底分からない。旗の位置、土煙の上がり方、そして使番が持ち帰る報告を繋ぎ合わせて戦況を考えるしかなかった。
最初に動いた浅井勢は、およそ二千だった。喊声を上げながら宇曽川へ入り、こちらから飛ぶ矢にも大きく足を止めず、そのまま蒲生下野守の陣へ向かってくる。遠くにいる俺のところまで声が重なって届き、やがて両軍の間が人と旗の塊になった。
「始まりましたな」
弥太郎の声も普段より硬い。
「ああ」
肥田城で矢が飛んできた時とはまるで違った。今回は自分から離れた場所で戦っているから、むしろ何が起きているのか分からない。旗が前へ進み、止まり、少し後ろへ下がる。人の塊が押し合っていることは見えるが、どちらがどれほど傷付いているかまでは分からない。「浅井が押しております」という使番が来た少し後に、別の者が「蒲生勢、持ち堪えております」と告げる。同じ戦場の話なのに、見る場所と報告が届くまでの時間によって内容が変わる。
戦場では、今何が起きているかさえすぐには分からない。
肥田城で知ったのは、戦が槍と刀だけではないということだった。ここで知り始めたのは、指揮する者が必ずしも戦場そのものを見られるわけではないということだった。父上は一万を超える兵の中心にいるが、その父上でさえ前方で起きていることを使番の言葉に頼らなければならない。俺が行軍中に考えていた命令の遅れが、実際の戦ではもっと大きな意味を持つのだと分かってきた。
「浅井は随分と強く押してくるな」
父上が前方から目を離さず言う。
「後が無いのでございましょう」
後藤但馬守が答えた。
俺も同じように思った。新九郎にとって、この戦はただ土地を増やすためのものではない。六角との関係を切り、父親の立場まで変え、高野瀬を引き込んだ後で負ければ、浅井家中で今まで作ったものまで崩れる可能性がある。以前と同じ形で六角へ戻ることなど出来ないだろう。ならば、向こうの兵が必死になるのも不思議ではない。
戦が続くうちに日差しが強くなり、具足の内側へ汗が溜まり始めた。前方で槍を合わせている者たちは俺たちより遥かに激しく身体を動かしている。浅井がどこまで同じ勢いを保てるかと考えていた頃、蒲生勢の側から使番が駆け込んできた。
「浅井勢、勢いが鈍っておりまする!」
少し遅れて、永原、進藤、池田らが浅井勢の横へ回り始めたという報告も届いた。前ばかりを攻めていた浅井の先鋒が左右から圧され、少しずつ後ろへ下がっていく。今度は遠くから見ている俺にも分かった。浅井の旗が揃って川の方へ動いている。
「押し返したな」
父上の周囲から安堵の声が出た。
俺も一度息を吐いたが、それで終わったとは思えなかった。浅井六千のうち、今前へ出ているのは二千ほどに過ぎない。川の向こうにはまだ多くの旗が残っている。
「父上」
「分かっておる」
俺が言葉を続ける前に父上が答えた。
「本隊はまだ向こうじゃ」
その言葉を待っていたかのように、川向こうの浅井勢が大きく動き始めた。後退していた先鋒を見捨てるつもりはないらしい。今度は最初の二千とは比べ物にならない数が宇曽川へ入り、踏み止まろうとしていた先鋒と合流する。そのまま蒲生勢へ向かう動きに対し、六角側も第二陣を前へ出し始めた。
幾つもの旗が同時に動く。先陣四千と第二陣四千、その大半が浅井本隊の攻撃を受けるため前へ寄っていく。六角全体では浅井の倍近い兵を持っている。それでも目の前の一か所へ八千が吸い寄せられれば、後ろに残る兵は急に少なくなる。数の差が消えたわけではない。しかし、使える場所が限られれば数字の意味も変わるのだと、実際の動きを見てようやく理解出来た。
「対馬」
父上が声を上げた。
「左右の物見は」
「今のところ大きな動きは――」
そこへ、川沿いへ出していた物見の一人が馬を飛ばして戻ってきた。まだ父上の前へ着くより前から、只事ではないことはその走り方で分かった。男は馬を降りると息を整える暇もなく頭を下げた。
「申し上げます! 浅井勢の一部、川沿いをこちらへ回っておりまする! 数はおよそ千!」
軍議で考えた形が、現実になった。
「どこへ向かっておる」
父上の声は変わらない。
「このままであれば本陣へ!」
「対馬、さらに物見を出せ。但馬守、後陣を整えよ。前から兵を抜くな」
「はっ!」
二人が即座に動く。昨夜のうちに可能性を考え、物見を増やしていた分だけ、少なくとも敵が突然目の前へ現れることは避けられた。周囲の兵にも緊張は走ったが、何をすればよいか分からず右往左往するほどではない。それでも正面ではすでに八千近い兵が浅井本隊と噛み合っている。そこから援軍を戻せば、今度は前が危うくなる。後陣に残った兵だけで、こちらへ向かってくる千を受けなければならない。
「弥太郎」
「はい」
「こちらも兵をまとめろ。勝手に前へ出させるな。父上から命が来るまで持ち場を離れるな」
「はっ」
返事を聞きながら、俺は報告された方向へ目を凝らした。まだ距離はある。それでも田の向こうに上がる土煙と、その下で動く旗が見えた。千という数だけなら、後陣に残る兵で受け止められない相手ではない。だが敵の目的は本陣を完全に潰すことだけではないのかもしれない。本陣が攻められたという報せが前へ届けば、父上を気にして戦っている兵の目が後ろへ向く。八千の兵を正面へ縛り付けた上で後ろを揺らせば、それだけで全軍の動きが鈍る可能性がある。
これが、数の差を消す方法なのかもしれない。
そう考えた時、後陣の一角で六角勢とは違う動きが始まった。
朽木勢だった。
先ほどまで身体を休めていた千の兵が、周囲より一足早く立ち上がり、まとまったまま向きを変えていく。鉄砲を持った者たちが前へ出て列を作り、その後ろでは弓と槍の兵がそれぞれの位置へ移っていた。浅井勢がこちらへ回ったという報せは、当然朽木にも届いているだろう。それでも動きには慌ただしさが見えない。誰がどこへ行くのかをその場で決めているのではなく、こういう時にどう動くかをあらかじめ知っているように見えた。
俺は竹若丸の姿を探した。兵から少し離れた見晴らしの良い場所に、昼間と同じ身軽な姿で立っている。その周囲から使番が次々と走り、鉄砲隊へ命令を伝えていく。高島六家との戦で、竹若丸は三百ほどの兵に大量の鉄砲を持たせ、四倍近い相手を崩した。俺はその結果を報告でしか知らなかった。鉄砲を集中させたという話を聞き、それがどのように戦場で使われたのかを頭の中で想像しただけだった。
今度は違う。
浅井の千が近付く。
その進路に対して、朽木の鉄砲隊が正面ではなく僅かに斜めから当たる位置へ動いていく。三百丁すべてを一列へ並べるのではなく、幾つかの列へ分かれているように見えた。前の者が撃った後に何をするのか、後ろの者がどの時点で前へ出るのかまでは距離があって分からない。それでも、六角の後陣が敵を迎え撃つためにようやく槍を揃え始めた時には、朽木勢はもう撃つ場所まで決めていた。
「早い……」
「何がでございます」
弥太郎に聞かれ、朽木勢から目を離さず答えた。
「命令を受けてから戦う形になるまでじゃ。こちらより早い」
兵の質が違うと一言で済ませるのは簡単だ。だが、何が違うのかを見なければ意味がない。兵が休んでいたこと。命令を受けると迷わず自分の位置へ動いたこと。鉄砲、弓、槍がそれぞれ別々に動いているのに、一つの軍勢として向いている方向は同じであること。高島で竹若丸が勝った理由は、鉄砲を二百丁持っていたからだけではないのかもしれない。
向かってくる浅井勢との距離が縮まっていく。朽木の弓隊から矢が飛び始めた。それでも浅井勢は足を止めず、本陣を目指して進んでくる。鉄砲隊はまだ撃たない。これだけ近付いているのに、と俺の方が焦れそうになるほど待っている。
やがて竹若丸の側から一騎の使番が走った。
鉄砲隊の前列で動きが揃う。
その直後、野良田の空気を引き裂くような轟音が響いた。
肥田城でも鉄砲の音を遠くに聞いたことはあったが、三百に近い数が一つの意図で放たれる音はまるで別物だった。白い煙が一斉に広がり、その向こうで浅井勢の前列が崩れる。それでも朽木の兵は騒がず、前の列が下がるのと入れ替わるように別の列が動いていた。最初の轟音の余韻が耳に残っているうちに、次の射撃へ備える姿が見える。そこで俺は、高島で聞いた「鉄砲二百」という数字の意味をようやく少し理解した。竹若丸が強かったのは、鉄砲を多く持っていたからではない。休ませる時には休ませ、敵が来れば迷わず配置へ就かせ、最も効く距離まで待たせ、撃った後に次の者が続けるところまでを一つの流れとして兵に覚えさせている。その仕組みまで含めて初めて、三百丁の鉄砲は三百丁分以上の力になるのだろう。
俺が朽木勢へ目を奪われている間にも、正面では六角の八千と浅井本隊が押し合いを続け、こちらへ回ってきた千は最初の一斉射を受けても完全には止まっていなかった。それでも戦場の形は、ほんの少し前までとは明らかに変わっていた。昨夜まで俺が探していたのは、数で優る六角が何故負けるのかという理由だった。だが実際に戦が始まってみれば、見るべきものはそれだけではない。六角の一万二千がどう動くか、浅井の六千がどうやってその数の差を消そうとするのか、そして同じ六角方に立ちながら朽木の千が何故これほど違う動きをするのか。その全てが同時に目の前で起きている。肥田城で戦を数字だけでは考えられなくなった俺は、今度は大軍の数だけでも戦を測れないことを、川を挟んだこの場所で知り始めていた。