野良田から戻って以来、机の上に置く帳面の数が目に見えて増えた。出陣前に各家から上がってきた兵数、兵糧や荷駄についての報せ、戦の最中に自分で書き留めたこと、帰還してから改めて集めさせた死傷者の数。それだけでも以前なら十分に多いと思ったはずなのに、今ではその横に、朽木が北へ兵を進めた日と、田屋城、長法寺館、沢村城、海津城が落ちたという報告まで並んでいる。
一つずつ手に取れば、どれも別の話だった。六角の兵を記した紙と、朽木が城を取ったという報せに、直接同じ数字が書かれているわけではない。それでも机の上へ並べ、日付を追いながら見比べていると、どうしても引っ掛かるものがあった。
六角は野良田へ一万を超える兵を出すため、各家へ命を送り、それぞれに兵を揃えさせ、兵糧や荷駄を用意させた。集まる場所を定め、行軍の順序も決め、各家の兵が指定された場所まで来るのを待ってから軍として動いた。それだけの人数を動かすのだから時間が掛かるのは当然だと思っていたし、今でもその考え自体が間違っているとは思わない。
だが朽木は、野良田から兵を戻した後、父上から与えられた土地を受け取ると、ほとんど間を置かず北へ進んだ。田屋、長法寺、沢村、さらに海津まで。報告の日付を指で追ってみても、やはり短い。竹若丸の兵だけが人並み外れて速く歩けるはずはないのだから、六角との差があるとすれば、歩く速さそのものではなく、歩き始める前か、動いている最中のどこかにあるはずだった。
父上から言われた「見ているだけでは遅れる」という言葉は、今も頭に残っている。けれど、竹若丸が早いからといって、こちらも何も考えず急いで兵を出せばよいとは思えなかった。理由が分からないまま形だけを真似しても、六角の兵が同じように動く保証などない。それは野良田で嫌というほど見たことでもある。あの時、俺が本当に驚いたのは鉄砲三百丁という数だけではなかった。浅井の別働隊が父上の本陣へ向かってから慌てて兵を並べたのではなく、誰が撃ち、その後に誰が前へ出るのかまで兵たちが知っていた。必要になった瞬間に形を作ったのではなく、必要になる前から形があったからこそ、朽木勢はあれほど早く動けた。
北へ進んだ時にも、同じようなものがあったのではないか。
そう考えていたところへ、襖の外から篠の声がした。
「若様。お呼びと伺いましたが」
「入れ」
襖が開き、篠、その後ろから弥七と宗兵衛が入ってきた。三人が揃って俺の前へ座る姿を見るのは、随分久しぶりな気がする。もちろん、その間に何もしていなかったわけではない。肥田から野良田へ至る間にも、弥七は街道や人の動きを追い、宗兵衛は商人や物資の流れを拾い、篠は村や市で交わされる話や人の様子を見ていた。ただ、俺自身が戦場へ出ていたこともあって、一人ずつ報告を受けることはあっても、こうして三人を同じ部屋へ呼ぶ機会が減っていた。
「三人揃って顔を見るのは久しぶりだな」
「若様が肥田や野良田へ出ておられましたから。こちらはこちらで動いておりましたよ」
篠がさらりと言うので、別に何もしていなかったと思って呼んだわけではないと返すと、「それなら安心いたしました」と平然と頷かれた。俺はそれほど信用がないのかと聞けば、今度は「信用しておりますから、そのように申せるのでございます」と来る。横を見ると、弥太郎は顔を逸らしているが、肩が僅かに動いていた。
笑っているらしい。
相変わらず、篠は遠慮があるのか無いのか分からない。ただ、以前なら少し腹を立てたかもしれないやり取りにも、今では随分慣れた。
「まあよい。今日は三人に頼みたいことがある」
机の上へ高島から北近江にかけての地図を広げた。指先で田屋、長法寺、沢村、海津と順に辿る。こうして地図の上だけを見れば僅かな距離に見えるが、実際には兵と荷を伴って進み、城を一つずつ押さえながら抜けた道だ。
「竹若丸殿は、野良田からそれほど間を置かずここまで進んだ。その理由を調べてほしい」
宗兵衛が頷く横で、篠が僅かに眉を上げた。
「朽木へ潜れと?」
「違う。城へ忍び込んで、竹若丸殿の帳面を盗んでこいなどと言うつもりはない。八門のいるところへこちらから甲賀者を潜らせれば、何かを得るより先に余計な疑いを持たれる。それに、俺が知りたいのは朽木が隠しておるものではない」
俺が見たいのは、外からでも見えるものだった。
あれだけの兵が短い間に何度も動いたのであれば、必ずどこかに跡が残る。兵が歩けば道を使う。荷を運べば米や縄や草鞋が動く。長く兵を出せば、その兵の家族にも何かしらの反応が出る。城の奥へ忍び込まなくても、それらなら拾えるはずだった。
まず弥七へ向き直る。
「お主には道を見てほしい。どこを通り、どこで川を越え、兵や荷駄をどこで休ませたのか。朽木だけが知る道があるならそれも知りたいが、無ければ無いで構わぬ。兵だけなら抜けられても、荷駄を連れれば詰まる場所もあるだろう。田屋から海津まで、実際にどれほどの日数で動けるのかを見てくれ」
弥七が短く承知したところで、今度は宗兵衛を見る。彼に頼むのは物の動きだった。米、味噌、塩、草鞋、縄、馬の飼葉、それに分かる範囲で火薬や弾。野良田が終わった後、朽木が急に大量の物を買い集めた形跡があるのか、それとももっと前から普段とは違う動きがあったのか。正確な量まで求めれば、かえって曖昧な数字を拾ってくることになる。俺が欲しいのは、まず増えた時期だった。
「無理に幾つ、何俵と数字を出す必要はない。急に増えたのか、それとも以前から動いていたのか。それが分かればよい」
「承知いたしました」
最後に篠へ顔を向けると、こちらが何も言わないうちから僅かに笑った。
「私は人、でございますか」
「……分かっておったか」
「弥七に道、宗兵衛に物とくれば、残るものは人くらいかと」
その通りだった。野良田から戻った兵が、すぐ次に出ることをどう受け止めていたのか。朽木領では次の戦について、いつ頃からどのような話が出ていたのか。兵の家族は何を考えていたのか。そして、田屋や海津のように主が変わった土地の者が、朽木の兵をどう見ているのか。竹若丸本人の胸中を探るのではなく、その周囲にいる者たちを見るよう頼んだ。
すると篠は少し考えてから、俺が見落としていたことを指摘した。
「竹若丸様の周りを見るのでしたら、若様の御家も見なければ片方だけになりませぬか」
思わず黙った。
正しい。
朽木の兵が何故早いかを見つけても、それだけでは六角との差は分からない。こちらが何を持ち、何処で時間を使っているのかまで見て、初めて比べられる。自分でもそのつもりだったはずなのに、三人への指示を考えている間に、頭の中が竹若丸ばかりへ向いていたらしい。
弥太郎を見ると、今度は明らかに笑いを堪えている。
「弥太郎」
「何も申しておりませぬ」
「顔が申しておる」
「篠の言う通りかと思っただけにございます」
六角の方も見るつもりではあったと弁解したが、篠から「今、付け足したように聞こえました」と返される。少しは遠慮を覚えろと言えば、俺の側へ置かれてから随分覚えたつもりだという。
本当か、と聞き返したかったが、それをやればまた話が横へ逸れる。俺は諦めて地図を畳んだ。
「ともかく、朽木の方は三人に頼む。六角の中は俺と弥太郎で見る。野良田へ各家が実際に何人連れてきたのか、弓や鉄砲はどれほどあったのか、馬と荷駄をどの程度持っていたのか。まず表から確認出来るものを集める」
「某もでございますか」
「お主はずっと俺の側にいて、実際に野良田へも出た。篠たちとは違うものを見られるだろう」
弥太郎は「地味にございますな」と不満そうに言ったが、別に忍びをさせるつもりはない。篠たちが外へ出て見る目なら、弥太郎には俺の隣から六角を見る目になってもらえばいい。
「では某は表の目で、篠たちは裏の目にございますか」
「その呼び方を本人たちの前でするな」
篠が笑い、弥七と宗兵衛まで僅かに口元を緩めた。
以前の俺は、甲賀者と聞けば敵地へ忍び込み、秘密を盗み、時には人を殺す者という印象を強く持っていた。けれど三人と付き合ううち、その考えはかなり変わっている。道を歩く者へ聞けば、街道が今どうなっているのかが分かる。商人へ聞けば、何が売れ、何が足りず、どちらへ荷が向かっているのかが分かる。村や市で交わされる何気ない言葉から、人が何を不安に思い、何を期待しているのかも見えてくる。
それも立派な情報だった。
だからといって、俺に預けられた三人を、三雲対馬守が持つ大きな網と同じものにしようとは思わない。対馬守は六角全体のために広く情報を拾っている。その中で俺の三人には、俺が今疑問に思っている細かなところを、それぞれの得意なやり方で確かめてもらえばいい。
「一つだけ忘れるな。朽木を暴くことが目的ではない。分からぬものは分からぬままでよいし、見えていないものまで見たことにする必要はない」
弥七が承知したと答え、残る二人も頷いた。
三人が出て襖が閉まると、それまで僅かに緩んでいた部屋の空気が静かになった。弥太郎が地図を脇へ寄せながら、こちらは何をするのかと聞いてくる。
「六角を数える」
「六角を?」
「ああ。竹若丸殿が何故早いのかだけ分かっても仕方がない。まず自分たちが何を持っておるのか、それを知らねば比べようもない」
野良田出陣前に集めた書状を引き寄せる。何百、何千という、今まで何度も見てきた数字がそこには並んでいた。合わせれば一万を超える。それだけを見れば六角は確かに大きな兵力を持っているし、野良田でもその数が勝利を支えたことは間違いない。
以前なら、それで十分だと思っていた。
だが野良田の戦場を実際に見た後では、一万という数字を以前と同じようには眺められなくなっていた。
*
最初に引っ掛かったのは、書状に書かれた「兵五百」という一行だった。
ある家も五百、別の家も五百。紙の上だけなら全く同じ数だ。ところが中身を確かめようとした途端、その五百が同じものではないことが見えてきた。一方の家には弓が何張あるかまで書かれているのに、もう一方には何もない。鉄砲も、何十丁と数が分かる家があれば、「鉄砲有り」としか記されていない家がある。さらに、人足を兵の数へ含めている家と、戦う者だけを兵として数えているらしい家まであった。
「これでは、同じ五百でも同じではないな」
書状を仕分けていた弥太郎が顔を上げた。
「五百は五百では?」
「槍を持つ者が五百いる軍と、槍三百、弓百、鉄砲百の五百なら、同じように使えるか?」
そこまで言えば弥太郎も首を横に振る。さらに、荷を運ぶ人足や馬が十分に揃っている五百と、戦う者は多いが荷を運ぶ力が少ない五百ではどうかと聞けば、それも違うと答えた。
なら、五百という数字だけでは足りない。
前世で数学を教えていた頃なら、条件の違う数字を同じものとして並べられないことなど当たり前だった。それなのに、こちらへ来て戦国の軍勢を見る時には、「六角一万二千」「浅井六千」といった総数を、それ自体で一つの力のように考えていたらしい。
野良田で六角は一万二千を出した。それは事実だ。だが、その一万二千の中には先陣があり、第二陣があり、父上の周囲に残された兵もいた。浅井の別働隊が本陣を狙って動いた時、その場ですぐ使えた兵が一万二千だったわけではない。数が大きいことには意味がある。それでも、どこに、どのような兵が、どれだけいるのかを知らなければ、その数を実際にどう使えるのかまでは分からない。
数字そのものではなく、数字の中身を見る必要がある。
「若様。これを全部調べ直されるおつもりで?」
「全部を一度に、というつもりはない。出来るところからじゃ」
弥太郎は、各家へ鉄砲は何丁、弓は何張、馬は何頭、米はどれほどと一つずつ聞いて回るのかと尋ねた。言われてみれば、それを突然始めれば家中がどう受け取るかは想像出来る。
当主の嫡男が、各家の兵と武具と米を細かく調べ始める。
それだけ聞けば、次の戦で今まで以上の兵を出させるためではないか、新しい賦役を掛けるつもりではないか、自分たちの家の力を測って何かしようとしているのではないかと警戒する者もいるだろう。父上からも、人は探られていると思えば隠すし、構えるものだと何度か言われている。
こちらに悪意が無いから、相手も悪く受け取らないとは限らない。
「なら、まず野良田で実際に出たものから見る」
「此度の実績を、でございますか」
「ああ。何人連れてきたか、弓や鉄砲をどれだけ持っていたか、馬や荷駄がどれほどあったか。すでに一度出した後なら、次に備えて記録を残すと言っても不自然ではない。何故そこまで聞くのかと言われたら、次の戦で同じことを一から確かめずに済ませるためと答えればよい」
全部揃えることを最初の目的にはしない。まず今ある記録で何が分かり、何が分からないのかを知る。それならば家臣の側も、家の中まで覗かれているとは感じにくいはずだった。
弥太郎もしばらく考えた後、「それならば、まだ話は通りましょう」と頷いた。
それから何日か、机の上の紙はさらに増えていった。
兵、弓、鉄砲、騎馬、荷駄、米。それに、出陣の命を受けてから観音寺へ兵が集まるまでに掛かった日数。同じことを尋ねているつもりでも、返ってくる答えは家によって驚くほど違った。米を俵の数で答える者がいる一方で、「何日分」という答え方をする者もいる。馬についても騎馬だけを書く家があれば、荷駄馬までまとめて数えているところがある。兵数に至っては、従者や人足を含めるかどうかで、同じ家ですら見え方が変わった。
ある日の午後、何枚もの紙を並べていた弥太郎が溜息を吐いた。
「同じことを聞くというのも、難しいものにございますな」
「ああ。数字が無いわけではない。だが、その数字が何を数えたものなのかが揃っておらぬ」
皆が嘘をついているわけではない。おそらく、それぞれの家が普段使っている数え方で答えているだけだ。だから余計に厄介だった。どれが正しいのかと聞かれても、答えは一つではない。騎馬だけを馬と数える者にとってその数字は正しいし、荷駄馬まで含める家の数字も、その家にとっては間違っていない。
「どれも間違いではない。だから困るんだ」
米何俵と言われても、俵の中身まで全て同じとは限らない。兵五百と言われても、その五百に何が含まれているかが違えば、そのまま隣へ並べて大小だけを比べることは出来ない。全ての家へ同じ帳面を書かせるところまで急ぐ必要はないとしても、少なくともこちらから同じ問いを投げなければ、答えを比べられないことだけは分かった。
「まず、問いを揃えるか」
弥太郎が首を傾げる。
「兵は何人、ではなく、武器を持って戦える者が何人いるのか。馬は何頭、ではなく、騎馬と荷駄を分ける。米も俵が幾つかだけではなく、何人を何日食わせられる量なのかを見る。その方がまだ比べやすい」
「そこまで聞けば、答える方も大変にございますな」
「だから全部を一度には聞かぬ。まず野良田の記録を見て、どうしても聞かなければ分からぬところだけだ」
自分で口にしながら、何をしたいのかが少しずつ形になっていくのを感じていた。
俺が欲しいのは、綺麗な数字が隙間なく並んだ帳面ではない。
次に兵を動かす時、何があるのか分からないという状態を、少しでも減らすための記録だ。鉄砲が何丁あるかを知っていれば、いざという時に無いものを前提に考えずに済む。荷駄の少ない家が分かっていれば、そこだけで全体が止まる可能性も先に考えられる。
もっとも、この時の俺はまだ、数えれば六角の軍の姿へ近付けると思っていた。
その数字自体が、季節や人の都合によって動くものだということまでは、まだ十分に分かっていなかった。
*
三人の中で最初に戻ってきたのは、弥七だった。
部屋へ入るなり告げられたのは、「特別な道はございませぬ」という、少し拍子抜けする答えだった。
「朽木から北へ出る道も、田屋から海津へ向かう道も、土地の者なら知っている道にございます。朽木だけが使える隠し道があったという話は拾えませなんだ」
なら何故、あれほど早く進めたのか。
そう尋ねた俺に、弥七は「迷っておりませぬ」と答えた。
その言葉で、顔を上げる。
「兵が道を探しながら進んだ様子がございませぬ。どこで川を渡るか、荷駄を何処へ通すか、どの辺りで兵を休ませるか。動き始めた後で一つずつ決めたようには見えませなんだ。土地の者からも、先に人が来て道を確かめていたという話がございます」
時期については、野良田より前だったという話もあったらしい。ただし、誰が、何の目的で道を見ていたのかまでは確かめられなかったという。
「そこは決めつけるな。前から見ていた者がおったということと、それが北進のためだったということは同じではない」
「承知しております」
弥七は地図へ幾つか印を置いていった。川を渡ったと思われる場所、荷を置いたという場所、兵が休んだという村。一つずつ距離を見ていくと、人間離れした速さで歩かなければ届かないようなものではない。普通に進めば、十分に辿り着ける距離だった。
ただし、途中で道を聞き、間違え、荷駄が通らず引き返し、休む場所を探すような時間がほとんど見えない。
そこで初めて、「速い」という言葉の意味が少し変わった。
「兵が速く歩いたというより、止まらなかったのか」
「某には、そう見えまする」
弥七が下がった翌日には、宗兵衛が戻ってきた。
こちらからも、思っていたような派手な答えは出なかった。野良田が終わった直後、朽木が大量の米や味噌、塩を突然買い集めたという話は見つからない。火薬については商人たちも口が重く、はっきりしない。ただ少なくとも、「北へ行く」と決めてから慌てて全てを揃えた様子ではなさそうだった。
「では、何を食わせて進んだ」
「以前から持っていたものを使ったのではないか、と申す商人はおります。ただし、朽木の蔵を実際に見た者ではございませぬ。どれほど備えていたのかまでは分かりませぬ」
「ああ。それでよい。分からぬところまで埋める必要はない」
むしろ面白かったのは、別の話だった。
野良田の前から、朽木へ向かう草鞋や縄、馬に使う品が普段より多かったと話す商人が何人かいたらしい。それが本当に戦の準備だったのか、単に朽木で商いが増えていたためなのかは分からない。
それでも、野良田の戦が終わった日を境に、何もなかった場所から突然全てが動き始めたわけではないことだけは感じられた。
「物も、先に動いていた可能性があるか」
「可能性であれば」
「ああ。今はそれでいい」
最後に戻ってきた篠は、道でも物でもないところから、弥七と宗兵衛の報告と同じ方向を示す話を持ってきた。
「朽木の兵は、また出ると聞いても、それほど驚かなかったようにございます。疲れた、嫌だ、と申す者はもちろんおります。ただ、『もう戦は終わったと思っていた』という驚きより、『やはり次があったか』という話の方を多く聞きました」
北へ出ると事前に知らされていたのかと尋ねたが、そこまでは分からないという。田屋や海津へ向かうと聞かされていた者は見つからなかった。ただし野良田へ出る前から、家族へ「長く留守にするかもしれない」と話していた兵は、何人もいたらしい。
全員がそうだったわけではない。
だが少なくとも、一度野良田へ出て帰れば終わりだと思っていた家ばかりではなかった。
篠はさらに、新しく朽木領となった土地の様子も見ていた。主が変わった以上、不安を口にする者は当然いる。けれど朽木の兵が入った後、村々が大きく荒らされたという話は少なく、城と道を中心に押さえ、必要以上に兵を村へ散らしていないように見えたという。
「それが本当なら、取った城へ兵を置き過ぎておらぬのかもしれぬな」
「そこまでは篠には分かりませぬ」
すぐに返され、俺は頷いた。
「ああ。今の話だけで十分じゃ」
一つの話から、その先まで勝手に作らない。
三人へ言い聞かせたことを、こちらが忘れては意味がない。
弥七、宗兵衛、篠の報告を机へ並べ、弥太郎と最初から見直した。
特別な道が見つかったわけではない。兵が異常な速さで歩いていたわけでもない。野良田が終わってから突然大量の物を集めた形跡も見つからず、兵の側にも次の出陣そのものを全く予想していなかった様子は薄い。
一つずつなら、どれも竹若丸が前から北進を準備していた証拠にはならない。
だが三つを並べると、一つの形がぼんやり浮かんでくる。
「動く前に、動けるようにしておるのか」
弥太郎がこちらを見る。
「朽木が?」
「ああ。弥七の話では、兵は道を探しながら進んでおらぬ。宗兵衛の話では、出ると決まってから一から物を集めたようにも見えない。篠の話では、兵やその家にも、次があるかもしれぬという空気があった。どこまで竹若丸殿が前から決めていたのかは分からぬ。だが少なくとも、命が出た瞬間から全てを始めたわけではなさそうじゃ」
「野良田の鉄砲と同じでございますか」
「多分な」
敵が来てから、撃つ順番や立つ場所を決めるのではない。敵が来た時にその形を取れるよう、前から準備しておく。北へ進むと決めてから道を探し、米を集め、兵へ話をするのではなく、必要になれば動けるところまで前もって進めておく。
野良田で感じた速さと、その後の北進で感じた速さは、別のものではないのかもしれない。
そう考えると、今まで散らばっていたものが少し繋がった。
竹若丸は、兵の足を速くしたわけではない。
兵が歩き始めるまでの時間や、歩いている途中で止まる時間を減らしているのではないか。そう考えれば、弥七の「迷っていない」という言葉も、宗兵衛が拾った物の動きも、篠が聞いた兵たちの言葉も一つの方向へ向く。
「若様。何か分かりましたか」
篠が少し面白そうに聞くので、俺は「竹若丸殿が兵を魔法で速くしているわけではないことはな」と答えた。
「最初から誰もそのようには思っておりませぬ」
「俺も思っておらぬ。ただ、速く動いているのではなく、早く動き出せるようにしておるということは分かった」
大切なのは、その次だった。
分かったからといって、それをそのまま六角へ持ち込めばいいわけではない。朽木と六角では領地の広さも家臣の数も違い、動かす兵の桁も違う。竹若丸が何をしているのかを知ることと、それが六角にそのまま使えることは別だった。
なら次に見るべきなのは、竹若丸のやり方そのものではない。
六角が今どんな形で兵を持ち、命を出してから軍として動き始めるまで、何処で時間を使っているのか。
「今度は六角の方を見る」
篠が僅かに笑った。
「やはり若様の御家を探るので?」
「その言い方が悪いと申しておるだろう」
*
父上へ話を持っていったのは、それから数日後だった。
評定が終わった後に少し時間をもらい、集めた紙の中から必要だと思ったものだけを選んで部屋へ入る。自分では随分減らしたつもりだったが、父上は俺の手元を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「何じゃ、その量は」
「これでも減らしました」
「減らしてそれか。戦から戻ったと思えば、今度は紙と戦をするつもりか」
「紙だけで勝てるとは思っておりませぬ」
「なら何をする」
父上の前へ、野良田の記録を一枚置いた。
「兵を増やす前に、今の六角が何を持っているのかを知りとうございます」
兵を増やしたいのではなかったのかと問われ、少し前の自分ならそう答えていたかもしれないと思った。六角は大きな軍を出せる。ならばもっと強くするには、さらに多くの兵を持てばいい。その考えが完全に間違いだとは思わない。
ただ今は、その前に知らなければならないことがある。
「六角が一万、二万を出せることは存じております。ですが、その一万の中に弓がどれほどあり、鉄砲がどれほどあり、馬や荷駄をどれだけ持ち、命を出してから何日で集まるのかと聞かれれば、私は答えられませぬ」
「儂なら答えられると思うか?」
「全ては難しいかと」
「正直じゃな」
「父上を試しに来たわけではございませぬ」
父上の口元が僅かに緩んだので、その間に野良田の記録を広げた。
「此度は一万二千ほどを出しました。それ自体は間違いございませぬ。ですが、同じ五百でも家ごとに中身が違います。弓や鉄砲の数も違えば、荷を運ぶ力も違います。それなのに、今までは兵数だけを同じ数字として見ておりました」
「だから中身を知りたいと?」
「はい。それと、命を出してからどれくらいで集まるのかも残しておきとうございます」
竹若丸の速さについて調べたことも話した。特別な道を使った形跡はなく、野良田の後で慌てて全ての物を集めた様子も見えない。兵の側も、次にまた出ること自体には大きく驚いていない。ただし、どれも竹若丸が北進を前から全て決めていたと断定出来るものではないことも、先に付け加えた。
確かなことと、そこから考えたことは分けなければならない。
「必要になってから、全てを始めたわけではないのだと思いまする」
「それで六角も朽木を真似るか」
「いいえ」
そこはすぐ答えられた。
「六角は朽木ではございませぬ。土地も家臣の数も、出せる兵も違います。同じ形へする必要はないと思います。ただ、今何があるのかを知らぬまま、戦の度に同じことを一から確かめる必要もないかと」
父上はしばらく口を開かなかった。
手元の紙へ視線を落とし、何枚かをめくっている。その間、俺は余計な説明を足すのを我慢した。こういう時、沈黙が長いと何か言いたくなる。だが今まで何度も、それで自分から話を広げ過ぎた。
やがて父上が顔を上げた。
「何を数えたい」
「まずは、兵、弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧。それから、命を出してから集まるまでの日数にございます」
「それで『まずは』か」
「最初はもう少しございました」
「持って来ぬでよかったわ」
深い溜息を吐かれた。
父上が懸念したのは、やはり家臣の受け取り方だった。六人衆から国人まで一斉に細かな数字を出させれば、何を調べられているのかと警戒する。兵や武具、米の量を数えることは、単なる記録ではなく、その家がどれだけの力を持っているのかを測ることでもある。
だから最初から家中全てを調べるつもりはないと答えた。まず野良田で実際に出した兵と物を整理する。すでに行われた戦について、次に備えるため記録を残すという形なら、まだ受け入れられやすい。
「書き方まで揃えるのか」
「今はそこまで考えておりませぬ。同じことを聞ければよいかと」
「今は、か」
「いずれ必要になるかもしれませぬが」
「先の話を勝手に増やすな」
「はい」
先ほど我慢した意味があまりなかった。
父上はもう一度紙へ目を落とし、しばらくして「面白くはある」と呟いた。思わず身を乗り出しかけたところで、「まだ許すとは申しておらぬ」と先に止められ、黙って姿勢を戻す。
「そなたの言うことにも理はある。戦の度に、どの家が何人、どれだけ兵糧を持つという話はしておる。だが、細かく聞けば聞くほど家臣どもは構える。数を取るということは、その家の力を測ることでもあるからな」
「承知しておりまする」
「それに、数字を揃えること自体を目的にするでないぞ。そなたは数が好きじゃ。分かりやすいからの」
「否定はいたしませぬ」
否定出来るはずもなかった。
前世から数字は好きだった。数字にすれば比較出来るし、違いも見つけやすい。曖昧なものが少しだけ形になる安心感もある。ただ、その分かりやすさに引かれ過ぎれば、数字にならないものを見なくなる危険もある。
「なら覚えておけ。数えたものが本物であっても、数えたものだけが全てとは限らぬ」
その言葉を聞いた時、以前父上から言われたことがすぐ頭に浮かんだ。
「今日見たものが本物であることと、今日見たものだけが全てであることは同じではない、でございますか」
父上が僅かに目を細める。
「覚えておったか」
「何度も思い出しておりまする」
「ならよい」
そこから父上は、ようやく許しを出した。ただし、最初は父上の手元で確かめやすいところから始めること。六人衆にも、野良田で実際に出した兵や物の記録を今後のために残したいと、父上自身から話しておくこと。いきなり家中へ細かな帳面を出せなどとは命じないこと。
そして最後に、もう一つ釘を刺された。
「分からぬところが出ても、無理に数字を埋めるな。空いておるなら、何故そこが空いておるのかを考えよ。その方が役に立つこともある」
「覚えておきまする」
「ならやれ」
頭を下げて礼を言うと、「礼は役に立ってからにせよ。始めるだけなら誰でも出来る」と返された。
もっともだった。
部屋を出ると、廊下で待っていた弥太郎がすぐ寄ってくる。許されたと伝えると、一瞬だけ安堵した顔をしたが、仕事が増えたと続けた途端、嫌そうに眉を寄せた。
「誰の仕事が増えたので?」
「俺とお主の」
「やはりそうなりますか」
「嫌か」
「若様が帳面を広げ始めた時から、こうなる気はしておりました」
「なら話が早い」
「嬉しくはございませぬ」
口ではそう言いながらも、弥太郎は笑っていた。
*
その日の夕方、篠、弥七、宗兵衛をもう一度呼んだ。
父上から許しを得たことを話し、これからは朽木だけではなく、六角領内についても外から見えることを拾ってほしいと頼む。ただし、家臣の蔵へ忍び込んだり、隠しているものを暴いたりする必要はない。
弥七には、主要な道と荷駄が通る時に詰まりやすい場所を見てもらう。宗兵衛には、米や塩、飼葉といった物が普段どこから入り、戦が近付くと何が何処で足りなくなるのかを追ってもらう。篠には、兵として出る者とその家族、兵を出す村でどんな話が交わされているのかを見てもらう。
宗兵衛は一通り聞いた後、少し困ったように言った。
「戦を調べると仰っていたのに、随分広がりましたね」
「俺もそう思う」
「止められぬので?」
「父上には広げ過ぎるなと言われたばかりじゃ」
「もう広がっているように見えますが」
「宗兵衛まで篠の真似をするな」
隣で篠が笑う。
「若様。宗兵衛は思ったことを申しただけかと」
「お主は少し黙っておれ」
「はい」
返事だけは素直だった。
だが、三人に頼む意味はあると思っていた。
兵が何人いるのかは、その家へ聞けば分かる。けれど、その兵を支える荷駄がどの道で詰まるのかは、実際に道を歩いた者の方が知っている。米が何俵あるかは蔵を数えれば分かるとしても、戦が近付いた時に何が市から先に消えるのかは商人の方が知っている。そして兵として出る男が家を空けた時、残された家や村で何が起きるのかは、兵数を書いた紙だけでは分からない。
今の俺には、そうしたもの全てを数字にするつもりはなかった。
むしろ、数字にならないものがどこにあるのかを知るためにも、最初から別の目を持っておいた方がいい。
「無理をするな。分からぬものまで答えを作る必要はない。それから、こちらの家臣から話を聞く時に、俺の名を勝手に使うなよ」
「若様のお名前を出せば、随分話しやすくなりそうですが」
「篠」
「冗談にございます」
「お主の冗談は分かりにくい」
「では次から分かりやすくいたします」
「そういう話ではない」
三人を送り出し、再び机へ戻る。
そこには以前と同じように数字が並んでいた。
一万。二万。
六角が大きな戦で集められる兵として見れば、確かに大きい。野良田でも浅井の兵数を大きく上回り、その数が正面を支え、最終的な勝利の土台になったことは間違いない。だから俺は六角を今より強くするなら、さらに兵を増やせばよいと、どこかで単純に考えていたのだと思う。
けれど、俺が野良田で見た一万二千は、一つの塊ではなかった。
家ごとに持つ武器が違う。荷駄の数も違う。命令を受けてから動き出すまでの速さも、集まる場所までの距離も違う。戦場へ着いた後ですら、全員が同時に同じ場所で戦えるわけではない。
朽木が見せたものも、少ない兵が突然大軍へ変わるような魔法ではなかった。
必要になった時、すぐ使えるようにする。
そのために必要になる前から形を作っておく。
そういうものなのだとすれば、六角が最初にするべきことは、何千人を新しく増やすか考えることではない。今すでに持っている力が、どんな形をしていて、どうすれば動かせるのかを知ることだ。
新しい帳面を一冊、机の上へ置いた。
白い最初の頁を開き、兵、弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧、そして命を出してから集まるまでの日数と書いていく。
これだけで六角の軍勢が全て分かるなどとは思っていない。父上が言ったように、数字を揃えること自体が目的になれば意味がない。今の俺が見えていないものも、数に出来ないものも、幾らでもあるだろう。
それでも、何を持っているのか分からないまま兵だけを増やすよりはいい。
肥田では、槍を持って戦う者だけが戦をしているわけではないと知った。野良田では、一万二千という人数だけを見ても、その軍が実際にどう動けるのかまでは分からないと知った。そして朽木の北進を追ってみれば、速さというものさえ、歩く速さだけで決まるものではないらしい。
ならば今は、新しい兵を何千増やすかを考える時ではない。
今いる兵が、どれほどの時間で集まり、何を持ち、何に支えられ、どのように動けるのか。その前提になるものを、まず知らなければならない。
俺は書き終えた項目をもう一度見直し、それ以上は増やさずに筆を置いた。
まずは数える。
兵を増やすことを考えるのは、それからでよかった。