永禄四年三月上旬。
正月の賑わいはとうに遠のき、観音寺城を抜ける風にも、ようやく冬とは違う匂いが混じり始めていた。朝晩はまだ指先が冷えるほどだが、昼になれば陽を受けた石垣が僅かに温み、城内を行き交う者たちの衣も少しずつ軽くなっている。小夜と朽木との婚姻も、本人の返事を受けてから着実に話が進んでいた。父上の養女とするための手続き、平井家と朽木双方への正式な伝達、婚儀の日取り。正月の年賀ではまだ竹若丸と呼んでいた友人も、その後に元服を済ませ、今では朽木弥五郎基綱と名乗っている。
書状の上に「朽木弥五郎」とあれば、誰を指しているのか迷うことはない。それでも顔を思い浮かべようとすると、今も竹若丸という名が先に出てくる。自分が亀松丸から義治になった時には大して気にも留めなかったが、幼い頃から知る相手の名が変わるというのは妙なものだった。昨日までの人間が今日になって別人になるわけではないのに、家を背負う者として一段先へ進んだことだけを、名の方から突き付けられているような感覚がある。
その弥五郎について、まだ竹若丸と呼んでいた正月の年賀の席で、本人の口から気になる話を聞いていた。野良田の前後、朝倉が越前と近江の境近くまで兵を出していたらしいというものだ。あの時の竹若丸も、それが何を意味するのかまで断言したわけではない。ただ、浅井の父子が本当に激しく争っていたのであれば、その時期に朝倉が兵を国境まで寄せていたことは妙ではないか、と違和感だけを示した。父上もその場で答えを決めることはせず、三雲対馬守へ調べさせるよう命じた。その確認に二月余りを費やし、ようやく幾つかの事実が揃ったことで、今日の評定が開かれていた。
広間には父上と六人衆、それに俺がいる。顔ぶれはいつもの評定と変わらないが、今日は三雲対馬守の前へ置かれた数枚の書付へ、自然と視線が集まっていた。紙の枚数そのものは多くない。むしろ少ないからこそ、噂や推測を削ぎ落とし、確認出来たことだけを持ってきたのだろうと分かる。取り次ぎを終えた近習が静かに襖を閉じると、広間には紙の擦れる小さな音だけが残った。
「対馬守。正月に弥五郎が申しておった件、確かめは取れたか」
父上は前置きを挟まず本題へ入った。三雲対馬守も一礼すると、手元の書付へ視線を落とす。
「はっ。全てを確かめられたわけではございませぬが、少なくとも朝倉式部大輔が兵を動かしていたことは間違いございません。数はおよそ五百。野良田より前から、越前と近江の国境近くまで出張っていたようにございます」
五百という数より先に、「野良田より前」という言葉が耳へ残った。朝倉にとって五百は、国を挙げて戦うほどの大軍ではない。国境の警戒だと説明されれば、それだけで不自然だと言い切れる数でもなかった。だが、正月に竹若丸が示した違和感と重ねると、偶然として片付けるには引っ掛かる。六角と浅井がぶつかることを何も知らなかった朝倉が、ちょうどその前から兵を境へ置いていた――そう考えるより、何かしらの動きを予め知っていたのではないかと考えた方が、少なくとも筋は通る。
「では、弥五郎殿が申していたことが――」
「右衛門督」
父上の声が重なり、俺はそこで言葉を止めた。声量は大きくない。それでも公の評定で官位を呼ばれれば、何を注意されたのかは分かる。自分でも、確かめられた事実より先に結論へ飛び付きかけていたことに気付いていた。膝の上でいつの間にか握っていた手を開き、呼吸を整える。
「……失礼いたしました」
父上はそれ以上何も言わず、視線を対馬守へ戻した。
「浅井下野守はどうしておる」
「野良田の直後、竹生島より小谷へ戻っておりまする。家督そのものは次男へ継がせた形にはなっておりますが、浅井家中の実権は今も下野守が握っていると見てよろしいかと。加えて、少々妙なことがございます」
対馬守が一枚目の書付を脇へ置き、次の紙を手に取った。
「新九郎殿が下野守を追い、家中を握ったのであれば、下野守が小谷へ戻った後、新九郎殿に与した者へ何らかの処分があっても不思議ではございませぬ。ところが、目立った処罰は確認出来ておりません。野良田の後は朽木への備えに追われ、それどころではなかったとも考えられます。しかし、正月に弥五郎殿が示された話まで重ねますれば、下野守が竹生島へ追われたこと自体、初めから外へ見せるための形であった可能性も否定出来ませぬ」
広間の空気が僅かに張った。誰かが大きく動いたわけでもないのに、地図を見ていた六人衆の視線が浅井の辺りへ集まっていく。
俺の頭に浮かんだのは、今目の前にある書付ではなく、野良田より前に自分が信じていた浅井父子の姿だった。父のやり方へ反発し、家中を握った若い当主。その新九郎が六角へ兵を向け、父上の本陣まで崩そうと攻め込んできた。俺はそう見ていたし、実際に戦場で新九郎が前へ出たことそのものは間違いない。
だが、父子の対立そのものが最初から外へ見せるためのものだったなら、話は少し変わる。新九郎に意思がなかったなどと考えるつもりはない。あいつは自分の判断で兵を率い、自分の足で六角へ向かってきた。その事実まで消えるわけではない。それでも、父子が争っているように見えたところからすでに仕掛けられていたのであれば、新九郎がどこまで全体の筋を知り、どこから先を自分の考えで動いたのかは、もう本人へ確かめることが出来ない。
胸の奥に重いものが溜まった。騙されたことだけが腹立たしいのではない。小夜が浅井へ嫁いだことも、そこで過ごした僅かな月日も、新九郎が野良田で死んだことも、俺なりに一つずつ受け止め直してきたつもりだった。その土台の下から、今になって別の事情が覗いたことが気に障ったのだ。
「……浅井下野守久政」
気付けば名が口から漏れていた。父上がこちらを見る。
「右衛門督。腹を立てるのは構わぬ。だが、怒りに合わせて話を決めるな。今分かっておるのは、そうであった可能性があるというところまでじゃ」
「承知しておりまする。ただ、もし父子の不和まで初めから見せかけであったなら、我らは随分長く、浅井が見せたいものだけを見せられていたことになります」
「だからこそ、次を見る。対馬守、続けよ」
父上の言葉に促され、俺は浅井久政の名から意識を引き戻した。何故そんなことをしたのか。その答えもまだ無い。怒るにも、責めるにも、まず相手が何を狙っていたのかを見なければならない。
三雲対馬守はもう一枚の書付へ手を移した。
「若狭も落ち着いておりません。国人同士の争いが続き、三好の手も入り込んでおりまする。武田治部少輔殿は家中を抑えるため朝倉の力を借りることも考えているようですが、朝倉兵を若狭へ入れることには有力な国人たちの反発が強く、話がまとまっておりませぬ」
若狭武田。父上の姉の子にあたる治部少輔は、六角から見ても遠い縁ではない。その妻も公方様の妹の一人であり、人の繋がりだけを辿れば、六角も幕府も無関係とは言いにくい家だ。だが、血が近いからこそ助ければ済むという話でもない。国内で国人が争い、外から三好が手を伸ばし、その混乱を抑えるために朝倉の兵を借りようとしているのなら、朝倉から見れば自ら攻め込まなくとも、相手の方から兵を入れる口実を差し出してくることになる。
後藤但馬守が腕を組み、低い声を出した。
「朝倉兵を入れれば、武田はその力で国人どもを抑えられよう。だが、用が済んだから帰れと言われて、朝倉が素直に越前へ戻る保証はない。若狭の者どもが嫌がるのも無理はござらぬな」
「それだけではございませぬ」
三雲対馬守の指が、地図の若狭から南へ滑る。
「武田治部少輔殿は、朽木をかなり強く警戒しておられます」
進藤山城守が眉を寄せた。
「朽木が若狭へ兵を入れているわけではあるまい」
「兵ではございませぬ。人でございます」
対馬守の指先が、若狭と朽木領の境付近で止まった。
「若狭から朽木領へ百姓が流れております。それに商人も。争いの多い若狭を離れ、朽木へ移った方が暮らしやすいと考える者が少なくないようにございます。朽木が積極的に人を引き抜いている証は掴んでおりませぬ。ただ、治部少輔殿から見れば、人も銭も朽木の側へ流れていることに変わりはないでしょう」
地図には、国境を越えて移る百姓の足跡も、荷を積んだ商人の列も描かれてはいない。それでも話を聞けば、一つの村から一家が抜け、その後を親類が追い、市へ来ていた商人が別の土地へ荷を運ぶようになる様子は想像出来た。一度や二度なら土地全体へ与える影響は小さい。だが、それが何年も続けば田を耕す者が減り、市へ集まる品も減る。残った者へ負担が寄れば、それを嫌ってさらに人が出ていくこともある。
三年間、市の変化を見てきたからこそ、その重さは以前より想像しやすかった。城を落とされるほど派手ではない。兵が押し寄せたわけでもない。それでも、人と物がより暮らしやすく、より商いやすい方へ動き続ければ、土地そのものを奪われなくても国は痩せていく。
「朽木の方が暮らしやすい。それだけでも武田から見れば脅威になる、ということか」
父上の言葉に、対馬守が頷いた。
「加えて、治部少輔殿は浅井とも密かに連絡を取っているようにございます」
その一言で、広間が静まった。
俺は地図へ視線を落とした。浅井、朝倉、若狭武田、そして朽木。先ほどまで別々の報告として聞いていた名が、一枚の紙の上で急に近く見える。父上も同じものを見ていたのだろう。しばらく地図へ目を落とした後、顔を上げて六人衆を順に見渡した。
「皆、如何思う」
すぐに答える者はいなかった。広間の中では、紙をめくる音さえ止んでいる。それぞれが今まで別々に見ていた動きを、どこまで一つの流れとして繋げてよいのか確かめているのだろう。
最初に口を開いたのは後藤但馬守だった。
「浅井下野守が本当に息子へ追われていたのであれば、野良田より前から朝倉が境へ兵を置いていたことは、確かに説明しにくうございます。反対に、父子の争いが外へ見せるためのものであったなら、朝倉が事前に承知していたとしても不思議ではございませぬ。ただ、それでも五百という数が引っ掛かりますな。六角と正面から戦うには少な過ぎる」
蒲生下野守も地図から目を離さず、低く続けた。
「浅井と共に六角を破るつもりなら、もっと兵を出してよかったはず。五百では戦の流れを変えるほどではありますまい。となれば、戦うためではなく、勝敗が見えた後に出るための兵と考えた方がまだ合いまする」
「仲裁か」
進藤山城守が短く呟いた。
その一言で、朝倉の五百が別の形を取り始めた。六角と戦うためではなく、六角と浅井が互いに疲れた後で姿を見せる。これ以上戦を続けぬよう取り持つという名目なら、大軍である必要はない。むしろ多過ぎれば、最初から六角と一戦構えるつもりでいたと疑われる。五百なら朝倉の後ろ盾を見せるには足り、同時に仲裁者の顔も保てる。
そこまで考えた時、俺の視線が地図の北西へ滑った。
若狭だった。
「……父上。朝倉の狙いは、浅井そのものではなく、若狭にあるのではございませぬか」
広間の視線が俺へ集まった。父上は答えを挟まず、顎を僅かに上げて先を促す。
「朝倉が浅井へ直接兵を入れ、六角を破るつもりであったのなら、五百では少な過ぎます。浅井と我らが本格的にぶつかれば、その程度の兵では戦の行方を決められませぬ。ですが、最初から戦へ加わるつもりではなく、浅井に我らを引き付けさせ、双方が疲れたところへ仲裁する者として出てくるのであれば話は違いまする。五百でも、朝倉が背後にいることを見せるには足りましょう」
言葉にしながら、地図の上を目で追った。小谷から越前へ抜ける北の道、その西に若狭があり、さらに南には朽木がある。紙の上では山も川も僅かな線でしかないが、実際にはその間を人が歩き、荷が運ばれ、使者が往来している。六角が北近江で浅井と争えば、父上は当然そちらへ目を向けざるを得ない。兵を集めるだけでも日が掛かり、戦となればなおさらだ。その間に若狭で何かが起きても、近江からすぐに大軍を差し向けることは難しい。
「その一方で、若狭では治部少輔殿自身が朝倉の力を必要としております。朝倉から無理に押し入れば侵攻になりますが、武田の側から兵を求めれば、形の上では助力になる。若狭の国人たちが反発しているとはいえ、治部少輔殿が朝倉を頼り続ける限り、兵を入れる理由そのものは消えませぬ」
父上は黙ったまま地図へ視線を落としている。俺もそこで一度言葉を切り、頭の中で筋を確かめた。六角を北近江へ縛る。浅井を完全に滅ぼさせず、必要なら仲裁へ入る。その間に若狭へ兵を入れる足場を得る。そう並べれば、確かに一つの流れには見える。
「公方様にしても、妹君の嫁ぎ先である武田が自ら朝倉を頼った形であれば、最初から朝倉を敵として扱うのは難しいでしょう。六角も、浅井が北で動いている間は兵を割かねばならぬ。そう考えれば、朝倉にとって浅井が我らへ勝つ必要すらないのかもしれませぬ。負け切らず、六角を近江へ留めてくれれば、それで役目は果たせまする」
自分で話しながら、胸の奥にあった怒りとは別の冷たさが広がっていく。もしこの見方が近いのなら、野良田は浅井と六角だけの戦ではなかったことになる。俺たちは目の前にいる新九郎の軍勢を見ていた。そのさらに向こうで、別の家が別の目的のために戦の行方を見ていたかもしれない。
だが、そこで一つ噛み合わないものが残る。
「となれば、新九郎殿の動きが妙になりますな」
後藤但馬守の声に、俺も頷きそうになった。野良田で新九郎は前へ出過ぎた。兵をぶつけて六角を疲れさせ、朝倉が仲裁へ入れる余地を残すどころか、父上の本陣そのものを崩そうとする勢いで攻めてきた。あの場で父上を討つか捕らえることが出来れば、戦は浅井の勝ちで終わっていた可能性さえある。
もし久政と朝倉の間に別の思惑があり、六角と浅井を適度に争わせるつもりだったのなら、新九郎の動きはそこから外れている。
「新九郎が……予定以上に前へ出たのでございましょうか」
口にした俺を、父上が横目で見た。
「有り得ぬとは言わぬ。若い者が戦場で勝てると見て、初めの話より欲を出したとしても不思議ではない。下野守が全てを知らせておらず、新九郎が自分の戦だと思っていた可能性もある。反対に、最初から父子とも六角を破るつもりで、朝倉の五百には全く別の役目があったのかもしれん」
父上はそこで一度言葉を止め、俺だけでなく広間全体を見るように視線を動かした。
「だが、その先は本人に聞かねば分からぬ話じゃ。新九郎はもうおらぬ。下野守へ尋ねたところで、儂らに都合よく真を語るとも思えん。筋が通るからといって、事実までこちらで作るな」
先ほどまで頭の中で伸びていた線が、その言葉で止まった。朝倉の兵がいたこと。久政が小谷へ戻っていること。新九郎側への大きな粛清が見えないこと。若狭武田が朝倉を頼ろうとしていること。そこまでは、三雲が時間を掛けて拾ってきた事実だ。だが、それらを結んだ先にある企みは、まだ俺たちが地図の上へ引いた線に過ぎない。
「はい。そこから先は、まだ置いておきまする」
「それでよい。疑うなとは言わぬ。疑ったなら、その疑いを確かめる材料を探せ。材料が足らぬうちから答えだけ固めると、後で違うものが見えなくなる」
父上はそれ以上この推測を追わず、三雲対馬守へ顔を向けた。対馬守はしばらく手元の書付を見ていたが、やがて両手を畳へ付き、深く頭を下げた。
「申し訳ございませぬ。浅井と朝倉、若狭の動きを、もっと早く一つに重ねて見るべきでございました。某は浅井が次に何をするか、朽木がどこまで北へ進むか、それぞれを追うことに気を取られておりました。正月に弥五郎殿から朝倉の動きを示されるまで、越前と若狭まで同じ地図の上で見ることが出来ておりませなんだ」
広間の空気が少しだけ固くなる。三雲家は六角の耳目を担う家の一つだ。その当主が自ら見落としを認めて頭を下げれば、軽く流せる話ではない。だが父上はすぐに叱責せず、伏せられた対馬守の頭をしばらく見ていた。
「顔を上げよ、対馬守。朽木をどう六角へ寄せるか、浅井が次に何をするか。その辺りへ目が向いておったのは儂も同じじゃ。そなた一人を責めて済ませれば、次にまた同じものを見落とすだけになる」
三雲対馬守がゆっくり顔を上げる。最初に頭を下げた時には顎の辺りへ力が入っていたが、父上の言葉を聞く間に僅かに抜けたように見えた。それでも言い訳を挟もうとはせず、背筋を伸ばして続きを待っている。
「今回見えたなら、それを次へ使え。北近江を見る時は、その向こうの越前と若狭まで見よ。浅井の使者がどちらへ向かうか、朝倉の兵がどこへ集まるか、若狭から出た人がどこへ流れるか。別々の話として上げるなとは言わぬ。だが、同じ時に動いたものがあれば、横へ並べて見せよ」
「はっ」
「朝倉も浅井も油断ならぬ。若狭も、血が近いからと遠くから眺めておれば済む話ではなくなるやもしれん。ただし、今のところ朝倉と事を構える理由はない。疑ったから兵を出すようでは、向こうの思う壺になることもある。まず続きを見よ」
父上の指が地図の中央からゆっくり北西へ動き、朽木の辺りで止まった。
「それと、朽木から入る話は今まで以上に重くなる。北近江だけではない。若狭を見るにも越前を見るにも、あの地にいる者だからこそ見える動きがある。正月の時点で弥五郎が朝倉の兵へ目を留めておったことを考えても、あれは自分の領内だけを見ておるわけではないようじゃ。幸い、こちらには既に縁を結ぶ話がある」
父上が何気なく口にした「縁」という言葉で、小夜の顔が浮かんだ。
正月に小夜へ婚姻の話を伝えた時にも、六角と朽木が結ばれる意味は理解していた。高島を押さえ、北へ伸びている朽木と縁を結ぶことは、浅井との関係を考える上でも大きい。それでも、あの時に俺が見ていた範囲は、せいぜい近江の中か、その周囲までだった。
今、目の前の地図には若狭と越前がある。人が流れ、兵が国境へ出て、浅井と武田が文を交わしている。そこまで含めて見れば、小夜が朽木へ嫁ぐという一つの婚姻から伸びる線は、正月に考えていたより遥かに遠い。
そのことに、僅かな居心地の悪さが残った。
小夜は六角と朽木を結ぶ婚姻だと知った上で頷いた。平井の娘である以上、家のためという理由も自分から切り離すつもりはないと、自分の口で話していた。それでも今日聞いた朝倉や若狭の事情まで承知して決めたわけではない。婚姻の意味が、本人の知らないところで後から大きくなっていくように見えた。
だが、その考えを評定の場で口にすることはしなかった。ここで見るべきなのは、小夜が何を背負うかではなく、六角が朽木との縁をどう扱うかだ。父上も三雲対馬守も、今後どこへ目を向けるべきかを話している。俺は地図の朽木に置いていた視線を外し、残された報告へ耳を戻した。
その後は、浅井から越前へ向かう使者の動きをこれまでより細かく見ること、若狭から朽木へ移る百姓や商人についても数だけでなく出身の村や理由を可能な限り確かめること、朝倉の国境付近の兵が増減した場合はすぐに知らせることが決められた。今すぐ兵を動かす話は出なかった。地図の上に新しい駒が置かれることもなく、三雲対馬守が書付を纏める音だけが最後まで残った。
*
評定を終えて広間を出ると、廊下の空気は先ほどより柔らかくなっていた。午後の陽が石垣へ斜めに当たり、庭の木々にはまだ小さいながら芽が見える。向こうからは、若い近習を二人連れて馬場へ向かう義定の姿が見えた。こちらに気付くと軽く頭を下げたものの、すぐに連れの者と何か話しながら歩いていく。評定の中では朝倉や浅井、若狭が一枚の地図の上で動いていたのに、廊下へ出れば城の日常は何も変わらず続いていた。
その背を見送って歩き出したところで、後ろから父上に呼ばれた。
「義治。少しよいか」
公の場を離れたことで、呼び方も「右衛門督」から名へ戻っている。俺は足を緩め、父上と並んで廊下を進んだ。
「先ほど、小夜のことを考えておったな」
「……父上まで、顔を見ただけで分かると仰るのですか」
「そなたは隠しておるつもりの時ほど分かりやすい」
反論しかけて止めた。実際その通りなのだから、否定しても仕方がない。庭から吹き込んだ風が袖口へ入り、まだ冬の名残を感じさせる冷たさを残して抜けていく。
「正月に縁談を聞いた時より、朽木と結ぶ意味が重くなったように見えました。浅井だけでなく、若狭と朝倉まで見る必要があるなら、六角にとってあの婚姻は北近江だけの話では済みませぬ」
「ああ。それで気になったか」
「小夜が頷いた時には、今日の話まではございませんでした。六角と朽木を結ぶ縁だということは本人も分かっておりまする。ですが、先ほどの地図を見ていると……あの時より大きなものを背負わせることになったように見えました」
口にすると、自分が何へ引っ掛かっていたのかが少し形を持った。婚姻そのものが嫌なのではない。小夜の返事を疑っているわけでもない。ただ、本人が決めた後から周囲の事情が積み重なり、その決断へ別の重さが付け加えられていくことに、落ち着かなさを覚えていたのだ。
父上はしばらく前を向いたまま歩いていた。やがて庭へ面した廊下の端で足を止めると、俺ではなく、陽の当たる石垣の方を見ながら口を開いた。
「それがどうした。小夜が嫁ぐ相手は変わっておらぬ。朽木の弥五郎じゃ。朝倉へ嫁ぐわけでも、若狭へ嫁ぐわけでもない」
「それは、そうですが」
「政の意味など後から幾らでも変わる。今日よいと思った縁が五年後には重荷になることもあるし、反対に大した意味がないと思った縁が、後になって家を救うこともある。先の全てを知ってから婚姻を決めることなど出来ぬ」
父上はそこでようやく俺へ目を向けた。
「そなたは正月に、小夜がどう思うかを聞いた。小夜は自分で考えて答えた。それでよい。後から儂らの側へ増えた事情まで一つずつ持って行き、『実はこれほど重い婚姻になった』と背負わせる必要はない。あれが嫁ぐ先で向き合うのは、地図ではなく弥五郎じゃ」
その言葉に、すぐ返事は出なかった。庭の端で枝が風に揺れ、まだ固い芽が陽を受けている。
「……では、私は何をすればよいのでしょう」
父上は僅かに眉を上げた。
「何もせんでよい」
「何も、ですか」
「そなたはすぐ何かしようとする。話を伝えた。返事も聞いた。小夜が自分で決めた。ならば次は、その決めたことをそなたが弄る番ではない。余計なことをせず、見送れ」
随分簡単に言うものだと思った。
けれど父上は、それ以上説明するつもりはないらしい。俺の返事も待たず、再び歩き出した。その背を追おうとして、俺は一度だけ庭へ目を向けた。冷たい風の中で、まだ開いてもいない小さな芽が枝先に並んでいる。手を伸ばして早く開かせるようなものではないのだろう。
少し遅れて、俺も父上の後を追った。
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