夜が深まるにつれて、観音寺城から昼間の気配が一つずつ消えていった。日中は絶えず聞こえていた小姓や近習の足音も途絶え、時折、夜番の者が廊下を歩く音だけが遠くから届いてくる。庭に面した障子は僅かに開けてあり、そこから入り込む風には夏の名残がまだ残っていたが、肌に触れる夜気には秋の冷たさが混じり始めている。風が通るたびに机の端へ置いた灯明の火が細く傾き、壁や柱へ落ちた影がゆっくりと形を変えていた。
机の上には坂田から届いた帳面や書状、それに近江北部から美濃までを描いた地図が広げてある。坂田を六角が受け取ることになって以来、俺のところへ運ばれてくる紙の量は目に見えて増えた。九万石という一つの数字でしかなかった土地も、帳面を開けば村や寺社、市、道、川、それらを治める国人や地侍の名へ細かく分かれ、その一つ一つに人の暮らしが結び付いている。今日も朝からそれらを読み続け、最後に残っていた書状を閉じた頃には、灯明の油も随分と減っていた。
これ以上続けても頭へ入らないだろう。そう判断して筆を置き、長く同じ形を取っていた指を何度か開閉する。以前の俺なら、ここからもう一冊くらい読めると考えて別の帳面へ手を伸ばしていたかもしれない。だが最近は弥太郎だけでなく父上からまで休めと言われることが増えていた。自分では以前ほど無茶をしているつもりはないものの、二人が揃って似たようなことを口にする以上、自分の感覚だけを信用して夜更けまで続けるのも違うのだろう。
読み終えた帳面を重ね、最後に地図を畳もうとしたところで手が止まった。墨で描かれた琵琶湖の東側には坂田があり、その北には伊香が続いている。さらに北へ進めば越前、西へ目を向ければ湖を挟んで朽木があり、東の山を越えれば美濃へ入る。紙の上ではどれも墨の線と文字に過ぎないが、自分の足で歩いた土地については、その文字へ実際の景色が重なるようになっていた。雨の後に荷車が深い轍へ車輪を取られていた道、市で荷を積み替える商人、収穫を待つ田、六角の一行を遠巻きに眺めていた村人たちの顔まで、目を閉じなくても思い浮かべることが出来る。
そのまま東へ視線を滑らせ、美濃と書かれた辺りへ目を留めた時、そこから先に続くはずのものを何気なく探した。
これから美濃で何が起きるのだったか。六角はどう動き、朽木はどちらへ進み、京では何が起こる。以前なら一つの地名を見ただけでも、それに結び付く出来事が幾つか連なって浮かんできた。前世で学んだ史実も、この世界へ生まれる前に読んでいた『淡海乃海』の筋書きもある。誰が誰と争い、どの家が衰え、どの家が勢力を伸ばしていくのか。全ての日付や細かな出来事まで暗記していたわけではない。それでも幼い頃の俺にとっては、誰にも見えない道の先を僅かに覗くための地図のようなものだったし、現実が原作通りに進む保証などないと理解してからも、これから何が起こり得るかを考える手掛かりにはなっていた。
ところが今夜は、その先が上手く続かなかった。
美濃の文字を見つめながら記憶を辿ってみる。六角はこの後どう動いた。弥五郎は次に何をした。美濃では誰が動き、京ではいつ何が起きた。三好はどうだった。朝倉は、若狭武田は。その名前を知っていることも、それぞれに何かがあったことも覚えている。けれど一つを掴んで次へ繋げようとすると、薄い霧の向こうへ景色が逃げていくように前後の輪郭が崩れ、最後に残るのは、自分は確かに知っていたはずだという感覚ばかりだった。
疲れているだけかもしれない。朝から長く帳面を読み続けていたのだから、頭が鈍っていてもおかしくはない。そう考えて目頭を指で押さえ、しばらく灯明から目を逸らしてみたが、胸の奥へ生じた引っ掛かりは消えなかった。むしろ休ませようとして考えるのをやめたことで、最近にも同じようなことが何度かあったと思い当たった。以前は何かが起こる前から記憶を探り、おおよその時期や流れを拾うことが出来た。それが最近では、報せを受け、人の名や土地の名を耳にしてから、ようやく記憶の底に沈んでいたものが浮かんでくる。それも年月や前後関係まで辿ろうとすると途端に頼りなくなり、史実だったのか、『淡海乃海』で読んだことだったのか、それとも俺がそこから考えた推測だったのかさえ分けにくくなっていた。
俺は畳みかけていた地図を元へ戻し、指先で皺を伸ばした。川中島なら覚えている。武田と上杉が争うことも、その戦が大きなものになることも知っている。美濃にもこの先で起こることがあり、京にも大きな出来事が待っている。弥五郎が朽木を率いてさらに力を伸ばしていくことも、『淡海乃海』の大きな流れとして残っている。ところが、それらを年と月に沿って並べようとすると、ところどころが抜け落ちていた。以前はもっと覚えていたという確信だけは妙にはっきりしているのに、その確信を支える中身の方が少しずつ失われている。
現実が変わったことで、知識と目の前の出来事が噛み合わなくなっただけなら説明はついた。この世界には、本来の『淡海乃海』にはいなかった俺が六角義治として存在している。父上も弥五郎も小夜も、物語に書かれていた通りに動く人形ではなく、自分で考えて選び、その結果を受けながら生きている。浅井との戦も、その後の坂田も、俺が知っていた筋書きと全く同じ形で進んだわけではない。俺自身が動いたことで変わったものもあれば、俺とは関係なく変わったものもある。未来が別の形へ進み始めているのなら、原作の知識がそのまま使えなくなるのは当然だった。
だが、それだけでは説明出来ないことがあった。現実が変わったとしても、俺がかつて何を読んだのかまで変わるわけではない。未来が原作から外れることと、原作そのものを思い出せなくなることは別の話だった。
その違いを確かめるように、俺は史実でも原作でもない、自分自身の記憶へ意識を向けた。
前世では数学を教えていた。三十代半ばまで生き、教壇へ立ち、黒板へ式を書きながら生徒へ説明していた。休日には釣りへ行き、弓を引き、合気道の稽古もしていた。歴史が好きで本を読み、戦国時代について調べ、その中で『淡海乃海』を読んだ。結婚はしていなかったし、恋人もいなかった。幼い頃に両親を失い、施設で育ったことも覚えている。自分がどんな人生を送ったのかを人へ説明しろと言われれば、その程度なら今でも言葉に出来る。
なら、その人生を実際に形作っていたものはどうだった。
毎日のように通った学校は、どんな建物だった。教室の窓は黒板へ向かって左右どちらにあり、職員室の自分の机はどこにあった。隣に座っていた教師はどんな顔をして、どんな声で俺を呼んでいた。施設で暮らしていた頃、食堂のどこへ座ることが多かった。世話になった大人たちの顔は。名前は。声は。
問いを一つ増やすごとに、胸の内側へ冷たいものが広がっていった。
何も残っていないわけではない。机が並んだ教室も、黒板も、天井に並んだ灯りも、紙や書類が積まれた職員室も断片として浮かんでくる。誰かと話し、笑ったこともあれば、仕事のことで腹を立てたことも覚えている。施設にも人がいた。俺を叱った者もいれば、飯を食べたかと声を掛けてくれた者もいたはずだ。それなのに、その「誰か」を一人選んで顔を思い浮かべようとすると、像が急に崩れた。髪が長かったのか短かったのか、笑う時にどんな顔をしたのか、声が高かったのか低かったのか。手を伸ばせば届きそうなところにあるのに、触れようとすると指の間から抜けていく。
気付けば机の縁へ置いた手に力が入っていた。掌へ返ってくる磨かれた木の冷たさだけは、嫌になるほど鮮明だった。部屋には墨と灯明の油の匂いがあり、障子の向こうでは風に揺れた枝葉が擦れている。廊下へ出ればどこに夜番が立っているのかも、父上の部屋までどこを曲がればよいのかも、弥太郎が普段どちらから顔を出すのかも分かる。庭の大きな石の形も、春になればどの木が先に色付くのかも、雨が続けば城内のどこへ湿った匂いが籠もるのかも、目を閉じれば確かめられるほど身体へ馴染んでいた。
前世では三十年以上を生きたはずなのに、その頃の教室より、十数年しか暮らしていない観音寺城の方が遥かに鮮明だった。
喉の奥が乾き、唾を飲み込んでもすぐに張り付くような感覚が戻ってきた。俺は机の脇から白い紙を一枚取り出した。忘れているのなら、残っているうちに書いてしまえばいい。史実も原作も、前世で生きていた自分のことも、紙へ移しておけば消えずに済む。帳面を作り、数字を残し、報告を記録することで物事を整理してきた俺にとって、それは考えるより先に身体が選んだやり方だった。
硯へ僅かに水を足して墨を擦る。普段なら気にも留めない音が、静まり返った部屋では妙に大きく聞こえた。何から書くべきか迷ったものの、結局、筆は未来へ向かった。前世そのものを書き残すより先に、この先に起きる出来事を残しておけば、記憶がさらに薄れても六角を守るために使える。そんな理由を付けて紙の上へ筆を運び、まず年号を書いた。
永禄四年。
その四文字を書いたところで、筆が止まった。
この後は何だった。
川中島がある。武田と上杉が戦う。だが、それはいつだった。美濃では誰がどう動く。義輝様を待つものはいつ起きる。弥五郎は次に何をする。朽木はどの順番で勢力を広げ、誰と戦い、どの土地を得た。前世で読んだ原作では確かに知っていた。こちらへ生まれて間もない頃にも覚えていた。竹若丸という名を初めて知った時、自分がどの世界へ来たのかを理解出来たのは、その記憶がはっきり残っていたからだった。
それなのに、筆先を紙へ下ろせなかった。
指が震え始めていた。
無理に思い出そうとすればするほど、頭の中では名前や場面の欠片ばかりが浮かび、それらを繋いでいたはずのものが抜け落ちていることだけが目立った。完全に消えてしまっているのなら、まだ諦められたのかもしれない。だが、覚えている。確かに知っていたという感覚がある。見覚えのある人影が霧の向こうに立っているのに、その顔だけがどうしても見えないようなもどかしさが、胸の奥を締め付けていった。
筆先から膨らんだ墨が一滴落ち、「永禄四年」と書いた文字の下へ黒い染みを作った。そこでようやく筆を硯へ戻したが、震えは指だけでは収まらなかった。前世の自分の名、教壇へ立っていた時の景色、釣り竿を握った手、弓を引いた時に弦が指へ食い込む感覚、施設で過ごした幼い頃の夕暮れ。どれも完全には消えていない。それでも、今ここにいる六角義治の記憶の奥へ押し込まれ、古い紙が日に焼けて少しずつ文字を失っていくように薄くなっている。
このまま年月が過ぎれば、いつか全部なくなるのだろうか。前世で三十年以上を生きた男のことを何一つ思い出せず、「自分には前世があった」という事実だけが残る日が来るのか。その時、俺は今と同じ人間だと言えるのか。六角義治として生まれてから経験したものだけで出来た人間になった時、前世の俺は死んだ時とは別の意味で、本当にいなくなってしまうのではないか。
いつの間にか筆から離れた手が額へ上がっていた。身体の芯は冷えているのに、額からこめかみにかけて脂汗が滲み、掌にも湿り気がまとわりついている。息を吸おうとしても途中で胸につかえ、浅い呼吸ばかりが重なった。視線を上げても、目の前の紙に書かれた「永禄四年」の四文字が少し遠く、灯明の光まで薄い膜の向こうにあるように見えた。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。普段なら誰かがこちらへ来る段階で気付いただろうが、今は襖の前でその足音が止まるまで意識へ入ってこなかった。
「若様。篠でございます。御報告したいことがございます」
いつもの落ち着いた声が襖越しに聞こえた。返事をしなければと思ったものの、すぐには声が出ず、遅れて「入ってくれ」と答える。自分の耳に届いた声は思っていた以上に掠れていた。
襖が開き、篠が部屋へ入ってくる。
数歩進んだところで、その足が止まった。
篠の視線が最初に向いたのは俺の顔だった。額を押さえたまま机へ身を預け、呼吸も整っていない。そこから視線が僅かに下がり、机の上に置かれた筆と、墨を一滴落とした紙へ移る。「永禄四年」とだけ書かれた紙を見ても、篠に事情が分かるはずはない。何か悪い報せを受けたようにも見えるだろうし、急に具合を崩したようにも見えるだろう。報告のために持ってきたらしい小さな書付を手にしていた篠は、それを差し出すことも忘れたように俺を見たあと、すぐに身体の向きを変えた。
「人を呼んでまいります」
「待ってくれ。呼ばなくていい」
思った以上に掠れた声が出た。篠は襖へ伸ばしかけていた手を止め、肩越しにこちらを見る。その目が額に滲んだ汗から震えている手へ移ったのを見て、自分が大丈夫だと言い張れる姿ではないことくらい俺にも分かった。それでも今ここへ弥太郎や他の小姓を呼ばれれば、何があったのかと聞かれる。騒ぎが大きくなれば父上の耳にも入るだろう。病ではないと説明したところで、それなら何があったのかという話になる。その問いに答える言葉を、今の俺は持っていなかった。
「病ではない。少し……考え過ぎただけだ。しばらくすれば治まる。だから誰も呼ばなくていい」
言葉を足してみても、篠はすぐには動かなかった。俺の顔をしばらく見たあと、襖へ向けていた身体をゆっくり戻す。納得したというより、少なくとも今すぐ誰かを呼ぶことはしないと決めただけなのだろう。篠は持っていた書付を自分の膝元へ置き、少し離れたところへ腰を下ろした。何を考えているのかは表情から読み取れなかったが、報告を始めようとする様子もなければ、俺が何を考えていたのか尋ねる様子もなかった。
その沈黙の中で、かえって自分の呼吸の乱れだけが耳についた。何か聞かれれば、答えないという選択が出来た。疲れているだけだと誤魔化すことも、明日にしてくれと部屋から出すことも出来ただろう。だが篠は何も聞かず、ただそこにいた。理由を求められないことで、俺自身が押し込めようとしていたものから目を逸らすことが出来なくなり、呼吸を整えようとして落とした視線は、再び机の上の紙へ戻ってしまった。
灯明の光に照らされた紙には、「永禄四年」の四文字と、その下に落ちた墨の染みしかない。未来を書き残そうとして用意した紙なのに、その先へ何も続けられなかったことが、今度は目に見える形で残っている。紙へ手を伸ばしかけたものの、指先の震えが目に入り、途中で止めた。
前世の記憶が薄れている。
今夜になって突然始まったわけではないのだろう。もっと前から兆しはあった。以前ならすぐ浮かんだはずの出来事を思い出すまで時間が掛かり、知っているはずの人名が出てこなくなり、何かが起きてからようやく原作の一場面を思い出す。それでも現実が変わったからだ、こちらで覚えることが増えたからだと、その都度理由を付けて深く考えないようにしていた。ところが今夜は、史実や原作だけではなく、自分自身の過去まで同じように薄れていることを確かめてしまった。
史実や原作だけなら、まだ耐えられたかもしれない。先を知るための知識を失えば困ることは間違いないが、それなら今まで以上に目の前の人間を見て、報告を集め、自分で判断すればいい。父上は未来を知らなくても六角を率いている。後藤や蒲生、三雲たちもそうだ。弥五郎だって、自分が俺の読んだ物語の中で何をする人物だったのかなど知らずに朽木を率いている。俺だけが未来を知らなければ何も出来ないというのなら、これまで積み重ねてきたものまで嘘になってしまう。
けれど、教室の景色まで消え始めていることは、それとは違った。誰かの顔を思い出せず、自分を呼んでいた声も出てこない。施設で暮らしていた頃の部屋がどれほど広かったのか、食事をした場所がどんな造りだったのか、それさえ輪郭が曖昧になっている。それらは戦で勝つためにも、坂田を治めるためにも必要のない記憶だった。六角家の誰かへ話せるものでも、この時代で確かめられるものでもない。それでも、前世の俺が確かにそこにいて三十年以上を生きていたことを覚えている者は、今となっては俺しかいない。
その俺が忘れたら、誰が覚えている。
胸の奥で何かが詰まり、再び呼吸が浅くなった。額から手を離して息を整えようとしたが、今度は自分の手が小さく震えているのがはっきり見えた。この手は前世の手ではない。弓を引いていた頃に指へ出来た硬いところも、教師として長く筆記具を持っていた指も、もうどこにもない。六角義治として生まれた身体で十数年を過ごし、その間に出来た傷や癖だけが今の手には残っている。
普段なら、前世の男と六角義治のどちらが本当の自分なのかなど、考えること自体に意味はないと片付けただろう。どちらも自分だ。それで済んでいた。前世の記憶を持っているからといって、亀松丸として過ごした幼い頃が偽物になるわけではない。父上に叱られたことも、弥太郎たちと過ごした時間も、小夜を見送った時に胸へ残ったものも、全て自分が経験したことだった。
だが、その片方が消えてしまったらどうなる。
いつか前世について何も思い出せなくなり、数学を教えていたらしい、別の時代を生きていたらしいという曖昧な感覚だけが残った時、それでも今の俺と同じ人間でいられるのか。前世の記憶があったから考えたことも、選んだことも、変えたこともある。その元になったものだけが頭の中から消えた後、それらを選んだ俺まで別のものになってしまうのではないか。
答えを探そうとするほど、頭の中にあるはずの前世が遠ざかっていくようだった。長く地図や帳面を見続けたせいなのか、やがて視界まで滲み始める。目を閉じれば治まるだろうと片手を上げたところで、頬へ温かいものが伝い、そのまま顎の辺りまで流れた。
泣いているのだと分かるまで、少し時間が掛かった。
前世を含めれば三十年以上を生き、そのうえこちらでも十数年を過ごしている。それなのに、自分が何者なのか分からなくなることがこれほど怖いとは考えたこともなかった。袖で拭ってしまえばいいと思い、震える手を顔へ近づけようとしたが、上手く力が入らない。その手に、横から別の温かさが触れた。
顔を上げると、いつの間にか篠がすぐ傍まで来ていた。少し前まで膝元に置いていた書付は机から離れた畳の上に残されている。篠は俺の手首を掴むことも、震えを止めようと強く握ることもせず、両手で俺の手をゆっくりと包み込んだ。冷えていた指先へ掌から体温が伝わり、その温かさだけが、今この部屋に確かに存在するものとして感じられた。
「篠……」
名前を呼んだところで、その先に続ける言葉がなかった。前世の記憶が消えそうで怖いなどと言ったところで、前世という言葉から説明しなければならない。それ以前に、これまで誰にも明かしてこなかったものを、この状態のまま口にしてよいのか判断する余裕もなかった。
篠は俺の顔を見ていたが、何があったのかとは尋ねなかった。机の上の紙へも、それ以上視線を向けようとはしない。何が俺をここまで追い詰めているのか分からないまま、それでも今は問いを重ねる時ではないと判断したのだろう。僅かな間を置き、包んでいる手を離さないまま、静かな声で言った。
「大丈夫です。今は何もお話しにならなくて構いませんから、若様」
何が大丈夫なのか、篠には分かっていないはずだった。俺が何を恐れ、なぜ「永禄四年」と書いただけの紙を前にしてこんな状態になっているのか、知る手掛かりすらほとんどない。それでも、いつも観音寺城で呼ばれているのと同じ「若様」という言葉を聞いた途端、張り詰めていたものが切れた。官位でも、六角の嫡男としての立場でもなく、幼い頃から聞き慣れてきた呼び方が、今の俺をここへ繋ぎ止めるように耳へ残った。
「……忘れてしまうのが、怖いんだ」
口から漏れたのは、それだけだった。誰を、何を、いつのことを忘れるのかは言わなかった。それ以上を口にすれば、今まで胸の内だけに置いてきたものまで一緒に溢れそうだった。篠も続きを求めず、包んでいた手へ僅かに力を加えるだけで、言葉を待つこともしなかった。
頬を伝う涙を止めようとすることも、もう出来なかった。声を上げて泣いたわけではない。ただ俯けば涙が一つ、また一つと畳へ落ち、視界の端で灯明の光が滲んでいく。恥ずかしさはあった。明日になれば、なぜこんな姿を見せたのかと後悔するかもしれない。それでも今は、平静を装うための力そのものが残っていなかった。
篠は俺の手を片方の手で包んだまま、もう片方をゆっくりと背へ回した。肩から背中へ掌が下り、少し間を置いてまた戻ってくる。一定の速さで繰り返されるその動きは、何かを説得しようとするものでも、無理に泣き止ませようとするものでもない。何も分からないからこそ、言葉を増やさず、ただそこにいることを選んでいるようだった。
「大丈夫です、若様。大丈夫ですから」
背を擦りながら、篠がもう一度だけ言った。
子供を宥めるようなものだと頭のどこかでは考えた。俺はもう幼い亀松丸ではない。六角の嫡男で、右衛門督の官位を持ち、家臣の前では自分の判断を示さなければならない立場にいる。それでも、その手を振り払おうとは思わなかった。篠の言葉に根拠がないことも分かっている。失った記憶が戻ると約束出来るはずもなく、これ以上忘れないと保証出来るはずもない。
それでも背中へ手が触れるたび、乱れていた呼吸だけは少しずつ長くなった。吸った息が胸の途中で止まらず、ゆっくり腹の方まで下りていく。机の木目が再び見えるようになり、障子の向こうで風に擦れる葉の音も耳へ戻ってきた。篠の掌の温かさも、包まれている自分の指の感覚も、今ここにあるものとして確かに受け取ることが出来た。
どれほどそうしていたのかは分からない。長かったようにも思えるし、実際には僅かな時間だったのかもしれない。やがて涙が止まり、呼吸も普段に近いところまで戻ってくると、篠は急いで手を離すことなく、俺が自分から指を動かすまで待っていた。俺はようやく目元を袖で拭い、机の上へ視線を落とした。
「……すまない」
「何がでしょう」
あまりに普段と変わらない声で返され、思わず篠の顔を見る。からかっている様子はない。俺が何について謝ったのか本当に聞き返しているのか、それとも分かったうえで受け取らないつもりなのか、その表情からは判断出来なかった。
少し迷った末、それ以上謝るのはやめた。
「報告に来たんだったな」
「はい。ですが、明日でも差し支えありません。今夜はもうお休みになった方がよろしいかと」
「そうしてくれ。今聞いても、頭に入りそうにない」
篠は一度だけ頷き、畳へ置いていた書付を拾い上げた。内容について触れることはなく、そのまま立ち上がって襖へ向かう。戸へ手を掛けたところで僅かに足を止めたが、振り返って事情を尋ねることはなかった。
「今夜のことは、誰にも申しません」
俺はすぐには答えず、机の上に残った紙を見た。「永禄四年」の文字と、その下の墨の染みはすでに乾き始めている。これを誰かから隠したところで、薄れた記憶が元へ戻るわけではない。それでも、少なくとも今は父上にも弥太郎にも説明しなくてよいのだと思うと、肩に残っていた力が僅かに抜けた。
「……頼む」
「承知しました。では、お休みください、若様」
襖が静かに閉じられ、篠の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。俺はしばらくそのまま座っていたが、もう未来を書き足そうとはしなかった。「永禄四年」と書いた紙を破ることも出来ず、かといって他の帳面へ挟む気にもなれない。結局、二つに折って机の引き出しへ収め、硯と筆を片付ける。灯明を消す前に地図へ一度だけ目を向けたものの、美濃の先に何があるのかを思い出そうとはしなかった。
*
翌朝の観音寺城には、昨夜の静けさが嘘のように人の動きが戻っていた。朝の冷たい空気が廊下を抜け、文箱を抱えた小姓が足早に行き交い、庭先からは馬を引く者の声が聞こえてくる。俺もいつもと同じ時刻に起き、顔を洗って朝餉を済ませると、昨夜読み残した坂田の帳面を机へ広げた。目元には僅かな重さが残っていたが、周囲が気付くほどではないだろうと考え、いつものように筆を取った。
やがて襖の向こうで足音が止まり、聞き慣れた声がした。
「若様。昨夜の御報告をお持ちしました」
入るよう答えると、篠は昨夜と同じ書付を手に部屋へ入り、いつもの位置で膝をついた。俺の顔を確かめるように見つめることもなければ、昨夜のことへ触れる様子もない。報告も普段通りだった。誰がどこで何を見たのか、確かなことはどこまでで、そこから先の何が推測なのかを分けながら話していく。その声も、間の取り方も、書付を開く手付きも、昨日までと何一つ変わらなかった。
俺も昨夜のことには触れず、必要なところだけを確認して指示を返した。篠はそれを聞き終えると書付を畳み、いつものように頭を下げる。
「承知しました」
「ああ。頼む」
それだけで話は終わった。
篠が立ち上がって襖を開くと、朝の光が細く部屋へ差し込み、その向こうを別の小姓が文箱を抱えて通り過ぎていった。篠はその者へ道を譲り、何事もなかったように廊下へ出ていく。俺も閉じられた襖を長く見送ることはせず、机へ視線を戻して坂田から届いた帳面の続きを開いた。
昨夜二つに折った紙だけは、引き出しの中に残したままだった。
書いてて泣いた。
感情移入が激しい作者なんで!!
そろそろ篠とか主人公の下についている甲賀者の特徴入れた方が想像しやすいのかねぇ。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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このまま
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5000文字前後
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15000文字前後
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1~5000文字