小夜のいる部屋へ向かう廊下を歩きながら、俺は先ほど父上の前で交わされた話を頭の中でもう一度なぞっていた。正月の観音寺城にはまだ年賀の客が絶えず、少し離れた広間からは取り次ぎの声や人の行き交う足音が聞こえてくる。その賑わいを背にして奥へ進むほど、これから小夜へ伝えなければならない話だけが、次第に重さを増していくように感じられた。
竹若丸との縁談が決まった――そう言ってしまうのは正確ではない。竹若丸の方から小夜を望んだわけではなく、父上が六角と朽木の縁を深めるため、「思い切って儂と親子にならんか」と持ち掛けたのが始まりだ。そのために小夜を再び自らの養女とし、朽木へ嫁がせる。形だけを見れば、浅井へ嫁いだ時とよく似ている。平井家の娘である小夜が六角家当主の養女となり、六角と他家を結ぶ婚姻のために嫁ぐのだから、家同士の都合が先にあることにも変わりはなかった。
けれど、一度目と同じだとはどうしても思えなかった。相手が違うこともある。それ以上に、竹若丸自身が小夜の気持ちを確かめたいと言ったことが大きかった。小夜がかつて浅井新九郎へ嫁いだことも、その新九郎が野良田で朽木勢に討たれたことも知った上で、自分に異存はない。ただ、小夜がどう思っているのかは自分には決められない――そう父上へ答えた。
その言葉を聞いた時、胸のどこかで安堵したのは確かだった。俺がこれまで見てきた竹若丸から大きく外れた言葉でもない。幼い頃から付き合いがあり、友だと思っている。家を背負う者としても、戦場で兵を率いる者としても、俺よりずっと先に目を向けていると感じることさえある。だからこそ、この相手なら大丈夫だと、小夜にそう言ってしまうのは簡単だった。
だが、そこで足を止めるべきなのだと思う。
俺にとって信頼出来る友であることと、小夜にとって良い夫になることは同じではない。理由もなく人を粗末に扱う男ではないと俺が思っていても、夫婦になった時に何が起こるかまでは分からない。まして小夜にとって竹若丸は、かつての夫を討った軍勢を率いた当主でもある。竹若丸自身が新九郎を斬ったわけではないし、野良田で朽木が六角方として戦わなければ、今度はこちらが危うかった。理屈だけを並べれば、竹若丸を恨む理由など無いと言うことも出来る。
けれど、人の心は勘定のようには合わない。
以前の俺なら、六角にとって良い縁で、相手も竹若丸なのだから心配はいらないと、良いところを一つずつ並べただろう。小夜を安心させるためのつもりで、自分が出した答えへ辿り着きやすい道を整えてしまったかもしれない。新九郎へ嫁ぐ時に「必ず幸せになれ」と口にした時も、悪いことを言っているつもりなどなかった。むしろ、小夜のためになる未来が自分には見えているような気でいた。
あの言葉が間違っていたとは思わない。けれど、自分の願いと相手の未来を同じものとして扱っていたことだけは、今なら少し分かる。
そう考えているうちに、小夜の部屋へ着いた。閉じられた襖の前で一度足を止め、息を整えてから声を掛ける。
「小夜。いるか。少し話があるのだが、入ってもよいか」
襖の向こうで僅かに間があり、それから聞き慣れた声が返ってきた。
「はい、若様。もちろんにございます」
襖を開けると、小夜は部屋の奥に座っていた。正月だからだろう、普段より少し整えた装いをしているが、客に会っていたわけではないらしい。傍らには畳んだ布が置かれ、手元には針仕事の途中らしいものが残っている。俺が入ると、小夜はそれを丁寧に脇へ寄せてからこちらへ向き直ったが、その目には早くも何かを察したような色があった。
「どうなされたのですか。若様がわざわざ入ってもよいかと聞かれる時は、大抵、ただ顔を見に来られた時ではございませぬから」
「俺が普段は勝手に入ってくるような言い方だな」
「そこまでは申しておりませぬ」
口元に僅かな笑みが浮かぶ。その表情を見て、俺も少しだけ肩の力が抜けた。浅井から戻ってきたばかりの頃、小夜は人の目をひどく気にしていた。廊下ですれ違う者が自分を見るだけで、嫁いですぐ戻された女と思われているのではないかと身構え、誰かに声を掛けられれば何かを聞かれるのではないかと怯えていた。実際に周囲の全てが悪意を向けていたわけではない。それでも、本人がそう感じている間は、城内を歩くだけでも気の休まる時がなかったのだろう。
最近では、少なくとも俺や弥太郎を相手にする時、そうした固さを見せることは減っている。軽口を返すこともあれば、俺の言葉へ呆れたような顔を見せることもある。その変化を嬉しく思っていただけに、これから俺が持ち込む話が、ようやく戻りつつある小夜の日常を再び大きく動かすのだと思うと、すぐには本題を口に出来なかった。
とはいえ、遠回しにしても仕方がない。俺は小夜の向かいへ腰を下ろし、少し間を置いてから口を開いた。
「今日、竹若丸殿が年賀に来た。父上とも随分話をしておられたのだが、その中で小夜に関わる話が出た」
竹若丸の名を聞いた瞬間、小夜の表情がほんの僅かに止まった。ただ、顔を強張らせるでもなく、嫌そうに目を逸らすわけでもない。視線が一度手元へ落ち、それから静かにこちらへ戻ってくる。その短い動きだけでは、何を考えたのかまでは分からなかった。
「朽木の竹若丸様が、でございますか」
「ああ。父上が竹若丸殿へ、『思い切って儂と親子にならんか』と申した」
小夜の眉が僅かに寄る。
「親子……でございますか?」
「父上には娘がおらぬ。そこで、小夜をもう一度父上の養女とし、その上で竹若丸殿へ嫁がせたいと考えておられる。浅井へ嫁いだ時と同じく、平井の娘としてだけではなく、六角の娘という形でな」
そこまで伝えると、小夜は完全に口を閉ざした。膝の上に重ねた両手の指が一度だけ動き、視線がそこへ落ちる。驚いていることくらいは分かるが、それ以外は読み取れない。父上の養女になること自体は初めてではない。それでも、浅井との縁が途切れた後、もう一度六角の娘として別の家へ嫁ぐと言われれば、簡単に返事が出来る話ではないだろう。
この婚姻が平井と朽木だけのものではなく、六角と朽木を直接結ぶためのものだということも、小夜ならすぐに理解するはずだ。だからこそ、それを政治的に良い話だと説明する必要はなかった。九万石や北近江の情勢を持ち出して縁の価値を説けば、俺自身が父上の代わりに婚姻を勧めることになる。
俺は黙って待った。
襖の向こうでは、正月の城内を行き来する者たちの足音が途切れ途切れに聞こえている。少し遠くでは誰かの笑い声が上がり、すぐに別の声へ紛れて消えた。障子を透かして入る冬の日差しは明るいのに、この部屋の中だけは時間の流れが少し遅くなったようだった。
やがて、小夜が顔を上げた。
「若様は、この御縁をどう思っておられるのですか。竹若丸様がお相手なら、良い御縁だとお考えなのでしょうか」
予想していなかった問いではない。それでも、実際に小夜から聞かれると、何と答えるかは慎重にならざるを得なかった。ここで迷いなく「良い縁だ」と押し切れば、小夜にとっては俺からの勧めになる。かといって、何も言わず曖昧にすれば、竹若丸について何か懸念を隠しているようにも聞こえるだろう。
だから、俺が知っている範囲だけを話すことにした。
「六角と朽木の縁として見れば、良い話だと思っている。竹若丸殿のことも、俺は信頼している。幼い頃から付き合いがあるし、友だとも思っておる。だが、それだけを理由に、小夜にも良い夫になるとは言えぬ」
小夜の目が僅かに大きくなる。俺は言葉を急がず、その反応を見ながら続けた。
「新九郎へ嫁ぐ時、俺は小夜に『必ず幸せになれ』と言ったな。あの時は本当にそうなればよいと思っていたし、浅井との縁にも意味があり、新九郎のことも知っているつもりでいた。だから、きっと上手くいくのだと、俺の方で先に答えを決めていたのだと思う。今度は同じことをするつもりはない。竹若丸殿なら必ず小夜を幸せにしてくれる、などと俺には言えぬ」
言葉だけを取れば、二度目の縁談を伝えに来た者の台詞としては随分頼りない。だが小夜は不安そうな顔をするどころか、しばらく俺を見た後、口元を少し緩めた。
「若様らしくありませんね。以前でしたら、竹若丸様がどれほど立派な御方なのか、朽木がどれほど良いところなのか、私が断りにくくなるほど一生懸命に並べられたと思います」
「そこまで酷かったか」
「少し……いえ、かなり」
訂正する必要はあったのかと思いながら苦笑すると、小夜も小さく笑った。その笑いはすぐに消えたが、先ほどまで膝の上で固く重ねられていた指からは、少しだけ力が抜けている。
その様子を見てから、俺は今日ここへ来た理由の中でも、最も大切な部分へ話を進めた。
「それと、もう一つ伝えておきたい。父上が縁談を持ち掛けた時、竹若丸殿は小夜に異存はないと申した。ただ、そのまま話を進める前に、小夜自身がどう思っているのかを知りたいとも言った」
今度こそ、小夜の表情がはっきりと変わった。僅かに開いた唇がすぐには閉じず、膝の上から上がった視線が俺の顔へ留まる。
「竹若丸様が、そのようなことを?」
「ああ。小夜が一度は新九郎へ嫁いだことも、野良田で新九郎を討ったのが朽木勢だったことも承知しておられる。その上で、自分には小夜が竹若丸殿を恨んでいるとも、何も思っていないとも決められぬ、と」
そこで言葉を止めた。
竹若丸は小夜の気持ちを考えてくれた。だから優しい男だ、だから安心して嫁げばいい――そこまで俺が繋げてしまえば、先ほどまで慎重に避けてきたことと変わらなくなる。竹若丸が何を言ったのかだけを小夜へ渡し、その言葉をどう受け取るかまでは奪わない。それで十分だった。
小夜はすぐには返事をせず、手元へ視線を落としたまましばらく黙っていた。やがて指先が着物の上を一度なぞり、少し迷うような間を置いてから、静かに顔を上げた。
「若様。私は……竹若丸様を恨んでいるように見えますか」
「見えぬ」
そこだけは迷う必要がなかった。ただし、それで話を終わらせるつもりもない。
「だが、竹若丸殿を恨んでいないことと、新九郎のことを何とも思っていないことは別だろう。そこまで一つにして考える必要はない」
小夜は俺の言葉を聞いたまま、すぐには頷かなかった。窓の外を渡った冬の風が障子を僅かに鳴らし、部屋の隅に置かれた針仕事の布がほんの少し揺れる。その小さな音が消えてから、小夜はようやく口を開いた。
「新九郎様をお慕いしていたのかと問われれば、今でもよく分かりませぬ」
小夜はそう言ってから、言葉を探すように一度視線を伏せた。声に震えはない。ただ、簡単に終わらせたくはないのだろう。膝の上で重ねた指先を見つめながら、少しずつ確かめるように続ける。
「夫婦として共にいたのは、ほんの僅かな間でございました。新九郎様は私へ近付こうとはされませんでしたし、私も最後まで、どう接すればよいのか分からないままでございました。浅井へ参る前は、幼い頃から存じ上げている御方なのだから、全く知らぬ方へ嫁ぐよりは安心なのだと思っていたのです。それが、いざ妻になってみれば……知っているつもりでいただけだったのかもしれませぬ」
新九郎が小夜へ最初に向けた言葉を、俺も忘れてはいない。手を伸ばそうとした小夜へ「触れるな」と言い、馴れ合うつもりもないと拒んだ。その後も二人の距離はほとんど縮まらず、婚姻は僅か四か月ほどで終わった。小夜は自分が何か間違えたのではないかと考え続け、観音寺へ戻った後には夫婦として上手くいかなかったこと以上に、周囲が自分をどう見ているかを恐れていた。
「浅井から戻りました時、悲しいというより、皆が私をどう見るのかが怖うございました。嫁いですぐ戻された女だと思われることが嫌で、人に見られるたびに何かを言われるのではないかと思っておりました。でも、新九郎様が亡くなられたと聞いた時には、それとは違うものがございました」
小夜の目が、障子越しの明るい床へ向いた。
「悲しかったのか、怖かったのか、それとも、あの方とのことが本当に終わったのだと思っただけなのか。今でも、はっきりとは分かりませぬ。ただ、若様や父上、兄上が無事であったことに安心している自分がいて、その一方で新九郎様は亡くなられた。その二つを同時に思っている自分が、酷いように感じたことは覚えております」
野良田から戻った日に聞いた言葉と、大きくは変わっていない。時間が経てば、あの時には名付けられなかった感情が一つの形へ収まるのではないかと、どこかで考えていたのかもしれない。だが小夜の中では、分からないものが分からないまま残っていた。それは整理出来ていないから悪いのではなく、そもそも一つの言葉へ収められるようなものではないのだろう。
「今も竹若丸様を恨んではおりませぬ。竹若丸様御自身が新九郎様を討たれたわけでもございませんし、戦で敵味方に分かれた以上、朽木だけを恨むのもおかしな話でしょう。若様もあの戦では竹若丸様と同じ側におられたのですから」
「理屈では、そうなるな」
俺がそう返すと、小夜が少し不思議そうにこちらを見る。
「理屈では、でございますか?」
「ああ。理屈でそうだと分かっているからといって、心まで同じように並ぶとは限らぬ。新九郎を深く慕っていなかったから悲しんではならぬ、竹若丸殿自身が斬ったわけではないから何も引っ掛かってはならぬ、という話でもないだろう」
父上から、野良田の後に言われたことを思い出す。小夜がどう感じるかまでこちらで決めるな、と。あの時には、悲しむべきか、憎むべきか、何も感じなくてよいのか、そのどれにも答えを与えるべきではなかった。今回も同じだ。婚姻を受けるかどうかを考えるために、まず自分の感情へ綺麗な名前を付けなければならないわけではない。
「だから、今すぐ答えを出さなくてもよい。父上はこの縁を進めたいと思っておられるし、加賀守も異存はない。俺も六角と朽木を結ぶ縁としては良いものだと思っている。だが竹若丸殿自身が、小夜が強く厭うなら、そのまま話を進めたいとは思わぬと申している。今日この場で決めなければならぬ理由はない」
小夜は少し意外そうに目を瞬かせた。父上から直接言い渡されるのではなく、俺がこうして話を持ってきた時点で、ある程度の猶予があるとは思っていたのかもしれない。それでも、「考えてよい」と明言されるとは思っていなかったのだろう。
「本当に、よろしいのでございますか」
「父上から今日中に返事を取ってこいとは言われておらぬ。だから俺が聞きたいのは、父上や加賀守がどう考えているかではない。小夜自身が、この縁をどう思うかだ」
そこまで言うと、今度は俺の方から言葉を止めた。
小夜は視線を膝の上へ落とし、重ねていた指を一度ほどいてから、またゆっくり組み直した。部屋の外では誰かが廊下を通り過ぎる音がし、その後を追うように若い声が二つ三つ遠ざかっていく。正月の城は相変わらず人の気配に満ちているのに、俺はその音へ耳を向けながら、小夜の口が開くのを待った。
以前の俺なら、こうした沈黙に耐えられなかったかもしれない。竹若丸なら心配はいらない。朽木なら大丈夫だ。今度こそきっと上手くいく。どれか一つでも口にして、小夜が答えを出しやすいようにしたつもりになっただろう。けれど、それは結局、自分が望んでいる方向へ相手を歩かせるための言葉になる。ここで俺がするべきなのは、小夜の代わりに答えを作ることではない。
障子から差し込む冬の日差しが、先ほどより少し傾いている。明るかった畳の一角が細くなり始めた頃、小夜がようやく顔を上げた。
「若様」
「……はい」
考えるより先に返事をしてしまい、自分で少し間抜けなことをしたと思った。小夜も同じことを感じたらしく、張っていた口元が僅かに緩む。
「何故、若様が『はい』と答えられるのですか」
「いや……待っていたから、つい」
「そのようなことがございますか?」
「今あっただろう」
小夜が小さく笑った。その笑いは長くは続かなかったが、先ほどまで部屋に張っていた重さを少しだけ和らげたようだった。やがて小夜は姿勢を整え、今度は俺から視線を逸らさずに口を開いた。
「私に、否やはございませぬ」
予想していた答えの一つではある。それでも、その言葉を聞いた瞬間に「そうか」と返して父上のところへ戻る気にはなれなかった。婚姻の話を受け入れるには、あまりに短い一言だったからだ。
「朽木へ嫁ぐ、という意味でよいのだな。今回も父上の養女となり、竹若丸殿の妻になる。それを承知した上での返事か」
「はい。そのつもりで申し上げております」
「本当に――」
「若様」
小夜が少し困ったように眉を下げた。
「何度お聞きになるのでございますか」
「大事なことだからだ」
「では、何度でも同じようにお答えいたします。私に否やはございませぬ」
先ほどより声がはっきりしていた。押し切られて答えた者の声には聞こえない。それでも、家のためだから従うという意味だけであれば、俺がここまで聞いたことの意味も薄くなる気がして、もう一つだけ確かめる。
「家のためだから、というだけではないのだな」
問われた小夜は、すぐに「違います」とは答えなかった。少し考え、膝の上へ置いた手へ一度目を落としてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「家のためではない、とは申しませぬ。私は平井の娘にございます。父上の娘である以上、家のことを考えずに婚姻だけを考えることは出来ませぬし、今回も御屋形様の娘として嫁ぐのであれば、六角と朽木の御縁になることも承知しております。それを嫌だとは思っておりませぬ」
その答えを聞いて、俺は何も挟まなかった。前世の感覚だけで考えれば、婚姻する相手くらい本人が自由に選べればと思うことはある。だが、小夜にとって平井の娘であることは、外から押し付けられた役目ではない。幼い頃からその家の中で生き、父や兄と共に暮らしてきた者にとって、家のためという理由もまた、自分自身から切り離せないものなのだろう。それを俺の価値観だけで取り払い、「家など考えず自分の気持ちだけで決めろ」と言えば、結局は別の答えを押し付けることになる。
「ただ、それだけでございましたら、これほど考える必要は無かったと思います」
小夜が続けた。
「御屋形様と父上がお決めになったことであれば、そのまま従えばよいだけでございます。ですが今回は、竹若丸様が私のことを気にしてくださったのでしょう。私が以前誰へ嫁いでいたのかも、新九郎様がどうなられたのかも御存じの上で、それでも私自身はどう思っているのかと尋ねてくださった。ならば私も、何も考えずに『家のためですから』と答えるのではなく、一度自分で考えてから返事をしたいと思いました」
その声は静かだったが、先ほどまでの迷いとは違うものがあった。何も怖くなくなったわけではないのだろう。それでも、自分で口にした言葉を自分で支えているように聞こえた。
「竹若丸様のことを、私はほとんど存じませぬ。若様のお友達であること、朽木を治めておられること、それに戦では随分とお強い御方であること。そのくらいでございます」
「それだけ聞けば、随分知っているようにも思えるが」
「御夫婦になるには足りませぬ」
「……それは確かだ」
思わず苦笑した。俺ですら竹若丸の全てを知っているわけではない。友として見せる顔と、当主として家臣へ向ける顔は違うだろうし、戦場で兵へ命じる時とも違うはずだ。まして小夜が直接竹若丸と交わした言葉など、数えるほどしかない。
「それでも、全く知らぬ御方ではございませぬ。それに、私が浅井へ嫁いだことも、新九郎様のことも御存じになった上で、それでも不満はないと仰ってくださったのでしょう?」
「ああ。そう申していた」
「でしたら、それで十分だと思います。少なくとも、以前誰の妻であったのかを隠して嫁ぐわけではございませぬし、竹若丸様も何も知らずにこの縁を受けられるのではない。それなら、朽木へ参ってから過去のことをいつ知られるだろうと怯える必要もございませぬ」
そこで小夜はほんの僅かに笑ったが、その後で視線を落とした。
「もちろん、何も怖くないわけではございませぬ。むしろ二度目だからこそ、また同じことになったらと考えることはございます」
一度経験しているから慣れているのではない。上手くいかなかったと思っている経験があるから、次も同じことになるのではないかと考える。小夜の言う「二度目」は、俺が最初に想像していたよりずっと重いものなのだろう。
「それでも参るのか」
「はい。怖さが無くなるまで待っていては、きっと何処へも嫁げませぬ。それに……竹若丸様が、私がどう思っているのかを先に聞こうとしてくださったのであれば、少なくとも新九郎様とは違う御方なのだろうと思います」
俺はそこで竹若丸を持ち上げる言葉を返さなかった。新九郎と竹若丸を比べて、片方が悪く片方が良いと決める必要もない。それぞれに育った環境があり、背負っているものも違う。新九郎にも新九郎なりの事情はあったのだろう。それでも、小夜にとっては、夫婦になる前から自分の気持ちがあるものとして扱われたことが、前とは違う。その違いだけで今後が保証されるわけではないが、小夜がこの縁を受ける理由としては十分なのだと思えた。
「分かった。父上へ、小夜は縁を受けると伝えてくる」
「お願いいたします」
「ただ、話が進んでからでも、本当に嫌になったなら申せ。父上にも、俺にもだ」
小夜は呆れたように眉を下げる。
「若様。そのようなことを何度も申されますと、本当は私が嫌がっているのではないかと思えてまいります」
「念のためだ」
「もう十分考えました」
今度の返事には迷いがなかった。俺もそれ以上確かめるのはやめ、立ち上がろうと膝を動かしたところで、小夜からもう一度呼び止められた。
「若様。ありがとうございました」
「何がだ。最初に小夜の気持ちを聞きたいと言ったのは竹若丸殿だ。礼なら竹若丸殿へ申せ」
「それは竹若丸様にも申し上げます。でも、若様も私へ聞いてくださいました。それに……今度は『幸せになれ』と仰いませんでした」
「それを礼として受け取ってよいのか、俺にはよく分からぬのだが」
「私も上手く説明出来ませぬ」
そう言いながら、小夜は笑った。
「でも、少し嬉しかったです」
何故なのかまでは聞かなかった。小夜自身も上手く説明出来ないと言っているのだから、ここで俺が理由を探して言葉にさせる必要もないだろう。傍らには、話を始める前に置かれた針仕事がそのまま残っている。ついさっきまで小夜はそこに座り、いつもと変わらぬ正月の午後を過ごしていた。それが今は、朽木へ嫁ぐと自分の口で答えた。その事実だけを胸の内へ置き、俺は小夜へ一度頷いてから部屋を出た。
*
父上の部屋へ戻ると、平井加賀守もすでに呼ばれていた。正式な評定ではないため六人衆が揃っているわけではなく、部屋にいるのは父上と加賀守、それに茶を替え終えて下がろうとしている小姓が一人だけだった。俺が入ると、小姓は一礼して襖の向こうへ消え、父上と加賀守の視線がこちらへ向く。
「義治。どうであった」
家臣を並べた公の場ではない。父上の声にも評定の時のような固さはなく、俺を官位ではなく名で呼んだ。隣に座る加賀守は黙っているが、膝の上に置いた手が僅かに強く握られている。家臣としては良縁だと分かっていても、父親として娘の返事を待つ気持ちは別なのだろう。
「小夜へ話してまいりました。縁に否やはない、と。父上の養女となり、朽木へ嫁ぐことも承知しておりまする。その上で、自分で考えて縁を受けると申しておりました」
加賀守の肩から僅かに力が抜けるのが見えた。大きく息を吐いたわけでも、表情を崩したわけでもない。ただ、先ほどまで真っ直ぐ張っていた背中がほんの少しだけ緩んだ。
「左様でございましたか。若様、小夜へお話しいただき、ありがとうございまする」
「俺は話を伝えただけだ。小夜が自分で答えた」
「それでも、父親である某から伝えるのとは違ったでしょう」
横から父上が鼻で小さく笑った。
「同じことを儂も言うたであろう。義治に行かせた方が、小夜も言いたいことを言いやすいとな」
「最初からそのつもりで私へ押し付けられたのですか」
「押し付けたとは人聞きが悪い。適材適所じゃ」
「便利な言葉にございますな」
「覚えておけ。いずれそなたも使う」
加賀守が俯きながら口元を押さえた。笑いを堪えているのが分かる。父上はそれを横目で見て一度だけ咳払いすると、今度は改めて加賀守へ向き直った。
「では、小夜を再び儂の娘とし、竹若丸へ嫁がせる話を進める。平井に異存はないな」
「はっ。ございませぬ」
「朽木へも正式に返事を出そう。これでようやく竹若丸と本当に親子になれるか」
父上の声には、政の話をしている時とは少し違う響きが混じっていた。北近江や高島を考えれば、六角と朽木が婚姻で結ばれる意味は小さくない。それを承知した上でも、父上は単に利を得た大名として喜んでいるだけではなさそうに見える。
「随分と嬉しそうでございますね」
「悪いか。朽木とは近江の北を考える上でも繋がっておいて損はない。それに竹若丸なら、儂も婿として不満はない」
「父上の婿ではございませぬ。父上の養女となる小夜の婿です」
「同じようなものじゃ」
「違うと思いまする」
「細かい男じゃな、義治は」
父上はそう言って笑ったが、俺もこの婚姻の持つ意味そのものを軽く見ているわけではない。朽木は六角の家臣ではなく、竹若丸も父上の命だけで動く男ではない。それでも六角家当主の養女を正室として迎えれば、両家の間には誰の目にも分かる縁が出来る。北近江の先にある浅井や、さらにその向こうを考えても、その結び付きは今までよりずっと重いものになるだろう。
父上と加賀守はそのまま、養女としての形をどう整えるか、朽木へいつ返事を出すか、今後の日取りをどうするかという話へ移っていった。そこから先は俺が口を挟むべきことでもない。俺は二人へ一礼し、部屋を出るため立ち上がった。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
-
このまま
-
5000文字前後
-
15000文字前後
-
1~5000文字