永禄四年五月、小夜が朽木へ嫁ぐ日が来た。
正月に父上が竹若丸へ「親子にならんか」と持ち掛けてから、話は思っていたより早く進んだ。小夜は浅井へ嫁いだ時と同じく、父上の養女という形で今度は朽木へ嫁ぐ。頭では分かっているのだが、長いこと竹若丸と呼んできただけに、今でもふとした拍子に以前の呼び名が口から出そうになる。本人を前にして間違えれば、しばらく揶揄われるだろうから気を付けなければならない。
輿入れの朝、観音寺城の大手門周辺は早くから慌ただしかった。六角左京大夫の養女を朽木家へ嫁がせるのだから、平井家だけで小さく送り出すわけにはいかない。小夜が乗る輿を中心に、身の回りの品を運ぶ者、平井家から付き従う奈津たち女衆、その周囲を守る護衛が整えられ、道中で必要となる荷も前日までに何度も確認されている。弥太郎も今日は俺の側ではなく、小夜を朽木まで送り届ける護衛の一人として一行へ加わっていた。
父上は当然、大手門まで見送りに出る。実父である平井加賀守もいるし、六角家の養女として送り出す以上、六角方からも相応の者が顔を揃えている。だからこそ、俺がその場にいなくても見送りとして不足することはなかった。そう自分に言い聞かせながら、俺は大手門とは別の道から観音寺城を出ていた。
小夜を見送りたくないわけではない。むしろ逆だった。だからこそ、大勢の者がいる門前に立ち、最後に何か言葉を掛けることが、どうにも違うように思えた。
新九郎へ嫁ぐ時、俺は小夜へ「幸せになれ」と言った。あの時も本気だったし、その言葉そのものを後悔しているわけではない。ただ、結果を知った今になって振り返れば、俺は小夜の先にあるものを知っているような顔をしていたのだと思う。前世の知識があったからこそ、本人がこれから何を見るのか、何を感じるのかより、自分が知っている先の出来事を基準に物を考えていた部分があった。
今回は違う。小夜自身が、怖さも過去も抱えたまま考えた。朽木へ嫁ぐことが何を意味するのか、自分なりに悩み、それでも最後には「否やはございませぬ」と答えた。そこまで聞いた俺が、最後になってもう一度「大丈夫だ」「幸せになれ」と言えば、小夜が自分で出した答えの上へ、俺の願いを重ねることになる気がした。ならば余計な言葉は掛けない方がいい。それでも、姿も見ずに送り出すことまでは出来なかった。
朽木へ向かう一行が通る湖岸近くの道を見下ろせる高台まで馬を進めた。供の者には少し離れた場所で待つよう命じ、俺は一人で馬上から眼下を眺める。五月の空はよく晴れ、淡海乃海は陽を受けて遠くまで細かな光を散らしていた。湖から吹き上がる風にはまだ夏の熱がなく、馬の鬣を揺らして頬へ触れると心地よい。その湖に近い道が北へ延び、観音寺の方角から出てきた人と馬の列が、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。
まだ一人一人の顔までは見えない。それでも中央にある輿、その前後を守る者たちの並びを見れば、小夜の一行だと分かる。
六角と朽木を結ぶ婚姻。高島だけでなく、これからの北近江を考える上でも意味を持つ縁になるだろう。政の上ではいくらでも大きな言葉を付けられる出来事なのに、高台から見下ろせば、一つの道を進んでいる人と馬の列に過ぎない。その中に小夜がいて、弥太郎もいる。そう考えると、政略婚姻という言葉だけで片付ける気にはなれなかった。家と家が結び付くことは確かでも、そのために実際に住む場所を変え、見慣れた人間と離れ、知らない家へ入っていくのは小夜本人なのだ。
俺は手綱を握ったまま、近付いてくる一行を黙って眺め続けた。
*
観音寺城を出てから、小夜は輿の中で外の音を聞いていた。
大手門を出たばかりの頃には見送りの声や城下のざわめきが残っていたが、城から距離が開くにつれて聞こえるものは馬の蹄や人の足音、荷を運ぶ者たちの声へ変わっていった。輿の隙間から外を見れば、見慣れたはずの近江の風景も、今日だけはいつもと違って見える。
出立する時、小夜は一度だけ見送りの者たちへ目を向けていた。父もいた。御屋形様もいた。幼い頃から顔を知っている者も大勢いた。ただ、その中に義治だけはいなかった。
来ないのかもしれないとは思っていた。先日、二人で十分なほど話したことも覚えている。若様なら、大勢の前で改めて何かを言うより、あの時に話したことを最後の言葉と考えるのかもしれない。そう思えば納得は出来る。それでも観音寺城が少しずつ後ろへ遠ざかるにつれ、胸の奥には小さな寂しさが残った。もう一度くらい姿を見たかったのかもしれないと気付いても、そのことを誰かへ話すつもりはなかった。
すぐ近くには弥太郎がいる。今日は妹を送り届ける兄であると同時に、六角から朽木まで一行を守る護衛でもあり、馬上から道の前後だけでなく脇道や木立へ絶えず視線を配っていた。普段のように気軽に話し掛けるのも憚られ、小夜は静かに外の景色へ視線を戻す。
一行が湖に近い道へ出ると、視界が大きく開けた。五月の日差しを受けた淡海乃海が近くに広がり、風にも水の気配が混じっている。小夜がその景色へ目を向けていた時、少し前を進んでいた弥太郎が不意に高台の方へ顔を上げた。
最初は、何か警戒すべきものを見付けたのだと思った。弥太郎はそのまま数呼吸ほど高台を見上げていたが、やがてそこにいる者が誰なのか分かったらしい。僅かに目を見開き、それから馬を小夜の輿の近くへ寄せた。
「小夜。あそこを見よ」
「何でございます、兄上」
弥太郎の視線を追って高台を見上げる。最初は木々と青い空しか見えなかったが、少し開けた場所に一騎だけ馬を止めている者がいることに気付いた。距離があるため顔までは分からない。それでも、小夜にはすぐに誰なのか分かった。
「……若様」
義治だった。
高台の上で馬に乗ったまま、眼下を通る一行を見下ろしている。こちらへ近付いてくる様子もなければ、手を振ることもない。まして大声で小夜の名を呼ぶこともなかった。ただそこに立ち、小夜たちが朽木へ向かって進んでいくのを見ている。
「兄上。若様は、大手門にはいらっしゃいませんでしたね」
「ああ。某も、あそこにおられるとは知らなんだ」
弥太郎もそれ以上は言わなかった。小夜も義治の名を呼ばない。
距離を考えれば、大きな声なら届くかもしれない。一行を止めてもらえば、もう少し長く姿を見ていられただろう。それでも、そうする必要はないように思えた。義治は何も言わず、自分も何も言わない。その沈黙が寂しくないわけではなかったが、先日二人で話したことを思えば、むしろこれが一番若様らしい送り方なのかもしれない。
幸せになれとも、大丈夫だとも言わず、自分が選んだ道を進むところをただ見届けている。
小夜は輿の中から高台を見上げ続けた。一行は止まることなく道を進み、高台との位置が少しずつ変わっていく。義治も動かない。やがて道が木立の陰へ入り、その姿が見えなくなる直前まで、小夜はそこから目を離さなかった。
「小夜、参るぞ」
「はい、兄上」
返事をした時には、観音寺城を出た直後よりも胸の奥が少し軽くなっていた。
*
高台の上では、俺はまだ馬を動かさずにいた。
木々の向こうへ一度消えた一行が、湖に近い次の道へ現れる。小夜の輿も、護衛の者たちも、ここからではさらに小さく見えた。弥太郎が高台を見上げ、小夜の輿へ近付くところまでは見えたから、おそらくこちらに気付いたのだろう。小夜自身が俺を見たのかまでは分からない。
けれど、それを確かめに行くつもりはなかった。見ていたとしても、見ていなかったとしても、それでよかった。
今日、小夜は朽木へ行き、俺は観音寺へ残る。もう以前のように、小夜の先にある人生へ俺が答えを出してやろうとは思わない。小夜自身が選んだ道ならば、俺がするべきことは、その選択を軽く扱わず、最後まで見届けることだけだった。
一行が北へ遠ざかり、やがて道の向こうへ完全に消えるまで見送ってから、俺はようやく馬の向きを変えた。
*
それからの道中は、幸い何事もなく進んだ。
六角左京大夫の養女を送る一行である以上、護衛も相応に付けられており、弥太郎たちも最後まで気を抜かなかった。一方の小夜は、高台で義治の姿を見てから少しずつ周囲を見る余裕が戻り、道沿いの村や田畑、山の形まで眺めるようになっていた。
同じ近江である以上、全てが見知らぬものというわけではない。それでも、これから先は通り過ぎる土地ではなく、自分が暮らす土地になる。そう思うだけで、目に入るものの意味が変わった。やがて山の気配が近くなり、前方の者たちの動きも少し慌ただしくなる。到着を知らせる者が先へ走り、道の先には迎えに出ているらしい人々の姿が見え始めた。
弥太郎が馬を小夜の輿へ寄せた。
「小夜、着いたぞ」
「はい」
輿が止まり、外へ出るための支度が整う。小夜はゆっくりと地面へ足を下ろした。
観音寺城下と全く違うわけではない。それでも朽木は山が近く、周囲の地形も城下の広がり方も違っていた。初めて足を下ろした土地だからこそ、似ているところよりも違うところの方が先に目へ入り、その一つ一つが、ここがこれから自分の暮らす場所なのだと告げているようだった。
「ここが……朽木?」
思わず言葉が漏れる。
前方には小夜を迎えるため、何人もの者が並んでいた。戦へ出る時のように甲冑を着込んだ姿ではなく、いずれも平服である。年嵩の者もいれば若い者もいる。その中に自分の夫となる男もいるはずなのだが、小夜にはすぐには分からなかった。
「小夜殿」
声が掛かり、そちらへ顔を向ける。しかし、どの人物が弥五郎なのだろう。竹若丸だった頃の姿を間近で見た記憶はほとんどない。元服して朽木弥五郎基綱と名乗るようになったとは聞いていても、その名と目の前の男たちの顔が結び付かなかった。
隣にいた弥太郎が、小夜の戸惑いに気付いた。
「真ん中の、ひときわお若い方が朽木弥五郎殿だ」
その言葉に、小夜は改めて中央へ目を向けた。周囲の男たちより明らかに若い一人の男が、こちらを見ている。
思っていたよりも若い。それが、小夜が朽木弥五郎基綱を初めてはっきりと見た時に抱いた印象だった。義治と大きく歳が離れていないことは聞いていたし、頭では分かっていた。それでも野良田で兵を率い、その後すぐ高島の北へ兵を進めた人物だと何度も聞かされてきたため、知らず知らずのうちにもっと年長の武将を思い描いていたのかもしれない。
弥五郎は迷う様子もなく小夜へ歩み寄った。そして目の前まで来ると、穏やかな表情を浮かべながら片手を差し出した。
「朽木弥五郎基綱です。小夜殿、よろしくお願い致す」
小夜は差し出された手を見た。何を求められているのか分からなかった。男がこのように手を差し出し、女がそこへ手を重ねるという作法など教わった覚えがない。弥五郎は急かすでもなく、手を出したままこちらを見ている。
「……お手を」
「……あの」
戸惑いは消えない。それでも、拒むために出された手ではないことくらいは分かる。小夜は恐る恐る自分の手を伸ばした。
「……はい。よろしくお願いいたしまする」
弥五郎はその手を自然に取った。乱暴ではない。むしろ驚かせないよう力を抑えているのが分かるほどだったが、それでも小夜は思わず顔を上げた。
「小夜殿は某の正室です。堂々と面を上げてくだされ」
「……正室」
分かっていたはずだった。自分は弥五郎へ嫁ぎ、朽木家当主の妻となる。それでも本人の口からはっきり言われるのと、観音寺で婚姻の話を聞いているのとでは全く違った。
「文にも書きました通り、小夜殿に一切の不自由はさせませぬ。大事にします。それをお忘れなさるな」
小夜は言葉を失った。頬が熱くなっていくのが自分でも分かる。
一度目の婚姻のことが、一瞬だけ頭を過った。
新九郎も、自分を憎んでいたわけではなかったのだと思う。ただ、小夜へ近付こうとはしなかった。「触れるな」と言われ、「馴れ合うつもりはない」と言われた。自分がどうすれば妻として正しいのか分からないまま、四か月で婚姻は終わった。
目の前の弥五郎は、朽木へ着いたばかりの自分へ手を差し出し、正室なのだから顔を上げろと言い、不自由はさせない、大事にすると告げている。この婚姻が必ず上手くいくかは分からない。義治が言った通り、誰にもそこまで先のことは分からない。それでも少なくとも、弥五郎が自分へ向き合おうとしていることだけは分かった。
「……はい。よろしくお願いいたしまする」
今度は先ほどより、少しだけしっかり声を出せた。
弥五郎が笑った。
その日から三日間、六角左京大夫の養女と朽木家当主の婚儀は盛大に執り行われた。小夜にとっては目まぐるしい三日だった。覚えなければならない顔も多く、誰がどの家の者で、これから誰と関わっていくことになるのか、一度聞いただけでは到底覚え切れない。奈津が側にいてくれることは心強かったが、それでも観音寺にいた頃とは何もかもが違った。
自分を見る者たちの目も、もう平井の娘や六角の養女だけを見るものではない。朽木弥五郎の正室を見る目なのだ。そう気付く度、到着した日に弥五郎から言われた「堂々と面を上げてくだされ」という言葉が思い出された。
しかし婚儀が終わった直後、朽木にも別の動きが生じた。
浅井に動きがあった。
田植えの時期が済めば、これまで農繁期によって大きな兵を動かしにくかった浅井も朝倉も動きやすくなる。知らせを受けた弥五郎は、婚儀から僅か三日で清水山城を離れることになった。新しく夫婦となった二人が、ゆっくり互いを知る時間など与えられなかった。
*
弥太郎が観音寺城へ戻ったのは、小夜を送り届けてから幾日か後だった。
夕刻にはまだ少し早かったが、空には薄い雲が広がり、昼までの明るさが僅かに弱まっていた。俺は部屋で届いた文を読んでいたが、廊下から聞き慣れた足音が近付くと自然に顔を上げた。
「若様、ただ今戻りました」
「御苦労。道中は問題なかったか」
「ございませぬ。小夜も無事に朽木へ入り、婚儀も滞りなく終わりました。奈津も側におります」
俺が最初に気にしていたことまで先回りされたような気がした。実際、弥太郎が戻ったと聞いた時から、一番知りたかったのは小夜が無事だったかどうかだったのだろう。
「そうか」
それだけ答えると、胸の奥に残っていた小さな引っ掛かりがほどけていく。
これで何も心配がなくなったわけではない。小夜が朽木でどう暮らしていくのか、弥五郎との夫婦仲がどうなるのか、俺には分からない。それでも無事に着き、婚儀が終わった。それだけで今は十分だった。
「弥五郎殿はどうだった」
「小夜を迎えに自ら出ておられました。随分とはっきりした御方ですな。到着早々、小夜へ手を差し出されまして」
「手を?」
思わず顔を上げると、弥太郎は思い出したように口元を緩めた。
「小夜も意味が分からず固まっておりました。それから、小夜は自分の正室だから堂々と顔を上げろ、不自由はさせない、大事にすると、その場で申されたそうです」
そこまで聞いて、さっきまで浮かびかけていた笑いが消えた。
「……そうか」
正月、弥五郎は小夜が自分をどう思っているのかを気にしていた。新九郎が朽木勢に討たれたことも分かった上で、それでも小夜が強く嫌がるなら無理に進めたくないと申していた。その男が、小夜を迎えた最初の日に正室として扱うことをはっきり示したのなら、少なくとも俺が心配していたことの一つには答えが出たのだろう。
「小夜は?」
「驚いておりました。ですが、嫌がっているようには見えませなんだ」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。小夜がこれから幸せになるかどうかは分からない。今度こそ上手くいくと、俺が決めることも出来ない。ただ、朽木へ着いた最初の日に何があったのかを聞いて、以前より少しだけ安心出来た。それで十分だった。
弥太郎はそこで一度言葉を切り、俺の顔をじっと見た。
「ところで若様。大手門へおられなかった理由を、まだ伺っておりませぬが」
「……見つけたのか」
「はい。あれだけ高いところに一騎でおられれば、護衛として周囲を見ている某には分かりまする」
「小夜も?」
「某が教えました」
そう聞いた瞬間、自分でも妙なくらい安堵した。気付いてもらうためにあそこへ行ったわけではない。ただ見送りたかっただけだと思っていた。それなのに、小夜が俺を見付けていたと知ると安心するのだから、自分でも随分勝手だと思う。
「何か言っていたか」
「若様へ何か伝えることはないかと聞きましたが、何も伝えなくてよいと」
「そうか」
「兄妹揃って、随分と面倒なことをされますな」
「待て。何故俺まで含まれる」
「何も言わず高台から見送っておられたのでしょう。それなら小夜と似たようなものでございます」
否定しようとして、止めた。自分でも何も言わずに見送ることを選んでおきながら、小夜がこちらへ何も伝えなかったと聞けば、どこか納得している。
「……まあ、そうかもしれんな」
「珍しく素直ですな」
「余計なことを言うな」
弥太郎は笑ったが、その表情はすぐに消えた。小夜についての報告は、これで終わりらしい。代わって、その顔に護衛として朽木で見聞きしたものを報告する時の色が戻る。
「もう一つございます。婚儀が終わった直後、浅井に動きがありました」
その言葉に、俺の意識が切り替わった。
弥太郎によれば、田植えの時期を終えた浅井が兵を動かす気配を見せ、それを受けた弥五郎は婚儀から僅か三日で清水山城を発ったという。向かった先は塩津浜城。北へ備えるための動きだろう。
俺はすぐには口を開かなかった。
先ほどまで頭の中にあったのは、小夜が朽木でどう迎えられたかということだけだった。その小夜が暮らし始めた土地で、もう兵が動こうとしている。もちろん婚姻したからといって戦が待ってくれるはずもないことは分かっている。それでも、小夜が朽木へ嫁いでからまだ幾日しか経っていないという事実と、弥五郎がすでに北へ向かったという事実を並べると、この時代では人の暮らしと戦があまりにも近いことを改めて感じた。
「塩津浜城か」
「はい。某が朽木を発つ時には、すでに出立の支度が進んでおりました」
俺は頷きながら、記憶の底に残っているものをゆっくり探った。永禄四年も五月が終わろうとしている。浅井と朽木、その間に広がる北近江といういくつかの言葉を繋いでいくうちに、これから起こる出来事の輪郭が少しずつはっきりしてきた。
前世で読んだ物語の中では知っている出来事だったが、いつ、どこで、誰が何をしたのか、その全てを寸分違わず覚えているわけではない。十年以上こちらで生きる間に記憶の細部は随分曖昧になっているし、俺自身がこの世界で動いている以上、読んだ通りの順序になる保証もなかった。
ただ、この頃の北近江で浅井と朽木の間に大きな決着が付くことだけは覚えている。
俺は立ち上がり、部屋の隅に置かれていた近江の地図を広げた。観音寺から北へ視線を移し、朽木、塩津浜、小谷と指で位置を追っていく。紙の上では僅かな距離にしか見えない場所の一つ一つに城があり、村があり、人が暮らしている。つい先日までは観音寺で暮らしていた小夜も、今ではその中の一人になっていた。
浅井と朽木が戦う。その結果だけなら、俺は知っている。少なくとも、知っていたつもりだった。
けれど今は、そこで兵を率いる弥五郎の顔を知っているし、その帰りを待つことになる小夜の顔も知っている。浅井家も、ただ原作の中で滅びる家ではない。今この近江に実際に存在し、城を持ち、家臣を持ち、その下で暮らしている者たちがいる。前世で文字として読んだ時と、同じ出来事でも感じる重さがまるで違った。
「若様?」
黙って地図を見ていた俺を、弥太郎が訝しげに見る。
「いや。まだ何も起きておらぬ」
浅井が動き、弥五郎が備えに向かった。それだけだ。前世の記憶だけを理由に、これから起こることを決めつけるべきではない。それはこの世界で生きるうちに何度も感じてきたことでもある。なら今やるべきなのは、知っている未来に安心することでも、まだ届いていない報せへ怯えることでもなかった。
「弥太郎。今日は休め。朽木から戻ったばかりだろう」
「よろしいので?」
「ああ。ただ、明日からは北から来る報せを少し気にしておけ」
弥太郎は一瞬だけ俺を見た後、余計な理由を尋ねることなく頭を下げた。
「承知いたしました」
襖が閉じ、足音が遠ざかっていく。
俺はもう一度地図へ視線を落とした。
正月に弥五郎と話し、小夜を嫁がせ、まだ半年も経っていない。その間にも近江は少しずつ形を変え、今度はその変化が北からこちらへ近付こうとしている。小夜を送り出したばかりだというのに、彼女が向かった先ではもう次の出来事が動き始めていた。
外は五月の夕暮れが観音寺の山々をゆっくり暗くしている。
俺は地図の上に置いていた指を、小谷の辺りで止めた。
浅井と朽木の間に長く続いてきたものが、そう遠くないうちに大きく動く。その時、近江そのものが今までと同じ形でいられるとは思えなかった。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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このまま
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1~5000文字