淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第三十八話「帰らぬ者」

 野良田を発った六角勢の歩みは、来た時よりも明らかに遅かった。勝ち戦なのだから帰路くらいは足取りも軽くなるものだと、どこかで単純に考えていたのかもしれない。だが、後方へ長く伸びる隊列を眺めれば、戦へ向かう時と戦を終えた後では、同じ軍勢でも運んでいるものが違うことが分かる。傷を負って自力では歩けなくなった者を乗せた馬があり、二人、四人と人の手を借りなければ動かせない者もいる。浅井方から捕らえた者も連れて帰らなければならず、戦死した者については遺体を持ち帰れなくとも、家へ返すための武具や遺品がまとめられていた。行きには兵と兵糧をどう進ませるかばかりを見ていた道を、帰りには戦ったことで生まれたものまで抱えて戻っている。

 

 馬上から後方を振り返り、思わず行きより遅いなと呟くと、隣を進んでいた弥太郎も隊列へ目を向けた。負傷者を運ぶために途中で休ませる回数が増えており、歩ける者たちも戦の疲れを残している。無理に先を急げば、今度は帰路で動けなくなる者を増やすことになりかねないという。

 

 兵の数そのものも、出陣した時とは違っていた。野良田で死んだ者はもうこの列の中にはおらず、傷を負った者の歩みは遅い。それでも負傷者を置き去りにするわけにはいかず、軍全体の進み方にも影響が出る。戦へ向かう前には、一万を超える人間をどうやって同じ場所へ集め、同じ方向へ進ませるのかばかりを考えていた。だが実際には、戦が終わった後にも負傷者をどう運び、死者の家へ何を返し、捕らえた敵をどう扱うかという仕事が残っている。

 

 肥田城へ向かう前に父上から言われた、生きて戻ることも忘れるなという言葉を、帰路へ入ってから何度も思い出した。戦場から離れれば危険が全て消えるわけではない。傷を負った者を無事に帰すためにも人手が要り、道中の食事も休息も必要になる。無傷で歩ける兵だけを数えて帰ればよいのであれば、これほど時間は掛からなかっただろう。

 

 ただ、その言葉が頭に浮かぶたび、新九郎の顔まで現れた。

 

 俺も弥太郎も帰る。平井加賀守も無事で、父上も六人衆も生きている。出陣前に小夜から見送られた者たちは、少なくとも俺の知る限り全員が観音寺城へ戻ることが出来る。それなのに、小夜が新九郎様と呼んだ男だけは、もう何処へも帰らない。六角の軍勢が観音寺へ戻っていく道と、新九郎が二度と戻ることのない小谷への道が、頭の中で何度も並んでは離れた。

 

 しばらく黙って進んでいると、弥太郎の方から小夜へ何と伝えるのか決めたかと尋ねられた。まだ決めていないと答えると、少し意外そうな顔をされたが、弥太郎自身も何を言えばよいのか分からないらしい。二人で伝えると決めたものの、その場へ行けば適切な言葉が浮かぶというわけでもなかった。

 

「こういう時に正しい言葉があるなら、こちらこそ教えてほしいくらいじゃ」

 

 そう言うと、弥太郎は返事に困ったように前へ目を戻した。

 

 慰めればよいのか。悲しめと言えばよいのか。新九郎から酷い扱いを受けたのだから、もう忘れてしまえと言えばよいのか。考えれば考えるほど、どれも違うように思えた。以前の俺なら、相手が少しでも楽になれるような言葉を探しただろう。そして小夜が小谷へ嫁ぐ時に必ず幸せになるのだぞと言った時と同じように、自分では励ましたつもりの言葉を、知らないうちに相手へ背負わせていたかもしれない。

 

 今は、何かを決めてやろうとは思わなかった。

 

 新九郎が死んだ。その事実をまず伝える。それを聞いて悲しむのか、怒るのか、何も分からなくなるのかは、小夜自身が感じることだ。俺が先回りして、その感情へ名前を付ける必要はない。あの婚姻が小夜にとってどのようなものだったのかさえ、全てを知っているわけではないのだから。

 

 分からないまま会いに行くことが頼りなく思えないわけではなかったが、分かったふりをして言葉を掛けるよりはよい。そのことだけは、以前より少し理解出来るようになっていた。

 

 *

 

 観音寺城が見えるところまで戻ると、道の両側に人の姿が増え始めた。六角が勝ったという知らせは軍勢より先に届いていたらしく、城下へ近付くほど出迎える者たちの声が大きくなる。家族の姿を見つけて名前を呼ぶ者もいれば、六角の旗へ向かって深く頭を下げる者もいる。出陣した時には不安を隠せない顔で見送っていた人々が、今は安堵した顔で迎えていた。

 

 その姿を見れば、勝ったことを喜ぶのは当然なのだとも思えた。六角が野良田で敗れていれば、次に戦場となるのはもっと南だったかもしれない。ここで暮らしている者たちにとって、俺たちが勝って戻ってきたという事実は、自分たちの日常がまだ守られているということでもある。

 

 兵たちの表情にも、城が近付くにつれて少しずつ笑みが戻っていた。自分の家が近いことに気付き、隣の者と話し始める者もいる。俺だって観音寺城の石垣を目にした時には、胸の奥から安堵が湧いた。肥田城から戻った時にも感じたことだが、見慣れた城をもう一度目に出来るというのは、戦へ行く前に考えていた以上に嬉しいものだった。

 

 それでも周囲と同じように声を上げて喜ぶ気にはなれず、城門を潜る時には、出陣の日にそこへ立っていた小夜の姿を無意識に探していた。

 

 当然ながら、見つからなかった。

 

 今日は軍勢そのものが戻ってくる日であり、見物する者も家族を待つ者も多い。城門の周囲は出陣時以上の人で埋まっていた。ようやく外へ出られるようになってきたとはいえ、まだ人の目を気にしていた小夜が、わざわざこの中へ出てくる必要はない。おそらく平井の屋敷で、父と兄が戻ってくるのを待っているのだろう。そう理解しても、城門を過ぎるまで何度か人混みの中へ目を向けてしまった。

 

 城へ戻ったからといって、すぐに自由になるわけでもなかった。父上への報告があり、俺の側に付けられていた兵についても、戦死者や負傷者を改めて確認しなければならない。傷を負った者を何処へ置き、誰に診せるのか。死んだ者の家へは誰が知らせを届けるのか。持ち帰った武具や捕虜をどう扱うのか。戦場から離れれば戦が終わるというものではなく、むしろ戻ってきたからこそ始められる仕事も多かった。

 

 肥田城で最初の死者を見た時、俺はその名だけでも覚えておきたいと思った。野良田では、名を確かめるべき者が遥かに増えた。全員の顔を知っているわけではないし、死んだ者を一人ずつ思い出すことも出来ない。それでも、どの家から何人が出て、そのうち何人が帰ってこなかったのかを曖昧にしてよい理由にはならなかった。

 

 それらが一段落したところで、俺は父上の部屋へ向かった。机の上には戦後処理に関する書状が積まれており、父上もその一つへ目を通していたが、小夜のところへ行きたいと伝えると、手を止めてこちらを見た。

 

「新九郎のことか」

 

「はい。弥太郎とも話しました。二人で伝えようと思っておりまする」

 

 父上は少し考えるように俺を見てから、兄である弥太郎一人ではいけないのかと尋ねた。兄として知らせるだけなら弥太郎でもよい。しかし俺も新九郎を幼い頃から知っているし、何より出陣の日、小夜から新九郎と戦うのかと聞かれ、それに答えたのは俺だった。そのことを説明すると、父上は手にしていた書状を脇へ置いた。

 

「なら行ってこい。ただし四郎、何を思うべきかまで、そなたが小夜へ教えるでないぞ」

 

 一瞬、返事が遅れた。

 

 父上は、慰めたいと思うこと自体は構わないが、悲しめとも忘れろとも言うなと続けた。新九郎を恨んでいるかもしれない。それでも死んだと聞けば悲しいかもしれない。あるいは何を感じているのか、自分でも分からないかもしれない。それは小夜自身のものであって、周囲が正しい形を決めるものではないという。

 

 城門で必ず幸せになるのだぞと声を掛けた日のことが、すぐに浮かんだ。

 

 あの言葉も、俺は善意で言った。小夜が小谷で上手く暮らしていけるよう願っただけだった。それでも後になって小夜自身から、俺にそう言われたから上手くやらなければならないと思ったと聞かされた。励ますつもりの言葉が、相手にとっては別の重さを持つことがある。

 

「……承知いたしました」

 

「なら行け。加賀守も待っておろう」

 

 父上の部屋を出ると、廊下で待っていた弥太郎へ声を掛けた。何を言うかはまだ決めていないと改めて伝えると、弥太郎も同じだという。これでは随分頼りない二人だと苦笑されたので、そのことだけは小夜に内緒にしておこうと返した。

 

 軽口を交わせる程度には気持ちも落ち着いていたが、それで胸の中の重さが消えるわけではなかった。

 

 *

 

 平井の屋敷へ着くと、加賀守はすでに戻っていた。具足は脱ぎ、普段の衣へ着替えているものの、顔には野良田から持ち帰った疲れがまだ濃く残っている。俺たちを見ると事情を察したらしく、人払いをしてから小さく息を吐いた。

 

「小夜には、まだ新九郎殿のことは申しておりませぬ。戦に勝ったこと、我らが無事であることは知っております。新九郎殿については某から申そうとも思いましたが、弥太郎より、若様も御一緒に話されるおつもりだと聞きましたので」

 

 待たせたことを詫びると、加賀守はかえって娘のために気を配ってくれたことへの礼を述べた。だが、まだ俺は何もしていない。それに新九郎は、俺自身にとっても知らない相手ではなかった。

 

 娘を嫁がせ、僅か四月ほどで送り返された父親として、加賀守にも新九郎へ向ける感情はいくらでもあるはずだった。その後に浅井は六角へ背き、今度は戦場で新九郎自身が討たれた。父として何を思っているのか聞きたい気持ちはあったが、それを今ここで尋ねるのは違うように思えた。

 

 加賀守が人をやり、しばらくして襖が開いた。

 

 入ってきた小夜は、俺と弥太郎の姿を見ると、ほんの少し表情を明るくした。

 

「若様。兄上。お帰りなさいませ」

 

「ああ。ただいま」

 

 弥太郎も無事に戻ったことを告げると、小夜は小さく笑った。兄だけではなく、俺まで無事にここへ来たことを見て安心したのだろう。その笑みを見た途端、これから伝えなければならないことが、さっきまでよりも重く感じられた。

 

 戦へ出る朝、小夜は俺たちへ無事に戻ってほしいと言った。その願いは叶った。それを喜んでいる相手へ、同じ戦で一人だけ戻らなかった男のことを伝えなければならない。

 

 俺と弥太郎がいつものように話を続けないことに、小夜はすぐ気付いたらしい。笑みがゆっくり薄れ、二人の顔を交互に見る。

 

「……何か、ございましたか」

 

 弥太郎が僅かに身体を動かした。俺も口を開こうとして、何を前置きにすればよいのか一瞬迷った。だが、どのような言葉を付け加えても事実そのものが変わるわけではない。結局、余計な説明はしなかった。

 

「小夜。新九郎は、野良田で討たれた」

 

 小夜の表情が止まった。

 

 泣き出すことも、声を上げることもなく、ただこちらを見たまま動かない。今聞いた言葉の意味を、自分の中へ入れようとしているように見えた。やがて小さな声で、本当に亡くなったのかと確かめられたので、首実検も済んでおり間違いないと答えた。

 

 小夜はもう一度小さく返事をして、視線を膝へ落とした。加賀守も弥太郎も何も言わず、俺も父上に言われたことを思い出しながら待った。慰める言葉を急いで差し込むことは簡単だが、それは俺がこの沈黙に耐えられないからすることであって、小夜のためとは限らない。

 

 どれほど経ったのか、小夜がゆっくり息を吐いた。

 

「不思議でございます。自分が悲しいのか、よく分かりませぬ」

 

 俺が黙って続きを待つと、小夜は袖の端へ目を落としたまま、新九郎と共に過ごしたのはほんの四月ほどだったこと、婚姻の日に触れるなと言われ、その後もまともに話すことさえほとんどなかったことを少しずつ口にした。

 

 優しくされた思い出が幾つもあるわけではなく、平井へ戻された後には、なぜ自分ではいけなかったのかと何度も考え、新九郎を恨んだことさえある。それなのに、もう二度と会うことがないと聞けば、胸の中へ何か穴が空いたようにも感じる一方で、何も変わらないようにも思えるという。

 

「もっと腹が立つものだと思っておりました。あれほど傷付けられたのだから、亡くなったと聞いても何も思わぬのかと……ですが、今は自分でも、何を思っているのか分かりませぬ」

 

 小夜は自分の感情へ何とか名前を付けようとしていた。だが、悲しい、憎い、寂しいという一つの言葉へ押し込めることが出来ないらしい。その姿を見ていると、むしろそれが自然なのではないかと思えた。

 

「分からなくてもよいのではないか」

 

 そう言うと、小夜が顔を上げた。

 

「そうじゃな……」

 

 口を開きかけ、少し考えて言葉を選び直した。

 

「新九郎が死んだと聞いた時、悲しかった。だが同時に、竹若丸殿が新九郎を止めなければ、父上やこちらが危なかったとも思った。どちらが本当なのかと聞かれれば、どちらも本当じゃ。ならば、お主が一つに決められぬことも、おかしくはあるまい」

 

 小夜はしばらくこちらを見ていたが、やがて小さく頷いた。それから、新九郎が死んだことを本当に悲しいと思うのかと尋ねてきた。

 

「悲しい。敵になったからといって、昔まで無くなるわけではない。観音寺で猿夜叉丸と呼ばれておった頃も、小谷へ帰るのが怖いと話しておった時も、覚えておる。戦場では浅井の当主として敵だった。それと、昔から知っていた新九郎であることは別じゃ」

 

 小夜の目が少し揺れた。

 

 新九郎をどう思うか、今日決める必要はないとも伝えた。悲しさがあってもよいし、怒りが残っていてもよい。何も分からないのなら、今はそのままでも構わない。小夜の思いを俺たちが代わりに決めることは出来ないのだから。

 

 すると小夜は、今度は新九郎を誰が討ったのかと尋ねてきた。

 

「朽木勢じゃ。新九郎は一千ほどを率いて父上の本陣へ回り込んできた。竹若丸殿の兵がそれを受け止め、その戦いの中で討たれた」

 

「……竹若丸様の兵にございますか」

 

「ああ」

 

 竹若丸自身が刀を振るい、新九郎の首を取ったわけではない。そのことだけは誤解させたくなかったため、出来るだけ事実に沿って話した。

 

 小夜は竹若丸の名を一度だけ口にして黙り込んだ。やがて、朽木勢が止めなければ父や兄は危なかったのかと、慎重に言葉を選びながら聞いてきた。可能性はあったと答えると、今度は俺も危なかったのかと尋ねられた。俺も父上の近くにいたのだから、浅井勢が本陣へ入っていれば無事だったとは限らない。

 

 それを聞いた小夜は再び目を伏せた。

 

 新九郎が生きていてほしかったと思えば、その新九郎は自分の父や兄を討つために本陣へ向かっていたことになる。竹若丸の兵が止めたからこそ、父も兄も、そして俺もここへ戻ってきた。どちらか一つだけを選び、片方だけを良かったと思える話ではない。

 

「でしたら……竹若丸様を恨むことは出来ませぬ。新九郎様を討とうと思って、戦へ来られたわけではございませんのでしょう」

 

「そうじゃ。六角から兵を求められ、それに応じて来た。新九郎が本陣へ向かったから止めた。それだけのことじゃ」

 

 小夜は小さく頷いたものの、すぐに何も思わなくなることも出来そうにないと打ち明けた。俺が、それで構わないのだと答えると、少し困ったような笑みを浮かべる。

 

「若様、今日は同じことを何度も仰いますね」

 

「大事なことだからじゃ」

 

「それとも、他に言うことが思いつかないのでは?」

 

 思わず言葉に詰まった。横では弥太郎が顔を伏せているが、僅かに肩が動いている。どう見ても笑っている。

 

「……両方じゃ」

 

 正直に答えると、小夜の笑みが少しだけ深くなった。ほんの短い間だったが、先ほどまで張り詰めていた部屋の空気も僅かに緩んだように思えた。

 

 やがて小夜は、父や兄、そして俺が無事に戻ったことを嬉しいと思っていると話した。ただ、その喜びが新九郎の死を知った今でも消えていないことを、自分では酷いことのように感じているらしい。六角が勝ったということは浅井が負けたということであり、俺たちが生きて帰ったことを喜べば、新九郎の死まで喜んだことになるのではないかという。

 

「それは違う」

 

 思っていたより強い声が出て、小夜が目を瞬いた。

 

「一方が生きて戻ったことを喜べば、もう一方が死んだことまで喜んだことになるなど、そんなわけがあるまい。父上や弥太郎が生きておることは嬉しい。新九郎が死んだことは悲しい。両方あってよいのじゃ」

 

 小夜は少し考えた後、静かに頷いた。そこで俺は、兄が無事に戻ったことまで喜べずにいたら、弥太郎の方が泣いてしまうぞと付け加えた。案の定、弥太郎から抗議が上がったが、泣かないのかと尋ねると、そこは泣くかもしれないと認めてしまったため、小夜が声を立てて笑った。

 

 ほんの短い笑いだったが、新九郎の死を聞いた直後に笑ったからといって、不謹慎だとは少しも思わなかった。悲しい知らせを受けた者が、それからずっと悲しい顔だけをしていなければならないわけではない。それもまた、父上の言った、何を思うかは小夜自身のものだということなのだろう。

 

 帰る前、小夜は俺たちへ頭を下げた。

 

「お伝えくださり、ありがとうございました。兄上お一人から聞くより、御一緒にいてくださって良かったと思います。それと……新九郎様のことは、少し考えさせてくださいませ」

 

「ああ。急いで答えを出すことはない」

 

「はい」

 

 屋敷を出る時、振り返ることはしなかった。

 

 新九郎の死を知ったことで小夜が再び部屋へ閉じ籠もるのではないかという心配はあったが、その不安を理由に後から篠へ様子を探らせるようなこともしたくない。今の小夜を見守るのは、まず加賀守や弥太郎の役目だ。必要なら俺も話を聞けばよく、心配だからといって本人の知らないところから覗き続けるのは違う。

 

 外へ出る頃には、すでに日が傾き始めていた。屋敷から少し離れたところで、思わず疲れたと漏らすと、弥太郎から戦の方が楽だったかと尋ねられた。それは違うと即座に否定したものの、今日の疲れをどう説明すればよいのかは自分でも分からなかった。

 

 身体の疲れなら眠れば少しは軽くなる。だが、誰かの死を別の誰かへ伝え、その思いを聞いた後に残る疲れは、何処を休ませればよいのか見当も付かなかった。

 

 *

 

 数日が経っても、小夜のことはやはり気になっていた。かといって、自分から何度も様子を聞きに行くのも違うと思っていたところへ、弥太郎の方から妹の近況を教えてくれた。食事も取っており、昨日は母親と庭へ出ていたという。新九郎の死を知ってから再び部屋へ閉じ籠もるのではないかと心配していたが、少なくとも以前のように人を避けてばかりいるわけではないらしい。

 

 それを聞いて安堵していると、弥太郎から気になるのであれば自分で確かめればよいのにと笑われた。だが、新九郎の死を伝えた翌日から、元気か、気にしていないかと顔を出し続ければ、かえって小夜に気を遣わせるだろう。そう返すと、弥太郎も確かにその通りだと頷いた。

 

 小夜が新九郎をどう思っているのかは、まだ本人にも分からないのだろう。それでも食事を取り、庭へ出られているのなら、今はそれで十分だった。悲しみが消えたのか、怒りが残っているのか、あるいはそのどちらでもないのか。いずれ小夜自身が話したくなった時に聞けばよい。俺が確かめたいからといって、答えを急がせる必要はなかった。

 

 そして俺の方にも、いつまでも新九郎のことだけを考えている時間はない。野良田で勝った後に処理しなければならないことはいくらでもあった。高野瀬から取り上げた土地をどうするのか、浅井との境をどう固めるのか、戦死した者の家をどう扱い、捕虜をどう処分するのか。兵を出した家々への確認も必要になる。何より、新九郎を討ったからといって浅井そのものが消えたわけではなかった。

 

 そのことを改めて思い知らされたのは、評定の場で三雲対馬守から北近江の報告が上がった時だった。

 

「浅井下野守久政殿、小谷へ戻ったとのことでございます」

 

 父上だけでなく、俺も自然と顔を上げた。

 

 竹生島へ退いていた久政は、野良田の敗戦後、ほとんど間を置かずに小谷へ戻ったらしい。すでに浅井家中でも人を集め始めているという。新九郎が死んだ以上、浅井をまとめ直す者が必要になる。以前は家督を新九郎へ譲った形になっていたとしても、その新九郎が討死したのだから、久政が再び表へ出てきたこと自体は不思議ではなかった。

 

 そこで、父上から以前言われた言葉が頭を過った。

 

 新九郎だけを見るな。久政も、家臣も見ろ。

 

 俺は野良田へ向かう前、浅井の動きを新九郎を中心に考え過ぎていた。前世で知っている浅井長政の姿を今の賢政へ重ね、その周囲へ人が集まっていることばかりを気にしていたのだ。だが、実際には久政も生きており、浅井家中には家臣たちがいる。新九郎が討たれたからといって、彼らが持っている土地や兵まで消えるわけではない。

 

「新九郎を討ったからと申して、浅井が滅んだと思うな。小谷は残っておる。土地も人も残っておる。下野守も生きておる。此度は大きく叩いたが、首一つで家が消えるほど浅井は小さくない」

 

 父上の言葉に、評定の面々が頷いた。

 

 進藤山城守から今後の方針について意見が出ると、父上はまず境を固めることを優先すると答えた。野良田で勝ったからといって、その勢いのまま小谷まで進めばよいという話ではない。こちらも田を荒らし、兵を疲れさせている。勝った兵を休ませ、被った損害を確かめ、次に必要となる兵糧や人馬を整えることも考えなければならなかった。

 

 俺もその判断には頷けた。野良田で父上が無秩序な追撃を止めたのと同じだ。勝った時ほど、どこで止まるかを決めなければならない。新九郎を失った浅井が今後どう動くのかも、まだ分かっていない。久政がどれほど家中をまとめられるのか、浅井の国人たちが引き続き従うのか。それを確かめる前に大軍を動かすことが、必ずしも得になるとは思えなかった。

 

 そこで後藤但馬守から、もう一つ別の話が出た。

 

「御屋形様。朽木への褒美はいかがいたしましょう」

 

 父上は一度瞬きをしてから、そうであったなと小さく笑った。野良田では朽木勢に大きく働いてもらった。本人が恩賞を求めなかったからといって、何もせずに済ませられるものではない。

 

「竹若丸殿は要らぬと申しておりましたが、それを真に受けて何も出さねば、今度はこちらが笑われる。六角は大功を挙げた者へ礼もせぬとな」

 

 その言葉には、俺も異論がなかった。

 

 竹若丸が恩賞そのものより六角との関係改善を求めたことと、六角側が実際に功へ報いることは別の問題だ。大きな働きをさせておきながら、本人が要らないと言ったから渡さないでは、六角が功をどう扱う家なのかを周囲へ示すことになる。朽木だけでなく、此度兵を出した他の家々もその扱いを見ているのだ。

 

 父上はしばらく考えた後、地図を広げさせた。その指が止まったのは、高島郡の北東にある六角の蔵入地だった。

 

「ここをやろう。一万石ほどであったな」

 

「凡そ、その程度にございます」

 

 但馬守が答えるのを聞きながら、俺も地図へ身を寄せた。

 

 そこなら知っている。高島七頭と浅井の間で争いが起こらないよう、祖父の代から六角の蔵入地として置かれてきた土地だ。高島を朽木がほぼまとめた今でも、そこだけは六角の土地として残り、朽木と浅井が直接領地を接することを防いでいた。

 

 それを竹若丸へ与えるという。

 

 土地の広さと位置を確かめているうちに、父上が何を考えているのか分かった。

 

「父上。それを朽木へ与えれば、朽木と浅井が直接接しまする」

 

「そうじゃな」

 

「……それも狙いでございますか」

 

 後藤但馬守が僅かに笑い、父上もこちらを見て口元を緩めた。

 

「褒美は褒美じゃ。野良田での働きを見れば、一万石でも少ないくらいであろう。だが、褒美とはただ渡せばよいというものでもない」

 

 父上が選んだ土地には、二つの意味があった。

 

 竹若丸にとっては、高島で得た領地を広げ、さらに一万石を加えられる。六角にとっては、野良田での大功へ十分な恩賞を与えたことになる。そして、その土地を朽木へ渡すことで、今まで六角の蔵入地が隔てていた朽木と浅井を直接接触させることが出来る。

 

 浅井が今後も六角へ敵対し続けるのであれば、北近江では六角だけでなく、朽木とも境を接した状態で動かなければならなくなる。朽木側にも、その新しい境を守る必要が生まれる。浅井へ圧力を掛けるために六角がわざわざ兵を出さなくとも、竹若丸が自分の領地を守るために動く可能性があるということだ。

 

 もちろん、竹若丸が父上の考えた通りに動くとは限らない。高島の時から、あいつは六角の思惑へただ従う相手ではなかった。

 

「朽木を浅井へ向けるためでございますか」

 

「向くかどうかは竹若丸が決めることじゃ。儂は道を開けるだけよ」

 

「随分と便利な道にございますな」

 

 父上は悪びれる様子もなかった。

 

 俺はもう一度、地図へ視線を落とした。竹若丸がこの意図に気付かないはずはない。それでも一万石の土地そのものに価値があることは確かであり、浅井が敵である以上、朽木側にも新しい境を守る理由が出来る。父上が考えているのは、朽木へ浅井を攻めるよう命じることではない。朽木自身が浅井へ向く利を持つよう、土地の位置を使っているのだろう。

 

 父上は後藤但馬守を使者に立て、野良田での礼として一万石を竹若丸へ渡すよう命じた。但馬守が承知して頭を下げる中、俺は父上の狙いを竹若丸がどう受け取るのかを考えていた。

 

 その答えが返ってくるまで、それほど時間は掛からなかった。

 

 *

 

 朽木から戻った後藤但馬守によれば、竹若丸は一万石の加増を有り難く受け取ったという。ただし、本来なら吉日を選んで観音寺城へ礼に参るべきところ、急ぎの用が出来たため、正式な礼の言上は新年の挨拶と併せたいとのことだった。

 

 父上は報告を聞いて満足そうに頷きかけたものの、急ぎの用という言葉に眉を動かした。何の用なのかは、但馬守にも知らされていないらしい。

 

 俺もその言葉が引っ掛かった。

 

 野良田から、まだそれほど日が経っていない。朽木は千もの兵を動かし、浅井の別働隊と戦ったばかりだ。高島へ戻れば負傷者の手当ても必要で、兵を休ませ、使った火薬や弾を補い、戦で消費した兵糧も整えなければならない。その竹若丸が、観音寺城へ礼に来ることさえ後へ回すほどの急ぎの用とは何なのか。

 

 単に領内で何か問題が起きたのかもしれない。高島をほぼまとめたとはいえ、全てが落ち着いているわけではないだろう。新しく得た土地の引き渡しにも手間は掛かる。それでも、竹若丸がわざわざそのような言い方をしたことが気になった。

 

 答えが分かったのは、それから数日後だった。

 

 父上に呼ばれて部屋へ入ると、三雲対馬守がすでに地図を広げていた。俺が席に着くと、対馬守は朽木勢が動いたと報告した。

 

「先日竹若丸殿へお渡しした蔵入地を越え、浅井領へ侵攻しておりまする」

 

 父上の目が細くなった。

 

「早いな」

 

 俺もまったく同じことを思った。

 

 朽木勢はまず田屋城へ入り、続いて長法寺館、沢村城を落としたという。いずれも六角から新たに領地を受け取って間もなくのことであり、浅井側が十分に守りを整える時間もなかったらしい。

 

「田屋石見守はどうした」

 

「小谷へ入っております。野良田の敗戦後、浅井家中の混乱を収めるため戻っていたようで、その隙を突かれたものと思われまする」

 

 地図の上で三つの場所を追った。

 

 新たに与えられた土地を抜け、そのまま浅井領へ食い込んでいる。浅井側からすれば、野良田で主だった者を失い、小谷では新九郎の死後に家をどう立て直すかを決めなければならない。その最中に、守りが薄くなった境から朽木が入ってきたことになる。

 

 父上は竹若丸の名を小さく口にし、自分が浅井へ向けた途端に噛み付いたかと苦笑した。予想より早かったのではないかと尋ねると、それは否定しなかった。

 

 だが、三雲対馬守の報告はまだ終わっていなかった。

 

「続きがございます。朽木勢はそのまま北へ進み、海津城も落としたとのこと」

 

「海津まで?」

 

 思わず声が出た。

 

「はっ。最初に動いてから十日も経っておりませぬ」

 

 海津。その場所なら俺もよく知っている。琵琶湖の北西、湖北へ入る要所であり、湊もある。城一つを取ったというだけでなく、湖上を動く人や物にまで影響する場所だった。

 

 父上から与えられた蔵入地を越え、田屋城、長法寺館、沢村城、さらに海津城まで押さえた。浅井領へ侵攻したというだけならまだしも、十日足らずで四つの拠点を落とし、湖北へ通じる要所まで得たことになる。

 

 地図を眺めているうちに、違和感の正体が形を持った。

 

「……野良田が終わってから考えたのではないな」

 

 俺が呟くと、父上がこちらを見た。

 

「何がじゃ」

 

「竹若丸殿です。野良田に勝ってから浅井へ攻め込もうと思い付いたのではないと思いまする。あまりに早過ぎます」

 

 野良田で千の兵を動かし、浅井の別働隊と戦わせ、高島へ戻す。その後に六角から一万石を受け取り、境を越えて浅井方の城を立て続けに落とし、さらに海津まで取る。勝ってから一つずつ考え、兵を揃え、道を調べていたのであれば、これほど早く動けるとは思えなかった。

 

 野良田で見た朽木勢の姿を思い出した。

 

 休ませるべき時には休ませ、敵が来ればすぐに配置へ入り、鉄砲、槍、騎馬が順番に動いた。あの軍勢は、命令を受けてから初めて何をすればよいのか考えているようには見えなかった。必要になった時には、すでに動くための形が出来ていた。

 

 竹若丸自身も同じなのではないか。

 

「勝った場合にどうするかまで、戦の前から考えていたのやもしれませぬ」

 

 父上はしばらく地図を見ていたが、やがて六角が褒美として蔵入地を出すことまで考えていたのかと尋ねた。

 

 そこまでは分からない。六角がどのような恩賞を与えるかなど、竹若丸にも決められないことだ。ただ、朽木が浅井と直接領地を接する時が来れば何をするか、その程度の備えはしていたのかもしれない。浅井領の地形や城の位置、守る者の動きについて、以前から調べていた可能性もある。

 

 もちろん、今ある報告だけでその全てを断じることは出来ない。だが、少なくとも蔵入地を受け取ってから初めて浅井の城について調べ始めたとは考えにくかった。

 

 後藤但馬守も腕を組み、そうであれば自分が運んだ一万石は、竹若丸にとって待っていた扉が開いたようなものだったのかもしれないと口にした。

 

「可能性はあるかと存じまする」

 

 俺が答えると、父上が声を上げて笑った。

 

「だとすれば、儂が道を開けたつもりで、あちらは開くのを待っておったことになるな」

 

 笑って済ませてよい話なのだろうかと思ったが、父上はむしろこちらの狙い通りに朽木が浅井へ向いたのだから、不満を言えば贅沢だという。

 

 そう言いながらも、父上の目までは笑っていなかった。

 

 朽木が浅井へ圧力を掛けること自体は、六角にとって悪い話ではない。むしろ父上が望んだ通りだった。しかし、こちらが想定したより遥かに早く、しかも深く動く相手だという事実は、それとは別の問題だった。

 

 父上もそれを理解していたらしい。俺へ野良田で朽木について何を見たのかと尋ね、兵が動くのが早いと答えると、地図へ目を戻した。

 

「戦場だけではなかったようじゃな」

 

「……はい」

 

 六角は野良田から戻り、負傷者を治し、死者を数え、捕虜や恩賞を処理し、浅井がこの先どう出るかを見ていた。その一つ一つは必要なことで、間違っているとは思わない。竹若丸だって高島へ戻れば同じような処理をしているはずだ。それでも、その仕事を進めながら次の一手も動かしている。

 

「竹若丸は、戦が終わったと思っておらぬな」

 

 父上が地図から目を上げずに言った。

 

「むしろ今だからこそ動いているのでしょう。浅井は新九郎を失い、久政殿が小谷へ戻ったばかり。家中をまとめるだけでも手が掛かります。田屋石見守まで小谷へ入っていたのであれば、境の守りも薄い。動くなら今ほど良い時はございませぬ」

 

「では、六角はどうする」

 

 急に問いを向けられ、反射的に答えようとして口を止めた。

 

 朽木が動いたから六角も動く。それでは判断の理由が逆になる。こちらにはこちらの兵の疲れがあり、浅井にはまだ残っている力がある。佐和山、小谷、北近江の国人たちが何を考えているのかも確かめなければならない。

 

「……まずは浅井の動きを、もう一度確かめまする。久政殿が戻ったことで誰が従い、誰が迷っているのか。野良田でどれほど兵を失い、どこならまだ兵を集められるのか。それを見た上で判断するべきかと」

 

「遅いぞ」

 

 父上の言葉に口を閉じた。

 

「見ることは大事じゃ。そなたには何度もそう教えた。だが、相手が動いてからいつまでも見ておれば、見終わった時には欲しいものを全て取られておる。竹若丸を真似て考えずに兵を出せとは言わぬ。考える時間まで戦の内だと覚えておけ」

 

 その言葉は痛かった。

 

 野良田では、命令が届くまでの時間を見た。朽木はその時間が短かった。しかし、それは兵が命令を受けてから動く速さだけの話ではないのかもしれない。情報を受け取ってから判断するまでの時間、勝った後に次の目標へ移るまでの時間、準備を始めてから実行へ移すまでの時間。その全部が相手との差になる。

 

 確かな情報を待つことには意味がある。だが、必要な情報が揃ってから初めて準備を始めるのであれば、実際に動くまでにはさらに時間が掛かる。竹若丸は、何が起きるか分からないうちから複数の可能性を考え、そのうち一つが現実になればすぐに動けるよう備えていたのかもしれない。

 

 高島の一件でも、俺は勝敗が決まった後に何をするかまで考え切れていなかった。野良田では、浅井がどう動くかを見ながら兵を動かす難しさを知った。今度は、その先にある準備の差を見せられているようだった。

 

 父上はすぐに三雲対馬守へ北近江の様子を改めて洗うよう命じた。久政だけではなく国人たちの動き、兵の集まり、城の備え、そして朽木が北へ進んでいることを浅井方の者たちがどう受け止めているかまで調べろという。続いて後藤但馬守には、野良田で六角が被った損害をまとめ、もう一度兵を動かすとすればどれほどの日数が必要になるかまで確認するよう指示が飛んだ。

 

 単に浅井の動きを待つのではない。次に動く必要が生じた時、六角がどこまで動けるのかを先に確かめておくということなのだろう。

 

 俺はその横で、地図の上に並ぶ名を見ていた。

 

 田屋城、長法寺館、沢村城、海津城。つい先日まで浅井の側にあった場所が、短い間に朽木の側へ変わっている。野良田で浅井新九郎は死んだ。だが、その死によって浅井と六角の争いが終わったわけではない。むしろ一人の当主が消えたことで生まれた空白へ、別の誰かが入り込み、新しい形を作り始めている。

 

 *

 

 その夜、自室へ戻ると、野良田で取った記録をもう一度開いた。兵の数、配置、使番が戻るまでに掛かった時間、朽木の鉄砲隊が動いた順序。戦場で分かる範囲のことを書き残していた帳面の隣へ、三雲対馬守から聞いた朽木の動きを新しく書き加えていく。

 

 野良田から何日が過ぎたのか。六角から蔵入地を受け取ったのはいつか。その後、田屋城、長法寺館、沢村城、海津城が落ちたという報告は、いつ届いたのか。

 

 順に並べてみれば、やはり異様なほど早い。

 

 以前の俺なら、それを十日足らずで四城という数字一つへまとめ、それだけで分かったつもりになっていたかもしれない。だが今は、その短い一行の内側で何が必要なのかを多少は想像出来る。

 

 兵を戻す。負傷者を分ける。休ませる。食わせる。武具を整える。使った火薬と弾を補う。進む道を確かめ、城の様子を探り、兵糧を運ばせる。城を一つ取れば、そのまま全員で次へ行くことは出来ず、そこを守る者も残さなければならない。降った城の者たちをどう扱うか、残した兵へ何を任せるかも決めなければならないだろう。

 

 それらを進めながら、さらに次の城へ向かう。

 

 野良田で見た朽木の兵の動きと同じで、前の仕事が全て終わるまで全員が立ち止まっているのではなく、幾つもの仕事が重なったまま進んでいるのかもしれない。少なくとも、一つの城を落としてから次の城へ向かう準備を始めていたのでは、この日数では済まないように思えた。

 

 小夜へ新九郎の死を伝えた時のことも、自然と頭に浮かんだ。

 

 戦は終われば終わりではない。死んだ者を知る人間には、その後も感情が残る。家には跡継ぎの問題が残り、土地には誰が治めるのかという問題が残る。勝った側にも死者と負傷者が残り、その家族が残り、功を立てた者への褒美を決める仕事が残る。そして、その一つ一つを処理している間にも、別の誰かは次に得られるものを見つけ、こちらより先に動き始める。

 

 野良田から戻った日の俺は、どこかで戦が終わったのだと思っていた。

 

 新九郎の死を小夜へ伝え、負傷した者を治し、死んだ者の家へ知らせを届け、高野瀬の処分を済ませれば、ようやく今回の戦に区切りが付くのだろうと考えていた。その仕事を軽く見ていたわけではない。どれも必要なことであり、誰かがしなければならない仕事だった。

 

 だが竹若丸は、その間にも次へ動く準備をしていた。

 

 父上から与えられた一万石を受け取ると、その土地を終着点として眺めるのではなく、さらに先へ進むための道として使った。そして浅井が最も動きにくい時を逃さず、そのまま北へ兵を入れた。

 

 野良田で驚かされたのは、鉄砲の数そのものより、敵が近付いた時にはすでに撃つための配置が整い、撃ち終われば次の兵が迷わず動いたことだった。必要になってから考え始めたのではなく、備えていたからこそ、あの速さで動けた。

 

 同じことが、戦場の外でも起きているのかもしれない。

 

 竹若丸が六角から蔵入地を受け取ることまで予想していたかは分からない。朽木が浅井へ進むための準備を、実際にいつから始めていたのかも知らない。父上が言った通り、分からないことまで知ったつもりになるべきではないだろう。

 

 それでも、何かが起きてから情報を集め、考え、ようやく準備を始めるのと、起きる前から幾つかの可能性へ備えておくのとでは、動ける時期が違う。その差だけは、今の俺にも理解出来た。

 

 俺は帳面の最後へ、朽木が四つの城を取ったという結果だけでなく、それぞれの報告が届いた日も書き込んだ。今後知りたいのは、竹若丸が何日で城を取ったかだけではない。その前に何を準備していたのか。どれだけの兵を城へ残し、どれだけを次へ動かし、その兵をどう食わせ、何処から情報を得ていたのか。

 

 もちろん、それを全て知ることは難しいだろう。朽木にも隠しておきたいことはあるはずだし、六角へ都合よく内情を教えてくれるとも思えない。ただ、結果だけを眺めて感心しているのでは、いつまでも同じところを見落とすことになる。

 

 肥田城では、戦う前の準備を知った。野良田では、戦っている最中に人と命令がどう動くのかを見た。そして今度は、勝った後にどれだけ早く次へ移れるかまで含めて戦なのだと、竹若丸から見せられている。

 

 小夜にとって新九郎の死が、その日のうちに終わる出来事ではなかったように、家同士の戦も勝敗が決まった瞬間に全てが終わるわけではない。

 

 野良田の戦そのものは、確かに終わった。六角は勝ち、浅井は敗れ、新九郎は死んだ。その事実は変わらない。

 

 だが浅井には久政が戻り、朽木は北へ進み、父上は次に兵を動かすための備えを始めている。戦場で決まった勝敗を受けて、それぞれの家が次の判断を下し始めていた。

 

 俺は書き終えた帳面を閉じる前に、もう一度日付を追った。どの報告も、野良田で勝ったという知らせからそれほど間を置かずに届いている。こちらが戦後の仕事を終えるのを待ってくれる相手など、初めからいなかったのだ。

 

 野良田の戦は終わった。

 

 だが、そこから生まれたものは、まだ動き続けていた。

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