浅井家が滅びたとの報せが届いた翌朝、観音寺城では北から運ばれてくる文の中身が変わり始めていた。昨日までなら、木之本でどちらが押している、浅井久政がどこへ退いたといった戦場の動きが真っ先に記されていたものが、今朝届いた書付には小谷城内の蔵や兵糧、浅井に従っていた国人の名、捕らえられた一族の人数などが並んでいる。戦が終われば次を見る、と父上が言った通り、確かめるべきことは兵の動きから、その土地に残された人と物へ移っていた。
朝餉を終える前に父上から呼び出しを受け、評定の間へ向かった。廊下では文箱を抱えた小姓や使者が慌ただしく行き交い、北から届いた報告をそれぞれの役目を持つ者のところへ運んでいる。昨日とほぼ同じ顔ぶれが揃った評定の間では、北近江の地図もまだ中央に広げられていたが、木之本に集められていた駒はすでに片付けられ、小谷の脇には一通の文が置かれていた。俺が席に着くと、父上はその文を指先で押さえ、朽木からの報告だと告げた。
小谷城は井口越前守の働きによって完全に押さえられ、浅井久政をはじめとする一族も身柄を拘束されている。弥五郎は城下や周辺の混乱を収めるため、浅井旧臣の帰趨を確かめながら、まず領内を落ち着かせることに力を注いでいるという。誰が朽木へ従い、誰がなお様子を見ているのか。戦場での勝敗が決した後も、土地を治めるためにしなければならないことは多いらしい。
そこまでは昨日の報告から予想できる範囲だった。俺も月ヶ瀬、阿閉、井口の三家がこの先どう扱われるのかを考えながら聞いていたが、父上は文を畳むと、戦後の始末について先に決めておくことがあると告げた。
「浅井の一族はこちらへ送らせる」
列席する家臣たちの間に大きな驚きはなかった。何人かが僅かに姿勢を正した程度で、父上にとってはすでに考えを固めた上での言葉らしい。俺は小谷の脇に置かれた文を見てから、父上へ視線を戻した。
「朽木に任せるのではなく、六角で引き取るのでございますか」
「ああ。浅井が誰に背いてきた家か、そなたも忘れてはおるまい」
「六角にございます」
父上は頷き、小谷から南へ指を滑らせた。朽木が今回浅井を破ったことと、浅井が長く六角の支配を拒み続けてきたことは別だという。戦場で勝った者が、敗れた家に関わる全てを決めるとは限らない。北近江で浅井に代わって土地を押さえるのは弥五郎であっても、浅井という家そのものの始末まで朽木へ任せる必要はない。それが父上の考えだった。
「浅井をどう扱うかは六角が決める。弥五郎には土地を治めさせればよい」
最初は父上なりの意地なのだと思った。浅井は長く六角に従わず、野良田では父上自身を破っている。その家の最後を朽木へ任せず、六角の手で決める。それだけを聞けば、北近江の旧来の支配者として面目を示そうとしているようにも思える。だが父上が地図から目を離さず、これから弥五郎がしなければならないことを話すのを聞いているうちに、それだけではないと気付いた。
浅井の旧臣を従わせ、城へ守りを置き、村々へ戦が終わったことを知らせ、今後は誰へ年貢を納めるのかまで定め直さなければならない。昨日まで浅井に従っていた者たちにとって、朽木はまだ戦に勝った相手であり、新たな主として受け入れるかどうかはこれから決まる。その時、弥五郎自身が浅井一族を処断すれば、主家を滅ぼした者として恨みまで直接引き受けることになる。反対に一族を生かして手元へ置けば、その存在を担ぎ上げようとする者が現れるかもしれない。どちらを選んでも、北近江を治め始める弥五郎には厄介なものが残る。
六角が浅井一族を引き取れば、その重荷をこちらへ移すことができる。長く六角へ背いてきた浅井に、旧来の上位にあった六角が始末を付けたという形にもなり、朽木には新たに得た土地を治めることへ力を注がせられる。父上は浅井への恨みだけで言っているのではない。誰に何を背負わせ、誰の手へ恨みを集めるかまで考えた上での判断なのだろう。
「弥五郎殿は、応じるでしょうか」
「応じるであろう。あやつにとって、浅井の一族は持っておって利になるものではない」
父上の返答に迷いはなかった。生かせば担ぐ者が現れ、殺せば恨みが残る。六角が引き取ると申し出れば、弥五郎からすれば拒む理由の方が少ないということだ。
その理屈には俺も異論がなかった。戦国の家は、当主が一人死ねばそれで全て終わるわけではない。血を引く者が残っていれば、今の支配に不満を持つ者がその者を旗印として利用できる。本人に野心があるかどうかさえ、それほど重要ではないのかもしれない。周囲が勝手に意味を与えれば、一人の人間の存在そのものが戦を始める口実になってしまう。
そこまで考えたところで、俺の視線は父上の前に畳まれた文へ戻った。浅井一族を引き取るということは、単に小谷から観音寺へ移すだけでは済まない。父上がその者たちをどう扱うつもりなのか、聞く前からおおよその見当は付いていた。それでも曖昧なままにしておくことはできなかった。
「父上。その者たちは、こちらへ送られた後、どうなされますか」
父上は俺を見た。評定に列席する家臣たちの前だからか、その表情から父親としての柔らかさは消えている。ほんの僅かな間を置いた後、普段と変わらぬ声で答えた。
「男子は斬る。女子は命を取らず、尼寺へ入れる」
予想していたはずなのに、実際に言葉として聞くと、胸の内へ冷たいものが沈んだ。
周囲に目立った反応はなかった。父上が特別に苛烈なことを言ったと受け止めている者もいないらしい。浅井ほどの家であれば、男子を残すことが後日の禍になると考えるのは当然なのだろう。俺自身、そう判断する理由ならすぐに幾つも挙げられる。生き残った者を旧臣が担ぐかもしれない。朽木の支配へ不満を持つ国人が寄ってくるかもしれない。六角へ敵意を持つ者が金や兵を与え、浅井再興の旗を掲げさせる可能性もある。
だが、「男子」という一言だけでは、どうしても頭の中で収まらなかった。久政のように実際に兵を率い、六角と争ってきた者ばかりではないはずだ。若い者もいれば、まだ元服していない者もいるかもしれない。浅井に生まれただけで、自らは一度も兵を率いたことのない者まで、その言葉には含まれる。何をしてきたかではなく、どの家の男として生まれたかによって同じ処分を受けるということだった。
「右衛門督。何かあるなら申せ」
父上に促され、周囲の視線が集まった。ここで黙ることはできた。父上が決めたことであり、この時代では珍しくもない。俺だけが異を唱えたところで、では生かした後をどうするのかと問われれば、今の俺には代案もない。それでも疑問を抱いているのに、分かった顔で座っている方が嫌だった。
「……幼い者も、でございますか」
「ああ」
「六角へ刃を向けたことがなくとも?」
父上の眉が僅かに動いた。しかし不快そうには見えない。俺が何に引っ掛かっているのかを確かめるような目だった。
「刃を向けたかどうかだけで決めてはおらぬ。幼くとも浅井の男であることは変わらぬ。十年経てば大人になる。その時、北近江に今の治まりを気に入らぬ者がおればどうする」
すぐには答えられなかった。父上は俺の返事を待たず、静かに続けた。
「本人が戦を望まぬと言えば、それで済むと思うか。周りが浅井の名を欲しがれば、本人の考えなど後回しになる。旗を立て、浅井再興と唱えれば、それだけで兵を集める理由にはなるのじゃ」
その光景を想像することは難しくなかった。十年後、あるいは二十年後。生き残った浅井の男を誰かが担ぎ上げ、北近江で兵を挙げる。その時に死ぬのは、担がれた本人だけではない。討つ側の兵も死に、味方した国人も、その家族も巻き込まれる。戦場となった村では田が荒れ、家が焼けることもあるだろう。そうした争いが起きる可能性を残さないため、今のうちに浅井の男子を絶つ。それが父上の判断だった。
理屈は通っている。むしろ何も起きなければ誰からも責められず、後になって争いが起これば、何故あの時に残したのかと問われるのが当主なのだろう。だが、その可能性のために、まだ何もしていない者まで殺す。どちらの側から考えても、簡単に受け入れられる答えにはならなかった。
「気に入らぬか」
父上の声に咎める響きはなかった。俺は一度息を整え、言葉を選んだ。
「……気に入るかと問われれば、気に入りませぬ。ですが、生かした後に何か起きた時、その責を誰が負うのかと問われれば……今のところ、父上とは別の答えを出せませぬ」
殺すべきではない、と口にするだけなら簡単だ。けれど、その一言で救った者を誰が監視し、誰が守り、誰が利用されぬようにするのか。本人に野心がなくとも、周囲が勝手に担ぎ上げることはある。その結果として戦が起きたなら、誰が責任を負うのか。そこまで引き受けられなければ、俺がしているのは人を殺す決定から自分の目を逸らしたいだけなのかもしれなかった。
父上はしばらく俺を見ていたが、やがて視線を浅井の旧領へ戻した。
「ならば、今は見ておけ」
地図の端を指先で押さえながら、父上は静かに続けた。
「当主になれば、気に入る方を選べぬ時がある。どちらを取っても禍が残るなら、少ない方を選ばねばならぬ。それで恨まれることもある。後になって間違いだったと分かることもある。だが、自分で決めたことから目を逸らせば、その責まで家臣へ押し付けることになる」
俺は返事をせず、頭を下げた。納得したわけではない。浅井の男子を全て斬るという判断を、正しいと言えるほど自分の中で整理できてもいなかった。ただ、納得できないから見ないという選び方だけは、してはいけないのだろう。
評定ではその後、朽木へ送る使者と文面が決められた。浅井一族を六角へ引き渡すよう求めること。移送の際には女子や幼い者も含めて乱暴に扱わせぬこと。観音寺へ着いた後はこちらで身柄を預かること。父上は細かな指図まで確認し、最後に文を閉じさせた。浅井を滅ぼす戦はもう終わっている。だが、その戦が残したものを誰が引き受け、どのように終わらせるのかという話は、まだ始まったばかりだった。
*
朽木から返事が届いたのは、それから三日後だった。
朝のうちに北から着いた使者が持参した文には、浅井一族の引き渡しについて異存はなく、身柄をまとめ次第、六角方へ送り出すと記されていた。父上は文面を一度読み終えると、近くに控えていた者へ移送の人数と到着の見込みを確認するよう命じ、それ以上その件について何かを評することはなかった。
俺も返事そのものには驚かなかった。弥五郎が拒む理由は少ないと、すでに父上から聞いている。ただ、実際に引き渡すという返答が届いたことで、評定の間で交わした話が急に近くなったように思えた。あの時はまだ小谷にいる者たちについて、今後どう扱うかを地図の前で決めていただけだった。それが数日もすれば、同じ人間が観音寺の門をくぐる。父上が命じた処分も、その時から遠い土地の話ではなくなるのだろう。
考えなかった日はなかった。幼い者まで斬ることへの抵抗は残っている。それと同時に、生かすならどうするのかという問いにも答えられない。その二つを何度頭の中で並べても、どちらか一方が消えることはなかった。だから、同じところを行き来するのはやめた。父上は見ておけと言った。ならば今は、決められたことが実際にどう行われるのかを確かめるしかない。
観音寺城では、浅井一族を預かるための支度が進められた。迎えるといっても客としてではない。城内の一角に身柄を置く場所が決められ、男と女を分けて預かる部屋が用意される。女子の行き先となる尼寺についても話が進められ、移送に付き添う兵や城内で見張る者まで選ばれていった。誰かが部屋を空け、誰かが食事を用意し、誰かが警固の役を担い、誰かが名を確認する。父上が一言命じた処分も、実際に行うまでには多くの人間の手が必要になる。役目を振られた者たちは、それぞれに自分の仕事を進めていた。
その中で浅井の者たち自身だけは、自分たちの行き先を決める側にはいなかった。
到着の日が定まったのは、その翌日だった。数日続いた雨はすでに上がり、空には夏を思わせる白い雲が浮かび始めている。湿り気を残していた地面も日を追うごとに乾き、城内を吹き抜ける風には濡れた土の匂いより草木の青臭さが強くなっていた。そんな中、浅井一族が観音寺へ入るという話は、どこから漏れたのか城下にも広がっていたらしい。朝から大手門へ続く道には普段より人が多く、警固の者が何度も道端へ下がるよう声を掛けている。商人や町人だけではなく、用もないのに城下へ出てきたらしい百姓の姿まで混じっていた。
六角へ長く逆らった浅井の者が、捕らわれて観音寺へ送られてくる。それを自分の目で見たいと思う者がいるのは不思議ではない。野良田では六角が敗れたこともあり、浅井が滅びたと聞いて溜飲を下げた者もいるだろう。俺は迷った末、大手門へは出なかった。そこへ立てば、見物人と同じように一行を正面から迎えることになる。それは何か違う気がしたが、だからといって自室へ籠もり、着いたという知らせだけを聞くのも避けたかった。
結局、一行が城内へ入った後に通る場所を選び、少し離れた廊下から見ることにした。傍には弥太郎のほかに二人の小姓が控えていたが、皆いつもより口数が少ない。俺が何を見ようとしてここにいるのか、おおよそ察しているのだろう。
やがて下の方から、人の動く気配が大きくなった。
最初に見えたのは六角方の兵だった。門から引き継いだ者たちが列の前後を固め、その間を浅井から送られてきた者たちが歩いてくる。俺は無意識のうちに、戦に敗れた武将たちの姿を思い浮かべていたらしい。だが実際に現れた一行には、鎧を着た者がほとんどいなかった。男たちは簡素な衣服に着替えさせられ、年嵩の者もいれば、まだ若い者もいる。後ろには女たちが続き、その間に子供の姿まで混じっていた。長い道を移されてきたせいか、衣服の裾には土が付き、顔にも疲れが浮かんでいる。
地図の上で「浅井一族」と書けば、それだけで一つに括ることができた人々だった。だが目の前には、年も姿も違う者たちが歩いている。一人が躓けば隣の者が僅かに振り返り、幼い子が足を遅らせれば、傍にいた女が背へ手を添える。喉が渇いたのか何度も唇を舐める者もいた。誰も声高に泣いたり喚いたりはしていなかったが、その静けさがかえって目に残った。
先頭に近いところを歩く男へ目が止まった。浅井久政だった。
評定で幾度となく名を聞き、書状の中でも何度も目にした男を、こうして直接見るのは初めてだった。年齢の割には背筋が伸び、歩き方にも大きな乱れはない。両脇に兵が付いていることを除けば、捕らわれ人には見えないほど落ち着いている。列が城内へ深く入ったところで、久政は一度だけ顔を上げた。その視線の先には観音寺城の建物がある。長く争った六角の城へ捕らわれて入ることになった自分の境遇を思ったのかもしれないし、木之本の敗戦や小谷のことを考えていたのかもしれない。あるいは、すでにこの先のことまで察しているのかもしれなかった。
しかし表情から読み取れるのは、少なくとも取り乱してはいないということだけだった。俺はそれ以上、久政の心中を想像するのをやめた。本人にしか分からないものを、自分に都合のよい話へ変えてしまいそうだったからだ。
久政の少し後ろには、年若い男が歩いていた。誰なのかは分からない。浅井の近い一族なのか、それとも別家の者なのか、遠くから見ているだけでは判断できなかった。ただ久政とは違い、そちらは何度も周囲へ目を向けていた。城の建物を見てはすぐ前へ視線を戻し、兵が近付くたびに肩が僅かに強張る。何が起こるか分からない場所へ連れてこられた人間なら、むしろこちらの方が自然な反応なのかもしれない。
あの男も斬られるのだろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥に重いものが沈んだ。名前も知らない。年齢も、これまで何をしてきたのかも知らない。それでも顔を見てしまえば、「浅井の男子」という言葉だけで考えていた時とは違う。評定の場では父上がその判断を下した理由を考えていたが、今はその対象となる者がすぐ目の前を歩いている。
さらに後ろには女たちが続いていた。そのうち一人が、小さな子供の肩を抱いて歩いている。子供は母親らしき女の着物を掴み、時折足元を見ながら歩いていた。距離があるため、男児なのか女児なのかは分からない。俺は目を凝らしかけ、すぐにやめた。
どちらなのか分からないままでいてほしいと、一瞬思ってしまったからだ。
男子なら父上の命令によって斬られる。女子なら尼寺へ送られる。同じように母親らしき女の着物を掴んで歩いていても、その違いだけで行き先が分かれることになる。性別を知ってしまえば、今見ている子供がどちらへ向かうのかまで決まってしまうような気がした。
「若様」
低い声に、俺は視線を横へ向けた。弥太郎が少し離れたところからこちらを見ている。
「御戻りになりますか」
普段なら余計なことを言うなと返したかもしれない。だが今は、弥太郎が俺を気遣っているのだと分かった。ここまで見たのだから十分ではないか。おそらく、そういう意味なのだろう。
俺はもう一度、列へ目を戻した。浅井の人々は六角の兵に囲まれながら、決められた場所へ向かって歩き続けている。この先どうなるのか知っている者もいるだろうし、まだ知らされていない者もいるだろう。俺は父上から処分を聞いている。その俺だけが、見るのが辛いという理由でここから去るのは違うと思った。
「いや。最後まで見る」
「……承知いたしました」
弥太郎はそれ以上何も言わず、一歩下がった。
列はゆっくりと城内を進んでいく。途中、女の一人が足を止めかけ、後ろにいた兵が声を掛けた。怒鳴ったわけではない。それでも女はすぐに前を向き、再び歩き始める。傍らの子供も、引かれるようについていった。俺はその様子を黙って見ていた。
父上の判断が間違っているのかもしれない。反対に、これから先の争いを防ぐためには必要なのかもしれない。今の俺には、どちらとも決められなかった。それでも、その判断の先にいる者たちがどのような顔をしているのかは、自分の目で見ておかなければならないと思った。父上が引き受けると決めたのは、地図の上に書かれた家名ではなく、こうして歩いている者たちの命なのだから。
やがて先頭の兵が建物の陰へ消え、久政の姿も見えなくなった。年若い男、女たち、最後に歩いていた子供まで順に視界から消えていく。最後尾の兵が角を曲がった後もしばらく、俺はその場から動かなかった。城内には再び普段の音が戻り、遠くで小姓が誰かを呼ぶ声がする。庭木の上では雨上がりの蝉が鳴き始め、少し前まで何十人もの人間が歩いていた道には、もう誰もいなかった。
「弥太郎」
「はっ」
「今の者たちの名は、分かるか」
弥太郎が僅かに目を見開いた。
「全員でございますか」
「ああ。できるだけでよい。誰が来たのか、名と年を調べてくれ」
一瞬だけ間があり、弥太郎は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
自分でも、なぜそれを知りたいのか完全には説明できなかった。助ける方法を思い付いたわけではないし、父上の決定を覆せるだけの考えがあるわけでもない。ただ、「浅井の男子」「浅井の女子」という括りのまま終わらせたくなかった。自分の目で見ると決めた以上、誰がその中にいたのかくらいは知っておきたかったのだ。
それが何になるのかは、まだ分からない。
俺は人の消えた道から目を離し、弥太郎たちを連れて自室へ戻った。机の上には朝から届いた北近江の書付が積まれている。昨日までなら、真っ先に阿閉や月ヶ瀬、井口の名を拾っていただろう。だがその日は、弥太郎が浅井一族の名を調べて戻ってくるまで、何度書付を開いても文字がなかなか頭へ入ってこなかった。
弥太郎が戻ってきたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。昼過ぎには強かった陽射しも幾分和らぎ、開け放った障子の向こうから長く伸びた影が畳の縁まで届いている。俺は北近江から届いた書付を机へ広げていたが、廊下に現れた弥太郎が薄い冊子を手にしているのを見て、読んでいた文を脇へ寄せた。
「分かる範囲でまとめました。朽木から届いた名簿と、こちらで改めたものを照らし合わせてございます」
差し出された冊子を受け取り、最初の頁を開いた。先頭に浅井久政の名があり、その下には男、女の順に名と年が並べられている。血縁の遠近や付き従った者まで記されているため、名簿にある者の全てが同じ扱いになるわけではないらしい。父上が処分の対象としている男子には印が付けられ、女子については送り先を決めるため、別にまとめられていた。
頁をめくりながら一人ずつ目で追っていくうちに、指が止まった。二十を越えた者、十代の者。その中に、まだ十にも届かない年齢があった。
評定で幼い者も含むのかと父上へ尋ねた時、頭にはもっと輪郭の曖昧な子供を思い浮かべていた。だが紙の上へ年を一つ書かれるだけで、その存在が妙に具体的になる。俺より幼いのは当然として、次郎よりもずっと幼い。その年齢なら、城内で見掛ける小姓の中にも同じくらいの者がいる。まだ親に甘えたいと思うこともあるだろうし、馬に乗れるようになったと喜んだり、兄や父の真似をして木の枝を振り回したりすることもあるのかもしれない。もっとも、それは俺の勝手な想像に過ぎない。名前と年が記されているだけでは、その子がこれまでどのように暮らしてきたのかまでは分からなかった。
「これで間違いないのか」
俺が顔を上げると、弥太郎は冊子へ視線を落とした。
「朽木から送られた書付では、そのようになっております。こちらでも名を聞き改めたそうですので、大きな違いはないかと」
「……そうか」
それ以上確かめても、書かれた年齢が変わるわけではない。俺は再び冊子へ目を落とし、今度は処分の印だけを追うのではなく、一つずつ名を読むようにした。先ほど道を歩いていた年若い男がどの名なのか、小さな子供がどれなのかは分からない。顔と名を結び付けられない者の方が多かったが、それでも少なくとも、何人が観音寺へ送られ、その中にどれほど幼い者が含まれていたのかは知ることができた。
弥太郎に調べさせた時には、それで何が変わるのか自分でも分かっていなかった。実際、父上の命令が変わるわけではないし、俺にも覆すだけの考えはない。ただ、冊子を閉じようとした時、それを他の書付と一緒に机の端へ積み上げる気にはなれなかった。北近江から届いた戦後の報告とは分け、自分の手元へ置くことにした。
弥太郎は何も尋ねなかった。俺が冊子を机の右側へ置くのを見届けると、空になっていた湯呑へ湯を注ぎ直し、いつもの場所へ戻った。普段なら俺の考え事へ遠慮なく口を挟み、また帳面が増えるのかと揶揄う男だが、今日は余計なことを言わない。その気遣いが今はありがたかった。
浅井の者たちが観音寺へ送られてから数日、城内で目立った騒ぎが起こることはなかった。男たちは定められた場所へ置かれ、女子については受け入れる尼寺との話が進められた。毎日食事が運ばれ、見張りが交代し、必要があれば医師も呼ばれる。処分を待っている者が同じ城内にいるというのに、他の場所ではいつも通り朝が来て、家臣たちは役目へ向かい、馬場からは稽古の声が聞こえてくる。城内の暮らしは、浅井一族が来る前とほとんど変わらず続いていた。
そのことが、俺にはかえって奇妙に思えた。
浅井にとっては家が滅び、一族の行く末を自分たちで決めることもできなくなっている。だが六角にとっては、北近江の戦後処理の一つとして、すでに決められたことが進められているに過ぎない。誰もが浅井のことばかり考えていては、それぞれの役目が止まってしまうのだろう。俺自身も同じだった。北近江では弥五郎が旧臣たちの処遇を進めており、誰がそのまま所領を安堵され、誰が城を明け渡したのかという報せも入り始めている。それらを確認し、父上の評定へ出る。机の端に置いた冊子が目に入ることはあっても、そのたびに開くわけにはいかなかった。
決められた日が来たのは、浅井一族が観音寺へ入ってから五日後だった。
その朝、俺は処刑の場へは行かなかった。
父上から見ておけと言われたのは、刀が首へ落ちる瞬間まで眺めろという意味ではないと考えたからだ。何が決められ、誰がその対象となり、その結果を自分がどう受け止めるのか。そこから目を逸らさないことと、人が死ぬ様を自分へ焼き付けることは同じではない。実際に刑を執り行う者にも役目があり、見物のためにそこへ立つことが、父上の言った責を引き受けることになるとも思えなかった。
ただし部屋へ籠もり、何も聞かないという選び方もしなかった。執行を終えた後の報告が行われる場へ、俺も出ることにした。
評定の間には普段より人が少なく、浅井一族の処分を担当した者が正面へ座っていた。俺が席に着いてしばらくすると、その男は男子の処分が滞りなく終わったことを報告した。名が一人ずつ読み上げられ、そのたびに別の者が手元の書付へ印を付けていく。
俺はその名を聞きながら、数日前に弥太郎から受け取った冊子を思い出していた。あの頁に並んでいた者たちは、もういない。朝までは生きていた人間が、今は書付の上で処分を終えた者として確かめられている。胸が締め付けられて立っていられなくなるわけでもなければ、父上へ今からでも止めろと叫びたくなるわけでもなかった。むしろ報告があまりにも淡々と進むため、こちらまで静かになっていく。そのことの方が、俺には恐ろしく感じられた。
人が死んだという知らせでさえ、役目の中では確認すべき事柄の一つとして扱われる。名を確かめ、命じた通りに終わったことを報告し、次へ進む。そうしなければ、いつまでも一つの決定に留まって政を進められないのだろう。だが、同じ報告を何度も聞くようになれば、いずれ俺も今ほど気に留めなくなるのだろうか。そう考えると、慣れることと忘れることを同じにしてはいけない気がした。
続いて女子の扱いが報告された。数名ずつ分けて尼寺へ送り、身分や年齢によっては受け入れ先を改めて調整するという。父上は寺ごとの人数を確認し、無理に一つの寺へ集めないよう指示した。また、浅井から持ち込まれた家財についても、女子が寺へ入った後の生活に必要な物を先に回し、残りを改めて整理させることになった。
俺は父上の横顔を見た。処刑を命じた時と同じだった。声を荒らげることも、長年の敵を始末したことに満足する様子もない。誰が死んだかを確認し、生き残った者をどこへ送るかを決め、次に必要な指示を出している。野良田で自分を破った浅井が完全に消えたのだから、もっと何かあるのではないかと、俺のどこかにまだ思い込みが残っていたらしい。
評定が終わった後も、その疑問は消えなかった。
家臣たちが退出し、俺も廊下へ出た。父上は数歩先を歩いており、供の者が少し距離を取って付いているだけで、周囲に重臣の姿はない。庭からは夏の近付いた空気が流れ込み、陽を受けた木々の葉が濃い緑を見せていた。俺は迷った末、父上へ声を掛けた。
「父上」
父上が足を止め、こちらを振り返る。
「何じゃ、四郎」
公の場を離れたからか、右衛門督ではなく名で呼ばれた。先ほどまで評定を仕切っていた六角家当主の声から、僅かに普段の父上のものへ戻ったように感じる。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「申せ」
俺はどう尋ねるべきか一瞬迷い、結局、思ったことをそのまま口にした。
「浅井の処分が終わって……嬉しくはないのですか」
父上は僅かに眉を上げた。
「何を言い出すかと思えば」
呆れたようにも聞こえたが、歩き出そうとはしなかった。
「浅井は長く六角に逆らってきた家です。父上は野良田でも戦われた。今日でその浅井が本当にいなくなったのですから、もっと何かあるのかと思っておりました」
言いながら、自分でも曖昧な聞き方だと思った。喜ぶのが正しいと言いたいわけではない。ただ、父上があまりにも普段と変わらず、何を感じているのか分からなかったのだ。評定では男子の処分を確かめ、女子の行き先を決め、家財の扱いまで命じていた。それらを全て終えた今も、父上の顔には大きな変化が見えない。
父上はすぐには答えず、廊下の外へ目を向けた。雨の名残はもうほとんどなく、庭木の葉は夏の光を受けて濃い緑に変わっている。池の縁では小姓が二人、落ちた枝葉を拾っていた。遠くからは馬のいななきも聞こえる。浅井一族の処分が行われた日であっても、城の内側ではいつもと変わらぬ仕事が続いていた。
「浅井がなくなったことは喜ばしい」
しばらくして、父上が口を開いた。
「北の面倒が一つ減った。こちらへ刃を向ける家も消えた。それは六角にとって利じゃ」
そこで父上は俺へ視線を戻した。
「だが、人を斬ったことまで喜んで何になる」
俺は黙って聞いた。
「必要だから斬った。残せば後に禍となると判断したゆえにな。必要でなければ斬らぬ。恨みがあるからと、殺さずともよい者まで殺しておれば、いずれ家臣もこちらを信じなくなる」
評定で聞いた時とは違う言葉だった。あの場では、何故浅井の男子を残せないと考えるのかを教えられた。今、父上が話しているのは、その決定を下す側が何を考え、どう向き合うべきなのかということだった。
「なら、父上も……嫌だったのですか」
思わずそう尋ねると、父上は口元を少しだけ歪めた。
「好き嫌いで決めるものではないと、先日申したであろう」
「はい」
「人を斬ることを嫌がって必要な処分までできぬのも困る。喜んで余計に斬るのはもっと困る。四郎、当主が見なければならぬのは、己が気持ちよいかどうかではない」
父上はそれだけ言うと再び歩き始めた。俺も少し遅れて後を追う。廊下の先では小姓が運んできた文箱を別の者へ渡しており、父上が近付くと揃って頭を下げた。父上は軽く頷くだけで通り過ぎる。そのいつも通りの振る舞いを見ているうちに、もう一つ聞きたいことが浮かんだ。
「それでも、何も感じぬ方が楽ではありませんか」
俺がそう言うと、父上は前を向いたまま鼻で笑った。
「楽であろうな。だが、何も感じぬ者に人の上へ立たれては、下の者が堪らぬわ」
思わず父上の背中を見た。父上は振り返らず、足を緩めて続ける。
「斬られた者にも親があり、子があり、家臣がおった。それを忘れれば、次は一人殺すも百人殺すも同じになる。だが、覚えておるからと必要な時に刀を止めれば、今度は別の誰かが死ぬ。その間で決めるのが当主じゃ」
廊下の角まで来たところで、父上は足を止めた。
「だから見ておけと申した。儂の答えを覚えろという意味ではない」
こちらを向いた目は、穏やかでも厳しくもなく、ただ真っ直ぐだった。
「そなたがいずれ決めねばならぬ時、自分ならどうするか考えるためじゃ」
それだけ言うと、父上は今度こそ歩いていった。俺はすぐには後を追わず、廊下の端へ寄ってその背を見送った。
浅井の男子を斬った判断に、納得できたわけではない。幼い者まで殺す必要があったのかと問われれば、今でも胸の内には引っ掛かりがある。父上と同じ立場に立った時、自分も同じ命令を出せるかと問われても、まだ答えは出せない。生かして後の禍を招くことも、殺して今そこにある命を奪うことも、どちらも簡単に引き受けられるものではなかった。
だが、父上に対する見方は少し変わった。これまでの俺は、父上が決断を下した後の姿ばかり見ていたのかもしれない。評定で誰よりも早く判断を示し、家臣へ役目を振り、決めたことを迷わず進めていく。その姿を見て、父上は迷わない人間なのだと思っていた。実際には、何も感じないから決められるわけではないのだろう。斬られる者にも暮らしがあり、家族がいることを承知した上で、それでも必要だと判断した方を選び、その結果を自分の責として引き受けている。迷うことと、決めることは別なのだと、ようやく少し分かった気がした。
自室へ戻ると、机の端には弥太郎が作った浅井一族の冊子が置かれたままだった。俺は腰を下ろし、それを手元へ引き寄せた。処分された者の頁を開くと、朝まで生きていた者たちの名が、数日前と同じ文字で並んでいる。印が付いていた者の中には、久政のように兵を率いた者もいれば、まだ十にも届かない子供もいた。名前と年齢を知ったところで、その者たちが帰ってくるわけではない。それでも、もしあの時この冊子を作らせていなければ、今日の報告も「浅井の男子の処分が終わった」という一つの言葉で受け取っていたのかもしれなかった。
俺は筆を取った。何かを書き加えるべきかと思ったのだが、しばらく考えても、そこへ残す言葉は浮かばなかった。父上の判断が正しかったとも、間違っていたとも、今の俺には書けない。かといって、自分がどう感じたのかを長々と記したところで、処分された者たちの名の横へ添えるべき言葉になるとも思えなかった。
結局、筆を置いて冊子を閉じた。
朝まで生きていた名が、そこには変わらず記されている。俺はその冊子を他の書付とは別にしまった。いずれ自分が人の生死に関わる決定を下さなければならなくなった時、父上が何を考えていたのか、そして今日その名を聞いて自分が何を感じたのかを、思い出せるようにしておきたかった。
今はまだ、父上と同じ答えを出せるとは思わない。それでも、あの日観音寺へ入ってきた者たちを、ただ「浅井一族」とだけ覚えておくことはしたくなかった。誰がそこにいて、どのような年齢の者が父上の命によって処分されたのか。その事実だけは、自分がこれからどのような判断を下すことになっても、忘れずにいたかった。
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