淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第五十二話「北近江の新しい形」

 浅井一族の処分が終わってから数日が過ぎた。六月の雨は完全に去ったわけではなかったが、観音寺では晴れ間の見える日が少しずつ増えていた。雨を十分に吸った田は青々としており、城から遠くを眺めれば、低い雲の切れ間から差した陽が水田の表面へ細かな光を落としている。城下では商人が荷を運び、農民は田へ戻り、浅井という一つの家が消えた後も、人々の暮らしは驚くほど変わらない速さで続いていた。

 

 しかし、政の上ではそうはいかない。浅井家が消えたことで、北近江にはこれまで浅井が押さえていた土地がそのまま残った。浅井郡、伊香郡、坂田郡。山も川も城も村も昨日までと同じ場所にあるのに、それらを束ねていた家だけがなくなった以上、次に誰がそこを治めるのかを決めなければならない。俺は自室に広げた近江の地図を眺めながら、家が滅びるということは地図からその名を消せば終わるようなものではないのだと、改めて考えていた。

 

 浅井が滅んだ直後には、捕らえられた一族のことばかりが頭に残った。父上が下した処分も、その理由も、観音寺へ送られてきた人々の顔も、まだ簡単には忘れられそうにない。けれど、当主が見るべきものはそこだけではない。浅井という家を断った以上、その土地を放置することは出来ず、旧臣をどう扱うのか、城へ誰を置くのか、年貢を誰が受け取り、争いが起きた時に誰が裁くのかまで決めなければならない。戦に勝つことと、その後に土地を治めることは別であり、今回その後始末を最も多く背負うのは、浅井を直接滅ぼした弥五郎になるはずだった。

 

 小谷を含めた旧浅井領へ最初に手を伸ばせる位置にいるのも朽木だ。単純に考えれば、浅井が失った領地の大半を弥五郎が取ることになる。そうなれば高島を基盤としていた朽木は、一度の戦で北近江のかなりの範囲を手に入れる。観音寺で初めて会った、父を失ったばかりの竹若丸を思い出すと、そこへ至るまでの速さは自分が前世で知っていた以上に現実味を伴って恐ろしく感じられた。

 

 そんなことを考えていた日の昼過ぎ、父上から呼び出しがあった。評定の間へ向かうと、父上の前には一通の文と、ここ数日ですっかり見慣れた北近江の地図が広げられていた。父上の側には重臣が数人控えている。浅井が滅びる前なら地図の北側には浅井の勢力を示す印が置かれていたが、今はそれがなく、代わりに朽木が押さえた地域についての書き込みが増えている。

 

 父上は俺が座るのを待ってから文を持ち上げた。

 

「弥五郎からじゃ」

 

 その声がいつもより少し機嫌良く聞こえた。嫌な予感というほどではないが、父上がこういう顔をしている時は、大抵こちらが考えることを一つ増やされる。

 

「何と?」

 

「坂田郡を六角に任せたいそうじゃ」

 

 聞き間違えたのかと思い、「……坂田郡を、ですか」と確かめると、父上は「ああ。丸ごとじゃ」と平然と答えた。

 

 自然と視線が地図へ落ちた。坂田郡は琵琶湖東岸の北部に広がり、北へ行けば浅井郡、南には犬上方面、西には湖があり、東へ進めば美濃との境へ繋がっている。小さな土地ではなく、石高だけを見てもおよそ九万石ほどになるという話を聞いたことがある。それを、戦で朽木が得た土地であるにもかかわらず、丸ごと六角へ渡すという。

 

 弥五郎が浅井一族をこちらへ引き渡した時とは意味が違う。一族は抱えていても扱いに困るが、土地は持てば年貢が入り、それだけ多くの兵を支えられる。城や街道を押さえれば今後の戦にも利用出来るのだから、普通なら簡単に手放すものではない。

 

「理由は何と?」

 

 父上は文を俺の方へ寄せながら、「朽木では手が回らぬゆえ、坂田は六角に治めてもらいたい、とある」と答えた。

 

 俺は文へ目を落とした。言葉だけなら筋は通っている。浅井を滅ぼしたばかりの朽木は、伊香郡と浅井郡を新しく抱えることになる。それだけでも広く、そこへ坂田郡まで加えれば、これまで高島を中心にしていた家が一度にあまりにも多くの土地と人間を抱え込むことになる。旧浅井臣を従わせ、城を押さえ、税を集め、治安を戻す。その全てを一度に行うのは簡単ではない以上、弥五郎が「手が回らない」と言うこと自体に嘘はないのだろう。

 

 ただ、それだけとも思えなかった。

 

 地図へ手を伸ばし、坂田郡の東側へ指を置く。その先には美濃があり、さらに北へ目を向ければ、伊香郡の向こうには越前がある。二つの方向を見比べるうちに、単に領地を持て余しただけでは説明し切れない弥五郎の意図が少しずつ見えてきた。

 

「父上。これは、手が回らぬからだけではないでしょう」

 

 父上の口元が僅かに上がり、「続けよ」と促された。やはり最初から、俺に考えさせるつもりだったらしい。

 

 俺はもう一度地図へ視線を落とした。浅井を滅ぼした朽木が伊香と浅井を押さえれば、その勢力は北へ大きく伸びる。その先にあるのは越前であり、越前には朝倉がいる。一方で、六角が坂田郡を持てば、これまでより領地が北へ延びるだけでなく、美濃との境をこちらが直接意識しなければならなくなる。

 

「弥五郎殿は越前を見るつもりなのでしょう。だから美濃側を六角に持たせたい。坂田まで自分で持てば、朽木は越前と美濃の両方へ目を向けねばなりませぬが、こちらへ渡せば美濃は六角が見ることになる。その分だけ、弥五郎殿は北へ力を向けられます」

 

 父上はすぐには答えなかったが、俺自身は言葉にするうちに、もう一つの意味へ気付き始めていた。これは単なる土地の譲渡ではなく、朽木と六角の役割を分ける提案なのだ。朽木は北の越前を見て、六角は東の美濃を見る。互いの背後を無闇に脅かさず、それぞれ別の方向へ力を伸ばす。その上で坂田郡という実際の利益を六角へ渡せば、朽木はその関係を口約束ではなく形として示すことが出来る。父上が機嫌良く見えた理由も、そこまで考えればよく分かった。

 

「随分気前の良い婿殿じゃろう」

 

「気前だけで九万石近い土地を渡されたら、逆に怖うございます」

 

 父上が声を立てて笑い、「そなたも少しは分かってきたではないか」と言った。褒められたのかどうかは分からないが、少なくとも見当違いではなかったらしい。

 

 俺は地図を見たまま、弥五郎が何を得て何を捨てようとしているのかをもう一度考えた。浅井郡と伊香郡を合わせても、朽木が新たに得る土地は十一万石を少し超える程度だという。元から持っていた高島を合わせてもまだ二十万石には届かないが、それでも十分に大きな勢力となる。坂田郡まで抱え込めば、そこへさらに九万石ほどが加わるのだから、自家を膨らませることだけを考えるなら手放す理由はない。

 

 それでも弥五郎は取らない。今すぐ自分の領地を最大まで広げることより、急激な拡大による負担を避け、六角との関係を安定させ、自分は越前へ集中する方が得だと判断しているのだろう。その結論へ辿り着くと、少し悔しいような、それ以上に感心するような感覚が胸に残った。

 

 弥五郎はまだ若く、俺と大きく歳が離れているわけでもない。それでも、自分がどこまで取れるかだけではなく、取った後に誰とどう並び、次にどこへ力を向けるかまで考えている。戦場で浅井を破ったことも凄いが、その後に取れる土地を自分から手放す判断が出来ることの方が、俺にはむしろ恐ろしく感じられた。目の前にある利益を取らないことは弱さではなく、その先でより大きな利益を得るために今の利益を切り捨てられる強さでもあるのだろう。

 

「右衛門督」

 

 父上に呼ばれ、考えから戻った。

 

「この話、受けるべきと思うか」

 

 俺は改めて坂田郡へ目を向けた。六角にとって悪い話ではなく、むしろこれほど条件の良い話はそうない。領地が増え、美濃への足場も出来るうえ、朽木との関係も今以上に深くなる。ただ、土地を受け取るということは地図の色を六角へ塗り替えるだけではない。そこには昨日まで浅井に仕えていた国人がおり、浅井へ年貢を納めていた村があり、浅井の名の下で裁きを受けていた人々が暮らしている。その全てへ、ある日を境に「今日から六角だ」と告げることになる。受け取るだけなら簡単でも、それを六角の土地として治め続ける方がはるかに難しい。

 

「受けるべきだと思います。ただし、もらったから六角の土地になったと思わぬ方がよいでしょう。坂田の者たちにとっては昨日まで浅井の土地だった場所です。六角の旗を立てただけで従うとは限りませぬ」

 

 父上は満足したように小さく頷き、「その通りじゃ。だから、取るだけでは終わらぬ」と答えた。その言葉を聞いて、浅井一族の処分を決めた時にも、父上から戦が終わった後を見るよう言われたことを思い出す。今回も同じで、違うのは人の命をどうするかではなく、新しく得た土地をどう治め、六角の一部にしていくかという点だった。

 

 *

 

 坂田郡を六角が受け取ることは、その日のうちに決まった。朽木へは受け入れる旨の返書を送り、それと並行して坂田郡へ入れる者の選定、現地の城や村、国人衆の状況を調べるよう指示が出される。話が決まるまでは地図を前に様々な可能性を考えていたというのに、決まった後の父上には迷いがなく、必要な仕事を順に振り分けていく。その切り替えの速さを眺めながら、土地を得たという事実を喜ぶより先に、俺自身もまず坂田郡がどのような場所なのかを知らなければならないと思った。

 

 評定を終えて自室へ戻る途中、廊下を歩いていた弥太郎を呼び止め、坂田へ行ったことがあるかと尋ねると、何度かあるという。どんな土地かまで聞けば、弥太郎は少し記憶を探るように考えてから、湖沿いには人や物が行き交う道があり、東へ向かえば美濃へ抜ける道へ繋がること、平地が多く田もよく開けていることを話した。

 

 その説明を聞いているうちに、地図の上で輪郭だけを見ていた坂田郡へ少しずつ実際の土地としての形が加わっていった。そこには人が歩く道があり、その道の先に村があり、田を耕して暮らす者がいる。九万石という数字だけを見ていれば「六角の力が九万石ほど増える」と考えることも出来るが、その数字を生み出しているのは、一つ一つの田と、それを耕す人間の暮らしだ。領地を受け取るということは、その全てへ六角が責任を持つことでもあるのだと思うと、昼の評定で感じた以上に坂田郡という土地が重く見えてきた。

 

「調べさせますか」

 

 弥太郎からそう尋ねられ、俺は少し考えてから頷いた。

 

「ああ。ただし、浅井の残党を探すような真似だけはするな。まずは道と村、それから誰が土地をまとめているのかを知りたい。甲賀の者へ頼んでくれ」

 

 弥太郎が承知したと頭を下げたのを見ながら、以前の自分なら、報告を待つより先に自分の目で坂田を確かめようとしたかもしれないと思った。今でも実際に歩いて見たいという気持ちはある。だが、これから六角の領地が増える度に俺自身が全ての村と道を見て回ることなど出来るはずもなく、見るべきところを誰かに見てもらい、その報告から全体を掴み、本当に必要な場所へだけ自分で足を運ぶ。そのやり方もまた、いずれ家を背負うなら覚えなければならない。

 

 弥太郎を下がらせた後、俺はそのまま廊下から城下を眺めた。雨上がりの空気にはまだ湿り気が残っていたが、朝には雲へ隠れていた遠くの山々が今ははっきり見えている。あの山の向こうへさらに進めば、今度六角が受け取る坂田郡がある。そこまで六角の領地になるのだと思っても、不思議と胸に浮かぶのは領地が増えたという喜びより、これから自分たちが見なければならない土地と人が増えたという感覚の方だった。父上なら、それを当然のこととして受け止めるのだろう。土地を得るというのは、喜ぶための数字を増やすことではなく、背負うものを増やすことでもあるのだから。

 

 *

 

 その夜、俺は父上に頼んで、朽木から届いた文をもう一度見せてもらった。書かれている理由自体は昼に聞いた通り簡潔で、浅井旧領の全てを朽木だけで治めるには手が足りないため、坂田郡は六角へ任せたいというものだった。余計な言葉はほとんどなく、表面だけを読めば本当にそれだけの話にも見える。それでも昼の評定を経てから読み返すと、その短い言葉の向こうにある弥五郎の意図が、最初に読んだ時よりも具体的に見えた。

 

 弥五郎は伊香郡と浅井郡を押さえ、自分は北の越前へ目を向ける。その代わり坂田郡を六角へ渡し、美濃に近い東側はこちらへ持たせる。六角と朽木が近江の中で互いに領地を奪い合うより、それぞれ違う方向へ力を向けられる形を作ろうとしているのだろう。もちろん、それがこの先ずっと続く保証などない。今は小夜の婚姻によって結ばれていても、当主が代われば関係も変わるだろうし、利害がぶつかれば今日の味方が明日の敵になることもある。それでも少なくとも今の弥五郎は六角との関係を必要とし、六角もまた北近江を安定させるために朽木との関係を必要としている。ならば、この互いを必要としている時間をどう使うかが、その後の関係を決めることになるのだろう。

 

 文から視線を外して横に置いた地図を見ると、昼間よりも新しい近江の形がはっきり見えた。坂田郡を六角が持ち、その北には朽木が押さえる浅井郡と伊香郡が続く。さらに北には朝倉の越前があり、坂田から東へ目を向ければ美濃がある。浅井がいた頃には一つの家によって隔てられていた土地同士が、浅井の滅亡によって急に直接向き合う形へ変わった。その変化は、こちらが望むかどうかとは関係なく、これから六角がどこを見て、誰と関わり、何へ備えるのかまで変えていく。

 

 そこでようやく、浅井が滅びたという出来事の大きさを、処断とは別の形で実感出来た気がした。一つの家が消えればその場所が空白になるのではなく、そこへ別の家が入り、新しい境が生まれる。土地を得れば収入が増える一方で守らなければならない場所も増え、味方が強くなれば頼もしくなる一方で、その相手をいつまでも以前と同じ距離から見続けることも出来なくなる。

 

 弥五郎はもう、父を失ったばかりの竹若丸ではない。浅井を滅ぼし、自分が手に出来たはずの坂田郡を六角へ渡し、その利益と引き換えに六角を美濃側へ向け、自分は越前へ力を集中しようとする一人の当主になっている。その事実を認めると、妙な対抗心よりも、こちらも六角を背負う側として相手を見るべきなのだという思いの方が強くなった。前世で物語を読んでいた頃のように「原作の主人公」として遠くから眺めることも、自分と歳の近い若者だからと軽く見ることも、もう出来ない。

 

 坂田郡を得たことで六角もまた一つ大きくなったが、それを領地が増えたという言葉だけで喜ぶには、その裏にあるものが以前より目に入るようになっていた。新しい土地を得れば、その土地を治める者が必要になり、外から守る力も要る。城を置き、道を押さえ、必要な時にはすぐ兵を動かせなければ、地図の上で六角の色に塗り替えただけでは本当の意味で自分たちの土地になったとは言えない。

 

 そこまで考えたところで、正月に弥五郎から聞いた言葉が久しぶりに頭へ戻ってきた。

 

 弥五郎は、百姓を兵に使っていない。

 

 以前聞いた時には、朽木が素早く兵を動かせる理由として興味を持った言葉だった。だが浅井との戦で、農繁期であっても兵を動かし、雨で鉄砲が使えなくなっても戦い続け、最後には北近江の勢力図そのものを変えた朽木を目の当たりにした今では、その意味が以前とは違って見える。

 

 土地が増えれば、守る場所も増える。だからといって、その度に田から百姓を集めて兵にしていたのでは、必要な時にすぐ動けるとは限らない。六角ほどの家で朽木と全く同じことが出来るかどうかはまだ分からないし、そのまま真似ればよいとも思わない。それでも、朽木が何故あれほど素早く兵を動かせるのかを知った以上、一度は六角の兵のあり方そのものを考えてみる必要がある。

 

 昼に見ていた坂田郡へ、もう一度目を向けた。土地を得たことで増えたのは年貢だけではない。六角が治め、六角が守るべき範囲そのものが広がったのだ。

 

 ならば、その広がった土地を守るための仕組みも、今までと同じままでよいのか。

 

 今度はそこから考えてみるべきだと思った。

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