淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第六章 六角家嫡男の新たな責務
第五十二話「北近江の新しい形」


 浅井一族の処分が終わってから数日が過ぎた。六月の雨は完全に去ったわけではなかったが、観音寺では晴れ間の見える日が少しずつ増えていた。十分に水を吸った田は青々としており、城から遠くを眺めれば、低い雲の切れ間から差した陽が水田の表面へ細かな光を落としている。城下では商人が荷を運び、百姓たちは田へ戻っていた。浅井という一つの家が消えた後も、人々の暮らしはそれまでと変わらぬ速さで続いている。北近江で戦が終わり、観音寺で浅井の男子が処分されたことも、日々の仕事に追われる者たちにとっては、遠くで起きた出来事の一つなのかもしれない。

 

 しかし、政の上ではそうもいかない。浅井家が消えたことで、北近江にはこれまで浅井が押さえていた土地が残された。浅井郡、伊香郡、坂田郡。山も川も城も村も昨日までと同じ場所にあるのに、それらを束ねていた家だけがなくなった。次に誰がそこを治めるのかを定めなければならない。俺は自室に広げた近江の地図を眺めながら、家が滅びるということは、地図からその名を消せば終わるようなものではないのだと改めて感じていた。

 

 浅井が滅んだ直後には、捕らえられた一族のことばかりが頭に残った。父上が下した処分も、その理由も、観音寺へ送られてきた人々の顔も、まだ簡単には忘れられそうにない。弥太郎に調べさせた名簿は他の書付と分けてしまってあるが、あれを読み返さずとも、そこに幼い者の名まで記されていたことは覚えている。父上の判断について、今も別の答えを出せるわけではなかった。

 

 ただ、当主が見るべきものはそこだけではない。浅井という家を断った以上、その土地を放置することはできず、旧臣をどう扱うのか、城へ誰を置くのか、年貢を誰が受け取り、争いが起きた時に誰が裁くのかまで決めなければならない。浅井に従っていた国人たちも、自分たちの所領がどうなるのかを気にしているだろうし、村々では今後の年貢を誰へ納めるべきなのか、確かな指図を待っているはずだ。戦に勝つことと、その後に土地を治めることは別であり、今回その後始末を最も多く背負うのは、浅井を直接滅ぼした弥五郎になるのだろう。

 

 小谷を含めた旧浅井領へ最初に手を伸ばせる位置にいるのも朽木だ。浅井を滅ぼした功を考えれば、その領地の大半を弥五郎が押さえることになっても不思議ではない。そうなれば高島を基盤としていた朽木は、一度の戦で北近江のかなりの範囲を手に入れる。観音寺で初めて会った、父を失ったばかりの竹若丸を思い出すと、そこへ至るまでの速さが妙に現実味を伴って感じられた。前世で物語を読んでいた頃には、朽木が勢力を広げていく展開を知っていたはずなのに、今ではその一つ一つが土地と人を動かす出来事として目の前に現れている。

 

 そんなことを考えていた日の昼過ぎ、父上から呼び出しがあった。評定の間へ向かうと、父上の前には一通の文と、ここ数日ですっかり見慣れた北近江の地図が広げられていた。側には重臣が数人控えている。浅井が滅びる前なら地図の北側には浅井の勢力を示す印が置かれていたが、今はそれがなく、代わりに朽木が押さえた地域についての書き込みが増えていた。

 

 俺が席へ着くと、父上は手元の文を持ち上げた。

 

「弥五郎からじゃ」

 

 その声が、いつもより少し機嫌よく聞こえた。嫌な予感というほどではないが、父上がこういう顔をしている時は、大抵こちらが考えることを一つ増やされる。

 

「何と申してきたのでございますか」

 

「坂田郡を六角に任せたいそうじゃ」

 

「……坂田郡を、でございますか」

 

「ああ。丸ごとじゃ」

 

 聞き間違いではなかったらしい。父上は平然と答えたが、俺は思わず地図へ視線を落とした。

 

 坂田郡は琵琶湖東岸の北部に広がり、北には浅井郡、南には犬上方面、西には湖があり、東へ進めば美濃との境へ繋がっている。小さな土地ではない。石高だけを見ても、およそ九万石ほどになるという話を聞いたことがある。それを、浅井を滅ぼした朽木が自ら得られる土地であるにもかかわらず、丸ごと六角へ渡すというのだ。

 

 弥五郎が浅井一族をこちらへ引き渡した時とは意味が違う。一族は抱えていても扱いに困るが、土地は持てば年貢が入り、それだけ多くの兵を支えられる。城や街道を押さえれば今後の戦にも利用できるし、土地に従う国人たちを取り込めば、兵を集める際の力にもなる。実際には治めるための手間も掛かるとはいえ、九万石近い土地を手放すのは簡単にできる判断ではなかった。

 

「理由は何と」

 

「朽木では手が回らぬゆえ、坂田は六角に治めてもらいたい、とある」

 

 父上が文をこちらへ寄せたので、俺は改めて内容に目を通した。言葉だけなら筋は通っている。浅井を滅ぼしたばかりの朽木は、伊香郡と浅井郡を新しく抱えることになる。それだけでも相当な広さがあり、さらに坂田郡まで加えれば、これまで高島を中心にしていた家が、一度にあまりにも多くの土地と人間を抱え込むことになる。

 

 浅井旧臣を従わせ、城を押さえ、年貢を集め、治安を立て直す。それぞれの土地には従来の取り決めがあり、国人や寺社の権利も絡んでいるだろう。どの村がどれほどの年貢を納めていたのかを確かめるだけでも、相応の人手が必要になる。俺自身、以前に坂田の土地を調べた際には、村ごとに事情が違うことを帳面から教えられた。そこへさらに広い土地を加え、一度に治め直すのが難しいことは想像できる。弥五郎が手が回らないと言うこと自体に、嘘はないのだろう。

 

 だが、それだけとも思えなかった。

 

 俺は地図へ手を伸ばし、坂田郡の東側へ指を置いた。その先には美濃があり、さらに北へ目を向ければ、伊香郡の向こうには越前がある。朽木が今回得た土地を全て抱え込めば、北と東の双方へ目を向けなければならなくなる。しかも越前には朝倉がおり、美濃にもそれぞれの思惑で動く者たちがいる。領地が増えたからといって、その周りまで大人しくなるわけではない。

 

 二つの方向を見比べるうちに、単に領地を持て余しただけでは説明し切れない弥五郎の意図が、少しずつ見えてきた。

 

「父上。これは、手が回らぬからだけではないでしょう」

 

 父上の口元が僅かに上がった。

 

「続けよ」

 

 やはり最初から、俺に考えさせるつもりだったらしい。父上自身は文を読んだ時点で、弥五郎の考えにおおよその見当を付けていたのだろう。

 

「弥五郎殿は、越前を見るつもりなのだと思います。浅井郡と伊香郡を押さえれば、朽木の領地は北へ大きく伸びます。その先にあるのは朝倉の越前です。坂田郡まで持てば、朽木は越前だけでなく美濃の動きにも備えなければなりませぬ。ですが坂田を六角へ渡せば、美濃側は六角が見ることになります。その分だけ、弥五郎殿は北へ力を向けられるのでしょう」

 

 父上はすぐには答えなかった。俺も地図から目を離さず、今の考えに無理がないかを確かめる。朽木が北を見て、六角が東を見る。そのように役割を分ければ、互いに同じ場所へ兵を向ける必要は減る。六角が坂田を治める以上、そこへ通じる道や城は六角の責任で守らなければならないが、それは同時に、朽木が東側の守りへ割く力を減らせるということでもある。

 

 さらに坂田郡という実際の利益を六角へ渡せば、朽木はその関係を口約束ではなく、土地という形で示すことができる。婚姻によって結ばれたとはいえ、六角と朽木は別の家だ。互いに利益があれば関係を保ちやすいが、どちらか一方だけが得をする形では長続きしない。弥五郎は自ら得られる土地の一部を譲ることで、六角にもこの関係を守る理由を増やそうとしているのかもしれなかった。

 

 父上が機嫌よく見えた理由も、そこまで考えれば分かる気がした。

 

「随分気前の良い婿殿じゃろう」

 

「気前だけで九万石近い土地を渡されたら、逆に怖うございます」

 

 父上が声を立てて笑った。

 

「そなたも少しは分かってきたではないか」

 

 褒められたのかどうかは分からない。少なくとも見当違いではなかったらしい。

 

 俺はもう一度、弥五郎が何を得て、何を手放そうとしているのかを考えた。浅井郡と伊香郡を合わせても、新たに得る土地は十一万石を少し超える程度だという。元から持っていた高島を合わせても、まだ二十万石には届かない。それでも以前の朽木と比べれば十分に大きな勢力になる。坂田郡まで抱え込めば、さらに九万石ほどが加わるのだから、自家を膨らませることだけを考えるなら、手放す理由はないはずだった。

 

 しかし、土地が増えれば、それに比例してすぐ使える兵や銭が増えるわけではない。新たに得た土地では年貢の集め方も違うだろうし、浅井に従っていた国人が、朽木の命令へ最初から素直に従うとも限らない。そこへ守りの兵を置き、役人を遣わし、争いが起これば裁かなければならない。多くを取れば取るほど、それを維持するために今持っている力を分けることになる。

 

 ならば弥五郎は、今すぐ領地を最大まで広げることより、確実に治められる土地を押さえ、六角との関係を安定させた上で越前へ目を向ける方が得だと判断したのだろう。そう考えると、少し悔しいような、それ以上に感心するような感覚が胸に残った。

 

 弥五郎はまだ若く、俺と大きく歳が離れているわけでもない。それでも、自分がどこまで取れるかだけではなく、取った後に誰とどう並び、次にどこへ力を向けるかまで考えている。戦場で浅井を破ったことも凄いが、その後に取れる土地を自分から手放す判断ができることの方が、俺にはむしろ恐ろしく感じられた。目の前の利益を捨てることは、必ずしも弱さではない。その先で何を得たいのかがはっきりしているからこそ、今取れるものを全て取らないという選び方もできるのだろう。

 

「右衛門督」

 

 父上に呼ばれ、考えから戻った。

 

「この話、受けるべきと思うか」

 

 改めて坂田郡へ目を向ける。六角にとって悪い話ではない。むしろ、これほど条件の良い話はそうあるまい。領地が増え、美濃方面への足場もできる上、朽木との関係も今以上に深くなる。ただ、土地を受け取るということは、地図の色を六角へ塗り替えるだけでは済まない。そこには昨日まで浅井に仕えていた国人がおり、浅井へ年貢を納めていた村があり、浅井の名の下で裁きを受けていた人々が暮らしている。その全てへ、ある日を境に「今日から六角だ」と告げることになる。

 

 受け取るだけなら簡単でも、それを六角の土地として治め続けるには、現地の事情を確かめ、人を置き、何かあれば責任を取らなければならない。九万石という数字を得たことに満足していては、その先で思わぬ負担を抱えることになるだろう。

 

「受けるべきだと思います。ただし、受け取ったからといって、それだけで六角の土地になったと思わぬ方がよいでしょう。坂田の者たちにとっては、昨日まで浅井の土地だった場所です。六角の旗を立てただけで、皆が従うとは限りませぬ」

 

 父上は満足したように小さく頷いた。

 

「その通りじゃ。だから、取るだけでは終わらぬ」

 

 その言葉を聞き、浅井一族の処分を決めた時にも、父上から戦が終わった後を見るよう言われたことを思い出した。今回も戦後の話だが、今度は新しく得た土地をどう治め、六角の一部としていくのかという問題になる。すでに六角の領地である場所なら、誰が何を担っているかをある程度は知っている。だが坂田郡には、まだ知らない者も、確かめていない取り決めも多く残っているはずだった。

 

 *

 

 坂田郡を六角が受け取ることは、その日のうちに決まった。

 

 朽木へは受け入れる旨の返書を送り、それと並行して坂田郡へ入れる者の選定、現地の城や村、国人衆の状況を調べるよう指図が出された。話が決まるまでは地図を前に様々な可能性を考えていたというのに、決まった後の父上には迷いがない。誰を先に遣わすか、現地で何を確かめさせるか、朽木との引き渡しをどのような順序で進めるか。必要な仕事を振り分け、家臣から問いが出ればその場で答えていく。もちろん父上も全てを知っているわけではないのだろうが、分からないものは現地で確かめさせ、その結果を待って判断するという線引きがはっきりしていた。

 

 その様子を見ているうちに、俺自身もまず坂田郡がどのような場所なのかを知る必要があると思った。領地を得たことを喜ぶのは、その後でも遅くない。

 

 評定を終えて自室へ戻る途中、廊下を歩いていた弥太郎を呼び止め、坂田へ行ったことがあるかと尋ねた。

 

「何度かございます」

 

「どのような土地じゃ」

 

 弥太郎は少し記憶を探るように考えてから、湖沿いには人や物が行き交う道があり、東へ向かえば美濃へ抜ける道へ繋がること、平地が多く田もよく開けていることを話した。以前通った時には、街道沿いの村で馬を休ませたこともあるという。特別珍しい土地ではないように聞こえたが、その説明を聞いているうちに、地図の上で輪郭だけを見ていた坂田郡へ、少しずつ実際の土地としての形が加わっていった。

 

 そこには人が歩く道があり、その先に村があり、田を耕して暮らす者がいる。九万石という数字だけを見れば、六角の力がそれだけ増えると考えることもできる。しかし、その数字を生み出しているのは一つ一つの田と、それを耕す人間の働きだ。年によって収穫は変わるだろうし、村によって納められる米の量も違う。戦があれば働き手を出さなければならず、道が傷めばそれを直す人足も必要になる。領地を受け取るということは、そうした暮らしを六角が新たに引き受けることでもある。

 

「調べさせますか」

 

 弥太郎から尋ねられ、俺は少し考えてから頷いた。

 

「ああ。ただし、浅井の残党を探すような真似だけはするな。まずは道と村、それから誰が土地をまとめているのかを知りたい。甲賀の者へ頼んでくれ」

 

「承知いたしました。道と村、それに現地の国人でございますな」

 

「ああ。それから、浅井の頃の取り決めが残っているなら、無理に変えさせる必要はない。今どうなっているのかを確かめることが先じゃ」

 

 弥太郎が頭を下げた。以前の自分なら、報告を待つより先に自分の目で坂田を確かめようとしたかもしれない。今でも実際に歩いて見たいという気持ちはある。城や街道の位置は地図で分かっても、その道を誰が使い、村がどのように繋がっているのかは、現地へ行かなければ分からないことも多いだろう。

 

 だが、これから六角の領地が増えるたびに、俺自身が全ての村と道を見て回ることなどできるはずもない。見るべきところを人へ任せ、その報告から全体を掴み、必要な場所へ自分で足を運ぶ。篠、弥七、宗兵衛の三人から話を聞くようになって、同じ土地でも人、道、物という違う方向から見れば、分かることが増えると知った。今回もそのやり方を使えばよいのだろう。全てを自分で確かめることと、自分で判断することは同じではない。家を背負うなら、その違いをもっと覚えなければならない。

 

 弥太郎を下がらせた後、俺は廊下から城下を眺めた。雨上がりの空気にはまだ湿り気が残っていたが、朝には雲へ隠れていた遠くの山々が、今ははっきり見えている。あの山の向こうへさらに進めば、六角が新たに受け取る坂田郡がある。そこまで六角の領地になるのだと思っても、不思議と胸へ浮かぶのは領地が増えたという喜びより、これから見なければならない土地と人が増えたという感覚の方だった。

 

 父上なら、それを当然のこととして受け止めるのだろう。九万石を得たという事実に価値がないわけではない。年貢が増えれば兵を支える力も増し、街道や城を押さえれば今後の戦にも役立つ。しかし、それらを使えるようにするには、まず現地を治めなければならない。坂田の者たちが六角の命令を受け入れ、これまで通り田を耕し、商いを続けられるようにすることが先にある。土地を得るというのは、喜ぶための数字を増やすことではなく、背負うものを増やすことでもあるのだから。

 

 *

 

 その夜、俺は父上に頼み、朽木から届いた文をもう一度見せてもらった。

 

 書かれている理由自体は昼に聞いた通り簡潔だった。浅井旧領の全てを朽木だけで治めるには手が足りないため、坂田郡は六角へ任せたいという。余計な言葉はほとんどなく、表面だけを読めば、本当にそれだけの話にも見える。弥五郎らしいと言えばそうなのかもしれない。必要なことは伝えるが、そこへ至る考えまで全て書いて寄越すわけではないのだろう。もっとも、こちらが勝手に裏を読んでいるだけで、本人にとっては単に手が回らないという理由が一番大きい可能性もある。そこは分けて考えなければならなかった。

 

 それでも昼の評定を経てから読み返すと、短い言葉の向こうにある弥五郎の意図が、最初に読んだ時よりも具体的に見えた。朽木が伊香郡と浅井郡を押さえれば、その領地は北へ大きく伸び、越前との関わりも今まで以上に深くなる。正月の頃から弥五郎が朝倉の動きへ目を向けていたことを考えても、越前を全く意識していないとは思えない。一方、坂田郡を六角へ渡せば、美濃に近い東側はこちらが担うことになる。六角と朽木が近江の中で互いの領地を窺うより、それぞれ別の方向へ力を向けられる形を作ろうとしている。少なくとも今は、その方が双方に利があるように思えた。

 

 もちろん、それがこの先も続く保証などない。今は小夜の婚姻によって結ばれていても、当主が代われば関係も変わるだろうし、互いの利害がぶつかれば、今日の味方が明日の敵になることもある。六角が坂田を受け取ったからといって、朽木が今後もこちらへ領地を譲るわけではないし、反対に六角も、朽木が望むことなら何でも認めるという話にはならない。それでも今の弥五郎は六角との関係を必要とし、六角もまた北近江を安定させるために朽木との関係を必要としている。ならば、互いに利があるうちに何を整えておくかが重要なのだろう。

 

 文を脇へ置き、横に広げた近江の地図へ目を向けた。昼間よりも、新しい近江の形がはっきり見える気がした。坂田郡を六角が持ち、その北には朽木が押さえる浅井郡と伊香郡が続く。さらに北には朝倉の越前があり、坂田から東へ目を向ければ美濃がある。浅井がいた頃には一つの家によって隔てられていた土地同士が、その滅亡によって直接向き合う形へ変わった。山も川も街道も動いていないのに、どの家が何処を守り、何処へ兵を向けるのかという話は、わずか数日のうちに大きく変わっている。

 

 そこでようやく、浅井が滅びたという出来事の大きさを、一族の処分とは別の形で実感できた気がした。一つの家が消えれば、その場所が空白になるのではない。残された土地へ別の家が入り、新たな境が生まれ、それまでとは違う相手と向き合うことになる。土地を得れば収入は増えるが、守らなければならない場所も増える。味方が強くなれば頼もしくなる一方で、その相手をいつまでも以前と同じ力関係で見ることもできない。浅井が六角にとって厄介な相手だったことは間違いないが、その浅井が消えたことで、これまで考える必要のなかった問題まで現れ始めているのだった。

 

 弥五郎はもう、父を失ったばかりの竹若丸ではない。野良田で六角の本陣を救い、高島の北へ兵を進め、浅井を滅ぼした。その上で、自分が得られるはずだった坂田郡を六角へ渡し、伊香と浅井を押さえながら、次に力を向けるべき場所まで考えている。俺と歳の近い友人であることも、小夜の夫であることも変わらないが、それだけで見てよい相手ではなくなった。

 

 その事実を認めると、妙な対抗心よりも、こちらも六角を背負う側として相手を見るべきなのだという思いの方が強くなった。前世で物語を読んでいた頃のように、原作の主人公として遠くから眺めることも、自分と歳の近い若者だからと軽く見ることも、もうできない。弥五郎の考えを知りたければ、友人として交わした言葉だけではなく、朽木の当主として実際に何を選び、どう動いているのかを見なければならない。今回の坂田郡の譲渡も、その一つなのだろう。

 

 六角も坂田郡を得たことで一つ大きくなる。しかし、それを領地が増えたという言葉だけで喜ぶには、その裏にあるものが以前より目に入るようになっていた。新しい土地を得れば、そこを治める者を遣わし、城を守らせ、街道を押さえなければならない。坂田が美濃に近い以上、今後はその方向から兵が来ることも考える必要がある。現地の国人たちを従わせるだけではなく、六角自身も必要な時に兵を動かせなければ、地図を塗り替えただけで終わってしまう。

 

 そこで、正月に弥五郎から聞いた言葉が久しぶりに頭へ戻ってきた。

 

 ──百姓を兵に使っておりませぬから。

 

 あの時、弥五郎は朽木が素早く兵を動かせる理由として、普段から兵として米や銭を与えている者がいることを話してくれた。戦が終わるたび田へ戻す必要がなく、次の戦があれば再び集め直す手間も少ない。その代わり、戦がなくとも兵を食わせ、武具を整え、暮らしを支えるだけの銭と米を用意し続けなければならない。便利だという理由だけで真似できるものではないことも、あの時に教えられた。

 

 ただ、木之本での戦を経た今では、その話の受け止め方が少し変わっていた。朽木は浅井と向かい合った時、兵数で劣り、雨で鉄砲も十分には使えなかった。それでも陣を保ち、浅井から月ヶ瀬と阿閉が離れたところで攻勢へ転じた。もちろん、勝因の全てが平時から抱えている兵にあったわけではない。浅井家中の事情も、弥五郎が兵を置いた場所も、攻めに出た時機も関わっているだろう。だが、農事の都合で兵を帰さずに済み、必要な時まで軍を保てるという点は、あの戦でも意味を持っていたはずだった。

 

 六角には朽木より遥かに多くの兵を集める力がある。その一方で、兵を集めるたびに田植えや刈り入れを考えなければならず、五百を出せる家でも、同じ五百を何日も出し続けられるとは限らない。昨年、家ごとに兵の数と動かせる日数を調べた時には、その違いを帳面へ書き込むだけでも随分手間が掛かった。佐和山へ向かった際にも、予定した日に全ての兵が揃うわけではなく、荷駄の遅れや人の不足に合わせて軍の動きを変える必要があった。

 

 土地が増えれば、今までより広い範囲を守らなければならなくなる。坂田郡へ城を預ける者を置くとしても、何か起きた時に観音寺から兵を集めて向かわせるのでは、間に合わない場合もあるだろう。だからといって、坂田の守りのためだけに百姓を長く田から離せば、今度はそこで作られる米が減る。新たな領地を守るために、その土地の暮らしを圧迫するようでは意味がなかった。

 

 ならば、六角でも一部の兵を常に動かせるようにしておく意味はあるのではないか。正月に弥五郎と話した時には、三百ならどうか、五百ならどうかと、その場で思い付いた数を口にした。だが今は、先に人数を決めるべきではないと思うようになっていた。何処を守るために必要なのか。戦がない時には何をさせるのか。いつでも動かせる兵がいたとして、どの城へ置き、誰の指図で動かすのか。それが決まらなければ、三百や五百という数字にも意味はない。

 

 そして、その兵を養うための米と銭を、何処から得るのかという問題も残る。

 

 兵として暮らす者は、戦がなくとも飯を食う。武具は傷み、草鞋も要り、住む場所も必要になる。年貢を多く得られるようになったからといって、それを全て兵へ回せるわけではない。城の修繕や街道の手入れ、領内の政にも銭と人手が要る。三年間続けた楽市の試みを広げる話でも、負担を減らした後に誰が市を守り、道を直すのかという問題へ行き着いた。新たに兵を抱えるのであれば、継続して米と銭を出す仕組みを考えなければならなかった。

 

 俺は地図から目を離し、机の端に置かれた帳面を見た。以前なら、気になったことはすぐに項目を増やし、何人なら養えるのか計算を始めていただろう。今でも調べたい気持ちはある。だが坂田郡を受け取ることが決まったばかりで、その土地から実際にどれほどの収入が得られるのかさえ分かっていない。今ここで兵の数を決めても、使える米と銭を知らないまま都合のよい答えを作ることになりかねなかった。

 

 まずは坂田郡を治めるために、どの城へどれほどの兵を置く必要があるのかを確かめよう。その上で、今まで通り必要な時に兵を集める方がよいのか、それとも一部を常に抱えておく方がよいのかを比べればよい。弥五郎から聞いたことをそのまま六角へ持ち込むのではなく、六角の持つ土地と人に合わせて考える必要がある。

 

 昼に見ていた坂田郡へ、もう一度目を向けた。領地が増えたことで得られる年貢は、確かに六角の力になる。しかし、それと同時に治め、守るべき範囲も広がった。これから現地へ入る者たちの報告が届けば、必要な兵の数や、守るべき道と城の位置も少しずつ見えてくるだろう。それらを確かめてからでなければ、今の六角にどのような兵が必要なのかも判断できない。

 

 俺は朽木から届いた文を畳み、父上へ返すため脇へ置いた。坂田郡を得たことは、六角にとって間違いなく大きな利益だ。だが、その利益を生かせるかどうかは、これからの政に掛かっている。新たな土地を治める者を置き、そこで暮らす人々の生活を安定させ、必要な時に守れるだけの力を持つ。そのために、これまでと同じやり方でよいものと、改めるべきものを見極めなければならなかった。

 

 土地が増えれば、守る場所も増える。

 

 その増えた土地を守るための仕組みまで、今までと同じままでよいのか。坂田郡を受け取ると決まった今、俺はようやく、その問いを六角自身の問題として考え始めていた。

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