淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第三十六話「川を挟んで」

 出陣の日の朝は、まだ空が白み始めたばかりだというのに、観音寺城の内外はすでに騒がしかった。馬の嘶き、荷駄をまとめる声、槍や具足が触れ合う音が重なり、城下から集まった兵たちもそれぞれの旗の下へ並び始めている。肥田城へ向かった時にも同じような光景を見たはずだが、今回は軍勢の規模からして違った。高野瀬備前守一人を服させるためではなく、浅井という一つの家そのものと戦うための出陣だ。昨夜までは帳面と地図を前にしていたため、まだ数字として考える余地があった。だが城内を埋めるほどの兵を実際に見ると、一万を超えるという数が人間の姿を取って目の前へ押し寄せてくる。

 

 俺も具足を身に着け、弥太郎と共に父上のもとへ向かおうとしていたところで、平井家の者から声を掛けられた。加賀守が出陣前の挨拶に来たのかと思ったが、案内された先にいたのは加賀守だけではなかった。少し離れたところに小夜も立っている。肥田城へ出る時にはこちらから平井の屋敷へ顔を見に行ったが、今日は小夜の方から観音寺城へ来たらしい。以前は人の多い場所を避けていたことを考えれば、それだけでも随分と変わったものだと思った。

 

「若様」

 

「小夜。来ておったのか」

 

「父上と兄上が出られますので」

 

 小夜はそう答えた後、少しだけ俺から目を逸らした。今日は肥田城の時と違い、浅井と戦うのかと尋ねる必要はない。城中の誰もが知っている。俺たちがこれから向かう先には浅井の軍がいて、その中心には小夜が僅か四月だけ夫と呼んだ男もいる。弥太郎もそれが分かっているのか、いつものような軽口を挟まなかった。

 

 何か気になることがあるなら今のうちに言っておけと促すと、小夜は一度兄を見てから、改めてこちらへ顔を向けた。

 

「……新九郎様と、戦われるのでございますね」

 

「ああ。だが、新九郎一人を討ちに行くわけではない。六角と浅井の戦じゃ」

 

 今度は曖昧な答えで済ませるつもりはなかった。肥田城へ向かう時なら、高野瀬を服させるためだと言えた。だが今は違う。浅井を討つために一万を超える兵が集められ、その浅井の軍を率いる立場にあるのが新九郎だ。

 

 小夜は静かに頷いたが、何を考えているのかまでは読み取れなかった。以前、まだ新九郎への想いがあるのかと尋ねた時、小夜自身が分からないと答えている。婚姻の日から拒まれ、四月で離縁された相手だ。それでも、一度は知っている相手だからと安心して嫁ぎ、夫と呼んだ男でもある。その男と父や兄、そして俺たちが戦うことになると聞いて、何も感じない方が不自然だろう。

 

「小夜。此度の戦は、お主のせいではないぞ」

 

 小夜が驚いたように目を見開いた。加賀守と弥太郎もこちらを見る。

 

「お主と新九郎の婚姻が終わったから、戦になったわけではない。高野瀬のことも浅井家中のことも、それより前から動いておった。自分が戻ってきたからこうなったなどとは考えるな」

 

 小夜はすぐには答えず、少ししてから目を伏せた。自分がもう少し上手く出来ていれば、何かが違ったのではないか。そんなことを考えていたらしい。

 

 やはりか、と思った。小夜は六角の養女として浅井へ嫁ぎ、その役目を果たそうとしていた。婚姻が終わった後も、その責任まで自分一人で背負おうとしているのだろう。だが六角と浅井の間には、小夜が嫁ぐより前から積もっていたものがある。高野瀬の離反も、小谷の家中で起きていることも、二人の婚姻だけで説明出来るものではなかった。

 

「お主一人の働きで両家の仲が決まるなら、随分と楽な話じゃ。父上も浅井下野守殿も、それほど軽い考えで政をしていたわけではあるまい。これから出て行く者たちを見て、自分のせいだなどと思うな」

 

 少し軽く言ったつもりだったが、小夜はしばらく俯いたままだった。やがて小さく返事をして顔を上げる。その様子だけで本当に納得出来たかどうかは分からない。それでも、今はそれ以上言葉を重ねる必要はないと思った。

 

 加賀守がそろそろ行くぞと告げると、小夜は父へ頭を下げ、それから弥太郎へ向き直った。兄の無事を願う言葉に、弥太郎は今度も戻ると答えたが、小夜から若様を守るだけでなく兄上自身も戻ってきてほしいと言われ、少し困った顔をした。肥田城へ出る前に俺が同じことを言ったのを覚えていたらしい。弥太郎が自分も必ず戻るつもりだと改めて答えると、小夜はようやく笑みを浮かべた。

 

「若様も、御無事でお戻りくださいませ」

 

「ああ。戻ってくる」

 

 今度は必ずとは言わなかった。肥田城へ送り出された時に小夜が使ったその言葉を、本人も覚えているのかもしれない。俺も必ず戻るとは返さなかった。それでも互いに、それで十分だった。

 

 俺たちが歩き出すと、小夜はその場に残って見送っていた。少し先へ進んでから振り返っても、まだ同じ場所に立っている。以前は人から見られることそのものを怖がっていた小夜が、兵や家臣の行き交う城内まで自分から出てきた。その姿を少し嬉しく思う一方で、次に戻った時にも同じように会えるのだろうかと考えてしまった。

 

 肥田城では初めて人が死ぬところを見た。今度は、その時とは比べ物にならない数の人間が互いに殺し合う。小夜へ戻ると告げた言葉を守れるかどうかは、これからの俺たち次第だった。

 

 *

 

 城門を出ると、軍勢は時間を掛けて北へ動き始めた。肥田城への出陣でも兵と荷駄が同じ道を使う面倒さは知ったが、今回は規模がまるで違う。先頭が歩き始めても後方ではまだ隊列を整えており、狭い道へ入れば兵と荷駄の列が長く伸びた。荷馬が一頭立ち止まるだけで後ろに詰まりが出来、前では何事もなく進んでいるのに、少し離れた後方では人馬が止まっていることさえある。

 

 六角一万余りと一口に言っても、一つの巨大な集団が同じ足並みで歩いているわけではない。蒲生、後藤、進藤をはじめ、それぞれの家が自分たちの兵を率い、それらを使番と命令で一つの軍へ繋ぎ合わせている。兵が多いことは力だが、その分だけ全体を動かす難しさも増していた。

 

 馬を並べていた弥太郎から、先ほどから何度も後ろを確かめていると指摘された。肥田城の時と比べているのだと答えたものの、実際にはそれだけではなかった。五百を率いて京へ行った時には、人を動かすだけでも多くの物が必要になると知った。肥田城では兵を一か所へ留め、人足を働かせ続ける難しさを知った。今度は一万を超える軍を動かしている。前と後ろの距離が広がれば、命令一つを伝えるにも時間が掛かり、先頭から見えているものと後陣から見えているものさえ違うだろう。

 

 父上が正しい命令を出したとしても、それが必要な場所へ届く頃には状況が変わっているかもしれない。反対に、前で何かが起きても、父上がそれを知るまでには時間が掛かる。兵の数を増やせばその分だけ強くなるというほど、軍勢は単純なものではなかった。

 

「弥太郎。戦が始まったら、使番をよく見ておけ。命令がどれほどの時間で届くのかを知りたい」

 

 そう命じると、弥太郎は初陣では土を気にし、今度は使番ですかと面白がった。刀や槍を振るうだけが戦ではないと父上に教えられたのだから仕方がない。そう返すと、弥太郎は若様らしいと笑った。

 

 肥田城へ向かった時より、弥太郎との会話には少し余裕があった。怖くないわけではない。むしろ、目の前で人が死ぬことを一度知っているからこそ、これから何が起きるかを以前より具体的に想像出来てしまう。ただ、何も知らないまま初陣へ向かった時とは違い、怖いという感情をどう扱えばよいのかも少しだけ分かるようになっていた。怖いから見る。怖いから勝手に前へ出ない。怖いから戻るための方法を考える。それでよいのだと思うことにした。

 

 愛知郡へ入る頃には、夏の日差しが容赦なく軍勢へ降り注いでいた。肥田城の南、野良田と呼ばれる辺りへ近付くにつれ、先へ出していた物見から浅井勢も動いているという報せが相次いだ。浅井方はおよそ六千。こちらは朽木の千を加えて一万二千ほど。兵の数だけならほぼ倍になる。評定でも、この数を不利と見る者はいなかったし、俺自身も前世の記憶が無ければ六角が有利だと考えたはずだった。

 

 それでも、実際にここまで軍勢を運んできた後では、一万二千対六千という数字だけで安心する気にはなれなかった。一万二千の兵全てを同じ瞬間、同じ場所へ置けるわけではない。道があり、川があり、田があり、それぞれの家ごとに陣を置く必要がある。数が多いことは力だが、その力を一つの方向へ動かせなければ、帳面の数字ほどの差にはならない。そのことを、ここまでの行軍だけでも思い知らされていた。

 

 野良田へ着くと、宇曽川を挟んだ向こう側に浅井の旗が見えた。青々とした田が広がり、川面は夏の日差しを反射して光っている。戦さえ無ければ、ごく普通の近江の景色にしか見えなかっただろう。しかし今日は、その田の向こうへ六千の兵が並んでいる。肥田城でも敵はいた。矢も飛んできたし、人も死んだ。それでも相手は城壁の向こうにいた。今回は違う。川を挟んで見える人間の全てが、こちらを敵として並んでいる。

 

 実際に旗が並び、その下に人の影が幾重にも続いているのを見ると、六千という数字とはまるで違う圧力があった。あの中に新九郎もいる。観音寺城で猿夜叉丸と呼ばれ、小夜と話し、いつか小谷を案内すると笑った少年が、今は六角と戦うために軍勢の中へいる。その事実を考えると妙な感覚になったが、もう昔のことだけを見ていられる場面でもなかった。

 

 六角側の陣立ては、先陣に蒲生下野守をはじめ永原、進藤、池田らの兵が合わせて四千ほど。第二陣には楢崎、田中、木戸、和田、吉田らの兵が同じく四千ほど置かれ、父上と後藤但馬守、そして朽木勢を含む残りが後陣となる。

 

 俺も父上の近くに置かれた。肥田城では作業の様子を見るため前へ出ることもあったが、今回は後陣を離れるなと念を押されている。初めて経験する本格的な野戦で、武功を求めて前へ出るよりも、全体がどう動くかを見よということなのだろう。

 

 布陣が進む中、少し離れた場所へ六角勢とは違う旗の一団が入ってきた。旗に記された九字を見れば、誰の軍かはすぐに分かる。朽木の千ほどの兵が、大きく乱れることなく後陣へ入ってくる。その中には鉄砲を持つ者の姿が目立った。事前に聞いた数では三百ほど。高島六家との戦では三百の兵に二百丁もの鉄砲を持たせていたが、それからさらに数を増やしている。

 

 鉄砲そのものを揃えるだけなら、銭があれば出来るかもしれない。だが、それを扱う者を増やし、一つの隊として動かすことは別だ。今日ようやく、それを自分の目で確かめられる。

 

 やがて朽木勢から数人がこちらへ向かってきた。先頭にいる少年の姿を見つけ、俺も父上の側から少し前へ出る。朽木で別れて以来になる竹若丸は、以前より僅かに背が伸びたように見えた。もっとも、こちらも同じだけ成長しているのかもしれない。

 

 竹若丸はまず父上へ丁寧に挨拶し、父上も兵を出したことへの礼を述べ、無理をさせるつもりはないと応じた。そのやり取りを終えると、竹若丸はこちらへ顔を向け、久しぶりに会えたことを喜んでくれた。以前文に書いて寄越した通り、戦場ではゆっくり話すことも難しそうだと笑うので、俺も次に会う場所を間違えたようだと返した。今度こそ戦場ではない場所で会おうという話になり、互いに短く笑った。

 

 ほんの僅かな時間だったが、高島の一件を挟んだ後でも以前と大きく変わらない調子で話せたことには少し安心した。竹若丸が六角をどこまで信用しているかは分からない。それでも六角からの頼みを受け、千という軽くない兵を率いてここへ来た。その選択まで疑う必要はないだろう。

 

 そこで、竹若丸の装いに改めて目が止まった。周囲の武者が具足を身に着ける中、竹若丸だけは戦場へ来た者とは思えないほど身軽な姿をしている。鎧はどうしたのかと尋ねると、重いから着けていないという答えが返ってきた。高島でも同じ姿だったらしく、今さら鎧を着ければかえって動きにくいのだという。

 

 後ろに控える朽木の家臣たちを見ると、何人かが諦めたような顔をしていた。以前から何度も言われているのだろう。父上に前へ出されても知らぬぞと忠告したが、竹若丸はその時には未熟者を前へ出すものではないと口添えしてほしいと笑うだけだった。

 

 高島ですでに兵を率いて戦った男だ。年齢なら俺より下でも、戦場へ立つことでは先輩になる。肥田城を経験した今なら、その落ち着きが以前とは少し違って見えた。戦を知らないから笑えるのではなく、戦を知った上で普段通りに振る舞っているのかもしれない。

 

 竹若丸が自軍へ戻った後、俺はしばらく朽木勢を眺めていた。目についたのは、兵の多くが立ち続けていないことだった。武具の確認を終えた者から腰を下ろし、水を飲み、身体を休めている。鉄砲を持つ者たちも火縄や火薬を確かめているが、それが終われば無闇に動かない。一方、六角勢ではいつ戦が始まってもよいようにと、具足姿のまま立っている者も多い。この暑さの中で、どちらが後まで力を残せるかを考えれば、答えは分かりやすかった。

 

 俺は弥太郎へ命じ、こちらの兵にも水を惜しまず飲ませ、交替で休ませるようにした。敵が動いたという報せが来るまでは、立ち続ける必要もない。朽木を見て思い付いたのかと弥太郎に尋ねられたが、良いと思ったものを真似して何が悪い。父上の軍全体から見れば俺の手が届く範囲など僅かなものでも、無駄に兵を疲れさせる理由はなかった。

 

 梅酸丸も持ってきている。肥田城では人足や兵に試しながら使ったが、今回は暑さの中で長く兵を動かす時に、どれほど役に立つかを見ることが出来る。敵と向かい合っている最中にそんなことまで考えている自分へ少し呆れたが、父上から戦を見ろと言われた以上、これも戦の一部なのだろう。

 

 *

 

 日が落ちると、昼間とは違う不気味さが陣を包んだ。あちらこちらで焚かれた火が暗闇に浮かび、馬の嘶きや兵の話し声が絶えることなく聞こえてくる。肥田城の夜にも敵が動く可能性を警戒して眠りは浅かったが、今回は川の向こうにも何千もの兵が夜を過ごしている。昼間には見えていた相手が闇に隠れると、かえって浅井の存在を強く意識した。

 

 父上の陣では最後の軍議が開かれた。物見の報告によれば、浅井勢はやはり六千前後で、宇曽川を挟んだ北側に布陣している。こちらは兵も兵糧も多く、時間を掛ければ浅井の方が先に苦しくなる。そのため、数で劣る浅井は早い段階で攻めてくるのではないかという見方が強かった。

 

「先陣が受け、第二陣が支える。無理に川を渡って追うな。浅井に来させる。数で勝っておるからと、勝手に前へ出て陣を崩すな」

 

 父上が地図へ手を置いて方針を示すと、諸将は異を唱えることなく頷いた。俺もその方がよいと思う。川を渡る側はそれだけ隊列が乱れる。向こうから来るのであれば、先陣で受け止め、第二陣で支えることで数の差を活かしやすくなる。こちらから川を渡ってまで攻める必要はない。

 

 ただ、昼間から陣立てを見ているうちに、一つ気になることがあった。

 

「父上。浅井が先陣を避け、別の場所から後陣へ回ることはございませぬか」

 

 何人かの目が俺へ向いた。後藤但馬守は、正面に八千を置く六角を前にして六千しかいない浅井が兵を割くのは難しいと考えていた。それは俺も同じだった。正面の兵を大きく減らせば、六角の先陣と第二陣を受け止められなくなるだろう。だが、千ほどならば別の場所へ動かせるかもしれない。

 

「本陣を落とす必要はございませぬ。本陣が攻められていると前へ伝われば、それだけでも戦っている者は後ろを気にするかと存じまする」

 

 言葉にしながら、自分の考えが前世の記憶に引かれていることは分かっていた。野良田で六角が数に勝りながら敗れた。その結果を知っているから、正面以外で数の差を崩す方法を探している。だが、だからといって考える価値がないわけでもない。一万二千全てが一か所で戦えない以上、相手がこちらの力を使いにくい場所を作ろうとする可能性はある。

 

 六角の先陣と第二陣が浅井本隊を受け止めている間に、別の兵が後ろへ回る。正面の兵を簡単に引き戻せないのであれば、後陣だけで敵を受けることになる。浅井にとっても危険な策だが、数で劣る側が正面から同じように押し合うだけとは限らなかった。

 

 父上はしばらく地図を見た後、三雲対馬守へ明朝の物見を増やすよう命じた。正面ばかりではなく川沿いの左右にも目を配り、動く兵があれば早めに知らせよという。その上で俺には、考えることは悪くないが、相手が考えた通りに動くと思うなと釘を刺した。

 

「承知しておりまする」

 

 俺が頭を下げると、父上はそれ以上追及せず、軍議を続けた。肥田城の前なら、未来の記憶から浮かんだ考えをそのまま答えにしたくなったかもしれない。今は違う。可能性として口にし、物見を増やし、実際に動くかどうかを確かめる。それで十分だった。

 

 軍議を終えて自分の陣へ戻る途中、朽木勢の近くを通った。鉄砲隊らしい者たちが火縄や火薬を確認している。必要な作業を終えると、やはり余計なことはせず身体を休めていた。

 

 肥田城で最初の死者を見た夜のことを思い出す。あの時は翌日にまた矢が飛んでくることを考えるだけで身体が強張った。今日はそれとは違う怖さがあった。明日になれば、城壁の向こうから飛んでくる矢を待つのではない。何千もの人間がこちらへ向かって走ってくるかもしれない。

 

 弥太郎も同じようなことを考えていたらしい。肥田の時とは違いますなと呟き、それから怖くはないかと尋ねてきた。俺が素直に怖いと答えると、弥太郎も自分も怖いのだと認めた。

 

 肥田城へ向かう前と似たような会話だったが、意味は少し違った。あの時は戦というもの自体を知らずに怖がっていた。今は一人の人間が死ぬところを知った上で怖がっている。怖さが無くなったわけではない。むしろ、その形が以前よりはっきり見えるようになった。ただ、その怖さを隠す必要もないと思えるようになっていた。

 

 俺は弥太郎へ、怖いのならなおさら勝手に命を捨てるなと伝えた。弥太郎も俺へ同じことを求めてきたので、短く頷いて応じた。父上が言ったように、いずれ人の死へ慣れる時が来るのかもしれない。それでも今はまだ怖い。そのことを忘れないでいようと思った。

 

 *

 

 翌朝、太陽が高くなるより前から軍勢は動き始めた。物見から浅井勢にも動きがあると伝わり、先陣では弓を持つ者が前へ出る。俺は父上のいる後陣から宇曽川の向こうを見ていたが、距離があるため一人一人の動きなど到底分からない。旗の位置、土煙の上がり方、そして使番が持ち帰る報告を繋ぎ合わせて戦況を考えるしかなかった。

 

 最初に動いた浅井勢は、およそ二千だった。喊声を上げながら宇曽川へ入り、こちらから飛ぶ矢にも大きく足を止めず、そのまま蒲生下野守の陣へ向かってくる。遠くにいる俺のところまで幾重にも重なった声が届き、やがて両軍の間が人と旗の塊になった。

 

「始まりましたな」

 

 弥太郎の声も普段より硬かった。

 

 肥田城で矢が飛んできた時とは、まるで違った。今回は自分から離れた場所で戦っているから、むしろ何が起きているのか分からない。旗が前へ進み、止まり、少し後ろへ下がる。人の塊が押し合っていることは見えるが、どちらがどれほど傷付いているかまでは分からなかった。

 

 蒲生勢が押されているという使番が来た少し後に、別の者が持ち堪えていると告げる。同じ戦場の話なのに、見る場所と報告が届くまでの時間によって内容が変わる。最初に報告した者が見た時には浅井が優勢でも、次の者が見た頃には六角が押し返していたのかもしれない。あるいは、同じ時に別の場所で起きたことを、それぞれが報告しているだけなのかもしれなかった。

 

 戦場では、今何が起きているかさえすぐには分からない。

 

 肥田城で知ったのは、戦が槍と刀だけではないということだった。ここで知り始めたのは、指揮する者が必ずしも戦場の全てを見られるわけではないということだった。父上は一万を超える兵の中心にいるが、その父上でさえ前方で起きていることを使番の言葉に頼らなければならない。行軍中に考えていた命令の遅れが、実際の戦ではもっと大きな意味を持つのだと分かってきた。

 

 浅井の攻めは激しかった。父上も前方の動きを注視しており、後藤但馬守は浅井にとって後の無い戦だからでしょうと答えていた。俺も同じように思った。新九郎にとって、この戦はただ土地を増やすためのものではない。六角との関係を切り、父親の立場まで変え、高野瀬を引き込んだ後で負ければ、浅井家中で今まで作ったものまで崩れる可能性がある。以前と同じ形で六角へ戻ることなど出来ないだろう。ならば、向こうの兵が必死になるのも不思議ではなかった。

 

 戦が続くうちに日差しが強くなり、具足の内側へ汗が溜まり始めた。前方で槍を合わせている者たちは、俺たちより遥かに激しく身体を動かしている。浅井がどこまで同じ勢いを保てるかと考えていた頃、蒲生勢の側から使番が駆け込んできた。浅井勢の勢いが鈍ってきたという。

 

 少し遅れて、永原、進藤、池田らが浅井勢の側面へ回り始めたという報告も届いた。正面ばかりを攻めていた浅井の先鋒が左右から押され、少しずつ後ろへ下がっていく。今度は遠くから見ている俺にも分かった。浅井の旗が揃って川の方へ動いている。

 

 父上の周囲からは安堵の声が出た。俺も一度息を吐いたが、それで終わったとは思えなかった。浅井六千のうち、今前へ出ているのは二千ほどに過ぎない。川の向こうには、まだ多くの旗が残っている。

 

 父上も同じことを考えていたらしく、浅井の本隊はまだ動いていないと周囲へ注意を促していた。その言葉を待っていたかのように、川向こうの浅井勢が大きく動き始めた。後退していた先鋒を見捨てるつもりはないらしい。今度は最初の二千とは比べ物にならない数が宇曽川へ入り、踏み止まろうとしていた先鋒と合流する。そのまま蒲生勢へ向かう動きに対し、六角側も第二陣を前へ出し始めた。

 

 幾つもの旗が同時に動いた。先陣四千と第二陣四千、その大半が浅井本隊の攻撃を受けるため前へ寄っていく。六角全体では浅井の倍近い兵を持っている。それでも目の前の一か所へ八千が引き寄せられれば、後ろに残る兵は急に少なくなる。

 

 数の差が消えたわけではない。しかし、使える場所が限られれば数字の意味も変わる。前へ出した兵を必要な時に戻せるとは限らず、別の場所で敵が動いたとしても、すぐに対応出来るとは限らないのだ。

 

 父上が左右の物見について三雲対馬守へ尋ねたところへ、川沿いへ出していた物見の一人が馬を飛ばして戻ってきた。まだ父上の前へ着くより先から、ただ事ではないことはその走り方で分かった。男は馬を降りると、息を整える暇もなく頭を下げた。

 

「申し上げます! 浅井勢の一部、川沿いをこちらへ回っておりまする! 数はおよそ千!」

 

 昨夜の軍議で考えた形が、現実になった。

 

 父上が向かう先を確かめると、物見はこのまま進めば本陣へ迫ると答えた。父上はすぐに対馬守へ追加の物見を出すよう命じ、後藤但馬守には後陣の兵を整えさせた。ただし正面から兵を引き抜くことは許さなかった。

 

 昨夜のうちに可能性を考え、物見を増やしていた分だけ、少なくとも敵が突然目の前へ現れることは避けられた。周囲の兵にも緊張は走ったが、何をすればよいか分からず右往左往するほどではない。

 

 それでも正面では、すでに八千近い兵が浅井本隊と戦っている。そこから援軍を戻せば、今度は前が危うくなる。後陣に残った兵だけで、こちらへ向かってくる千を受けなければならなかった。

 

 俺も弥太郎へ命じ、手元の兵をまとめさせた。父上から命が来るまでは持ち場を離れず、勝手に前へ出ないよう徹底させる。自分の兵が敵の数より少ないからといって、ここで焦って動かせば、後陣全体の守りにまで影響しかねない。

 

 報告された方向へ目を凝らすと、まだ距離はあるものの、田の向こうに上がる土煙と、その下で動く旗が見えた。千という数だけなら、後陣に残る兵で受け止められない相手ではない。だが敵の目的は、本陣を完全に潰すことだけではないのかもしれなかった。

 

 本陣が攻められたという報せが前へ届けば、父上を気にして戦っている兵の目が後ろへ向く。正面へ八千の兵を引き付けた上で、その後方を揺さぶる。それだけで全軍の動きが鈍る可能性がある。たとえ千の兵が本陣を落とせなくとも、六角の前後を同時に動かせば、数の差を十分に活かせなくなるかもしれない。

 

 これが、数の差を消す方法なのだろうか。

 

 そう考えた時、後陣の一角で六角勢とは違う動きが始まった。

 

 朽木勢だった。

 

 先ほどまで身体を休めていた千の兵が、周囲より一足早く立ち上がり、まとまったまま向きを変えていく。鉄砲を持った者たちが前へ出て列を作り、その後ろでは弓と槍の兵がそれぞれの位置へ移っていた。

 

 浅井勢がこちらへ回ったという報せは、当然朽木にも届いているだろう。それでも、動きには慌ただしさが見えない。誰がどこへ行くのかをその場で決めているのではなく、こういう時にどう動くかをあらかじめ知っているように見えた。

 

 俺は竹若丸の姿を探した。兵から少し離れた見晴らしのよい場所に、昼間と同じ身軽な姿で立っている。その周囲から使番が次々と走り、鉄砲隊へ命令を伝えていく。

 

 高島六家との戦で、竹若丸は三百ほどの兵に大量の鉄砲を持たせ、四倍近い相手を崩した。俺はその結果を報告でしか知らなかった。鉄砲を集中させたという話を聞き、それがどのように戦場で使われたのかを頭の中で想像しただけだった。

 

 今度は違う。

 

 浅井の千が近付いてくる。その進路に対して、朽木の鉄砲隊が正面ではなく、僅かに斜めから当たる位置へ動いていった。三百丁全てを一列へ並べるのではなく、幾つかの隊へ分けているように見える。前の者が撃った後にどう動き、後ろの者がどの時点で前へ出るのかまでは、距離があって分からない。それでも、六角の後陣が敵を迎え撃つためにようやく槍を揃え始めた時には、朽木勢はすでに射撃する場所まで決めていた。

 

 俺が思わずその動きの速さを口にすると、弥太郎も朽木勢へ目を向けた。命令を受けてから戦う形になるまでが、こちらより明らかに早い。兵の質が違うと一言で済ませるのは簡単だが、それでは何が違うのか分からない。兵が休んでいたこと。命令を受けると迷わず自分の位置へ動いたこと。鉄砲、弓、槍がそれぞれ別々に動いているのに、一つの軍勢として向いている方向は同じであること。その一つ一つが、今の動きへ繋がっているように見えた。

 

 高島で竹若丸が勝った理由は、鉄砲を二百丁持っていたからだけではないのかもしれない。

 

 向かってくる浅井勢との距離が縮まっていく。朽木の弓隊から矢が飛び始めた。それでも浅井勢は足を止めず、本陣を目指して進んでくる。

 

 鉄砲隊はまだ撃たない。

 

 俺の方が焦れそうになるほど待っている。弓の射程へ入ってからも、浅井勢は前進を続けていた。こちらから見ても敵の旗が大きくなり、先頭の兵が持つ槍の向きまで分かるようになってくる。それでも朽木の鉄砲隊は持ち場を崩さず、竹若丸からの命令を待っていた。

 

 やがて、竹若丸の側から一騎の使番が走った。

 

 鉄砲隊の前列で動きが揃い、その直後、野良田の空気を引き裂くような轟音が響いた。

 

 肥田城でも鉄砲の音を遠くに聞いたことはあった。だが、多数の鉄砲が一つの命令で放たれる音はまるで別物だった。白い煙が広がり、その向こうで浅井勢の前列が崩れる。前へ走っていた者が倒れ、後ろの兵が足を止める。すぐには何が起きたのか分からないような混乱が、浅井勢の先頭から広がっていくのが見えた。

 

 それでも、朽木の兵は騒がなかった。

 

 前の列が下がるのと入れ替わるように、別の列が動いている。最初の轟音の余韻が耳に残っているうちに、次の射撃へ備える姿が見えた。撃った者たちは後ろへ下がり、まだ撃っていない者たちが前へ出る。その動きに大きな乱れはなく、浅井勢がどう動くかを見ながら次の射撃へ繋げようとしている。

 

 そこで俺は、高島で聞いた鉄砲二百という数字の意味を、ようやく少し理解した。

 

 竹若丸が強かったのは、鉄砲を多く持っていたからだけではない。休ませる時には休ませ、敵が来れば迷わず配置へ就かせ、最も効く距離まで待たせる。撃った後には次の者が続き、その間に先の者が再び備える。その一連の動きを、兵たちが迷わず行えるようにしている。

 

 鉄砲を揃えることと、鉄砲隊を作ることは違う。

 

 高島で二百丁を使い、今は三百丁ほどを揃えている。その数を増やすだけでなく、兵が一つの隊として動けるようにしてきたのだとすれば、竹若丸が費やしたものは銭だけではない。兵を集め、教え、何度も同じ動きを繰り返させるための時間と人手が要る。鉄砲の装填や発射を覚えるだけでは足りず、隣の者が動く時に自分は何をするのか、命令を受けてどこへ移るのかまで身に付けなければ、今のような動きにはならないだろう。

 

 そこまで含めて初めて、三百丁の鉄砲は数だけでは測れない力になるのかもしれなかった。

 

 俺が朽木勢へ目を奪われている間にも、正面では六角の八千と浅井本隊が押し合いを続けていた。こちらへ回ってきた千も、最初の一斉射を受けただけで完全に止まったわけではない。浅井の兵が再び前へ出ようとしているのが見え、その動きを迎え撃つために朽木の鉄砲隊が次の配置を整えていく。

 

 戦場の形は、ほんの少し前までとは明らかに変わっていた。

 

 正面では六角の先陣と第二陣が浅井本隊を受け止め、後陣ではこちらへ回ってきた千を朽木勢が迎え撃っている。それぞれの場所で兵が動き、命令が飛び交い、その結果が次の動きへ繋がっていく。六角全体で一万二千という数を持っていても、今この瞬間にその全てを同じ場所へ使うことは出来ない。逆に浅井も、六千という数を一つの塊として動かしているわけではなかった。

 

 昨夜まで俺が探していたのは、数で優る六角が何故負けるのかという理由だった。だが実際に戦が始まってみれば、見るべきものはそれだけではない。六角の一万二千がどう動くか。浅井の六千がどのように数の差を埋めようとするのか。そして同じ六角方に立ちながら、朽木の千が何故これほど違う動きをするのか。その全てが、今目の前で同時に起きている。

 

 高島の戦で竹若丸が勝ったという結果を知った時、俺はその勝ち方を十分に理解出来ていなかった。鉄砲の数も、兵のまとまりも、勝った後の判断も、後から聞いて初めて知ったことばかりだった。だが今は違う。少なくとも自分の目が届く範囲では、竹若丸の采配を確かめられる。

 

 もっとも、見えているものが全てではない。竹若丸が何を考えて今の位置へ鉄砲隊を置いたのか、どのような命令を出し、兵たちがそれをどう受け取ったのかまでは分からない。俺が見ているのは、離れた場所から分かる動きだけだ。

 

 それでも、朽木勢が動き始めてから最初の鉄砲が放たれるまでの速さと、その後も統制を失わず次の射撃へ備えている姿は、はっきりと覚えておかなければならないと思った。数を揃えることと、その数を実際の力として使うこと。その間にあるものを知らなければ、一万二千という兵力の意味も十分には理解出来ないのだろう。

 

 肥田城で戦を数字だけでは考えられなくなった俺は、今度は大軍の数だけでも戦を測れないことを、宇曽川を挟んだこの場所で知り始めていた。

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