野良田を発った六角勢の歩みは、来た時よりも明らかに遅かった。勝ち戦なのだから帰路くらいは足取りも軽くなるものだと、どこかで単純に考えていたのかもしれない。だが、実際に後ろへ長く伸びる隊列を眺めれば、戦へ向かう時と戦を終えた後とでは、同じ軍勢であっても運んでいるものがまるで違うことが分かる。傷を負って自分では歩けなくなった者を乗せた馬があり、二人、四人と人の手を借りなければ動かせない者もいる。浅井方から捕らえた者も連れて帰らなければならず、戦死した者については遺体そのものを持ち帰れなくとも、家へ返すための武具や遺品がまとめられていた。行きには兵と兵糧をどう進ませるかばかりを見ていた道を、帰りには戦ったことで生まれたものまで一緒に抱えて戻っている。
「行きより随分と遅いな」
馬上から後方を振り返りながら呟くと、隣を進んでいた弥太郎も隊列へ目をやり、「傷を負った者もおりますれば。それに、途中で休ませる回数も増えております」と静かに答えた。
「ああ。勝って戻る軍でも、来た時と同じようには帰れぬのだな」
兵の数そのものも、出陣した時とは違っている。野良田で死んだ者はもうこの列の中にはおらず、傷を負った者の歩みは遅い。それでも誰か一人を置いていくわけにはいかないから、軍全体が一番遅い者に合わせて進むことになる。戦へ向かう前には、一万を超える人間をどうやって同じ場所へ集め、同じ方向へ進ませるのかばかりを考えていた。だが実際には、戦いが終わった後にも同じだけの人間をどう帰らせ、負傷者をどう運び、死者をどう家へ返すかという仕事が残っている。肥田城で父上から言われた「生きて戻ることも戦」という言葉を、帰路へ入ってから何度も思い出した。
ただ、その言葉が頭に浮かぶたび、それと一緒に新九郎の顔まで現れる。俺も弥太郎も帰る。平井加賀守も無事で、父上も六人衆も生きている。出陣前に小夜から見送られた者たちは、少なくとも俺の知る限り全員が観音寺城へ戻ることが出来る。それなのに、小夜が「新九郎様」と呼んだ男だけは、もうどこへも帰らない。六角の軍勢が観音寺へ戻っていく道と、新九郎がもう戻ることのない小谷への道が、頭の中で何度も並んでは離れた。
しばらく黙って進んでいると、弥太郎の方から「若様」と声を掛けてきた。何事かと見ると、少し迷った後で、小夜へ何と伝えるのか決めたのかと尋ねてくる。俺がまだ何も決めていないと答えると、弥太郎は少し意外そうな顔をしたが、逆にお前は決まったのかと聞けば、今度は向こうが口を閉じた。
「……決まっておりませぬ」
「なら俺を見るな」
「若様なら、何か考えておられるかと思いましたので」
「こういう時に正しい言葉があるなら、俺の方が教えてほしいくらいじゃ」
慰めればいいのか。悲しめと言えばいいのか。新九郎から酷い扱いを受けたのだから、もう忘れてしまえと言えばいいのか。考えれば考えるほど、どれも違うように思えた。以前の俺なら、相手が少しでも楽になれるような言葉を探しただろう。そして小夜が小谷へ嫁ぐ時に「必ず幸せになるのだぞ」と言った時と同じように、自分では励ましたつもりの言葉を、知らないうちに相手へ背負わせていたかもしれない。
今は、何かを決めてやろうとは思わなかった。新九郎が死んだ。その事実をまず伝える。それを聞いて悲しむのか、怒るのか、何も分からなくなるのかは小夜自身が決めることであって、俺が先回りして形を与えるものではない。そのことだけは、以前より少し分かるようになっていた。
*
観音寺城が見えるところまで戻ると、道の両側に人の姿が増え始めた。六角が勝ったという知らせは軍勢より先に届いていたらしく、城下へ近付くほど出迎える者たちの声が大きくなる。家族の姿を見つけて名前を呼ぶ者もいれば、六角の旗へ向かって深く頭を下げる者もいる。出陣した時には不安を隠せない顔でこちらを見送っていた人々が、今は安堵した顔で迎えている。その姿を見れば、勝ったことを喜ぶのは当然なのだとも思えた。六角が野良田で負けていれば、次に戦場となるのはもっと南だったかもしれない。ここで暮らしている者にとって、俺たちが勝って戻ってきたという事実は、自分たちの日常がまだ守られているということでもある。
兵たちの表情にも、城が近付くにつれて少しずつ笑みが戻っていた。自分の家が近いことに気付いて隣の者と話し始める者もいる。俺だって観音寺城の石垣を目にした時には、胸の奥から安堵が湧いた。肥田城から戻った時にも感じたことだが、見慣れた城をもう一度目に出来るというのは、戦へ行く前に考えていた以上に嬉しいものだった。それでも周囲と同じように声を上げて喜ぶ気にはなれず、城門を潜る時には、出陣の日にそこへ立っていた小夜の姿を無意識に探していた。
当然ながら、見つからなかった。今日は軍勢そのものが戻ってくる日であり、見物する者も家族を待つ者も多い。城門の周囲は出陣時以上の人で埋まっていた。ようやく外へ出られるようになってきたとはいえ、まだ人の目を気にしていた小夜が、わざわざこの中へ出てくる必要はない。おそらく平井の屋敷で、父と兄が戻ってくるのを待っているのだろう。そう理解しても、城門を過ぎるまで何度か人混みの中へ目を向けていた。
城へ戻ったからといって、すぐに自由になるわけでもなかった。父上への報告があり、俺の側に付けられていた兵についても、戦死者や負傷者を改めて確認しなければならない。傷を負った者をどこへ置き、誰に診せるのか。死んだ者の家へは誰が知らせを届けるのか。持ち帰った武具や捕虜をどう扱うのか。戦場から離れれば戦が終わるというものではなく、むしろ戻ってきたからこそ始められる仕事も多かった。
それらが一段落したところで、俺は父上の部屋へ向かった。まだ机の上には戦後処理に関する文が積まれており、父上もその一つへ目を通していたが、俺が小夜のところへ行きたいと伝えると、手元の書状から顔を上げた。
「新九郎のことか」
「はい。昨夜、弥太郎とも話しました。二人で伝えようと思っておりまする」
父上は少し考えるように俺を見てから、弥太郎一人ではいけないのかと尋ねた。兄として知らせるだけなら弥太郎でもいい。しかし俺も新九郎を幼い頃から知っているし、何より出陣の日、小夜から新九郎と戦うのかと聞かれ、それに答えたのは俺だった。そのことを説明すると、父上は手にしていた書状を脇へ置いた。
「なら行ってこい。ただし義治、何を思うべきかまで、そなたが小夜へ教えるでないぞ」
一瞬、答えが遅れた。父上はそのまま、慰めたいと思うこと自体は構わないが、悲しめとも忘れろとも言うなと続けた。新九郎を恨んでいるかもしれない。それでも、死んだと聞けば悲しいかもしれない。あるいは何を感じているのか、自分でも分からないかもしれない。それは小夜自身のものであって、周囲が正しい形を決めるものではないという。
城門で「必ず幸せになるのだぞ」と声を掛けた日のことがすぐに浮かんだ。あの言葉も、俺は善意で言った。小夜が小谷で上手く暮らしていけるよう願っただけだった。それでも後になって小夜自身から、俺にそう言われたから上手くやらなければならないと思ったと聞かされた。励ますつもりの言葉が、相手にとっては別の重さを持つことがある。
「……承知いたしました」
「なら行け。加賀守も待っておろう」
父上の部屋を出ると、廊下で待っていた弥太郎へ声を掛けた。何を言うかはまだ決めていないと念を押すと、弥太郎も同じだと返す。
「なら、二人で分からぬまま行くしかないな」
「随分頼りない二人にございます」
「小夜には内緒にしておけ」
軽口を返してみたが、それで胸の中の重さが消えるわけではなかった。
*
平井の屋敷へ着くと、加賀守はすでに戻っていた。具足は脱ぎ、普段の衣へ着替えているものの、顔には野良田から持ち帰った疲れがまだ濃く残っている。俺たちを見ると事情を察したらしく、人払いをしてから小さく息を吐いた。
「小夜には、まだ新九郎殿のことは申しておりませぬ。戦に勝ったこと、我らが無事であることは知っております。新九郎殿については某から申そうとも思いましたが、弥太郎より、若様も御一緒に話されるおつもりだと聞きましたので」
「待たせてすまない」
「いえ。若様、娘のために御心を砕いていただき、感謝いたしまする」
頭を下げられたが、まだ俺は何もしていない。それに俺自身、新九郎を知らないわけではないと答えると、加賀守も「左様でございましたな」と静かに頷いた。娘を嫁がせ、僅か四月ほどで送り返された父親として、加賀守自身にも新九郎へ向ける感情はいくらでもあるはずだった。その後に浅井は六角へ背き、今度は戦場で新九郎自身が討たれた。父として何を思っているのか聞きたい気持ちはあったが、それを今ここで聞くのは違うように思えた。
加賀守が人をやり、しばらくして襖が開いた。入ってきた小夜は俺たち二人の姿を見ると、ほんの少し表情を明るくした。
「若様。兄上。お帰りなさいませ」
「ああ。ただいま」
「戻ったぞ、小夜」
弥太郎だけではなく俺まで無事にここへ来たことを見て安心したのだろう。小夜は小さく笑った。その笑みを見た途端、これから伝えなければならないことが、さっきまでよりも重く感じられた。戦へ出る朝、小夜は俺たちへ無事に戻ってほしいと言った。その願いは叶った。それを喜んでいる相手へ、同じ戦で一人だけ戻らなかった男のことを伝えなければならない。
俺と弥太郎がいつものように話を続けないことに、小夜はすぐ気付いたらしい。笑みがゆっくり薄れ、俺と兄の顔を交互に見た。
「……何か、ございましたか」
弥太郎が僅かに身体を動かした。俺も口を開こうとして、何を前置きにすればいいのか一瞬迷った。だが、どんな言葉を付け加えても事実そのものが変わるわけではない。結局、余計な言葉は付けなかった。
「小夜。新九郎は、野良田で討たれた」
小夜の表情が止まった。泣き出すことも、声を上げることもなく、ただこちらを見たまま動かない。今聞いた言葉の意味を、自分の中へ入れようとしているように見えた。やがて「そう、でございますか」と小さな声が返り、本当に亡くなったのかと確かめられたので、首実検も済んでおり間違いないと答えた。
小夜はもう一度「そう、でございますか」と口にして視線を膝へ落とした。加賀守も弥太郎も何も言わず、俺も父上に言われたことを思い出しながら待った。慰める言葉を急いで差し込むことは簡単だが、それは俺がこの沈黙に耐えられないからすることであって、小夜のためとは限らない。
どれほど経ったのか、小夜がゆっくり息を吐いた。
「不思議でございます。自分が悲しいのか、よく分かりませぬ」
俺が黙って続きを待つと、小夜は袖の端へ目を落としたまま、新九郎と共に過ごしたのはほんの四月ほどだったこと、婚姻の日に触れるなと言われ、その後もまともに話すことさえほとんどなかったことを少しずつ口にした。優しくされた思い出が幾つもあるわけではなく、平井へ戻された後には、なぜ自分ではいけなかったのかと何度も考え、新九郎を恨んだことさえある。それなのに、もう二度と会うことがないと聞けば、胸の中へ何か穴が空いたようにも感じる一方で、何も変わらないようにも思えるという。
「もっと腹が立つものだと思っておりました。あの方にあれほど傷付けられたのだから、亡くなったと聞いても何も思わぬのかと……ですが、今は自分でも何を思っているのか、よく分かりませぬ」
小夜は自分自身の感情へ何とか名前を付けようとしていた。だが、悲しい、憎い、寂しいという一つの言葉へ押し込めることが出来ないらしい。その姿を見ていると、むしろそれが自然なのではないかと思えた。
「分からなくてもよいのではないか」
そう言うと、小夜が顔を上げた。
「よいのでございましょうか」
「俺にも分からぬことがある。新九郎が死んだと聞いた時、俺は悲しかった。だが同時に、竹若丸殿が新九郎を止めなければ、父上や俺たちの方が危なかったとも思った。どちらが本当なのかと聞かれれば、どちらも本当じゃ。なら、お主が一つに決められぬことも、おかしくはないだろう」
小夜はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく頷いた。それから、新九郎が死んだことを本当に悲しいと思うのかと尋ねてきた。俺は迷わず悲しいと答えた。
「敵であったのに?」
「敵になったからといって、昔まで無くなるわけではない。観音寺で猿夜叉丸と呼ばれておった頃も、小谷へ帰るのが怖いと話しておった時も、俺には覚えがある。戦場では浅井の当主として敵だった。それと、俺が昔から知っていた新九郎であることは別じゃ」
小夜の目が少し揺れた。俺は続けて、新九郎をどう思うかを今日決める必要はないと伝えた。悲しいなら悲しめばいい。腹が立つのなら、その怒りも小夜自身のものだ。何も分からないのなら、今は分からないままでいい。父上から言われたことを言い換えただけとも言えるが、以前のように「こうなるべきだ」と未来を押し付けるより、今の小夜にはその方が合っている気がした。
しばらく黙っていた小夜が、今度は新九郎を誰が討ったのかと尋ねた。来るかもしれないと思っていた問いだったが、実際に聞かれると一瞬だけ答えをためらった。
「朽木勢じゃ」
「……朽木」
「ああ」
「竹若丸様の兵にございますか」
「そうじゃ。新九郎は一千ほどを率いて父上の本陣へ回り込んできた。竹若丸殿の兵がそれを受け止め、その戦いの中で新九郎は討たれた」
竹若丸自身が刀を振るい、新九郎の首を取ったわけではない。そのことだけは誤解させたくなかったため、出来るだけ事実だけを伝えた。
「竹若丸様が……」
小夜はその名を一度だけ口にして黙り込んだ。弥太郎が妹の様子を窺い、加賀守も何も言わない。やがて小夜は、朽木勢が止めなければ父や兄は危なかったのかと、慎重に言葉を選びながら聞いてきた。
「可能性はあった」
「若様も?」
「ああ。俺も父上の近くにおったからな」
小夜は再び目を伏せた。その表情には先ほどとは違う苦しさがあった。新九郎が生きていてほしかったと思えば、その新九郎は自分の父や兄を討つために本陣へ向かっていたことになる。竹若丸の兵が止めたからこそ、父も兄も、そして俺もここへ戻ってきた。どちらか一つだけを選び、片方だけを良かったと思える話ではない。
「でしたら……竹若丸様を恨むことは出来ませぬ。新九郎様を討とうと思って戦へ来られたわけではございませんのでしょう?」
「ああ。六角から兵を求められ、それに応じて来た。新九郎が本陣へ向かったから止めた。それだけじゃ」
「なら、恨むのは違うと思います」
そこまで言ってから、小夜は少し迷うように唇を閉じた。
「ですが……すぐに何も思わなくなることも、出来そうにございませぬ」
「それでよい。何を思うかまで誰かに決めてもらう必要はないと、先ほど言ったであろう」
小夜は小さく頷き、それからほんの少し困ったように笑った。
「若様、今日は同じことを何度も仰いますね」
「大事なことだからじゃ」
「それとも、他に言うことが思いつかないのでは?」
思わず言葉に詰まった。横では弥太郎が顔を伏せているが、僅かに肩が動いている。どう見ても笑っている。
「……両方じゃ」
正直に答えると、小夜の笑みが少しだけ深くなった。ほんの短い間だけだったが、先ほどまで張り詰めていた部屋の空気も僅かに緩んだように思えた。
それでも小夜の表情はすぐ静かなものへ戻り、今度は自分が父や兄、そして俺が無事に帰ってきたことを嬉しいと思っていると話した。その喜びが、新九郎の死を知った今でも消えていないことを、自分では酷いことなのではないかと考えているらしい。
「皆様が勝ったということは、新九郎様が負けたということでございます。皆様が無事に戻られたことを喜べば、新九郎様がお亡くなりになったことまで喜んでいるような気がして……」
「それは違う」
思っていたより強い声が出て、小夜が目を瞬いた。
「一方が生きて戻ったことを喜べば、もう一方が死んだことまで喜んだことになるなど、そんなわけがあるまい。俺も父上や弥太郎が生きておることは嬉しい。新九郎が死んだことは悲しい。両方あってよい」
「……はい」
「それに、お主が弥太郎の無事を喜ばなんだら、こやつが泣くぞ」
「若様」
弥太郎がすぐに抗議したので、泣かないのかと聞けば、「そこは泣くかもしれませぬが」と答えた。
「ほれ」
「若様、それでは某が随分と情けなく聞こえまする」
小夜が声を立てて笑った。ほんの短い笑いだったが、新九郎の死を聞いた直後に笑ったからといって、不謹慎だとは少しも思わなかった。悲しい知らせを受けた者が、それからずっと悲しい顔だけをしていなければならないわけではない。それもまた、父上の言った「何を思うかは小夜のもの」ということなのだろう。
帰る前、小夜は俺たちへ頭を下げた。
「お伝えくださり、ありがとうございました。兄上お一人から聞くより、御一緒にいてくださって良かったと思います。それと……新九郎様のことは、少し考えさせてくださいませ」
「いくらでも考えればよい。ただし、答えを出すために無理をするな」
「はい」
屋敷を出る時、振り返ることはしなかった。新九郎の死を知ったことで小夜が再び部屋へ閉じ籠もるのではないかという心配はあったが、その不安を理由に後から篠へ様子を探らせるようなこともしたくない。今の小夜を見守るのは、まず加賀守や弥太郎の役目だ。必要なら俺も話を聞けばよく、心配だからといって本人の知らないところから覗き続けるのは違う。
外へ出る頃には、すでに日が傾き始めていた。屋敷から少し離れたところで弥太郎へ「疲れた」と漏らすと、戦の方が楽だったかと聞かれたので、それはないと即座に否定した。
「では、どちらも大変ということで」
「そうしておこう」
身体の疲れなら眠れば少しは軽くなる。だが今日のような話をした後の疲れは、どこを休ませればよいのか自分でもよく分からなかった。
*
数日が経っても、小夜のことはやはり気になった。自分から何度も様子を聞きに行くのも違うと思っていたところへ、弥太郎の方から小夜は飯も食べており、昨日は母と庭へ出ていたと教えてくれた。以前のように部屋から一歩も出ないということはないらしい。
「ならよい」
「気になっておられたので?」
「当たり前じゃ」
「ならば御自分で聞けばよろしいでしょうに」
「新九郎が死んだと伝えた翌日から、元気か、気にしておらぬかと顔を出し続ける方が、かえって気を遣わせるであろう」
「それは確かに」
弥太郎は笑ったが、小夜が何を考えているのかは、まだ本人にも分からないのだろう。それでも食事を取り、庭へ出られているのなら、今はそれで十分だった。
そして俺の方にも、いつまでも新九郎のことだけを考えている時間はない。野良田で勝った後に処理しなければならないことはいくらでもあった。高野瀬から取り上げた土地をどうするのか、浅井との境をどう固めるのか、戦死した者の家をどう扱い、捕虜をどう処分するのか。兵を出した家々への確認も必要になる。何より、新九郎を討ったからといって浅井そのものが消えたわけではなかった。
そのことを改めて思い知らされたのは、評定の場で三雲対馬守から北近江の報告が上がった時だった。
「浅井下野守久政殿、小谷へ戻ったとのことでございます」
その一言に、父上だけでなく俺も自然と顔を上げた。竹生島から戻ったのかと父上が確認すると、対馬守は、野良田の敗戦後ほとんど間を置かず小谷へ戻り、浅井家中も人を集め始めていると答えた。
新九郎が死んだ。ならば久政が戻る。言われてみれば当然の動きにも見える。家督を新九郎へ譲った形になっていたとしても、その新九郎が討死した以上、浅井をまとめる者が必要になる。そこで以前父上から言われた言葉が頭を過った。新九郎だけを見るな。久政も、家臣も見ろ。
「新九郎を討ったからと申して、浅井が滅んだと思うな。小谷は残っておる。土地も人も残っておる。下野守も生きておる。此度は大きく叩いたが、首一つで家が消えるほど浅井は小さくない」
父上が評定の面々を見回してそう言うと、進藤山城守から今後どうするのかと問いが出た。父上はすぐには答えず、こちらも田を荒らし、兵を疲れさせている以上、まずは境を固めるとした。野良田で勝ったからと、その勢いのまま小谷まで走ればよいという話ではない。
俺もその判断には頷けた。野良田で父上が無秩序な追撃を止めたのと同じだ。勝った時ほど、どこで止まるかを決めなければならない。だが、そこで後藤但馬守からもう一つ、別の話が出た。
「朽木への褒美はいかがいたしましょう」
父上は一度瞬きをしてから、「そうであったな」と小さく笑った。
「野良田では働かせ過ぎた。何も無しというわけにはいくまい」
「竹若丸殿は要らぬと申しておりましたが」
「それを真に受けて何も出さねば、今度はこちらが笑われる。六角は大功を挙げた者へ礼もせぬとな」
それは俺にも分かった。竹若丸が恩賞そのものより六角との関係改善を求めたことと、六角側が実際に功へ報いることは別の問題だ。大きな働きをさせておきながら、本人が要らないと言ったから何も渡しませんでは、六角家が功をどう扱う家なのかを周囲へ見せることになる。
「何を与えられまする」
後藤但馬守が尋ねると、父上はしばらく考えた後で地図を広げさせ、その指を高島郡の北東で止めた。
「ここをやろう」
「蔵入地を?」
「うむ。一万石ほどであったな」
「凡そ、その程度にございます」
そこなら俺も知っている。高島七頭と浅井の間で争いが起こらないよう、祖父の代から六角の蔵入地として置かれてきた土地だ。高島を朽木がほぼまとめた今でも、そこだけは六角の土地として残り、朽木と浅井が直接領地を接することを防いでいる。
それを竹若丸へ与える。
地図を見たまま考えているうちに、その意味へ気付いた。
「父上。それを朽木へ与えれば、朽木と浅井が直接接しまする」
「そうじゃな」
「……それも狙いでございますか」
後藤但馬守が僅かに笑い、父上もこちらを見て口元を緩めた。
「褒美は褒美じゃ。野良田での働きを見れば、一万石でも少ないくらいであろう」
「それだけではないのでしょう」
「そなたは少しは儂を分かるようになったではないか」
褒美として土地を与える。竹若丸にとっては高島の土地を繋げ、領地を増やせる。六角にとっては大功へ報いたことになる。そしてその上で、朽木と浅井を直接接触させることが出来る。浅井が今後も六角へ敵対し続けるのであれば、北近江では六角だけではなく、朽木とも境を接した状態で動かなければならなくなる。
「朽木を浅井へ向けるためでございますか」
「向くかどうかは竹若丸が決めることじゃ。儂は道を開けるだけよ」
「随分と便利な道にございますな」
「褒美とは、ただ渡せばよいというものではない」
父上は悪びれる様子もなかった。
俺は地図へ視線を戻した。竹若丸がこの意図に気付かないはずはない。それでも一万石の土地そのものに価値があることは確かであり、浅井が敵である以上、朽木側にも新しく接した境を守る必要が生まれる。
「但馬守、そなたが行け。野良田の礼じゃと伝え、一万石を竹若丸殿へ渡してこい」
「承知仕りました」
後藤但馬守が頭を下げる中、俺は父上の狙いを竹若丸がどう受け取るのかを考えていた。
その答えが返ってくるまで、それほど時間は掛からなかった。
*
「竹若丸殿は御受けになられました。有り難く頂戴する、と。ただ、本来なら吉日を選び観音寺城へ御礼に参るべきところ、急ぎの用が出来たため、御礼言上は新年の挨拶と併せたいとのことにございました」
朽木から戻った後藤但馬守の報告を聞き、父上は満足そうに頷きかけたが、「急ぎの用」という言葉に眉を動かした。
「何とは申しておらぬのか」
「そこまでは」
俺もその言葉が引っ掛かった。野良田からまだそれほど日が経っていない。朽木は千もの兵を動かし、浅井別働隊と戦ったばかりだ。高島へ戻れば負傷者の手当ても必要で、兵を休ませ、使った火薬や弾を補い、戦で消費した兵糧も整えなければならない。その竹若丸が、観音寺城へ礼に来ることさえ後へ回すほどの「急ぎの用」とは何なのか。
答えが分かったのは、それから数日後だった。
父上に呼ばれて部屋へ入ると、三雲対馬守がすでに地図を広げていた。俺が座るのを待つこともなく、対馬守は朽木勢が動いたと報告した。
「どこへじゃ」
「北へございます。先日竹若丸殿へお渡しした蔵入地を越え、浅井領へ侵攻しておりまする」
父上の目が細くなった。
「早いな」
俺もまったく同じことを思った。
「最初に田屋城。続いて長法寺館、沢村城。いずれも朽木方に落ちました」
「三つか。いつから動いておる」
「蔵入地を受け取って間もなくにございます」
すぐには言葉が出なかった。父上が浅井へ通じる道を開けた。竹若丸は、その道が開いた途端に走り出したらしい。
「田屋石見守はどうした」
「小谷へ入っております。野良田の敗戦後、浅井家中の混乱を収めるため戻っていたようで、その隙を突かれたものと思われまする」
地図の上で三つの場所を追う。新たに与えられた土地を抜け、そのまま浅井領へ食い込んでいる。浅井側からすれば野良田で主だった者を失い、小谷では新九郎の死後に家をどう立て直すかを決めなければならない。その最中に、守りが薄くなった境から朽木が入ってきたことになる。
「竹若丸め」
父上が小さく笑った。
「儂が浅井へ向けた途端、噛み付きおったか」
「父上が思っていたより早かったのでは」
「否定はせぬ」
後藤但馬守が苦笑したが、三雲対馬守はまだ話を終えていなかった。
「続きがございます。朽木勢はそのまま北へ進み、海津城も落としたとのこと」
「海津まで?」
「はっ。十日も経っておりませぬ」
海津。その場所なら俺もよく知っている。琵琶湖の北西、湖北へ入る要所であり、湊もある。城一つを取ったというだけではなく、湖上を動く人や物にまで影響する場所だった。
地図を眺めているうちに、違和感の正体が形を持った。
「……戦が終わってから考えたのではないな」
俺が呟くと、父上がこちらを見る。
「何がじゃ」
「竹若丸殿です。野良田に勝ってから浅井へ攻め込もうと思い付いたのではないと思いまする。早過ぎます」
地図の上を指で辿りながら説明した。千の兵を野良田へ出し、戦わせ、高島へ戻す。その後に六角から一万石を受け取り、境を越えて浅井方の城を立て続けに三つ落とし、さらに海津まで取る。勝ってから一つずつ考え、兵を揃え、道を調べていたのであれば、これほど早く動けるとは思えない。
野良田で見た朽木勢の姿を思い出した。休ませるべき時には休ませ、敵が来ればすぐに配置へ入り、鉄砲、槍、騎馬が順番に動いた。あの軍勢は、命令を受けてから初めて何をすればいいのか考えているようには見えなかった。必要になった時には、すでに動くための形が出来ていた。
竹若丸自身も同じなのではないか。
「勝った場合にどうするかまで、戦の前から考えていたのやもしれませぬ」
父上はしばらく黙って地図を見た後、こちらへ目だけを向けた。
「こちらが褒美に蔵入地を出すことまでか?」
「そこまでは分かりませぬ。ただ、朽木が浅井と直接領を接する時が来れば何をするか、その程度は考えていたのではないでしょうか」
「なるほどの」
後藤但馬守が腕を組んだ。
「ならば竹若丸殿にとって、某が持って参った一万石は褒美というより、待っていた扉が開いたようなものだったと?」
「可能性はあるかと」
父上が声を上げて笑った。
「だとすれば、儂が道を開けたつもりで、あちらは開くのを待っておったことになるな」
「笑い事でございましょうか」
「笑うしかあるまい。こちらの狙い通り浅井へ向いたのじゃ。不満を申せば贅沢というものよ」
そう言いながらも、父上の目までは笑っていなかった。朽木が浅井へ圧力を掛けること自体は六角にとって悪い話ではなく、むしろ父上が望んだ通りだった。しかし、こちらが想定したより遥かに早く、しかも深く動く相手だという事実は、それとは別の問題だった。
「義治。野良田で何を見たと申した」
「朽木は兵が動くのが早い、と」
「戦場だけではなかったようじゃな」
「……はい」
同じことを俺も考えていた。
六角は野良田から戻り、負傷者を治し、死者を数え、捕虜や恩賞を処理し、浅井がこの先どう出るかを見ていた。その一つ一つは必要なことで、間違っているとは思わない。竹若丸だって、高島へ戻れば同じような処理をしているはずだ。それでも、その処理を進めながら次の一手も同時に動かしている。
「竹若丸は、戦が終わったと思っておらぬな」
父上が地図から目を上げずに言った。
「むしろ今だからこそ動いているのでしょう。浅井は新九郎を失い、久政殿が小谷へ戻ったばかり。家中をまとめるだけでも手が掛かります。田屋石見守まで小谷へ入っていたのであれば、境の守りも薄い。動くなら今ほど良い時はございませぬ」
「では、六角はどうする」
急に問いを向けられ、反射的に答えようとして口を止めた。朽木が動いたから六角も動く。それでは判断の理由が逆になる。こちらにはこちらの兵の疲れがあり、浅井にはまだ残っている力がある。佐和山、小谷、北近江の国人たちが何を考えているのかも確かめなければならない。
「……まずは浅井の動きを、もう一度見まする。久政殿が戻ったことで誰が従い、誰が迷っているのか。野良田でどれほど兵を失い、どこならまだ兵を集められるのか。それを見た上で――」
「遅いぞ」
父上の言葉に口を閉じた。
「見ることは大事じゃ。そなたには何度もそう教えた。だが、相手が動いてからいつまでも見ておれば、見終わった時には欲しいものを全て取られておる。竹若丸を真似て考えずに兵を出せとは言わぬ。考える時間まで戦の内だと覚えておけ」
その言葉は痛かった。野良田では命令が届くまでの時間を見た。朽木はその時間が短かった。しかし、それは兵が命令を受けてから動く速さだけの話ではないのかもしれない。情報を受け取ってから判断するまでの時間、勝った後に次の目標へ移るまでの時間、準備を始めてから実行へ移すまでの時間。その全部が相手との差になる。
父上はすぐに三雲対馬守へ北近江を改めて洗うよう命じた。久政だけではなく国人たちの動き、兵の集まり、城の備え、そして朽木が北へ進んでいることを浅井方の者たちがどう見ているかまで調べろという。続いて後藤但馬守へは、野良田で六角が被った損害をまとめ、もう一度兵を動かすとすればどれほどの日数が必要になるかまで確認するよう指示が飛んだ。
俺はその横で、地図の上に並ぶ名を見ていた。
田屋城、長法寺館、沢村城、海津城。つい先日まで浅井の側にあった場所が、短い間に朽木の側へ変わっている。野良田で浅井新九郎は死んだ。だが、その死によって浅井と六角の争いが終わったわけではない。むしろ一人の当主が消えたことで生まれた空白へ、別の誰かが入り込み、新しい形を作り始めている。
*
その夜、自室へ戻ると、野良田で取った記録をもう一度開いた。兵の数、配置、使番が戻るまでに掛かった時間、朽木の鉄砲隊が動いた順序。戦場で分かる範囲のことを書き残していた帳面の隣へ、三雲対馬守から聞いた朽木の動きを新しく書き加えていく。
野良田から何日。
六角から蔵入地を受け取った日。
その後に田屋城、長法寺館、沢村城、海津城。
順に並べてみれば、やはり異様なほど早い。以前の俺なら、それを「十日足らずで四城」と数字一つへまとめ、それだけで分かったつもりになっていたかもしれない。だが今は、その短い一行の内側で何が必要なのかを多少は想像出来る。
兵を戻す。負傷者を分ける。休ませる。食わせる。武器を整える。使った火薬と弾を補う。進む道を確かめ、城の様子を探り、兵糧を運ばせる。城を一つ取れば、そのまま全員で次へ行くことは出来ず、そこを守る者も残さなければならない。それらを進めながら次の城へ向かう。野良田で見た朽木の兵の動きと同じで、前の仕事が全て終わるまで全員が立ち止まっているのではなく、幾つもの仕事が重なったまま同時に進んでいるのだろう。
小夜へ新九郎の死を伝えた時のことも、自然と頭に浮かんだ。戦は終われば終わりではない。死んだ者を知る人間には、その後も感情が残る。家には跡継ぎの問題が残り、土地には誰が治めるのかという問題が残る。勝った側にも死者と負傷者が残り、その家族が残り、功を立てた者への褒美を決める仕事が残る。そして、その一つ一つを処理している間にも、別の誰かは次に得られるものを見つけ、こちらより先に動き始める。
野良田から戻った日の俺は、どこかで戦が終わったのだと思っていた。新九郎の死を小夜へ伝え、負傷した者を治し、死んだ者の家へ知らせを届け、高野瀬の処分を済ませれば、ようやく今回の戦に区切りが付くのだろうと考えていた。
だが竹若丸は、その間にも次へ動く準備をしていた。
父上から与えられた一万石を受け取ると、その土地を終着点として眺めるのではなく、さらに先へ進むための道として使った。そして浅井が最も動きにくい時を逃さず、そのまま北へ兵を入れた。野良田で俺が本当に驚いたのは、鉄砲を撃つ速さでも、槍を入れる速さでもない。必要になった時にすぐ動けるよう、必要になる前から形が作られていたことだった。
それと同じものが、戦場の外にもあるのかもしれない。
俺は帳面の最後へ、朽木が四つの城を取ったという結果だけでなく、それぞれの報告が届いた日も書き込んだ。今後知りたいのは、竹若丸が何日で城を取ったかだけではない。その前に何を準備していたのか、どれだけの兵を城へ残し、どれだけを次へ動かし、その兵をどう食わせ、どこから情報を得ていたのか。
肥田城では、戦う前の準備を知った。野良田では、戦っている最中に人と命令がどう動くのかを見た。そして今度は、勝った後にどれだけ早く次へ移れるかまで含めて戦なのだと、竹若丸から見せられている。
小夜にとって新九郎の死が、その日のうちに終わる出来事ではなかったように、家同士の戦も勝敗が決まった瞬間にすべてが終わるわけではない。
野良田の戦そのものは、確かに終わった。
だが、そこから生まれたものは、まだ動き続けていた。