淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第四十一話「佐和山」

 刈り入れが進むにつれて、帳面に並べていた数字がまた少しずつ変わり始めた。少し前まで今は長く兵を出せないと答えていた家から、十日ほどであれば問題ないという返事が届き、野良田で傷を負った者の中にも、ようやく槍を持って動ける程度まで回復した者が増えている。怪我や疲れで使えなくなっていた荷駄馬が戻ったという報告もあり、夏の頃と比べれば六角全体で動かせる兵や物が増えているのは確かだった。

 

 だが、刈り入れさえ終われば全てが元通りになるほど単純でもない。田の仕事が一段落すれば、今度は冬に備えて薪を集め、傷んだ屋根を直し、刈り取った米を乾かして蔵へ納めなければならない。以前、兵として動かせる人数は季節によって変わるのだと知ったつもりでいたが、各家から届く数字を追っていると、同じ季節でも事情が揃うわけではないことまで見えてきた。刈り入れの早い土地と遅い土地があり、野良田で受けた傷の治りにも差がある。家族の病や不幸まで含めれば、去年と今年で同じ人数を出せると考える方が無理なのかもしれない。

 

「こちらは刈り入れが済んだそうにございます。以前は三百五十ほどと申していた家ですが、今なら四百五十ほどは長く出せるとのこと。ただし、残る五十ほどは傷が治りきらぬ者と、家の事情で難しい者にございます」

 

 弥太郎が一枚の書状を俺の前へ置いた。以前の記録を開いて見比べると、確かに同じ家の欄には三百五十とある。野良田へ出した五百から一度はそれだけ減り、刈り入れを終えて百人ほど戻ったことになる。それでも五百全てが揃うわけではない。

 

 俺は三百五十という数字を消さず、その横へ確認した日と四百五十という数を書き加え、増えた理由も添えた。田の仕事が一段落したから出られる者と、傷が治ったことで戻った者では意味が違う。来年同じ頃になれば、また四百五十になると決まったわけでもない。何人いたかだけでなく、何故その人数になったのかまで残さなければ、次に同じ時期の軍勢を考える際、かえって判断を誤ることになりそうだった。

 

 ところが別の家から届いた書状では、以前より十人ほど減っていた。病で三人、馬から落ちて足を傷めた者が一人、残りは家の事情で出られないという。

 

「戦をしておらぬのに減るのか」

 

「人でございますから」

 

 あまりにも当然のことを言う弥太郎に、思わず苦笑した。父上からも兵を人として数えろと何度も教えられてきたが、こうして記録を並べていると、その意味を忘れそうになる。数字が増減するたびに何か特別な理由を探したくなるものの、人間なのだから戦がなくても病気になるし、怪我もする。家族が倒れれば、代わりに働かなければならない者もいる。馬だって同じで、今日使えた一頭が明日も同じように荷を運べる保証などない。

 

 帳面を細かくすればするほど、かえって分からないものが増えているようにも感じられた。だが、それは記録が役に立っていないということではないのだろう。以前は五百と一行書けば、その五百がいつでも同じように存在している気がしていた。今は、その中に病人がおり、傷の治った者がおり、家を空けられない者がいることを、少なくとも見落とさずに済む。元から複雑だったものを、俺が単純な数字へ押し込めていただけなのだ。

 

 昼を過ぎた頃、村々の様子を見に出ていた篠が戻ってきた。刈り入れ前と何か変わったかと尋ねると、人々の口にすることが少し違ってきたという。

 

「以前は、また兵を取られるのかという声が多うございました。今は、出るならこの時期の方がまだよいと申す者が増えております」

 

 理由は冬だった。田の仕事が一段落しても、山に近いところでは雪が降り、道が悪くなる。荷を運ぶ馬も使いにくくなるため、それならまだ道を通れる今の方がましだという。ただし篠は、兵を出しやすいと考えているだけで、村人たちが戦を望んでいるわけではないとも付け加えた。

 

「分かっておる。出られることと、出たいことは別じゃ」

 

「左様にございます。念のため申し上げました」

 

 篠の話を聞いていると、帳面の中で上下していた数字と、その数字の中にいる人間の感覚が少しずつ重なってきた。農の都合だけを考えれば、刈り入れ後は確かに兵を出しやすい。しかし、その先には冬が待っている。秋なら動かせるという一つの答えだけでは足りない。どの土地から何処へ向かい、どれほどの日数を要するかによって条件は変わる。南近江では問題なく通れる道でも、北へ進めば同じとは限らないし、山間に入ればさらに違うだろう。

 

 兵数について条件を知らずに答えても意味がないと父上から教えられた時には、何人を出せるかという話だと思っていた。だが今では、軍を動かすこと全体に同じことが言えるのだと感じ始めている。兵を集めるまでの日数も、運べる荷の量も、季節や場所が変われば同じ数字を使えなくなる。

 

 俺が書状へ目を戻したところで、篠の声が少し低くなった。

 

「若様。北の話もございます。小谷へ入る者が増え、兵糧を動かしているという話が聞こえております。何処へ出るかまでは分かりませぬが、刈り入れが終わるのを待っていたのではないかと」

 

 予想していなかった話ではない。それでも実際に聞くと、先ほどまで帳面の数字を眺めていた部屋の空気が少し変わったように感じられた。

 

 六角が刈り入れとともに動かせる兵を増やせるのなら、浅井もまた同じ条件の中にいる。野良田で大きく敗れ、新九郎を失い、その後は竹若丸によって西側の土地まで削られたとはいえ、浅井家そのものが消えたわけではない。久政は小谷へ戻り、家中をまとめ直している。何もせずにいれば、浅井へ従う国人たちからさえ、このまま従い続けてよいのかという迷いが出るだろう。家を保つために兵を動かす必要があるなら、自分たちで時期を選べるうちに動こうと考えても不思議ではなかった。

 

 三雲対馬守のところにも似た話は入っているだろう。そう考えていると、篠も同じことを思ったらしく、近いうちに評定があるのではないかと口にした。

 

 その予想は外れず、翌日には父上から評定へ出るよう命が来た。

 

 *

 

 広間には蒲生下野守、後藤但馬守、進藤山城守、三雲対馬守、目賀田次郎左衛門尉、平井加賀守の六人が揃っていた。俺も父上の近くへ座り、弥太郎には少し離れたところで持参した帳面を預けてある。全員が席に着くと三雲対馬守が地図を広げ、小谷を中心に浅井方が兵を集め始めていると報告した。

 

「まだ大軍が一か所へ集まっているというほどではございませぬ。しかし、各地へ出された使者の数や兵糧の動きから見て、近く軍を起こすものと思われまする」

 

 父上が向かう先を尋ねると、対馬守はまず朽木に奪われた土地の回復が考えられると答えた。高島を失い、さらに湖北の西側へまで食い込まれた以上、浅井としても放置出来ない。ただし六角へ向かう可能性も十分にあり、野良田で一度敗れたからといって南の境が安全になったわけではないという。

 

 俺も地図へ視線を落とした。野良田の後、竹若丸は六角から与えられた蔵入地を越え、田屋、長法寺、沢村、海津へと一気に進んだ。その後も浅井の西側へ圧力を掛けている。浅井から見れば北西には朽木、南には六角があり、どちらか一方へ兵を向ければ、もう一方が動く可能性まで考えなければならない。

 

 但馬守は、浅井からすれば六角と朽木が示し合わせているようにも見えるだろうと言った。山城守が、実際には竹若丸が六角の命だけで動いているわけではないと続けたが、父上は向こうから見れば同じことだと返した。

 

「朽木は野良田で我らと共に戦い、その後は浅井領へ入った。今度六角が南から出れば、浅井は二方を見ねばならぬ」

 

 そこで蒲生下野守から、浅井が動くのを待つよりこちらから先に出るかという意見が出た。広間の視線が父上へ集まる中、父上は迷う様子もなく頷き、地図の一点へ指を置いた。

 

「儂もそう考えておる。佐和山を取る」

 

 その一言で、広間の空気が僅かに張った。

 

 佐和山は六角と浅井の境に近く、昔から両家が奪い合ってきた城だ。犬上と坂田の境目に位置し、浅井が南へ出る時にも、六角が北へ進む時にも無視出来ない。俺も何度も地図の上で見てきた場所だったが、実際に攻めると決まった途端、ただの印ではなく、山と道と兵を持った戦場として頭の中に形を取り始めた。

 

 父上の考えは、浅井が動くのを待って受けるより、佐和山を押さえてこちらから北へ圧力を掛けるというものだった。浅井が朽木へ向かうつもりでいたなら、六角が南から兵を進めることで、その一部を小谷の守りへ戻さざるを得なくなるかもしれない。佐和山そのものを取ることに加え、浅井の兵を自由に動かさせないことにも意味があるのだろう。

 

 目賀田次郎左衛門尉が動員する兵数を尋ねると、父上は中途半端な数で城だけを囲めば浅井に後詰を出す余地を与えるため、出すなら一息に取るつもりで出すと答えた。

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の意識は自然と手元の帳面へ向かった。

 

 どれほどの兵を集められるのか。それだけでは足りない。何日で集められ、どれほどの期間動かせるのか。兵糧は何日分を持たせられ、荷駄をどれだけ揃えられるのか。ここしばらく調べ続けてきたことが、初めて実際の出陣へ使われることになる。

 

「右衛門督。そなたの帳面ではどうじゃ。今から兵を集めるとして、何日でどれほど揃う」

 

 聞かれるかもしれないと思っていた問いだった。それでも広間中の視線がこちらへ集まると、答える前に一度頭の中で数字を確かめた。

 

「各家が今の見込み通りに動けることを前提とするなら、三日で五千余り、五日で八千前後、七日あれば一万ほどは揃えられるかと存じまする。ただし、あくまで今確認している状態での数字にございます」

 

 数日前にも荷駄馬の数が変わった家があり、兵についても病や怪我がある以上、実際に命を出した時には別の数字になる可能性がある。そこを曖昧にしたくなかったため、あえて条件を付けた。

 

 但馬守は少し驚いたようにこちらを見たが、父上は口元を緩めた。

 

「以前なら一万二千と言い切っておった男が、随分慎重になったものじゃ」

 

「父上が、条件を確かめよと仰いましたので」

 

「儂の教えを都合良く使うな」

 

 広間に小さな笑いが起こり、それで少し肩の力が抜けた。だが父上はすぐ地図へ視線を戻し、五日で八千という数字を改めて確かめた後、七日待って一万を揃えるより、五日で八千を先に出す方がよいと判断した。残る兵は後から追わせ、先行する兵でまず城を囲み、後続には追加の兵糧も持たせるという。

 

 その判断には少し驚いた。以前の俺なら、最大まで揃えてから出た方が安全だと考えただろう。しかし、一万が揃うまで待つ二日の間にも浅井は動く。兵数だけを最大にすることが、必ずしも最善ではない。何人揃うかだけでなく、何日で揃うかまで分かるようになったことで、初めて八千を五日で出す場合と、一万を七日で出す場合を比べられるようになったのだ。

 

 もっとも、父上が気にしていたのは兵の数だけではなかった。

 

「右衛門督。八千を五日で集めるとして、どこに無理が出る」

 

 すぐには答えられなかったが、ここ数日の記録を思い返せば、兵そのものより荷駄の方が危うい。野良田の後に確認した限り、兵数に比べて荷駄馬の少ない家が幾つかあった。同じ日数の兵糧を一律に持たせようとすれば、そこが遅れる可能性がある。

 

 そのことを説明すると、父上はではどうするのかと尋ねてきた。

 

「荷駄に余裕のある家へ、多めに運んでもらう方法はございます。ただし、その家だけに余分な負担を掛けることになりますれば、後から役を軽くするなり、米で返すなり、先に補い方を示しておくべきかと」

 

 但馬守が頷いた。此度だけ余分に運ばせ、その分を後で返すと最初から決めておけば、各家にも話は通しやすいだろうという。目賀田次郎左衛門尉も、兵糧の割り当てを考える上では、どの家が運ぶかまで含めて確認する必要があると指摘した。

 

 三雲対馬守から道について尋ねられたので、今度は弥七から受けた報告を思い返した。佐和山へ向かう街道そのものに大きな問題はないが、大軍と荷駄が同じ時刻に同じ場所へ入れば詰まりやすい箇所がある。そこを地図で示し、出立の時刻を家ごとに少しずつずらした方がよいと答えると、周辺を知る対馬守も、荷が重なれば確かに遅れる場所だと認めた。

 

 父上はしばらく地図と帳面を見比べた後、五日後の出陣を決めた。先行する兵は八千を目処とし、遅れる家を無理に待たない。ただし集まり具合は毎日確認し、予定と実際の違いを残すよう命じる。

 

「右衛門督、そなたが見よ」

 

「某が、でございますか」

 

「試したかったのであろう。ならば戦場まで持って行け。紙が兵を動かせるのか、それとも紙は紙でしかないのか、見てくるがよい」

 

 少し意地の悪い言い方だったが、胸の中に湧いたのは不満ではなく、期待と不安が入り交じったものだった。作り始めた帳面が本当に軍を動かす際の判断に役立つのか、ようやく確かめることが出来る。もちろん父上から任されたのは、帳面を使って兵を集める状況を確認することであり、俺が独りで軍を動かすわけではない。その違いも忘れてはならなかった。

 

「承知いたしました」

 

 俺は頭を下げ、預けていた帳面を弥太郎から受け取った。

 

 *

 

 出陣の命が出た瞬間から、帳面に書いていた数字は現実によって試され始めた。

 

 初日は概ね予定通りだった。観音寺城へ入ってくる使者から各家の報告を受け、明日到着、二日後、三日後と一つずつ印を付けていく。兵数だけでなく、分かる範囲で騎馬や荷駄の数も一緒に記した。野良田の後に調べた数字と見比べれば、大きく違う家もあれば、ほとんど変わらない家もある。少なくとも最初の段階では、帳面が全く役に立たないということはなさそうだった。

 

 ところが二日目になると、早くもずれが出た。

 

 予定より早く兵を出した家がある一方で、出立直前に荷駄馬が一頭倒れ、荷を積み替えるため半日遅れた家もある。別の家では兵は揃ったのに米を運ぶ人足が足りず、荷だけを後から追わせることになった。兵数が揃っていても、兵と物が同時に届くとは限らないという、考えてみれば当たり前のことがすぐに起きた。

 

「若様、こちらは明朝到着の予定が昼になるそうにございます。雨で道が悪くなったとのこと」

 

 弥太郎から報せを受け、思わず外を見た。観音寺城では雨など降っていなかったため、向こうでは降ったのかと聞き返すと、弥太郎は当然のように頷いた。

 

 数里離れた場所の天候まで、同じであるはずがない。それでも帳面の上で予定を並べていると、無意識のうちに全ての家が同じ空の下を進んでいるような感覚になっていた。雨が降れば道がぬかるみ、荷駄の歩みが遅れる。兵だけなら進めても、荷を積んだ馬が同じ速さで進めるとは限らなかった。

 

「予定の時刻は消すな。その横に実際の到着を書こう。遅れた理由も分かるなら残してくれ」

 

「また増やしますか」

 

「増やす」

 

「聞くまでもございませなんだ」

 

 弥太郎が苦笑した。

 

 予定と実際を並べて書き始めると、単に遅れた、早かったという結果だけでは足りないことが分かってきた。何故遅れたのか、どれほどずれたのか、兵は予定通りだったのに荷だけが遅れたのか。その違いを残しておけば、次に同じ道を同じ頃に使う時の材料になる。もちろん来年も同じ日に同じ雨が降るわけではない。それでも、前は三日で来たから今回も三日だと決めるより、雨が降れば四日掛かったことがあると知っている方が、多少は余裕を持って考えられる。

 

 篠、弥七、宗兵衛も、それぞれの得意なものを見て動いていた。

 

 弥七は大軍が通る前に道を確かめ、荷駄が詰まりそうな場所を知らせてくる。宗兵衛は途中で不足が出た時に米や草鞋を買えそうな市と、戦の噂によって値が上がり始めている場所を拾った。篠は兵を出す村々を回り、出陣への不満が強いところと、刈り入れ後であるため以前より受け入れられているところとを分けて報告してきた。

 

 三人から集まる情報には、帳面へそのまま数字として書き込めないものも少なくない。だが、それでよいのだと思うようになっていた。四百五十人出せるという報告一つでも、村人が納得しているのか、不満を抱えながら従っているのかでは、その後の意味が違ってくるだろう。数字に出来ないから役に立たないのではなく、その数字をどう受け取るべきか判断するための材料になる。

 

 五日目の朝、父上が定めた数に近い兵が観音寺城周辺へ集まった。八千には数百ほど届かないものの、その日のうちに追い付く予定の者を含めれば八千を超える見込みだった。先行する分の兵糧はあり、後から来る家へ追加の米を持たせる手配も出来ている。ただし荷駄だけは予定より少なかった。

 

 俺がそのことを報告すると、父上は今回の距離で支障が出るほどなのかと尋ねた。

 

「直ちに困るほどではございませぬ。ただ、佐和山で長引けば、途中から補わねばならぬかと」

 

「なら出るぞ」

 

 ほとんど迷いのない返事だった。

 

 八千に届くまで待たないのかと確かめると、父上は何のために五日と決めたと思っているのかと返した。八千という数字は、五日目に必ず八千揃うという約束ではない。戦えるだけの兵が集まり、不足する者が後から追い付けるのであれば、数百足りないという理由だけで全軍を止める必要はなかった。

 

「数字に軍を待たせるな」

 

 その言葉は覚えておこうと思った。

 

 帳面を作ったことで、いつの間にか予定した数字がその通りになること自体を成功だと考え始めていたのかもしれない。だが、この軍を動かす目的は帳面通り八千人を並べることではなく、佐和山を取ることだ。必要な兵と物を揃え、動ける時に動く。その判断をするためにこそ数字を集めたのであって、数字を守るために兵を置いておくのではない。

 

 帳面は判断するために使うものであり、帳面に現実を従わせるためのものではなかった。

 

 *

 

 佐和山へ向かう道で、俺は野良田へ向かった時より何度も後ろを振り返った。弥太郎から城は前にあると呆れられたが、見ているのは目的地ではなく、後方へ長く続く軍勢と荷駄の列だった。

 

 兵そのものは概ね順調に進んでいる。問題は、その後ろから続く荷だ。弥七から聞いていた通り、大人数が一度に通れば狭くなる場所では列が詰まり始める。今回は家ごとに出立の時刻を少しずつずらしたため、野良田へ向かった時ほど一か所へ固まってはいない。それでも馬が一頭足を取られれば、その後ろはすぐ止まり、荷を積み直しているうちに兵だけが先へ進んで、また別の場所で待つことになる。

 

「前よりは詰まっておりませぬな。若様の帳面のおかげで?」

 

「道を見てきた弥七と、実際に出立をずらした者たちのおかげじゃ。帳面は、それを忘れぬようにしただけだ」

 

 口にしてみると、それくらいが一番正しい評価だと思えた。

 

 俺は道そのものを広げたわけではない。馬を強くしたわけでも、兵の足を速くしたわけでもない。ただ以前どこで詰まったのか、今回はどこが詰まりそうなのかを事前に知り、出立の時刻を少し変えただけだ。それでも数千人が一日に何度も立ち止まるのと、なるべく流れ続けるのとでは違う。止まっている間にも人は米を食い、水を飲む。夜営地へ着く時刻が遅れれば翌日の動きにも響き、休息が足りなければ兵の疲れも残る。小さな改善に見えても、動かす人数が多ければ、その差は無視出来ないものになるだろう。

 

 途中で休息を取った際には、宗兵衛から先の市で米の値が少し上がり始めていると報告があった。六角の大軍が北へ出たことが知れ渡り、商人の中には手元の米をすぐ売らず、さらに値が上がるのを待っている者までいるらしい。今のところ買い足す必要はないが、城攻めが長引けばこちらが米を求めると考え、値を上げる者も出てくるだろうという。

 

 無理に買い入れず、値の動きだけを見ておくよう命じた。

 

 大軍が動けば、戦場へ着く前から周囲の物まで動き始める。以前なら、軍は自分たちで兵糧を持っているのだから近くの市など関係ないと思っていただろう。しかし戦が長引けば、持ってきたものだけでは足りなくなることもある。その時、近くにどれだけ米があり、いくらで買えるのかは、軍をどれほど長く置いておけるかにも関わる。人々が戦になると思った時点から、物の値も流れも変わっていくのだ。

 

 その日の夕方には後続の一部が追い付いた。雨で予定より遅れた家もあれば、道が思っていたより空いていたため早く着いた家もある。夜営地で火の明かりを借りながら、俺は予定の日付と実際に合流した日を一つずつ並べていった。

 

 眠そうな弥太郎から明日でもよいのではないかと言われたが、明日になれば数字以外の部分を忘れてしまう。どこで馬が止まり、休みを予定より長く取ったのはどこか。どの道で列が詰まり、どこから再び動き始めたのか。そうしたことは、誰かが残さなければ帳面に勝手に記されるわけではない。

 

「某は覚えておりまする」

 

「ならば手伝え」

 

「そう来ると思いました」

 

 弥太郎が隣へ座り、互いに見たものを確かめながら書き足していく。野良田へ向かった時にも軍勢の大きさには驚いたが、今回は同じ大軍を別の目で見ている。以前は何千人いるかを見ていた。今は、その何千人がどれほどの速さで進み、どこで止まり、後ろから何が付いてきているのかを見る。目を向けるところが変われば、それまで気付かなかったものが幾らでも見つかった。

 

 *

 

 佐和山が見えた時、最初に浮かんだのは、この城を本当に短い間で落とせるのだろうかという疑問だった。

 

 山の上には城があり、その周囲には守りに利用出来る地形が続いている。単に兵を並べて押し込めば落ちるような場所には見えない。六角と浅井が長くこの城を奪い合ってきた理由も、目の前にすると少し理解出来た。浅井がここを持つ限り、六角は北へ進むたび背後と補給を気にしなければならない。逆に六角が押さえれば、今度は浅井が南へ兵を出す時に同じことを考える必要がある。地図の上で重要だと知っていた場所が、実際の山の形と道の狭さを見て、ようやく意味を持ち始めた。

 

 父上は到着するとすぐ諸将を集め、城を囲んで北へ抜ける道を押さえるよう命じた。ただし初めから全軍を城へ張り付けず、浅井の後詰が来ることを前提として兵を残しておく。蒲生下野守、後藤但馬守、進藤山城守らへ次々と役目が振られ、兵をどこへ置くかが決まっていく。俺は父上の近くへ残るよう命じられた。

 

「此度も後ろに控えるのでございますか」

 

「不満か」

 

「いえ。ただ、何か役目を頂けるものかと」

 

「野良田では大軍がどう動くかを見たのであろう。今度は城を取るために大軍がどう使われるかを見よ。それに、そなたには帳面がある。兵を数えておった本人が前へ出て討たれては、記録が続かぬ」

 

 死ぬつもりはないと答えたが、父上から野良田の前にも似たようなことを言っていたと返され、言葉に詰まった。確かに肥田でも野良田でも、無事に戻るつもりで出陣している。だが、戻るつもりでいることと、必ず戻れることは違う。そのことを一番初めに教えてくれたのも父上だった。

 

 包囲が始まると、戦場は野良田とはまるで違って見えた。正面から二つの大軍がぶつかるのではなく、どこへ兵を置き、どの道を塞ぎ、どこから攻めるのかを一つずつ決めていく。城へ矢や鉄砲を向ける者の後ろでは、木を切る者、土を運ぶ者、陣を作る者、兵糧を配る者が休みなく動いている。肥田城でも似たものは見たが、今回は人数が多いだけに、一つの遅れが別の場所へ影響することも多かった。兵を増やしても、その全てがすぐ攻め手になるわけではない。先に陣を整え、食わせる場所を作らなければ、長く留めることも出来なかった。

 

 初日は攻撃より包囲に時間が使われた。浅井が後詰を出す可能性がある以上、城だけを見ているわけにはいかない。物見が北へ出され、三雲対馬守の者たちが周囲を探り、父上の本陣には一日中使番が出入りした。どこへ何人を置いた、道を一つ塞いだ、城兵が出ようとして引き返した。そうした報告が積み重なっていく一方で、俺のところへは後続の兵が何人到着し、どれだけの米や矢を持ってきたのかという別の報告も上がってくる。

 

「右衛門督様、後続の兵、七百ほど到着いたしました。米と矢も伴っておりまする」

 

「分かった。父上へも伝えよ」

 

 野良田では、戦が始まってから兵数を気にしていた。今回は城を囲んでいる間にも軍そのものが増えていく。最初から全ての兵を待たずに出陣したから当然なのだが、実際に戦場で見ると、その意味がよく分かった。五日で集められた兵を先に使い、その後ろから七日で集まった兵と物資が追い付いてくる。最大数が揃うまで観音寺城で止まっているのではなく、時間をずらして戦力を足していく。帳面に三日、五日、七日と書いていた数字が、そのまま目の前の兵の動きへ繋がっていた。

 

 二日目から本格的な攻撃が始まると、山へ向かう兵の声や弓弦の音、時折響く鉄砲の音が本陣まで届くようになった。佐和山の守りは簡単には崩れず、攻め上がった兵が押し返され、負傷者が下がるのと入れ替わるように次の兵が前へ出ていく。父上は一つの攻め口へ全軍を集中させず、幾つかの場所を使いながら攻めさせていた。

 

 俺には、数で優っているのだから一つの場所へ大きな兵力を掛けた方が早いのではないかという疑問があった。父上へそのことを尋ねると、返ってきたのは攻め口へ同時に何人立てるのかという問いだった。

 

「道が百人しか並べぬところへ千人押し込んでも、前で戦うのは百人じゃ。後ろの九百は邪魔になる。それに一つへ集めれば、城側もそこへ人を集めればよい。野良田で数の全てを同時には使えぬと知ったのであろう。城攻めも同じじゃ」

 

 また同じことだった。

 

 一万の兵がいるからといって、全員が同じ瞬間に戦えるわけではない。地形が狭ければ前へ出られる人数は限られ、後ろにどれだけ兵を置いても、その瞬間には使えない。ならば別の場所へ回し、守る側にも兵を分けさせる。兵数で優っていることを活かすためにも、その兵をどこへ置くかを考えなければならなかった。

 

「数は大事じゃ。少ないより多い方がよい。だが、多いことと使えることは同じではない。そなた自身が申しておったことであろう」

 

「兵糧と荷駄のことばかり考えておりました」

 

「ならば一つ増えたな」

 

 父上はそれだけ言うと、再び城へ視線を戻した。

 

 俺も佐和山を見上げた。帳面に新しい項目を増やしたくなったが、ここで紙へ目を落とせば父上に呆れられそうだったので、今は頭の中へ残しておくことにした。

 

 *

 

 三日目の朝、三雲対馬守から浅井の動きについて報告が入った。小谷周辺では兵が集められているものの、こちらへ大きな後詰を出す様子は今のところない。それどころか、朽木へ向けるつもりだったと思われる兵の一部まで小谷へ戻しているらしい。

 

「佐和山だけで終わらず、このまま六角が北へ攻め込むのではないかと警戒している模様にございます」

 

 父上は狙い通りだと小さく笑った。

 

 俺は地図へ目を向けながら、今回の目的が佐和山城そのものを取ることだけではなかったのだと改めて理解した。六角が大軍を北へ動かしたという事実が、浅井の兵を縛っている。こちらが次にどこへ向かうのか分からない以上、浅井は小谷を空けて佐和山へ全軍を出すことが出来ず、朽木へ向かわせるために集めていた兵まで戻さなければならない。

 

 まだ槍を合わせていない相手の兵を、こちらの行動によって動かしたことになる。

 

「戦わずに動かしたのか」

 

 思わず呟くと、隣にいた弥太郎が怪訝そうな顔をした。

 

「浅井の兵じゃ。佐和山へ大軍を出しただけで、向こうは小谷へ兵を戻しておる。こちらが次に動くかもしれぬと思わせるだけでも、相手を別の場所へ縛ることが出来るらしい」

 

 野良田では敵兵を倒すことばかり考えていた。だが兵の価値は、実際に槍を合わせた時だけに生まれるわけではない。そこにいること、動けること、次にどこへ向かうか分からないこと自体が、相手の判断へ影響を与える。兵が多いということは、単に戦場で押し込める人数が多いだけでなく、その兵で何が出来るかを相手に考えさせる力にもなるのだろう。

 

 父上が佐和山へ大軍を出した理由の一つが、ようやく見えた気がした。

 

 昼頃には、周辺の村や街道へ出していた篠が本陣へ戻ってきた。戦場へ近付き過ぎないよう言ってあったため、城そのものではなく、その周辺を行き交う者や村人から話を拾っていたらしい。

 

 気になるのは、野良田は朽木が勝たせたという噂が今も残っていることだという。朽木の鉄砲が浅井の別働隊を破ったことは広く知られており、六角は数ばかり多く、朽木がいなければ危なかったと話す者もいるらしい。

 

 完全な嘘ではないところが厄介だった。

 

 朽木勢が父上の本陣へ向かった浅井兵を止めたのは事実だ。竹若丸がいなければどうなっていたかは分からない。しかし、野良田全体を六角が何もせず勝ったわけでもない。蒲生下野守たちは正面で浅井を受け止め、第二陣も戦っている。父上も全体へ命を出していた。それでも人から人へ伝わる話では、三百丁の鉄砲が次々に火を噴き、浅井の別働隊を崩した場面の方が分かりやすく、印象にも残るのだろう。

 

 佐和山の戦についても、いずれ同じように話が広がるはずだ。その時に六角がどう見られるのかは、城を落とせるかどうかにも関わってくる。

 

 その日の夕方、人が引いたところで父上へ噂について話すと、驚くこともなく知っていると返された。対馬守からすでに聞いており、朽木が八門を使って噂を広げているのではないかという話まであるらしい。

 

「腹は立ちませぬか」

 

「立たぬと言えば嘘になる。だが竹若丸が何もしておらぬのに吹聴しておるならともかく、実際に大きな働きをした。そこへ文句を申しても、こちらが小さく見えるだけよ」

 

 父上は苦笑した。

 

 実際に功を立てた相手へ、評判が高くなったからと文句を言うことは出来ない。そもそも野良田では、竹若丸の働きによって父上の本陣が守られたのだ。その事実を否定すれば、今度は六角自身が恩を忘れる家だと見られるかもしれない。

 

 では放っておくのかと尋ねると、父上は地図の佐和山を指した。

 

「だからここへ来た。浅井を叩くことが第一じゃ。だが六角が弱いと思われるのも困る。朽木がおらねば勝てぬと思われれば、南近江の国人どもまで余計なことを考えよう。家の力というものは、持っておるだけでは足りぬ。持っていると周りに分からせる必要もある」

 

 肥田城から帰った時のことを思い出した。城を取らずに退いたことで、外では六角は肥田一つ落とせなかったという見方が広がった。俺たちには理由が分かっていた。田植えを優先し、無理に城を取らなかっただけだ。しかし外から見えるのは判断の理由ではなく結果だった。

 

 今度は六角が大軍を北へ出し、浅井の重要な城を自らの力で取る。その結果を示すことが、朽木との力関係だけでなく、南近江の国人たちへも影響するのだろう。

 

「佐和山を取れば、六角はまだ北へ大軍を出し、浅井の城を取れる。そう見えるということでございますか」

 

「そういうことじゃ」

 

「実際に取らねばなりませぬが」

 

「だから攻めておる」

 

 当然のことを言うような父上の返事に、少し笑いそうになった。

 

 戦は勝つだけでは足りない。どう勝ったのか、誰の力で勝ったのか、それを周囲がどう受け取るかまで次へ影響する。帳面には書きにくいものだが、これも確かに一つの力なのだろう。

 

 *

 

 その翌日、佐和山の守りが大きく崩れた。

 

 前日まで何度か押し返されていた攻め口の一つで六角勢が前へ進み、別の場所でも城兵が後退したという報告が入る。浅井の後詰が来ないことも、すでに城内へ伝わっているのかもしれない。逃げ出そうとして捕らえられる者も増え始め、守る側がそれまでのように連携して動けなくなっている様子が、使番の報告からも窺えた。

 

 父上はそこで攻勢を強めた。ただし全軍を一つの攻め口へ押し込むのではなく、前へ出ていた蒲生下野守たちへさらに押すよう命じ、後藤但馬守にも別の場所から圧力を掛けさせた。城内へ入った後は勝手に散らず、蔵と水の場所を先に押さえるよう指示も出している。

 

 使番が次々と走り、俺は父上の横で届く報告を聞き続けた。城へ向ける兵は明らかに増えているが、本陣にはまだ余裕が残されている。浅井の後詰が突然現れる可能性を、父上は完全には捨てていないのだろう。

 

 目の前の城が崩れ始めれば、全ての兵をそこへ入れてしまいたくなる。しかし、その瞬間に別の方向から何か起きれば、すぐ使える兵がなくなる。野良田で浅井を追撃する時にも、父上は全軍を前へ出さなかった。勝ちそうな時ほど目の前へ力を注ぎ込みたくなるが、どこまで兵を出し、どこへ残すかを決めることも総大将の仕事なのだろう。

 

 昼を少し過ぎた頃、城内へ入った兵から次々に知らせが届いた。主要な場所の幾つかを六角勢が押さえ、残っていた城兵も抵抗を続けられなくなりつつあるらしい。それでも最後まで戦う者はおり、城を取ったという報告が来るまでは父上も命を緩めなかった。

 

 やがて、一人の使番が本陣へ駆け込んできた。

 

「佐和山、落ちました!」

 

 その声が響いた時、周囲から一斉に大きな息が漏れた。歓声を上げる者もいたが、父上は一度だけ目を閉じると、すぐに次の命を出した。

 

「城内を荒らすな。逃げた者を追う者を決めよ。勝手な追撃は許さぬ。負傷者を集め、火が出ておるところは消せ。城の兵糧、武具は勝手に持ち出すでない!」

 

 喜ぶのは、その後らしい。

 

 俺もすぐに声を上げる気にはならなかった。肥田城、野良田を経験した今では、城が落ちたという一言の後ろに何があるのか多少は想像出来る。攻めた側にも死者と負傷者がおり、守った側にもいる。城内へ入れば、それを確かめる仕事が始まるし、取った城をどう守るのかも決めなければならない。兵糧や武具が残っていれば、数を調べ、勝手に持ち出す者が出ないようにする必要もあるだろう。

 

 それでも今回は勝った。

 

 六角自身の兵によって、浅井にとって重要な佐和山を取った。その意味の大きさも、父上がこの戦を選んだ理由も、出陣前よりは分かるようになっていた。

 

 *

 

 城内がひとまず落ち着いた後、俺は弥太郎と帳面を持って陣へ戻った。城を取った日にまで帳面を見るのかと呆れられたが、むしろ今だからこそ確かめておきたかった。明日になれば数字は残っていても、何故そうなったのかという細かな事情を忘れるかもしれない。

 

 予定と実際を順に並べていく。

 

 五日目に集めるつもりだった兵は、僅かに予定へ届かなかった。出発後に追い付く予定だった者の大半は見込みに近い日で合流したが、雨で遅れた家がある。荷駄は出陣時に予定より少なく、その代わり途中から追加の兵糧が届いた。佐和山が想定より早く落ちたため、不足するところまではいかなかったものの、包囲が長引けば補給を増やす必要があったはずだ。

 

 道の詰まりは野良田へ向かった時より減ったが、完全になくなったわけでもない。出立の時刻をずらしたことで改善した場所があれば、それでも荷駄馬が止まって後ろを詰まらせた場所もある。通る兵の人数だけでなく、荷の量や馬の状態によって結果は変わるらしい。

 

 城攻めが長引けば必要になるはずだった米も、結果としてかなり残った。数字だけを見れば余ったことになるが、だからといって無駄だったとは思わない。城がいつ落ちるか分からない以上、用意しないわけにはいかなかった。必要になるかもしれないものを備えることと、実際に使ったものだけを見て多過ぎたと決めることは違う。

 

「予定と違うところばかりですな」

 

 弥太郎が帳面を覗き込みながら言った。

 

「ああ。だが、予定を書いておらねば、何が違ったのかも分からぬ。荷駄が少なかったことも、兵が半日遅れたことも、そんなものだったで終わらせておっただろう」

 

 帳面を指で辿りながら、自分の中でも考えが形になっていくのを感じた。

 

 予定が外れたから失敗なのではない。何故外れたのかを残し、次に同じようなことが起きるかを見る。それならば、記録を取る意味がある。

 

 次は帳面通りになるのかと弥太郎に尋ねられたが、おそらくそうはならないだろう。季節も天候も道の状態も毎回同じではない。兵を出す家の事情も変わるし、敵がどう動くかによって必要な日数まで変わってくる。

 

「それでは、また外れるのではございませぬか」

 

「ああ。だが、同じ理由で何度も外れるなら、それは偶然ではないかもしれぬ」

 

 前世で数学を教えていた頃、同じ間違いを繰り返す生徒には、たいてい何か理由があった。符号を取り違える。条件を読み落とす。途中式を省き過ぎる。一度だけなら偶然かもしれないが、同じ場所で何度も間違えるなら、その人なりの癖があり、直すべきところがある。

 

 軍の動きが数学の問題と同じだとは思わない。人間は式の通りには動かず、天候も道も敵も毎回変わる。それでも、予定と実際の違いを比較するという考え方そのものは使えるかもしれなかった。

 

「次からは、予定と実際を最初から分けて書こう」

 

「また書くところが増えますな」

 

「増やすために言ったわけではない」

 

「結果として増えております」

 

 そこは否定出来なかった。

 

「右衛門督」

 

 父上の声がして振り向くと、いつの間にか近くまで来ていた。戦後の命令を一通り出し終えたのか、先ほどまでの総大将としての顔より少し力が抜けている。俺の前へ腰を下ろすと、開かれている帳面へ目を向けた。

 

「まだ紙と戦っておるのか」

 

「此度は城とも戦いました」

 

「そなたはほとんど後ろにおったであろう」

 

「父上が出るなと仰ったのでございます」

 

「そうであったな」

 

 父上は笑いながら頁を覗き込み、帳面は役に立ったかと尋ねてきた。

 

「少しは。ただ、城を取ったのは攻めた兵と、命を出した父上たちにございます。帳面で城壁を登ったわけではございませぬ」

 

「それが分かっておるならよい。して、何を得た」

 

 俺は予定通りに動かなかったこと、そしてその違いを記録することにも意味があると思い始めたことを説明した。何日で何人来ると思っていたのか、それに対して実際にはどれほど掛かったのか。兵糧がどれだけ必要だと考えていたか、実際にはどれほど使ったか。その違いを確かめれば、次に何を見直すべきなのかが分かる。

 

 父上は次も同じとは限らないと指摘したが、それは承知している。季節も道も敵も変わる。ただ、同じ場所で何度も遅れるのであれば、そこには何らかの理由があるはずだ。道を使う順序を変えるべきなのか、荷駄馬の数を改めるべきなのか、それとも初めから余裕を持たせるしかない場所なのか。理由によって取るべき手も違うだろう。

 

 話を聞き終えた父上は、しばらく俺を見た後、ゆっくり頷いた。

 

「なら続けよ。ただし、帳面が戦をしてくれると思うな。人は紙より勝手に動く」

 

「それは篠や弥太郎を見ていれば分かりまする」

 

「若様?」

 

 弥太郎がすぐに抗議した。何故そこで自分の名が出るのかと不満そうな顔をしたので、例として分かりやすかったと答えると、今度は篠にも伝えておくと言い出した。

 

「それはやめろ」

 

 父上が声を上げて笑った。

 

 その笑いが収まった頃、三雲対馬守が本陣へ入ってきた。父上の表情も、すぐに総大将のものへ戻る。

 

「御屋形様。北より報せにございます」

 

「浅井か」

 

「朽木にございます。竹若丸殿、こちらの佐和山攻めに合わせるように再び兵を進めた模様。余呉湖の周辺へ入り、幾つかの山へ兵を置き始めておりまする」

 

 父上が余呉まで進んだのかと確かめると、対馬守は頷き、さらに塩津から荷を運んでいるとの報告もあると続けた。運び込まれているのは米だけではなく、砦を築くためと思われる木材も含まれているらしい。

 

「塩津から?」

 

 思わず口を挟んだ。

 

 対馬守によれば、琵琶湖を船で運んだ荷を塩津の湊で陸へ上げ、そこから余呉湖の周辺へ運ばせているらしい。俺はすぐに地図を引き寄せ、塩津と余呉湖の位置を見比べた。

 

 そこで、これまで自分が陸の道ばかり見ていたことに気付いた。

 

 朽木が進軍する道を先に調べていることは弥七から聞いていた。兵糧を前から用意していたらしいことも宗兵衛から聞いている。しかし今度は、そもそも道を陸だけに限定していない。琵琶湖を使って北へ物を運び、塩津の湊へ上げ、そこから余呉の周辺へ回しているらしい。

 

 父上は地図を眺めながら、竹若丸は城を取るだけでは飽き足りないようだと呟いた。そこへ加わった後藤但馬守も、佐和山が落ちて浅井が小谷へ兵を集めれば、朽木側へ回せる兵は減るだろうと口にした。

 

「こちらの動きまで使われましたか」

 

 そう尋ねると、父上は少し笑った。

 

「お互い様じゃ。こちらも朽木が北から浅井を圧しておるから佐和山へ出やすかった。竹若丸もこちらが南から圧したから前へ出た。それで浅井が苦しくなるなら、悪い話ではない」

 

 確かにその通りだった。

 

 佐和山へ大軍を出したことで、浅井は小谷を守るため兵を戻している。その分だけ朽木へ向ける兵が減ったのであれば、竹若丸にとっては動きやすくなる。逆に朽木が北西で浅井へ圧力を掛けているからこそ、六角は浅井の大きな後詰を受けることなく佐和山を攻められたのかもしれない。両家が細かく示し合わせていたわけではなくとも、互いの動きが浅井の判断へ影響していることになる。

 

 だが、俺の目は地図の別の場所へ向いていた。

 

 塩津。

 

 その名を見ながら、これまで考えてきた兵糧と荷駄のことを思い返す。佐和山へ向かう際には、どの家が何人の兵を連れ、何頭の馬で米を運び、どの道で荷が詰まるのかを調べてきた。それまでより軍の動きが少し見えるようになった気でいたが、竹若丸はそのさらに外側で湖と湊まで使っている。

 

 道を速く歩くのではなく、前もって道を調べる。必要になってから米を集めるのではなく、先に用意しておく。そして今度は、長い陸路を全て荷駄だけで運ぼうとしない。

 

 以前なら、また自分より先へ行かれたように感じて焦ったかもしれない。今は悔しさよりも、興味の方が強かった。なぜ湖を使うのか。実際にどれほど違うのか。船なら馬よりどれだけ多くの荷を一度に運べるのか。米だけでなく木材まで動かせるのなら、砦を作る速さにも違いが出るはずだ。

 

 もちろん、船にも都合はあるだろう。風や天候に左右されるし、何処にでも着けられるわけではない。湊から先では結局、人や馬へ積み替えなければならず、荷を運ぶ船そのものも揃える必要がある。それでも長い道を最初から最後まで荷駄だけで進むより、有利になる場合があるのではないか。

 

 分からないことが、また一つ増えた。

 

「若様」

 

 弥太郎が横から小さく声を掛けてきた。

 

「なんじゃ」

 

「その顔は、また帳面が増える顔にございます」

 

「どんな顔じゃ、それは」

 

「最近、分かるようになりました」

 

「余計なことを覚えるな」

 

 言い返しながらも、否定は出来なかった。

 

 野良田から戻った頃、知りたかったのは朽木が何故あれほど早く動けるのかということだった。その答えを探すうちに、まず六角自身がどれほどの兵を持っているのか知らなければならないと思い、家ごとの兵数や武具を調べ始めた。調べれば調べるほど、兵は季節によって動かせる人数が変わり、その兵を支える家や田の事情まで考えなければならないことが分かった。

 

 佐和山では、その数字を初めて実際の出陣へ当てはめた。兵が集まるまでの日数を見込み、荷駄の少ない家を補い、道の詰まりを減らすために出立の時刻をずらした。それでも予定通りには動かず、雨で遅れる者もいれば、荷が足りず後から追わせる家もあった。だが、予定と実際の違いを残すことには意味があった。

 

 俺の帳面が佐和山を落としたわけではない。それでも以前なら、軍勢が遅れた、荷が詰まったという話で終わらせていたものを、何処で、どれほど、何故起きたのかまで少しずつ記録に残せるようにはなっている。

 

 ただ、それでも足りないものは幾らでもあった。

 

 兵を何人集めるのか。何日で集めるのか。どれほどの米を持たせ、どの道を通すのか。それらを考えても、百姓を兵として使う以上、農の季節に縛られるという問題は残る。そして俺が陸の道ばかり見ている間に、竹若丸は湖から荷を運んでいた。

 

 だからといって、焦って答えを決める必要はないのだろう。分からないものが見つかったなら、まず確かめればよい。父上から何度も教えられてきたように、見えていないものまで分かったふりをする方が危ない。

 

 俺は佐和山へ来るまで使っていた帳面を閉じ、その上へ新しい紙を一枚置いた。佐和山への出陣で予定していたものと、実際に起こったものとの違いを簡単に書き出し、その下へ湖という文字を書き加える。

 

 城を一つ取っても、戦はそこで終わらない。六角が佐和山を押さえたことで浅井の兵が動き、浅井が小谷を守るために兵を寄せたことで朽木がさらに前へ出る。その朽木は塩津から荷を運び、余呉の周囲へ砦を築こうとしている。兵の数を数え始めた頃には、ここまで考えることになるとは思っていなかった。

 

 佐和山は、確かに六角のものになった。

 

 だが俺が今回得たものは、城より遥かに小さく、形もない。予定と実際が違うこと自体を恐れる必要はなく、その理由を残しておけば次の判断へ使えること。そして軍を動かしているのは、帳面の上に並ぶ兵の数だけではないということだった。

 

 次に何を見るべきなのかも、少しだけ分かっている。

 

 余呉へ進んだ竹若丸の兵そのものではない。その後ろで何が、何処から、どのように動いているのか。塩津から湖を使って運ばれる荷が、陸路だけを使う場合とどれほど違うのか。船で運べるものと馬で運ばなければならないものを、どのように分けているのか。

 

 野良田の後、朽木の進軍が早い理由を調べた時には、道と物と人の動きを別々に見た。今度も同じように確かめれば、何かが見つかるかもしれない。ただし、湖を使えば必ず有利になると決めつけるつもりもなかった。使える船が無ければ運べず、風が悪ければ進めない。湊から先の道が詰まれば、そこで荷が止まることにもなるだろう。

 

 それもまた、実際に調べなければ分からないことだった。

 

 俺は書き加えた文字をしばらく眺め、それ以上は何も書かずに筆を置いた。

 

 佐和山で一つ答えを得たと思った途端、帳面にはまた新しい空白が出来ていた。

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