永禄四年六月中旬。五月の終わり頃から空模様は安定せず、観音寺でも朝から細かな雨が降っていた。軒を叩く音は一定ではなく、強くなったかと思えばふっと遠のき、しばらくするとまた雨脚が戻ってくる。城から見下ろす田畑には薄い雨霞が掛かり、その向こうに連なる山々も白く煙って、普段なら見分けられる尾根の重なりさえ曖昧になっていた。
小夜が朽木へ嫁いでから、まだ一月ほどしか経っていない。婚儀を見届けて戻った弥太郎から聞いた通り、弥五郎は祝言を終えると間を置かず塩津浜城へ向かい、それからほどなくして北近江から届く報せの数が目に見えて増えた。浅井が兵を集めていること、朽木もまた伊香郡へ兵を進めていること、その双方が木之本の辺りで睨み合う形になりつつあることまで、断片的ながら観音寺にも伝わっている。
俺も何度か北近江の地図を机へ広げた。小谷、木之本、塩津浜、余呉から北へ延びる街道。紙の上に記された地名を指で追うたび、前世で読んだ物語の記憶が勝手に重なろうとする。それを意識して引き離すのが、いつの頃からか癖になっていた。この頃に浅井と朽木の間で決着が付く。そのこと自体は覚えている。けれど、記憶の中に結果があるからといって、今目の前で進んでいる出来事まで初めから決まっているものとして扱えば、必ずどこかで足を掬われる。
すでに俺が知る物語と、この世界で起きていることは完全には重ならない。それ以上に大きいのは、以前なら文字の上でしか知らなかった者たちに、今では顔と声があることだった。弥五郎と向かい合って話したことがあり、小夜がその男を選んで朽木へ嫁いでいく姿を見送った。浅井の名についても、六角の敵として評定で何度も耳にしている。前世なら「ここで浅井が滅ぶ」と数行を読み進めれば済んだ場面が、今はその一行の向こう側にいる人間まで想像出来てしまう。知識と現実の間にある距離は、思っていたよりずっと大きかった。
その日の朝、父上から呼び出しが来た。評定の間へ入ると、すでに何人かの重臣が座を占め、部屋の中央には北近江を大きく描いた地図が広げられている。木之本、小谷、塩津浜の周辺には小さな駒が幾つも置かれ、どの駒がどちらを示しているのかは聞かずとも分かった。俺が席に着くのを見届けると、父上は手元の文を畳み、「右衛門督、北から知らせが来た。朽木と浅井が木之本で向き合った」と告げた。
室内の空気が僅かに締まった。報告によれば、弥五郎が率いる朽木勢はおよそ三千、対する浅井勢は四千ほど。朽木側は街道沿いに二千を置き、その近くの高所に一千ほどを配しているらしい。浅井はその正面へ兵を集めており、数だけなら向こうが一千ほど多い。しかも木之本でも雨が続いているらしく、父上は地図の脇に置かれた書付を指で押さえながら、朽木が持ち込んだ鉄砲のうち四百ほどは十分に使えぬ状態だと続けた。
兵で劣り、その差を埋めるはずの鉄砲まで雨に封じられている。地図の上だけを見れば朽木が不利なのは明らかだった。俺は木之本の辺りへ目を落とし、街道と山の位置を頭の中で組み直した。高所に置いた一千が何のためなのか、街道を押さえる二千にどこまで耐えさせるつもりなのか。紙の上には道と村の名しかなく、斜面の具合も、雨で地面がどれほど緩んでいるのかも分からない。そこへ前世の記憶を都合良く埋め込めば、それらしい答えはいくらでも作れてしまう。
父上がこちらを見た。「どう見る」と問われ、俺はすぐには口を開かなかった。朽木が不利だという見立て自体は変わらない。だが、弥五郎がその程度のことも分からずに三千を木之本へ出したとも思えなかった。
「朽木が不利に見えることは間違いありませぬ。ただ、弥五郎殿が兵の差も、鉄砲が雨に弱いことも承知せず、あの場所へ出たとは思えません」
雨そのものまで読んでいたとは考えにくい、と付け加えると、父上は返事をせず地図へ視線を戻した。俺の脳裏には、正月に弥五郎と交わした会話が浮かんでいた。朽木では、戦が起きた時だけ百姓に鍬を置かせて槍を持たせるのではなく、普段から戦うことを役目とする者を抱えている。あの時は、それをどう養うのかという方へばかり意識が向いていた。だが今、雨に煙る木之本の地図を見ていると、別の意味が見えてくる。鉄砲があるから強いのではない。鉄砲が使えなくなった時にも、槍を持ち、陣を保ち、命令通りに動ける者がどれほどいるか。弥五郎が金を掛けて抱えてきた兵の価値は、むしろこういう時に出るのかもしれなかった。
とはいえ、それだけで四千の浅井勢を破れると決めつけるつもりはない。俺は弥五郎の兵を自分で動かしたこともなければ、木之本の地形を自分の足で確かめたこともない。分かっていることと、そこから想像したことを混ぜれば、どれだけ筋が通って見えても所詮は思い込みだ。今言えるのは、表に出ている条件ほど簡単に朽木が崩れる相手ではないだろう、というところまでだった。
評定では、六角から兵を出すべきかという話も出た。小夜は父上の養女として朽木へ嫁いでいる。これまで以上に近しい家となった朽木が浅井と戦う以上、援軍を送る理由そのものは作れる。しかし父上はすぐには頷かず、指先で浅井と朽木の駒の間をなぞった。
「向こうから助けを求められておらぬ。ここで六角が兵を入れれば、朽木と浅井の戦へ後から割り込む形になる。勝っても負けても、その後が面倒じゃ」
その一言で、座にいた者たちの意見も少しずつ整理されていった。弥五郎が自分の兵で浅井を破れば、北近江を押さえたのは朽木になる。そこへ六角が途中から兵を入れ、勝利の一端を担った形を作れば、今度は浅井の旧領をどう扱うかという話にまで六角が口を出す理由が生まれる。こちらにとって都合の良い面はあるが、弥五郎から見れば、自分で始めた戦へ六角が後から手を差し込んだとも取れる。反対に浅井が勝った場合、六角軍がその場にいれば、浅井との戦はそこで終わらずそのままこちらへ続くだろう。婚姻を結んだことと、相手が戦うたびに兵を出すことは同じではない。
父上は周囲の意見を聞き終えると、今度は俺へ問いを向けた。浅井が負けることは、六角にとって本当に良いことなのか。問われて初めて、俺は地図の上で浅井の駒が消えた後の形を考えた。浅井は長く六角に逆らってきた。単純に敵が一つ減ると考えれば悪い話ではない。だが、浅井の家が消えても土地は消えず、そこに住む国人も百姓も、城も田畑もそのまま残る。その空いた場所へ誰かが入るなら、結局は別の勢力が六角の北側へ立つことになる。
「浅井が消えるだけなら、六角にとって悪い話ではありませぬ。ただ、その後を誰が取るかで話は変わるでしょう。弥五郎殿が勝てば、その分だけ朽木は大きくなります。今までのように、高島の国人の一つとしてだけ見ることは出来なくなります」
浅井が勝てば朽木が傷付き、浅井が北近江で勢いを取り戻す。どちらへ転んでも今までの形には戻らない、と続けると、父上の眉が僅かに動いた。父上はさらに、ならばどちらが勝つのが六角にとって良いのかと重ねたが、そこにはすぐ答えを置けなかった。六角だけの都合を言えば、浅井も朽木も手に負えぬほど大きくならず、互いに削り合ってくれるのが一番扱いやすいのかもしれない。だが、人の戦を盤上の駒のように都合良く止めることは出来ないし、それを狙ってこちらが余計な手を出せば、結局は自分たちまで泥へ足を取られる。
「今の浅井がそのまま残るよりは、弥五郎殿が勝つ方がよいと思います。婚姻も結び、話の通じる相手でもあります。ただし、勝った後まで今と同じ相手だと思わぬ方がよいでしょう」
俺の返答を聞くと、父上はそこで初めて口元を僅かに緩めた。
「それでよい。勝つ前から先の形を決めつける必要はない。だが、戦が終われば地図も変わる。そのつもりで見ておけ」
それ以上、兵を出す話は続かなかった。六角軍を木之本へ向けることは見送られたが、北への備えを解くわけでもない。国境近くを見張る者には、これまで以上に細かく動きを拾わせることになり、評定が終わる頃には使者へ渡す指図の文まで用意されていた。部屋を出た時にも雨は止んでおらず、廊下の先に見える庭石は濡れて黒く光っていた。
午後になって自室へ戻っても、俺は北近江の地図を畳まなかった。軒先から落ちる雨粒の間隔は揃わず、時折吹き込む湿った風が机の端に置いた紙を僅かに揺らす。弥太郎は少し後ろに控え、朝の評定について自分から口を挟むことはなかったが、俺が何度も木之本から小谷へ視線を往復させているのには気付いていたらしい。湯を替えに来た小姓が下がったところで、ようやく「朽木が気になりますか」と声を掛けてきた。
「小夜もおるからな」
そう答えたものの、それだけではないことは自分でも分かっていた。弥五郎がどう戦うのかを見たいという気持ちがある。前世で知っていた物語の主人公が、今この瞬間にも北で三千の兵を率いている。以前なら、それをどこか遠い出来事として眺められたのかもしれない。だが今では、弥五郎がどういう声で笑い、どういう時に言葉を選び、当主として何を考える男なのかを少しずつ知っている。小夜を任せた相手でもある。そうなると、記憶の中に結果が残っているからといって、安心など出来なかった。
弥五郎が負ければ、小夜の置かれる場所も変わる。朽木が大きく傷付けば、婚姻を通じて結ばれた六角にも少なからず影響が出る。それでも俺は木之本へ兵を送ることも、弥五郎へ何かを命じることも出来ない。地図へ手を伸ばし、木之本の文字の脇へ置いた小さな石を指先で動かしかけて止めた。紙の上なら好きに動かせる。だからこそ、その向こうで実際に動いている兵とは混同してはいけなかった。
夕刻に近付いた頃、廊下の向こうから普段より速い足音が聞こえた。取り次ぎを経て入ってきた使者は、雨に濡れた笠を外に預けたのだろう、肩口だけがまだ僅かに湿っていた。北から届いた続報によれば、木之本では朝から雨が続き、朽木の鉄砲隊はやはり十分には働けていない。それでも両軍の陣は大きく崩れず、街道周辺で睨み合いが続いているという。
浅井四千、朽木三千。朽木は鉄砲の多くを雨に封じられている。それなのに、浅井は押し切れていない。その一点が妙に引っ掛かった。
弥五郎が守るのに長けているだけなら、それでも説明は付く。だが雨の中で向かい合ったまま日を重ねれば、待つことそのものが負担になる。田植えを終えた頃とはいえ、浅井の四千がすべて一年を通して戦だけを仕事とする者とは限らない。村から人を集めているなら、兵を置き続けるほど田畑から働き手を奪うことになる。食わせる米も要る。それに対して、弥五郎が普段から抱えている兵は、少なくとも「戦場に居続けること」そのものでは浅井より負担が小さいはずだった。
正月の席で聞いた話が、ここでようやく別の形を取った。鉄砲が強いかどうかではない。戦うためだけに集めた者を、どれほど長く戦場へ置いておけるのか。その違いがあるのなら、雨で決着が延びることは朽木にとって不利なだけではない。
俺は木之本の文字へ視線を戻した。弥五郎は、雨が止むのを待っているのだろうか。それとも浅井が動くのを待っているのか。まだ何も断定出来ない。ただ、兵数で劣り、得意とする鉄砲まで使えない状況で、何の手もなく立ち止まっているようには見えなかった。
「続報が来たら、夜でも起こせ」
使者へそう命じて下がらせると、弥太郎が僅かにこちらを見た。俺は何も説明せず、地図の上に置いた浅井と朽木の駒をそのままにした。その夜、雨音は遅くまで続いたが、木之本から新しい知らせが届くことはなかった。
翌朝になっても空は低く、夜半にいくらか弱まっていた雨は、明け方から再び庭を白く煙らせていた。軒下には一晩で落ちた雫が細い筋を作り、庭の土には浅い水溜まりが幾つも出来ている。朝餉を終えたところで父上から呼び出しがあり、昨夜は大きな知らせが無かったことを思えば、夜が明けてから何か動いたのだろうと見当は付いた。
昨日と同じ評定の間へ入ると、広げられた地図そのものは変わっていなかったが、木之本の周りに置かれた駒の位置が違っていた。浅井を示していた駒のうち二つが本隊から離れ、少し距離を置いて並べられている。昨日までは四千という一つの塊に見えていた浅井勢が、地図の上だけでも二つに割れていた。
俺が席に着くと、父上は余計な前置きをせず、「月ヶ瀬若狭守と阿閉淡路守が浅井の陣を離れた」と告げた。二家の兵を合わせれば、およそ二千。浅井久政が率いていた四千の半分が、一夜のうちに戦列から消えたことになる。朽木へ寝返ったわけではなく、今のところは兵を引いただけらしいが、それでも意味は大きい。
昨日から胸の内に残っていた引っ掛かりが、地図の上でようやく形を持った。浅井は兵数で勝り、朽木は鉄砲まで雨に封じられている。それでも浅井が前へ出なかったのは、単に朽木の守りが固かったからではないのかもしれない。久政の周囲には、最初から同じ方向を向いていない者がいた。その亀裂を弥五郎がどこまで掴んでいたのかは分からない。月ヶ瀬と阿閉が必ず離れると読んでいたのか、それとも浅井家中の不和を承知した上で、動きが出るまで無理をしなかっただけなのか。どちらにせよ、昨日の睨み合いは、ただ雨に足止めされていただけの時間とは思えなくなった。
「弥五郎殿は、これを待っていたのでしょうか」
俺がそう口にすると、父上はすぐには答えず、浅井の本隊から離れた二つの駒をしばらく眺めた。それから鼻で短く息を吐き、「そこまで読んでおったなら、あの小僧は随分と嫌な戦をする」とだけ言った。言葉ほど嫌そうには聞こえなかった。地図を見る目は細められていたが、戦の運びを面白がっているようにも見える。ただ父上は、それ以上弥五郎の考えを決めつけようとはしなかった。
俺も同じだった。後から結果を見れば、最初からすべて分かっていたように筋道を作ることは出来る。だが現実の戦場で、敵方の二家が予定通り離反してくれる保証などない。もし弥五郎が浅井家中の亀裂を利用するつもりだったとしても、それは離脱が起きなければ成立しない策だ。昨日までの弥五郎は、三千の兵を雨の中に置きながら、いつ起きるかも分からぬ相手の変化を待っていたことになる。自分ならその状況で、どこまで動かずにいられるだろう。兵数で負け、鉄砲も使えず、しかも待つ理由を兵のすべてに説明出来るわけでもない。地図の前に座っているだけの俺でさえ落ち着かなかったことを思えば、その重さは想像するしかなかった。
けれど、今は状況が変わった。昨日まで浅井四千に対して朽木三千だったものが、戦場に残った数だけを見れば逆転している。しかも浅井側では、つい昨日まで隣に陣を敷いていた者たちが半数近く姿を消した。兵が二千減ったという数字以上に、残された側が受ける衝撃は大きいはずだった。隣の陣が空になっているのを見れば、理由を知らぬ足軽でも何か起きたとは察する。自分たちも見捨てられるのではないか、次に離れるのはどの家か。そうした疑いは、一度生まれれば声を掛けただけで消えるものではない。
その時、廊下側で控えていた者が新たな文を持って入り、父上の前へ差し出した。父上は目を通すと、口元を僅かに歪めた。
「右衛門督。もう動いたぞ」
月ヶ瀬と阿閉の離脱を確認した直後、朽木勢が浅井へ攻勢を掛けたという。木之本では相変わらず雨が続いており、鉄砲が十分に使えぬことにも変わりはない。それでも弥五郎は、今度は自分から兵を前へ出した。
俺は昨日と同じ地図を見ながら、そこに置かれた駒の意味がまるで違って見えることに気付いた。雨そのものは何も変わっていない。道はぬかるみ、火縄は湿り、鉄砲は扱いにくいままだ。それでも、浅井から二千が消えたことで、同じ雨が戦場へ与える重みまで変わっている。数で上回っていた浅井にとっては、鉄砲を封じる雨は朽木の長所を削るものだった。だが兵数が逆転した今、双方が槍や弓を中心に戦うことになれば、普段から戦うために抱えられている朽木兵の方が、むしろ力を出しやすいのかもしれない。
正月に聞いた話を、頭の中だけで知識として整理していた時とは違う。普段から兵を養うというのは、戦の時に人を多く集められるというだけではない。雨が降り、鉄砲が使えず、予定した形が崩れた時にも命令を受けて動ける者を手元に置いておくということなのだろう。武器だけを真似ても同じ軍にはならない。六角でも鉄砲を増やせば朽木と同じ戦いが出来る、という話ではなかった。
そこまで考えて、俺は地図から一度目を離した。六角の兵を今後どうするかはいずれ向き合わなければならないが、目の前の戦を自分の学びの材料として眺め過ぎるのは違う。木之本で槍を持っている者たちは、俺に何かを教えるために戦っているわけではない。弥五郎も、浅井久政も、自分の家を残すために兵を動かしている。その結果を見届けてから、必要なら六角のことを考えればいい。
昼を過ぎる頃には、さらに北からの使者が入った。朽木の攻勢を受けた浅井勢は後退を始め、まとまった反撃が出来ずにいるという。昨日まで四千を数えた兵が二千ほどに減り、その直後に三千の朽木勢から押し込まれたのだから、陣が乱れるのも無理はない。戦場から離れる者も出始めているらしく、報告を聞く家臣たちの間にも、朝までとは違う空気が流れていた。
誰も勝ったとは言わなかった。それでも、地図の浅井方の駒へ向けられる視線が少しずつ変わっているのは分かった。朝にはまだ「二家が離れただけ」だったものが、昼には浅井勢そのものの崩れへ繋がり始めている。父上だけは表情を変えず、報告を終えた使者に「久政の首は」と尋ねた。
まだ確認出来ていない、と使者が答えると、父上はそれ以上何も言わず、手元の文へ視線を落とした。
その問いで、俺の中にも残っていた浮ついた感覚が消えた。浅井軍を木之本で破ったとしても、浅井久政が生きて小谷へ戻れば、それで浅井家がなくなるわけではない。城へ籠もり、国人へ再び声を掛け、時を置いて兵を集め直すことも出来る。今日の戦に勝つことと、浅井という家を終わらせることは同じではない。
地図の小谷へ目を移す。山の上にある城を示す印は、紙の上では指先ほどの大きさしかない。そこへ久政が戻れば、次は城を巡る戦になるのか。どれだけ兵が残っているのか、城内の者たちが久政へどこまで従うのか、こちらには何も分からない。弥五郎が求めているものも、木之本で一度勝って満足する程度ではないだろう。浅井が残れば、北近江はまた同じ争いへ戻る。ここまで兵を出した以上、二度と立ち上がれぬところまで押さえるつもりだと考える方が自然だった。
そう考えた途端、地図の上の「浅井」という字が妙に重く見えた。前世で歴史を読む時、大名家の滅亡は驚くほど短く書かれていることがある。誰々が滅び、誰々が領国を得た。その数文字の間にどれだけの人間がいたのかを、当時の俺はほとんど考えていなかった。だが今、この城のどこかに久政の妻子がいて、親類がいて、浅井を頼りに生きてきた家臣たちがいる。戦場で兵を破れば済む話ではなく、家が消える時には、その名の下にいた者すべての行き先が変わる。
俺の視線が小谷に止まっていることへ気付いたのか、父上が一度だけこちらを見た。しかし何も言わなかった。俺も口を開かず、そのまま使者の報告が続くのを聞いた。今ここで浅井の行く末を憐れんだところで、木之本の戦が止まるわけではない。六角もこれまで浅井と幾度も争ってきた。野良田では父上自身が苦い敗北を味わっている。敵として見れば、浅井が力を失うことは六角にとって喜ぶべきことのはずだった。
それでも、一つの家がなくなるという事実を、以前のように地図の色が塗り替わるだけのこととしては見られなくなっていた。
夕方近くになると、朽木勢が浅井を大きく押し込んだという報せが届いた。浅井方では陣を離れる者がさらに増え、久政も木之本に留まることは出来なくなったらしい。ただし、その行方はまだ確認されておらず、小谷城についても確かな情報は届いていない。父上は北からの道を見張らせたまま、その日の評定を終えた。
自室へ戻る途中、屋根のある渡り廊下で義定とすれ違った。向こうは馬場から戻るところだったらしく、供の若い者の一人が濡れた弓を布で拭っている。俺が朝から何度も評定へ呼ばれていることは耳に入っているのだろう。義定は足を止め、「兄上、北はどうなりました」と聞いた。
「朽木が押している。浅井はかなり崩れたらしい」
それだけ答えると、義定の目が僅かに大きくなった。細かな事情を説明する前に、「なら、もう勝ったようなものでは」と言い掛けたが、俺が首を振ると口を閉じた。
「久政がまだ見つかっていない。小谷もどうなったか分からん。終わったと決めるのは早い」
義定はしばらく俺の顔を見てから、「そういうものですか」と少し不満そうに返した。敵を押し崩したのなら勝ちではないか、という感覚なのだろう。武芸を好む義定らしいとも思ったが、わざわざ説教をする気にはならなかった。俺だって少し前まで、戦に勝つこととその後の始末を、今ほど別のものとして考えてはいなかったのだから。
「明日には分かるさ」
そう言って別れ、自室へ戻った。
部屋には朝から出したままの北近江の地図が残っていた。小姓が灯明を整え、弥太郎が届いた書付をまとめて机の端へ寄せている。俺は座るなり木之本から小谷へ指を滑らせた。久政がどこにいるのか分からない以上、地図の上で追っても答えは出ない。それでも目が離れなかった。
弥太郎がこちらの様子を見て、「それほど気になるのでしたら、御屋形様のところへもう一度お尋ねになっては」と言ったが、俺は首を振った。父上のところへ行けば情報が増えるわけではない。使者が着かなければ、父上だって知らないものは知らない。待つしかない時に部屋を移しても仕方がなかった。
「待つというのは、面倒だな」
「若様が兵を率いておられれば、何か命じておられたでしょうな」
弥太郎の言葉に、思わず苦笑した。確かにそうなのだろう。自分がその場にいるなら、良いか悪いかはともかく、命令することだけは出来る。だが今の俺には、木之本の雨を止めることも、朽木の兵を一歩前へ進ませることも、小谷の門を開かせることも出来ない。出来るのは、遠くから届く報せを受け取り、それが何を意味するのか考えることだけだった。
小夜のことも頭に浮かんだ。今どこにいるのか、細かなことまでは聞いていない。おそらく朽木の側も戦を前に危険の少ない場所へ置いているだろうし、奈津も傍にいるはずだ。理屈ではそう考えられる。けれど、夫が兵を率いて浅井と戦い、その結果を自分では確かめようもないまま待っている小夜が、今どんな顔をしているのかは分からなかった。
一月ほど前、高台から見送った輿の列が頭に浮かんだ。あの時は、小夜が自分で選んだ道なら、それを見届けようと思った。選ばせた以上、その先までこちらの都合で抱え込むべきではない。その考えは今も変わっていない。ただ、見届けるということは、何も心配しなくなることではなかった。手を出さずに待つことも、相手の選んだ道を認めるうちに含まれるのだとすれば、思っていたよりずっと落ち着かない。
夜が深くなっても、小谷からの知らせは届かなかった。雨は昼より弱くなっていたが、軒から落ちる雫の音だけは途切れず続いている。俺は机の上の地図をようやく畳ませ、いつもより遅く床へ入った。目を閉じても、最後に見た小谷の印だけがしばらく頭から離れなかった。
翌朝、雨はまだ残っていたものの、空の色は前日までとは少し違っていた。厚く垂れ込めていた雲の切れ間がところどころ明るみ、庭を叩く雨音にも長い間が混じっている。夜のうちに水を含んだ木々からは、風が吹くたびに大粒の雫が落ち、雨が弱まった後も濡れた土と青葉の匂いが部屋の中まで流れ込んできた。
昨夜遅くまで起きていたせいで多少身体の重さは残っていたが、朝餉を済ませる頃には頭はすっかり冴えていた。木之本で浅井勢が崩れたところまでは分かっている。残るのは浅井久政の行方と小谷城だった。昨夜のうちに新しい報せが来なかった以上、今朝になれば何か届くだろう。そう考えていたところへ、案の定、父上から使いが来た。
廊下を進む間にも、城内の様子が昨日までとは僅かに違うことが分かった。俺と同じ方角へ急ぐ者が何人かおり、すれ違った家臣の顔にも、何かを聞いた後らしい張りがある。まだ誰も声高に話してはいないが、北から大きな知らせが入ったのだろう。俺は足を速めた。
評定の間にはすでに何人もの重臣が集まっていた。ここ数日、何度も開かれてきた北近江の地図が今日も中央に広げられている。ただし、皆の目が向いているのは木之本ではなかった。昨日まで戦場を示す駒が集まっていた場所から少し南へ下がり、小谷の印の周りへ視線が集まっている。
父上の前には、届いたばかりらしい文が置かれていた。俺が席に着くと、父上はそれを持ち上げることもせず、落ち着いた声で言った。
「小谷で動きがあった。井口越前守が城を押さえたそうじゃ。久政をはじめ、浅井の一族も捕らえられた」
一瞬、言葉の意味を頭の中で並べ直した。
木之本で負けた。久政が退いた。そこまでは昨日のうちに分かっている。しかし、その久政が戻るはずの小谷城まで、すでに久政のものではなくなっていた。城を押さえたのが敵ではなく、浅井方にいたはずの井口越前守だということも大きい。戦場だけで敗れたのではない。浅井家を支えていた内側から、帰る場所そのものを奪われたことになる。
「久政は、生きて捕らえられたのですか」
「そう聞いておる。一族も同じじゃ」
父上の返事を聞き、俺は地図へ目を落とした。昨日までなら、小谷の印を見れば、ここへ久政が逃げ込んだ場合にどうなるかを考えた。城にどれほど兵が残っているのか、籠城すれば朽木はどの道を押さえるのか、浅井方の国人たちは再び集まるのか。だが、そのどれも考える必要がなくなった。戦場から退いた久政には戻る城がなく、一族まで押さえられている。今から誰かが旗を掲げ直そうとしても、浅井家という中心そのものが捕らえられてしまっている。
口から出たのは、自分でも驚くほど単純な言葉だった。
「……終わったのですか」
「ああ」
父上は小谷の印から目を離さなかった。
「浅井は終わりじゃ」
それだけだった。声を強めるわけでもなく、野良田で自分を破った相手が滅びたことを喜ぶ様子もない。けれど、その短い言葉が部屋の中へ落ちると、誰もすぐには口を開かなかった。
俺も同じだった。
浅井という家は、昨日まで確かに近江に存在していた。北近江に領地を持ち、多くの国人を従え、六角に背き、父上を野良田で破ったことさえある。観音寺で育った俺にとっても、浅井という名は幼い頃から何度も耳にしてきた。北にいる敵、六角に従わぬ者、いずれ何らかの形で決着を付けなければならない相手。そういう存在だった。
それが数日のうちに崩れた。
木之本で正面から戦っていた四千の兵は、月ヶ瀬と阿閉が離れることで半数に減った。そこへ弥五郎が攻め掛かり、残った兵が崩れ、逃げ帰る先であるはずの小谷では井口越前守が城を押さえていた。どれか一つだけなら、浅井にも立て直す余地があったかもしれない。だが、それらがほとんど間を置かず重なったことで、家そのものを支える柱が一度に失われた。
前世の俺は、この結末を知っていた。
物語を読んだ時には、浅井がこの頃に滅びることを一つの出来事として受け止め、その後の朽木の伸長へすぐ意識を移していたはずだ。誰がどこで離れ、誰が城を押さえ、どんな順序で浅井が追い詰められたのか。それを面白い展開として読んだ記憶はある。それでも、今こうして一日ごとに使者を待ち、地図に置かれた駒が減っていくのを見た後では、同じ出来事には思えなかった。
地図の上には、浅井の領地がまだ残っている。村も田畑も道も川も昨日と同じ場所にあり、小谷の山が消えたわけでもない。今朝もそこで百姓は目を覚まし、雨が弱まれば田の様子を見に出る者もいるだろう。浅井の旗が降りたからといって、人の暮らしまで同時に消えるわけではない。
それなのに、その土地を束ねていた名だけは今日を境に変わる。
昨夜、小谷の地図を見ながら考えたことが、今は目の前の現実になっていた。
視線を上げると、父上は周囲の者へ幾つか確認を取っていた。井口越前守がいつから動いていたのか、浅井一族の身柄が今どこに置かれているのか、月ヶ瀬と阿閉がその後どこへ向かったのか。届いた報せだけでは分からない点も多く、答える側も「まだ」と繰り返している。
その中で、俺の目は地図に置かれた朽木の駒へ移った。
浅井を滅ぼしたのは、弥五郎だった。
もちろん、弥五郎一人がすべてを成したわけではない。月ヶ瀬も阿閉も自分たちの考えで浅井から離れ、井口越前守も小谷で自ら動いた。それぞれに事情があり、それぞれの判断が重なった結果だ。それでも、浅井と正面から向かい合い、その崩れる瞬間を逃さず兵を進めた中心に弥五郎がいたことは変わらない。
観音寺で初めて会った頃の姿が、不意に頭へ浮かんだ。
あの頃は、まだ竹若丸だった。父を失って間もない幼い当主でありながら、妙に落ち着いたところのある少年だった。俺の中では、それ以上に「原作の主人公」という意識が強かった。これから先に何をするのか、どこまで勢力を伸ばすのかを知っている相手。だからこそ、その言動のどこかに、自分の知っている主人公らしさを探していたようにも思う。
だが今、北近江で兵三千を率い、浅井四千と対峙し、相手が崩れるまで無理に動かず、二家が離れた瞬間に攻勢へ転じたのは、俺の記憶の中の誰かではない。俺が実際に何度も言葉を交わした朽木弥五郎基綱だ。
そう考えると、これまで自分の中に残っていた二つの姿が、ようやく一つに重なった。
同時に、以前とは同じように見られないこともはっきりした。高島の一国人。年の近い友人。小夜の夫。そのどれも間違いではないが、それだけでは足りない。浅井という家を滅ぼし、北近江の行く末を左右するだけの兵と力を持つ当主として見なければ、今後は判断を誤る。
俺が朽木の駒を見つめていると、父上がこちらを向いた。
「右衛門督」
「はっ」
「戦は終わった。次を見るぞ」
父上はそう言うと、小谷から北へ、さらに浅井の領地を囲むように指を滑らせた。
その動きを見た瞬間、意識が浅井の滅亡から引き戻された。
父上の言う通りだった。久政が捕らえられた以上、戦そのものはほぼ終わった。だからといって、六角が何も考えずに済むわけではない。むしろ、ここから先の方が六角にとっては直接関わる問題が増える。
浅井が支配していた土地は残っている。そこには浅井に従っていた国人たちがおり、村があり、市があり、寺社がある。それらを弥五郎がすべて押さえるのか、それとも一部を旧来の国人たちへ任せるのか。月ヶ瀬や阿閉のように途中で浅井を離れた者をどう扱うのか、井口越前守が小谷を押さえた功をどう見るのか。それだけでも北近江の形は大きく変わる。
そして何より、朽木そのものが変わる。
高島を基盤とする国人だった家が、浅井の旧領へまで力を伸ばせば、その勢力は昨日までとは比べものにならない。婚姻を結んでいることは六角にとって強みになるだろう。しかし、婚姻を結んだからといって、相手がいつまでもこちらの意向へ従う保証などない。むしろ力を持てば持つほど、自分の判断で動ける範囲は広がっていく。
数日前の俺なら、朽木が勝てば六角にとって良い、とそこで思考を止めていたかもしれない。だが今は、浅井の駒が消えた後の空白へ、朽木の駒がそのまま広がっていく様子が想像出来る。
「浅井の旧臣がどう動くか、確かめる必要があります」
俺がそう言うと、父上は頷いた。
「それだけではない。竹――」
父上は一度言葉を切り、僅かに口元を歪めた。
「弥五郎がどこまで取るつもりかもな」
以前からの癖で竹若丸と呼び掛けそうになったのだろう。元服してからそれほど年月が経っているわけではない。俺も、過去を思い返せば今でも竹若丸という名の方が先に浮かぶことがある。
「弥五郎殿は、北近江をそのまま手に入れるでしょうか」
「さあな」
父上は浅井領を指先で軽く叩いた。
「取れるものをすべて取る者もおれば、取った後に抱え切れず捨てる者もおる。弥五郎がどちらかは、これから見ればよい」
そこで父上は浅井旧領の国人たちについて調べ直すよう命じ、北から届く報告も、戦況ではなく今後は人と土地の動きを中心に拾わせることにした。誰が朽木へ従うのか。誰が様子を見ているのか。捕らえられた浅井一族がどう扱われるのか。木之本の兵の動きだけを追っていた昨日までとは、集める情報そのものが変わっていく。
俺も手元の地図を見ながら、小谷から塩津浜、高島へと目を走らせた。
戦が始まる前と同じ線が引かれているのに、もう同じ地図には見えない。
評定が終わり、部屋を出る頃には、朝から残っていた雨もほとんど止んでいた。軒先から時折雫が落ちる程度で、雲の隙間から差した薄い光が濡れた庭を照らしている。数日ぶりに遠くの山の輪郭も見え始めていた。
渡り廊下を歩きながら、俺は足を止めて外を見た。
北の山々まで見えるわけではない。ここからでは木之本も小谷も遥か遠く、当然、小夜のいる朽木の様子など分からない。それでも、昨日まで降り続いていた雨が北でも弱まっているのなら、小夜も今頃は何か知らせを受けているかもしれないと思った。
弥五郎が無事だったことには、素直に安堵した。小夜が夫を失わずに済んだことも同じだ。けれど、その安堵の横には、以前にはなかった感覚が残っている。
弥五郎は勝った。
それも、ただ一度の戦に勝ったのではない。近江の形を変えた。
その事実を胸の内で繰り返しかけて、やめた。今朝、父上が言った言葉の方がずっと簡潔だった。
戦は終わった。次を見る。
俺は再び歩き出した。
自室へ戻れば、浅井の旧臣について集めている書付を見直そう。阿閉、月ヶ瀬、井口。その三家が今回どう動いたのかだけでも、これからの北近江を見る手掛かりになる。弥五郎が彼らをどう扱うのかを見れば、あいつが何を考えて国を治めようとしているのかも、少しは分かるはずだ。
廊下の端では、小姓が雨で濡れた板を布で拭っていた。俺が近付くと脇へ寄って頭を下げる。その横を通り過ぎたところで、雲の切れ間から差した光が廊下の先へ細長く伸びた。
浅井の名が消えた朝だった。
けれど俺の机の上には、これから読み直すべき名が、昨日までよりずっと増えていた。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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このまま
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5000文字前後
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15000文字前後
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1~5000文字