淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第四十三話「三年の答え」ー前編ー

 机の上へ三年前の帳面を広げてみると、今使っているものと比べて随分と薄く見えた。紙の枚数そのものが少ないというだけではない。頁に並んでいる項目も簡素で、当時の俺が何を知りたかったのかが、今になって見れば驚くほど分かりやすい。

 

 三年前、楽市を試すことにした時に調べようとしていたのは、市で取られていた負担の一部を軽くし、商いへ入るための壁を低くした時、人と物がどう動くのかということだった。商人が増えるのか、市へ持ち込まれる品が増えるのか、市日を利用する者が増えるのか。だから最初の頁には、その市へ出入りしていた商人のおおよその数、並んでいた店、市へ運び込まれた品、周囲から聞こえてきた評判などが順番に記されている。

 

 今の俺から見れば、足りないものはいくらでも見つかった。それでも三年前の自分は、随分多くのことを調べたつもりでいたのだろう。実際、それ以前の俺なら、商いの様子をここまで意識して見ることさえなかったはずだ。そう思えば、当時の帳面が間違っているというより、当時の俺が見える範囲で精一杯作ったものと考える方が正しいのかもしれない。

 

「若様、随分懐かしいものを出されましたな」

 

 向かいに座っていた弥太郎が俺の手元を覗き込んだので、覚えているだろうと返すと、弥太郎は頷いた。

 

「覚えております。あの頃から帳面は多うございましたが、今ほどではございませなんだ」

 

「それは俺も今思った」

 

「増えましたな」

 

「増えたな」

 

 そこは否定する気にもならなかった。

 

 頁をめくる。最初の一年には、「商人が増えた」という記録が何度も出てくる。二年目へ入れば扱われる品の種類も増え、米や塩、布、油、日用品、それまで別の市へ行かなければ手に入りにくかった物まで持ち込まれるようになっている。市の周囲には商人を泊める宿や荷を一時置いておく場所も少しずつ増え、三年目には市日だけではなく、その前後にも人が残るようになった。中には常に商いをする者まで現れているらしい。

 

 そこだけを読めば、成功と呼んでもよいように思える。

 

「最初の一年は、商人が増えたと何度も書いておるな」

 

「実際に増えていたのでございましょう?」

 

「ああ。宗兵衛の報告でも、二年目、三年目と続けて減ってはいない。だが、これだけでは足りぬ」

 

 弥太郎が何が足りないのかと尋ねる。俺は帳面から目を離さず、増えた商人たちが何もないところから突然現れたわけではないだろうと答えた。新しく商人になった者もいるだろうが、他の市から移ってきた者もいるはずで、その違いを当時の俺はほとんど見ていない。

 

 塩津について調べ、湊へ人や物が集まることで何が起きるのかを聞いてからは、その裏側が余計に気になるようになった。人が増えれば荷を扱う者が要り、荷を置く場所も要る。宿が増えれば、その宿で使う食料、水、薪が必要になる。商人が一つの場所へ集まるということは、それまで別の場所へ向かっていた人や物の一部が、こちらへ流れを変えたということでもある。

 

 俺が三年前に見ていた「増えた」という数字は、市の内側だけを見れば確かに正しい。だが六角の領内全体を見た時、それが本当に新しく生まれたものなのか、それとも別の場所から移っただけなのかまでは、その帳面は教えてくれない。

 

「弥太郎。三年前の俺は、随分と都合の良いところばかり見ておったようだ」

 

「そうでございましょうか」

 

「見ろ。商人が増えた、荷が増えた、揉め事は思ったより少なかった。負担を軽くした分ほどには、市全体から入るものも減らなかった。悪いことが書いてあっても、この市の中だけの話ばかりじゃ」

 

 弥太郎は少し帳面を覗き込んでから、当時はそれを見るために始めたのではないかと返した。その言葉に、俺はすぐ反論出来なかった。

 

 確かにそうだった。

 

 三年前の俺に、今と同じものまで見ろと言う方が無理なのかもしれない。あの頃の俺は、肥田城で人が死ぬところを目の前にしたこともなければ、野良田で一万を超える兵が一つの塊としては動かないことも知らなかった。佐和山への出陣で、予定と実際が違うことそのものを記録する意味もまだ分かっていない。塩津を調べるまで、安全に商いが出来ると分かれば人と物が自然に集まるということも、今ほど具体的には考えていなかった。

 

「今の目で見直せばよい、か」

 

「何をでございます」

 

「この三年じゃ。当時見ていなかったものを、今から三年前へ戻って全部調べ直すことは出来ぬ。だが今どうなっているかなら見られる。三年前に残した数字と今を比べれば、少なくとも何が変わったのかは分かる」

 

「また仕事が増えますな」

 

「始める前から嫌そうな顔をするな」

 

「このところ、その御言葉を何度も聞いている気がいたします」

 

 弥太郎が笑ったので、俺も苦笑しながら三年前の帳面とは別に新しい紙を置いた。

 

 今度見たいものを、思いつくまま並べていく。商人の数だけではなく、その商人が何処から来たのか。売られる品の種類だけではなく、それが何処から運ばれてくるのか。市日に集まる人数だけではなく、宿や蔵がどれほど増えたのか。人が増えたことで揉め事や火事、盗みがどう変わったのか。荷が増えたことで道がどれほど傷むようになったのか。そして何より、この市の周囲にある別の市が、この三年間でどう変わったのか。

 

「若様、これを全部お調べになるので?」

 

「全部を正確な数字へしろとは言わぬ。父上にも、分からぬ数字を無理に埋めるなと言われたばかりじゃ。分からぬところは分からぬでよい。ただ、見ようともせずに『三年やって上手くいった』と決める方がまずい」

 

「では、篠たちを?」

 

「ああ」

 

 一つの市でも、道、物、人という違う方向から見れば、俺と弥太郎だけで帳面を眺めるより多くのものが見えるはずだ。三年前にこの試みを始めた頃には、篠たち三人を今のようには使っていなかった。その違いも、今回の見直しでは大きい。

 

 *

 

 その日の午後、篠、弥七、宗兵衛を呼んだ。

 

 三人をまとめて呼ぶことも、今では珍しいことではなくなっている。以前なら「忍びを三人も揃えて何を聞けばよいのか」と考えていたはずなのに、今では疑問が出来れば、その疑問を誰の目で確かめるのが一番よいかを自然に考えるようになっていた。

 

 三人の側もそれを理解しているらしい。部屋へ入って地図や帳面が広がっているのを見ると、篠が僅かに肩を落とした。

 

「またお仕事でございますね」

 

「俺がお主たちを呼ぶ時に、それ以外があると思うか」

 

「たまには菓子でも頂けるのかと」

 

「今度用意しておく」

 

「本当にございますか」

 

「そこに食い付くな」

 

 宗兵衛が僅かに笑い、弥七はいつものように黙ったまま地図へ目を落としていた。俺は三年前の帳面を三人の前へ置いた。

 

「以前から話しておった楽市のことは覚えておるな」

 

 宗兵衛が最初に頷いた。

 

「三年の試しでございましたな」

 

「ああ。その三年が終わる。父上からも一度まとめよと言われた。ただ、三年前に俺が見ていたのは、この市の中で人や物が増えたかどうかが中心だった。今度はもう少し外まで見たい」

 

 まず宗兵衛へ向き直る。

 

「お主には商人と物を頼む。今この市へ来ている商人が、以前は何処で商いをしていたのか。新しく商人になった者なのか、別の市から移ってきたのか。それから、持ち込まれる品が何処から来ているのかも、分かる範囲で見てほしい」

 

「周りの市も見ますか」

 

「そこが一番知りたい。この市へ人が増えたことで、近くの市から商人が減っておらぬか。市日を変えた者、こちらを優先して出るようになった者がおれば、その理由も聞いてくれ」

 

「承知いたしました」

 

 次に弥七へ顔を向けた。

 

「お主は道だ。この三年で、市へ向かう荷や人の通り方が変わったかを見てくれ。よく使われるようになった道、反対に人が減った道。橋や渡しが傷みやすくなった場所もあれば知りたい。市へ入る前に荷が詰まる場所もあるだろう」

 

「周囲の関も?」

 

「見るだけなら頼む。ただ、誰がいくら取っているかまで全部洗う必要はない。通る者が何処を避け、何処を選ぶようになったのかを優先してくれ。その理由に銭が絡むなら、その時に聞けばよい」

 

「はっ」

 

 最後に篠を見ると、こちらが何を言うか分かっているような顔をされた。

 

「私は困った人を?」

 

「先に言うな」

 

「当たりでございますか」

 

「……大体はな」

 

 篠が楽しそうに少し笑った。

 

「この市が大きくなったことで、喜んでいる者ばかりではないはずだ。昔からここで商っていた者と、後から来た者との間に揉め事はないか。宿や荷を置く場所は足りているか。盗みや喧嘩が増えておらぬか。夜や火事を怖がっている者がいないか。それから、周りの市で『あちらへ客を取られた』と思っている者の声も拾ってほしい」

 

 そこまで聞いた篠が、少し首を傾けた。

 

「若様は、楽市を止めたいのでございますか」

 

 俺はすぐには答えなかった。三年間続けてきた以上、止めるか続けるかという結論はどこかで出さなければならない。しかし、その答えを先に持ってしまえば、調べる意味そのものが薄くなる気がした。

 

「まだ決めておらぬ。この市だけを見れば、止める理由は今のところ少ない。だが、この市を良くするために周りを悪くしていたなら話は変わる。反対に、周りが多少困っていても、六角全体で見れば良くなっているなら続ける意味はある。そこを知らずに決めたくない」

 

「なるほど」

 

 篠が素直に頷いたので、俺は三人全員へ改めて言った。

 

「それと、良い話と悪い話を同じように持ってきてくれ。俺が聞きたそうにしている方へ合わせる必要はない。商人が増えたなら増えた理由、減ったなら減った理由。嫌われているなら、誰に何故嫌われているのか。それでよい」

 

 塩津を調べた時、篠から「聞かれなかったから言わなかった」と返されたことがまだ頭に残っていた。情報を集める側が嘘を付かなくても、聞く側が欲しい答えばかり求めれば、最終的に見えるものは偏る。俺自身が「楽市は上手くいっている」という前提で話を聞けば、三人も無意識のうちに、それを補強する材料を優先してしまう可能性がある。

 

「若様も随分面倒になられましたね」

 

 篠が言った。

 

「父上にも似たようなことを言われた」

 

「褒め言葉にございます」

 

「本当か?」

 

「半分ほどは」

 

「残る半分は何だ」

 

「仕事が増えたという意味でございます」

 

「正直だな」

 

 三人を送り出した後、俺自身も市へ行くことにした。弥太郎は少し意外そうだったが、三年前にも自分で見に行っているし、何より帳面だけで決めるなと父上から何度も言われている。

 

「大勢は連れて行かぬ」

 

「そういう意味ではございませぬ。若様は目立ちますぞ」

 

「分かっておる」

 

 六角義治の顔を知る者がどれほどいるのかは分からない。それでも、完全に身分を隠して歩けるとは思っていなかった。ただ、大仰に供を従え「右衛門督様の御視察」としてしまえば、市の者たちが普段通りに振る舞ってくれるとも思えない。だから今回も、必要最低限の人数だけを連れて行くことにした。

 

 *

 

 市へ近付く前から、三年前との違いはすぐに分かった。

 

 以前は市日になると道を行く者が少しずつ増え、市へ近付くにつれて荷を背負う者や馬が目立つようになった。それが今では、随分手前から人の流れそのものが出来ている。米俵を積んだ馬、布を抱えた男、籠を背負う者、荷車を押す者が途切れず、その道の脇では、途中で休む商人へ水や簡単な食い物を売る者までいた。

 

「前からあったか?」

 

 小声で尋ねると、弥太郎は辺りを見回してから首を横に振った。

 

「少なくとも三年前には、ここまで手前には無かったと思いまする」

 

「市の外にも、商いが出来たか」

 

 市そのものへ人が集まるようになったことで、その周辺にも商売が生まれたのだろう。考えてみれば不思議ではない。市まで歩く途中で喉が渇けば水を買うし、馬を休ませられる場所があれば使う。市の中へ出せる店の数に限りがあれば、その外側で何かを売ろうと考える者も出る。

 

 しかし、人が増えたことで道そのものの傷みも以前より目立っていた。雨の後なのか、深く窪んだ場所へ水が残り、それを避けようとして人も馬も片側へ寄っている。そのせいで反対側から来る者とのすれ違いに時間が掛かり、荷車が一台止まるだけで後ろに何人も溜まっていた。

 

「弥七が見れば喜びそうだな」

 

「道が傷んでいるのを見て喜ぶので?」

 

「見るところが出来たという意味じゃ」

 

「本人の前では、そう仰らぬ方がよろしいかと」

 

「分かっておる」

 

 市の入口を抜けると、三年前との違いはさらに大きかった。

 

 店が増えていること自体は帳面にも書かれていた。だが「増えた」という一言を紙の上で読むのと、実際に人と人の間を縫わなければ前へ進めないほど店と客が並んでいるのを見るのとでは、印象がまるで違う。米、塩、魚、布、油、器、縄、刃物、薬、菓子。少し見ただけでは何を扱っているのか分からない店まであり、値を呼ぶ声、客を呼び止める声、荷を避けろと怒鳴る声、知り合いを見つけて呼ぶ声が重なり合って、少し離れれば弥太郎の声さえ聞き取りにくい。

 

「人は増えたな」

 

「はい」

 

「これは間違いない」

 

 少なくとも三年前と比べ、市そのものが活気を増したことには疑いようがなかった。以前は端だった場所まで店が広がり、その外には粗末ながら小屋まで建っている。荷を預かる者、泊まる場所を探す商人を案内する者、市へ来た者へ食事を出す者。市の中だけではなく、市そのものを支える商いまで増えている。

 

 だが少し歩けば、良いことばかりでもないこともすぐに分かった。

 

「邪魔じゃ! そこへ荷を置くな!」

 

「先に置いたのはこちらだ!」

 

 少し先で男二人が声を荒らげていた。片方は店の前へ荷を積み上げ、もう片方はそこを通ろうとする馬を引いている。どちらか一方だけが悪いというより、人が増えたために店の場所と通路の境が曖昧になっているようだった。二人が言い争っている間に道は完全に塞がり、後ろには人と馬が溜まっていく。

 

 やがて市を取り仕切っているらしい者が来て二人を引き離し、大きな喧嘩にはならなかった。それでも、あれが一日に何度も起これば、人が増えたことそのものが市の動きを遅くする。

 

「前から、こんなに狭かったか?」

 

「道そのものは変わっておりませぬ」

 

「人が増えただけか」

 

 ならば、今後さらに増えれば、荷を置く場所と人が通る場所を分ける必要が出てくるかもしれない。

 

 別の場所では宿の主人らしい男が、客へ何度も頭を下げていた。

 

「今夜はもう空きがございませぬ」

 

「昨日もそう言われたぞ。何処へ泊まれというのだ」

 

「街道を少し戻れば――」

 

「荷を置いて戻れと?」

 

 客は不満そうに去っていった。

 

 帳面には「宿が増えた」と書かれている。実際、三年前より増えているのだろう。それでも利用する者の増え方の方が早いらしい。

 

 市が栄えている。

 

 その一言の中に、宿が足りないという問題まで同時に存在している。

 

「若様」

 

 弥太郎が声を低くした。

 

「少し向こうに宗兵衛がおります」

 

 見ると、商人らしい男と話している宗兵衛の姿があった。こちらへ気付いたようだが、すぐに近付いては来ない。俺も声を掛けなかった。仕事の途中なら、そのまま続けた方がいい。

 

 さらに奥へ進むと、以前から店を出していた商人の中には、明らかに店構えの立派になった者もいた。三年前には小さな敷物の上へ品を並べていたはずの者が、今では屋根のある場所を持ち、人を二人ほど使っている。反対に、狭い場所へ押し込まれたような店もあった。後から来た者なのか、元からいた者が場所を失ったのかまでは分からない。

 

 やがて、一軒の布商いの前で足を止めた。

 

「随分人が多いな」

 

 客として声を掛けると、店主は愛想よく笑った。

 

「三年前とは比べものになりませぬよ。あの頃は市の日でも昼を過ぎれば少し落ち着いたものですが、今では夕方まで人が途切れませぬ」

 

 商いは良くなったかと尋ねれば、そこは迷わず頷いた。

 

「そりゃあ、良くはなりました。遠くからも来ますからな」

 

「遠くから?」

 

「ええ。向こうの街道沿いの市へ出ておった者も、こちらへ来るようになりました。あちらより売れると言って」

 

 予想していた答えだったが、実際にその場で聞くと帳面の文字とは違った重さを持った。

 

「そなたも以前は別の市へ?」

 

「私は昔からこちらでございます。ただ、知り合いには移ってきた者もおりますよ。両方へ出る者もおりますが、市日が重なれば人の多い方へ来るのが商人というものでしょう」

 

「向こうの市は困らぬのか」

 

 少し踏み込み過ぎたかもしれない。店主は一瞬こちらを見ると、肩を竦めた。

 

「さあ。向こうには向こうの都合がございましょう。ただ、客がこちらへ来るなら商人も来ます。商人が来れば品も増える。品が増えれば、また客が来る。逆も同じでしょうな」

 

 その言葉が妙に胸へ残った。

 

 客が来るから商人が来る。商人が来るから品が増える。品が増えるから、さらに客が来る。一度市が大きくなり始めれば、その勢い自体が次の人を呼ぶ。

 

 そして、逆も同じ。

 

 人が減れば商人が減る。商人が減れば品も減る。品が減れば、さらに客が来なくなる。こちらへ流れが向くほど、どこか別の場所では反対のことが起きる可能性がある。

 

「何か気になることでも?」

 

 店主に聞かれ、俺は首を横に振った。

 

「いや。随分変わったと思ってな」

 

「良い方へ変わったと、私は思っておりますよ。以前より商いはしやすい。何を取られるか分からぬことも減りましたしな」

 

「不満は無い?」

 

「無いと言えば嘘になります。人が増え過ぎです。場所代が上がったところもありますし、荷を置く場所も足りませぬ。夜になれば盗人を心配する者も増えました。ですが、商いが出来ぬよりは良い」

 

 礼を言って店を離れる。

 

 少し歩いたところで弥太郎がこちらを見ると、俺も頷いた。

 

「楽市そのものを嫌がっているわけではない。むしろ続いてほしいと思っておる」

 

「はい」

 

「だが、人が増えたことで別の負担が生まれている。それと、他所から人が来ておる」

 

「そこですな」

 

 三年前、俺はこの市へ商人が増えれば成功だと思っていた。その考えが完全に間違いだったとは思わない。実際、店主の商いは良くなり、扱われる品も増え、この市を利用する者にとっては以前より便利になっている。

 

 しかし、その増えた商人の一部が近くの市から移ってきたのなら、六角領内全体で商人が同じだけ増えたわけではない。

 

 場所を変えただけかもしれない。

 

 しかも、こちらだけ負担を軽くし、隣では以前と同じものを求めているなら、商人がこちらへ移るのは当然でもある。その結果を見て「この市だけ成功した」と喜び続けることに、初めてはっきりと違和感を覚えた。

 

 *

 

 昼を過ぎた頃、宗兵衛が俺たちへ追い付いてきた。

 

「若様」

 

「仕事は終わったのか」

 

「ひとまずは。先ほどの者から、面白い話を聞けましたので」

 

 こちらへ店を移した商人についてだという。やはり実際にいるのかと聞くと、宗兵衛は「かなりおります」と答えた。

 

「新しく商いを始めた者もおります。ですが、周囲の市からこちらへ移った者、両方へ出ていたが今はこちらを優先する者も少なくございませぬ。理由は幾つかあります。客が多いこと、品が集まること、それから負担が軽いこと」

 

「最後が大きいか」

 

「かなり」

 

 宗兵衛は周囲へ一度目を配ってから、少し声を低くした。

 

「ある商人は、同じ品を売っても向こうでは市へ入る時、売る時、途中の道でも銭を取られ、こちらではそれが少ないと申しておりました。それなら多少遠くても、こちらへ来る方が手元に残る銭は多い、と」

 

「周りの市から見れば、不公平か」

 

「商人は公平かどうかで動いているわけではございませぬ。自分の得になる方へ動いているだけです」

 

「ああ。それは分かっておる」

 

「ですが、向こうの市を持つ者は、そうは思わぬでしょうな」

 

 そこだった。

 

 三年前、俺が一つの市だけ条件を変えたのは、比較したかったからだ。条件を変えた市と、変えていない市を見れば、その差から何が起きたのかを見つけやすいと思った。前世で扱っていた問題や実験のように、一方だけ条件を変えれば結果を比べられる。

 

 その考え方そのものは、完全に間違っていたとは思わない。

 

 だが、市は紙の上に置いた数字ではない。

 

 条件を良くした場所があれば、人も物も本当にそこへ動いてくる。比較のために作った「違い」が、三年間掛けて周囲の市から商人や客を引き寄せ続けていたとすれば、比較対象にした側まで、俺が条件を変えたことによって変わってしまう。

 

 片方だけを触ったつもりでも、実際には両方が動いていた。

 

「若様?」

 

 宗兵衛に呼ばれ、随分黙っていたことに気付いた。

 

「いや。一つ気付いた。三年前、俺は楽市にした市と、そうでない市を比べれば分かりやすいと思っておった。だが三年間も続ければ、片方の条件を変えたことで、もう片方から人が移る。比べるために分けたつもりでも、互いに影響するんだ」

 

「それは……悪いことで?」

 

「まだ分からぬ。ただ、この市が伸びた数字の全部を、楽市によって新しく生まれたものだと思うのは間違いだろうな。周りから移った分が混じっておる」

 

 それでも、楽市そのものに意味がないわけではない。むしろ条件を変えただけで商人が実際に動いたのなら、負担や商いのしやすさが、人の選択へ強く影響することは分かった。

 

 問題は、その有利な条件を一つの市だけに三年間置き続けたことだった。

 

 こちらだけを良くすれば、良くした場所へ人が集まる。そのこと自体は結果として分かりやすい。しかし次に考えなければならないのは、六角の中で幾つもの市がある以上、その差をこのまま残すべきなのか、それとも別の形へ広げるべきなのかということになる。

 

「宗兵衛」

 

「はい」

 

「周りの市を見たい」

 

「今からでございますか」

 

「今日はもう遅い。明日か明後日だな。こちらへ商人を取られた側が、実際にどうなっているのかを見ておきたい」

 

「御屋形様へは?」

 

「戻ってから話す。まず見る」

 

 そう答えて、改めて市の中を見回した。

 

 人は多く、商人は声を張り、客は品を選び、宿は埋まり、荷が絶えず運び込まれている。三年前の俺が今の光景を見たなら、ほとんど迷わず成功だと思っただろう。実際、ここだけを見るなら成功と呼んでよい部分は多い。

 

 だが今は、その賑わいの向こう側が気になって仕方がなかった。

 

 ここへ来るようになった商人は、以前どこにいたのか。その商人から品を買っていた客は、今どこへ向かっているのか。こちらで宿が足りなくなるほど人が増えている一方で、隣の市の宿は空いていないか。こちらへ続く道が荷で傷むほど使われている間、以前使われていた道から人が消えていないか。

 

 三年間続けた試みの答えを出すのなら、賑わっている場所だけを見ていては足りない。

 

 市を出ようとした時、入口近くでは、朝に見た深い窪みへ土を入れている者たちがいた。人と荷が増えたために道が傷み、その道を使い続けるためには誰かが直さなければならない。楽市によって軽くした負担の代わりに、別の場所で新しい仕事と負担が生まれている。

 

 その費用を誰が持つのか。市を使う者なのか、周囲の村なのか、それとも六角が支えるのか。

 

 そこまで決めなければ、商人を呼び込むことにだけ成功して、その商人が使う場所を支えられなくなるかもしれない。

 

 三年前の帳面には、「商人が増えた」と書かれている。

 

 その記録は間違っていない。

 

 けれど今なら、その横へもう幾つも問いを書き加える。

 

 何処から増えたのか。増えたことで何が足りなくなったのか。その増加を支えるために誰の負担が増えたのか。そして、反対に減った場所はないのか。

 

 三年間続けた楽市の答えは、どうやら一つの市の中だけを見ていても見つからないらしかった。

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