淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

40 / 109
三話続けて投稿です。

2026/10/21 文章整理


第三十九話「兵を増やす前に」

 野良田から戻って以来、机の上に置く帳面の数が目に見えて増えた。出陣前に各家から上がってきた兵数、兵糧や荷駄についての報告、戦の最中に書き留めたこと、帰還してから改めて集めさせた死傷者の記録。それだけでも十分に多いというのに、今ではその横に、朽木が北へ兵を進めた日と、田屋城、長法寺館、沢村城、海津城が落ちたという報告まで並んでいる。必要なものを探す度に紙をめくり、別の帳面を引き寄せて確かめるため、何かを調べ始めれば机の上はすぐに書状で埋まった。

 

 一つずつ手に取れば、どれも別の話だった。六角の兵を記した紙と、朽木が城を取ったという報せに、直接同じ数字が書かれているわけではない。それでも日付を追いながら見比べていると、どうしても引っ掛かるものがあった。六角は野良田へ一万を超える兵を出すため、各家へ命を送り、それぞれに兵を揃えさせ、兵糧や荷駄を用意させた。集まる場所を定め、行軍の順序も決め、各家の兵が指定された場所へ来るのを待ってから、一つの軍勢として動き始めた。それだけの人数を動かすのだから時間が掛かるのは当然だし、その考え自体が間違っているとは思わない。

 

 だが朽木は、野良田から兵を戻した後、父上から与えられた土地を受け取ると、ほとんど間を置かず北へ進んだ。田屋、長法寺、沢村、さらに海津まで。報告の日付を指で追ってみても、やはり短い。竹若丸の兵だけが人並み外れて速く歩けるはずはないのだから、六角との差があるとすれば、歩く速さそのものではなく、兵を動かし始めるまでの時間か、行軍中に費やす時間のどこかにあるはずだった。

 

 父上から言われた、見ているだけでは遅れるという言葉は今も頭に残っている。けれど、竹若丸が早いからといって、こちらも何も考えず急いで兵を出せばよいとは思えなかった。理由が分からないまま形だけを真似しても、六角の兵が同じように動く保証などない。それは野良田で嫌というほど見たことでもある。

 

 あの時、本当に驚いたのは鉄砲三百丁という数だけではなかった。浅井の別働隊が父上の本陣へ向かってから慌てて兵を並べたのではなく、誰が撃ち、その後に誰が前へ出るのかまで朽木の兵たちは知っていた。鉄砲を撃った後には別の隊が前へ出て、敵が崩れれば槍兵と騎馬が動く。必要になる前から形があったからこそ、あれほど早く対応出来たのだろう。

 

 北へ進んだ時にも、同じような備えがあったのではないか。

 

 そう考えていたところへ、襖の外から篠の声がした。入るよう告げると、篠に続いて弥七と宗兵衛が姿を見せ、三人揃って俺の前へ座った。こうして同じ部屋へ呼ぶのは随分久しぶりな気がする。もちろん、その間に何もしていなかったわけではない。肥田から野良田へ至る間にも、弥七は街道や人馬の動きを追い、宗兵衛は商人や物資の流れを拾い、篠は村や市で交わされる話や人の様子を見ていた。ただ、俺自身が戦場へ出ていたため、一人ずつ報告を受けることはあっても、三人を同時に集める機会が減っていたのだ。

 

「三人揃って顔を見るのは久しぶりだな」

 

「若様が肥田や野良田へ出ておられましたから。こちらはこちらで働いておりましたよ」

 

 篠がさらりと言うので、何もしていなかったと思って呼んだわけではないと返すと、信用していただけているなら安心だと、何でもない顔で頷かれた。横に控える弥太郎は顔を逸らしていたが、肩が僅かに動いている。笑っているらしい。

 

 相変わらず篠は遠慮があるのか無いのか分からない。以前なら少し腹を立てたかもしれないやり取りにも、今では随分慣れた。三人を呼んだ理由は別にあるので、そこで話を切り上げ、高島から北近江にかけての地図を広げた。

 

「竹若丸殿が、何故これほど早く北へ進めたのかを調べてほしい」

 

 田屋、長法寺、沢村、海津と順に指で辿る。地図の上だけなら僅かな距離に見えるが、実際には兵と荷を伴って進み、城を一つずつ押さえながら抜けた道だ。城を落とせば、その後の守りも考えなければならない。単に兵が速く歩いたというだけでは説明出来ないように思えた。

 

 篠は少し眉を上げ、朽木へ潜るのかと尋ねたが、俺は首を横に振った。城へ忍び込ませ、竹若丸の帳面を盗ませるつもりなどない。朽木には八門という独自の諜報組織がいる。そこへこちらから甲賀者を潜らせれば、何かを得るより先に余計な疑いを持たれるおそれがあるし、何より俺が知りたいのは、朽木が隠している秘密ではなかった。

 

 あれだけの兵が短い間に何度も動いたのであれば、必ずどこかに跡が残る。兵が歩けば道を使い、荷を運べば米や縄、草鞋が動く。長く兵を出せば、その家族や村にも何らかの影響がある。城の奥へ忍び込まなくても、それらなら外から拾えるはずだった。

 

 まず弥七には、朽木から北へ向かう道を実際に確かめてもらうことにした。どこを通り、どこで川を越え、兵や荷駄をどこで休ませたのか。特別な道があるならそれも知りたいが、無ければ無いで構わない。兵だけなら抜けられても、荷駄を連れれば詰まる場所はあるだろう。田屋から海津まで、荷を伴った軍勢がどれほどの日数で動けるのか、その条件を見てほしかった。

 

 宗兵衛へ頼んだのは物の動きだ。米、味噌、塩、草鞋、縄、馬の飼葉、それに分かる範囲で火薬や弾。野良田が終わった後、朽木が急に大量の物を買い集めた形跡があるのか、それとも以前から普段とは違う動きがあったのかを調べてもらう。ただし、正確な量までは求めなかった。商人の話だけで何俵、何荷と数字を揃えようとすれば、かえって曖昧な数を拾ってくることになる。まず知りたいのは、何が増えたかよりも、それがいつ頃から増え始めたかだった。

 

 最後に篠へ顔を向けると、こちらが何も言わないうちに、人を見る役目でしょうと僅かに笑った。弥七に道、宗兵衛に物とくれば、残るのは人だと考えたらしい。

 

 その通りだった。野良田から戻った兵が、すぐ次に出ることをどう受け止めていたのか。朽木領では次の戦について、いつ頃からどのような話が出ていたのか。兵の家族は何を考えていたのか。そして田屋や海津のように主が変わった土地の者が、朽木の兵をどう見ているのか。竹若丸本人の胸中を探るのではなく、その周囲にいる者たちの言葉を拾ってほしかった。

 

 三人への指示を終えたところで、篠が少し考えるように地図へ目を落とした。

 

「竹若丸様の周りを見るのでしたら、若様の御家も見なければ、片方だけになりませぬか」

 

 思わず黙った。

 

 正しい。朽木の兵が何故早く動けるのかを調べても、それだけでは六角との差は分からない。六角が何を持ち、何処で時間を使い、どのような手順で兵を集めているのかまで確かめて、初めて比べられる。自分でもそのつもりだったはずなのに、三人への指示を考えている間に、頭の中が竹若丸ばかりへ向いていたらしい。

 

 弥太郎を見ると、今度は明らかに笑いを堪えていた。六角の方も調べるつもりだったと説明してみたが、篠からは今付け足したように聞こえたと返される。少しは遠慮を覚えろと言えば、俺の側へ置かれてから随分覚えたつもりだというのだから、これ以上やり取りを続けても勝ち目はなさそうだった。

 

「ともかく、朽木の方は三人に頼む。六角の中は弥太郎と調べる。まず野良田で実際に出した兵や物を確かめ、それから足りないところを見る」

 

 弥太郎には、各家が何人の兵を連れてきたのか、弓や鉄砲はどれほどあったのか、馬と荷駄をどれだけ持っていたのかを、手元の記録から調べてもらう。ずっと俺の側にいて、京への供奉も肥田城も野良田も経験しているのだから、篠たちとは違うものを見られるはずだった。

 

 地味な仕事だと弥太郎は少し不満そうだったが、別に忍びの真似をさせるつもりはない。三人が外から情報を拾うのであれば、弥太郎には俺の隣から六角の軍勢を見る役目を担ってもらいたかった。本人は表の目と裏の目などと言っていたが、それでは篠たちが随分怪しげな者に聞こえてしまう。案の定、篠には笑われ、弥七と宗兵衛まで僅かに口元を緩めていた。

 

 以前の俺は、甲賀者と聞けば敵地へ忍び込み、秘密を盗み、時には人を殺す者という印象を強く持っていた。けれど三人と付き合ううち、その考えはかなり変わっている。道を歩く者へ聞けば街道の状態が分かる。商人へ聞けば、何が売れ、何が足りず、どちらへ荷が向かっているのかが見えてくる。村や市で交わされる何気ない言葉から、人々の不安や期待も拾える。それも立派な情報だった。

 

 だからといって、俺に預けられた三人を、三雲対馬守が持つ大きな網と同じものにしようとは思わない。対馬守は六角全体のために広く情報を拾っている。その中で俺の三人には、今疑問に思っている細かなところを、それぞれの得意なやり方で確かめてもらえばよい。

 

「朽木を暴くことが目的ではない。分からぬものは分からぬままでよいし、見えていないものまで見たことにする必要はない」

 

 三人が承知したところで、俺はもう一度地図へ目を落とした。

 

 知りたいことは多い。だが、無理に調べれば相手へ警戒を与えることにもなる。高島の一件で朽木との関係は一度危うくなっており、野良田では竹若丸の兵に助けられたばかりだ。こちらが朽木を探っていると知られれば、せっかく改めた関係へ余計な疑いを生むかもしれない。

 

 三人にもそのことは分かっているらしく、危険を冒してまで城内へ入るつもりはないと答えた。俺はそれを確かめてから下がらせた。

 

 襖が閉まると、それまで僅かに緩んでいた部屋の空気が静かになった。弥太郎が地図を脇へ寄せながら、こちらは何から始めるのかと尋ねてくる。

 

「六角を数える」

 

 そう答えると、弥太郎は少し怪訝そうな顔をした。

 

「竹若丸殿が何故早いのかだけ分かっても仕方がない。まず自分たちが何を持っておるのか、それを知らねば比べようもない」

 

 野良田出陣前に集めた書状を引き寄せる。何百、何千という数字が並び、合わせれば一万を超える。それだけを見れば六角は確かに大きな兵力を持っているし、野良田でもその数が勝利を支えたことは間違いない。

 

 だが戦場を実際に見た後では、一万という数字を以前と同じようには眺められなくなっていた。

 

 *

 

 最初に引っ掛かったのは、書状に書かれた「兵五百」という一行だった。

 

 ある家も五百、別の家も五百。紙の上だけなら全く同じ数だ。ところが中身を確かめようとした途端、その五百が同じものではないことが見えてきた。一方の家には弓が何張あるかまで書かれているのに、もう一方には何もない。鉄砲も何十丁と数が分かる家があれば、鉄砲有りとしか記されていない家がある。さらに、人足を兵数へ含めている家と、戦う者だけを兵として数えているらしい家まであった。

 

「これでは、同じ五百でも中身が違うな」

 

 俺が書状を並べ直すと、弥太郎は五百は五百ではないのかと首を傾げた。そこで槍を持つ者だけで五百いる軍と、槍三百、弓百、鉄砲百という五百を同じように使えるかと尋ねると、すぐに考え直したらしい。さらに、荷を運ぶ人足や馬が十分に揃っている五百と、戦う者は多いが荷を運ぶ力に乏しい五百を比べても、出来ることは違ってくる。

 

 前世で数学を教えていた頃なら、条件の違う数字を同じものとして並べられないことなど当たり前だった。それなのに、こちらへ来て戦国の軍勢を見る時には、六角一万二千、浅井六千といった総数を、それ自体で一つの力のように考えていたらしい。

 

 野良田で六角は一万二千を出した。それは事実だ。だが、その中には先陣があり、第二陣があり、父上の周囲に残された兵もいた。浅井の別働隊が本陣を狙って動いた時、その場ですぐに使えた兵が一万二千だったわけではない。前へ出していた八千をそのまま後陣へ戻すことは出来ず、命令を送ったところですぐに兵が動くとも限らなかった。

 

 数が大きいことには意味がある。それでも、何処に、どのような兵が、どれだけいるのかを知らなければ、その力をどう使えるのかまでは分からない。

 

 もっとも、そう考えたからといって、すぐ各家へ細かな報告を求めるわけにはいかなかった。弥太郎も、各家の鉄砲、弓、馬、兵糧を一つずつ聞いて回るつもりなのかと尋ねてきたが、それを突然始めれば、家中がどう受け取るかは想像出来る。

 

 六角の嫡男が、各家の兵と武具と米を細かく調べ始める。

 

 それだけ聞けば、次の戦で今まで以上の兵を出させるつもりではないか、新しい賦役を掛けるのではないか、家の力を測って何かをしようとしているのではないかと警戒する者もいるだろう。父上からも、人は探られていると思えば隠すし、身構えるものだと何度か言われている。こちらに悪意が無いから、相手も悪く受け取らないとは限らない。

 

「まずは野良田で実際に出したものから見る。それなら、今後に備えて戦の記録を残すという話で済む」

 

 俺がそう言うと、弥太郎も少し考えて頷いた。

 

 何人連れてきたか。弓や鉄砲をどれだけ持っていたか。馬や荷駄がどれほどあったか。すでに一度出した兵と物であれば、改めて記録を残すことにも理由がある。次の戦で同じことを一から確かめずに済ませるためだと説明すれば、家臣たちにも話は通しやすいはずだった。

 

 全部揃えることを最初の目的にはしない。今ある記録で何が分かり、何が分からないのかを知る。それなら家臣の側も、家の中まで覗かれているとは感じにくいだろう。

 

 それから何日か、机の上の紙はさらに増えていった。

 

 兵、弓、鉄砲、騎馬、荷駄、米。それに、出陣の命を受けてから観音寺へ兵が集まるまでに掛かった日数。同じことを尋ねているつもりでも、返ってくる答えは家によって驚くほど違った。米を俵の数で答える者がいる一方で、何日分という答え方をする者もいる。馬についても騎馬だけを書く家があれば、荷駄馬までまとめて数えているところがある。兵数に至っては、従者や人足を含めるかどうかで、同じ家ですら見え方が変わった。

 

 ある日の午後、何枚もの紙を並べていた弥太郎が溜息を吐いた。同じことを聞いているつもりなのに、返ってくる数字の意味が揃わない。俺も手元の書状を見比べながら、これでは並べても比較にならないと感じていた。

 

 皆が嘘をついているわけではない。おそらく、それぞれの家が普段使っている数え方で答えているだけだ。だから余計に厄介だった。どれが正しいのかと聞かれても、答えは一つではない。騎馬だけを馬と数える者にとってその数字は正しいし、荷駄馬まで含める家の数字も、その家にとっては間違っていない。

 

「どれも間違いではない。だから困るのじゃ」

 

 米何俵と言われても、俵の中身まで全て同じとは限らない。兵五百と言われても、その五百に何が含まれているかが違えば、そのまま隣へ並べて大小だけを比べることは出来ない。全ての家へ同じ帳面を書かせるところまで急ぐ必要はないとしても、少なくともこちらから同じ問いを投げなければ、答えを比べられないことだけは分かった。

 

 そこで、まず問いそのものを揃えることにした。

 

 兵が何人いるかではなく、武器を持って戦える者が何人いるのか。馬が何頭いるかではなく、騎馬と荷駄馬を分けて考える。米も俵が幾つあるかだけでなく、それが何人を何日食わせられる量に当たるのかを確かめる。その方が、違うものを同じ数字として扱わずに済む。

 

 弥太郎は、そこまで尋ねれば答える方も大変になると指摘した。その通りだった。全部を一度に聞こうとすれば、記録を作るためだけに各家へ仕事を増やすことになる。だから今ある書状を先に調べ、どうしても分からないところだけ追加で確かめることにした。

 

 自分で口にしながら、何をしたいのかが少しずつ形になっていくのを感じていた。

 

 俺が欲しいのは、綺麗な数字が隙間なく並んだ帳面ではない。次に兵を動かす時、何があるのか分からないという状態を少しでも減らすための記録だ。鉄砲が何丁あるかを知っていれば、いざという時に無いものを前提に考えずに済む。荷駄の少ない家が分かっていれば、そこだけで全体が止まる可能性も先に考えられる。兵を集めるまでに掛かった日数が分かれば、次に命を出す時の見込みも立てやすくなるだろう。

 

 もっとも、この時の俺はまだ、数えれば六角の軍の姿へ近付けると思っていた。その数字自体が季節や人の都合によって動くものだということまでは、十分に理解していなかった。

 

 *

 

 三人の中で最初に戻ってきたのは、弥七だった。

 

 部屋へ入るなり告げられたのは、特別な道は見つからなかったという、少し拍子抜けする答えだった。朽木から北へ出る道も、田屋から海津へ向かう道も、土地の者なら知っている道であり、朽木だけが使える隠し道があったという話は拾えなかったらしい。

 

 ならば何故、あれほど早く進めたのか。

 

「兵が、迷っておりませぬ」

 

 弥七の答えに、思わず顔を上げた。

 

 詳しく聞けば、兵が道を探しながら進んだ様子がほとんど見られなかったという。どこで川を渡るか、荷駄を何処へ通すか、どの辺りで兵を休ませるか。そうしたことを動き始めてから一つずつ決めたようには見えず、土地の者からも、朽木勢が来るより先に道を確かめていた者がいたという話を聞いたらしい。

 

 その時期については、野良田より前だったという話もあった。ただし、誰が何の目的で調べていたのかまでは確かめられていない。軍勢が通るためだったのか、商いのためだったのか、それとも他の用事だったのか。そこまで分からない以上、北進の準備をしていた証拠だと決めつけることは出来なかった。

 

 俺がその点を確認すると、弥七も承知していると頷いた。

 

 続いて弥七は地図へ幾つか印を置いていった。川を渡ったと思われる場所、荷を置いたという場所、兵が休んだという村。道に沿って距離を追うと、確かに人間離れした速さで歩かなければ届かないようなものではなかった。荷を伴った軍勢でも、順調に進めば十分に辿り着ける距離だという。

 

 ただし、途中で道を聞き、間違え、荷駄が通れずに引き返し、休む場所を探すような時間がほとんど見えない。外から拾った話だけで行軍の全てを把握出来るわけではないし、実際には小さな遅れや問題もあっただろう。それでも、軍勢の足を大きく止めるような混乱が続いていたという話は見つからなかった。

 

「兵が速く歩いたというより、止まらなかったのか」

 

「某には、そう見えまする」

 

 弥七の答えを聞きながら、地図の上に置かれた印をもう一度見直した。

 

 軍勢の移動には、歩いている時間だけでなく、歩いていない時間もある。川を渡る場所で荷駄が詰まれば後ろが止まり、道を間違えれば引き返すことになる。休む場所が決まっていなければ、それを探す間にも時間を使う。朽木がそうした無駄を減らしていたのだとすれば、特別な速さで歩かなくても目的地へ早く着ける。

 

 そこで初めて、俺が使っていた速いという言葉の意味が少し変わった。

 

 弥七が下がった翌日には、宗兵衛が戻ってきた。

 

 こちらからも、思っていたような派手な答えは出なかった。野良田が終わった直後、朽木が大量の米や味噌、塩を突然買い集めたという話は見つからない。火薬については商人たちも口が重く、はっきりしない。ただ少なくとも、北へ進むと決めてから慌てて全てを揃えたような動きは確認出来なかった。

 

 では、何を食わせて兵を進めたのか。

 

 宗兵衛によれば、以前から蓄えていたものを使ったのではないかと話す商人はいたらしい。だが、その者が実際に朽木の蔵を見たわけではなく、どれほど備えていたのかも分からない。そもそも買い入れの話が無かったからといって、朽木が物資を集めていなかったことにはならない。領内から納められたものを使った可能性もあれば、商人の目が届かないところで調達していた可能性もある。

 

 むしろ気になったのは、宗兵衛が別に拾ってきた話だった。

 

 野良田より前から、朽木へ向かう草鞋や縄、馬に使う品が普段より増えていたと話す商人が何人かいたという。それが本当に戦の準備だったのか、単に朽木で商いが増えていたためなのかは分からない。高島を手にしたことで人や物の往来が増えていたのなら、同じような変化が起きても不思議ではないからだ。

 

 それでも、野良田の戦が終わった日を境に、何もなかったところから突然全てが動き始めたわけではなさそうだった。

 

「物も、先に動いていた可能性があるか」

 

「可能性であれば。ただ、何のために増えていたかまでは分かりませぬ」

 

「ああ。今はそれでよい」

 

 宗兵衛が持ち帰った話を、弥七の報告の隣へ置く。

 

 道については事前に調べていた者がいたという。物についても、以前から普段とは違う動きがあったらしい。どちらも北進のためだったとは限らないが、少なくとも野良田が終わってから初めて準備を始めたという考えには、疑問が残った。

 

 最後に戻ってきた篠は、道でも物でもないところから、二人の報告と同じ方向を示す話を持ってきた。

 

 朽木の兵は、野良田から戻って再び出陣すると聞いても、それほど驚かなかったらしい。もちろん、疲れた、休ませてほしいという不満はあったという。だが、もう戦は終わったと思っていたのに何故また出るのかという驚きより、やはり次があったかという受け止め方をする者が目立ったようだった。

 

 北へ出ることを事前に知らされていたのかと尋ねたが、そこまでは分からないという。田屋や海津へ向かうと聞かされていた者も見つからなかった。ただし、野良田へ出る前から、家族へ長く留守にするかもしれないと話していた兵は何人もいたらしい。

 

 全員がそうだったわけではない。篠が聞いた範囲では、野良田から帰ればしばらく休めると思っていた者もいたという。それでも、次の出陣があるかもしれないと考えていた者がいたことは確かだった。

 

 篠はさらに、新しく朽木領となった土地の様子も見ていた。

 

 主が変わった以上、不安を口にする者は当然いる。年貢の納め先がどうなるのか、以前の取り決めは残るのか、新しい領主がどのような負担を求めるのか。村々ではそうした話が交わされていたらしい。けれど、朽木の兵が入った後に村が大きく荒らされたという話は少なく、城と道を中心に押さえ、必要以上に兵を村へ散らしていないように見えたという。

 

 俺はその話を聞いて、取った城へ兵を置き過ぎず、次に動ける数を残していたのかもしれないと思った。だが篠からは、城へ何人残したかまでは分からないとすぐに返された。

 

 それもそうだった。

 

 村が荒らされていないことと、城に残した兵の数は同じではない。兵を多く置いていても村へ出さなければ目立たないし、城によっては現地の者をそのまま使っている可能性もある。朽木がどのように占領地を治め始めたのかは、もう少し別の情報が必要になるだろう。

 

 俺は篠へ礼を言い、三人の報告を机へ並べた。

 

 特別な道が見つかったわけではない。兵が異常な速さで歩いていたわけでもない。野良田が終わってから突然大量の物を買い集めた形跡も見つからず、兵の側にも次の出陣を全く予想していなかった様子は薄い。

 

 一つずつなら、どれも竹若丸が前から北進を準備していた証拠にはならなかった。道を調べていた者がいたからといって、それが軍勢のためだったとは限らない。物の動きには商いの増加という理由も考えられるし、兵が長く留守にすると話していたことも、野良田での戦が長引く可能性を考えただけかもしれない。

 

 だが三つを並べると、一つの形がぼんやりと浮かんでくる。

 

「動く前に、動けるようにしておるのか」

 

 弥太郎がこちらを見たので、三人の報告を順に示した。

 

 弥七の話では、朽木勢は道を探しながら進んでいない。宗兵衛の話では、出陣が決まってから一から物を集めたようにも見えない。そして篠の話では、兵やその家族にも、次があるかもしれないという空気があった。

 

 どこまで竹若丸が前から決めていたのかは分からない。だが少なくとも、命が出た瞬間から全てを始めたわけではなさそうだった。

 

「野良田の鉄砲と似ておるな」

 

 弥太郎が呟いた。

 

「ああ。敵が来てから撃つ順番や立つ場所を決めたのではない。敵が来た時にその形を取れるよう、前から備えておった」

 

 北へ進むと決めてから道を探し、米を集め、兵へ話をするのではなく、必要になれば動けるところまで前もって準備しておく。そう考えれば、野良田で感じた速さと、その後の北進で感じた速さは、全く別のものではないのかもしれない。

 

 竹若丸は兵の足を特別に速くしたわけではない。兵が歩き始めるまでの時間や、途中で止まる時間を減らしているのではないか。弥七が言った迷っていないという言葉も、そう考えれば納得がいく。

 

 もちろん、これは今ある材料から考えたことに過ぎない。竹若丸が実際に何を準備し、どの段階で北進を決めたのかまでは分からなかった。

 

 篠から何か分かったのかと尋ねられ、俺は竹若丸が兵を魔法で速く歩かせているわけではなさそうだと答えた。そんなことは最初から誰も思っていないと返されたが、こちらも本気でそう考えていたわけではない。ただ、兵が速く歩くことと、早く動き始められることは違う。その違いが多少なりとも見えてきたのは確かだった。

 

 大切なのは、その次である。

 

 朽木と六角では領地の広さも家臣の数も違い、動かす兵の桁も違う。竹若丸が何をしているのかを知ったからといって、それが六角にそのまま使えるわけではない。

 

 ならば、六角が今どのような形で兵を持ち、命を出してから軍として動き始めるまで、何処で時間を使っているのか。それを確かめる必要があった。

 

 *

 

 父上へ話を持っていったのは、それから数日後だった。

 

 評定が終わった後に少し時間をもらい、集めた紙の中から必要だと思ったものだけを選んで部屋へ入る。自分では随分減らしたつもりだったが、父上は俺の手元を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「何じゃ、その量は。戦から戻ったと思えば、今度は紙と戦をするつもりか」

 

「これでも減らしました。紙だけで勝てるとは思っておりませぬが」

 

「ならば何をする」

 

 父上の前へ、野良田の記録を一枚置いた。

 

「兵を増やす前に、今の六角が何を持っているのかを知りとうございます」

 

 父上は少し眉を上げた。

 

 少し前の俺なら、六角を今より強くするためには兵を増やしたいと答えていたかもしれない。六角は大きな軍を出せる。ならばもっと強くするには、さらに多くの兵を持てばよい。その考えが完全に間違いだとは思わない。実際、野良田では兵数で優っていたことが大きな力になった。

 

 ただ今は、その前に知らなければならないことがある。

 

「六角が一万、二万を出せることは存じております。ですが、その一万の中に弓がどれほどあり、鉄砲がどれほどあり、馬や荷駄をどれだけ持ち、命を出してから何日で集まるのかと聞かれれば、答えられませぬ」

 

 父上から、では自分なら全て答えられると思うかと尋ねられたので、それも難しいのではないかと答えた。正直な答えだと笑われたが、別に父上を試しに来たわけではない。

 

 俺は野良田の記録を広げ、各家から集まった数字の違いを説明した。出陣した兵の合計が一万二千ほどだったことに間違いはない。だが、同じ五百でも家ごとに中身が違う。弓や鉄砲の数も違えば、荷を運ぶ力も違う。それなのに、今までは兵数だけを同じ数字として並べていた。

 

 次に必要なのは兵数をさらに増やすことより、その兵が何を持ち、どれほどの時間で集まれるのかを知ることではないか。少なくとも、それを確かめずに兵数だけを増やしても、今の問題を十分に解決出来るとは思えなかった。

 

 竹若丸の速さについて調べたことも話した。

 

 特別な道を使った形跡は見つからず、野良田の後で慌てて全ての物を集めた様子も見えない。兵の側も、次にまた出ること自体には大きく驚いていなかった。ただし、どれも竹若丸が北進を前から全て決めていたと断定出来るものではないことも、先に付け加えた。

 

「必要になってから、全てを始めたわけではないのだと思いまする」

 

「それで六角も朽木を真似るか」

 

「いいえ。六角は朽木ではございませぬ。土地も家臣の数も、出せる兵も違います。同じ形へする必要はないと思います。ただ、今何があるのかを知らぬまま、戦の度に同じことを一から確かめる必要もないかと」

 

 そこは迷わず答えられた。

 

 朽木のように千ほどの兵を一つのまとまりとして動かすことと、六角の家臣たちがそれぞれの領地から兵を率いて集まることは、初めから仕組みが違う。六角の軍を全て朽木と同じ形へ変えようとすれば、兵の動かし方だけでなく各家との関係まで変えることになるだろう。

 

 今の俺が考えているのは、そこまで大きな話ではない。すでに一度出した兵や物について記録を整理し、次に動かす時の見込みを少しでも立てやすくすることだった。

 

 父上はしばらく口を開かなかった。

 

 手元の紙へ視線を落とし、何枚かをめくっている。その間、俺は余計な説明を足すのを我慢した。こういう時、沈黙が長いと何か言いたくなる。だが今まで何度も、それで自分から話を広げ過ぎた。父上が考えているのであれば、まずは待つ方がよい。

 

 やがて父上が顔を上げた。

 

「何を数えたい」

 

「まずは兵、弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧。それから、命を出してから集まるまでの日数にございます」

 

「それで、まずは、か」

 

「最初はもう少しございました」

 

「持って来ぬでよかったわ」

 

 深い溜息を吐かれた。

 

 父上が懸念したのは、やはり家臣の受け取り方だった。六人衆から国人まで一斉に細かな数字を出させれば、何を調べられているのかと警戒する。兵や武具、米の量を数えることは、その家がどれだけの力を持っているのかを測ることでもある。六角の嫡男が家々の軍事力を細かく把握しようとしていると見られれば、それだけで余計な疑念を生む可能性があった。

 

 だから最初から家中全てを調べるつもりはないと説明した。まず野良田で実際に出した兵と物を整理する。すでに行われた戦について、次に備えるため記録を残すという形なら、まだ受け入れられやすい。帳面の書き方まで一度に揃える必要もない。最初は同じことを尋ね、返ってきた答えを比べられるようにするだけでも十分だった。

 

 もっとも、いずれ書き方まで揃える必要が出るかもしれないと付け加えたところで、父上から先の話を勝手に増やすなと止められた。先ほど余計な説明を控えた意味があまりなかったらしい。

 

 父上はもう一度紙へ目を落とし、しばらくして面白くはあると呟いた。思わず身を乗り出しかけたところで、まだ許すとは言っていないと先に止められ、黙って姿勢を戻した。

 

「そなたの言うことにも理はある。戦の度に、どの家が何人、どれだけ兵糧を持つという話はしておる。だが、細かく聞けば聞くほど家臣どもは構える。数を取るということは、その家の力を測ることでもあるからな」

 

「承知しておりまする」

 

「それに、数字を揃えること自体を目的にするでないぞ。そなたは数が好きじゃ。分かりやすいからの」

 

 否定出来るはずもなかった。

 

 前世から数字は好きだった。数字にすれば比較出来るし、違いも見つけやすい。曖昧なものが少しだけ形になる安心感もある。ただ、その分かりやすさに引かれ過ぎれば、数字にならないものを見なくなる危険もあった。

 

「数えたものが本物であっても、数えたものだけが全てとは限らぬ」

 

 その言葉を聞いた時、以前父上から言われたことがすぐ頭に浮かんだ。

 

「今日見たものが本物であることと、今日見たものだけが全てであることは同じではない、でございますか」

 

 父上が僅かに目を細めた。

 

「覚えておったか」

 

「何度も思い出しておりまする」

 

「ならよい」

 

 父上の言葉は、高島の一件から何度も俺の判断を止めてきた。自分が見たものが確かであっても、それ以外に何もないとは限らない。朽木が北へ進む速さについても、三人が持ち帰った話だけで全てを説明出来たわけではなかった。同じように、各家の兵と武具を数えたからといって、それだけで六角の軍勢を知ったことにはならないのだろう。

 

 父上はそこで、ようやく今回の話を認めてくれた。

 

 ただし、最初は父上の手元で確かめやすいところから始めること。六人衆にも、野良田で実際に出した兵や物の記録を今後のために残したいと、父上自身から話しておくこと。いきなり家中へ細かな帳面を出せなどとは命じず、必要以上に各家の内情へ踏み込まないこと。

 

 まず野良田の記録を整理し、そこから必要なところを確かめる。使えるものが出来てから、次を考えればよいということだった。

 

「分からぬところが出ても、無理に数字を埋めるな。空いておるなら、何故そこが空いておるのかを考えよ。その方が役に立つこともある」

 

「覚えておきまする」

 

「ならやれ」

 

 頭を下げて礼を言うと、礼は役に立ってからにせよ、始めるだけなら誰でも出来ると返された。

 

 もっともだった。

 

 父上の部屋を出ると、廊下で待っていた弥太郎がすぐに寄ってきた。許しを得たと伝えると、一瞬だけ安堵した顔をしたが、仕事が増えたと続けた途端、嫌そうに眉を寄せた。

 

「誰の仕事が増えたのでございますか」

 

「二人の仕事じゃ」

 

「やはりそうなりますか」

 

 帳面を広げ始めた時から、こうなる気はしていたらしい。分かっていたなら話が早いと返すと、嬉しくはないと苦笑された。口ではそう言いながらも、弥太郎はすでに必要になる書状を頭の中で数え始めているようだった。

 

 *

 

 その日の夕方、篠、弥七、宗兵衛をもう一度呼んだ。

 

 父上から許しを得たことを伝え、これからは朽木だけでなく、六角領内についても外から見えることを拾ってほしいと頼んだ。ただし、家臣の蔵へ忍び込んだり、隠しているものを暴いたりする必要はない。父上が許したのは、野良田で実際に動いた兵と物の記録を整理することであって、家臣の内情を勝手に探ることではなかった。

 

 弥七には、主要な道と荷駄が通る時に詰まりやすい場所を見てもらう。観音寺城から北へ進む道だけでなく、各家の兵が集まるまでに通る道についても、分かる範囲で確かめてほしかった。兵だけなら問題なく歩ける道でも、荷駄馬が連なれば通りにくい場所がある。雨が降れば使いにくくなる道もあるだろう。そうした条件は、城へ集まった兵数だけを見ても分からない。

 

 宗兵衛には、米や塩、飼葉といった物が普段どこから入り、戦が近付くと何が何処で足りなくなるのかを追ってもらう。城や各家の蔵にあるものだけでなく、商人が普段どの道を使い、何を運んでいるのかを知れば、兵を動かした時に物が足りなくなる場所も見えてくるかもしれない。ただし、商人の話だけで各家の蓄えまで分かったつもりになる必要はない。

 

 篠には、兵として出る者とその家族、兵を出す村でどのような話が交わされているのかを見てもらう。野良田では一万を超える兵を集めたが、その兵たちの多くは自分の暮らしを持っている。農繁期に家を空ければ田へ影響が出るし、働き手が戻らなければ残された者が困ることになる。肥田城で人足を長く留めた時にも、それを理由に包囲を続けることが難しくなった。そうした負担がどこに現れるのかは、兵数を書いた紙だけでは分からなかった。

 

 三人はそれぞれ頷いたが、宗兵衛は一通り聞いた後で、戦の調べ物にしては随分と広がったものだと苦笑した。

 

 俺自身もそう思う。最初は朽木の兵が何故早く動けたのかを知りたかっただけだった。それが道や物の動きへ広がり、今度は六角の兵と荷駄、その兵を支える村の暮らしまで見ることになっている。

 

 父上からは広げ過ぎるなと言われたばかりだ。そのことを話すと、宗兵衛にはすでに十分広がっているように見えると返された。隣では篠が面白そうに笑っている。宗兵衛まで篠のようなことを言うようになったのかと思ったが、今のは確かに俺の説明が長くなり過ぎたせいでもあるだろう。

 

 それでも、三人に頼む意味はあると思っていた。

 

 兵が何人いるのかは、その家へ聞けば分かる。けれど、その兵を支える荷駄がどの道で詰まるのかは、実際に道を歩いた者の方が知っている。米が何俵あるかは蔵を数えれば分かるとしても、戦が近付いた時に何が市から先に消えるのかは商人の方が知っている。そして兵として出る男が家を空けた時、残された家や村で何が起きるのかは、兵数を書いた紙だけでは分からない。

 

 今の俺には、そうしたもの全てを数字にするつもりはなかった。むしろ数字にならないものがどこにあるのかを知るためにも、別の目を持っておいた方がよい。

 

「無理をするな。分からぬものまで答えを作る必要はない。それから、こちらの家臣から話を聞く時に、勝手に右衛門督の名を出すなよ」

 

 篠は、若様の名を出せば話を聞きやすくなりそうだと冗談めかして答えた。俺が真面目に顔を向けると、すぐに冗談だと笑う。

 

 確かに、俺の名を使えば口を開く者は増えるかもしれない。だが、それでは各家が俺から調べられていると受け取る可能性もある。村の者にしても、六角の嫡男が聞いていると知れば、普段思っていることより、こちらが喜びそうなことを話すかもしれなかった。

 

 知りたいのは、命じられた時の答えではない。普段どのように人や物が動き、何処で困り事が生まれているのかということだ。こちらの名を出さない方が、かえって分かることもあるだろう。

 

 三人を送り出し、再び机へ戻る。

 

 そこには以前と同じように数字が並んでいた。

 

 一万。二万。

 

 六角が大きな戦で集められる兵として見れば、確かに大きい。野良田でも浅井の兵数を大きく上回り、その数が正面を支え、最終的な勝利の土台になったことは間違いない。だから俺は、六角を今より強くするなら、さらに兵を増やせばよいと、どこかで単純に考えていたのだと思う。

 

 けれど、俺が野良田で見た一万二千は、一つの塊ではなかった。

 

 家ごとに持つ武器が違う。荷駄の数も違う。命令を受けてから動き出すまでの速さも、集まる場所までの距離も違う。戦場へ着いた後ですら、全員が同時に同じ場所で戦えるわけではない。正面で八千が浅井を受け止めている時、後陣の兵まで合わせて一万二千いるのだから安心だとは考えられなかった。兵が何人いるかということと、その兵を何処で、どのように使えるかということは別なのだ。

 

 朽木が見せたものも、少ない兵が突然大軍へ変わるような魔法ではなかった。必要になった時にすぐ使えるよう、前もって備えておく。その違いが兵の動きにも、北進の速さにも現れていたのだろう。

 

 だからといって、六角の全軍を朽木と同じように動かせるとは思っていない。六角には多くの家があり、それぞれに領地があり、家臣がいる。父上が一声掛ければ全員が同じ日に同じ場所へ集まるような仕組みではないし、無理にそれを変えようとすれば、兵を動かす以前に家中をまとめるところで問題が起きるだろう。

 

 ならば、今の仕組みを知らないまま変えようとすることの方が危うい。

 

 俺は新しい帳面を一冊、机の上へ置いた。

 

 白い最初の頁を開き、兵、弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧、そして命を出してから集まるまでの日数と書いていく。兵については戦える者と人足を分け、馬も騎馬と荷駄馬を混ぜないようにする。兵糧については、分かるなら何人を何日食わせられるかも添える。ただし、今ある記録だけでは分からない項目も多い。そこは父上から言われた通り、無理に数字を埋めず空けておくことにした。

 

 こうして項目を並べれば、随分簡単なことを始めようとしているようにも見える。だが実際には、野良田へ一万二千を集めるために使われた命令も、各家が抱える人馬も、普段の暮らしも、その向こうにある。帳面の数字はその一部を示すだけであって、全てを代わりに説明してくれるわけではない。

 

 父上が言ったように、数字を揃えること自体が目的になれば意味がなかった。今の俺が見えていないものも、数に出来ないものも、幾らでもあるだろう。だからこそ、まず分かっていることと分からないことを分け、必要なところから確かめていくしかない。

 

 肥田城では、槍を持って戦う者だけが戦をしているわけではないと知った。野良田では、一万二千という人数だけを見ても、その軍が実際にどう動けるのかまでは分からないと知った。そして朽木の北進を追ってみれば、速さというものさえ、歩く速さだけで決まるものではないらしい。

 

 いずれ六角が次の戦へ出る時、今日の帳面がどれほど役に立つのかは分からない。各家の兵数も武具の数も、季節が変われば動く。兵を集めるまでの日数だって、道の状態や人の都合によって変わるだろう。一度書けばそのまま使い続けられるものではない。

 

 それでも、何も知らないまま毎回同じところから確かめるよりはよい。

 

 少なくとも次に兵を動かすことになった時、どの家が何を出せたのか、何が足りなかったのか、何処を改めて確かめる必要があるのかを、最初から探し直さずに済む。それだけでも準備に掛かる時間を減らせるかもしれない。

 

 竹若丸が何を考え、どこまで備えていたのかは、まだ分からなかった。だが、あいつの速さを見て、六角に何が足りないのかを考え始めることは出来る。

 

 俺は書き終えた項目をもう一度見直し、それ以上は増やさずに筆を置いた。

 

 今は新しい兵を何千増やすかを考える時ではない。まずは今いる兵がどれほどの時間で集まり、何を持ち、何に支えられ、どのように動けるのかを知らなければならない。

 

 最初の頁には、まだ空いているところの方が多かった。

 

 だが、その空白も含めて今の六角の姿なのだろう。

 

 まずは数える。兵を増やすことを考えるのは、それからでよかった。

一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?

  • このまま
  • 5000文字前後
  • 15000文字前後
  • 1~5000文字
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。