それから俺は、以前にも増して評定へ顔を出すようになった。もちろん、父から言われた通り口を挟むことはしない。ただ末席に座り、大人たちが話していることを聞く。それだけだ。最初の頃は分からないことばかりだった。地名が出てもそれが近江のどこにあるのか分からず、人の名を聞いてもどの家の者なのか分からない。それでも何度も聞いているうちに、少しずつ頭の中で繋がるようになってきた。前世で教師をしていた頃、生徒の名前や成績、苦手な単元、進路希望まで何十人分も覚えていたせいか、物事を関連付けて記憶することには慣れている。完全に忘れないわけではないし、前世で読んだ歴史書や小説の一字一句まで覚えているわけでもない。それでも、一度意味を持って頭に入った名前は比較的忘れにくかった。
蒲生、後藤、進藤、三雲、目賀田、平井。最初はただの名前だったものに、少しずつ顔が付いていく。誰がよく発言するのか。誰の言葉なら父が黙って聞くのか。意見が割れた時、誰と誰が同じ側に立つことが多いのか。土地についても同じだった。観音寺城を中心に、どちらへ行けば何があり、その先に誰の領地があるのか。北へ行けば浅井がいて、東には美濃があり、西には琵琶湖が広がっている。前世で地図を眺めて知っていた近江と、自分が暮らしている近江とが、ようやく同じものとして頭の中で重なり始めていた。
ある日の評定が終わった後、いつものように立ち上がろうとすると、父に呼び止められた。
「亀松丸」
「はい」
「少し残れ」
また何かやっただろうか。一瞬そんな考えが浮かんだが、今回は覗き見をしていたわけではない。父から許しを得て座っていたのだから、叱られる理由はないはずだ。家臣たちが退出するのを待ち、父の前へ移動する。千代丸も付いてこようとしたが、父が「千代丸は外で待て」と言ったので、俺だけが残った。
「近頃は随分と熱心じゃな」
「評定のことでございますか?」
「それ以外に何がある。初めの頃は退屈そうな顔をしておったというのに、今では儂より真剣な顔で聞いておる時がある」
「そのような顔をしておりましたか?」
「しておった」
父が僅かに笑う。どうやら叱られるわけではないらしい。
「どれほど分かるようになった?」
「まだ分からぬことの方が多うございます。ただ、以前よりは人の名や土地の名が分かるようになりました」
「ほう」
「浅井が北にいて、六角に従っております。蒲生や後藤、進藤、三雲、目賀田、平井といった者たちが父上を支えております。それと……寺も随分と力を持っております」
最後の一言に、父の眉が僅かに動いた。
「誰かに教わったか?」
「評定で何度も寺の名が出てまいりますので。力がなければ、あれほど皆で話す必要はないと思いました」
父が黙った。何かまずいことを言ったかと思ったが、やがて小さく笑う。
「なるほど。よく見ておる」
褒められたことより、その言葉に少し安堵した。中身が大人だからといって、あまりに知り過ぎていると思われるのは避けたい。だが、聞いたことから考えるくらいなら、不自然ではないだろう。
「では亀松丸。そなたには今の六角がどう見える?」
「六角が、でございますか?」
「うむ。強いと思うか。弱いと思うか」
思いがけない問いだった。すぐに答えようとして、止める。俺の頭に最初に浮かんだのは「いずれ織田信長に敗れる家」という答えだった。だが、それは未来の六角だ。父が聞いているのは今の六角がどう見えるかということだろう。
「……大きゅうございます」
父が一瞬きょとんとした顔をして、それから声を上げて笑った。
「強いか弱いかと聞いたのに、大きいと答えるか」
「強いか弱いかは、まだ私には分かりませぬ。ですが、浅井から人を預かり、多くの者が父上に従い、評定には毎回のように色々な土地の話が出てまいります。ですから、大きいと思いました」
「なるほどな」
父はまだ少し笑っていたが、馬鹿にしている様子ではなかった。
「ならば覚えておけ。家が大きければ、それだけ多くの者を従えねばならぬ。多くの者を従えれば、それだけ考えの違う者も増える。大きいということは、強いということと同じではない」
その言葉は妙に胸に残った。
「父上でも、皆を思うようには出来ぬのでございますか?」
「出来ぬ」
即答だった。
「皆が儂の言うことだけを聞くのであれば、評定など要らぬ。家臣には家臣の家があり、領地があり、一族がおる。寺には寺の都合があり、商人には商人の都合がある。浅井にも浅井の思惑がある。従っておるからといって、心まで儂のものになったわけではない」
なるほど。浅井から人質を取っているからといって、浅井が永遠に六角へ従うわけではない。それは俺も未来を知っているから分かる。そして六角家臣についても同じなのだろう。今は父に従っている後藤や進藤たちが、何があっても六角に従い続ける保証などない。
「難しいのでございますね」
「難しいぞ。ゆえに今からよく見ておけ。人を、土地を、家をな。いずれそなたが儂の後に座る時が来る」
「はい」
返事をしながら、少しだけ胸が重くなった。歴史を知っているのだから、失敗する原因だけ取り除けばいい。どこかでそう考えていたのかもしれない。観音寺騒動を起こさない。後藤を殺さない。父と対立しない。織田信長に備える。答えだけを並べれば簡単だ。だが父の話を聞けば、それだけでは足りないことが分かる。六角という家は、父と俺だけで出来ているわけではない。数え切れないほどの人間と、それぞれの事情が絡み合って出来ている。その一つを動かせば、別の何かが動く。前世で数学を教えていた時なら、条件が変われば答えも変わるなど当たり前のことだったのに、自分の人生となると随分都合よく考えていたものだ。
それからの日々は、覚えることの連続だった。評定で耳にした人名や地名を後で千代丸に尋ね、それでも分からなければ周囲の大人たちに聞く。書物があるなら読ませてもらい、数字が出てくれば出来る限り覚えた。この時代の数え方や単位には随分苦労したが、一度規則が分かれば後は早かった。教師をしていた頃から、知らないことを整理して他人に説明出来る形へ変えるのは得意だった。今は説明する相手こそいないものの、頭の中で「これは何か」「何と関係しているか」と分類していけば、ばらばらだった情報が少しずつ一つの形になっていく。
千代丸との関係も変わった。最初の頃のように俺が立つたび慌てて立ち上がることはなくなり、二人だけの時なら多少は遠慮のない言葉も返ってくるようになった。平井家のことも聞いた。小夜のことも何度か話題に出た。浅井の御方様や猿夜叉丸についても、千代丸が父の手伝いへ行くたびに少しずつ話を聞いた。猿夜叉丸が後の浅井長政であることを知っている俺にとっては気になる存在だったが、こちらから会いたいとは言わなかった。いずれ嫌でも関わることになるかもしれない。今は六角のことを知る方が先だ。
季節が巡った。
それまで意味の分からない音にしか聞こえなかった評定の言葉が、少しずつ話として理解出来るようになった。誰かが領地の話をすれば、おおよその場所が浮かぶ。家臣の名が出れば、その顔や家柄が思い出せる。以前聞いた話と食い違うことがあれば、それにも気付けるようになった。全てを一度聞いただけで覚えられるほど便利な頭ではない。それでも教師だった頃から人の名前や話した内容を覚えるのは得意だったし、同じことを何度も耳にすれば自然と定着する。そうして一つ覚えるたび、六角という家は「未来に滅びる戦国大名」ではなく、俺が今生きている場所へと変わっていった。
さらに季節が巡った。
気が付けば、千代丸が俺の側に付いてから二年近い時が流れていた。
その日の評定は、いつもとは少し違っていた。俺が部屋へ入った時から、何人かの顔が険しい。何かあったのだろうと思っていると、ほどなく一人の使者が通され、父の前で平伏した。
「申し上げます。知らせが入りましてございます」
「申せ」
「朽木宮内少輔晴綱殿、戦にて討死なされたとの由」
部屋の空気が変わった。
俺は黙ったまま、今聞いた名前を頭の中で繰り返した。
朽木晴綱。
知っている名前だった。
どこで知った?
歴史か。それとも――。
「跡はどうなる」
父の問いに、使者が答える。
「嫡男の竹若丸殿が継がれるものと」
竹若丸。
その名を聞いた瞬間、今度ははっきりと記憶が動いた。
竹若丸。朽木竹若丸。
前世で読んだ『淡海乃海』の主人公、朽木基綱の幼名だ。
思わず息を止めた。だが、すぐに自分を抑える。待て。竹若丸という幼名だけなら珍しくない。朽木晴綱の嫡男が竹若丸と呼ばれていたことも、史実として存在する可能性がある。平井定武がいて、弥太郎がいて、小夜がいる。それと同じだ。俺が知っている人物が歴史上に実在していたのなら、名前が一致するのは何もおかしくない。
ただ、小夜のことが頭を過った。
淡海乃海であれば平井小夜は後に朽木基綱の妻になる女。だが、史実であれば浅井長政の正妻になり、すぐに離縁され平井に戻ってくる。その後の彼女の行方は知らない。
そして今、朽木晴綱が死に、その嫡男である竹若丸が朽木家を継ごうとしている。
条件が、また一つ増えた。
「竹若丸はいくつになる?」
父が尋ねた。
使者が答える。その年齢を聞いて、俺はさらに記憶を探った。前世で読んだ『淡海乃海』の始まり。父を失った幼い竹若丸が、朽木家の当主となる。細部まで全て覚えているわけではない。だが、物語の始まりに近い部分だけに、記憶には比較的強く残っていた。
似ている。
いや、今のところはまだ、同じ人物が同じ時期に家督を継いだというだけだ。
それだけなら、史実と一致しているだけかもしれない。
評定が終わった後も、朽木という名前が頭から離れなかった。部屋へ戻る途中、千代丸が何度かこちらを見ていたが、俺から話すことはなかった。自室へ戻ってから、覚えていることを一つずつ整理する。
平井定武がいる。その嫡男が、いずれ弥太郎高明となる千代丸。妹は小夜で、彼女は史実で浅井長政の妻となる。
だが、朽木晴綱が戦で死に、幼い竹若丸が跡を継いだ。
ここまでは、まだいい。
問題はこれからだ。
俺が読んだ『淡海乃海』では、父を失った竹若丸はただ守られるだけの幼い当主ではなかった。中身は大人であり、前世の知識を持つ転生者だった。幼い身体で周囲を観察し、朽木という小さな家を生き残らせるために動き始める。
ならば、これから朽木で何が起こるかを見ればいい。
史実の朽木竹若丸として普通に成長するのか。それとも俺が読んだ物語と同じように、幼児とは思えない動きを始めるのか。
そこまで考えたところで、襖の外から千代丸の声がした。
「若様」
「どうした?」
「先ほどより、随分と難しいお顔をされております」
「そうか?」
「はい」
思わず自分の頬に触れる。そんなに顔に出ていたらしい。
「朽木のことを考えておられたのでございますか?」
一瞬、返事に詰まった。
「……何故そう思う?」
「晴綱殿の討死が伝えられてから、ずっとそのようなお顔をされておりますので」
よく見ている。二年近く一緒にいれば、さすがにこちらの変化にも気付くようになるらしい。
「少し気になっただけだ」
「朽木が、でございますか?」
「ああ」
「何故にございます?」
そう尋ねられても、本当のことを言えるはずがない。
「幼い者が父を亡くして家を継ぐというのは、どのようなものなのかと思ってな」
嘘ではない。俺には父がいる。前世にはいなかった父だ。今ではその存在が当たり前になりつつある。もし突然いなくなり、明日から六角を背負えと言われたらどうなるか。中身が大人の俺ですら恐ろしい。それを幼い竹若丸が背負うのだ。
「大変だと思います」
「そうだな」
千代丸が素直に答える。
俺も頷いた。
ただし、その竹若丸が俺の知っている竹若丸なら――話は全く違ってくる。
まだ決めつけるな。
条件は揃い始めている。だが、まだ証明には足りない。
ならば、見ればいい。
朽木を見る。竹若丸がこれから何をするのかを知る。そして俺の記憶と照らし合わせる。
数学なら、仮説を立てた後に必要なのは検証だ。
この世界がただの戦国時代なのか。それとも俺がかつて読んだ『淡海乃海』の世界なのか。
その答えを握っているのは、おそらく朽木の幼い当主――竹若丸だった。