淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

41 / 109
2026/10/21 文章整理


第四十話「動かせる数」

 新しい帳面を作り始めてから、最初に分かったことは、自分が思っていた以上に分からないことが多いということだった。

 

 野良田へ出た家々について、兵の数、弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧、それから出陣の命を受けて観音寺城へ集まるまでに掛かった日数を整理していく。父上から六人衆を通して話をしてもらったこともあり、以前に比べれば細かな数字が上がってくるようになった。だが、記録が増えれば軍の姿がはっきりするかと思えば、実際にはそう簡単でもなかった。同じ兵五百と書かれていても、武器を持って戦う者だけを数える家があれば、人足や従者まで含める家もある。米を俵の数で答える者がいれば、何人を何日食わせられる量かで答える者もおり、馬についても騎馬と荷駄馬を分ける家と一緒に数える家があった。

 

 数字が無いのではない。数字の意味が揃っていないのだ。

 

 その違いを一つずつ確かめ、同じ意味になるよう並べ直していくだけで、思っていた以上に時間を取られた。記録が増えたことで以前より分かるようになったことは確かにある。だが、それまで気付かなかった違いも見えてくる。何も書かれていない項目があれば、そもそも数えていなかったのか、数えた上で報告していないのか、それさえ確認しなければならなかった。

 

 ある日の午後、向かいで書状を整理していた弥太郎が一枚の紙を持ち上げた。

 

「若様。こちら、三日前に聞いた時と数が違っておりまする」

 

 荷駄馬についての報告だった。三日前には三十二頭とあったものが、今日届いた書状では二十八頭になっている。詳しく確かめれば、一頭は脚を傷め、二頭は別の荷運びへ回され、残る一頭は死んだという。三日前には三十二頭を使えたとしても、今すぐ荷駄へ使えるのは二十八頭ということらしい。

 

「ならば、三十二は消さずに残そう。今日の二十八も、日付を付けて書き加えてくれ」

 

「全てに日付を付けるのでございますか」

 

「ああ。三日前と今日で違うなら、どちらも必要じゃ。後から見た時、いつの数字か分からなければ、その時使えるものなのか判断出来ぬ」

 

 弥太郎は露骨に嫌そうな顔をした。また書くことが増えたと溜息を吐かれたが、こればかりは仕方がない。以前の数字を消して新しいものへ書き換えてしまえば、いつ、何故変わったのかが分からなくなる。逆に古い数字だけを残せば、今も三十二頭を使えると思い込むことになるだろう。

 

 父上から、一度数えれば終わりではないと言われたばかりだったが、その意味をこれほど早く突き付けられるとは思わなかった。三日前の三十二頭は嘘ではないし、今日の二十八頭も間違いではない。明日になれば脚を傷めた馬が戻るかもしれず、別の荷運びへ出した二頭も帰ってくるかもしれない。その一方で、別の馬が病み、今より少なくなる可能性もある。

 

 帳面へ数字を書いた途端、それがその家の持つ変わらない力のように見えてしまう。だが実際には、その日その時の一断面を記録しているに過ぎなかった。

 

「必要なら項目も減らす。ただ、何が要らぬかを決めるにも、一度は集めてみなければ分からぬ」

 

 そう説明すると、弥太郎は予想していたという顔で筆を取り直した。本人にしてみれば、せっかく書いた帳面へさらに日付を加える仕事が増えたのだから、面白くないのも当然だろう。俺も同じ作業をしている以上、その気持ちはよく分かった。

 

 前世なら、数字へ日付を付けるなど当たり前のことだった。生徒の成績も出席も試験の結果も、いつの記録なのか分からなければ意味が薄れる。それなのに、こちらへ来て軍勢について考える時には、数字そのものへ気を取られ過ぎていたらしい。人は怪我をし、病にもなる。鉄砲は壊れ、馬は脚を傷め、米は使えば減る。六角は一万を出せると一度確認したからといって、その一万がいつまでも同じ装備と兵糧を持って集まるわけではなかった。

 

 もちろん、この帳面を作っただけで軍が強くなるとは思っていない。だが以前は、六角は一万を出せると聞けば、そこで考えることを止めていた。今はその中身を確かめることで、実際に動かせるものが常に変わっていることも見えてくる。

 

 数字を揃えることそのものを目的にするなという父上の言葉を、ようやく別の角度から理解し始めていた。

 

 *

 

 篠が戻ってきたのは、その二日後だった。

 

 今回は高島や朽木を見るためではない。六角領内で野良田へ兵を出した村々を回り、兵を出した後の暮らしがどうなっているのかを見てきてもらっていた。兵数を調べているうちに、その兵が家を空けた後に何が残るのかも気になり始めたからだ。

 

「どうだった」

 

「場所によります」

 

 あまりにも曖昧な答えだったので思わず眉を寄せると、篠は分からぬものまで同じにするなと若様が仰ったので、と平然と返してきた。確かに自分で言ったことだった。反論する理由も見つからず、詳しく聞かせることにした。

 

 篠は何枚かの紙を俺の前へ置き、聞き取った話を順に説明した。野良田へ多く兵を出した村でも、今年の刈り入れをそれほど心配していないところはある。家に働ける男がまだ残っていたり、親類や周りの家から人を借りられたりするところだ。反対に、男手を二人出し、そのうち一人が怪我をして戻った家では、今年の仕事が遅れると困っていたらしい。肥田城から続けて兵を出していた家にも不満があり、また戦になった時、今度は誰が田を見るのかという声が出ているという。

 

 その言葉を聞き、俺は無意識に紙へ目を落とした。

 

 帳面の中には、兵を何人出せるかという数字がある。家に成人した男が何人いて、そのうち何人を戦へ出せるのか。俺がこれまで気にしていたのは、そこだった。だが、その一人を家から抜いた後に田を耕す者がいなくなるのであれば、一人出せるという数字の意味は大きく変わる。

 

「兵を出せぬと申しておるのか」

 

「いいえ。命があれば出る、と。ただ、出られることと、出ても困らぬことは違うのでございましょう」

 

 篠の答えに、しばらく考え込んだ。

 

 家には年寄りや女、子供が残り、刈り入れを待つ田がある。その一人を三日連れていくのと、一月連れていくのでは、残された者の負担も違うだろう。働き手が十分にいる家なら多少の留守は補えても、ぎりぎりの人数で田を作っている家では、僅かな日数でも仕事へ響く。戦場で同じように槍を持つ二人であっても、家へ戻った時に果たす役目まで同じとは限らなかった。

 

 今の帳面には、兵として外へ出す側しか書かれていない。その人間が抜けた後に何が残るのかは、ほとんど記されていなかった。

 

 肥田城を囲んでいた時のことを思い出す。水攻めを続ければ城を落とせるかもしれなかったが、人足を長く留めれば田植えへ戻れない者が増える。そのため、父上は包囲を解いて兵を退いた。あの時は戦を続けるか退くかという一つの判断として考えていたが、今聞いている村々の話も根は同じなのだろう。田植えか刈り入れかという違いはあっても、働き手を長く奪われれば農の仕事に支障が出る。

 

 季節によって仕事は変わり、村によって人手の余裕も違う。ならば、兵を動かせる時期や長さも、それに左右されることになる。

 

「篠。兵を出した家で、どの時期に長く出されるのが一番困るのかも聞いてくれぬか」

 

「出来ます。ただ、村ごとに違いますよ」

 

「ああ。それでよい。同じ答えになると思って聞くわけではない」

 

 篠は承知したものの、すぐには立ち上がらなかった。少し言いにくそうに視線を動かし、それから俺を見る。

 

「それと若様。村では、兵を増やすために調べているのではないかという噂も、少し出ております」

 

 思わず眉を寄せた。

 

 詳しく聞けば、誰か一人が言い始めたというより、そう考える者が出ているらしい。兵が何人、米がどれほど、馬が何頭と以前より細かく尋ねられれば、次はもっと多く出させるための調べではないかと思う者がいても不思議ではない。篠たちは俺の名を出していないが、野良田の後から急に尋ねることが増えれば、上の誰かが調べていると察する者もいるだろうという。

 

 父上に言われたことが、そのまま現実になっていた。

 

 こちらにとっては記録でも、調べられる側には何か意図があるように見える。今あるものを知りたいだけだと言っても、相手は次の徴発や賦役を想像する。こちらが悪意を持っていないことと、相手が不安を抱かないことは別だった。

 

「こちらから余計な説明はするな。聞かれた時は、此度の戦の記録を残しているとだけ答えろ。それ以上、何かが決まったようなことは申すな」

 

「若様の御名は?」

 

「出すな」

 

 篠は少し残念そうな顔をした。俺の名を出した方が話は早いというが、その分だけ余計な噂も生まれる。六角の嫡男が調べていると知れば、聞かれた方も警戒するし、こちらの顔色を窺って答えるようになるかもしれなかった。

 

 それでは、普段どう考えているのかを知りたいという目的から離れてしまう。

 

 篠が下がった後も、村々の話はしばらく頭から離れなかった。

 

 兵を数えるだけのことだと思っていた。だが一人を数えれば、その後ろには一家がある。家の後ろには田があり、その田は村へ繋がっている。肥田城では、死んだ兵にも名前があり、その名前を待つ家族がいると知った。今度は、生きている兵にも戦場以外の暮らしがあることを突き付けられている。

 

 帳面の中で一と書けば、それで同じ一人に見える。だが実際には、家から一人抜いても回る家と、その一人が抜ければ田の仕事が止まる家を、全く同じようには扱えない。兵として出せる人数が同じ村であっても、その人数を何日出せるかは違うはずだった。

 

 以前から父上は、兵をただの数として見るなと教えてきた。その意味が、また別の形で俺の前へ現れ始めていた。

 

 *

 

 秋の気配が近付くにつれ、野良田の傷跡とは別の動きが、北から届くようになった。

 

 浅井下野守久政が小谷へ戻り、崩れた家中をまとめ直していることは以前から聞いていた。新九郎を失い、野良田で大きく負け、その後は朽木に北西から土地を削られた。それでも浅井家そのものが消えたわけではない。むしろ何もしないままでいれば、浅井に従う国人たちの方が、この家に付いていて大丈夫なのかと考え始める。久政にしてみれば、兵を立て直すことだけでなく、家中の者たちへ浅井がまだ戦えることを示す必要もあるのだろう。

 

 小谷へ人が入り、北近江の国人たちへ使者が動き、城によっては兵糧を集め始めたという報告が増えていった。

 

 ある日の評定で、三雲対馬守が地図の上へ幾つか印を置いた。浅井方は刈り入れが終われば軍を起こす可能性があるという。向かう先については、朽木に奪われた土地を取り戻しに行くのか、それとも六角へ圧力を掛けるつもりなのか、まだ分からない。ただ、小谷を中心に兵を整える動きは確かだった。

 

 後藤但馬守は、野良田であれだけ痛めつけられてもまだ出てくるのかと呆れたように腕を組んだ。だが蒲生下野守の考えは違った。新九郎を失った上に、朽木から領地を削られている。そのまま何もしなければ、浅井に従っている国人たちが離れることになる。兵を動かすこと自体に危険はあっても、動かさないことにも危険があるのだろうという。

 

 父上もその見方には頷いていた。

 

 俺は地図を見ながら、浅井が動くという言葉を頭の中で転がしていた。

 

 少し前なら、最初に考えたのは六角が何人出せるかだっただろう。だが今は、その後に別の問いが続く。いつ出すのか。命を出してから何日で集まるのか。何を持たせ、どれほどの日数を動かすのか。そして、その時期にその人数を家や田から抜いても、大きな負担を残さずに済むのか。

 

 同じ一万でも、明日から三日だけ使う一万と、一月後に二十日動かす一万では、まるで意味が違うのではないか。篠から村の話を聞いた後では、なおさらそう思えた。

 

「右衛門督。随分と難しい顔をしておるな」

 

 父上に声を掛けられ、地図から顔を上げた。

 

「浅井が動くのであれば、こちらも備えねばならぬかと考えておりました」

 

「それだけか?」

 

 父上の目を見て、一瞬迷った。隠すようなことでもないので、帳面を試せるとも考えたと答えると、何人かの視線がこちらへ向いた。

 

 父上は僅かに間を置いた後、口元を緩めた。

 

「そなたらしい答えじゃな。戦になる前に試せるなら、試しておけ。戦場で初めて間違いに気付くより、よほどましじゃ」

 

 父上はそのまま後藤但馬守へ、野良田へ出た家々が再び兵を出すとすれば、どれほど掛かるのか確認するよう命じた。ただし、実際に兵を集めるわけではない。浅井が動いた場合に備え、各家がどの程度の支度を整えられるのかを確かめるだけだという。

 

 続いて俺にも、作り始めた帳面を使うよう命じた。

 

「そのために作っておったのであろう。ただし、帳面に書いてあるから出せるとは考えるな。そなたが数えた兵のうち、実際に今動かせるのがどれほどなのかを見てみよ」

 

「承知しておりまする」

 

 篠から村々の様子を聞いたばかりだったこともあり、その言葉は以前よりずっと重く聞こえた。帳面へ書いた数字が間違っていなくても、そのまま戦場へ持っていけるとは限らない。

 

 俺が作り始めた記録が、現実とどれほど合っているのか。それを確かめる機会は、思っていたより早くやってきた。

 

 *

 

 確認を始めると、帳面の数字はあっけないほど簡単に崩れた。

 

「五百のうち、今すぐ長く出せるのは三百五十ほどにございます」

 

 弥太郎が読み上げた報告には、野良田へ出た時と現在の状況が並べて記されていた。残る百五十のうち、怪我が治りきらない者が二十余り。家の事情ですぐには難しい者が六十ほど。そのほかは刈り入れ前に出陣すること自体は出来るものの、長く家を空ければ田の仕事に支障が出るという。

 

 五百全てが出せないわけではなかった。命じられれば出ると答えている。ただし、その五百を何日使うのかによって話が変わる。三日ほどで戻れるのであれば何とかなるが、十日、二十日と家を空ければ、刈り入れを終えられない者が出るかもしれないということだった。

 

「つまり、五百を集められることと、五百を長く使えることは別なのだな」

 

「左様にございます。三百五十ほどならば十日でも何とかなるが、五百となれば難しいとのことにございます」

 

 別の家では、人数だけなら以前より多く出せるという返事が来た。野良田で怪我をした者の代わりに弟や親族が加わり、兵の頭数だけなら以前とほとんど変わらない。ただし弓が足りず、野良田の時と同じ組み合わせでは出せないという。さらに別の家は兵そのものに余裕がある一方で、戦に使った荷駄馬の一部がまだ回復しておらず、長く動くための米を十分に運べない。兵糧そのものはあるが、それを運ぶ人足を今の時期に田から外しにくいという家もあった。

 

 一つ足りれば、別のものが足りない。

 

 人がいても武器が足りず、武器があっても馬がいない。馬を揃えられても荷を運ぶ人足を出せず、必要なものが一通り揃っていても、その状態を何日維持出来るかは別の問題になる。どの家も兵を出したくないと申しているわけではない。実際に出陣を命じられれば、それぞれ工夫して必要な人数を集めるのだろう。だが、その工夫によって何を補い、どこへ負担が掛かるのかまでは、以前の帳面から読み取ることが出来なかった。

 

 俺は報告を一枚ずつ並べながら、最初に兵五百という一行だけを見ていた頃の自分が、随分単純なものを見ていたのだと思い始めていた。野良田へ出した兵数が同じでも、次に同じ兵を出せるとは限らない。怪我をした者が戻るまでの時間も違えば、武具を補うために必要な銭も違う。今ある兵糧を何日使えるのかさえ、連れていく人数によって変わる。

 

 夕方になり、何枚もの書状を見直していた弥太郎が疲れ切った顔を上げた。

 

「若様。結局、何人出せるのでございますか」

 

「それが分かれば苦労はせぬ」

 

「若様が数えておられるのでしょう」

 

「数えておるから、簡単には答えられなくなったのじゃ」

 

 弥太郎は困ったように眉を寄せたが、俺も同じ気持ちだった。

 

 帳面には、一つの家だけで幾つもの数字が並んでいる。最大で出せる人数。今すぐ大きな無理なく出せる人数。三日程度なら出せる数。十日を超えると難しくなる数。刈り入れ後なら増やせる見込み。以前なら横に五百と一つ書けば終わっていたものが、今は条件によって別の姿を見せていた。

 

「兵の数だけではなく、使える時間も一緒に見なければ駄目なのかもしれぬ」

 

 五百を三日だけ出せるのと、五百を一月置けるのは同じではない。反対に三百しか出せなくても、その三百を長く使えるのであれば別の使い方が出来る。城を囲むために長く置く兵と、短い日数で一か所へ集める兵では、必要になるものも違うだろう。

 

 その違いまで全て帳面へ書くのかと弥太郎に尋ねられたが、すぐには答えられなかった。書き込む項目を増やせば確かに詳しくなる。だが、各家へその都度細かな報告を求めれば、記録を作るための手間も増える。俺たち二人だけで全てを確かめられるわけでもない。

 

 だからといって、今分かった違いを見なかったことにするわけにもいかなかった。

 

「まずは短く出せる数と、長く出せる数を分けておこう。分からぬ家は、そのままにする」

 

 それで全てが分かるわけではないが、最初から一つの数字へ無理にまとめるよりはましだろう。弥太郎も渋々頷き、報告の横へ新しい欄を作り始めた。

 

 そんなところへ、襖の外から篠の声が掛かった。

 

 先日頼んでおいた村々の追加の様子を持ってきたらしい。俺たちが何をしているのか説明すると、篠は少し考えた後、納得したように頷いた。

 

「それなら、村の者が申していたことと同じですね。出ろと言われれば出る。ただ、いつまでなのかは聞きたい、と」

 

 また同じところへ戻ってきた。

 

 どの程度の日数なら差し支えないのかと尋ねても、やはり一つの答えは返ってこない。刈り入れの直前なら、二、三日でも嫌がる村がある。刈り入れさえ終われば、少し長くても構わないところもある。ただし冬が深くなれば、今度は雪や凍った道が問題になる。村の者にとって都合の良い時期であっても、軍勢を動かすのに都合が良いとは限らないのだ。

 

「結局、季節から逃げられぬか」

 

「百姓を兵に使うのであれば、そうではございませぬか」

 

 篠が何気なく返した一言が、妙に耳へ残った。

 

 百姓を兵に使うのであれば。

 

 考えてみれば、当たり前だった。

 

 六角だけではない。この時代の軍勢の多くは、普段は田や畑で働いている男たちを、必要な時に呼び出して作られる。ならば田植えや刈り入れと戦が無関係であるはずがない。肥田城で農繁期を前に撤兵した時には、すでにその現実を目にしていた。

 

 知識としては知っていた。それでも俺は、農作業と戦の関係を、軍勢をどれほどの期間動かし続けられるのかという問題としては十分に考えていなかったらしい。

 

 兵を集められることと、その兵を長く使えることは違う。その違いを生んでいるのが、兵として出る者たちの日々の暮らしなのだ。

 

 篠から別の村の様子も聞きながら、俺はそのことを頭の片隅へ残した。今の時点では、それ以上先へ考えても答えは出なかった。

 

 *

 

 数日後、父上へ途中経過を持っていった。

 

 今回は以前のように大量の紙を抱え込まず、家ごとの数字をまとめたものだけに絞った。それでも父上は、俺の手元を見るなり僅かに顔を顰めた。

 

「また増えたか」

 

「紙は減らしました」

 

「中身は?」

 

「増えました」

 

「意味が無いではないか」

 

「某もそう思いまする。ですが、調べるほど確かめることが増えまして」

 

 父上は額へ手を当てたものの、それ以上は言わず、続きを促した。

 

 俺は帳面を地図の横へ置き、野良田へ兵を出した幾つかの家を例に挙げた。以前は兵を何人出せるかだけを見ていたが、実際に確認すると、それだけでは足りない。同じ五百を出せる家でも、今すぐ十日間出せるとは限らない。命じれば五百全てが集まるとしても、刈り入れ前に長く家を空けさせれば田の仕事に支障が出る。三百五十なら十日動かせても、五百なら三日程度が限度になるという違いがある。

 

「それは当然であろう」

 

「父上には、でございます。某は今まで、五百出せると聞けば、そこで終わっておりました」

 

 父上が少し笑った。

 

「なるほどの。そなたの数字に、ようやく季節が入ったか」

 

 馬も同じだと父上は続けた。冬に使える道と夏に使える道は違い、雨が続けば荷駄の進み方も変わる。兵そのものを揃えられたとしても、食わせる米を運べなければ軍は動けない。弥七にも主要な道を調べさせていると答えると、父上は頷き、改めて今の六角が何人動かせるのかと尋ねてきた。

 

 予想していた問いだった。それでも、以前のように一つの数字で答えることは出来ない。

 

「いつ、どれほどの日数を動かすかによりまする。今すぐ三日程度であれば、野良田に近い数まで集められると思います。ただし十日、二十日となれば、無理なく出せる数は減らした方がよいかと。刈り入れ後であれば、また変わります」

 

 父上は以前なら何と答えたかと尋ねてきた。野良田へ出した一万二千という数を、そのまま答えていただろう。今は時期と日数を聞かれなければ、どの数字を出せばよいのかさえ決められない。

 

 そう説明すると、父上は声を上げて笑った。

 

「随分と面倒な男になったな」

 

「父上の御教えにございます」

 

「儂のせいにするでない」

 

 口ではそう言いながらも、機嫌は悪くなさそうだった。

 

 父上は帳面をもう一度眺め、戦をする側からすれば何人出せるかだけでなく、いつまで出しておけるかも大事だと認めてくれた。その上で、ようやく兵を人として数え始めたようだとも言った。

 

「今までも、人だとは思っておりました」

 

「肥田で死人を見てからは、な」

 

 父上の声から、僅かに笑いが消えた。

 

「だが、生きている兵にも戦以外の暮らしがある。それを数へ入れ始めたということじゃ」

 

 言われてみれば、その通りなのかもしれなかった。

 

 死者の数の後ろに一人ずつ名前があることは、肥田城で知った。今度は、生きて帰った兵の後ろにも家があり、田があり、日々の暮らしがある。軍を動かすということは、その人間を一時的にそこから引き離すことでもある。その時間が長ければ長いほど、戦場の外に残る負担も大きくなる。

 

 兵を出せるかどうかという問いに、はいと答えることは簡単かもしれない。だが、その兵をいつまで使えるのかと聞かれれば、家や村の事情まで考えなければならない。父上は以前からそこを見ていたのだろう。俺は実際に帳面へ書き始めて、ようやくその意味を理解し始めたところだった。

 

 そこで浅井の動きについて尋ねると、父上の表情が少し変わった。

 

「まだすぐには動かぬ。刈り入れを待つつもりであろう。向こうも同じじゃ。百姓を兵に使う以上、田を無視しては動けぬ」

 

 また、その言葉だった。

 

 篠から聞いたものとほとんど同じだ。俺が考え込んだことに気付いたらしく、父上は何か気になるのかと尋ねてきた。篠からも同じことを言われたと答えると、そんなものは当たり前だと一蹴された。

 

 確かに、当たり前なのだろう。それでも何故か、その当たり前だけが胸の中へ残った。

 

 *

 

 秋が深まるにつれ、北近江から届く報告も増えていった。

 

 浅井は動員を急がず、やはり刈り入れを待っているらしい。小谷では久政が家中をまとめ直し、国人たちとの使者の往来も続いている。朽木も北へ広げた土地を固めながら、小谷の動きを見ていた。六角側もすぐに大軍を出すことはせず、父上は境にいる諸将へ警戒を命じ、必要な備えを進めるに留めている。

 

 その間も、俺は帳面を更新し続けた。

 

 兵の最大数。今すぐ無理なく出せる数。短い日数なら出せる数。長く動かせる数。弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧、道、そして季節。最初に作った帳面と見比べれば、同じ六角家の軍勢を書いているとは思えないほど複雑になっていた。しかも、項目を増やしたからといって全てが明らかになったわけではない。家によっては日数の見込みが曖昧で、兵糧についても人数が変われば計算し直す必要がある。

 

 だが、以前より分かりにくくなったことを、悪いことだとは思わなくなっていた。

 

 単純に見えていた頃は、分からないものがあること自体を知らなかっただけだ。今は少なくとも、何が分からないのかを見つけられるようになっている。一つの数字へまとめれば簡単に見えるものでも、実際に使おうとすれば幾つもの条件が付く。その条件を知らないまま軍を動かす方が、よほど危ういだろう。

 

 ある夕方、篠、弥七、宗兵衛から集めた報告を弥太郎と整理していると、宗兵衛が米の値を書いた紙を差し出した。

 

「戦が近いという噂が広がると、やはり少し上がります」

 

 まだ出陣すら決まっていないのにと不思議に思って尋ねると、宗兵衛は決まってから買う者ばかりではないと答えた。これから米が必要になると思えば、商人は手元へ置いておく。兵を出す家も先に買い入れることがあり、買う者が増えれば値が上がることもあるという。

 

 その言葉を聞き、少し前に調べた朽木の北進を思い出した。

 

「兵と同じだな。必要になってから全てを集めていては遅れる。物も、必要になると思えば先に動く」

 

 宗兵衛にとっては、それほど不思議な話ではないらしい。商人が先を見て品を買い、売れる時を考えて手元に置くのは、ごく普通のことなのだろう。

 

 だが俺には、その一言から別のものが繋がった。

 

 米が動き、銭が動き、それに合わせて兵を動かすための備えも進む。出陣の命が出される前から物を集める者がいる一方、戦になると聞いただけで米の値が上がるのであれば、まだ兵を動かしていない段階から負担を受ける者もいることになる。

 

 では、その兵をさらに増やそうとすればどうなるのか。

 

 これまで六角を今以上に強くするなら、領内からもっと多くの男を出せばよいと、どこかで単純に考えていた。だが百人を追加で兵に出せば、その百人は田から離れる。長く出せば出すほど農へ掛かる負担は大きくなり、下手をすれば次に取れる米そのものを減らすことになる。

 

 そして、減った米で増やした兵を食わせなければならない。

 

 兵が百人増えることは、戦場で使える人間が百人増えるということだけではない。その百人を何処から出すのか、どれほどの間食わせるのか、家へ戻るまでに何が必要になるのか。そして百人を抜いた土地で、誰がこれまでの仕事を引き受けるのか。そこまで考えれば、人数だけを増やして解決する話ではなかった。

 

 ならば、どうすればよいのか。

 

 前世で戦国時代について読んでいた俺には、兵の集め方についても幾つか知っている言葉がある。だが、それは歴史の説明として知っているだけだった。そうした言葉を今ここへ持ってきて、目の前の問題への答えとして置くには、まだ何かが足りない気がする。兵を集める仕組みを変えるということは、その兵を出している家や村との関係まで変えることになる。何をどう変えればよいのかを考える前に、今の六角がどう成り立っているのかを知らなければならない。

 

 知っている言葉に現実を合わせるのではなく、まず現実の方を見る。

 

 そう考えて、無理に先の答えを出すことは止めた。

 

 代わりに、帳面へ一つだけ新しい項目を書き加えた。

 

「兵を出した後、田に残る者……でございますか」

 

 横から覗き込んだ弥太郎が、俺の書いた文字を読み上げた。

 

「ああ。全部の家を細かく調べるつもりはない。だが兵を何人出せるかだけではなく、何人残さなければならぬのかも知りたくなった」

 

 村によって田の広さも働ける者の数も違う。親類から人を借りられる家もあれば、借りる相手がいない家もあるだろう。一人を兵へ出した後に誰が仕事を引き受けるのか、それを全て帳面へ書き込むことは出来ない。それでも、今ある兵数を維持するために村々がどのような負担をしているのか、少しは見ておきたかった。

 

 弥太郎は、また項目が増えたと苦笑した。

 

「御屋形様に怒られませぬか」

 

「多分な」

 

「では、止めますか」

 

「止めぬ。ただ、今すぐ各家へ聞いて回るつもりもない。篠たちが拾ってきた話を見て、必要なところから考える」

 

「そう仰ると思いました」

 

 弥太郎が笑い、俺も僅かに笑った。

 

 父上からは何度も、数字を揃えることだけを目的にするなと言われている。だからこそ、今の段階でこれを新たな報告の義務にするつもりはなかった。兵を出した後にどれだけの働き手が残るかという問題は、家ごとの人数を数えるだけで分かるものでもない。大切なのは、そこに問題があることを忘れず、兵を動かす際の判断へどう繋げるかなのだろう。

 

 以前なら、六角が一万二千を出せると聞けば、その数字そのものを力だと思っていた。

 

 今は、その一万二千を集めるために、どれだけの家から男を抜き、どれだけの馬と米を動かし、どれだけの田から働き手を離すことになるのかが気になる。その上、一万二千という数そのものも、いつ、何日使うのかによって姿を変える。兵がいることと、その兵を今動かせることは同じではなく、動かせることと、動かしても領地が困らないことも別だった。

 

 今の六角が大勢の兵を集められることは、間違いなく力だった。野良田でも、その力が勝利を支えた。しかし、その兵は田から切り離されて存在しているわけではない。田植えが来れば戻す必要があり、刈り入れ前には長く留めにくい。冬になれば田の仕事は減っても、今度は雪や道が軍を縛る。兵糧を買うための銭や、荷を運ぶ馬にも限りがある。

 

 最初に知りたかった、動かせる兵の数というものは、考えていたより遥かに複雑だった。

 

 それでも、分からないままよりはよい。

 

 浅井が再び動けば、次はこの帳面を使って実際の軍勢を動かすことになるだろう。その時、ここへ書いたものがどこまで役に立ち、何が現実と食い違うのかも分かる。帳面だけを見て判断するつもりはないが、少なくとも何を確かめる必要があるのか、その手掛かりにはなるはずだった。

 

 今の俺が辿り着いたのは、百姓を兵に使う以上、軍は季節から逃げられないという、考えてみれば当たり前のところまでだった。

 

 だが、以前の俺はその当たり前を、兵を動かす上での問題として見ることすらしていなかった。六角が一万を出せると知っていても、その一万をいつ、どれほどの間使えるのかは知らなかった。兵を増やせば力が増すと思っていても、そのために何を失うのかまでは考えていなかった。

 

 俺は書き加えた項目を見直し、ひとまず筆を置いた。

 

 まだ答えを出せるほど、今の六角を知っているわけではない。それでも、何を確かめなければならないのかは、以前よりはっきりしてきた。

 

 答えが増えたわけではない。だが、見るべきものは確かに増えていた。

一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?

  • このまま
  • 5000文字前後
  • 15000文字前後
  • 1~5000文字
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。