新しい帳面を作り始めてから、最初に分かったことは、自分が思っていた以上に「分からないこと」が多いということだった。
野良田へ出た家々について、兵の数、弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧、それから出陣の命を受けて観音寺へ集まるまでに掛かった日数を順に整理していく。父上から六人衆を通して話をしてもらったこともあり、以前に比べれば細かな数字が上がってくるようにはなった。だが、数字が増えれば増えるほど軍の姿がはっきりするかと思えば、実際には逆だった。同じ「兵五百」と書かれていても、武器を持って戦う者だけを数える家があれば、人足や従者まで含めて五百とする家もある。米も俵の数で答える者がいれば、何人を何日食わせられる量かで答える者がいて、馬についても騎馬と荷駄を分ける家と一緒に数える家がある。
数字が無いのではない。数字の意味が揃っていない。
その違いを一つずつ確かめ、同じ意味になるよう並べ直していくだけで、思っていた以上に時間を取られた。
「若様。こちら、三日前に聞いた時と数が違っておりまする」
向かいで書状を整理していた弥太郎が、一枚の紙を持ち上げた。荷駄馬についての報告で、三日前には三十二頭とあったものが、今日届いたものでは二十八頭になっている。
「四頭減ったのか?」
「一頭は脚を傷め、二頭は別の荷運びへ回しているとのこと。残る一頭は死んだそうにございます」
紙を受け取り、三十二という数字を消さず、その横へ日付とともに二十八と書き加えた。
父上から「一度数えれば終わりではない」と言われたばかりだったが、その意味をこれほど早く目の前へ突き付けられるとは思わなかった。三日前の三十二頭は嘘ではない。今日の二十八頭も間違いではない。明日になれば脚を傷めた馬が戻るかもしれず、別の荷運びへ出した二頭も戻るかもしれない。その一方で、別の馬が病み、今より少なくなる可能性もある。
帳面へ数字を書いた途端、それがその家の持つ変わらない力のように見えてしまう。
けれど実際には、俺が書いているのは、その日その時の一断面でしかなかった。
「弥太郎。これからは、数を確認した日も付けてくれ。以前の数字は消さずに残す」
「全てに、でございますか」
「ああ。三日前と今日で違うなら、どちらも必要じゃ。後から見た時、いつの数字か分からなければ、その時使えるものなのか判断出来ぬ」
弥太郎は露骨に嫌そうな顔をした。
「また書くものが増えましたな」
「俺もそう思う」
「減らすおつもりは?」
「必要なら減らす。だが何が要らぬかを決めるにも、一度は集めてみなければ分からぬ」
「そう仰ると思いました」
諦めたように筆を取る弥太郎を見て、苦笑する。
前世なら、数字へ日付を付けるなど当たり前のことだった。生徒の成績も、出席も、試験の結果も、いつの記録なのか分からなければ意味が薄れる。それなのに、こちらへ来てから軍勢について考える時には、数字そのものへ気を取られ過ぎていたらしい。
兵も馬も米も、昨日と今日で同じとは限らない。人は怪我をし、病にもなる。鉄砲は壊れ、馬は脚を痛め、米は食えば減る。六角は一万を出せると一度確認したからといって、その一万がいつまでも同じ形でそこに置かれているわけではない。
もちろん、この帳面を作っただけで軍が強くなるとは思っていない。
ただ、これまでは「六角は一万を出せる」と言えば、そこで考えることを止めていた。今は、その一万を少し細かく見るだけでも、中身が常に動いていることが分かる。昨日一万を出せたからといって、次に命を出した時も昨日と同じ一万が、そのまま同じ形で集まる保証など無い。
父上が、数字を揃えることそのものを目的にするなと言った意味を、ようやく別の角度から理解し始めていた。
*
篠が戻ってきたのは、その二日後だった。
今回は高島や朽木を見るためではない。俺が頼んだ通り、六角領内で野良田へ兵を出した村々を回り、実際に兵を出した後の暮らしがどうなっているのかを見てきてもらっていた。
「どうだった」
「場所によります」
最初の答えがあまりにも曖昧だったので眉を寄せると、篠は平然とこちらを見る。
「若様が、分からぬものまで同じにするなと仰ったので」
「……そうだったな」
自分で言ったことを返され、文句も言えない。
篠は何枚かの紙を俺の前へ置いた。文字そのものは別の者に書かせたらしく、それを確認しながら説明していく。
「野良田へ多く兵を出したところでも、今年の刈り入れをそれほど心配していない村はございます。家に働ける男がまだ残っていたり、親類や周りの家から人を借りられたりするところでございますね。反対に、男手を二人出し、そのうち一人が怪我をして戻った家では、今年の仕事が遅れると申しておりました。それから、野良田では無事でも、肥田から続けて出ていた者の家には不満がございます」
「どのような?」
「また戦となった時、今度は誰が田を見るのか、と」
その言葉を聞き、俺は無意識に紙へ目を落とした。
帳面の中には、兵を何人出せるかという数字がある。家に成人した男が何人いて、そのうち何人を戦へ出せるのか。俺がこれまで見ていたのは、そこだった。
「兵を出せぬと申しておるのか」
「いいえ。命があれば出る、と申しております。ただ……出られることと、出ても困らぬことは違うのでしょう」
篠の言葉が、妙に引っ掛かった。
出せる。
その一言だけなら、一人は一人だ。
だが、その一人を家から抜いた後に田を耕す者がいなくなるのであれば、「一人出せる」という数字の意味は大きく変わる。家には年寄りや女、子供が残り、刈り入れを待つ田がある。その一人を三日連れて行くのと、一月連れて行くのでも違うだろう。
今の帳面には、兵として外へ出す側しか書かれていない。
その人間が抜けた後に、何が残るのかは記されていなかった。
「肥田の時と同じか」
「肥田でございますか」
「あの時も、城を囲み続ければ田植えへ戻れぬ者が増えた。だから父上は退いた。今度は刈り入れが近いだけで、人を長く取れば田が困るというところは同じなのだろうな」
「そういうことでございましょう」
季節によって、農の仕事は変わる。ならば兵を動かせる時期や長さも、それに引かれることになる。
「篠。兵を出した家で、どの時期に長く出されるのが一番困るのかも聞いてくれぬか」
「出来ます。ただ、村ごとに違いますよ」
「ああ。それでいい。同じ答えになると思って聞くわけではない」
「承知いたしました」
篠は頷いたが、すぐには立ち上がらなかった。少し言いにくそうに視線を動かし、それからこちらを見る。
「それと若様。一つございます」
「申せ」
「村では、若様が兵を増やすために調べているという噂も少し出ております」
思わず眉を寄せた。
「誰がそんなことを」
「誰かが言い始めたというより、そう考える者がいるのでございましょう。兵が何人、米がどれほど、馬が何頭と聞かれれば、次はもっと出させるために調べているのかと思う者がいても不思議ではございませぬ。若様のお名前は出しておりませんが、野良田の後から急に細かく尋ねられれば、上の誰かが調べていることくらいは分かります」
父上に言われたことが、そのまま現実になっていた。
こちらにとっては記録でも、調べられる側には意図があるように見える。今あるものを知りたいだけだと言っても、相手は次の徴発や賦役を想像する。こちらが悪意を持っていないことと、相手が不安を抱かないことは別だった。
「こちらから余計な説明はするな。聞かれた時は、此度の戦の記録を残しているとだけ答えろ」
「若様の御名は?」
「出すな」
「残念でございます」
「何故残念なんだ」
「若様のお名前を出した方が、話は早いので」
「早いだろうが、要らぬ噂まで増える」
「それもそうですね」
篠は悪びれた様子もなく頷いた。
兵を数えるだけのことだと思っていた。
だが一人を数えれば、その後ろには一家がある。家の後ろには田があり、その田は村へ繋がっている。肥田では、死んだ兵にも名前があり、その名前を待つ家族がいると知った。今度は、生きている兵にも戦場以外の暮らしがあることを突き付けられている。
帳面の中で「一」と書けば、それで同じ一人に見える。
だが実際には、家から一人抜いても回る家と、その一人が抜ければ田の仕事が止まる家を、全く同じ一人として扱うことは出来ない。
父上が以前言った、兵を人として数えろという言葉が、また別の形で俺の前へ現れ始めていた。
*
秋の気配が近付くにつれ、野良田の傷跡とは別の動きが、北から届くようになった。
浅井下野守久政が小谷へ戻り、崩れた家中をまとめ直していることは以前から聞いていた。新九郎を失い、野良田で大きく負け、その後は朽木に北西から土地を削られた。それでも浅井家そのものが消えたわけではない。むしろ何もしないままでいれば、浅井に従う国人たちの方が「この家に付いていて大丈夫なのか」と考え始める。
小谷へ人が入り、北近江の国人たちへ使者が動き、城によっては兵糧を集め始めたという報告が増えていった。
ある日の評定で、三雲対馬守が地図の上へ幾つか印を置いた。
「浅井方、刈り入れが終われば軍を起こす可能性がございます」
父上から向かう先を問われ、対馬守は指を北から南へゆっくり滑らせる。
「朽木に奪われた土地を戻しに行くか、あるいはこちらへ圧を掛けるか。今のところ定かではございませぬ。ただ、小谷を中心に兵を整える動きそのものは確かにございます」
「野良田であれだけ痛めつけても、まだ出てくるか」
後藤但馬守が腕を組むと、蒲生下野守が静かに答えた。
「出てこねば、家中が離れましょう。新九郎殿を失い、朽木には北から領を削られております。ここで何もせねば、浅井に付いていてよいのかと考える者が出ても不思議ではございませぬ」
「そういうことじゃろうな」
父上が頷いた。
俺も地図を見ながら、浅井が動くという言葉を頭の中で転がしていた。
少し前の俺なら、最初に考えたのは「六角は何人出せるか」だっただろう。
だが今は、その後に別の問いが続く。
いつ出すのか。命を出してから何日で集まるのか。何を持たせるのか。何日動かすのか。そして、その時期にその人数を家や田から抜いても、本当に大丈夫なのか。
同じ一万でも、明日から三日だけ使う一万と、一月後に二十日動かす一万では、まるで意味が違うのではないか。篠から村の話を聞いた後では、なおさらそう思えた。
「右衛門督」
父上に呼ばれ、地図から顔を上げる。
「はい」
「随分と難しい顔をしておるな」
「浅井が動くのであれば、こちらも備えねばならぬかと考えておりました」
「それだけか?」
父上の目を見て、一瞬迷う。隠すようなことでもない。
「……帳面を試せるとも思いました」
何人かの視線がこちらへ向いた。父上は僅かに間を置いてから、口元を緩める。
「そなたらしい答えじゃな」
「不謹慎でしたか」
「いや。戦になる前に試せるなら試しておけ。戦場で初めて間違いに気付くよりは、よほどましじゃ」
父上はそのまま後藤但馬守へ視線を移した。
「但馬守。野良田へ出た家々へ、再び兵を出すとすればどれほど掛かるか確認させよ。ただし動員ではない。備えの確認じゃ」
「はっ」
続いて、再び俺を見る。
「右衛門督。そなたの帳面も使え。そのために作っておったのであろう」
「はい」
「ただし、帳面に書いてあるから出せる、とは考えるな。そなたが数えた兵のうち、実際に今動かせるのがどれほどなのかを見てみよ」
「承知しておりまする」
篠から村々の様子を聞いたばかりだったこともあり、その言葉は以前よりずっと重く聞こえた。
帳面へ書いた数字が間違っていなくても、そのまま戦場へ持って行けるとは限らない。
俺が作り始めた記録が、現実とどれほど合っているのか。それを確かめる機会は、思っていたより早くやってきた。
*
確認を始めると、帳面の数字はあっけないほど簡単に崩れた。
「五百のうち、今すぐ長く出せるのは三百五十ほどにございます」
弥太郎が一通の報告を読み上げる。
残る百五十のうち、怪我の治りきらない者が二十余り。家の事情ですぐには難しい者が六十ほど。そのほかは、刈り入れ前に出すこと自体は出来るものの、長く家を空ければ困るという。
「五百全部が出せないわけではないのだな」
「命を掛ければ出すとは申しております。ただし、その五百を何日出すのかで話が変わる、と」
「三日なら五百でも出せるが、十日なら難しいということか」
「そのようにございます」
別の家では、人数だけなら以前より多く出せるという返事が来た。野良田で怪我をした者の代わりに弟や親族が加わり、兵の頭数だけなら以前とほとんど変わらない。ただし弓が足りず、野良田の時と同じ組み合わせでは出せない。
さらに別の家は兵そのものに余裕がある一方で、野良田で使った荷駄馬の一部がまだ回復しておらず、長く動くための米を十分に運べない。別の家では兵糧そのものはあるが、それを運ぶ人足を今の時期に田から外しにくいという。
一つ足りれば、別のものが足りない。
人がいても武器が無い。武器があっても馬がいない。馬があっても人足を出せない。全て揃っていても、その状態を何日維持出来るのかはまた別になる。
俺は一枚ずつ紙を並べながら、最初に「兵五百」という一行だけを見ていた頃の自分が、随分単純なものを見ていたのだと思い始めていた。
「若様」
夕方になり、弥太郎が疲れ切った顔で帳面から顔を上げる。
「結局、何人出せるのでございますか」
「俺に聞くな」
「若様が数えておられるのでしょう」
「数えておるから、分からなくなってきたんだ」
「それでは困りまする」
「俺も困っておる」
帳面には、一つの家だけで幾つもの数字が並んでいた。
最大で出せる人数。今すぐ大きな無理なく出せる人数。三日なら出せる数。十日を越えると難しくなる数。刈り入れ後なら増やせる見込み。
以前なら横に「五百」と一つ書けば終わっていたものが、今は条件によって別の姿を見せている。
「兵の数だけではなく、使える時間も一緒に見なければ駄目なのかもしれぬ」
「時間でございますか」
「ああ。五百を三日だけ出せるのと、五百を一月置けるのは同じではない。反対に三百しか出せなくても、その三百を長く使えるのであれば、別の使い方が出来る。何人いるかだけでは、軍としてどれほど使えるのかまでは分からぬらしい」
「それを全部帳面へ?」
弥太郎の顔に、さらに仕事が増えることへの露骨な嫌悪が浮かぶ。
「そんな顔をするな」
「嫌にございます」
「正直だな」
「若様も先ほどから同じところを何度も見直しておられるではございませぬか」
「それは否定せぬ」
そんなやり取りをしているところへ、襖の外から篠の声が掛かった。
「若様、篠にございます」
「入れ」
篠は、先日頼んでおいた村々の追加の様子を持ってきたらしい。
「ちょうどよい。こちらも分からなくなってきたところだ」
「何がでございますか」
「何人動かせるのか、じゃ」
「数えればよろしいのでは?」
「その数が一つではないんだ」
事情を説明すると、篠は少し考えた後、納得したように頷いた。
「それなら、村の者が申していたことと同じですね」
「何と」
「出ろと言われれば出る。ただ、いつまでなのかは聞きたい、と」
また同じところへ戻ってきた。
何日までなら大丈夫なのかと聞いてみても、やはり一つの答えは返ってこない。刈り入れの直前なら、二、三日でも嫌がる村がある。刈り入れさえ終われば、少し長くても構わないところもある。ただし冬が深くなれば、今度は雪や凍った道の問題が出る。
「結局、季節から逃げられぬか」
「百姓を兵に使うのであれば、そうではございませぬか」
何気なく返された一言なのに、それだけが妙に耳へ残った。
百姓を兵に使うのであれば。
考えてみれば、当たり前だった。
六角だけではない。この時代の軍勢の多くは、普段は田や畑で働いている男たちを、必要な時に呼び出して作られる。ならば田植えや刈り入れと戦が無関係であるはずがない。肥田で、すでにその現実を目にしている。
知識としては知っていた。
ただ俺は、それを「軍をいつまで動かせるのか」という問題として見ていなかったのだ。
「若様?」
「いや、続けてくれ」
今の時点では、それ以上先へ考えても答えは出なかった。
百姓が兵になる以上、農作業が軍を縛る。
あまりに当たり前のことで、当たり前過ぎたからこそ、今まで疑問として見えていなかったのかもしれない。
その感覚だけを頭の片隅へ残し、俺は目の前に積まれている紙へ戻った。
*
数日後、父上へ途中経過を持っていった。
今回は以前のように大量の紙を抱え込まず、家ごとの数字をまとめたものだけに絞った。それでも父上は、俺の手元を見るなり僅かに顔を顰める。
「また増えたか」
「紙は減らしました」
「中身は?」
「増えました」
「意味が無いではないか」
「私もそう思いまする」
「なら何故増やす」
「調べたら増えたのでございます」
父上は額へ手を当てたが、それ以上は言わず、続きを促した。
帳面を地図の横へ置く。
「以前は、兵を何人出せるかだけを見ておりました。ですが実際に確認すると、それだけでは足りませぬ。五百を出せる家でも、今すぐ十日出せるとは限りません。命を掛ければ五百全て来ますが、刈り入れ前に長く取れば、その家の田が困る。三百五十なら十日動かせても、五百なら三日までというような違いがございます」
「それは当然であろう」
「父上には、でございます。私は今まで『五百出せる』で終わっておりました」
父上が少し笑った。
「なるほどの。そなたの数字に、ようやく季節が入ったか」
「……はい」
「馬も同じじゃぞ。冬に使える道と夏に使える道も違う。雨が続けば荷駄も遅れる」
「弥七にも調べさせておりまする」
「そうか。それで、何人動かせる」
予想していた問いだった。
それでも、以前のように一つの数字で答えることは出来なかった。
「いつ、どれほどの日数を動かすかによります。今すぐ三日程度であれば、野良田に近い数まで集められると思いまする。ただし十日、二十日となれば、無理なく出せる数は減らした方がよいかと。刈り入れ後であれば、また変わります」
「以前なら何と答えた」
「一万二千、と」
「今は?」
「条件を聞かねば、答えられませぬ」
父上が声を上げて笑った。
「随分と面倒な男になったな」
「父上の教えにございます」
「儂のせいにするでない」
「今日見たものだけが全てではないと仰ったのは父上です」
「そこまで面倒にしろとは申しておらぬ」
口ではそう言いながら、父上の機嫌は悪くない。
「だが、悪くない。戦をする側からすれば、何人出せるかだけでなく、いつまで出しておけるかは大事じゃ。そなたはようやく、兵を人として数え始めたようじゃな」
「今までも、人だとは思っておりました」
「肥田で死人を見てからは、な」
父上の声から、僅かに笑いが消えた。
「だが、生きている兵にも戦以外の暮らしがある。それを数へ入れ始めたということじゃ」
言われてみれば、その通りなのかもしれなかった。
死者の数の後ろに、一人ずつ名前があることは肥田で知った。
今度は、生きて帰った兵の後ろにも家があり、田があり、日々の暮らしがある。軍を動かすということは、その人間を一時的にそこから引き離すことでもある。その時間が長ければ長いほど、戦場の外に残る負担も大きくなる。
「浅井については」
尋ねると、父上の表情が少し変わった。
「まだすぐには動かぬ。刈り入れを待つつもりであろう。向こうも同じじゃ。百姓を兵に使う以上、田を無視しては動けぬ」
また、その言葉だった。
篠から聞いたものとほとんど同じだ。
黙った俺に気付き、父上が眉を上げる。
「何じゃ」
「いえ。同じことを篠にも言われました。百姓を兵に使うのであれば、季節から逃げられぬ、と」
「当たり前じゃ」
「はい」
確かに、当たり前なのだろう。
それでも何故か、その当たり前だけが胸の中へ残った。
*
秋が深まるにつれ、北近江から届く報告も増えていった。
浅井は動員を急がず、やはり刈り入れを待っているらしい。朽木も北へ広げた土地を固めながら、小谷の動きを見ている。六角側もすぐに大軍を出すことはせず、父上は境にいる諸将へ警戒を命じるに留めていた。
その間も、俺は帳面を更新し続けた。
兵の最大数。今すぐ無理なく出せる数。短くなら出せる数。長く動かせる数。弓、鉄砲、騎馬、荷駄馬、兵糧、道、そして季節。
最初に作った帳面と見比べれば、同じ六角家の軍勢を書いているとは思えないほど複雑になっている。
だが、以前より分かりにくくなったことを、悪いことだとは思わなくなっていた。
単純に見えていた頃は、分からないものがあること自体を知らなかっただけだ。今は少なくとも、何が分からないのかを少しずつ見つけられるようになっている。
ある夕方、篠、弥七、宗兵衛から集めた報告を弥太郎と整理していると、宗兵衛が米の値を書いた紙を差し出した。
「戦が近いという噂が広がると、やはり少し上がります」
「まだ出陣すら決まっておらぬのにか」
「決まってから買う者ばかりではございませぬ。今後必要になると思えば、商人も手元へ置きますので」
その言葉を聞き、少し前に調べた朽木の北進を思い出した。
「兵と同じだな」
「兵、でございますか」
「ああ。必要になってから全部を集めていては遅れる。物も、必要になると思えば先に動く」
「まあ、そういうものでございましょうな」
宗兵衛にとっては、それほど不思議な話ではないらしい。
だが俺には、その一言からまた別のことが繋がった。
米が動く。
銭が動く。
兵が動く。
その兵を増やそうとすればどうなる。
これまで六角を今以上に強くするなら、領内からさらに多くの男を出せばよいと、どこかで単純に考えていた。だが百人を追加で兵に出せば、その百人は田から消える。長く出せば出すほど農へ掛かる負担は大きくなり、下手をすれば次に取れる米そのものを減らす。
そして減った米で、増やした兵を食わせなければならない。
人数だけを増やせば解決する話ではない。
ならば、どうすればいいのか。
前世で戦国時代について読んでいた俺には、兵の集め方についても幾つか知っている言葉がある。だが、それは歴史の説明として知っているだけだった。その言葉を今ここへ持ってきて、目の前の問題への答えとして置くには、まだ何かが足りない気がする。
知っている言葉に現実を合わせるのではなく、まず今の六角がどうなっているのかを見なければならない。
そう考えて、無理に先の答えを出すことは止めた。
代わりに、帳面へ一つだけ新しい項目を書き加える。
「兵を出した後、田に残る者……でございますか」
横から覗き込んだ弥太郎が、俺の書いた文字を読み上げた。
「ああ。全部の家を細かく調べるつもりはない。だが兵を何人出せるかだけではなく、何人残さなければならぬのかも知りたくなった」
「また増えましたな」
「ああ」
「御屋形様に怒られませぬか」
「多分怒られる」
「では止めますか」
「止めぬ」
「そう仰ると思いました」
弥太郎が笑い、俺も僅かに笑った。
以前なら、六角が一万二千を出せると聞けば、その数字そのものを力だと思っていた。
今は、その一万二千を集めるために、どれだけの家から男を抜き、どれだけの馬と米を動かし、どれだけの田から働き手を離すことになるのかが気になる。そのうえ、一万二千という数そのものも、いつ、何日使うのかによって姿を変える。
兵がいることと、その兵を今動かせることは同じではない。
動かせることと、動かしても領地が困らないことも同じではない。
今の六角が大勢の兵を集められることは、間違いなく力だった。
ただ、その力は田から切り離されて存在しているわけではない。田植えが来れば戻す必要があり、刈り入れ前には長く留めにくい。冬になれば田の仕事は減っても、今度は雪や道が軍を縛る。
俺が最初に知りたかった「動かせる兵の数」は、考えていたより遥かに複雑なものだった。
それでも、分からないままよりはいい。
浅井が再び動けば、次はこの帳面を持って実際の軍を動かすことになるだろう。その時、ここへ書いたものがどこまで役に立ち、何が現実と食い違うのかも分かる。
今の俺が辿り着いたのは、まだ「百姓を兵に使う以上、軍は季節から逃げられない」という、考えてみれば当たり前のところまでだった。
けれど以前の俺は、その当たり前を問題として見ることすらしていなかった。
そう考えれば、答えが増えたわけではなくても、見るべきものは確かに増えていた。