年が改まると、観音寺城の空気も普段とは少し違ったものになった。
正月を迎えたからといって政が止まるわけではない。北では浅井が完全に消えたわけでもなく、朽木が押さえた土地についてもまだ落ち着いたとは言い難い。それでも城内には新しい年を祝う飾りが置かれ、朝から年賀のために訪れる者が絶えなかった。近江の国人、六角に仕える家臣、寺社からの使い、商人。それぞれ立場によって通される場所も順番も異なり、広間の外では人の出入りと取り次ぎの声が途切れることなく続いている。
幼い頃なら、父上の後ろからその様子を眺め、聞き覚えのある名が呼ばれるたびに頭の中で顔と結び付けていればよかった。だが今は違う。俺は右衛門督として父上の近くへ座り、挨拶を受ける側にいる。元服してから何度も公の席へ出ているというのに、年の初めから次々と人が進み出て頭を下げ、そのたびに自分へも言葉が向けられると、六角家の嫡男という立場を改めて意識させられた。
もっとも、それも長く続けば緊張より先に疲れの方が勝ってくる。顔と名を覚え、誰が何を持参したのかを聞き、昨年の働きへ触れ、今年もよろしく頼むという趣旨の言葉を交わす。同じことを繰り返しているようで、相手によって言葉の重さは違う。父上はそれをほとんど迷うことなく切り替えており、長く仕えている家には長く仕えている家への言葉を、昨年大きな働きをした者にはその働きを踏まえた言葉を返していた。
隣で見ていると、こういうところにも経験の差が出るのだと思う。
「右衛門督」
小さく呼ばれ、少し逸れていた意識を戻した。
「はい」
「次は朽木じゃ」
父上の言葉に、僅かに姿勢を正す。
やがて広間へ入ってきた少年の姿を認めた時、俺は思わず口元を緩めそうになった。
竹若丸と、こうして落ち着いて顔を合わせるのは随分久しぶりだった。野良田では同じ場所にいたとはいえ、戦場でゆっくり話せるはずもない。その後は朽木が高島の北へ動き、こちらも佐和山や領内の整理に追われていた。書状のやり取りはあったが、紙の上の文字と実際に相手の顔を見ながら交わす言葉では、やはり違う。
竹若丸は供を従えて父上の前まで進み、静かに頭を下げた。
「新年のお慶びを申し上げまする。左京大夫様におかれましては、御健勝にて新年を迎えられましたこと、何よりにございます」
「うむ。竹若丸殿も変わりないようで何よりじゃ」
「おかげをもちまして」
形式通りの挨拶が済むと、朽木から持参された品が披露された。どれも見たことのない珍品というわけではない。だが量と質を見れば、以前の朽木を知る者ほど違いに気付くらしい。父上の近くに座る後藤但馬守が、ほんの僅かに目を細めたのが見えた。
俺も同じことを考えていた。
初めて竹若丸と会った頃の朽木は、山間に領地を持つ小さな国人だった。それが今では高島の一角を押さえ、海津や塩津へ繋がる道にも手を伸ばし、湖を使って物を動かしている。単純に領地が広がっただけではない。そこから得られる米や銭、動かせる人、使える道と湊、その全てが以前とは違っている。
「竹若丸殿。昨年は随分と働いたの」
父上が笑いながら声を掛けた。
「野良田でもそうじゃが、その後が早かった。こちらが佐和山へ向けて兵を整えている間に、そなたは北へ北へと進んでおった。報せが届くたびに、またかと思うたぞ」
「機を逃したくなかっただけにございます」
「それが出来る者が少ないのじゃ。機があると分かっていても、兵が揃わぬ、兵糧が足りぬ、道が悪いと言っておるうちに時は過ぎる」
父上の言葉を聞きながら、俺も竹若丸へ目を向けた。
そこは俺も、昨年からずっと気になっている。
道については弥七へ見せた。塩津から船で動く荷については宗兵衛にも調べてもらい、篠からは朽木の兵やその家族が、野良田の後も再び兵が動くことをそれほど意外には受け止めていなかったという話を聞いている。竹若丸が戦の前から次の行動を考え、道や兵糧について準備していた可能性も高い。
それでも、それだけでは説明し切れないものが残っていた。
六角にも道はある。船もある。米もある。人に至っては朽木より遥かに多い。それなのに同じようには動けない。俺がまだ見落としているものがあるはずだと思う一方で、今は六角家の年賀の席であり、朽木の軍制を根掘り葉掘り尋ねる場ではない。その疑問は頭の隅へ置き、今は口にしないことにした。
「左京大夫様こそ、佐和山を短期間で落とされたと聞き及んでおりまする」
竹若丸が言うと、父上は軽く首を振った。
「儂一人で落としたわけではない。皆が動いた結果じゃ」
「それを動かすのが御屋形様のお役目にございましょう」
「口が上手くなったな」
「生きるために必要と覚えました」
父上が声を上げて笑い、六人衆の間にも笑いが広がった。それまで公の席らしく張っていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
そのまま昨年の戦や北近江の様子について、幾つか言葉が交わされた。浅井久政が小谷へ戻ったこと、浅井という家そのものはまだ消えていないこと、朽木も奪った土地へ旗を立てれば終わりというわけではなく、治める者を置き、米を運び、周囲の国人や村々との関係を作り直さなければならないこと。
竹若丸の話を聞いていると、すでに意識は「どう勝つか」より「勝った後に何をするか」へ移っているように見えた。
似ているようで、やはり俺とは少し違う。
俺なら、新しく得た土地についてまず人や物を記録し、何がどれほどあるのかを確かめたくなる。竹若丸も当然そうしたことはしているのだろう。それでも、話を聞いていると俺より早く「次にどう使うか」へ意識が向いているように感じる。その違いは面白くもあり、同時に少し悔しくもあった。
一通り昨年の話を終えると、父上は改めて竹若丸殿へ向き直った。
「竹若丸殿。そなたとは、随分長い付き合いになったものじゃな」
「左京大夫様に初めて御目に掛かった頃を思えば、某もそう感じておりまする」
「最初は宮内少輔に連れられた小さな童であった。それが今では、儂らを驚かせるほど兵を動かす」
竹若丸の表情が、ほんの僅かに変わった。
朽木宮内少輔晴綱。竹若丸の父親だ。
父上があえて名を直接出さなかったのは、亡くなった父を思い出させることへ気を遣ったのか、それとも別の意図があるのか。そこまでは分からない。俺は余計なことを挟まず、二人を見る。
「こうして親しくなれたのじゃ。六角と朽木の結び付きを、今少し深いものにしたいと思っておる」
その言葉が出た瞬間、広間の空気が変わった。
先ほどまでの戦を振り返る話とは違う。六人衆も、それまでより静かに父上へ視線を向ける。竹若丸は僅かに間を置いたものの、表情には大きな動揺を見せなかった。
「某も、六角家との御縁は大切にしたいと考えておりまする」
「そうか」
父上の口元が僅かに上がる。
「ならば話は早い。如何かな、竹若丸殿。思い切って儂と親子にならんか」
その言葉を、俺は知っていた。
前世で読んだ物語の記憶のどこかに、確かに残っている。
それでも実際に父上の口から聞くと、記憶の中にあった文章とはまるで重さが違った。
六角と朽木を結ぶ。
主従として朽木を六角の下へ入れるのではなく、婚姻によって横から繋ぐ。朽木という家を独立した相手として認めた上で、血縁によって関係を強めようとしている。朽木がまだ小さかった頃ではなく、北へ領地を広げ、兵と物を動かす力を持ち始めた今だからこそ、その意味は大きい。
竹若丸も、父上の意図は理解したようだった。
「親子、と申されますと」
「うむ。儂には娘がおらぬ。そこで平井の娘を儂の養女とし、そなたに貰ってもらいたいと思っておる」
平井。
その名が出た時点で、誰のことかは分かった。
「平井様の御息女と申されますと……小夜様にございますか」
「そうじゃ」
父上が頷き、後ろに控えていた平井加賀守が深く頭を下げる。
俺は無意識に、膝の上へ置いていた手へ力を入れていた。
小夜は一度、浅井新九郎賢政へ嫁いだ。わずか数か月で観音寺へ戻り、その後、野良田で新九郎は死んだ。
しかも、新九郎を討ったのは朽木勢だった。
その事実を知っているだけに、俺にはこの縁談を単なる家同士の話として聞くことが出来なかった。
「竹若丸殿」
父上が続けようとする。
「誤解せぬでほしい。小夜は――」
「左京大夫様」
竹若丸が静かに父上の言葉を止めた。
公の席で当主の言葉を遮れば、相手によっては無礼と取られてもおかしくない。だが父上は眉を僅かに動かしただけで、怒る様子を見せなかった。
「なんじゃ」
「某、小夜様に不満はございませぬ。平井家の御息女であることも承知しておりまするし、以前浅井へ嫁がれたことも存じております。それを理由に、この御縁を断るつもりもございませぬ。ただ、一つだけございます」
竹若丸一度だけ平井加賀守へ視線を向け、それから父上へ戻した。
「小夜様ご自身は、如何なのでございましょう」
広間が静かになる。
「浅井新九郎殿とは離縁されたとはいえ、一度は夫婦となった御方。そして野良田では、某の兵が新九郎殿を討っておりまする。小夜様がそれを恨んでおられるとは申しませぬ。しかし、だから何も思われぬとも、某には決められませぬ」
その言葉を聞きながら、俺は野良田から戻った後に小夜と話した時のことを思い出していた。
小夜は竹若丸を恨んではいなかった。
けれど、何も感じていないわけでもなかった。
新九郎との婚姻が幸せだったとは言い難い。むしろ短い婚姻の間に傷付いたことの方が多かった。それでも、かつて夫だった男が死んだという事実まで簡単に消えるわけではない。父親や弥太郎、俺が無事に戻ったことを喜びながら、その安堵が新九郎の死を喜ぶことと同じなのではないかと悩むほど、小夜の中には一つに決められない感情が残っていた。
「加賀守。小夜は何と申しておる」
父上に呼ばれ、平井加賀守は一度頭を下げたまま、慎重に言葉を選んだ。
「浅井へ戻りたいとは申しておりませぬ。新九郎殿との縁についても、今では終わったことと受け止めようとしておりまする。ただ……朽木殿との御縁については、まだ小夜へ話しておりませぬ」
「そうか」
父上が頷く。
このままなら、家同士の縁として話を進めることも出来る。
それ自体、この時代では特別おかしなことではない。俺自身、政略結婚そのものを否定するつもりもなかった。小夜は平井家の娘であり、父上の養女となって朽木へ嫁げば、六角と朽木を結ぶ大きな意味を持つ。平井家にとっても悪い縁ではない。
だが、家にとって意味があることと、小夜がどう思うかは同じではない。
「父上」
考え切るより先に声が出た。
父上がこちらを見る。
「何じゃ、右衛門督」
「一つ、よろしゅうございますか」
「申せ」
「小夜自身にも、一度話を聞くべきかと存じまする」
平井加賀守の視線が俺へ向いた。
「家同士の縁であることは承知しております。小夜が好きな相手を自由に選べばよいなどと申すつもりもございませぬ。ただ、竹若丸殿ご自身が小夜の気持ちを気にしておられるのであれば、少なくとも本人がこの縁を強く厭うてはいないか。それだけは確かめてからでも遅くないかと」
父上はすぐには答えなかった。
しばらく俺を見た後、視線を竹若丸へ移す。
「竹若丸殿は、それを望むか」
「はい」
竹若丸は迷わなかった。
「家と家の縁であることは承知しておりまする。某も朽木の当主である以上、婚姻を己一人の好みだけで決められるとは考えておりませぬ。ただ、小夜様が朽木へ嫁ぐことを強く厭うておられるのであれば、そのまま押し進めるのは望みませぬ」
「ふむ」
今度は父上が平井加賀守を見る。
「加賀守。異存はあるか」
加賀守は頭を下げたまま少し黙り、それからゆっくり顔を上げた。
「ございませぬ。むしろ、そこまで小夜のことをお考えいただけるのであれば、父として有り難く存じまする」
竹若丸が軽く頭を下げる。
その姿を見ながら、俺は少しだけ息を抜いていた。
竹若丸だから大丈夫だとは思わない。
前にも俺は、小夜へ「必ず幸せになれ」と言った。
その結果がどうなったのかは、もう知っている。
だから今度は、相手が自分の友だからという理由だけで、同じ言葉を小夜へ向けるつもりはなかった。
「よかろう」
父上が決める。
「では小夜へ話を通そう。その返事を聞いてから正式に話を進める」
「御配慮、感謝いたしまする」
竹若丸が深く頭を下げると、父上は再び少し笑った。
「何、まだ親子になると決まったわけではない。小夜に嫌だと言われれば、儂の方が振られることになるからの」
「父上」
「冗談じゃ、右衛門督」
広間に小さな笑いが戻った。
それから幾つか細かな話を済ませ、竹若丸の正式な年賀の挨拶は終わった。
立ち上がる彼の姿を見ながら、俺は先ほどから頭の隅に残り続けていた疑問を思い出していた。
昨年の、あの速さ。
高島の北へ次々と動いた兵。
道、船、兵糧。調べたものは増えたのに、それでも説明し切れなかった部分がある。
広間を出たところで声を掛けた。
「竹若丸殿」
振り返った彼が、少し首を傾げる。
「何でございましょう、右衛門督殿」
「まだ、すぐに戻るわけではないだろう」
「はい。しばらくは城内におりまする」
「なら、少し付き合わぬか」
「何処へ?」
俺は廊下の先へ視線を向けた。
「淡海乃海がよく見えるところがある。少し、お主と二人で話したいことがある」
年賀の席では聞けなかったことを、今度こそ本人へ聞いてみようと思った。
*
竹若丸を連れ、城の高いところにある曲輪へ向かった。
弥太郎も当然のようについて来ようとしたが、今日は少し離れていてくれと伝えると、何か言いたそうな顔をしながらも足を止めた。竹若丸の供も同じように残り、結果として俺たちは二人だけで坂を上っていくことになった。
正月とはいえ冬の山城だ。日が出ていても風は冷たく、石垣の脇を抜けるたびに袖の中へ冷気が入り込んでくる。それでも高い曲輪へ出ると視界が一気に開け、遠くまで広がる淡海乃海が冬の陽を受け、鈍い光を返していた。
「なるほど。確かによく見えますな」
竹若丸が湖へ目を向ける。
「ああ。俺も昔から何度も見ているはずなのだがな」
「何か変わりましたか?」
「湖は変わっておらぬ。俺の見方が変わった」
竹若丸がこちらを見る。
「以前なら、ただ広いと思っていた。綺麗だともな。今はあそこを船が何艘通れるか、どれほどの荷を積めるか、どの湊で降ろし、その先を何頭の馬で運ぶのかと考えてしまう」
「随分と風情のない見方になられましたな」
「お主にだけは言われたくない」
「某は湖を見て、そのようなことばかり考えているとは申しておりませぬ」
「では何を見る」
「魚が獲れそうだ、と」
「それも十分風情がないぞ」
思わず笑うと、竹若丸も小さく笑った。
年賀の広間では、互いに六角と朽木という家を背負って話していた。それが二人になると、少し肩の力が抜ける。初めて顔を合わせた頃には、こちらも相手もまだ幼かった。それから互いに家を背負う立場となり、戦場でも顔を合わせ、今では婚姻によって両家を結ぶ話まで出ている。
立場は変わった。
それでも、こうして他愛のないことを言い合える関係まで失わずに済んでいることは、有り難いと思った。
「しかし、道として見れば便利なものにございます」
竹若丸が再び湖へ視線を戻す。
「やはりお主も道と見るか」
「船が使えれば、陸を行くより多くを運べまする。ただし、いつでも使えるわけではございませぬ。風が悪ければ出られませぬし、湊を敵に押さえられれば使えぬ。荷を降ろした後は、結局陸を通らねばならぬこともございます」
「そこは俺も調べた。塩津から先が詰まれば、湖でどれだけ速く運んでも意味が薄い」
「その通りにございます」
「お主は、あそこへ兵を動かす前から、そこまで考えていたのか」
「全てではございませぬ」
竹若丸はあっさり否定した。
「分からぬことも多うございました。ただ、どの道を使うか、何処で荷を降ろすか、何処へ一度置くか。その程度は考えておかなければ、兵を出してから困りまする」
「困ってから考えるのでは遅い、か」
「戦では待ってもらえませぬから」
その答えを聞き、やはり俺と竹若丸殿は似ているようで違うと思った。
俺も準備の大切さは理解している。むしろ記録を集め、条件を揃え、出来るだけ不確かなものを減らしてから動きたい方だ。竹若丸も当然準備をする。だが、全てが分かるまで待っているわけではない。動くために必要なところまで押さえたら、そこで踏み出し、先で起きた問題は先で処理する。
俺より一歩早く動き出すことが多いのは、その違いなのかもしれない。
だが、それでもまだ足りない。
俺は湖の向こうを見たまま、昨年から残り続けていた疑問を口にした。
「竹若丸殿。一つ、聞きたかったことがある」
「何でございましょう」
「野良田の後だ。何故、あれほど早く次へ動けた?」
竹若丸がこちらを向く。
「道も見た。湖を使った荷の動きも調べた。お主が戦の前からある程度準備していたことも、今の話で分かった。だが、それだけではないだろう。六角なら、一度兵を出せば田へ返すことを考えねばならぬ。春なら春、秋なら秋で、村にも人が要る。長く連れ出せば田畑へしわ寄せが行き、一度帰せば再び集め直すにも時が掛かる。実際、俺は昨年それを調べた。五百を出せる家でも、五百を十日出せるとは限らなかった」
「なるほど」
「だが、お主は野良田の後すぐ北へ動いた。道と兵糧を用意しておいても、兵そのものを田へ戻さなければならぬのなら、あれほど早くは動けぬはずだ」
竹若丸はしばらく何も言わなかった。
難しいことを聞いたつもりだったが、答えに迷っているというより、何故俺がそこを疑問に思うのかを考えているように見えた。
やがて、湖へ向き直ったまま口を開く。
「百姓を兵に使っておりませぬから」
一瞬、言葉の意味が頭へ入ってこなかった。
「……何?」
「朽木で常に使う兵の多くは、田を耕す百姓ではございませぬ。兵として銭や米を与えておりまする。ですから戦が終わったからといって、田へ戻す必要がございませぬ」
その言葉を聞いた瞬間、知らない話を聞いたという驚きより先に、知っていたはずのものが突然別の形で目の前へ現れたような感覚があった。
兵農分離。
前世で戦国時代について書かれた本を読めば、何度も目にした言葉だ。後の時代になるほど兵と農民が分かれ、農繁期だから戦えないという制約が弱まっていく。そんな説明も覚えているし、意味も理解していたつもりだった。
それなのに、昨年からずっと目の前にあった問題と、その言葉が一度も完全には繋がっていなかった。
俺は何人出せるかを調べた。五百という数字をそのまま信じず、三日なら何人、十日なら何人、田へ残す者は何人必要なのかを考えた。同じ家でも季節によって使える兵数が変わることを知り、父上からも、百姓を兵に使う以上は田を無視して軍を動かせないと言われた。
そこまでは理解した。
だが俺は、「百姓を兵に使う」という前提そのものを外すことを、一度も考えていなかった。
視界の下には冬の田畑が広がり、その向こうに街道が延び、さらに先には湖がある。昨年までの俺の頭の中では、村から男を集め、その者たちを兵にし、道へ載せ、兵糧を運びながら戦場へ送るところまでが一続きになっていた。
竹若丸の一言は、その最初を切り離した。
兵が百姓ではないなら、田の都合で帰す必要がない。
刈り入れのために一度軍を解き、終わった後にもう一度集め直す時間も要らない。戦が終わった後、そのまま次の場所へ移すことさえ出来る。
朽木の速さを、道や準備の問題だけで説明出来なかった理由がようやく見えた。
「……そういうことか」
「何か?」
「いや。俺が勝手に納得しただけだ」
竹若丸が怪訝そうな顔をしたが、今の頭の中をそのまま説明するのは難しい。
知識として知っていたからこそ厄介だった。
知らない言葉なら、目の前の現実として一から考えただろう。だが俺は「兵農分離」という言葉を知っていたため、分かっているものとして頭の棚へ置き、そのまま現実へ引き出してこなかった。
知っていることと、使えることは違う。
「だが、それほど都合が良いなら、何故皆やらぬ?」
「銭が掛かりまする」
返事は早かった。
「やはりそこか」
「戦がなくとも兵は飯を食います。米も要りまするし、銭も要る。武具も傷みますし、草鞋も要ります。寝る場所も必要になります。百姓なら戦が終われば村へ戻り、自分の田で食うものを作りますが、兵だけをしている者はそうはいきませぬ」
戦が無い時にも食わせる必要がある。怪我をしたからといって、その日のうちに捨てるわけにもいかない。病になって働けなくなる者も出る。
竹若丸へ一つ聞くたび、今度は別の帳面が頭の中で勝手に開いていく。
百人を一年食わせるなら、米がどれほど要る。
三百なら。
五百なら。
給金を銭で出すなら、その銭をどこから得る。武具は一度揃えれば終わりではない。壊れれば直し、失えば補う。住む場所も要る。戦のない間に何をさせるのかまで決めなければ、ただ飯を食わせ続けるだけになる。
「それに、百姓を兵に使わぬから強い、ということでもございませぬ」
竹若丸が続けた。
「違うのか?」
「使いやすいだけにございます。日頃から同じ者を集めて鍛えることは出来ますから、それなりには揃いやすくなりましょう。しかし銭を貰う者が、銭を貰わぬ者より忠義深いとは限りませぬ。払えなくなれば不満も出ますし、負け続ければ逃げる者もおります」
「百姓なら逃げぬ?」
「それも人によります。ただ、自分の村や田が後ろにあれば、守る理由にはなりましょう」
なるほどと思った。
前世の知識だけで考えれば、常に訓練された兵を持つ方が、農繁期に百姓を呼び集めるより優れているように見える。
だが現実には、その「便利さ」を維持するための費用を、領主が戦の無い時まで払い続けなければならない。百姓兵には田植えや刈り入れに縛られる弱さがある。その代わり、戦が終われば村へ戻り、自分たちで暮らし、自分たちの食う米を作る。その仕組みだからこそ、領主は一万、二万という大きな数を必要な時だけ集めることが出来る。
常備の兵は、その逆だ。
数をいつでも使える代わりに、その数を平時から抱え続けなければならない。
「つまり、便利なのではなく、便利にするために払い続けておるのだな」
「そのようなものかと」
竹若丸の答えは簡単だった。
けれど、その一言で別のものまで繋がった。
兵が田を耕さないのであれば、その兵が食べる米は別の誰かが作らなければならない。その米を、兵がいる場所まで運ぶ必要もある。銭で雇うなら、銭そのものを継続して得なければならない。年貢を米で集めるだけでは足りない場面も出てくるなら、物を売り、商人が動き、銭を領内へ流す必要がある。
兵のいる場所へ大量の米を運ぶには道が要る。
大量に動かすなら、湖と船も使える。
湊へ着けば荷を降ろす者が要り、その先へ運ぶ馬や人が必要になる。
ここしばらく俺が別々に調べていた市、街道、湊、湖上輸送が、思ってもいなかったところで兵の話へ繋がった。
三年前に楽市を始めた時、そんなことまで考えていたわけではない。ただ商人の負担を軽くすれば何が起こるのかを見たかっただけだ。そこから商人が動けば物が動き、その物を通すには道や湊が必要だと知った。そして今、その流れを安定して作れなければ、田から切り離した兵を継続して養うことも出来ないと気付いた。
一つの疑問を追えば、その先に別のものがある。
最近は、そればかりだった。
「竹若丸殿」
「はい」
「お主と話していると、調べるものが増えて困る」
「某のせいではございますまい」
「大体お主のせいだ」
「随分な仰りようにございますな。某は聞かれたことへ答えただけにございます」
「その答えが面倒なのだ」
「では、次から黙っておきましょうか」
「それはもっと困る」
「難しい御方ですな、右衛門督殿は」
言われて笑った。
それからしばらく二人で湖を眺めた。冬の日差しを受けた水面の上を、小さな船影がゆっくりと動いている。ここから見れば指先ほどにしか見えない船にも人が乗り、荷が積まれ、その荷を待つ者が別の湊にいる。
少し前までなら、ただの景色だった。
今は、一つ一つが人と物の流れの中にあるように見える。
「竹若丸殿」
「はい」
「六角で同じことをするとしたら、どう思う」
「兵を百姓から離すということでございますか」
「ああ。全てではない」
六角が戦で動かす兵の数は、朽木とは桁が違う。
一万、二万という兵を常に米と銭で養うなど、考えるまでもなく無理だ。今の六角でそんなことをすれば、兵が強くなる前に蔵が空になる。
「全てを変えるつもりはない。だが、三百ならどうだ。五百なら。いつでも動かせる者が少しだけいるなら、使い道はあると思わぬか」
竹若丸はすぐには答えなかった。
「あるとは思いまする」
「随分慎重だな」
「右衛門督殿が、あると言ったらすぐ始めそうなので」
「俺を何だと思っておる」
「御自分で調べて、出来そうだと思えば始める御方かと」
否定しづらかった。
竹若丸の表情が少し真面目になる。
「ただ、三百なら三百を、何のために持つのかは先に決めた方がよろしいかと存じまする。戦の時だけ前へ出すのか、普段から城を守らせるのか、道を直させるのか、荷を運ばせるのか。それによって必要な者も変わりましょう」
「……また増えたな」
「何がでございます」
「考えることだ」
竹若丸は今度こそ声を上げて笑った。
それ以上は聞かなかった。
まだ、何かを決める段階ではない。
三百という数字さえ、その場で浮かんだものに過ぎない。どのような者を集めるのか。給金をどうするのか。何処へ住ませるのか。戦のない間は何をさせるのか。既存の六角家臣たちが、それをどう受け止めるのか。何一つ決まってはいない。
それでも十分だった。
これまで俺は、「何人の百姓を兵として出せるか」という一方向からしか六角の兵を見ていなかった。
そこに、別の入り口があると分かった。
今日はそれだけ持ち帰ればいい。
*
竹若丸と別れて自室へ戻った後、俺は珍しくすぐには帳面を開かなかった。
「珍しいですな」
弥太郎に言われ、顔を上げる。
「何がだ」
「竹若丸様と随分長く話しておられましたので、戻られた途端に何か書き始めるものと思っておりました」
「俺を何だと思っておる」
「竹若丸様にも同じことを言われたのでは?」
「……何故分かった」
「若様ですので」
どういう意味だと言い返そうとしたところで、廊下から父上が呼んでいると声が掛かった。
先ほどまでなら竹若丸との話の続きを考えたかったところだが、父上からの呼び出しを後回しには出来ない。弥太郎を残し、そのまま父上の部屋へ向かった。
「父上、義治にございます」
「入れ」
襖を開けると、父上は一人だった。
年賀の広間で見せていた当主の顔とは少し違い、肩を回しながら、いかにも一日中人と会って疲れたという様子を見せている。
「座れ」
「はい」
腰を下ろすと、父上はすぐ本題へ入った。
「竹若丸とは何を話しておった」
「御覧になっておられたので?」
「二人で城の上へ行ったと聞いた。揉めたわけではなかろう」
「揉めてはおりませぬ。昨年、朽木が何故あれほど早く兵を動かせたのかを聞いておりました」
「答えは分かったか」
「少しだけ」
「また帳面が増えるな」
「父上までそのようなことを」
父上が笑った。
「まあ、それは後で聞こう。今日は別の話じゃ」
そこで声の調子が少し変わる。
「義治」
「はい」
二人きりの今は、右衛門督ではなく義治だった。
「小夜へ話してやれ」
一瞬、言われた意味そのものは分かった。
ただ、何故俺なのかが分からない。
「私が、でございますか?」
「そなたが一番話しやすかろう」
「加賀守からでもよいのでは」
「父から聞けば、小夜は平井家の話として受け取る。儂からなら六角の話になる。そなたからなら、もう少し違う聞き方が出来よう」
「ですが……」
「竹若丸殿も、本人が強く嫌がるなら無理に進めることは望まぬと申した。ならば一度、本人の口から聞いておいた方がよい」
言っていることは分かる。
分かるからこそ、気が重かった。
以前、小夜が新九郎へ嫁ぐ時、俺は何と言った。
――新九郎と、必ず幸せになるのだぞ。
そんなことを言った。
あの頃の俺は、新九郎を知っているつもりだった。小夜の相手として悪くないと思い、政治的にも意味のある婚姻で、昔から知る二人なのだからきっと上手くいくと、どこかで考えていた。
結果は四か月だった。
そして今、その新九郎はもういない。
「義治。竹若丸をどう思う」
「友と思っております」
そこは迷わず答えられた。
「人としては?」
「信頼しておりまする」
「なら話は早いではないか」
「いいえ」
父上が僅かに眉を上げた。
「俺が竹若丸殿を友と思っていることと、小夜が竹若丸殿へ嫁ぐことは別にございます」
口にしてみると、自分の中でも先ほどよりはっきりした。
「竹若丸殿なら必ず小夜を幸せに出来る、と私には言えませぬ。以前も、似たようなことを小夜へ申しました。それがどうなったかは、父上も御存じでしょう」
父上は少し黙った後、短く頷いた。
「そうじゃな」
「ですから今回は、勧めるために話すのではなく、聞くために参ります」
「それでよい」
返事は短かった。
「婚姻を決めるのは家じゃ。だが、嫌がる者を無理に押し込めれば、その後まで禍根になる。竹若丸がそこまで気にしておるなら、聞いておいて損はない」
「承知いたしました」
「それと、余計なことを言うなよ」
「……余計なこととは?」
「必ず幸せになれる、などじゃ」
思わず父上の顔を見る。
「聞いておられたのですか」
「加賀守から聞いた」
「何故、そのようなことまで」
「父親だからであろう」
返す言葉が無かった。
父上の部屋を出ると、そのまま小夜のいるところへ向かった。
廊下の外には冬の冷たい空気が残り、日は少しずつ傾き始めている。ほんの少し前まで、俺は竹若丸と淡海乃海を見下ろしながら、兵を田から離して養うことを考えていた。米をどう集めるか。銭をどう得るか。三百なら維持出来るのか。頭の中には今も幾つもの問いが残っている。
それが今度は、一人の女の婚姻について話すために歩いている。
一見すれば、全く違う話だ。
けれど最近の俺には、そうとも思えなくなっていた。
戦をするには兵が要る。兵を養うには米と銭が要り、それを動かすには商いと道が要る。家と家の関係を作るためには婚姻が使われる。そのどれも、帳面や地図の上だけなら、数字や線として扱える。
だが、その向こうには人がいる。
兵として数えた一人にも田と家族があり、市へ集まる商人にも暮らしがある。婚姻によって家と家を結ぶなら、その線の上には実際に嫁ぐ者の人生がある。
こちらが紙の上で一本線を引けば、その先で暮らす者の人生まで動く。
最近になってようやく、それを少しずつ実感するようになった。
だからこそ、今回は俺が答えを持って小夜のところへ行くべきではない。
竹若丸は信頼出来る。友だとも思っている。朽木と六角が婚姻によって結ばれることにも大きな意味がある。
それでも、その三つを並べて「だから嫁げ」と言うつもりはなかった。
一度、自分の知っていることだけで、小夜の未来まで分かったような言葉を口にした。
同じ失敗は繰り返したくない。
今回は、俺が話すためではない。
小夜が何を思っているのか、それを聞くために行く。
そう考えながら、俺は小夜のいる部屋へ向かった。