淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第五十話「北近江の決着」

 永禄四年六月中旬。

 

 五月の終わり頃から空模様は安定せず、観音寺でも朝から細かな雨が降っていた。軒を叩く音は一定ではなく、強まったかと思えばふっと遠のき、しばらくするとまた雨脚が戻ってくる。城から見下ろす田畑には薄い雨霞が掛かり、その向こうに連なる山々も白く煙っていた。普段なら見分けられる尾根の重なりさえ曖昧になり、時折吹き込む風には濡れた土と青葉の匂いが混じっている。

 

 小夜が朽木へ嫁いでから、まだ一月ほどしか経っていない。婚儀を見届けて戻った弥太郎から聞いた通り、弥五郎は祝言を終えると間を置かず塩津浜城へ向かい、それからほどなくして北近江から届く報せが目に見えて増えた。浅井が兵を集め、朽木も伊香郡へ兵を進めていること。両軍が木之本の辺りで向かい合う形になりつつあること。届く話は断片的ながら、浅井と朽木の間で再び大きな戦が起ころうとしているのは確かだった。

 

 俺も何度か北近江の地図を机へ広げた。小谷、木之本、塩津浜、余呉から北へ延びる街道。紙に記された地名を指で追うたび、前世で読んだ物語の記憶が勝手に重なろうとする。それを意識して引き離すことが、いつの頃からか癖になっていた。この頃に浅井と朽木の間で大きな決着が付くことは覚えている。だが、記憶の中に結末があるからといって、今この世界で進んでいる出来事まで初めから決まっているものとして扱うわけにはいかない。

 

 すでに俺が知る物語と、この世界で起きていることは完全には重ならなくなっている。それ以上に大きいのは、かつて文字の上でしか知らなかった者たちに、今では顔と声があることだった。弥五郎とは何度も向かい合って話し、小夜がその男との縁を受けて朽木へ嫁いでいく姿も見送った。浅井についても、六角の敵として幾度となく評定で名を聞き、実際に野良田では兵を交えた。前世なら「ここで浅井が滅ぶ」と数行を読み進めれば済んだ場面が、今はその一行の向こうにいる人間まで想像できてしまう。知識として知っている戦と、実際に人が死ぬ戦では、受け止める重さがまるで違った。

 

 その日の朝、父上から呼び出しが来た。評定の間へ入ると、すでに重臣たちが座を占め、部屋の中央には北近江を大きく描いた地図が広げられている。木之本、小谷、塩津浜の周辺には小さな駒が幾つも置かれ、どちらの軍勢を示しているのかは聞かずとも分かった。俺が席に着くのを見届けると、父上は手元の文を畳み、静かに口を開いた。

 

「右衛門督、北から知らせが来た。朽木と浅井が木之本で向き合った」

 

 室内の空気が僅かに引き締まった。報告によれば、弥五郎が率いる朽木勢はおよそ三千、対する浅井勢は四千ほど。朽木側は街道沿いに二千を置き、その近くの高所へ一千ほどを配しているらしい。浅井は正面へ兵を集めており、数だけなら向こうが一千ほど多い。しかも木之本でも雨が続いているという。父上は地図の脇に置かれた書付を指で押さえ、朽木が持ち込んだ鉄砲のうち四百ほどは、雨のために十分働かせられない状態だと続けた。

 

 兵数で劣り、その差を補うはずの鉄砲まで雨に封じられている。伝えられた条件だけを見れば、朽木が不利なのは明らかだった。俺は木之本の辺りへ目を落とし、街道と山の位置を頭の中で組み直した。高所に置いた一千をどう使うつもりなのか。街道を押さえる二千には、どこまで敵を引き受けさせるのか。地図には道と村の名こそあるものの、斜面の具合も、雨で地面がどれほど緩んでいるのかも分からない。そこへ前世の記憶を都合良く当てはめれば、それらしい説明はいくらでも作れるだろうが、それは今の戦場を見たことにはならなかった。

 

「右衛門督。どう見る」

 

 父上に問われ、俺はすぐには答えなかった。朽木が不利だという見立て自体は変わらない。だが、弥五郎がその程度のことも分からずに三千を木之本へ出したとも思えなかった。

 

「朽木が不利に見えることは間違いございませぬ。ただ、弥五郎殿が兵の差も、鉄砲が雨に弱いことも承知せず、あの場所へ出たとは思えませぬ」

 

 もっとも、雨がいつから、どれほど降り続くかまで見越していたとは考えにくい。そう付け加えると、父上は返事をせず地図へ視線を戻した。

 

 俺の脳裏には、正月に弥五郎と交わした会話が浮かんでいた。朽木では戦が起きた時だけ百姓に鍬を置かせて槍を持たせるのではなく、普段から戦うことを役目とする者を抱えている。あの時は、それをどう養うのか、米と銭をどこから得るのかという方へばかり意識が向いていた。しかし今、雨に煙る木之本の地図を見ていると、別の意味が見えてくる。鉄砲が使えなくなっても、槍を持ち、陣を保ち、命令に従って動ける者がどれほどいるか。弥五郎が平時から米と銭を費やして抱えてきた兵の価値は、むしろこうした時にこそ現れるのかもしれない。

 

 ただし、それだけで四千の浅井勢を破れると決めつけるつもりもなかった。俺は弥五郎の兵を自分で動かしたこともなければ、木之本の地形を実際に確かめたこともない。普段から鍛えている兵だからといって人数の差が消えるわけではなく、雨で鉄砲が使いにくくなった不利も残る。今のところ言えるのは、報告にある条件ほど簡単に朽木が崩れるとは限らない、というところまでだった。

 

 評定では、六角から援軍を出すべきかという話も出た。小夜は父上の養女として朽木へ嫁いでいる。これまで以上に近しい家となった朽木が浅井と戦う以上、兵を送る理由そのものは作れる。だが父上はすぐには頷かず、浅井と朽木の駒の間へ指を置いた。

 

「向こうから助けを求められておらぬ。ここで六角が兵を入れれば、朽木と浅井の戦へ後から割り込む形になる。勝っても負けても、その後が面倒じゃ」

 

 父上の言葉を受け、座にいた者たちも慎重に意見を交わし始めた。弥五郎が自分の兵で浅井を破れば、北近江を押さえたのは朽木になる。そこへ六角が途中から兵を入れ、勝利の一端を担ったとなれば、浅井の旧領をどう扱うかという話にまで六角が口を出す理由が生まれる。こちらにとって都合のよい面はあるが、弥五郎からすれば、自分で始めた戦へ六角が後から手を差し込んだとも受け取れるだろう。反対に浅井が勝った場合、六角軍がその場にいれば、浅井との戦は朽木を破ったところでは終わらず、そのままこちらへ続くことになる。婚姻によって縁を結んだからといって、相手が戦うたびに兵を出すべきとは限らなかった。

 

 周囲の意見を聞き終えた父上は、今度は俺へ問いを向けた。

 

「右衛門督。浅井が負けることは、六角にとって本当に良いことか」

 

 問われて初めて、俺は地図の上で浅井の駒が消えた後を考えた。浅井は長く六角に逆らってきた。単純に敵が一つ減ると考えれば、悪い話ではない。だが浅井の家が消えても土地は消えず、そこに住む国人も百姓も、城も田畑もそのまま残る。その土地へ別の誰かが入れば、六角の北側には今までとは違う勢力が立つことになる。

 

「浅井が消えるだけなら、六角にとって悪い話ではございませぬ。ただ、その後を誰が取るかで話は変わるでしょう。弥五郎殿が勝てば、その分だけ朽木は大きくなります。今までのように、高島の国人の一つとしてだけ見ることはできなくなります」

 

 反対に浅井が勝てば、朽木は兵と領地を失い、浅井が北近江で再び勢いを取り戻すことになる。どちらへ転んでも、戦が始まる前の形には戻らないだろう。そう続けると、父上の眉が僅かに動いた。

 

「ならば、どちらが勝つのが六角にとって良い」

 

 今度は簡単に答えられなかった。六角だけの都合を言えば、浅井も朽木も手に負えぬほど大きくならず、互いに力を削り合ってくれるのが一番扱いやすいのかもしれない。だが人の戦を盤上の駒のように都合良く止めることはできないし、それを狙って余計な手を出せば、結局は六角自身も争いへ引きずり込まれる。

 

「今の浅井がそのまま残るよりは、弥五郎殿が勝つ方がよいと思いまする。婚姻も結び、話の通じる相手でもあります。ただし、勝った後まで今と同じ相手だと思わぬ方がよいでしょう」

 

 父上はそこで初めて口元を僅かに緩めた。

 

「それでよい。勝つ前から先の形を決めつける必要はない。だが、戦が終われば地図も変わる。そのつもりで見ておけ」

 

 それ以上、援軍の話は続かなかった。六角軍を木之本へ向けることは見送られたが、北への備えを解くわけでもない。国境近くを見張る者には、これまで以上に細かく動きを拾わせることになり、評定が終わる頃には使者へ渡す指図の文まで用意されていた。部屋を出た時にも雨は止んでおらず、廊下の先に見える庭石は濡れて黒く光っていた。

 

 *

 

 午後になって自室へ戻っても、俺は北近江の地図を畳まなかった。軒先から落ちる雨粒の間隔は揃わず、時折吹き込む湿った風が机の端に置いた紙を僅かに揺らす。弥太郎は少し後ろに控え、朝の評定について自分から口を挟むことはなかったが、俺が何度も木之本から小谷へ視線を往復させていることには気付いていたらしい。湯を替えに来た小姓が下がったところで、ようやく声を掛けてきた。

 

「若様。朽木が気になりますか」

 

「小夜もおるからな」

 

 そう答えたものの、それだけではないことは自分でも分かっていた。弥五郎がどのように戦うのかを見たいという気持ちがある。前世で知っていた物語の主人公が、今この瞬間にも北で三千の兵を率いている。以前なら、それをどこか遠い出来事として眺められたのかもしれない。だが今では、弥五郎がどういう声で笑い、どのような時に言葉を選び、当主として何を考える男なのかを少しずつ知っている。小夜を任せた相手でもある。記憶の中に結末が残っているからといって、安心などできなかった。

 

 弥五郎が負ければ、小夜の置かれる立場も変わる。朽木が大きく傷付けば、婚姻を通じて結ばれた六角にも少なからず影響が出る。それでも俺は木之本へ兵を送ることも、弥五郎へ何かを命じることもできない。地図へ手を伸ばし、木之本の脇へ置いた小さな石を指先で動かしかけて止めた。紙の上なら好きに動かせる。だが、その向こうにいる兵は俺の思う通りに動いてくれるわけではない。

 

 夕刻に近付いた頃、廊下の向こうから普段より速い足音が聞こえた。取り次ぎを経て入ってきた使者は、雨に濡れた笠を外に預けたのだろう、肩口だけがまだ僅かに湿っていた。北から届いた続報によれば、木之本では朝から雨が続き、朽木の鉄砲隊はやはり十分には働けていない。それでも両軍の陣は大きく崩れず、街道周辺で睨み合いが続いているという。

 

 浅井四千、朽木三千。朽木は鉄砲の多くを雨に封じられている。それなのに浅井は押し切れていない。その一点が妙に引っ掛かった。

 

 弥五郎が守ることに長けているだけなら、それでも説明は付く。だが雨の中で向かい合ったまま日を重ねれば、待つことそのものが負担になる。田植えを終えた頃とはいえ、浅井の四千が全て一年を通して戦だけを仕事とする者とは限らない。村から人を集めているなら、兵を置き続けるほど田畑から働き手を奪うことになるし、四千を食わせる米も要る。それに対して弥五郎が普段から抱えている兵は、農の仕事へ戻すために軍を解く必要がない。戦場へ留め続けることに伴う負担の性質が、浅井とは違っているはずだった。

 

 正月に聞いた話が、ここでようやく別の意味を持った。常に使える兵を抱える利点は、戦が起きた時に素早く集められることだけではない。戦が長引いた場合にも、田植えや刈り入れのために兵を帰さずに済む。もちろん戦場に置く限り米は食うし、疲れもすれば病にもなる。費用が掛からないわけではないが、村の農事へ与える影響は、百姓を多く動員した軍とは異なるだろう。そう考えると、雨で決着が延びることは朽木にとって不利なだけとは限らなかった。

 

 俺は木之本の文字へ視線を戻した。弥五郎は雨が止むのを待っているのだろうか。それとも、浅井が何か動きを見せるのを待っているのか。まだ何も断定できない。ただ、兵数で劣り、得意とする鉄砲まで使えない状況で、何の手もなく立ち止まっているようには思えなかった。

 

「続報が来たら、夜でも起こせ」

 

 使者へそう命じて下がらせると、弥太郎が僅かにこちらを見た。俺は何も説明せず、地図の上に置いた浅井と朽木の駒をそのままにしておいた。その夜、雨音は遅くまで続いたが、木之本から新しい知らせが届くことはなかった。

 

 *

 

 翌朝になっても空は低く、夜半にいくらか弱まっていた雨は、明け方から再び庭を白く煙らせていた。軒下には一晩で落ちた雫が細い筋を作り、庭の土には浅い水溜まりが幾つもできている。朝餉を終えたところで父上から呼び出しがあり、昨夜は大きな知らせがなかったことを思えば、夜が明けてから何か動いたのだろうと見当は付いた。

 

 昨日と同じ評定の間へ入ると、広げられた地図そのものは変わっていなかったが、木之本の周りに置かれた駒の位置が違っていた。浅井を示していた駒のうち二つが本隊から離れ、少し距離を置いて並べられている。昨日までは四千という一つの軍勢に見えていた浅井方が、地図の上でも二つに割れていた。

 

 俺が席に着くと、父上は余計な前置きをせずに告げた。

 

「月ヶ瀬若狭守と阿閉淡路守が浅井の陣を離れた」

 

 思わず地図へ身を寄せた。二家の兵を合わせれば、およそ二千。浅井久政が率いていた四千の半分が、一夜のうちに戦列から消えたことになる。朽木へ寝返ったわけではなく、今のところは兵を引いただけらしいが、それでも意味は大きかった。

 

 昨日から胸の内に残っていた引っ掛かりが、ようやく形を持った気がした。浅井は兵数で勝り、朽木は鉄砲まで雨に封じられていた。それでも浅井が前へ出なかったのは、単に朽木の守りが固かったからではないのかもしれない。久政の周囲には、最初から同じ方向を向いていない者がいた。その亀裂を弥五郎がどこまで掴んでいたのかは分からない。月ヶ瀬と阿閉が必ず離れると読んでいたのか、それとも浅井家中の不和を承知した上で、動きが出るまで無理をしなかっただけなのか。いずれにせよ、昨日の睨み合いは雨に足止めされていただけの時間ではなかったように見える。

 

「弥五郎殿は、これを待っていたのでしょうか」

 

 俺がそう口にすると、父上はすぐには答えず、浅井の本隊から離れた二つの駒をしばらく眺めた。それから鼻で短く息を吐き、僅かに口元を歪める。

 

「そこまで読んでおったなら、あの小僧は随分と嫌な戦をする」

 

 言葉ほど嫌そうには聞こえなかった。むしろ敵方の動きを利用した戦の運びを、面白がっているようにも見える。ただ父上は、それ以上弥五郎の考えを決めつけようとはしなかった。

 

 俺も同じだった。後から結果を見れば、初めから全て分かっていたかのように筋道を作ることはできる。だが現実の戦場で、敵方の二家が望んだ通り離れてくれる保証などない。もし弥五郎が浅井家中の亀裂を利用するつもりだったとしても、離脱が起きなければ策は成り立たない。昨日までの弥五郎は三千の兵を雨の中に置きながら、いつ起きるかも分からぬ相手の変化を待っていたことになる。

 

 自分なら、その状況でどこまで動かずにいられるだろう。兵数で負け、鉄砲も使えず、しかも待つ理由を全ての兵へ説明できるわけでもない。日が経てば兵糧は減り、家臣の中には攻めるべきだと考える者も出るはずだ。俺は観音寺で地図を見ているだけで落ち着かなかったが、弥五郎はその場で兵を率い、状況が変わるまで軍を保っていた。離脱が起きると知っていたかどうかはともかく、その間に陣を崩さなかったこと自体、簡単な話ではなかった。

 

 そして今は、昨日まで浅井四千に対して朽木三千だったものが、戦場に残った兵だけを見れば逆転している。しかも浅井側では、つい昨日まで隣に陣を敷いていた者たちが半数近く姿を消した。兵が二千減ったという数字以上に、残された側が受ける衝撃は大きいはずだった。隣の陣が空になっているのを見れば、理由を知らぬ足軽でも何か起きたとは察する。自分たちも見捨てられるのではないか。次に離れるのはどの家か。そうした疑いは、一度生まれれば声を掛けただけで消えるものではない。

 

 その時、廊下側で控えていた者が新たな文を持って入り、父上の前へ差し出した。父上は目を通すと、口元を僅かに歪めた。

 

「右衛門督。もう動いたぞ」

 

 月ヶ瀬と阿閉の離脱を確認した直後、朽木勢が浅井へ攻勢を掛けたという。木之本では相変わらず雨が続いており、鉄砲が十分に使えぬことにも変わりはない。それでも弥五郎は、今度は自分から兵を前へ出した。

 

 俺は昨日と同じ地図を見ながら、そこに置かれた駒の意味がまるで違って見えることに気付いた。雨そのものは変わっていない。道はぬかるみ、火縄は湿り、鉄砲は扱いにくいままだ。それでも浅井から二千が消えたことで、戦場の条件は一変していた。数で上回っていた浅井にとって、鉄砲を封じる雨は朽木の長所を削るものだった。だが兵数が逆転した今、双方が槍や弓を中心に戦うことになれば、普段から鍛えられている朽木兵の方が力を出しやすい可能性もある。

 

 正月に聞いた話を、頭の中だけで整理していた時とは違う。平時から兵を抱えるというのは、戦が起きた時に素早く動けるというだけではない。雨が降り、鉄砲が使えず、予定していた戦い方ができなくなった時にも、陣を保ち、命令を受けて動ける者を手元に置いておくことなのだろう。もちろん朽木の全ての兵が同じように鍛えられているとは限らないし、今回の攻勢が成功するとも決まっていない。それでも六角が鉄砲を増やせば朽木と同じ戦いができるというほど、軍の力は単純ではないのだと思った。

 

 そこまで考えて、俺は地図から一度目を離した。六角の兵を今後どうするかは、いずれ向き合わなければならない。だが目の前の戦を、自分の学びの材料として眺め過ぎるのも違う。木之本で槍を持っている者たちは、俺に何かを教えるために戦っているわけではない。弥五郎も浅井久政も、自分の家を残すために兵を動かしている。その結果を見届けてから、必要なら六角のことを考えればよかった。

 

 昼を過ぎる頃には、さらに北からの使者が入った。朽木の攻勢を受けた浅井勢は後退を始め、まとまった反撃ができずにいるという。昨日まで四千を数えた兵が二千ほどに減り、その直後に三千の朽木勢から押し込まれたのだから、陣が乱れるのも無理はない。戦場から離れる者も出始めているらしく、報告を聞く家臣たちの間にも、朝までとは違う空気が流れていた。

 

 誰も勝ったとは言わなかった。それでも、地図の浅井方の駒へ向けられる視線が少しずつ変わっているのは分かった。朝にはまだ「二家が離れただけ」だったものが、昼には浅井勢そのものの崩れへ繋がり始めている。父上だけは表情を変えず、報告を終えた使者へ短く尋ねた。

 

「久政の首は」

 

「いまだ確認できておりませぬ」

 

 父上はそれ以上何も言わず、手元の文へ視線を落とした。

 

 その問いで、俺の中にも残っていた浮ついた感覚が消えた。浅井軍を木之本で破ったとしても、浅井久政が生きて小谷へ戻れば、それで浅井家がなくなるわけではない。城へ籠もり、国人へ再び声を掛け、時を置いて兵を集め直すこともできる。今日の戦に勝つことと、浅井という家を終わらせることは同じではなかった。

 

 地図の小谷へ目を移した。山の上にある城を示す印は、紙の上では指先ほどの大きさしかない。そこへ久政が戻れば、次は城を巡る戦になるのか。どれだけ兵が残っているのか、城内の者たちが久政へどこまで従うのか、こちらには何も分からない。弥五郎が求めているものも、木之本で一度勝って満足する程度ではないだろう。浅井が残れば、北近江はまた同じ争いへ戻る。ここまで兵を出した以上、再び立ち上がれぬところまで押さえようと考えていても不思議ではなかった。

 

 そう考えると、地図の上にある「浅井」という字が妙に重く見えた。前世で歴史を読む時、大名家の滅亡は驚くほど短く書かれていることがある。誰々が滅び、誰々が領国を得た。その数文字の間にどれだけの人間がいたのかを、当時の俺はほとんど考えていなかった。だが今、小谷の城内には久政の妻子や親類がおり、浅井を頼りに生きてきた家臣たちがいる。城下にも村にも、浅井の名の下で暮らしてきた者がいる。戦場で兵を破れば済む話ではなく、家が消える時には、その名を頼りとしていた者たちの行く末まで変わる。

 

 父上が一度だけこちらを見た。俺の視線が小谷に止まっていることへ気付いたのかもしれないが、何も言わなかった。俺も口を開かず、そのまま使者の報告が続くのを聞いた。今ここで浅井の行く末を憐れんだところで、木之本の戦が止まるわけではない。六角もこれまで浅井と幾度も争ってきた。野良田では父上の本陣へ浅井の別働隊が迫り、一歩間違えればこちらが敗れていたかもしれない。敵として見れば、浅井が力を失うことは六角にとって喜ぶべきことのはずだった。それでも家が一つなくなるという事実を、以前のように地図の色が塗り替わるだけの出来事として受け止めることは、もうできなくなっていた。

 

 夕方近くになると、朽木勢が浅井を大きく押し込んだという報せが届いた。浅井方では陣を離れる者がさらに増え、久政も木之本に留まることはできなくなったらしい。ただし、その行方はまだ確認されておらず、小谷城についても確かな情報は届いていない。父上は北からの道を見張らせたまま、その日の評定を終えた。

 

 自室へ戻る途中、屋根のある渡り廊下で次郎とすれ違った。向こうは馬場から戻るところだったらしく、供の若い者の一人が濡れた弓を布で拭っている。俺が朝から幾度も評定へ呼ばれていることは耳に入っていたのだろう。次郎は足を止め、少し声を落として尋ねてきた。

 

「兄上、北はどうなりました」

 

「朽木が押している。浅井はかなり崩れたらしい」

 

 それだけ答えると、次郎の目が僅かに大きくなった。

 

「ならば、もう勝ったようなものでは──」

 

 言い終わる前に俺が首を振ると、次郎は口を閉じた。敵を押し崩したのなら勝ちではないか、という感覚なのだろう。武芸を好む次郎らしいとも思ったが、わざわざ説教をする気にはならなかった。俺だって少し前までは、戦に勝つことと、その後の始末を今ほど別のものとして考えていなかったのだから。

 

「久政がまだ見つかっていない。小谷もどうなったか分からぬ。戦場で押したからといって、それで全て終わるわけではない」

 

「そういうものでございますか」

 

 次郎は少し不満そうに返したが、それ以上食い下がることはなかった。まだ納得したわけではないのだろう。俺自身、同じ立場なら詳しい事情も知らぬまま、何故勝ったと言い切れないのかと考えたかもしれない。

 

「明日には分かるさ」

 

 そう告げて別れ、自室へ戻った。

 

 部屋には朝から出したままの北近江の地図が残っていた。小姓が灯明を整え、弥太郎が届いた書付をまとめて机の端へ寄せている。俺は腰を下ろすなり、木之本から小谷へ指を滑らせた。久政がどこにいるのか分からない以上、地図の上で追っても答えは出ない。それでも浅井が退いた後に何が起きるのかを考えずにはいられなかった。

 

 木之本で兵が崩れたとしても、小谷へ逃げ帰る道が完全に断たれたとは聞いていない。浅井方の国人たちが久政を見限ったのなら、城へ戻っても思うように兵を集められないかもしれない。反対に小谷の守りがまだ久政へ従っているのであれば、朽木は改めて城攻めをしなければならなくなる。昨日まで四千を率いていた相手が二千へ減り、その兵まで崩れたことは大きいが、浅井がどこまで戦えるのかは、結局のところ久政の行方と小谷の様子を確かめなければ分からなかった。

 

「それほど気になるのでしたら、御屋形様のところへもう一度お尋ねになっては如何です」

 

 俺の様子を見かねたらしく、弥太郎が声を掛けてきた。だが父上のところへ行ったところで情報が増えるわけではない。北からの使者が着かなければ、父上だって知らないものは知らない。今の俺にできるのは、届いている報告を確かめ、その先については次の知らせを待つことだけだった。

 

「待つというのは、面倒だな」

 

「若様が兵を率いておられれば、何か命じておられたでしょうな」

 

 弥太郎の言葉に、思わず苦笑した。確かにそうなのだろう。自分がその場にいれば、良いか悪いかはともかく、何らかの判断を下すことはできる。だが今の俺には、木之本の雨を止めることも、朽木の兵を一歩前へ進ませることも、小谷の門を開かせることもできない。遠く離れた観音寺で、今まさに進んでいる戦の報告を受け取っているだけだ。しかも使者が道を進む間にも戦況は変わるのだから、ここへ届いた時点では、すでに次の出来事が起きている可能性さえある。

 

 佐和山へ出陣した時にも、予定した日数と実際に兵が集まる日数は違っていた。雨が降れば道が悪くなり、荷駄が遅れる。その経験があるからこそ、北から届く報告についても、書かれた時と今とでは状況が違うかもしれないと思う。それでも今より早く知る方法があるわけではなかった。俺は地図の木之本へ置いていた指を離し、届いた書状へ改めて目を通した。

 

 小夜のことも頭に浮かんだ。今どこにいるのか、細かなことまでは聞いていない。おそらく朽木の側でも戦を前に危険の少ない場所へ置いているだろうし、奈津も傍にいるはずだ。少なくとも、婚儀を終えたばかりの正室をわざわざ危険へ近付けるとは思えない。だが、そう考えたところで小夜が今どんな気持ちでいるのかまでは分からなかった。夫が兵を率いて浅井と戦い、その結果を自分では確かめようもないまま待っている。観音寺にいる俺でさえこれほど落ち着かないのだから、小夜にとってはなおさらかもしれなかった。

 

 一月ほど前、高台から見送った輿の列が思い出された。あの時は、小夜が自分で選んだ道なら、それを見届けようと思った。朽木へ嫁ぐと決めたのは小夜自身であり、その先まで俺が口を出すべきではない。父上からも、余計なことをせず見送れと言われた。その考えは今も変わっていないが、だからといって何も心配しなくなるわけではなかった。小夜の決めたことを尊重するなら、今は遠くから無事を願うほかない。手を出さずに待つことも、相手の選んだ道を認めるうちに含まれるのだとすれば、思っていたよりずっと落ち着かないものだった。

 

 夜が深くなっても、小谷からの知らせは届かなかった。雨は昼より弱くなっていたが、軒から落ちる雫の音だけは途切れず続いている。灯明の火が小さく揺れ、机に広げた地図の上へ薄い影を落としていた。いつまでも眺めていても久政の居場所が分かるわけではないと自分へ言い聞かせ、俺はようやく弥太郎に地図を畳ませた。いつもより遅く床へ入ったものの、目を閉じても最後に見た小谷の印がしばらく頭から離れなかった。

 

 *

 

 翌朝、雨はまだ残っていたものの、空の色は前日までとは少し違っていた。厚く垂れ込めていた雲の切れ間がところどころ明るみ、庭を叩く雨音にも長い間が混じっている。夜のうちに水を含んだ木々からは、風が吹くたびに大粒の雫が落ち、濡れた土と青葉の匂いが部屋の中まで流れ込んできた。

 

 昨夜遅くまで起きていたせいで多少身体の重さは残っていたが、朝餉を済ませる頃には頭も冴えていた。木之本で浅井勢が崩れたところまでは分かっている。残るのは浅井久政の行方と小谷城だった。昨夜のうちに新しい報せが来なかった以上、今朝になれば何か届くだろう。そう考えていたところへ、父上から使いが来た。

 

 廊下を進む間にも、城内の様子が昨日までとは僅かに違うことが分かった。俺と同じ方角へ急ぐ者が何人かおり、すれ違った家臣の顔にも何かを聞いた後らしい緊張がある。まだ誰も声高に話してはいないが、北から大きな知らせが入ったのだろう。俺は自然と足を速めた。

 

 評定の間には、すでに重臣たちが集まっていた。ここ数日、幾度となく開かれてきた北近江の地図が今日も中央に広げられている。ただし、皆の目が向いているのは木之本ではなかった。昨日まで戦場を示す駒が集まっていた場所から少し南へ下がり、小谷の印の周りへ視線が集まっている。

 

 父上の前には、届いたばかりらしい文が置かれていた。俺が席に着くと、父上はそれを持ち上げることもせず、落ち着いた声で告げた。

 

「小谷で動きがあった。井口越前守が城を押さえたそうじゃ。久政をはじめ、浅井の一族も捕らえられた」

 

 一瞬、言葉の意味を頭の中で並べ直した。

 

 木之本で負けた。久政が退いた。そこまでは昨日のうちに分かっている。しかし、その久政が戻るはずの小谷城まで、すでに久政のものではなくなっていた。しかも城を押さえたのは朽木の兵ではない。浅井方にいたはずの井口越前守だという。戦場で敵に破られただけではなく、浅井家を支えていた内側から帰る場所そのものを奪われたことになる。

 

「久政は、生きて捕らえられたのですか」

 

「そう聞いておる。一族も同じじゃ」

 

 父上の返事を聞き、俺は地図へ目を落とした。昨夜までは小谷の印を見るたびに、久政が城へ逃げ込んだ後を考えていた。城にどれほど兵が残っているのか。籠城すれば朽木はどの道を押さえるのか。浅井方の国人たちは再び集まるのか。だが、そのどれも前提から変わってしまった。久政には戻る城がなく、一族まで捕らえられている。今から誰かが浅井の旗を掲げ直そうとしても、従う者を集める中心そのものが押さえられてしまったのだ。

 

「……終わったのですか」

 

「ああ」

 

 父上は小谷の印から目を離さなかった。

 

「浅井は終わりじゃ」

 

 それだけだった。声を強めるわけでもなく、長く争ってきた相手が滅びたことを喜ぶ様子もない。だが、その短い言葉が広間へ落ちると、誰もすぐには口を開かなかった。俺も同じだった。

 

 浅井という家は、昨日まで確かに近江に存在していた。北近江に領地を持ち、多くの国人を従え、六角に背き、野良田では父上の本陣まで脅かした。観音寺で育った俺にとっても、浅井という名は幼い頃から幾度となく耳にしてきた。北にいる敵、六角に従わぬ者、いずれ何らかの形で決着を付けなければならない相手。そういう存在だった。

 

 それが、わずか数日のうちに崩れた。

 

 木之本で正面から戦っていた四千の兵は、月ヶ瀬と阿閉が離れたことで半数へ減った。そこへ弥五郎が攻め掛かり、残った兵が崩れ、逃げ帰る先であるはずの小谷では井口越前守が城を押さえていた。どれか一つだけなら、浅井にも立て直す余地があったかもしれない。だが、それらがほとんど間を置かず重なったことで、浅井という家を支えるものが一度に失われてしまった。

 

 月ヶ瀬と阿閉が何故兵を引いたのか。井口越前守がいつから小谷を押さえるつもりで動いていたのか。そこにはそれぞれの事情があるはずだった。弥五郎が事前にどこまで知っていたのかも、今は分からない。それでも浅井が木之本で兵を失い、帰る城まで押さえられたという結果は変わらない。野良田で新九郎を失い、その後は朽木に北西の領地を削られながらも家を立て直してきた久政にとって、最後に残っていた小谷さえ失うことが何を意味するのかは、想像に難くなかった。

 

 前世の俺は、この結末を知っていた。

 

 物語を読んだ時には、浅井がこの頃に滅びることを一つの出来事として受け止め、その後の朽木の伸長へすぐ意識を移していたはずだ。誰がどこで離れ、誰が城を押さえ、どのような順序で浅井が追い詰められたのか。それを物語の展開として読んだ記憶は残っている。だが今こうして、一日ごとに使者を待ち、地図の駒が動くのを見てきた後では、同じ出来事には思えなかった。

 

 地図の上には、浅井が支配していた土地がまだ残っている。村も田畑も道も川も昨日と同じ場所にあり、小谷の山が消えたわけでもない。今朝もそこで百姓は目を覚まし、雨が弱まれば田の様子を見に出る者もいるだろう。市では商人が荷を並べ、寺では僧が日々の勤めを続けているかもしれない。浅井の旗が降りたからといって、人々の暮らしまで同時に消えるわけではなかった。

 

 しかし、その土地を束ねていた家は失われる。浅井に従っていた国人たちは新たに誰へ従うのかを考えなければならず、村々も今後どこへ年貢を納めるのかを確かめる必要が出てくる。浅井から役目を与えられていた者たちも、そのまま同じ仕事を続けられるとは限らない。地図の上では浅井の駒が消えただけでも、実際にはその下で暮らしていた者たちの立場が変わっていくのだろう。

 

 視線を上げると、父上は周囲の者へ幾つか確認を取っていた。井口越前守がいつから動いていたのか、浅井一族の身柄が今どこに置かれているのか、月ヶ瀬と阿閉がその後どこへ向かったのか。届いた報せだけでは分からない点も多く、答える側も「まだ確かめられておりませぬ」と繰り返している。父上はそれを咎めず、分からないものは引き続き調べるよう命じていた。

 

 その間に、俺の目は地図に置かれた朽木の駒へ移っていた。

 

 浅井を滅ぼしたのは、弥五郎だった。

 

 もちろん弥五郎一人が全てを成したわけではない。月ヶ瀬も阿閉も自分たちの考えで浅井から離れ、井口越前守も小谷で自ら動いた。それぞれに事情があり、その判断が重なった結果だ。それでも浅井と正面から向かい合い、相手が崩れる瞬間を逃さず兵を進めた中心に弥五郎がいたことは変わらない。

 

 観音寺で初めて会った頃の姿が、不意に頭へ浮かんだ。あの頃はまだ竹若丸だった。父を失って間もない幼い当主でありながら、妙に落ち着いたところのある少年だった。俺の中では、それ以上に「原作の主人公」という意識が強かった。これから先に何をするのか、どこまで勢力を伸ばすのかを知っている相手。だからこそ、その言動のどこかに自分が知っている主人公らしさを探していた部分もあったのだと思う。

 

 だが今、北近江で兵三千を率い、浅井四千と対峙し、相手が崩れるまで無理に動かず、二家が離れたところで攻勢へ転じたのは、俺の記憶の中にいる誰かではない。実際に何度も言葉を交わし、正月には淡海乃海を眺めながら互いの考えを話した朽木弥五郎基綱だ。小夜を正室として迎え、祝言を終えたばかりで北へ兵を進めた男でもある。

 

 そう考えると、これまで自分の中にあった二つの姿が、ようやく一つに重なった気がした。

 

 同時に、今後は以前と同じように見ていてはならないこともはっきりした。高島の一国人、年の近い友人、小夜の夫。そのどれも間違いではないが、それだけでは足りない。浅井という家を滅ぼし、北近江の行く末を左右するだけの兵と力を持つ当主として見なければ、判断を誤るだろう。

 

 俺が朽木の駒を見つめていると、父上がこちらを向いた。

 

「右衛門督」

 

「はっ」

 

「戦は終わった。次を見るぞ」

 

 父上はそう言うと、小谷から北へ、さらに浅井の領地を囲むように指を滑らせた。その動きを見た瞬間、意識が浅井の滅亡から引き戻された。

 

 父上の言う通りだった。久政が捕らえられた以上、浅井家を中心とした戦そのものはほぼ終わった。だからといって、六角が何も考えずに済むわけではない。むしろこれから北近江がどう治められるのかによって、六角に関わる問題も変わってくる。

 

 浅井が支配していた土地は残っている。そこには浅井に従っていた国人たちがおり、村があり、市があり、寺社がある。それらを弥五郎が全て直接押さえるのか、それとも一部を旧来の国人たちへ任せるのか。月ヶ瀬や阿閉のように途中で浅井を離れた者をどう扱うのか、井口越前守が小谷を押さえた功をどう見るのか。それだけでも北近江の形は大きく変わる。浅井の旧臣たちが新たな主へ従うとしても、それまで持っていた土地や権利を全て認められるとは限らないし、朽木にしても従った者をどこまで信用するのかという問題が残る。

 

 そして何より、朽木そのものが変わる。

 

 高島を基盤とする国人だった家が、浅井の旧領へまで力を伸ばせば、その勢力は昨日までとは比べものにならない。婚姻を結んでいることは六角にとって強みになるだろう。しかし婚姻を結んだからといって、相手がいつまでもこちらの意向へ従う保証などない。むしろ力を持てば持つほど、自分の判断で動ける範囲は広がっていく。これまで六角と朽木の間にあった力の差も、今後は同じままとは限らなかった。

 

 数日前までは、朽木が勝てば六角にとって良いと考えていた。その見方自体が間違っているとは思わない。浅井という長年の敵が消え、話の通じる弥五郎が北近江を押さえるのであれば、六角にとって利はある。ただ、浅井がいた場所へ朽木が入る以上、今後はその朽木をどう見るのかという別の問題が生まれる。高島から北へ伸びる朽木の領地を地図の上で思い描くと、浅井の駒が消えた後にできる空白が、思っていた以上に大きく感じられた。

 

「浅井の旧臣がどう動くか、確かめる必要がありまする」

 

 俺がそう言うと、父上は頷いた。

 

「それだけではない。竹──」

 

 父上は一度言葉を切り、僅かに口元を歪めた。

 

「弥五郎がどこまで取るつもりかもな」

 

 以前からの癖で竹若丸と呼び掛けそうになったのだろう。元服してからまだそれほど時が経っているわけではない。俺も過去を思い返せば、今でも竹若丸という名の方が先に浮かぶことがある。父上は小さく息を吐くと、改めて浅井の旧領へ目を向けた。

 

「弥五郎殿は、北近江をそのまま手に入れるでしょうか」

 

「さあな」

 

 父上は浅井領を指先で軽く叩いた。

 

「取れるものを全て取る者もおれば、取った後に抱え切れず捨てる者もおる。弥五郎がどちらかは、これから見ればよい」

 

 実際、浅井が滅びたからといって北近江の全てが直ちに朽木へ従うと決まったわけではない。旧浅井領を押さえるなら、そこに残る国人たちを従わせ、城へ守りを置き、村々から年貢を集める仕組みを整えなければならない。これまで六角も坂田郡の領地を受け取った際には、村ごとの古い取り決めや寺社との境を確かめるだけで随分手間を掛けてきた。朽木が今後さらに広い土地を治めるのであれば、戦に勝った後の仕事もそれだけ増えるはずだった。

 

 父上はそこで、浅井旧領の国人たちについて調べ直すよう命じた。北から届く報告も、今後は戦場での兵の動きだけでなく、人と土地の動きを中心に拾わせることになる。誰が朽木へ従うのか。誰が様子を見ているのか。捕らえられた浅井一族がどう扱われるのか。月ヶ瀬、阿閉、井口の三家が今後どのような立場を得るのか。昨日まで木之本の戦況を追っていた者たちも、これからは浅井が残したものの行方を確かめなければならない。

 

 俺も手元の地図を見ながら、小谷から塩津浜、高島へと目を走らせた。山も川も道も変わらず描かれている。それなのに、そこを治める家が一つ消えたことで、同じ地図には見えなくなっていた。

 

 *

 

 評定が終わり、部屋を出る頃には、朝から残っていた雨もほとんど止んでいた。軒先から時折雫が落ちる程度で、雲の隙間から差した薄い光が濡れた庭を照らしている。数日ぶりに遠くの山の輪郭も見え始め、雨に煙っていた木々の緑が幾分はっきりと目に映った。

 

 渡り廊下を歩きながら、俺は足を止めて外を眺めた。ここから木之本や小谷が見えるわけではない。北近江は遥か遠く、当然、小夜のいる朽木の様子も分からなかった。それでも、昨日まで降り続いていた雨が向こうでも弱まっているのなら、小夜も今頃は何か知らせを受けているかもしれないと思った。

 

 弥五郎が無事だったことには、素直に安堵した。小夜が嫁いで間もなく夫を失わずに済んだことも同じだ。婚儀から僅か三日で戦へ向かったと聞いた時には、せめてもう少し二人で過ごす時間があればと思ったものだったが、その戦で弥五郎は勝ち、無事に兵を率いている。ただ、その安堵とは別に、以前にはなかった感覚も残っていた。

 

 弥五郎は木之本で浅井を破り、その直後に浅井という家そのものが滅びた。野良田では六角の本陣を守り、高島の北へ進んで幾つもの城を落とし、今度は北近江の勢力関係まで変えたことになる。友人として見れば頼もしく、小夜の夫として考えれば無事に勝ってくれたことが嬉しい。だが六角の嫡男としては、それだけで済ませるわけにはいかない相手になった。

 

 今朝、父上は浅井が終わったと告げた後、すぐにその先を見るよう命じた。勝ったから喜ぶ、敵が消えたから安心するというだけでは、変わった情勢へ対応できない。浅井の旧臣たちがどう動き、朽木がどこまで土地を押さえ、そこでどのような治め方を始めるのか。その動きを確かめて初めて、六角が今後何をするべきなのかも見えてくるのだろう。

 

 俺は再び歩き出した。自室へ戻れば、浅井の旧臣について集めている書付を見直そう。月ヶ瀬、阿閉、井口。その三家が今回どのような判断をしたのかだけでも、これからの北近江を見る手掛かりになる。弥五郎が彼らをどう扱うのかを見れば、今後どのような形で国を治めようとしているのかも、少しは分かるはずだった。

 

 廊下の端では、小姓が雨で濡れた板を布で拭っていた。俺が近付くと脇へ寄って頭を下げ、その横を通り過ぎたところで、雲の切れ間から差した光が廊下の先へ細長く伸びた。朝まで雨に煙っていた観音寺城も、ようやく明るさを取り戻し始めている。雨が止めば城ではまたいつもの仕事が続き、北からも新しい書状が届くだろう。そこには、昨日まで浅井に従っていた者たちが、今後誰の下で生きることになるのかという話が記されているはずだった。

 

 浅井の名が消えた朝だった。俺はそのことを改めて思いながら自室へ向かった。木之本の戦は終わり、小谷では久政と一族が捕らえられた。だが北近江には、浅井が残した土地も人もそのまま残っている。これから彼らがどう動き、朽木がそれをどう受け止めるのかを見なければ、今回の戦が六角にとって何を意味するのかも分からない。父上の言った通り、今度はその先を考える番だった。

 

 自室の机には、昨日までの戦況を記した書付がまだ積まれている。その横へ新たな紙を置き、月ヶ瀬、阿閉、井口の名を書き出そう。浅井という一つの家が失われたことで、俺がこれから確かめなければならないことは、昨日までよりも随分増えていた。

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