最初の轟音で浅井勢の前列が崩れた。それでも、こちらへ向かっていた千ほどの兵全てが止まったわけではない。前を走っていた者が倒れ、その後ろにいた者が躓き、僅かに列が乱れたものの、さらに後ろの兵は声を上げながら前へ進もうとしている。俺は三百近い鉄砲が一斉に火を噴けば、それだけで人は逃げるのではないかとどこかで思っていたらしい。だが実際には違った。目の前で仲間が倒れても進む者がいる。槍を握ったまま走る者もいれば、倒れた者を避けて列へ戻ろうとする者もいる。肥田城で一本の矢に人が倒れるところを見た時にも思ったが、人間は想像していたほど簡単には動かなくなるものではないらしい。
「まだ来ますぞ」
弥太郎の声に頷く。白い煙の向こうで、朽木の鉄砲隊が動いていた。撃ち終えた者たちがその場で火薬を詰め直すのではなく、後ろへ下がっていく。その隙間から別の一団が前へ出た。先ほどまで後方で待っていた者たちらしい。最初の射撃からそれほど時間が経っていないのに、すでに火縄を構え、撃てる状態になっている。
「次が出るぞ」
「もう、でございますか」
「ああ」
再び轟音が響いた。最初の射撃で乱れていたところへ二度目が重なり、浅井勢の前方がさらに大きく崩れる。それでも朽木の鉄砲隊は止まらない。二番目の列が下がり、今度は三番目が前へ出る。ここまで見れば、俺にも何をしているのか分かった。三百丁を三つへ分け、百丁ほどずつ順に撃っている。最初の百丁が撃っている間に二つが待ち、次が撃っている間に最初の者が後ろで次の準備をする。鉄砲は撃った後に時間が掛かるという弱点を、人を分けて動かすことで埋めているのだ。
三度目の轟音が野良田に響いた時、浅井勢の動きが明らかに変わった。前へ出ようとしていた兵が止まり、後ろから押され、それでも進めずに列そのものが横へ膨らんでいく。誰かが何かを叫んでいるが、鉄砲の音と兵の声が重なって俺のところまでは届かない。だが朽木勢には、その瞬間を待っていた者がいた。鉄砲隊の後ろにいた槍兵が一斉に声を上げて走り始め、その脇から騎馬の一団が追い抜くように飛び出した。
「撃ち倒すためだけではないのか」
「何がでございます?」
「鉄砲じゃ。あれだけで敵を全て倒すつもりではない。崩すために撃っておる」
鉄砲で足を止め、列を乱し、命令が届かなくなったところへ槍を入れる。そして逃げ始めた者を騎馬で追う。三百丁という数だけを見ていた時には分からなかった。高島六家との戦で竹若丸が三百ほどの兵で四倍近い相手を崩したのも、単に鉄砲を大量に並べたからではなかったのだろう。敵が来ればどこへ立ち、どの距離まで待ち、誰が最初に撃ち、その後に誰が動くのか。それを兵が知っているから、命令一つで一連の動きが繋がる。
朽木の槍勢がぶつかると、浅井の千は堪え切れなかった。前に鉄砲、横から槍、さらに騎馬が入り、先ほどまで本陣を目指して一直線に進んでいた軍勢が幾つもの塊へ割れていく。その一部が朽木勢から逃れるようにこちらへ流れてきた。数十ほどだろう。それでも、こちらへ槍を持った人間が走ってくる光景を目の前にすると、遠くで何千人が戦っているのを見るのとはまるで違う。
「構えよ!」
誰かが叫び、俺の周囲でも槍が一斉に前へ向いた。弥太郎が自然と俺より半歩前へ出る。
「弥太郎、前へ出過ぎるな」
「若様こそ下がってくだされ」
「下がる。だが兵まで下げるな。ここで崩れれば、余計に来る」
声が震えていないか自分では分からなかった。肥田城では矢が飛んでくるのを見た。だが今回は人の顔が見える。走ってくる男の一人が口を大きく開けて何かを叫び、汗と泥にまみれたまま槍を振り上げている。その相手を俺の兵が槍で受け、別の者が横から突いた。肉へ刃が入る鈍い感触までは聞こえなかったが、男の身体が急に力を失って倒れるところははっきり見えた。
何人かがそのままこちらへ突っ込んできたが、まとまった軍勢ではない。朽木に追われて逃げてきただけの兵と、こちらで列を作って待っていた兵では勢いが違った。ほどなくして生き残った者は横へ逃げ始める。味方の中には追おうとする者もいた。
「追うな!」
思ったより大きな声が出た。
「持ち場を離れるな! 父上から命は出ておらぬ!」
何人かが足を止めてこちらを見る。敵が背中を向けているのだから追えば首を取れる。そう考えたのかもしれない。だが、今ここで俺の周囲まで追撃に加われば、本陣を守る兵がまた減る。別の浅井勢が来ないと決まったわけではない。
「首より陣じゃ。戻れ!」
「はっ!」
兵たちが列へ戻るのを見て、ようやく息を吐いた。肥田城で初めて出した戦場での命令は、土を運ぶ道を分けろというものだった。今回は敵を追うなという命令になった。武功らしい武功ではない。それでも、兵を勝手に動かさないことも自分の役目なのだと少しずつ分かってきた。
浅井の別働隊が崩れたことは、俺たちの目だけでなく正面で戦う兵にもすぐに伝わったらしい。最初は後陣から「朽木が破ったぞ」という声が上がり、それが使番と兵の声に乗って前へ広がっていく。遠くで戦っている六角の先陣や第二陣の旗が再び前へ動き始めた。逆に浅井側には、背後へ回した兵が破れたという話が伝わったのか、先ほどまで強く押していた勢いが目に見えて鈍くなる。
「押せ! 押し返せ!」
前方から重なるような喊声が響いた。
同じ八千と六千が戦っているはずなのに、少し前とはまるで違う。浅井の本隊は減っていない。正面で急に何千人も討たれたわけでもない。それでも別働隊が崩れたという一つの出来事で、六角側は勝てると考え、浅井側は後ろが危ないと考える。その違いが兵の足を前へ向かせるか後ろへ向かせるかを変えているように見えた。数だけでは戦を測れないと思い始めていたが、士気という目に見えないものまで加われば、なおさら単純な計算では済まない。
「浅井勢、退き始めておりまする!」
使番の報告に父上はすぐ答えた。
「先陣、第二陣に押させよ。ただし全軍で追うな。追撃は手を選べ。陣を乱すでない!」
「はっ!」
使番が馬を返す。勝っているのだから全部で追えばよい、と一瞬なら考えられる。だが父上はそうしなかった。肥田城から退く時に言われた「退かねばならぬ時に退けぬ者は、勝てる戦まで失う」という言葉を思い出した。あれは負けそうな時だけの話ではないらしい。勝っている時も、止まるところで止まれなければ今度はこちらが崩れる。戦場では前へ出ることより、いつ止めるかの方が難しいのかもしれない。
正面の浅井勢が崩れ始めると、戦は急速に一方的なものへ変わった。宇曽川へ向かって下がる者、それを越えて北へ逃げようとする者、まだ踏み止まって六角勢を押し返そうとする者が入り混じり、浅井の旗もそれぞれ別の方向へ動くようになった。俺はその中から新九郎のいる場所を探した。浅井の本陣らしい旗を追い、川向こうへ目を凝らしたが、それらしい動きが見つからない。
「弥太郎。新九郎の旗は分かるか」
「浅井の三つ盛亀甲は幾つもございますれば……。某にも」
「そうか」
正面にいるのだと思っていた。浅井全軍を率いているのだから、最後まで本隊にいるものだと勝手に考えていたのかもしれない。それでも先ほどから本陣らしい場所を探しても見つからず、浅井の有力な旗の幾つかもいつの間にか見えなくなっている。
胸の奥に、理由の分からない嫌な感覚が残った。
*
戦が終わった、と言われてもすぐには実感出来なかった。浅井勢の多くが逃げ、追撃に出た六角兵も徐々に戻り始めた頃になって、ようやく父上の周囲から緊張が抜け始める。それでも戦場そのものは終わっていなかった。呻き声が聞こえ、負傷者を運ぶ者が走り、誰かを探して名前を叫んでいる兵もいる。遠くから見ていた時には人と旗の塊だった場所へ近付くと、田も川辺も踏み荒らされ、折れた槍や矢、草履、具足の一部が至るところに落ちていた。
そして、人も。
肥田城では最初に死んだ男の姿がいつまでも頭から離れなかった。だがここでは、一人を見続ける暇さえない。こちらにも一人、少し先にも一人。その向こうでは二人が折り重なるように倒れている。具足を見れば六角方だと分かる者もいれば、浅井方の者もいる。まだ動いている者もいた。傷を押さえながら呻いている者、起き上がろうとして力が入らない者、その隣でもう何も言わなくなった者。最初は無意識に数えようとしていた。十、十一、十二と頭の中で数字が増えていき、途中で自分が何をしているのかに気付いて止めた。
ここにいる者にも、一人ずつ名前がある。
肥田城で弥太郎に調べさせ、帳面へ残した男と同じように、浅井の兵にも六角の兵にも家があり、待っている者がいるのだろう。それでも戦場の上では「浅井の死者」「六角の死者」という数になる。自分がこれから上に立つのであれば、その数を知らなければならない。何人死に、何人傷付き、どれだけ兵力が残ったかを把握しなければ次の判断は出来ない。だが、数字にする必要があることと、数字だけだと思ってよいことは同じではない。初陣で父上から言われたことを、今度はもっと大きな形で見せられている気がした。
「若様、こちらにも傷を負った者が」
弥太郎の声で我に返る。少し離れたところで、何人かの兵が浅井方らしい負傷者を囲んでいた。
「生きておるのか」
「はい。ですが歩けませぬ」
「運べ」
「浅井方にございますが」
「もう槍を持ってこちらへ来られる状態ではない。息がある者は味方と一緒に運べ。動ける者と動けぬ者を分けろ。手当て出来る者へ順に回せ」
弥太郎が少しだけこちらを見た後、頷いた。
「承知いたしました」
「水も回せ。ただし苦しんでおる者へ無理に飲ませるな。飲めるか確かめてからにしろ」
「はっ」
前世の医学知識など俺にはない。助け方も分からない。それでも、敵だったからという理由だけでその場に放置する必要もないだろう。生き残った者が後でまた敵になる可能性はある。捕虜として扱うことにもなる。それでも今、傷付き武器も持てない者をわざわざ殺す理由にはならない。
弥太郎が人を動かし始めたところで、父上から使いが来た。
「右衛門督様。御屋形様より、陣を肥田城近くの寺へ移すとの仰せにございます。諸将もそちらへ集まるように、と」
「分かった。すぐに行く」
その時になってようやく、肥田城の高野瀬備前守がまだ残っていることを思い出した。浅井の援護を当てにして六角へ背いた男だ。浅井がこれほど大きく敗れれば、肥田城だけで抵抗を続けることは難しいだろう。
ただ、それよりも俺の頭に残っているのは新九郎の行方だった。
*
寺へ移した陣には、先に戻った諸将が次々と集まり始めていた。勝った戦の後なのだからもっと明るいものを想像していたが、実際には皆疲れ切っている。汗と泥で汚れた具足のまま座る者も多く、勝利を喜ぶ声より、どこの家で誰が討たれた、誰が傷を負ったという報告の方がよく耳に入った。父上も勝ったからと浮かれてはいない。戦場から上がってくる報告を聞きながら、追撃に出した兵の戻り具合や、負傷者の数、浅井勢がどちらへ逃げたのかを次々に確認していた。
俺も父上の近くへ座ったが、新九郎のことはまだ分からなかった。浅井が敗れた以上、小谷へ逃げた可能性もある。そう思おうとしたが、先ほど感じた嫌なものは消えない。
「朽木竹若丸様、御出でにございます」
陣幕の外から声が掛かった。
父上が顔を上げる。
「通せ」
入ってきた竹若丸の姿は、戦の前に見た時とほとんど変わらなかった。相変わらず鎧を着けず、身軽な姿のままだ。ただ、衣には土埃が付き、額にも汗が残っている。その後ろには数人の兵が従い、それぞれ何かを包んだものを持っていた。
それを見た瞬間、胸の奥が強く縮んだ。
「左京大夫様。御味方勝利、心より御慶び申し上げまする」
「うむ」
「遅くなり申し訳ございませぬ。我ら朽木は浅井家と付き合いが薄く、討ち取った者の首を確かめるのに手間取りました」
「構わぬ。して、誰を討った」
竹若丸が一度頭を下げた。
「浅井新九郎賢政殿。遠藤喜右衛門直経殿。赤尾美作守清綱殿。片桐孫右衛門直貞殿。新庄新三郎直頼殿。以上にございます。御検分願いたく」
最初の名前を聞いたところで、その後の言葉が遠くなった。
新九郎。
聞き間違えたとは思わなかった。それでも、意味がすぐには頭へ入ってこなかった。俺は陣幕の中にいる竹若丸を見たまま、別の姿を思い出していた。観音寺城で猿夜叉丸と呼ばれていた頃、知らない土地へ帰るのが怖いと話した少年。小谷へ戻れば、俺が遊びに来た時に案内すると言って笑った少年。元服して新九郎賢政となり、少し緊張しながらも自分の家へ帰っていった男。小夜が嫁ぐと聞いた時には、見ず知らずの相手ではないからまだ安心出来ると思っていた。その後に何が起きたかを知ってからも、いつか直接理由を聞く機会があるのではないかと、どこかで考えていたのかもしれない。
もう、その機会は来ない。
竹若丸の後ろにいる兵が包みを解き、父上の首実検が始まった。俺は見ない方がよいのではないかと思ったが、目を逸らすことも出来なかった。汗や土に汚れ、生きていた時とはまるで違う顔。それでも、見覚えのある輪郭だった。小谷を案内すると言った相手の最後が、こんな形で目の前へ戻ってくるとは思わなかった。
小夜の顔が浮かんだ。
出陣前、「新九郎様と、戦われるのでございますね」と尋ねた時の顔だ。
俺は「ああ」と答えた。それ以上は言わなかった。戦ならば相手が死ぬ可能性があることくらい、小夜も分かっていたはずだ。それでも理解していることと、実際にそうなったことは違う。
父上は一つずつ首を確かめ、分からないものは浅井を知る者に確認させた。全てが間違いないと分かると、竹若丸へ向き直る。
「竹若丸殿。此度の馳走、心より感謝致す。浅井に勝てたのは、朽木勢の働きが大きい」
竹若丸は深く頭を下げた。
「過分な御言葉にございます」
「過分ではない。あの一千を止められなんだなら、本陣へ入られておった。正面の兵まで乱れたやもしれぬ。どのように報いればよいものか、こちらが困るほどじゃ」
父上の評価が正しいことは分かった。俺も実際に見ている。竹若丸がいなければ、浅井の一千を六角の後陣だけで受けることになった。受け切れた可能性はある。それでも混乱はもっと大きかっただろうし、父上や俺のいる場所まで敵が来たかもしれない。新九郎が死なず、代わりに弥太郎や父上、あるいは俺が倒れていた可能性だってある。
だから竹若丸を責めることは出来ない。
新九郎を殺したのは竹若丸だ。だが竹若丸は俺たちを助けるために戦った。六角から頼まれて兵を出し、浅井の別働隊が本陣へ向かってきたから撃った。その中に新九郎がいた。ただそれだけのことだ。戦場では相手が誰であろうと、止めなければ自分たちが殺される。頭では簡単に理解出来る理屈なのに、知っている人間二人をそこへ当てはめると途端に重くなった。
「その儀は御無用に願いまする」
竹若丸の言葉で、陣幕の中へ意識が戻った。
「要らぬと申すか」
父上だけでなく周囲からも驚いたような空気が広がる。これほどの武功だ。何も求めないという方がおかしい。
「はっ。伯父の鯰江備前守殿より、左京大夫様が朽木に聊か御不快をお持ちであると聞いておりまする。此度の働きで、その御不快が少しでも晴れましたなら、朽木といたしましては十分にございます」
父上が僅かに目を細めた。
俺にも何をしているか分かった。
高島の件だ。
六角が高島六家へ働き掛け、それを竹若丸が逆に利用して勢力を広げた。その後、六角が朽木へ何も思っていないはずはない。だが今この場で、これだけの武功を挙げた相手から「六角は朽木を不快に思っているのか」と遠回しに問われれば、父上は不快だとは言えない。
「何やら誤解があるようじゃ」
父上が苦笑した。
「儂は朽木へ不快など持っておらぬ。同じ佐々木源氏の家でありながら、このところ少し疎遠であることを残念に思ったことはある。備前守はそれを気にし過ぎたのであろう。竹若丸殿には余計な気を遣わせた」
「左様でございましたか。安堵いたしました」
「礼はいずれ改めてさせてもらう」
「畏れ入りまする」
竹若丸が頭を下げる。そのやり取りを見ながら、俺はまた一つ別の意味で胸が重くなった。戦場で浅井の別働隊を破り、有力者を幾人も討ち取った直後に、もう次の政治を始めている。武功そのものを恩賞へ換える前に、六角との間に残っていた棘を抜いた。高島の時もそうだった。竹若丸は勝つだけではなく、勝った後にその勝ちをどう使うかまで考えている。
俺が新九郎の首から目を離せずにいる間にも、竹若丸は次を見ていた。
その差を思い知らされるようで悔しくもあったが、今はその悔しさより新九郎の死の方が重かった。
竹若丸が退出した後、高野瀬備前守についての報告も入った。浅井軍が潰走し、新九郎まで討たれたことを知った肥田城では抗戦を続ける意見がまとまらず、高野瀬は降伏を申し出たという。父上はしばらく考えた末、命までは取らず領地を没収し、近江から追放することを決めた。
「備前守を討てば済むという話から始まったというに、随分と大きくなったものじゃ」
父上が呟いた。
誰もすぐには答えなかった。俺にとっての初陣だった肥田城攻めでは、高野瀬を屈服させられずに退いた。その高野瀬が今、自ら城を明け渡すという。肥田城一つだけを見れば、ようやく最初の目的を果たしたことになる。だがその間に小夜は戻り、浅井は六角と戦い、新九郎を含む多くの人間が死んだ。城一つの処分では片付けられないものが、あまりにも増えていた。
*
諸将が下がり、高野瀬への処分を伝える使者まで出た後、父上から残るように言われた。陣幕の中には父上と俺、それに後藤但馬守、蒲生下野守、進藤山城守だけが残っている。先ほどまで首が並べられていた場所は片付けられていたが、どうしてもそこへ視線が向いてしまう。
「右衛門督」
「はい」
「どう見た」
肥田城でも聞かれた言葉だった。あの時は初陣をどう見たかと問われた。今回は何を見たかと聞いているのだろう。
「数では、六角が大きく勝っておりました」
「うむ」
「ですが、浅井の一千がこちらへ回った時、本陣は確かに揺れました。正面へ八千を出していたため、後ろには数字ほどの余裕がございませんでした」
父上は黙って聞いている。
「朽木が止めましたが……あれは鉄砲三百丁だけの力ではないと思いまする」
「そうだな」
「敵が来てから、どこへ誰を動かすか考えたようには見えませんでした。兵が最初から自分の動きを知っておりまする。鉄砲は三つに分かれ、順に撃つ。崩れれば槍が出て、その後を騎馬が追う。竹若丸殿が一つ一つ指図せずとも、命が来れば次が動いておりました」
後藤但馬守が頷いた。
「確かに、早うございましたな」
「こちらは?」
父上が俺を見る。
「家ごとに動いておりまする。皆が弱いとは思いませぬ。蒲生殿の先陣も浅井の最初の攻めを受け止めました。ですが、大きな動きを変えるには使番を走らせ、各家へ命を出し、それからそれぞれが動きます。その分だけ時間が掛かります」
「それが問題と思うか」
「今は、そう思いまする。ただ……」
「ただ?」
「今日一度見ただけで、全ての答えを出すつもりはございませぬ」
父上の口元が僅かに動いた。
「少しは学んだようじゃな」
「何度も怒られましたゆえ」
「怒ってはおらぬ」
「父上がそう仰る時は、大抵怒っておられます」
蒲生下野守が小さく咳払いし、後藤但馬守は露骨に顔を逸らした。笑いを堪えているらしい。父上がこちらを睨んだが、本気で怒っている様子ではなかった。
「まあよい。見たものは忘れるな。朽木だけを見るな。蒲生が受けたことも、浅井が何故あそこまで押せたかも見よ」
「はい」
「それと」
父上の声が少し変わった。
「新九郎のことが辛いか」
一瞬、何と答えるか迷った。ここには六角の重臣たちもいる。浅井の当主が死んだことを惜しむのは、立場からすればおかしいと思われるかもしれない。それでも嘘を吐く理由も無かった。
「……はい。幼い頃から知っておりますれば」
「そうか」
「竹若丸殿を恨んではおりませぬ」
「まだ何も言っておらぬぞ」
「父上が仰りそうでしたので」
「生意気になったものじゃ」
父上はそう言った後、少しだけ息を吐いた。
「儂も新九郎を知らぬ相手とは思っておらぬ。幼い頃から観音寺におった男じゃ。あれが六角へ背いたことに腹は立った。されど、死ねば何も思わぬというものでもない」
少し意外だった。父上なら浅井当主としてしか新九郎を見ないのかと思っていた。
「だが戦場へ出れば、こういうことは起きる。今日竹若丸が新九郎を討たねば、新九郎がこちらへ入り、儂やそなたを討ったやもしれぬ。竹若丸を恨むなとは言わぬ。そなたなら分かっておろう」
「はい。むしろ、助けられました」
「そうじゃ」
父上はそこで一度言葉を止め、俺をまっすぐ見た。
「悲しむことと、判断を誤ることを一緒にするな。悲しいなら悲しめ。だが、それを理由に竹若丸を遠ざけるようなことはするな」
「承知いたしました」
答えながら、これも上に立つということなのだろうと思った。人を好きか嫌いか、悲しいか腹立たしいかという感情そのものを無くす必要はない。しかし、その感情だけで次の判断をしてはいけない。言葉にすれば簡単だが、目の前に新九郎の首を見た直後では決して簡単なことではなかった。
*
夜になり、ようやく自分の場所へ戻ると、弥太郎も後から入ってきた。昼間よりさらに疲れた顔をしている。平井家の兵や俺の周囲の者の損害を確かめていたらしい。俺が水を渡すと、礼を言って一息に半分ほど飲み、それから向かいへ座った。
「加賀守殿は」
「御無事にございます。少し具足に傷が付いた程度で」
「そうか」
「若様の側も、先ほど確かめ終えました。死者はおりますが、皆が崩れるほどではございませぬ」
「ああ」
それから会話が止まった。
話すことはいくらでもあるはずだった。今日の戦のこと。朽木の鉄砲。父上の命令。怪我をした者。明日以降のこと。それでも、二人とも口にしない名前が一つある。
やがて弥太郎が小さく息を吐いた。
「新九郎様……討たれましたな」
「ああ」
「小夜には、某から話しましょうか」
俺はすぐには答えなかった。
小夜は新九郎と離縁している。婚姻の日から拒まれ、四月の間、まともな夫婦として過ごすことも出来なかった。その後は人の目を怖がり、平井の屋敷に籠もることさえあった。新九郎をまだ想っているのかと尋ねた時にも、「分からない」と答えていた。だからといって、もう何の関係もない男が死んだという話にはならないだろう。少なくとも小夜にとっては、知っている少年であり、一度は夫と呼び、自分なりに上手くやっていこうとした相手だ。そして俺たちが出陣する朝、小夜は「新九郎様と戦われるのでございますね」とわざわざ確かめた。
「いや」
「若様?」
「俺も一緒に行く」
「しかし、小夜へ伝えるのは某の役目では」
「兄としてはそうかもしれぬ。だが俺も、新九郎を知っておる。それに小夜へ、戦に行くと答えたのは俺じゃ」
弥太郎はしばらく黙った後、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「何と伝えるかは、帰ってから考えよう」
「はい」
その後は二人とも、しばらく何も話さなかった。外では勝った兵たちの声が聞こえる。酒を回しているところもあるのか、時折大きな笑い声まで上がった。勝ったのだから喜ぶことが悪いとは思わない。父上も弥太郎も加賀守も俺も生きており、浅井の別働隊は朽木に破られ、本陣を崩されることもなかった。高野瀬も降り、六角にとっては文句の付けようのない勝ち戦と言ってよいのだろう。それでも俺の頭に浮かんでいるのは、戦場へ出る前にこちらを見送っていた小夜の顔と、首となって戻ってきた新九郎の顔だった。勝ったという言葉の中には、自分たちが生き残ったという意味と、相手が死んだという意味が同時に入っている。肥田城で初めて戦を知ったつもりになり、野良田で大軍の動きを見ればもう少し分かると思っていたが、実際には分からないことがまた増えただけだった。
観音寺城へ戻れば、勝利を待っている者たちがいる。その中には小夜もいる。俺たちが無事に戻ったことを喜ぶだろうし、その同じ口から新九郎は戻らないと伝えなければならない。弥太郎一人へその役目を押し付ける気にはなれなかった。戦場へ出て、生きて帰るということは、ただ城門をもう一度潜れば終わるわけではないらしい。そこで見たものと、起きたことを、待っていた人間のところまで持ち帰らなければならない。今夜になってようやく、父上が肥田城で言った「生きて戻ることも戦じゃ」という言葉には、俺が思っていたよりずっと多くのものが含まれていたのだと分かった。
もう、新九郎に小谷は案内してもらえない