永禄四年五月、小夜が朽木へ嫁ぐ日が来た。
正月に父上が竹若丸へ「親子にならんか」と持ち掛けてから、婚姻の話は思っていたよりも早く進んだ。小夜は浅井へ嫁いだ時と同じく、父上の養女となって朽木家へ入る。平井家と朽木の間で交わされる書状も増え、婚儀の日取りが定まると、観音寺城では輿入れの支度が本格的に始まった。その相手も、今では朽木弥五郎基綱である。長いこと竹若丸と呼んできただけに、ふとした拍子に以前の名が口から出そうになるが、本人を前にして間違えれば、しばらく揶揄われるに違いない。気を付けているつもりでも、幼い頃からの付き合いというものは、そう簡単に改まらないらしかった。
輿入れの朝、観音寺城の大手門周辺は早くから慌ただしかった。六角左京大夫の養女を朽木家へ嫁がせるのだから、平井家だけで小さく送り出すわけにはいかない。小夜が乗る輿を中心に、身の回りの品を運ぶ者、平井家から付き従う奈津たち女衆、その周囲を守る護衛が整えられ、道中で必要となる荷も前日までに幾度となく改められている。弥太郎も今日は俺の側ではなく、小夜を朽木まで送り届ける護衛の一人として一行に加わっていた。妹を送る兄としての役目もあるが、道中の警固を任された以上、普段のように気安く話してばかりもいられないだろう。
父上は当然、大手門まで見送りに出る。実父である平井加賀守もいるし、六角家の養女として送り出す以上、六角方からも相応の者が顔を揃えていた。だからこそ、俺がその場にいなくても見送りとして不足することはない。そう自分に言い聞かせながら、俺は大手門とは別の道から観音寺城を出ていた。小夜を見送りたくないからではない。むしろ最後にその姿を見ておきたいと思ったからこそ、大勢の者がいる門前で言葉を掛けることにためらいがあった。
新九郎へ嫁ぐ時、俺は小夜へ「幸せになれ」と言った。あの時も本気でそう願っていたし、その言葉を口にしたこと自体を後悔しているわけではない。ただ、結果を知った今になって振り返れば、小夜の先にあるものを自分には分かっているような顔をしていたのだと思う。前世の知識があったからこそ、本人がこれから何を見て、何を感じるのかより、自分が知っている先の出来事を基準に考えていた部分もあった。幼い頃から知る新九郎なら上手くやれる。政治的にも意味のある婚姻なのだから、きっと良い形へ収まる。そんな願いを重ねた言葉が、小夜にとっては何としても幸せにならなければならないという重荷になっていたことを、後から本人の口で聞かされた。
今回は小夜自身が考えた。浅井での出来事も、新九郎の死も、再び嫁ぐことへの怖さも抱えたまま、最後には「否やはございませぬ」と答えた。家のためという理由も自分の気持ちも、どちらかを無理に切り離すことなく選んだ縁だった。そこまで聞いた俺が、最後になって改めて「大丈夫だ」「必ず幸せになれ」と言えば、小夜が出した答えの上へ自分の願いを重ねることになる。ならば余計な言葉は掛けない方がいい。それでも、姿も見ずに送り出すことまではできなかった。
朽木へ向かう一行が通る、湖岸近くの道を見下ろせる高台まで馬を進めた。供の者には少し離れた場所で待つよう命じ、一人で眼下の道へ目を向ける。五月の空はよく晴れ、淡海乃海は陽を受けて遠くまで細かな光を散らしていた。湖から吹き上がる風にはまだ夏の熱がなく、馬の鬣を揺らして頬へ触れると心地よい。その湖に沿って北へ延びる道を、観音寺の方角から出てきた人と馬の列がゆっくり進んでくる。まだ一人一人の顔までは見えないが、中央にある輿と、その前後を守る者たちの並びを見れば、小夜の一行だと分かった。
六角と朽木を結ぶ婚姻。高島だけでなく、これからの北近江を考える上でも大きな意味を持つ縁になるだろう。父上が望んだのも、そうした政治的な結び付きがあればこそだ。しかし高台から見下ろせば、そこにあるのは一つの道を進んでいる人と馬の列だった。その中に小夜がいて、弥太郎もいる。家と家が結び付くことは確かでも、そのために実際に住む場所を変え、見慣れた人々から離れ、知らない家へ入っていくのは小夜本人なのだ。政略婚姻という言葉を使えば一言で済む話も、こうして見送る側に立つと、その言葉だけでは収まらないものがあった。
俺は手綱を握ったまま、近付いてくる一行を黙って眺め続けた。輿の傍らでは、馬上の弥太郎が時折周囲へ目を配っている。道は湖へ近付いたり木立の陰へ入ったりしながら北へ続き、やがて小夜の一行は高台の下を通り過ぎていった。
*
観音寺城を出てから、小夜は輿の中で外の音を聞いていた。
大手門を出たばかりの頃には、見送りの声や城下のざわめきが耳に残っていた。だが、城から距離が開くにつれて、それらは馬の蹄や人の足音、荷を運ぶ者たちの声へ変わっていった。輿の隙間から外を見れば、見慣れた近江の山や田畑が続いている。それなのに、今日だけはいつもと違って見えた。これまでなら観音寺から出掛けても、いずれ同じ道を通って戻ってくると思っていた。今は、その帰る場所そのものが変わろうとしている。
出立する時、小夜は一度だけ見送りの者たちへ目を向けていた。父もいた。御屋形様もいた。幼い頃から顔を知る者たちも大勢いた。ただ、その中に義治だけはいなかった。
来ないのかもしれないとは思っていた。先日、婚姻について二人で十分に話したことも覚えている。若様なら、大勢の前で改めて何かを言うより、あの時に交わした言葉を最後にしておこうと考えるのかもしれない。そう思えば納得はできた。それでも観音寺城が少しずつ後ろへ遠ざかるにつれ、胸の奥には小さな寂しさが残った。もう一度くらい姿を見たかったのかもしれない。そう気付いても、そのことを誰かへ話すつもりはなかった。
すぐ近くには弥太郎がいる。今日は妹を送り届ける兄であると同時に、六角から朽木まで一行を守る護衛でもあり、馬上から道の前後だけでなく脇道や木立へ絶えず視線を配っていた。その様子を見れば、普段のように気軽に話し掛けるのも憚られる。小夜は兄の姿を少し眺めた後、静かに外の景色へ視線を戻した。
一行が湖に近い道へ出ると、視界が大きく開けた。五月の日差しを受けた淡海乃海が広がり、吹き込んでくる風にも水の気配が混じっている。小夜がその景色へ目を向けていた時、少し前を進んでいた弥太郎が不意に高台の方へ顔を上げた。
最初は、警戒すべきものを見付けたのだと思った。弥太郎はしばらく高台を見上げていたが、やがてそこにいる者が誰なのか分かったらしい。僅かに目を見開き、それから馬を小夜の輿の近くへ寄せた。
「小夜。あそこを見よ」
「何でございます、兄上」
弥太郎の視線を追って高台を見上げる。最初は木々と青い空しか見えなかったが、少し開けた場所に一騎だけ馬を止めている者がいることに気付いた。距離があるため顔までは分からない。それでも小夜にはすぐに誰なのか分かった。
「……若様」
義治だった。
高台の上で馬に乗ったまま、眼下を通る一行を見下ろしている。こちらへ近付いてくる様子もなければ、手を振ることもない。まして大声で小夜の名を呼ぶこともなかった。ただそこに留まり、朽木へ向かって進んでいく一行を見守っている。
「兄上。若様は、大手門にはいらっしゃいませんでしたね」
「ああ。某も、あそこにおられるとは知らなんだ」
弥太郎もそれ以上は言わなかった。小夜も義治の名を呼ばない。
距離を考えれば、大きな声なら届くかもしれない。一行を止めてもらえば、もう少し長く姿を見ていられるだろう。それでも、そうする必要はないように思えた。義治は何も言わず、自分も何も言わない。その沈黙が寂しくないわけではなかったが、先日二人で話したことを思えば、これが若様なりの送り方なのかもしれない。
幸せになれとも、大丈夫だとも言わず、自分が選んだ道を進むところをただ見届けている。小夜はあの日、義治が以前のように良い言葉を並べて婚姻を勧めなかったことを、少し嬉しいと思った。何故なのかを上手く説明できたわけではない。ただ、自分で考えた末の返事を、そのまま受け取ってもらえた気がしたのだ。今、高台にいる義治の姿を見ていると、あの時の感覚が静かに戻ってきた。
小夜は輿の中から高台を見上げ続けた。一行は止まることなく道を進み、高台との位置が少しずつ変わっていく。義治も動かない。やがて道が木立の陰へ入り、その姿が見えなくなる直前まで、小夜はそこから目を離さなかった。
「小夜、参るぞ」
「はい、兄上」
弥太郎へ返事をした時には、観音寺城を出た直後よりも胸の奥が少し軽くなっていた。もう一度姿を見られたからなのか、何も言わずに送り出されたからなのか、自分でもはっきりとは分からない。ただ、これから向かう先へ目を戻した時、先ほどまでとは少し違う気持ちで景色を眺められるようになっていた。
*
高台の上では、俺はまだ馬を動かさずにいた。
木々の向こうへ一度消えた一行が、湖に近い次の道へ現れる。小夜の輿も護衛の者たちも、ここからではさらに小さく見えた。弥太郎が高台を見上げ、小夜の輿へ近付くところまでは見えたから、おそらくこちらに気付いたのだろう。小夜自身が俺を見たのかまでは分からないが、それを確かめるために追い掛けるつもりはなかった。気付いていたとしても、そうでなかったとしても、俺が今日ここへ来た理由は変わらない。
小夜は朽木へ行き、俺は観音寺へ残る。これまでは同じ城の中にいて、気になれば様子を聞くこともできた。だが、これからはそうはいかない。それでも朽木へ嫁ぐと決めた小夜に対して、俺が先回りして何もかも案じ続ける必要はないのだろう。小夜自身が選んだ道ならば、その選択を軽く扱わず、今日こうして送り出すことに意味がある。
一行が北へ遠ざかり、やがて道の向こうへ完全に消えるまで見送ってから、俺はようやく馬の向きを変えた。眼下に続いていた人と馬の列はもう見えない。代わりに湖の向こうまで広がる五月の空が残っている。俺は手綱を引き、供の者たちが待つ方へ馬を進めた。
*
それからの道中は、幸い何事もなく進んだ。
六角左京大夫の養女を送る一行である以上、護衛も相応に付けられており、弥太郎たちは最後まで気を抜かなかった。一方の小夜は、高台で義治の姿を見てから少しずつ周囲を見る余裕が戻り、道沿いの村や田畑、山の形まで眺めるようになっていた。同じ近江なのだから、目に入るものが全て見知らぬわけではない。それでも、これから先は通り過ぎる土地ではなく、自分が暮らす土地になる。そう思うだけで、それまで何気なく見ていた景色にも自然と目が向いた。
やがて山の気配が近くなり、前方の者たちの動きも少し慌ただしくなった。到着を知らせる者が先へ走り、道の向こうには迎えに出ているらしい人々の姿が見え始める。弥太郎もそれを確かめると、馬を小夜の輿へ寄せた。
「小夜、着いたぞ」
「はい」
輿が止まり、外へ出るための支度が整う。小夜は衣の裾を確かめながら、ゆっくりと地面へ足を下ろした。
観音寺城下と全く違うわけではない。それでも朽木は山が近く、周囲の地形も家々の並び方も違っていた。迎えの者たちが待つ先へ目を向けると、ここがこれから自分の暮らす場所なのだという思いが、初めて現実のものとして胸へ迫ってくる。観音寺を離れる時には寂しさの方が強かったが、今はそれに加えて、知らない人々の中へ入っていく緊張があった。
「ここが……朽木?」
思わず言葉が漏れた。
前方には小夜を迎えるため、何人もの者が並んでいた。戦へ出る時のように甲冑を着込んだ姿ではなく、いずれも平服である。年嵩の者もいれば、若い者もいる。その中に自分の夫となる男もいるはずなのだが、小夜にはすぐには分からなかった。
「小夜殿」
声が掛かり、そちらへ顔を向ける。しかし、誰が弥五郎なのだろう。竹若丸だった頃の姿を間近で見た記憶はほとんどない。元服して朽木弥五郎基綱と名乗るようになったとは聞いていても、その名と目の前の男たちの顔が結び付かなかった。
隣にいた弥太郎が、小夜の戸惑いに気付いた。
「真ん中の、ひときわお若い方が朽木弥五郎殿だ」
その言葉に、小夜は改めて中央へ目を向けた。周囲の男たちより明らかに若い一人の男が、こちらを見ている。
思っていたよりも若い。それが朽木弥五郎基綱を初めてはっきりと見た時に抱いた印象だった。義治と大きく歳が離れていないことは聞いていたし、頭では分かっていた。それでも野良田で兵を率い、その後すぐ高島の北へ兵を進めた人物だと何度も聞かされてきたため、知らず知らずのうちに、もっと年長の武将を思い描いていたのかもしれない。だが目の前にいる男は、若いながらも周囲の者たちから一歩前へ出て、落ち着いた様子で自分を迎えようとしていた。
弥五郎は迷う様子もなく小夜へ歩み寄った。そして目の前まで来ると、穏やかな表情を浮かべながら片手を差し出した。
「朽木弥五郎基綱です。小夜殿、よろしくお願い致す」
小夜は差し出された手を見た。何を求められているのか分からなかった。男がこのように手を差し出し、女がそこへ手を重ねるという作法など教わった覚えがない。こちらが動かないことを不審に思う様子もなく、弥五郎は手を出したまま待っている。
「……お手を」
「……あの」
戸惑いは消えない。それでも拒まれているわけでも、何かを咎められているわけでもないことくらいは分かった。小夜は弥五郎の顔を一度見てから、恐る恐る自分の手を伸ばした。
「……はい。よろしくお願いいたしまする」
弥五郎はその手を自然に取った。乱暴な力は加えられず、むしろ驚かせないようにしているのが分かるほどだったが、それでも小夜は思わず顔を上げた。
「小夜殿は某の正室です。堂々と面を上げてくだされ」
「……正室」
分かっていたはずだった。自分は弥五郎へ嫁ぎ、朽木家当主の妻となる。それでも本人の口からはっきり言われるのと、観音寺で婚姻の話を聞いているのとでは全く違った。目の前にいる男が、自分を妻として迎えようとしている。そこには、新九郎へ嫁いだ時に感じた戸惑いとは別のものがあった。
「文にも書きました通り、小夜殿に一切の不自由はさせませぬ。大事にします。それをお忘れなさるな」
小夜はすぐに返事ができなかった。頬が熱くなっていくのが自分でも分かり、何と答えればよいのか考えようとするほど、目の前の弥五郎を意識してしまう。
一度目の婚姻のことが、一瞬だけ頭を過った。
新九郎も、自分を憎んでいたわけではなかったのだと思う。ただ、小夜へ近付こうとはしなかった。「触れるな」と言われ、「馴れ合うつもりはない」と言われた。自分がどうすれば妻として正しいのか分からないまま、四か月で婚姻は終わった。あの時には、相手の考えていることを尋ねることさえ難しく、同じ屋根の下にいても新九郎との距離は縮まらなかった。
今、目の前の弥五郎は、朽木へ着いたばかりの自分へ手を差し出し、正室なのだから顔を上げろと言い、不自由はさせない、大事にすると告げている。この婚姻が必ず上手くいくかは分からない。義治が言った通り、誰にもそこまで先のことは分からなかった。それでも弥五郎が自分へ向き合おうとしていることだけは、差し出された手とその言葉から感じ取れた。
「……はい。よろしくお願いいたしまする」
今度は先ほどより、少しだけしっかり声を出せた。弥五郎が笑うと、張っていた気持ちも僅かに和らいだ。まだ覚えなければならないことも、知らないことも山ほどある。けれど小夜は、差し出した自分の手をすぐに引こうとは思わなかった。
その日から三日間、六角左京大夫の養女と朽木家当主の婚儀は盛大に執り行われた。小夜にとっては目まぐるしい三日だった。覚えなければならない顔も多く、誰がどの家の者で、これから誰と関わっていくことになるのか、一度聞いただけでは到底覚え切れない。奈津が側にいてくれることは心強かったが、それでも観音寺にいた頃とは何もかもが違った。祝いの言葉を受け、挨拶を返し、朽木家の者たちへ紹介されるうち、三日という時間があっという間に過ぎていった。
自分を見る者たちの目も、もう平井の娘や六角の養女だけを見るものではない。朽木弥五郎の正室を見る目なのだ。そう気付くたび、到着した日に弥五郎から言われた「堂々と面を上げてくだされ」という言葉が思い出された。最初はどう振る舞えばよいのか分からず、周囲へ視線を向けることさえためらう時もあったが、俯いてばかりいるわけにはいかない。小夜は一つずつ名を覚え、声を掛けられれば顔を上げて応じるよう努めた。
しかし、婚儀が終わった直後、朽木にも別の動きが生じた。
浅井に動きがあった。
田植えが一段落すれば、それまで農繁期のために大きな兵を動かしにくかった浅井も朝倉も、次の軍事行動を考えやすくなる。知らせを受けた弥五郎は、婚儀から僅か三日で清水山城を離れることになった。新しく夫婦となった二人が、ゆっくり互いを知る時間など与えられなかった。
*
弥太郎が観音寺城へ戻ったのは、小夜を送り届けてから幾日か後だった。
夕刻にはまだ少し早かったが、空には薄い雲が広がり、昼までの明るさが僅かに弱まっていた。俺は部屋で届いた書状を読んでいたが、廊下から聞き慣れた足音が近付くと、自然に顔を上げた。朽木へ向かった一行の無事はすでに知らされていたものの、実際に送り届けた弥太郎から話を聞くまでは、どこか落ち着かない気持ちが残っていた。
「若様、ただ今戻りました」
「御苦労。道中は問題なかったか」
「ございませぬ。小夜も無事に朽木へ入り、婚儀も滞りなく終わりました。奈津も側におります」
俺が最初に気にしていたことまで先回りされたような気がした。実際、弥太郎が戻ったと聞いた時から、一番知りたかったのは小夜が無事だったかどうかだったのだろう。道中で何か起きたという報せは届いていなかったし、朽木が婚儀の支度を整えて待っていることも分かっていた。それでも本人の様子を聞くまでは、どうにも安心し切れなかったらしい。
「そうか。無事に終わったなら何よりじゃ」
そう答えると、胸の奥に残っていた小さな引っ掛かりがほどけていった。これで何も心配がなくなったわけではない。小夜が朽木でどう暮らしていくのか、弥五郎との夫婦仲がどうなるのか、今後どのようなことが起きるのかも俺には分からない。それでも無事に着き、婚儀が終わり、新しい家での暮らしが始まった。今はそこまで確かめられれば十分だった。
「弥五郎殿はどうだった」
「小夜を迎えに自ら出ておられました。随分とはっきりした御方ですな。到着早々、小夜へ手を差し出されまして」
「手を?」
思わず顔を上げると、弥太郎はその時のことを思い出したらしく、口元を緩めた。
「小夜も意味が分からず固まっておりました。それから、小夜は自分の正室だから堂々と顔を上げろ、不自由はさせない、大事にすると、その場で申されたのです」
「……弥五郎殿が、か」
「はい。迎えに出ていた朽木の者たちもおる前で、はっきりと」
そこまで聞くと、俺はしばらく言葉を返せなかった。
正月、弥五郎は小夜が自分をどう思っているのかを気にしていた。新九郎が朽木勢に討たれたことも承知した上で、それでも小夜が強く嫌がるなら無理に進めたくないと申していた。その男が小夜を迎えた最初の日に正室として扱うことを周囲へも示したのなら、少なくとも俺が心配していたことの一つには答えが出たのだろう。
小夜が初めて浅井へ嫁いだ夜のことを思い出した。新九郎から拒まれたと聞いた時、俺は何故そんなことになったのか理解できなかった。幼い頃から知っていた相手だっただけに、なおさらだったのだと思う。今度の弥五郎も幼い頃からの友人だが、友として知る姿と夫として小夜へ向ける姿が同じだとは限らない。それでも最初から小夜を妻として迎え、周囲にもその立場を明らかにしたことには、確かな意味があるはずだった。
「小夜は、どうしておった」
「随分驚いておりました。頬を赤くして、何と答えればよいのか迷っているようでしたが、嫌がっている様子はございませなんだ」
「そうか」
それ以上、細かなことまで尋ねるのはやめた。小夜が何を思ったのかは、本人にしか分からない。弥太郎が見た範囲で嫌がっていなかったのであれば、今はそれを受け取ればよい。婚儀が滞りなく済んだと聞き、弥五郎がどのように迎えたのかも分かった。これから二人がどうなるかまで、俺が考えて答えを出す必要はなかった。
弥太郎はそこで一度言葉を切り、俺の顔をじっと見た。
「ところで若様。大手門へおられなかった理由を、まだ伺っておりませぬが」
「……見つけたのか」
「はい。あれだけ高いところに一騎でおられれば、護衛として周囲を見ている某には分かりまする」
まさか弥太郎に見付けられていたとは思わなかった。いや、あの道を護衛として進んでいたのだから、高台に馬を止めている者へ目を向けるのは当然か。むしろ気付かない方が問題だろう。俺は少し気まずくなりながらも、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「小夜も気付いておったか」
「某が教えました」
「……そうか」
そう聞いた瞬間、自分でも妙なくらい安堵した。気付いてもらうためにあそこへ行ったわけではない。ただ見送りたかっただけだと思っていた。それなのに、小夜が俺の姿を見ていたと知ると安心するのだから、随分勝手なものだ。
「何か言っておったか」
「若様へ何か伝えることはないかと聞きましたが、何も伝えなくてよいと」
弥太郎の答えに、俺は小さく頷いた。小夜がそう答えたのなら、それでよかった。最後に何か言葉を交わしたかったわけではないし、見付けたからといって大声で呼び掛けてほしかったわけでもない。こちらが黙って見送り、小夜も何も言わずに朽木へ向かった。ただ、それだけのことだ。
「お二人揃って、随分と面倒なことをされますな」
「待て。何故こちらまで含まれる」
「何も言わず高台から見送っておられたのでしょう。それなら小夜と似たようなものでございます」
否定しようとして、口を閉じた。自分でも何も言わずに見送ることを選んでおきながら、小夜がこちらへ何も伝えなかったと聞けば、どこか納得している。弥太郎からすれば、互いに言葉を掛ければ済むことを、わざわざ遠くから済ませたように見えるのだろう。
「……まあ、そうかもしれんな」
「珍しく素直ですな」
「余計なことを言うな」
弥太郎は笑ったが、その表情はすぐに改まった。小夜についての報告は、これで終わりらしい。代わって、その顔には護衛として朽木で見聞きしたものを報告する時の色が戻っていた。
「もう一つございます。婚儀が終わった直後、浅井に動きがありました」
その言葉に、俺の意識も切り替わった。
「浅井が?」
「はい。田植えが一段落するのを待っていたのでしょう。兵を動かす気配があるとの報せが入り、弥五郎殿は婚儀から僅か三日で清水山城を発たれました」
「何処へ向かった」
「塩津浜城にございます。北へ備えるための動きかと」
俺はすぐには口を開かなかった。先ほどまで頭の中にあったのは、小夜が朽木でどう迎えられたかということだった。その小夜が暮らし始めた土地で、もう兵が動こうとしている。婚姻したからといって戦が待ってくれるはずもない。それは野良田や佐和山を経験した今なら十分に分かっている。それでも小夜が朽木へ嫁いでからまだ幾日しか経っていないという事実と、弥五郎がすでに北へ向かったという事実を並べれば、この時代では人の暮らしと戦があまりにも近いことを改めて感じさせられた。
小夜にとっては、ようやく新しい家へ入ったところだ。朽木の者たちの名も覚え切らないうちに、夫となった弥五郎は城を離れ、兵を率いて北へ向かっている。婚儀を終えたばかりの妻として、何を思ったのだろう。心配しているかもしれないし、朽木の当主へ嫁ぐ以上、そうしたこともあると受け止めているかもしれない。俺がここで幾ら考えても、その答えは分からなかった。
「塩津浜城か」
「はい。某が朽木を発つ時には、すでに出立の支度が進んでおりました」
俺は頷きながら、記憶の底に残っているものをゆっくり探った。永禄四年も五月が終わろうとしている。浅井と朽木、その間に広がる北近江。幾つかの名と場所を頭の中で繋いでいくうちに、これから起こる出来事の輪郭が少しずつ浮かんできた。
前世で読んだ物語の中では知っている出来事だった。しかし、いつ、どこで、誰が何をしたのか、その全てを寸分違わず覚えているわけではない。十年以上こちらで生きる間に記憶の細部は随分曖昧になっているし、俺自身がこの世界で動いている以上、読んだ通りの順序になる保証もなかった。実際、こちらへ来てから目にした出来事の中には、知っていた展開と重なるものもあれば、記憶通りには進まなかったものもある。だからこそ、前世の知識だけを頼りに今後を決めつけることは避けてきた。
ただ、この頃の北近江で浅井と朽木の間に大きな決着が付くことだけは覚えている。
俺は立ち上がり、部屋の隅に置いていた近江の地図を広げた。観音寺から北へ視線を移し、朽木、塩津浜、小谷と指で位置を追っていく。紙の上では僅かな距離にしか見えない場所の一つ一つに城があり、村があり、人が暮らしている。つい先日までは観音寺で暮らしていた小夜も、今ではその中の一人になっていた。
浅井と朽木が戦う。その結果だけなら、俺は知っている。少なくとも、知っていたつもりだった。
けれど今は、そこで兵を率いる弥五郎の顔を知っているし、その帰りを待つことになる小夜の顔も知っている。浅井家も、ただ原作の中で滅びる家として眺められる相手ではない。今この近江に実際に存在し、城を持ち、家臣を持ち、その下で暮らしている者たちがいる。野良田で死んだ新九郎も、俺にとっては幼い頃を知る相手だった。前世で文字として読んだ時と、同じ出来事でも感じる重さがまるで違っていた。
地図の上へ指を置いたまま考え込んでいると、弥太郎が訝しげにこちらを見た。
「若様?」
「いや。まだ何も起きておらぬ」
浅井が兵を動かす気配を見せ、弥五郎が備えに向かった。それだけだ。今のところ、実際にどこで戦が起きるのかも、浅井がどれほどの兵を集めているのかも分かっていない。前世の記憶を理由に、これから起こることを決めつけるべきではなかった。父上からも、筋が通るからといって事実まで自分で作るなと、何度も教えられている。
ならば今やるべきなのは、知っている未来に安心することでも、まだ届いていない報せを恐れることでもない。まず浅井が実際にどう動いているのかを確かめ、朽木が何処へ兵を置き、どう備えているのかを見る。それが分からないうちから、記憶の中の戦と同じものが始まると考えても仕方がなかった。
「弥太郎。今日は休め。朽木から戻ったばかりだろう」
「よろしいので?」
「ああ。ただ、明日からは北から来る報せを少し気にしておけ」
弥太郎は一瞬だけ俺を見た後、余計な理由を尋ねることなく頭を下げた。
「承知いたしました」
襖が閉じ、足音が遠ざかっていく。俺はもう一度地図へ視線を落とした。
正月に弥五郎と話し、小夜との婚姻が決まり、その輿入れを見送った。まだ半年も経っていないというのに、その間にも近江の情勢は少しずつ変わり続けている。六角は佐和山を押さえ、朽木は高島の北へ勢力を伸ばし、野良田で当主を失った浅井も久政の下で家中を立て直してきた。朝倉や若狭の動きまで考えれば、北近江の争いが浅井と朽木だけで収まるかどうかも分からない。小夜を送り出したばかりだというのに、彼女が向かった先では、すでに次の出来事が動き始めていた。
窓の外では五月の夕暮れが観音寺の山々をゆっくり暗くし始めていた。俺は地図の上に置いていた指を、小谷の辺りで止めた。浅井と朽木の間に長く続いてきた争いは、そう遠くないうちに大きく動くのかもしれない。前世の記憶が正しければ、その先には北近江の勢力関係を大きく変える出来事が待っている。ただ、今の俺に分かっているのは、弥五郎が塩津浜へ向かったというところまでだった。そこから先を確かめるには、北から届く次の報せを待つしかない。
地図に記された小谷の名を見つめながら、俺はこれからの戦が近江そのものの形を変えることになるのかもしれないと思っていた。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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このまま
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