三年前の帳面を机へ広げると、今使っているものと比べて随分と薄く見えた。紙の枚数が少ないだけではない。記されている項目も簡素で、当時の俺が何を知りたかったのか、最初の数頁に目を通すだけで分かる。兵の数を調べ始めてから作った帳面など、一つの項目を確かめるために幾枚もの紙を継ぎ足しているというのに、三年前はこれだけで随分と詳しく調べたつもりになっていたらしい。
祖父上の御代から楽市として知られていた石寺の例を参考に、六角が直轄する別の市でも商いの負担を軽くすることにしたのが始まりだった。市へ入る際や商いをする際に求められる負担の一部を改め、商人が以前より入りやすくなれば、人と物がどう動くのかを確かめる。そのために調べていたのは、出入りする商人のおおよその人数、店の数、市へ持ち込まれる品の種類、市日を利用する者の増減、それに周囲から聞こえてくる評判だった。最初の頁には施行前の様子が記され、その後には市で起きた変化が順に書き加えられている。今の俺なら、そこへ至る道や荷を扱う人間、周囲の市との関係まで気になるところだが、当時は市の中で起きたことを見るだけで精一杯だったのだろう。
それでも、三年前の自分が間違ったことをしていたとは思わない。それ以前の俺なら、商人が何処から来て何を売り、どのような負担を求められているのかを、ここまで意識して見ることさえなかったはずだ。初めから今と同じものを見られたわけではないし、今の俺にしたところで、三年後には別の見落としに気付いているかもしれない。大切なのは、当時の記録を今の知識だけで否定することではなく、その記録を残したからこそ分かることを見つけることだと思った。
「若様、随分懐かしいものを出されましたな」
向かいで書状を整理していた弥太郎が帳面を覗き込み、三年前には今ほど紙が多くなかったと笑った。確かにその通りだ。あの頃もよく帳面を広げていたつもりだったが、今の机の有様と比べれば可愛いものだった。もっとも、増えたことを喜んでよいのかどうかは自分でも分からない。
頁をめくると、最初の一年には商人が増えたという記録が何度も現れた。二年目には扱われる品の種類が増え、米や塩、布、油、日用品など、それまで別の市へ行かなければ手に入りにくかった品まで持ち込まれるようになっている。宿や荷を一時置いておく場所が増え始めたのもこの頃だった。三年目ともなると、市日だけではなく、その前後にも商人や客が残るようになり、中には常に店を開く者まで現れているらしい。以前は市日が終われば人の姿も少なくなっていた場所に、商いをするための人と物が留まるようになったということなのだろう。
少なくとも、この市だけを見れば成功と呼んでもよさそうだった。
「商人は増えた。扱う品も増え、市へ来る者も増えておる。宗兵衛の報告を見ても、二年目、三年目と続けて減ったわけではないらしい」
「それなら、上手くいったということではございませぬか」
「この市にとってはな。だが、増えた商人が何処から来たのかまでは、ほとんど書いておらぬ」
新しく商人になった者もいるだろう。しかし、以前は別の市へ出ていた者が、こちらへ移ってきた可能性もある。市で扱われる品が増えたとしても、それまで他所へ運ばれていた荷が行き先を変えただけかもしれない。塩津について調べ、湊へ人や物が集まることで周囲に何が起きるのかを聞いてからは、その違いが余計に気になるようになっていた。
人が増えれば荷を扱う者が要り、荷を置く場所も必要になる。宿が増えれば、そこで使う食料や水、薪を何処かから持ってこなければならない。商人が一つの場所へ集まれば、それまで別の場所へ向かっていた人や物の流れも変わる。市の中で見れば、商人が増えたという記録は間違っていない。だが六角の領内全体で考えた時、新しく商いが増えたのか、それとも他所から移っただけなのかまでは、この帳面では分からなかった。
さらに読み返すと、当時の俺がどのような話を好んで集めていたのかも見えてきた。商人が増えた、荷が増えた、揉め事は思ったほど多くなかった。負担を軽くした割には、市全体から得られる収入も大きく減らなかった。悪い話が全く書かれていないわけではないが、ほとんどが市の内側で起きた出来事に限られている。周囲の市で客が減ったのか、荷を運ぶ道にどのような負担が掛かったのか、以前から商っていた者たちが新しく来た者をどう見ているのか。そうしたことを調べようとした形跡は少なかった。
「三年前は、随分と都合のよいところばかり見ておったようじゃ」
思わず漏らすと、弥太郎は少し考えてから、当時はその変化を見るために始めたのではないかと返した。
確かにそうだった。
あの頃の俺は、肥田城で人が死ぬところを目の前にしたこともなければ、野良田で一万を超える兵が一つの塊として動くわけではないことも知らなかった。佐和山への出陣で予定と実際の違いを記録する意味も、塩津で安全に商いが出来ることが人や物を呼び寄せる理由になることも、今ほど具体的には考えていなかった。三年前の自分へ、現在の俺が知っているものまで全て見ろと言う方が無理なのだろう。
ただ、当時見ていなかったものを、今から三年前へ戻って調べ直すことは出来ない。過ぎた三年間の全てを正確に知ることも難しいだろう。それでも、今どうなっているかなら確かめられる。三年前に残した数字と現在の様子を比べ、当時の記録だけでは分からなかった変化を拾うことは出来るはずだった。
「今の目で、この三年を見直せばよいのだな」
「また仕事が増えますな」
「始める前から嫌そうな顔をするな」
「このところ、その御言葉を何度も聞いておりまする」
弥太郎が笑う。反論するほどのことでもないので、俺は古い帳面の横へ新しい紙を置いた。
商人が何人増えたかだけでなく、その商人が何処から来たのか。市へ持ち込まれる品が増えたなら、何処から運ばれてくるようになったのか。宿や荷を置く場所はどれほど増え、それでも足りないことはないのか。人が集まったことで揉め事や盗み、火事への不安はどう変わったのか。荷が増えたことで道が傷み、周囲の村へ余計な仕事が掛かっていないか。そして何より、近くにある別の市が、この三年間でどう変わったのか。
思いつくまま書き出していくと、すぐに紙の半分ほどが埋まった。横から覗き込んだ弥太郎の顔が、項目が増えるたびに険しくなっていく。
「これを全てお調べになるので?」
「全部を正確な数字へ直すつもりはない。分からぬところは分からぬままでよい。だが、見ようともせずに三年続けて上手くいったと決めるのはまずい」
父上からも、数字を無理に埋めるなと何度も言われている。今回も綺麗な帳面を完成させることが目的ではない。三年前には見ようともしなかったものが何処にあるのか、それを知るだけでも意味はあるだろう。
ならば、篠たち三人の力を借りるのがよさそうだった。
*
その日の午後、篠、弥七、宗兵衛を呼んだ。
三人を揃えて話をすることも、今では珍しくなくなっている。以前なら甲賀者を三人も預かって何をさせればよいのかと考えていたはずなのに、今では疑問が出来れば、それを誰の目で確かめるのが一番よいかを自然に考えるようになっていた。もちろん三人が持ち帰るものだけで答えが出るとは限らないが、少なくとも俺と弥太郎が帳面を眺めているだけでは見つからないものがあることは、これまでの経験から分かっている。
部屋へ入ってきた篠は、机に広げられた地図と帳面を見るなり、また仕事なのかと小さく肩を落とした。たまには菓子でも出してもらえるかと思ったらしい。今度用意しておくと答えたところ、本当に用意してくれるのかと妙に真剣な顔で聞き返されたので、そんなところへ食い付くなと言っておいた。宗兵衛は笑い、弥七はいつものように黙っている。弥太郎まで面白そうにしていたが、これ以上相手をしていては話が進まない。
「以前から話しておった楽市のことは覚えておるな。三年の試しが終わるので、一度まとめることになった。ただ、今度は市の中だけでなく、周りまで見たい」
三年前の帳面を開き、これまで集めてきた記録を簡単に説明した。商人も品も増えており、市としては以前より賑わっている。ただし、その増えた人や物が何処から来たのか、周囲にどのような変化を与えたのかまでは十分に調べていない。今回はそこを補いたかった。
宗兵衛には商人と物の動きを頼んだ。現在この市へ来ている商人が以前は何処で商いをしていたのか。新しく商人になった者なのか、それとも別の市から移ってきたのか。売られている品が何処から運ばれているのかも、分かる範囲で確かめてほしい。特に周囲の市については、こちらへ人が増えた分だけ商人や客が減っていないかを見てもらうことにした。
「市日を変えた者や、こちらを優先して出るようになった者がおれば、その理由も聞いてくれ。何処の市が好きかという話より、何故そこを選んだのかが知りたい」
宗兵衛は頷き、周囲の商人たちにも話を聞いてくると答えた。商人は一つの市だけで商いをしているとは限らず、幾つもの市を回る者もいる。その者たちなら、この三年で客や荷の流れがどう変わったのか、ある程度は分かるだろう。
弥七には、市へ通じる道と荷の流れを見てもらう。以前より多く使われるようになった道があれば、反対に人が減った道もあるかもしれない。橋や渡しに掛かる負担、荷が詰まりやすくなった場所、道の傷みなども確かめてほしかった。周囲の関についても調べることは許したが、誰が幾ら取っているかを最初から全て洗う必要はない。商人が何処を通り、何処を避けるようになったのか。その理由が負担にあるなら、そこから詳しく見ればよい。
最後に篠へ向き直ると、こちらが口を開くより先に、今度は困った人を探すのかと尋ねられた。
「……大体は合っておるが、先に言うな」
「当たりでございましたか」
篠が楽しそうに笑う。
俺が知りたいのは、この市が大きくなったことで暮らしが変わった者たちの声だった。昔から店を出していた者と、後から来た商人との間に揉め事はないか。宿や荷を置く場所は足りているか。盗みや喧嘩が増えていないか。夜の見回りや火事への備えについて不満はないか。さらに周囲の市で、こちらへ客を取られたと考えている者がいれば、その事情も聞いてほしかった。
篠は一通り聞いた後、少し首を傾げた。
「若様は、楽市を止めたいのでございますか」
予想していなかった問いではなかったが、すぐには答えなかった。三年間続けてきた以上、止めるか続けるかという判断はいずれ必要になる。ただ、その答えを先に持ってしまえば、今回調べ直す意味が薄くなる。
「まだ決めておらぬ。この市だけを見れば、今のところ止める理由は少ない。だが、この市を良くするために周りを悪くしていたなら話は変わる。反対に、周りで多少困る者がおっても、六角全体で見れば良くなっているなら続ける意味はあるだろう。その違いを知らずに決めたくないのじゃ」
そこで三人へ、良い話と悪い話を同じように持ち帰るよう念を押した。俺が聞きたそうにしている方へ合わせる必要はない。商人が増えたなら増えた理由を、減ったなら減った理由を調べてほしい。嫌われているのなら、誰が何故嫌っているのかを知りたい。
塩津を調べた時、篠から聞かれなかったから言わなかったと返されたことが、まだ頭に残っていた。報告する側が嘘を吐かなくても、聞く側が欲しい答えばかり求めれば、最後に見えるものは偏る。俺自身が楽市は上手くいっているという前提で話を聞けば、三人も無意識のうちに、それを裏付けるものばかり持ち帰るかもしれない。
「若様も随分面倒になられましたね」
「父上にも似たようなことを言われた」
「褒め言葉にございます」
「本当か?」
「半分ほどは」
残る半分は何かと尋ねると、仕事が増えたという意味だと平然と返された。そこは否定出来ない。三人を送り出してから俺自身も市へ行くと弥太郎に告げると、今度はそちらから、若様が行けば目立つのではないかと心配された。
確かに六角義治の顔を知る者がどれほどいるのかは分からないし、完全に身分を隠して歩けるとも思っていない。ただ、大仰に供を従えて右衛門督が視察に来たと触れ回れば、市の者たちが普段通りに振る舞うとも思えなかった。三年前にも自分で見に行った場所なのだから、今回も必要な護衛だけを伴い、なるべく騒がせずに歩いてみるつもりだった。
帳面の上では増えたとしか書かれていないものを、まず自分の目で確かめたかった。
*
市へ近付く前から、三年前との違いはすぐに分かった。
以前は市日になると道を行く者が少しずつ増え、市へ近付くにつれて荷を背負う者や馬が目立つようになった。それが今では随分手前から人の流れが出来ている。米俵を積んだ馬、布を抱えた男、籠を背負う者、荷車を押す者が途切れず、道の脇では休む商人へ水や簡単な食い物を売る者までいた。市そのものはまだ先だというのに、すでにここから商いが始まっているらしい。
「以前から、あのような店があったか」
小声で尋ねると、弥太郎は辺りを見回して首を横に振った。少なくとも三年前には、ここまで手前に店はなかったはずだという。
市へ向かう者が増えれば、途中で休みたい者も増える。喉が渇けば水を買い、馬を休ませられる場所があれば利用する。市の中に店を構えなくても、そこへ向かう者たちを相手に商いをすることは出来るのだろう。帳面には市に出る商人の数が書かれていたが、こうした道沿いの店まで含まれていたかどうかは怪しい。
ただし、賑わいばかりが目についたわけではなかった。人や荷が増えた分だけ、道の傷みも以前より目立っている。雨の後なのか、深く窪んだ場所へ水が残り、それを避けようとして人も馬も片側へ寄っていた。そのため反対側から来る者とのすれ違いに時間が掛かり、荷車が一台止まるだけで後ろに何人も溜まってしまう。
「弥七が見れば喜びそうじゃな」
「道が傷んでいるのを見て喜ぶので?」
「調べるところが見つかったという意味じゃ」
「本人の前では、そう仰らぬ方がよろしいかと」
それもそうだ。調べるために道が傷むことを喜んでいると思われては困る。
市の入口を抜けると、三年前との違いはさらに大きかった。店が増えていること自体は帳面にも書かれていたが、実際に人と人の間を縫わなければ進めないほど店と客が並んでいるのを見ると、数字とはまるで印象が違う。
米、塩、魚、布、油、器、縄、刃物、薬、菓子。少し見ただけでは何を扱っているのか分からない店まであり、値を呼ぶ声、客を呼び止める声、荷を避けろと怒鳴る声、知り合いを見つけて呼ぶ声が重なり合っている。端の方には以前はなかった小屋まで建ち、荷を預かる者や宿を案内する者、食い物を売る者の姿もあった。
人が増えたことに疑いはない。扱われる品も以前より多くなり、市日だけではなく、その前後にも商いが続くようになったという記録にも納得がいく。少なくとも三年前より、この市が多くの者に利用されるようになったことは確かだった。
だが少し歩けば、その賑わいが別の問題を生んでいることも分かった。
「邪魔じゃ! そこへ荷を置くな!」
「先に置いたのはこちらだ!」
前方で男二人が声を荒らげていた。片方は店の前へ荷を積み上げ、もう片方は馬を引いて通ろうとしている。どちらか一方だけが悪いというより、店の場所と人馬が通る道との境が曖昧になっているようだった。二人が言い争っている間に道は塞がり、その後ろへ人と馬が次々に溜まっていく。やがて市を取り仕切っているらしい者が現れ、二人を引き離して荷を動かさせたため大きな喧嘩にはならなかったが、通れるようになるまでには随分時間が掛かった。
三年前から道そのものが狭くなったわけではない。使う者が増え、そこへ置かれる荷まで多くなったため、以前なら問題にならなかった幅では足りなくなっているのだろう。今後も商人や客が増えるなら、店の場所と通路を分ける必要が出てくるかもしれない。
別の場所では、宿の主人らしい男が客へ何度も頭を下げていた。今夜はもう空きがないと断っているらしい。客の方は昨日も同じことを言われたと不満を口にし、少し離れた宿を勧められても、荷を置いて戻れというのかと怒っている。
帳面には宿が増えたと書かれている。実際に増えているのだろう。しかし、利用する者の増え方の方が早ければ、宿が増えたという数字だけでは足りていることにはならない。むしろ宿が増えているのに泊まれない者が出るほど、人の流れが大きくなったということなのかもしれなかった。
市が栄えているというのは間違いない。だが同じ場所で、道が塞がり、宿が足りず、荷を置く場所にも困っている。賑わいを増やすことに成功したとしても、それを支える場所まで同じように増えたわけではないのだ。
少し奥へ進むと、以前から店を出していた商人の中には、明らかに店構えが立派になった者もいた。三年前には小さな敷物の上へ品を並べていたはずの者が、今では屋根のある場所を持ち、人を二人ほど使っている。反対に、狭い場所へ押し込まれたような店もあった。後から来た者なのか、元からいた者が場所を失ったのかまでは分からない。商いが増えたことで余裕の出来た者と、かえって苦しくなった者とが、同じ市の中にいる可能性もあるだろう。
そこで一軒の布商いの前へ足を止めた。
客として声を掛けると、店主は愛想よく応じてくれた。三年前とは比べものにならないほど客が増え、以前は昼を過ぎれば少し落ち着いていた市も、今では夕方まで人が途切れないという。商いそのものは良くなったらしく、その点については迷いなく頷いた。
「遠くからも客が来ますからな。以前とは売れる量が違います」
「遠くから?」
「ええ。向こうの街道沿いの市へ出ておった者も、こちらへ来るようになりました。あちらより売れると言って」
予想していた答えだったが、実際にその場で聞くと帳面の文字とは違った重さがあった。店主自身は昔からこの市で商いをしているものの、知り合いには別の市から移ってきた者もおり、幾つもの市へ出ながら、こちらを優先するようになった者もいるという。
「向こうの市は困らぬのか」
少し踏み込んで尋ねると、店主は肩を竦めた。
「さあ。向こうには向こうの都合がございましょう。ただ、客がこちらへ来るなら商人も来ます。商人が来れば品も増える。品が増えれば、また客が来る。逆も同じでしょうな」
その言葉が妙に胸へ残った。
客が来るから商人が来る。商人が来れば品が増え、それを求めてさらに客が集まる。一度市が大きくなり始めれば、その賑わい自体が次の人を呼び込むのだろう。
そして、逆も同じだ。
客が減れば商人が減り、品も減る。そうなれば、ますます客は来なくなる。こちらへ流れが向くほど、別の場所では反対のことが起きる可能性があった。
店主から何か気になることでもあるのかと尋ねられたので、随分変わったと思っただけだと答えた。すると店主は、この三年で商いはしやすくなったと話し始めた。以前より負担が軽くなり、何を取られるのか分からないことも減ったという。遠くから商人や客が来るようになったことも、商いを続ける上では有り難いらしい。
ただし、不満が全くないわけではなかった。
「人が増え過ぎですな。場所代が上がったところもありますし、荷を置く場所も足りませぬ。夜になれば盗人を心配する者も増えました。ですが、商いが出来ぬよりは良うございます」
礼を言って店を離れた後、俺は弥太郎と今聞いた話を確かめた。
店主は楽市そのものを嫌っているわけではない。むしろ今の形が続いてほしいと思っている。しかし、人が増えたことで新しい負担が生まれ、別の市から人が移ってきていることも分かった。
三年前、俺はこの市へ商人が増えれば成功だと思っていた。その考えが完全に間違いだったとは思わない。実際、店主の商いは良くなり、扱われる品も増え、この市を利用する者にとっては以前より便利になっている。
しかし、増えた商人の一部が近くの市から移ってきたのなら、六角領内全体で商人が同じだけ増えたわけではない。ただ場所を変えただけの者もいるはずだ。
しかも、こちらだけ負担を軽くし、隣では以前と同じものを求めているなら、商人がこちらへ移るのは当然でもある。その結果を見て、この市だけが成功したと喜び続けることには、初めてはっきりと違和感を覚えた。
少し離れたところには、商人らしい男と話している宗兵衛の姿があった。こちらに気付いたようだったが、すぐに近付いては来ない。俺も声を掛けず、そのまま市の中を歩くことにした。仕事の途中なら、まずはそちらを済ませた方がよい。
*
昼を過ぎた頃、宗兵衛が俺たちへ追い付いてきた。
先ほど話していた商人から、別の市から移ってきた者について詳しく聞けたらしい。実際にそのような商人はかなりいるという。もちろん新しく商いを始めた者もいるが、周囲の市からこちらへ移った者、幾つもの市へ出ながら今はこちらを優先する者も少なくない。理由として挙げられたのは、客が多いこと、品が集まること、そして負担が軽いことだった。
特に最後の違いは大きいらしい。
「ある商人は、同じ品を売っても向こうでは市へ入る時、売る時、それに途中の道でも銭を取られると申しておりました。こちらではそれが少ないため、多少遠くとも手元に残る銭が多いそうにございます」
「周りの市から見れば、不公平か」
「商人は公平かどうかで動いているわけではございませぬ。自分の得になる方へ動いているだけにございます。ただ、向こうの市を持つ者は面白くありますまいな」
そこだった。
三年前、俺が一つの市だけ条件を変えたのは、比較したかったからだ。条件を変えた市と、それまで通りの市を見比べれば、違いによって何が起きたのか分かりやすい。前世で扱っていた実験のように、一方だけ条件を変えれば、結果の差を調べられると考えていた。
その考え方そのものが間違っていたとは思わない。だが、市は紙の上に置いた数字ではなかった。
条件を良くした場所があれば、人も物も実際にそこへ動いてくる。比較するために作った違いが、三年間掛けて周囲の市から商人や客を引き寄せ続けていたとすれば、比較する相手として残しておいた側まで、俺が条件を変えたことで影響を受けてしまう。
片方だけを変えたつもりでも、実際には両方が変わっていた。
「若様?」
宗兵衛に呼ばれ、随分黙っていたことに気付いた。
「三年前、楽市にした市と、そうでない市を比べれば分かりやすいと思っておった。だが三年間も続ければ、条件の違いによって商人が移る。こちらを変えたことで、比べる相手の方まで変わってしまうのだな」
「それは、悪いことでございますか」
「まだ分からぬ。ただ、この市が伸びた数字の全てを、楽市によって新しく生まれたものだと思うのは違うだろう。周りから移った分も混じっておる」
もっとも、これによって楽市そのものに意味がないと分かったわけでもない。むしろ条件を変えたことで商人が動いたのなら、負担や商いのしやすさが人の選択へ大きく影響することは確かめられた。その点については、三年前に知りたかったことの一つに答えが出たと言ってもよいだろう。
ただし、次に考えなければならないことは別だ。
六角の領内には幾つもの市があり、それぞれに商人や客がおり、権利を持つ者がいる。一つの市だけ負担を軽くすれば、そこへ人が集まる。それ自体は分かりやすい結果だが、その差をこのまま残すべきなのか、それとも別の形で周囲へ広げるべきなのかは、改めて考える必要があった。
さらに、楽市によって市が大きくなったことを、そのまま領内全体の利益だと考えてよいのかも分からない。こちらで商人が儲けた一方で、他所では商いを失った者がいるかもしれない。こちらの負担を軽くしたことで六角の収入が思ったほど減らなかったとしても、周囲の市を持つ者たちが得ていた収入は減っている可能性がある。そうした変化まで見なければ、誰が何を得たのかは分からないままだ。
「宗兵衛。周りの市を見たい」
「今からでございますか」
「今日はもう遅い。明日か明後日だな。こちらへ商人を取られた側が、実際にどうなっているのかを見ておきたい」
宗兵衛から父上へはどう伝えるのかと尋ねられたが、まずは自分の目で確かめ、その後に報告するつもりだった。もちろん他所の市が寂れていると決まったわけではない。こちらへ移った商人がいる一方で、別の商いが増えている可能性もあるし、市によって扱う品や客が違うかもしれない。実際に見ないうちから、周囲は困っているはずだと決めつけるつもりもなかった。
そう答えて、改めて市の中を見回した。
人は多く、商人は声を張り、客は品を選び、宿は埋まり、荷が絶えず運び込まれている。三年前の俺が今の光景を見たなら、ほとんど迷わず成功だと思っただろう。実際、ここだけを見るなら成功と呼んでよい部分は多い。
だが今は、その賑わいの向こう側が気になって仕方なかった。
ここへ来るようになった商人は、以前何処にいたのか。その商人から品を買っていた客は、今何処へ向かっているのか。こちらで宿が足りなくなるほど人が増えている一方で、隣の市の宿は空いていないか。こちらへ続く道が荷で傷むほど使われている間、以前使われていた道から人が減っていないか。
三年間続けた試みの答えを出すのなら、賑わっている場所だけを見ていては足りない。
市を出ようとした時、入口近くでは、朝に見た深い窪みへ土を入れている者たちがいた。道が傷めば直さなければならない。それも人と荷が増えたことで新しく生まれた仕事の一つだろう。
誰が命じ、誰が銭を出しているのかまでは分からない。市を取り仕切る者が負担しているのか、周囲の村へ役を課しているのか、それとも商人たちが自分たちで直しているのか。その違いも確かめる必要がある。
楽市によって商人の負担を軽くしたとしても、人や荷が増えたことで道や橋が傷み、それを直す仕事が別の誰かへ回っているのであれば、負担そのものが消えたわけではない。場所を変えただけということもあり得る。その費用を誰が持つのかまで考えなければ、商人を呼び込むことに成功しても、その商人が使う場所を維持出来なくなるかもしれなかった。
俺はしばらく道を直している者たちを眺め、それから弥太郎へ声を掛けて歩き出した。
三年前の帳面には、商人が増えたと書かれている。
その記録は間違っていない。商いが増えたことで利益を得た者がいることも、今日の市を歩けば分かる。店構えを大きくした者がおり、以前より多くの品を扱う者がおり、市へ来る客が増えたことで新しく商いを始めた者までいる。
けれど今なら、その数字の横へ幾つもの問いを書き加えるだろう。
何処から増えたのか。増えたことで何が足りなくなったのか。その増加を支えるために誰の負担が増えたのか。商人が移ってきたことで、反対に減った場所はないのか。そして、この市だけではなく、六角領内全体で見た時にも、三年前より商いが豊かになったと言えるのか。
今回の試みが成功だったのかどうかを、まだ決めるつもりはなかった。成功したところがあるのなら、それは正しく評価すればよい。問題が見つかれば、何故そうなったのかを確かめればよい。三年前に定めた条件が今の市へ合わなくなっているのであれば、そのこと自体も一つの結果だろう。
今の俺には、以前のように商人が何人増えたという数字だけで全てを判断することは出来ない。
市を出て少し歩いたところで、もう一度だけ振り返った。賑わいはまだ続いており、遠くからも客を呼ぶ声が聞こえてくる。ここで商いをする者たちにとって、この三年間は確かに意味のあるものだったのだろう。だが、その意味が周囲にとっても同じだったかどうかは分からない。
三年間続けた楽市の答えは、どうやら一つの市の中だけを見ていても見つからないらしかった。
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