翌日、俺たちは昨日見た市から少し離れたところにある、もう一つの市へ向かった。距離だけを考えれば、それぞれが全く別の商圏を持っていても不思議ではないほど離れているわけではなく、街道を使えば人も荷も互いに行き来出来る位置にある。三年前、この二つを比べる相手として選んだ時には、その近さこそ都合が良いと思っていた。同じ六角領内にあり、気候も大きくは変わらず、街道を通じて人や物が行き交う。その片方だけ商いに掛かる負担を軽くすれば、どれほど違いが生まれるのかを見やすいと考えたのだ。
今になって思えば、その「近い」という条件こそが、三年という時間の中で双方を強く結び付けることになったのかもしれない。一方だけ条件を変えたとしても、そこにいる人間がその場から動かず、客も商人も互いに影響しないのであれば、単純に二つを比べられただろう。しかし実際には、人はより売れる場所へ移り、買う側も品の多いところへ向かう。近いからこそ行き来しやすく、片方へ生まれた変化がもう片方へ届きやすい。比較しやすいと思っていた条件が、同時に互いを変化させやすい条件でもあったことを、三年前の俺は考えていなかった。
昨日の市へ向かった時とは、道の様子からして違っていた。人がいないわけではないし、荷を背負った者や米俵を載せた馬とも何度かすれ違った。それでも、随分手前から人の流れそのものが見えていた昨日と比べれば、明らかに行き交う者は少ない。道もこちらの方が酷く傷んでいるわけではなく、むしろ荷車の轍は浅く、泥に深く抉られた場所も少なかった。それだけなら歩きやすい道なのに、昨日の光景を見た後では、その歩きやすさがかえって利用する者の少なさを示しているように感じられた。
「弥太郎。三年前、この道はどうだった」
隣を歩いていた弥太郎はしばらく周囲を見回したものの、やがて申し訳なさそうに首を振った。
「そこまでは某も覚えておりませぬ」
「俺もだ」
口にしてから、胸の奥に小さな悔しさが残った。二つの市を比べるつもりで調べていたはずなのに、その市へ至る道をどれほどの人や荷が通っていたのかまでは記録していない。三年前の帳面には、市の中にどれだけ商人がいたか、どんな品が並んでいたか、市日ごとの賑わいがどう変わったかは残してある。それでも、その外側を流れる人や荷についてはほとんど書かれていなかった。
今なら、昨日見た市とこちらの違いは分かる。だが、その差が元からあったものなのか、三年間でどれほど広がったものなのかを正確に知ることは出来ない。過去の記録が無い以上、現在の差だけを見て全てを楽市の影響だと決めるのも危ういだろう。
「若様。また御自分を責めておられますか」
「そこまでではない。ただ、記録しておけば良かったと思っただけだ」
「三年前の若様に、今気になっているものまで全て記録せよというのは無理ではございませぬか」
「昨日も似たようなことを言ったな」
「若様が同じことで悩まれるので」
弥太郎の言葉に一度黙った。確かにその通りだった。何か新しく分からないことを見つけるたびに「以前から調べておけば良かった」と考えていたら、いずれ何も始められなくなる。三年前に残していなかった記録を今さら増やすことは出来ないし、出来ないものを悔やんでいても答えは出ない。必要だと分かったなら、今から残せばよい。次に三年後の自分が振り返った時、同じことを思わないようにする方がまだ意味がある。
そう考え直しているうちに、市へ着いた。
中へ入ると、昨日との違いはさらに明確だった。店は並んでいる。客もいる。商人たちの呼び声も聞こえるし、品を選ぶ者の姿もある。決して寂れ果てた市ではなく、ここだけを初めて見たなら、普通に賑わっている場所だと思ったかもしれない。
それでも昨日の市と比べれば、空いた場所が目に付いた。人と人の間を避けながら歩かなければならなかった昨日とは違い、こちらでは店と店の間に余裕がある。幾つかは以前店があったらしい跡だけが残り、その場所を誰も使っていない。商人同士の間隔も広く、荷を置いていても人の流れを塞ぐほどではなかった。
「こちらは随分歩きやすいですな」
「昨日なら褒め言葉だったんだがな」
「人が少ないから、となると違いますか」
「ああ」
昨日は、人が増え過ぎたことで道が詰まり、荷を置く場所や宿が足りなくなっていた。こちらは反対に、人が少ないから歩きやすい。同じ「歩きやすい」という状態でも、その理由によって意味はまるで違う。数字で混雑の有無だけを記録すれば同じ一行で済むかもしれないが、実際にその場へ立つと、背後にあるものまで見なければ判断を誤るのだと分かる。
市の中央近くまで進み、昔からここで商いをしているらしい男へ声を掛けた。最初はこちらを少し警戒していたが、並べられた品を眺めながら世間話を続けているうちに、少しずつ口調が柔らかくなった。
「以前より静かになったように見えるな」
そう尋ねると、男は少し苦い笑みを浮かべた。
「三年ほど前からですな。全く人が来なくなったわけではございませぬが、向こうの市へ行く者が増えました」
「商人が?」
「商人も客もです。向こうなら売る時に取られるものが少ない。商いをする者なら、一度くらい行ってみようと思うでしょう。そこで売れれば、次も行く。客の方も品が多いところへ行きますからな」
「こちらで商いをやめた者もいる?」
「やめた者もおりますが、多くは向こうへ移ったか、こちらへ来る日を減らしたのでしょう。市日が重ならなければ両方へ出る者もおります。ただ、荷が多ければ毎回あちらこちらへ運ぶのも難しい。ならば売れる方へ多く持って行くのが普通でございます」
昨日聞いた話とほとんど同じだった。ただし昨日は、人と物が集まる側から聞いていた。今日は離れていく側から同じ仕組みを見ている。
客が多いから商人が来る。商人が来るから品が増える。品が増えるから、さらに客が集まる。一度出来た流れが、それ自体を理由として次の人と物を呼び込む。こちら側では、まさにその逆が起きていた。商人が少し減れば品が減り、品が減れば客は別の市を選び、その客を追うように、残っていた商人まで人の多い方へ移る。
最初はわずかな差だったのかもしれない。その差が三年の間に、次の差を作り続けたのだろう。
「ここで取られるものが重いと思うか」
尋ねると、男は少しだけ俺の顔を見た。
「御役人様で?」
「違う。単に気になっただけじゃ」
完全な嘘ではない。もっとも、身分を知れば「違う」と言える立場でもないのだが。
男はそれ以上詮索せず、少し考えてから答えた。
「重いか軽いかと言われれば、昔からこんなものです。ただ、向こうで払わずに済むようになれば、こちらで払うのが重く感じるものですよ」
その言葉に、思わず黙った。
こちらの負担は三年前より増えていない。制度そのものは何も変わらず、以前から同じように銭を取っている。それなのに隣で払わずに済むようになった途端、同じ額が以前より重く感じられる。
つまり、人が制度をどう受け取るかは、その制度だけを見ても分からないらしい。自分のところでは何も変えていなくても、隣が変わればこちらへの見方まで変わる。三年前の俺は、楽市にしなかった方を「何も変えない場所」として扱っていた。だが実際には、隣の条件を変えた時点で、こちらも同じ三年前の状態ではいられなくなっていたのだ。
「では、こちらも向こうと同じなら?」
「そりゃあ有り難いですが」
男はそこで少し笑い、それから首を傾けた。
「それだけで皆が戻るとも限りませんな。向こうにはもう客も品もございます。宿も増えた。荷を置く場所もある。こちらを同じにしたからと、明日から商人が半分戻るわけではないでしょう」
その通りだった。
三年間で生まれた差は、もう市銭や負担の違いだけではない。昨日見た市には宿が増え、荷を扱う者が増え、その人々を相手に食い物や水を売る商いまで出来ていた。商人にとって「行けば客がいる」「荷を置ける」「泊まれる」という理由そのものが積み上がっている。
今からこちらの負担だけを同じにしても、その三年間で出来たものまで一夜で同じにはならない。制度を何に変えるかだけではなく、いつ変えたかという時間もまた、後の差になるらしい。三年前には、そこまで考えたこともなかった。
「ありがとう。随分参考になった」
「何の参考かは分かりませぬが、買っていってくださればもっと有り難いですな」
「商売上手だな」
「商人でございますので」
結局、小さな品を一つ買って店を離れた。
「若様。視察のたびに品を買っておられたら、いずれ御部屋が物で埋まりますぞ」
「話を聞くだけ聞いて何も買わぬのも悪いだろう」
「若様が妙なところで律儀なのは存じております」
「妙とは何だ」
弥太郎は答えず、少し笑うだけだった。
*
市の端へ近付いたところで、先に周囲を調べていた篠と合流した。人通りの少ないところまで移動してから話を聞くと、昨日の市を良く思っていない者は確かにいるらしい。
「ただし、楽市そのものを悪いと言う者ばかりではありません。『あちらだけずるい』という言い方の方が多いですね」
「こちらの負担も軽くしろ、と?」
「そのように申す者もおります。反対に、『向こうを元へ戻せばよい』と申す者もおります。以前からこちらの市に関わっている者からすれば、向こうだけ条件を良くされたことで、自分たちが損をしたように見えるのでしょう」
「実際、客を取られておるからな」
「はい。ただ、困っている者の中身は同じではございませぬ」
篠はそこで、聞いてきた話を立場ごとに分けて説明した。
市で直接商っている者は、客と商人が減ったことを不満に思っている。宿を営む者は、泊まる者が減ったことで稼ぎが落ちたと話していた。市の管理に関わる者は、商人から得ていた銭が減ったことで、人を置いたり道を直したりする余裕まで減ったと気にしている。
一方で、市が以前より静かになったため、喧嘩や盗みが減ったと喜んでいる近隣の住人もいるという。
「良いこともあるのか」
「人が減ったことそのものを良いと言っているわけではないと思います。以前は市の日になると、家の前まで人が溢れて嫌だったという者もおりましたので」
「なるほど」
昨日の市では、人が増えたことで道が詰まり、宿が足りず、盗みや火事を心配する声が出ていた。こちらでは人が減ったことで商いは苦しくなっているが、混雑や揉め事は減っている。
一つの数字だけを見れば、あちらは栄え、こちらは衰えたという話で終わる。しかし暮らしている者の側から見れば、失ったものと、減って助かったものが同時に存在していた。同じ変化でも、商人、宿の主人、市を管理する者、近くで暮らす者の誰から見るかによって意味が変わる。
市が大きくなることと、その場所にいる全ての人間が同じように得をすることは、やはり別の話だった。
「それと、一つ気になる話がございました」
「何だ」
「市を支えるための銭でございます」
「市銭か」
「はい。こちらでは商人から取っていた銭の一部を、夜に人を置くことや、道の手入れ、市で起きた揉め事を処理する者へ回していたそうです。商人が減れば入る銭も減りますが、仕事そのものが全て無くなるわけではございませぬ」
その話には、すぐに引っ掛かった。
三年前、俺は「余計な負担を減らす」ということをかなり強く考えていた。商人が市へ入るだけで取られる銭、何のためなのか分からない負担、昔からそうだからという理由だけで残っているように見えるもの。それらを減らせば、商いはしやすくなるはずだと考えたし、実際その効果は出ている。
だが、市で取られている銭の全てが、何もしない者の懐へ入っているだけだったわけではない。
夜回りを雇うために使っているなら、銭を取らなくした後も夜回りそのものは必要になる。道を直すために使っていたなら、誰かが代わりにその費用を出さなければならない。揉め事を収める者へ渡していたのであれば、徴収だけ止めてその働きまで失えば、市の秩序そのものが悪くなる。
「昨日の市ではどうだ」
「楽市にした時、残した負担もございますよね」
「ああ」
「その一部で賄っております。ただ、人が増えた分だけ足りなくなっているものもございます。昨日、若様が御覧になった道などがそうでしょう」
負担を減らす。人と荷が増える。その結果、以前より多く道を直し、警固を増やす必要が生まれる。
取らないようにさえすれば、後は勝手に栄える。
どうやら、そんな単純な話ではなかった。
「篠。今まで俺は、市の負担を取る側は皆得をしておるように考えていた」
「全部ではないと?」
「ああ。誰が、何のために取っているのかを分けなければ駄目だ。ただ通るだけの者から何もせず取っているなら、無くした方が良いものもあるだろう。だが橋を直し、夜警を置き、火事に備えるために使っているのであれば、銭を取ることそのものより、何へ使っているのかを見る必要がある」
「そこまで篠には分かりませぬよ」
「分かっておる。今は聞いた話で十分だ」
三年前の俺は、「銭を取るもの」と「商いを邪魔するもの」をかなり近い意味で考えていたらしい。実際には、同じ一文であっても、ただ権利として徴収されるだけのものと、市を維持する仕事のために使われているものがある。
次へ進むのであれば、それらを同じものとして処理するわけにはいかなかった。
*
観音寺城へ戻ると、弥七もすでに帰っていた。
自室へ三人と弥太郎を集め、この数日で分かったことを机の上へ並べる。宗兵衛は商人と商品の移動、篠は人々の受け止め方と市を維持する負担、弥七は道を通る人や荷がどのように変化したのかを持ち帰っていた。
「道は、思った以上に変わっております」
弥七が地図の上を指で辿った。
「楽市にした市へ向かう街道だけではございませぬ。途中から脇道へ入り、関を避けて向かう者もおります。少し遠回りでも、払う銭が少ない道を選ぶ者がいるようで」
「時間より銭を選ぶのか」
「急ぐ荷でなければ、そのようです。反対に、日持ちのしにくいものや急ぐ者は、銭を払っても短い方を通ることがあります」
宗兵衛も商人から似た話を聞いていた。何を運ぶのかによって選ぶ道は変わり、荷が大きければ道幅や路面の状態まで考えるという。つまり、関銭を一つ減らしたからといって、全員がその道だけを使うようになるわけではない。ただし、幾つも銭を取られる道ほど避けられやすいという傾向はある。
弥七はさらに、昨日見た市へ向かう街道の傷みについても報告した。人馬が増えたため、以前より頻繁に補修しなければならない場所があり、橋も同じように傷むのが早くなっているという。
商いをしやすくするために人や荷を呼び込んだ結果、その人と荷を支える道には以前より多くの手入れが必要になった。
「良いことをしたら、仕事が減るというわけではないな」
思わず口にすると、弥太郎が苦笑した。
「むしろ増えているように聞こえまする」
「俺にもそう聞こえる」
商人を呼ぶために負担を減らす。人が増える。品が増える。銭が動く。そこまでは三年前に期待した通りだった。
しかしその先には、道を直し、宿を増やし、荷を置く場所を作り、火事や盗みに備えるという次の仕事が待っていた。
楽市とは、取るものを減らせば、後は放っておいても勝手に市が育つ仕組みではないらしい。人を呼んだのであれば、その人々が商いを続けられる状態を維持しなければならず、そこまで含めて初めて政になる。
「宗兵衛。商人の移動はどれほどだった」
「正確な人数は出せませぬ。ただ、楽市の市で今商っている者の中に、周囲の市から移った者は珍しくございませぬ。新たに商いを始めた者もおりますので、全部が移動というわけではありませんが」
「三年前より、商人そのものが増えた部分もある?」
「あると思います。市が大きくなったことで、以前は荷運びをしていた者が自分で商いを始めたという話も聞きました。ですが、何人かまでは」
「それでいい」
俺は紙の上を二つに分け、分かっていることと分からないことを書き出していった。
三年間で楽市にした市は確かに大きくなった。商人、客、品が増え、市そのものだけでなく、宿や荷運びなど周辺の仕事も増えた。新しく商人となった者もいる。
一方で、周囲の市から移ってきた者も少なくなく、楽市側では人と荷が増えたために道、宿、荷置き場、警固といった新しい負担が生じ、周辺市では客と商人が減ったことで、市を維持するために使っていた銭まで減っている場合がある。
さらに、商人は「楽市だから」という名前だけで場所を選んでいるわけではない。負担の軽さ、客の多さ、品の種類、道の良し悪し、安全、宿、荷を置く場所。それらを合わせて、自分にとって商いやすいところへ動いている。
三年前に知りたかった問いは単純だった。
負担を軽くすれば、人と物は増えるのか。
その問いへの答えだけなら、もう出ている。
「若様」
紙を眺めていた篠が尋ねた。
「結局、上手くいったのでございますか?」
少しだけ考えた。しかし、答えそのものにはそれほど時間を掛けなかった。
「上手くいったと思う」
篠が意外そうにこちらを見る。
「随分すぐにお答えになるのですね」
「ああ。少なくとも、負担を軽くして商いをしやすくすれば、人と物が集まるということは分かった。それを知るために始めた三年なのだから、そこは上手くいったと言ってよい」
「では、このまま?」
「それは違う」
今度は宗兵衛がこちらへ顔を向けた。
「三年前は、一つだけ条件を変えて何が起きるかを見たかった。だが三年続けたことで、一つだけ変え続ければ何が起きるかまで分かった。条件の良い市へ人が流れ、近くの市は不利になる。なら、また別の市を一つだけ選んで、二年三年と同じことを試す意味は薄い」
「では、全部を?」
「そこを父上と話す」
進む方向は、ようやく見え始めていた。ただし、「全部」という言葉には気を付けなければならない。六角が直接扱える市と、寺社や国人の権利が複雑に絡む市では条件が違う。市で取られる銭も、今回分かった通り、何も考えず一律に無くせばよいものではない。
それでも一つだけ確かなことがあった。
次もまた一つの市だけ選んで試す、という段階ではない。
*
父上へ三年間の結果を報告することになった評定には、六人衆も揃っていた。もともとは俺が続けてきた試みについて父上へ話すだけのつもりだったが、市の仕組みを広げる話になるなら最初から諸将にも聞かせた方がよいと判断したらしい。
広間には蒲生下野守、後藤但馬守、進藤山城守、三雲対馬守、目賀田次郎左衛門尉、平井加賀守が並び、俺は父上に近い位置へ座った。弥太郎には数日分の報告をまとめた紙を持たせ、少し後ろへ控えさせている。
「では、右衛門督。三年やった答えを申してみよ」
上座から促され、一度頭を下げた。二人だけで話している時なら父上は俺を義治と呼ぶことが多い。だが六人衆が並ぶこの場では、俺は右衛門督になる。その違いにはもう慣れているつもりだったが、公の場で官途名を向けられると、自分個人の考えではなく、六角の嫡男として答えなければならないのだという意識が自然と強くなった。
「はい。先に結論から申し上げまする。楽市の試みそのものには、続ける価値があると考えております」
「随分迷いのない言い方ですな」
後藤但馬守がそう言ったので、三年間で商人、客、扱われる品のいずれも増え、市の周囲にも宿や荷を扱う仕事が増えたことを説明した。負担を軽くし、商いへ入りやすくしたことで人と物が集まるという点については、狙った通りの結果が出たと考えてよい。
「ならば成功ということか」
進藤山城守の問いには頷いた。
「その点では。ただし、このまま一つの市だけ続けることには問題がございます」
そこから、昨日までに見てきた周辺市のことを説明した。楽市へ移った商人、客の減少、市銭の減少。一方で楽市側では宿不足、道路の傷み、荷を置く場所の不足、治安への不安といった問題が新しく生まれている。数字として全てを正確に出せるわけではないことを先に断った上で、宗兵衛、篠、弥七から集めたものを、見た事実とそこから考えられることを出来るだけ分けながら話していった。
「つまり、あちらを栄えさせた分、こちらが痩せたと?」
蒲生下野守が腕を組む。
「全てが移ったわけではございませぬ。新しく商いを始めた者もおりますので、六角領内全体で見ても増えた部分はあると思います。ただ、一つの市の伸びを、そのまま六角全体の伸びだと考えることは出来ませぬ」
「それは当然ではないか」
目賀田次郎左衛門尉が口を挟んだ。
「市が競うのは昔からのこと。こちらが栄えれば隣が衰えることもある。それまで六角が気にしておれば、商いなど動かせぬぞ」
「はい。競うことそのものを止めたいわけではございませぬ」
そこは俺も同じ考えだった。全ての市を同じ大きさにすることなど出来ないし、する必要もない。立地も違えば、集まる品も客も違う。競うこと自体は、むしろあって当然だろう。
「ただ、今回生まれた差には、商人や市が自分たちで作ったものだけではなく、六角が一方だけ条件を変えたことで生まれた部分が大きうございます。こちらでは取らぬ、向こうでは取る。その状態で商人が条件の良い方へ動くのは当然です。それを三年続けた上で、また別の一市だけ条件を変えれば、今度はそこへ人が流れます。順番に試す限り、六角自身が市ごとの有利不利を作り続けることになりまする」
後藤但馬守が俺を見る。
「では、どうなされる」
「六角が直接扱える市については、広げるのであれば原則として同じ時に条件を変えるべきかと考えております」
広間が僅かに静かになった。父上はすぐには口を挟まず、六人衆の反応を見ている。
「一度に、か」
平井加賀守が慎重な声音で尋ねた。
「右衛門督様。此度の一市だけでも、市銭を軽くしたことで減った収入はございます。それを複数の市で一度に行えば、入らぬ銭も一度に増えますぞ」
「はい。それは承知しておりまする」
「なら、何故少しずつではいかぬ」
「少しずつ行えば、その間に商人が動くからにございます。三年間で、それを実際に見ました」
俺は加賀守へ向き直った。
「例えば今年一つ、来年もう一つと変えれば、最初の市は一年早く有利になります。その一年で商人や客が集まり、宿や蔵まで増えれば、翌年隣の市を同じ条件へ変えても、すでに別の差が出来ております。昨日見た市が、まさにその状態にございました」
「ならば、全てを同時に変えれば差は出来ぬと?」
「少なくとも、六角が変える順番によって作る差は減らせると思います。ただし、市そのものの場所、道、昔からいる商人、扱う品まで同じにはなりませぬから、栄え方まで同じになるとは思っておりません」
そこは混同してほしくなかった。
俺がしたいのは、全ての市を同じ姿にすることではない。湖に近い市と街道の交わる市、農村の中にある小さな市では役割そのものが違う。それぞれが競い、便利な市へ人が集まること自体には問題はない。
避けたいのは、六角が「今年はここ、次はあそこ」と順番に条件を変えることで、その順番そのものが長く残る有利不利になることだった。
「一つ聞いてよろしいか」
三雲対馬守が声を上げた。
「はい」
「楽市というが、何も取らぬつもりか」
「いいえ」
即答すると、何人かが僅かに表情を変えた。
「三年前は、出来る限り負担を減らすことを先に考えておりました。ですが今回見直したところ、商人や市から取っている銭の中には、道や橋の手入れ、夜警、火事への備え、市の揉め事を処理する者へ回っているものもございます。それまで全て無くしてしまえば、今度は市そのものを維持出来ませぬ」
「では何を無くす」
「商いをするために必要とは思えない負担、同じ荷から幾度も理由なく取るもの、道を塞いで通るだけで取るものは減らしたいと考えております。ただし、橋や渡しを実際に維持している者へ渡す銭まで同じものとして扱うつもりはございませぬ。まず、何のために取っているものなのかを見る必要があります」
父上が僅かに笑った。
「三年前とは随分変わったな」
「三年前は、銭を取る側を少し悪く考え過ぎておりました」
「少し、か?」
「……かなり」
広間に小さな笑いが起こった。
俺も少しだけ口元を緩めたが、話していること自体は軽くない。
「商人から見れば、取られぬ方が良いに決まっております。ですが夜に盗まれ、橋が壊れ、火事が出ても誰も動かなければ、結局その市へは来なくなります。商いを邪魔するための負担と、商いを支えるために必要な負担は分けるべきだと思いまする」
「言うのは簡単じゃ」
後藤但馬守の声には、責めるというより先を考えろと促すような響きがあった。
「これは必要、これは不要と誰が決める。取っておる側は皆、必要だと申すぞ。それに市銭や関銭を得ること自体が、昔からの権利である場合もある。不要だから明日から取るなと命じれば、必ず揉める」
「はい。それも承知しておりまする」
「本当か?」
「今、承知した部分もございます」
正直に答えると、また父上が笑った。
「ならば、今すぐ全てを変えるのは無理だな」
「はい。ですから、まずは六角が直接扱える市から考えたいと思います。寺社が持つ市や、他の権利が複雑に重なるところまで、一律に命じるつもりはございませぬ」
寺社が長く持ってきた権利を、六角が楽市を広げるからという理由だけで取り上げれば、商いを良くする前に争いを増やす。彼らが実際に担っている仕事もあるだろうし、土地や人との結び付きもある。そこは何を残し、何を変えるのかを、一つずつ話す必要がある。
「では、寺社領は放っておくのか」
進藤山城守が尋ねた。
「いいえ。道を塞ぎ、荷が通るたび幾度も銭を取ることで、六角全体の物の流れを妨げているところは、いずれ話をする必要があると思います。ただ、直轄の市と同じ日に、全てを同じ条件へ変えるのは無理がございます」
「つまり、出来るところは一度に、出来ぬところは交渉か」
「はい」
父上が指先で膝を軽く叩いた。
「二つ違うことを同時に言っておるな。直轄では揃えたい。寺社とは一つずつ話したい」
「そうなります」
「面倒じゃな」
「私もそう思います」
「そなたが言い出したのであろう」
「はい」
父上が呆れたように息を吐き、広間の空気が僅かに緩んだ。
「だが、筋は通っておる。三年試して商人が動くことは分かった。ならば、また別の一市で三年試す必要はあるまい」
「私もそう考えておりまする」
「次は広げる。ただし、何でも取るな、何も取るなという話ではない」
「はい」
そこで父上は少し姿勢を改めた。
「では、右衛門督」
「はい」
「何処までを同じにし、何を残すのか。市ごとの違いをどう扱うのか。減る銭を何で補うのか。その案を作れ」
予想していた命令だった。それでも、こうして評定の場で正式に右衛門督として命じられると、自室で考えていた時とは違う重さがあった。
「私が、でございますか」
「三年前に始めたのはそなたであろう」
「父上も許可されました」
「儂へ押し付ける気か」
「いえ」
「ならば最後までやれ」
六人衆の何人かが笑っている。
「但馬守」
「はっ」
「銭の話はそなたも見てやれ。右衛門督は商人が増えれば銭も勝手に増えると簡単に考えかねん」
「承知いたしました」
「父上、それは少し――」
「評定中じゃ」
短く返され、口を閉じた。周囲から笑いを堪える気配がしたが、公の場で言い返せるところではない。
「次郎左衛門尉」
「はっ」
「直轄の市で、今何を取っておるかを洗え。名が同じでも使い道が違うものがあるはずじゃ」
「御意」
「対馬」
「はっ」
「寺社や国人が持つ市、関について、揉めそうなところを先に拾え。話を始めてから『聞いておりませんでした』では困る」
「承知仕りました」
父上から次々に役目が振られていくのを見ながら、少し不思議な感覚を覚えた。
俺が始めた話だったはずなのに、もう俺一人の仕事ではなくなっている。
しかし、それで良いのだろう。本来、六角領内全体へ関わる仕組みを、俺と弥太郎、それに篠たちだけで調べ、俺一人で決める方がおかしい。六角にはすでに政を動かす人間がおり、銭、市、国人、寺社、それぞれについて俺より詳しい者がいる。
自分で全てを知ることと、全てを自分で調べることは同じではない。
必要な者へ役目を渡し、上がってきたものを比べ、最後に責任を持って判断する。それも、俺が今後覚えなければならないことなのだろう。
「右衛門督」
「はい」
先ほどまで僅かに笑っていた父上の表情から、今度は笑みが消えた。
「一つだけ覚えておけ。三年やって上手くいったからと、今度は領内全てが同じようになると思うな」
「はい」
「場所が違えば人も違う。寺社もおれば国人もおる。昨日まで客の少なかった市が、負担を軽くした翌日から賑わうわけでもない。そなた自身が今申したことであろう」
「承知しておりまする」
「ならよい。次は、試しではない。政になるぞ」
その言葉が、妙に胸へ残った。
これまでは、失敗しても一つの市で済んだ。最初から試しだと周囲へ説明し、父上にもまずやってみよと許されて始めたものだ。俺自身にも、上手くいかなければ戻せばよいという気持ちがどこかにあったのだと思う。
だが複数の市へ広げれば、影響を受ける人間は一気に増える。
商人だけではない。市で銭を取っていた者、道を守る者、宿を営む者、荷を運ぶ者、寺社、国人、そしてそこで物を買う領民まで関わってくる。一つの判断が誰かの利益になり、別の誰かの負担になる。その数が増えれば、以前のように「まず試してみる」という軽さだけでは済まなくなる。
父上が言った「政になる」という言葉は、失敗出来ないという意味ではないのだろう。
失敗しても、影響を受ける者まで含めて引き受けなければならない。
そういう意味なのだと思った。
*
評定を終えて自室へ戻る頃には、外はすでに暗くなり始めていた。冬が近付いた空は暗くなるのが早く、廊下の向こうには薄い藍色しか残っていない。弥太郎が抱えてきた紙を机へ置くと、その量を見て二人でしばらく黙った。
「増えましたな」
「言うな」
「若様が始められたことでございます」
「分かっておる」
「これも帳面に?」
「全部俺が書くつもりはない。父上に怒られる」
「ようやく学ばれましたか」
「違う。今まで俺が書き過ぎておった」
誰が何を調べるのかを分けた以上、その全てを自分の帳面へ写し直す必要はない。後藤但馬守が銭を見て、目賀田次郎左衛門尉が直轄市で何を取っているのかを調べ、三雲対馬守が寺社や国人との間で揉めそうな場所を拾う。俺がするべきなのは、それらを全部自分で調べ直すことではない。
上がってきたものを比べ、何を残し、何を変えるのかを決めることだ。
それでも、三年前の帳面だけはもう一度開いた。
最初の頁には、当時の俺が書いた目的が残っている。
負担を軽くした時、市へ集まる人と物がどう変わるかを見る。
言葉自体は簡単だった。そして、その問いへの答えならもう出ている。人も物も商いも増えた。
ただ、その答えの先にあるものを、三年前の俺は知らなかった。
人が増えれば道が傷み、宿が足りなくなり、盗みや火事への備えが必要になる。条件の良い市へ商人が移れば、周囲の市から人と銭が減る。負担を無くせば商人は喜ぶが、その負担で支えていた仕事まで無くせば、市そのものが困る。
三年前に知りたかった問いへの答えは単純だったのに、その答えを実際の政へ使おうとすれば、今度は問いの方が幾つにも増えていく。
それでも、もう一度同じ三年間を繰り返す必要はない。成功だったのか、失敗だったのかを迷い続ける段階も終わったのだと思う。
楽市にすれば、人と物は動く。
そして、その動きは一つの市の中だけでは終わらない。道を変え、周りの市を変え、宿や荷運びの仕事を増やし、銭の流れまで変えていく。だから一つずつ順番に条件を変えれば、その順番そのものが市同士の有利不利を生む。
次に広げるなら、少なくとも六角が直接扱える市については、出来るだけ同じところから始めた方がよい。
「若様」
「なんじゃ」
「次は何からなされるので?」
弥太郎に聞かれ、机の上へ積まれた紙を見た。
「何を同じにするかを決める」
「楽市にするのでは?」
「楽市と言っても、全部同じではないことが分かっただろう。取らぬものを決めるだけでは足りぬ。残すものも決めねばならない」
「道や夜警でございますか」
「ああ。それに橋、渡し、市の揉め事を扱う者、火事への備え。市によって今あるものも違う。それを一度見なければならぬ」
「また増えそうですな」
「もう増えておる」
弥太郎が笑ったので、俺も少し笑った。
ただ、三年前とは同じ笑いではなかった。
あの頃は、新しいことを試すこと自体が面白かった。前世で知っていた制度や考え方が、この時代でも通じるのか確かめたいという気持ちも、確かにあったと思う。
今は少し違う。
知っている制度を持ってくることより、その制度をこの土地でどう使うのかを考える方が、ずっと難しいと分かり始めている。
六角直轄の市で余計な負担を一斉に軽くすると言うだけなら簡単だ。だが、市を支える仕事まで止めるわけにはいかない。寺社や国人の権利が絡む場所には、命令だけではなく交渉も要る。減った銭をどこから補うのかも考えなければならず、一つの市では問題にならなかったことが、数を増やせば一度に大きくなる。
三年前に始めたのは、一つの市で答えを見るための試みだった。
その答えはもう出た。
これから考えるのは、同じことをもう一度試す方法ではない。
そこで得た答えを、六角の中でどう使うのかという話になる。
評定の場で父上が俺を右衛門督と呼び、その上で「次は、試しではない。政になるぞ」と告げた理由を、ようやく少しだけ分かった気がした。