淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第三十七話「勝ったということ」

 最初の轟音で浅井勢の前列が崩れた。それでも、こちらへ向かっていた千ほどの兵が全て足を止めたわけではない。前を走っていた者が倒れ、その後ろにいた者が躓き、僅かに列が乱れたものの、さらに後方の兵は声を上げながら前へ進もうとしている。俺は三百丁近い鉄砲を集中して使えば、それだけで敵は逃げ出すのではないかと、どこかで考えていたらしい。だが実際には違った。目の前で仲間が倒れても進む者がいる。槍を握ったまま走る者もいれば、倒れた者を避けて列へ戻ろうとする者もいる。肥田城で一本の矢に人が倒れるところを見た時にも思ったが、戦場の人間は俺が想像していたほど単純な動き方をするものではなかった。

 

 弥太郎も浅井勢がなお前進していることに気付き、俺へ注意を促した。だが、その時には白い煙の向こうで朽木の鉄砲隊が次の動きを始めていた。撃ち終えた者たちがその場で火薬を詰め直すのではなく、後ろへ下がっていく。その隙間から、先ほどまで後方で待っていた別の一団が前へ出た。最初の射撃からそれほど時間が経っていないのに、すでに火縄を構え、撃てる状態になっている。

 

 再び轟音が響いた。最初の射撃で乱れていたところへ二度目が重なり、浅井勢の前方がさらに大きく崩れる。それでも朽木の鉄砲隊は止まらない。二番目の列が下がり、今度は三番目が前へ出た。ここまで見れば、俺にも何をしているのか分かった。三百丁ほどの鉄砲を三つの隊へ分け、百丁ほどずつ順に撃っているのだ。最初の隊が撃つ間に残る二隊は待機し、次の隊が撃つ間に先の者たちは後方で装填する。鉄砲は撃った後の準備に時間が掛かる。その弱点を、隊を分けて順に動かすことで補っているらしい。

 

 三度目の轟音が野良田に響いた時、浅井勢の動きが明らかに変わった。前へ出ようとしていた兵が止まり、後ろから押され、それでも進めずに列そのものが横へ膨らんでいく。指揮する者が何かを叫んでいるようだったが、鉄砲の音と兵の声が重なり、俺のいる場所までは届かない。前進するのか、踏み止まるのか、退くのか。その判断が先頭と後方で揃わなくなっているように見えた。

 

 朽木勢が動いたのは、その直後だった。

 

 鉄砲隊の後ろで待っていた槍兵が一斉に声を上げて駆け出し、その脇から騎馬の一団が追い抜くように飛び出した。三度の射撃で足を止められた浅井勢は、まだ列を整え直せていない。そこへ槍兵が迫り、さらに騎馬が側面へ回る。鉄砲隊だけを見ていた時には分からなかったが、竹若丸は射撃で敵を全て倒そうとしていたわけではないらしい。

 

「鉄砲だけで討ち取るつもりではないのか。敵を崩すために撃っておるのじゃな」

 

 思わず口にすると、弥太郎も朽木勢へ目を向けた。

 

 鉄砲で足を止め、列を乱し、命令が届かなくなったところへ槍を入れる。そして逃げ始めた者を騎馬で追う。三百丁という数だけを見ていた時には分からなかった。高島六家との戦で竹若丸が三百ほどの兵をもって四倍近い相手を崩したのも、単に鉄砲を大量に並べたからではなかったのだろう。敵が来ればどこへ立ち、どの距離まで待ち、誰が先に撃ち、その後に誰が動くのか。それを兵たちが知っているからこそ、一つの命令から次の動きへ滞りなく繋がっていく。

 

 朽木の槍勢がぶつかると、浅井の千は堪え切れなかった。正面には鉄砲隊が控え、横から槍兵が迫り、さらに騎馬が入り込む。先ほどまで本陣を目指して一直線に進んでいた軍勢は、幾つもの塊へ割れ始めた。まだ戦おうとする者もいるが、別の者はすでに逃げ始めている。指揮を執る者が何処にいるのかも、こちらからは分からなかった。

 

 やがて、その一部が朽木勢から逃れるように俺たちの方へ流れてきた。数十人ほどだろう。全体の戦況から見れば僅かな人数に過ぎない。それでも、槍を持った人間が実際にこちらへ走ってくる光景を目の前にすると、遠くで何千人が戦っているのを見るのとはまるで違った。

 

「構えよ!」

 

 誰かの号令で、俺の周囲でも槍が一斉に前へ向いた。弥太郎が自然と俺より半歩前へ出る。俺は自分も少し下がりながら、弥太郎には前へ出過ぎぬよう告げた。ここで兵まで下げれば、逃げてきた浅井勢をかえって呼び込むことになる。俺の側にいる兵はすでに列を作っており、向かってくる相手も朽木に追われてまとまりを失っている。必要なのは、持ち場を守らせることだった。

 

 そう考えてはいたが、声が震えていないか自分では分からなかった。

 

 肥田城では矢が飛んでくるのを見た。だが今回は人の顔が見える。走ってくる男の一人が口を大きく開けて何かを叫び、汗と泥にまみれたまま槍を振り上げている。こちらの兵がその槍を受け、別の者が横から突いた。肉へ刃が入る音までは聞こえなかったが、男の身体が急に力を失い、膝から崩れるところははっきり見えた。

 

 後から続いた者たちも槍で受け止められ、幾人かが倒れる。朽木勢に追われて逃げてきただけの兵と、こちらで列を整えて待っていた兵では、勢いが違った。間もなく浅井方の生き残りは横へ逃げ始め、味方の中にはその背を追おうとする者まで現れた。

 

「追うな! 持ち場を離れるな!」

 

 思ったより大きな声が出た。

 

 何人かが足を止め、こちらを振り返った。敵が背を向けているのだから、追えば首を取れると考えたのかもしれない。だが、今ここで俺の周囲まで追撃に加われば、本陣を守る兵がまた減る。浅井の別働隊がこれで全てだと確認出来たわけでもなく、別の敵が迫ってこないとも限らない。

 

「首より陣じゃ! 父上から命は出ておらぬ。列へ戻れ!」

 

 兵たちが持ち場へ戻るのを確かめ、ようやく息を吐いた。肥田城で初めて出した戦場での命令は、土を運ぶ道を分けろというものだった。今回は敵を追うなという命令になった。どちらも武功らしい武功ではないが、兵を勝手に動かさず、必要な場所へ留めておくことも自分の役目なのだと少しずつ分かってきた。

 

 浅井の別働隊が崩れたことは、後陣だけでなく正面で戦う兵にも伝わり始めたらしい。最初は朽木が敵を破ったという声が近くで上がり、それが使番と兵たちの口を通じて前方へ広がっていく。遠くで戦っている六角の先陣や第二陣の旗が、再び前へ動き始めた。反対に浅井側では、先ほどまで強く押していた勢いが目に見えて鈍くなっている。後方へ回した兵が敗れたと知らされたのか、それとも六角側が押し返し始めたことに圧されたのか、そこまでは分からない。ただ、両軍の動きが変わったことだけは確かだった。

 

 同じ八千と六千が戦っているはずなのに、少し前とはまるで違う。浅井の本隊は急に何千人も失ったわけではない。それでも、別働隊が敗れたという一つの出来事で、六角側は勝てると考え、浅井側は後ろが危ういと考え始めたのかもしれない。その違いが、兵の足を前へ向かわせるか、後ろへ向かわせるかを変えているように見えた。数だけでは戦を測れないと思い始めていたが、兵が何を信じ、何を恐れるかまで加われば、なおさら単純な計算では済まない。

 

 やがて正面からも浅井勢が退き始めたという報告が届いた。父上はすぐに先陣と第二陣へ押し返すよう命じたが、全軍での追撃は許さず、追う兵を選んで陣を崩さぬよう念を押した。勝っているのだから全部で追えばよい、と考える者もいるだろう。だが、父上はそうしなかった。

 

 肥田城から退く時に言われた、退かねばならぬ時に退けぬ者は勝てる戦まで失う、という言葉を思い出した。あれは負けそうな時だけの話ではないらしい。勝っている時も、止まるべきところで止まれなければ、今度はこちらが崩れる。逃げる敵を追って兵が散れば、別の敵に付け入る隙を与えることにもなる。前へ出る命令と同じように、追撃を止める命令にも意味があった。

 

 正面の浅井勢が崩れ始めると、戦は急速に一方的なものへ変わっていった。宇曽川へ向かって下がる者、それを越えて北へ逃げようとする者、まだ踏み止まって六角勢を押し返そうとする者が入り混じり、浅井の旗もそれぞれ別の方向へ動くようになる。俺はその中から新九郎のいる場所を探した。浅井の本陣らしい旗を追い、川向こうへ目を凝らしたが、それらしい姿は見つからない。

 

 弥太郎にも尋ねてみたものの、浅井の三つ盛亀甲を掲げた旗は幾つもあり、どれが新九郎のいる場所なのか判別出来ないという。正面で戦っているのだと思っていた。浅井全軍を率いる立場にあるのだから、最後まで本隊にいるものだと勝手に考えていたのかもしれない。

 

 だが、先ほどから本陣らしい場所を探しても見つからず、浅井の有力な旗の幾つかも、いつの間にか見えなくなっていた。

 

 胸の奥に、理由の分からない嫌な感覚が残った。

 

 *

 

 戦が終わったと言われても、すぐには実感出来なかった。浅井勢の多くが逃げ、追撃に出た六角兵も徐々に戻り始めた頃になって、ようやく父上の周囲から緊張が抜け始める。それでも戦場そのものは静かにならなかった。呻き声が聞こえ、負傷者を運ぶ者が走り、誰かを探して名前を叫んでいる兵もいる。遠くから見ていた時には人と旗の塊だった場所へ近付くと、田も川辺も踏み荒らされ、折れた槍や矢、草履、具足の一部が至るところに落ちていた。

 

 そして、人も。

 

 肥田城では最初に死んだ男の姿がいつまでも頭から離れなかった。だがここでは、一人を見続ける暇さえない。こちらにも一人、少し先にも一人。その向こうでは二人が折り重なるように倒れている。具足を見れば六角方だと分かる者もいれば、浅井方の者もいた。まだ動いている者もいる。傷を押さえながら呻いている者、起き上がろうとしても力が入らない者、その隣でもう何も言わなくなった者。最初は無意識に数えようとしていた。十、十一、十二と頭の中で数字が増えていき、途中で自分が何をしているのかに気付いて止めた。

 

 ここにいる者にも、一人ずつ名前がある。

 

 肥田城で弥太郎に調べさせ、帳面へ残した男と同じように、浅井の兵にも六角の兵にも家があり、待っている者がいるのだろう。それでも戦場の上では、浅井の死者、六角の死者という数になる。俺がこれから上に立つのであれば、その数を知らなければならない。何人死に、何人傷付き、どれだけ兵力が残ったのかを把握しなければ、次の判断は出来ない。だが、数字にする必要があることと、数字だけだと思ってよいことは同じではなかった。

 

 近くにいた兵から負傷者を見つけたと知らされ、弥太郎と共にそちらへ向かった。幾人かの兵が囲んでいたのは、浅井方らしい男だった。傷を負って歩けないものの、まだ息はある。味方ではないからどう扱うべきかと迷っている様子だったので、俺は生きている者を運ぶよう命じた。

 

「武器を持てぬ者まで、その場に捨て置く必要はない。味方の負傷者と共に運べ。手当て出来る者へ順に回し、水も用意せよ。ただし、苦しんでおる者へ無理に飲ませるな」

 

 弥太郎は少しだけこちらを見たが、すぐに頷いて人を動かし始めた。前世の医学知識など俺にはない。傷の深さを見極めることも、適切な治療を施すことも出来ない。それでも、敵だったからという理由だけで放置する必要はないだろう。助かった者が後で再び敵になる可能性はあるし、捕虜として扱うことにもなる。それでも今、傷付き、武器も持てない者をわざわざ殺す理由にはならなかった。

 

 戦場を見て回っているうちに、父上から使いが来た。肥田城近くの寺へ陣を移し、諸将を集めるという。俺もすぐに向かうと答えたが、その時になってようやく、肥田城の高野瀬備前守がまだ残っていることを思い出した。浅井の援護を当てにして六角へ背いた男だ。浅井がこれほど大きく敗れれば、肥田城だけで抵抗を続けることは難しいだろう。

 

 だが、今の俺の頭に残っているのは高野瀬よりも新九郎の行方だった。

 

 *

 

 寺へ移した陣には、先に戻った諸将が次々と集まり始めていた。勝った戦の後なのだから、もっと明るいものを想像していたが、実際には皆疲れ切っている。汗と泥で汚れた具足のまま座る者も多く、勝利を喜ぶ声より、どこの家で誰が討たれ、誰が傷を負ったという報告の方がよく耳に入った。父上も勝ったからと浮かれてはいない。追撃に出した兵の戻り具合や負傷者の数、浅井勢がどちらへ逃げたのかを確かめながら、次に必要な命令を出していた。

 

 俺も父上の近くへ座ったが、新九郎の行方についてはまだ何も分からなかった。浅井が敗れた以上、小谷へ逃げた可能性もある。そう思おうとしたものの、先ほどから胸に残っている嫌な感覚は消えなかった。

 

「朽木竹若丸様、御出でにございます」

 

 陣幕の外から声が掛かり、父上が通すよう命じた。

 

 入ってきた竹若丸の姿は、戦の前に見た時とほとんど変わらなかった。相変わらず鎧を着けず、身軽な姿のままだ。ただ、衣には土埃が付き、額にも汗が残っている。その後ろには数人の兵が従っており、それぞれ何かを包んだものを持っていた。

 

 それを見た瞬間、胸の奥が強く縮んだ。

 

 竹若丸はまず父上へ勝利を祝う言葉を述べ、それから帰陣が遅れたことを詫びた。朽木は浅井家との付き合いが薄いため、討ち取った者の首を確かめるのに手間取ったという。父上が誰を討ったのか尋ねると、竹若丸は一度頭を下げ、静かに答えた。

 

「浅井新九郎賢政殿。遠藤喜右衛門直経殿。赤尾美作守清綱殿。片桐孫右衛門直貞殿。新庄新三郎直頼殿。以上にございます。御検分願いたく」

 

 最初の名前を聞いたところで、その後の言葉が遠くなった。

 

 新九郎。

 

 聞き間違えたとは思わなかった。それでも、意味がすぐには頭へ入ってこなかった。俺は陣幕の中にいる竹若丸を見たまま、別の姿を思い出していた。観音寺城で猿夜叉丸と呼ばれていた頃、知らない土地へ帰るのが怖いと話した少年。小谷へ戻れば、俺が遊びに来た時に案内すると言って笑った少年。元服して新九郎賢政となり、少し緊張しながらも自分の家へ帰っていった男。

 

 小夜が嫁ぐと聞いた時には、見ず知らずの相手ではないからまだ安心出来ると思っていた。その後に何が起きたかを知ってからも、いつか直接理由を聞く機会があるのではないかと、どこかで考えていたのかもしれない。

 

 もう、その機会は来ない。

 

 竹若丸の後ろにいた兵が包みを解き、父上の首実検が始まった。俺は見ない方がよいのではないかと思ったが、目を逸らすことも出来なかった。汗や土に汚れ、生きていた時とはまるで違う顔。それでも、見覚えのある輪郭だった。小谷を案内すると言った相手の最後が、こんな形で目の前へ戻ってくるとは思わなかった。

 

 小夜の顔が浮かんだ。

 

 出陣前、新九郎と戦うのかと尋ねた時の顔だ。俺はそうだと答え、それ以上は言わなかった。戦になれば相手が死ぬ可能性があることくらい、小夜も分かっていたはずだ。それでも、理解していることと、実際にそうなったことは違う。

 

 父上は一つずつ首を確かめ、分からないものは浅井を知る者に確認させた。全てに間違いがないと分かると、改めて竹若丸へ向き直った。

 

「竹若丸殿。此度の馳走、心より感謝致す。浅井に勝てたのは、朽木勢の働きが大きい。あの一千を止められなんだなら、本陣へ入られておった。正面の兵まで乱れたやもしれぬ。どのように報いればよいものか、こちらが困るほどじゃ」

 

 竹若丸は深く頭を下げ、過分な言葉だと答えた。しかし父上が改めて恩賞について口にすると、その必要はないと辞退したため、周囲にも驚きが広がった。浅井の別働隊を破り、新九郎をはじめ有力者を幾人も討ち取ったのである。これほどの武功を挙げながら何も求めないというのは、普通なら考えにくかった。

 

「伯父の鯰江備前守殿より、左京大夫様が朽木に聊か御不快をお持ちであると聞いておりまする。此度の働きで、その御不快が少しでも晴れましたなら、朽木といたしましては十分にございます」

 

 父上が僅かに目を細めた。

 

 俺にも、竹若丸が何をしているのか分かった。

 

 高島の件だ。

 

 六角が高島六家へ働き掛け、それを竹若丸が逆に利用して勢力を広げた。その後、六角が朽木へ何も思っていないはずはない。だが今この場で、これだけの武功を挙げた相手から六角は朽木を不快に思っているのかと遠回しに問われれば、父上は不快だとは言えない。

 

「何やら誤解があるようじゃ。儂は朽木へ不快など持っておらぬ。同じ佐々木源氏の家でありながら、このところ少し疎遠であることを残念に思ったことはある。備前守はそれを気にし過ぎたのであろう。竹若丸殿には余計な気を遣わせた」

 

 父上が苦笑しながらそう答えると、竹若丸は安堵したと礼を述べた。父上も今回の働きに対する礼はいずれ改めてすると告げ、それ以上この話を続けることはなかった。

 

 そのやり取りを見ながら、俺はまた一つ別の意味で胸が重くなった。戦場で浅井の別働隊を破り、有力者を幾人も討ち取った直後に、竹若丸はもう次の政治を始めている。武功そのものを恩賞へ換える前に、六角との間に残っていた棘を抜いたのだ。父上が公に朽木への不快を否定した以上、今後の両家の関係もその言葉を前提に進められることになる。

 

 高島の時もそうだった。竹若丸は勝つだけではなく、勝った後にその勝ちをどう使うかまで考えている。今回も高島と同じように、戦場で得たものをそのまま政治上の利へ繋げた。恩賞を辞退したからといって何も得なかったわけではない。むしろ、今の朽木にとっては六角との関係を改める方が、目先の恩賞より価値があるのかもしれなかった。

 

 俺が新九郎の首から目を離せずにいる間にも、竹若丸は次を見ていた。

 

 その差を思い知らされるようで悔しくもあったが、今はその悔しさより新九郎の死の方が重かった。

 

 だからといって、竹若丸を責めることは出来ない。

 

 新九郎を討ったのは竹若丸だ。だが竹若丸は俺たちを助けるために戦った。六角から頼まれて兵を出し、浅井の別働隊が本陣へ向かってきたから迎え撃った。その中に新九郎がいたということなのだろう。竹若丸があの一千を止めなければ、浅井勢は父上のいる本陣へ迫っていた。六角の後陣だけで受け切れた可能性はあるが、混乱はもっと大きかっただろうし、父上や弥太郎、あるいは俺自身が討たれていたかもしれない。

 

 戦場では相手が誰であろうと、止めなければ自分たちが殺される。頭では簡単に理解出来る理屈なのに、知っている人間二人をそこへ当てはめると、途端に重くなった。

 

 竹若丸が退出した後、高野瀬備前守についての報告も入った。浅井軍が潰走し、新九郎まで討たれたことを知った肥田城では抗戦を続ける意見がまとまらず、高野瀬は降伏を申し出たという。父上はしばらく考えた末、命までは取らず、領地を没収して近江から追放することを決めた。

 

「備前守を討てば済むという話から始まったというに、随分と大きくなったものじゃ」

 

 父上が呟いたが、誰もすぐには答えなかった。

 

 俺にとって初陣だった肥田城攻めでは、高野瀬を屈服させられずに退いた。その高野瀬が今、自ら城を明け渡すという。肥田城一つだけを見れば、ようやく最初の目的を果たしたことになる。だが、その間に小夜は戻り、浅井は六角と戦い、新九郎を含む多くの人間が死んだ。

 

 城一つの処分では片付けられないものが、あまりにも増えていた。

 

 *

 

 諸将が下がり、高野瀬への処分を伝える使者まで出た後、父上から残るように言われた。陣幕の中には父上と俺、それに後藤但馬守、蒲生下野守、進藤山城守だけが残っている。先ほどまで首が並べられていた場所は片付けられていたが、どうしてもそこへ目が向いてしまう。

 

「右衛門督。此度の戦をどう見た」

 

 肥田城でも聞かれた言葉だった。あの時は初陣をどう見たかと問われたが、今回は野良田の戦そのものについて考えを求められているのだろう。俺は少し頭の中を整理し、まず兵の数から話し始めた。

 

「数では、六角が大きく勝っておりました。ですが、浅井の一千がこちらへ回った時、本陣は確かに揺れました。正面へ八千を出していたため、後ろには数字ほどの余裕がございませんでした」

 

 父上は黙って聞いている。

 

 浅井が正面へ兵を集中させている間、こちらも先陣と第二陣を前へ出していた。全軍では倍近い兵を持っていても、その時点で後陣を守るために使える兵は限られている。昨夜の軍議で懸念していたことが、実際に起きたのだ。物見を増やしていたため早く動きを掴めたものの、朽木勢がいなければ本陣周辺の戦いはもっと厳しいものになっていただろう。

 

「朽木が止めましたが、あれは鉄砲三百丁だけの力ではないと思いまする。敵が来てから、どこへ誰を動かすかを考えたようには見えませんでした。兵たちが初めから自分の役目を知っております。鉄砲を三つに分けて順に撃ち、敵が崩れれば槍が出る。その後を騎馬が追う。竹若丸殿が一つ一つ指図せずとも、命が来れば次が動いておりました」

 

 後藤但馬守も、朽木勢の動きは確かに早かったと頷いた。父上はそれを聞いてから、六角の兵はどうだったかと尋ねた。

 

 俺が見た限り、六角勢はそれぞれの家ごとに動いている。皆が弱いとは思わない。蒲生下野守の先陣も浅井の最初の攻めを受け止め、その後は永原、進藤、池田らの兵と共に押し返した。各家の兵が役目を果たしたからこそ、六角は勝てたのだ。

 

 ただ、大きな動きを変えるには使番を走らせ、各家へ命令を伝え、それを受けた家がさらに自分の兵を動かす必要がある。その分だけ時間が掛かる。朽木勢は一つの命令から次の動きへ繋がっていたが、六角では各家が同じ判断をするまでに手間が要る。今日のように兵力で優る戦ならともかく、互角の相手や動きの速い敵と戦う時には、その違いが大きくなるかもしれなかった。

 

「それが六角の弱みと申すか」

 

「今は、そのように思いまする。ただ、今日一度見ただけで全ての答えを出すつもりはございませぬ。蒲生殿の先陣が浅井を受け止めたことも、各家が命に従って動いたことも事実にございますれば」

 

 そう答えると、父上は少しだけ口元を緩めた。

 

「少しは学んだようじゃな」

 

「何度も御教示を受けましたゆえ」

 

「怒ってはおらぬぞ」

 

「父上がそう仰る時は、大抵怒っておられます」

 

 蒲生下野守が小さく咳払いし、後藤但馬守は顔を逸らした。笑いを堪えているらしい。父上は一度こちらを睨んだものの、本気で怒っている様子ではなかった。

 

「まあよい。朽木だけを見るな。蒲生が受けたことも、浅井が何故あそこまで押せたかも見よ。一つの家だけを見て、戦の全てを分かったつもりになるでない」

 

「承知いたしました」

 

 その言葉には素直に頷いた。朽木勢の動きが目立っていたのは確かだが、あの一千を撃破したからといって、それだけで野良田の勝敗が決まったわけではない。正面で浅井本隊を受け止めた兵がいて、後陣を動かさずに済むよう判断した父上がいて、浅井の別働隊を早く見つけた物見もいた。逆に浅井が何を狙い、どこで動きを誤ったのかについては、まだ十分な報告さえ揃っていなかった。

 

 父上はそこで一度言葉を切り、俺をまっすぐ見た。

 

「それと、新九郎のことが辛いか」

 

 一瞬、何と答えるか迷った。

 

 ここには六角の重臣たちもいる。浅井の当主が死んだことを惜しむのは、立場からすればおかしいと思われるかもしれない。それでも、嘘を吐く理由もなかった。

 

「……はい。幼い頃から知っておりますれば」

 

「そうか」

 

「ですが、竹若丸殿を恨んではおりませぬ。むしろ、此度は助けられました」

 

 父上はまだ何も言っていないと苦笑したが、俺が竹若丸を責めるつもりではないことは伝わったらしい。やがて父上も、新九郎を全く知らぬ相手だとは思っていないと話し始めた。

 

 幼い頃から観音寺城にいた少年だ。六角へ背いたことには腹が立ったし、浅井の当主として討つべき相手にもなった。だが、死んだからといって、それまで共に過ごした時間まで無かったことになるわけではない。父上もまた、新九郎を単なる敵将としてだけ見ていたわけではなかったらしい。

 

「戦場へ出れば、こういうことは起きる。今日、竹若丸が新九郎を討たねば、新九郎がこちらへ入り、儂やそなたを討ったやもしれぬ。それは分かっておろう」

 

「はい」

 

「ならば、悲しむことと判断を誤ることを一緒にするな。悲しいなら悲しめ。だが、それを理由に竹若丸を遠ざけるようなことはするな」

 

「承知いたしました」

 

 答えながら、これも上に立つということなのだろうと思った。

 

 人を好きか嫌いか、悲しいか腹立たしいかという感情そのものを無くす必要はない。しかし、その感情だけで次の判断をしてはいけない。竹若丸は頼みに応じて兵を出し、六角の本陣を守り、浅井の有力者を討ち取った。新九郎が俺の知っている相手だったからといって、その働きを軽んじる理由にはならない。

 

 言葉にすれば簡単だが、目の前に新九郎の首を見た直後では決して簡単なことではなかった。

 

 *

 

 夜になり、ようやく自分の場所へ戻ると、弥太郎も後から入ってきた。昼間よりさらに疲れた顔をしている。平井家の兵や俺の周囲の者たちの損害を確かめていたらしい。俺が水を渡すと、礼を言って半分ほど一息に飲み、それから向かいへ座った。

 

 加賀守の安否を尋ねると、具足に僅かな傷を負ったものの、本人は無事だという。俺の周囲にいた兵についても確認は終わり、死者は出ているが、残った者たちは持ち場を守って戻ってきたらしい。弥太郎は一人ずつの名前と負傷の程度を確かめてきたようで、後から帳面へまとめるための書き付けも持っていた。

 

 それを受け取りながら、俺は今日一日でどれだけ多くの報告を聞いたのだろうと思った。浅井の兵の動き、六角の損害、朽木の働き、討ち取られた武将の名。朝には川を挟んで両軍が向かい合っていたのに、夜には浅井の旗は消え、新九郎も死んでいる。戦が始まる前には一万二千と六千という数字で考えていたものが、今は幾つもの家と人間の行く末へ変わっていた。

 

 しばらく会話が途切れた。

 

 話すことはいくらでもあるはずだった。今日の戦のこと。朽木の鉄砲。父上の命令。怪我をした者。明日以降のこと。それでも、二人とも口にしない名前が一つあった。

 

 やがて弥太郎が小さく息を吐いた。

 

「新九郎様……討たれましたな」

 

「ああ」

 

「小夜には、某から話しましょうか」

 

 俺はすぐには答えなかった。

 

 小夜は新九郎と離縁している。婚姻の日から拒まれ、四月の間、まともな夫婦として過ごすことも出来なかった。その後は人の目を怖がり、平井の屋敷に籠もることさえあった。新九郎をまだ想っているのかと尋ねた時にも、分からないと答えていた。

 

 だからといって、もう何の関係もない男が死んだという話にはならないだろう。少なくとも小夜にとっては、幼い頃から知っている少年であり、一度は夫と呼び、自分なりに上手くやっていこうとした相手だ。そして俺たちが出陣する朝、小夜は新九郎と戦うのかとわざわざ確かめた。

 

 あの時、小夜が何を考えていたのかは分からない。新九郎の無事を願っていたのかもしれないし、父や兄が新九郎と戦うことに戸惑っていたのかもしれない。あるいは、その両方だったのかもしれなかった。

 

「いや。小夜には、一緒に話しに行こう」

 

 そう答えると、弥太郎は少し驚いたように俺を見た。妹へ知らせるのは兄の役目だと考えていたらしい。だが俺も新九郎を知っているし、小夜へ浅井と戦うのだと答えたのは俺だ。少なくとも、弥太郎一人へ知らせる役目を任せ、自分は何も知らぬ顔をする気にはなれなかった。

 

「何と伝えるかは、帰ってから考えよう」

 

「……承知いたしました」

 

 弥太郎はしばらく黙った後、ゆっくり頷いた。

 

 その後は二人とも、しばらく何も話さなかった。

 

 外では勝った兵たちの声が聞こえる。酒を回しているところもあるのか、時折大きな笑い声まで上がった。勝ったのだから、喜ぶことが悪いとは思わない。父上も弥太郎も加賀守も俺も生きており、浅井の別働隊は朽木に破られ、本陣を崩されることもなかった。高野瀬も降り、六角にとっては文句の付けようのない勝ち戦と言ってよいのだろう。

 

 それでも俺の頭に浮かんでいるのは、戦場へ出る前にこちらを見送っていた小夜の顔と、首となって戻ってきた新九郎の顔だった。

 

 勝ったという言葉の中には、自分たちが生き残ったという意味と、相手が死んだという意味が同時に入っている。肥田城で初めて戦を知ったつもりになり、野良田で大軍の動きを見ればもう少し理解出来ると思っていたが、実際には分からないことがまた増えただけだった。

 

 浅井の千が何故朽木勢のいる場所へ向かったのか。新九郎はその兵を率いることを、どのような考えで選んだのか。正面の浅井本隊は、別働隊が敗れたと知った時に何を考えたのか。戦場で見た動きについては、これから報告を重ねれば分かることもあるだろう。だが、新九郎自身へ尋ねる機会はもう無い。

 

 そして、観音寺城へ戻れば勝利を待っている者たちがいる。その中には小夜もいる。

 

 俺たちが無事に戻ったことを喜ぶだろう。その同じ相手へ、新九郎は戻らないと伝えなければならない。新九郎が戦場で何をしたのかも、竹若丸が何をしたのかも、隠さずに話さなければならないだろう。弥太郎一人へその役目を押し付ける気にはなれなかった。

 

 俺は傍らへ置いていた書き付けを手に取り、弥太郎が調べてきた死傷者の名前へもう一度目を通した。明日になれば、今日より詳しい報告も届くだろう。自分の側で誰が死に、誰が傷付き、誰が無事に戻ったのか。それを確かめる仕事もまだ終わっていない。

 

 戦場へ出て、生きて帰るということは、ただ城門をもう一度潜れば済むわけではないらしい。そこで見たものと、起きたことを、待っていた人間のところまで持ち帰らなければならない。

 

 父上から肥田城で生きて戻れと言われた時、俺が考えたのは自分の命を失わぬことだった。今でも、それが何より大切なことに変わりはない。

 

 だが、戻った後にも果たさなければならない役目がある。

 

 小夜へ何をどう伝えるか。その答えはまだ出なかったが、少なくとも弥太郎と共に話すことだけは決めていた。

 

 俺は書き付けを畳み、明日になれば確かめなければならないことを頭の中で整理した。勝った戦の後にも仕事は残り、観音寺城へ帰ってからも、その全てが終わるわけではない。

 

 新九郎が死んだという事実だけは、もう変えられなかった。




もう、新九郎に小谷は案内してもらえない

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