淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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ようやく原作の主人公の名前がちゃんとだせる。

2026/10/21 文章整理


第三話「朽木の竹若丸」

 それから俺は以前にも増して評定へ顔を出すようになった。もちろん父上から許しを得たからといって、好き勝手に発言してよいわけではない。言い付けられた通り末席に座り、重臣たちの話を聞くだけだ。初めのうちは地名が出ても近江の何処にあるのか分からず、武将の名前を耳にしても、その人物がどのような家の者なのか見当も付かなかった。それでも何度か同じ話を聞くうちに、以前は聞き流していた言葉にも馴染みが出てきた。

 

 前世で教師をしていた頃、生徒の名前や成績、苦手な単元、進路希望などを何十人分も覚えていたことがある。その経験も多少は役立っているのだろう。ただ人の名前を覚えるよりも、顔や出来事と結び付けた方が記憶に残りやすい。評定で発言する者の顔を見ながら話を聞いていると、次に同じ名前が出た時には以前より早く思い出せるようになっていた。

 

 蒲生、後藤、進藤、三雲、目賀田、平井。初めは名前しか知らなかった重臣たちも、何度か顔を合わせるうちにそれぞれの違いが見えてきた。父上から問われる前に意見を述べる者もいれば、ほかの者の話が終わるまで口を開かない者もいる。同じ問題について意見が割れることもあったが、父上が双方の話を聞いたうえで判断を下すと、それ以上は争わずに従っていた。

 

 土地についても少しずつ分かるようになった。観音寺城から北へ向かえば何処へ通じ、その先には誰の所領があるのか。東には美濃があり、西には琵琶湖が広がっている。以前は地名を聞いても頭に浮かぶのは前世で見た地図ばかりだったが、今では城や街道の名前と共に覚えるようになっていた。特に同じ土地を巡って何度も話し合われることがあり、そこには前世の地図だけでは分からない事情があるようだった。

 

 ある日の評定が終わり、いつものように席を立とうとしたところで父上から声を掛けられた。

 

「亀松丸。少し残れ」

 

「はい」

 

 何か粗相をしただろうかと考えたが、今回は勝手に評定を覗いていたわけではない。父上から許しを得て座っていたのだから、叱られるようなことはしていないはずだった。

 

 家臣たちが退出するのを待って父上の前へ移動すると、千代丸も後ろから付いてこようとした。しかし父上が外で待つよう命じたため、千代丸は一礼して部屋を出ていった。

 

「近頃は随分と熱心じゃな」

 

「評定のことでございますか?」

 

「それ以外に何がある。初めの頃は退屈そうな顔をしておったというのに、今では儂より真剣な顔で聞いておる時がある」

 

「そのような顔をしておりましたか?」

 

「しておった」

 

 父上は面白そうに笑った。どうやら叱るために呼び止めたわけではないらしい。

 

「それで、どれほど分かるようになった?」

 

「まだ分からぬことの方が多うございます。ただ以前よりは人の名や土地の名が分かるようになりました」

 

「そうか」

 

「浅井が北にいて、六角に従っております。蒲生や後藤、進藤、三雲、目賀田、平井といった者たちが父上を支えております。それと……寺も随分と力を持っております」

 

 最後の言葉を聞いた父上が僅かに眉を動かした。

 

「誰かに教わったか?」

 

「評定では何度も寺の名が出てまいります。力がなければ、あれほど皆で話し合うこともないと思いました」

 

 父上はすぐには返事をしなかった。幼い子供が口にするには少し余計なことだったかもしれない。俺がその反応を気にしていると、父上はやがて感心したように笑った。

 

「なるほど。よく見ておる」

 

 その様子に安心した。以前から何かと質問しているせいか、多少変わったことを口にしても父上はすぐに咎めようとはしない。むしろ、どうしてそのように考えたのかを尋ねられることが多かった。

 

「では亀松丸。そなたには今の六角がどう見える?」

 

「六角が、でございますか?」

 

「うむ。強いと思うか。弱いと思うか」

 

 思い掛けない問いに俺は返答を迷った。

 

 最初に浮かんだのは、六角家がいずれ織田信長に敗れるという前世で知った歴史だった。しかし父上が尋ねているのは今の六角についてである。浅井が妻子を人質として差し出していることや、評定へ集まる重臣たちの顔を思い浮かべても、簡単に強いとは言い切れなかった。

 

「……大きゅうございます」

 

 父上は一瞬意表を突かれたような顔をしたが、すぐに声を上げて笑った。

 

「強いか弱いかと聞いたのに、大きいと答えるか」

 

「強いか弱いかはまだ分かりませぬ。ですが浅井から人を預かり、多くの者が父上に従っております。評定でも毎回のように色々な土地の話が出てまいります。ですから大きいと思いました」

 

「なるほどな」

 

 父上は笑みを残したまま、近くに置かれていた書付を一枚手に取った。先ほどの評定で使われていたもので、幾つもの土地や人の名が記されているようだった。

 

「ならば、これに書かれている者たちが皆、儂の申す通りに動くと思うか」

 

「……従っているのであれば、動くのではございませぬか?」

 

「そうであれば、どれほど楽なことか」

 

 父上は書付を元の場所へ戻した。

 

「家臣には家臣の所領があり、一族がおる。儂の申すことと家にとって大切なことが食い違えば、容易には頷けぬ者も出よう。浅井とて六角に従っておるが、いつまでも同じ考えでいるとは限らぬ」

 

「父上でも皆を思うようには出来ぬのでございますか?」

 

「出来ぬ。皆が儂の言葉だけを聞くのであれば、評定など要らぬからな」

 

 父上は何でもないことのように答えた。

 

 先ほどの評定でも、ある寺の所領について意見が分かれていた。父上が話を聞いた後も、その場では結論が出なかったように思う。寺社の権利と国人の申し分が食い違っていたらしく、双方の話を改めて確かめることになっていた。

 

 六角の当主である父上が命じれば、それで済むような話ではなかったのだろう。

 

「難しいのでございますね」

 

「難しいぞ。ゆえに今からよく見ておけ。人を、土地を、家をな。いずれそなたが儂の後に座る時が来る」

 

「はい」

 

 俺が返事をすると、父上は満足したように頷いた。

 

 後藤但馬守の顔が頭に浮かんだ。今は父上を支える重臣の一人であり、評定でもほかの者たちと意見を交わしている。その男を史実の義治が殺害することになるとは、目の前にいる父上も考えたことはないだろう。

 

 但馬守を殺さなければ、少なくとも俺の知る観音寺騒動は避けられるはずだ。しかし後藤家にどのような所領があり、ほかの重臣たちとどんな関係にあるのか、今の俺はほとんど知らない。父上の言葉を聞いているうちに、以前から気になっていたことをもう少し確かめてみたくなった。

 

「父上。これからも、分からぬことを尋ねてよろしいでしょうか」

 

「構わぬ。ただし、何もかも儂に聞くでないぞ。加賀守やほかの者たちにも教わるがよい」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 父上はそこで話を終え、待たせていた千代丸を呼ぶよう命じた。まだ確かめたいことはあったが、今は父上にも仕事が残っている。俺は礼を述べて部屋を辞した。

 

 それからの日々は覚えることの連続だった。

 

 評定で知らない人名や地名を耳にすれば、後で千代丸に尋ねる。千代丸にも分からなければ周囲の大人たちに教えてもらった。書物を読ませてもらえる時には目を通し、数字が出てくれば何を表しているのか確かめた。

 

 この時代の数え方や単位には随分と苦労させられた。前世とは異なるものが多く、田畑の広さや米の量について話を聞いても、初めはどの程度のことなのか想像しにくかった。それでも教わったことを実際の土地や品物と結び付けるうちに、以前よりは理解できるようになっていた。時には覚え違いをして笑われることもあったが、幼い俺が間違えたところで誰も気にしなかった。

 

 千代丸との付き合いも初めの頃とは随分変わった。

 

 俺が立ち上がるたびに慌てて腰を上げるようなことはなくなり、二人だけでいる時には多少遠慮のない返事も聞けるようになった。平井家について尋ねれば家での出来事を話してくれることもある。妹の小夜については何度か話題に上り、そのたびに千代丸が兄として苦労しているらしいことが伝わってきた。

 

 浅井の御方様や猿夜叉丸についても、千代丸が父親の手伝いへ出向いた折に様子を聞くことがあった。猿夜叉丸が後の浅井長政であると知っている俺には気になる存在だったが、こちらから会わせてほしいと申し出たことはない。千代丸の話では相変わらず元気に過ごしているらしく、時には世話をする者たちを困らせることもあるという。

 

 そうして季節が移り変わるうちに、評定で交わされる話も以前ほど難しく感じられなくなっていった。誰かが領地について話せばおおよその場所を思い浮かべられる。武将の名が出ればその顔や家柄が分かるようになり、以前に聞いた話との違いに気付くことも増えた。

 

 評定では、父上の言葉に重臣たちがすぐ従うこともあれば、長く話し合った末に結論を持ち越すこともあった。以前なら何故そこで決めないのかと思っただろうが、今では誰が反対しているのか、何を確かめようとしているのかが多少は分かる。それでも父上が最後に下した判断について、理由を理解できないことは少なくなかった。

 

 気が付けば、千代丸が俺の側に付いてから二年近くが経っていた。

 

 その日の評定は、いつもとは少し様子が違っていた。

 

 俺が部屋へ入った時から幾人かの重臣たちが険しい顔をしている。普段なら評定が始まる前に言葉を交わしている者たちも、今日はほとんど話をしていなかった。何か問題でも起きたのだろうかと思いながら末席に座っていると、ほどなく一人の使者が通された。

 

 使者は父上の前まで進み、深く平伏した。

 

「申し上げます。知らせが入りましてございます」

 

「申せ」

 

「朽木宮内少輔晴綱殿、戦にて討死なされたとの由」

 

 重臣たちの間で小さな声が交わされた。

 

 朽木晴綱。

 

 何処かで聞いた名前だった。以前から朽木という家のことは気になっていたが、当主の名まで詳しく覚えていたわけではない。俺が記憶を探っている間にも、父上は使者へ幾つか質問をしていた。

 

「跡はどうなる」

 

「嫡男の竹若丸殿が継がれるものと」

 

 竹若丸。

 

 その名を聞いて、思わず使者の方へ顔を向けた。

 

 朽木竹若丸。前世で読んだ『淡海乃海』の主人公、朽木基綱の幼名だ。

 

 ようやく以前から朽木という名が気になっていた理由が分かった。近江の国人というだけではない。あの物語の主人公が生まれた家だったのだ。

 

 使者の話は続いていたが、俺は竹若丸という名前が頭から離れなかった。父を戦で失い、幼くして朽木家を継ぐ。確か『淡海乃海』の始まりも、そのような出来事だったはずだ。

 

「竹若丸はいくつになる?」

 

 父上が使者へ尋ねた。

 

 伝えられた年齢を聞いて、俺は前世の記憶を探った。最後に読んでから随分と時間が経っているものの、物語の始まりについては比較的印象に残っている。幼い竹若丸が当主となり、周囲の者たちに支えられながら朽木家を治めていく。だが、その竹若丸には前世の記憶があり、見た目どおりの子供ではなかった。

 

 もし、ここにいる竹若丸も同じだったら。

 

 思わず身を乗り出しそうになったが、評定の最中であることを思い出して姿勢を正した。今は宮内少輔が討死し、その嫡男が跡を継ぐという知らせが届いただけだ。竹若丸がどのような子供なのか、使者の話からは何も分からなかった。

 

 それでも、気になる名前が増えたことは確かだった。

 

 千代丸の妹である小夜も、前世で読んだ物語では朽木基綱の妻となる。もっとも俺の知る史実では、浅井長政の正妻となった後に離縁され、平井家へ戻ったはずだ。その後のことまでは詳しく知らないが、物語と史実で歩む道が異なる人物であることは覚えている。

 

 朽木竹若丸も、ただ同じ名前を持つ別の人物なのかもしれない。

 

 その違いを確かめられるだけの情報は、今のところ何もなかった。

 

 評定が終わり、千代丸と共に部屋へ戻る途中も俺は朽木のことを考えていた。千代丸が何度かこちらを見ていたことには気付いていたが、何を話してよいのか分からなかった。

 

 朽木家の幼い当主については、これからも父上のもとへ知らせが届くのだろう。六角が近江に大きな勢力を持つ以上、高島の情勢を知らずにいるとは思えない。竹若丸が家督を継いだ後、誰がその後見を務め、どのように家を治めていくのか。いずれ評定でも話題になるはずだ。

 

 俺が読んだ『淡海乃海』の竹若丸は、幼い身体で周囲の事情を見極めながら朽木家を生き残らせようとしていた。あの物語では、家臣たちとの関係を築き、領内の様子を調べながら少しずつ力を蓄えていくのだが、今ここにいる竹若丸が同じことを始めるとは限らない。

 

 ただ、もし本当に同じ人物なのであれば、いずれ普通の幼い当主とは異なる行動が見られるのではないか。

 

 そこまで考えたところで、襖の向こうから千代丸の声がした。

 

「若様」

 

「どうした?」

 

「先ほどより随分と難しいお顔をされております」

 

「そうか?」

 

「はい」

 

 思わず自分の頬に触れた。考えていることが顔に出ていたらしい。千代丸が側に付くようになってから二年近くが経つのだから、俺の様子が普段と違えば気付くこともあるのだろう。

 

「朽木のことを考えておられたのでございますか?」

 

「……何故そう思う?」

 

「晴綱殿の討死が伝えられてから、ずっとそのようなお顔をされておりますので」

 

 千代丸も評定の最中から俺の様子を見ていたらしい。以前は俺が立ち上がるだけで慌てていた少年が、今ではこちらの表情から何を考えているのか察しようとしている。共に過ごした時間の長さをこんなところでも感じた。

 

「少し気になっただけだ」

 

「朽木が、でございますか?」

 

「ああ」

 

「何故にございます?」

 

 本当のことを話せるはずもなかった。前世で読んだ物語の主人公が、実際にこの世界へ生まれ変わっているかもしれないなどと言っても、千代丸には理解できないだろう。

 

 それでも朽木のことが気になっている理由はほかにもあった。

 

「幼い者が父を亡くして家を継ぐというのは、どのようなものなのかと思ってな」

 

 口にしたのは嘘ではなかった。

 

 今の俺には父上がいる。分からないことがあれば尋ねることもできるし、評定に出れば父上が家臣たちと話し合う様子を見ることもできる。もし父上が突然いなくなり、明日から六角家を継げと言われたらどうなるだろう。

 

 千代丸も少し考えてから口を開いた。

 

「大変だと思います」

 

「そうだな」

 

「某であれば、父がいなくなるなど考えたくもございませぬ」

 

 普段はあまり自分の考えを口にしない千代丸が、そう言って俯いた。加賀守は六角家の重臣であり、戦となれば軍勢を率いる立場にある。千代丸にとっても父親の討死は決して他人事ではないのだろう。

 

「すまぬ。嫌なことを考えさせたな」

 

「いえ、そのようなことはございませぬ」

 

 千代丸は慌てて顔を上げたが、俺はそれ以上朽木の話を続けなかった。

 

 父を失った竹若丸が、今頃どのように過ごしているのかは分からない。まだ幼い当主なのだから、周囲の者たちが支えているはずだが、その中に前世の記憶を持つ者がいるかどうかまでは、ここからでは確かめようがなかった。

 

 もし、あの竹若丸が俺と同じような境遇にあるのなら、一度会ってみたい。

 

 そう思ったものの、今の俺が朽木へ出向きたいと言い出す理由などない。父上に頼んだところで、何故そのようなことを望むのかと尋ねられるだけだろう。

 

 ならば、しばらくは朽木から届く知らせに耳を傾けていればよい。

 

「千代丸。高島のことは、これからも評定で話題になるだろうか」

 

「父から聞いたことではございますが、朽木は御公儀とも縁の深い家にございます。此度のことについては、御屋形様も気になさるのではないでしょうか」

 

「そうか。ならば、いずれまた話を聞けそうだな」

 

 千代丸は頷いたが、俺が何故そこまで朽木を気にしているのかは分からないようだった。それも当然だろう。

 

 ただ、今後の朽木家については注意しておきたかった。

 

 加賀守や小夜、浅井の猿夜叉丸といった名前は、俺が知っている史実にも登場する。しかし竹若丸がこの先どのように家を治めていくかによっては、別の可能性が見えてくるかもしれない。

 

 その後も千代丸と話をしていたが、頭の片隅には朽木のことが残っていた。父を失ったばかりの幼い当主が、これから何を始めるのか。俺が読んだ物語の竹若丸ならば、いつまでも周囲の者たちに任せきりにはしないだろう。

 

 もっとも、それを確かめられるのはまだ先のことだ。今は朽木から次の知らせが届くのを待つしかなかった。

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