坂田郡を六角が受け取ることが決まってから、観音寺城ではそれまでとは少し違う忙しさが続いていた。浅井との戦が始まった頃のように武具を運ぶ者や早馬が絶えず駆け込んでくるわけではない。代わりに増えたのは文と帳面であり、坂田にある城、村、寺社、街道、そこへ所領を持つ国人たちの名が次々と書き出され、誰を現地へ送り、誰から事情を聞き、どの仕組みを当面そのまま残すのかが一つずつ決められていった。
土地を得るという言葉から、以前の俺ならもっと派手なものを想像していただろう。領地が広がり、石高が増え、六角の力が強くなる。それ自体は間違っていない。だが、実際に新しい土地を受け取る段階になって目へ入ってくるのは、どれも地味な仕事ばかりだった。年貢を納める先を変えること、以前の掟をどこまで残すか決めること、道を守る者を置くこと、国人たちへ六角が何を求めるのかを伝えること。どれか一つを間違えたからといって、その日のうちに城が落ちるわけではない。それでも小さな不満が積み重なれば、何年か後には六角へ向けられる敵意に変わるかもしれない。
父上はその辺りをよく分かっているらしく、坂田郡を受け取ることが決まった直後から、現地の仕組みを不用意に壊すなと繰り返していた。浅井が使っていたものだからという理由だけで役人を全て入れ替えれば、土地勘も人の繋がりも一度に失われる。逆に何も変えなければ、名目だけ六角領になった場所で旧浅井臣が以前と同じように振る舞い続けることになる。その間をどこで取るのかが、これからの仕事なのだろう。
俺も甲賀の者たちから上がってくる報告へ目を通していたが、その中でも特に気になったのは道だった。坂田は湖沿いだけを見れば観音寺から遠過ぎる土地ではない。しかし、美濃との境を意識するようになれば、何かあった時に観音寺から兵を向かわせるだけでは遅い場合がある。現地の国人へ命じれば済む話でもあるが、その国人たち自身が六角へ完全に馴染むまでには時間が要る。
地図の上へ指を置き、観音寺から坂田までの距離を目で追ううちに、正月に弥五郎から聞いた言葉がまた浮かんだ。朽木では百姓を兵として使っていない。以前は、その一言を朽木が素早く軍を動かせる理由として考えていたが、木之本での戦を経た今では少し違う意味を持って見える。浅井が動いた時、弥五郎は婚儀から僅か三日で清水山城を離れた。田植えが終わったばかりとはいえ、村々から兵を集め、武具を渡し、隊を整え、それから北へ向かうという流れを一つずつ踏んでいたなら、あれほど早く動けただろうか。
さらに木之本では雨が降り、朽木が多く抱えていた鉄砲が十分に使えなくなった。それでも兵は崩れず、浅井方の離脱を見た瞬間に攻勢へ移っている。武器が良かっただけでは説明出来ない。戦うことに慣れた者を普段から抱え、その者たちが命令を受ければすぐ動ける状態を作っていること自体が、朽木の強さの一つなのだろう。
だからといって、六角でも全て同じようにすればいいとは思わなかった。朽木と六角では家の大きさが違い、抱えている国人の数も、領地の広さも、戦になった時に必要となる兵の数も違う。何千、何万という兵を全て一年中食わせ続けるような仕組みを一度に作れば、戦う前に蔵が空になるかもしれない。そもそも、長く続いてきた国人衆との関係を無視して直属の兵だけへ置き換えようとすれば、六角家中そのものを揺らすことになる。
それでも、何も変えないという答えも違うように思えた。六角には大勢を集める力がある。その一方で、大勢を集めるからこそ時間が掛かる。朽木と同じものを作る必要はないが、六角に足りない部分だけを補うことは出来るのではないか。その考えが頭の中である程度まとまったところで、父上へ話をすることにした。
*
父上の部屋を訪ねたのは、その日の午後だった。梅雨の晴れ間は長く続かず、昼を過ぎた頃からまた雲が増え始めていた。障子の向こうから入る光は朝より弱く、湿った風が時折畳の上を抜けていく。父上は坂田郡に関する文を何枚か読み比べており、俺が来たことへ気付いてもすぐには顔を上げず、「何じゃ。また坂田か」と文面へ目を落としたまま聞いてきた。
「坂田とも関係はございますが、少し違います。六角の兵のことです」
その一言でようやく父上は文から目を離し、「申してみよ」とこちらへ向き直った。
俺は正月に弥五郎から聞いたこと、木之本での朽木勢の動き、そして坂田郡を得たことで六角が守るべき範囲まで広がったことを、出来るだけ順序立てて説明した。話しながら、自分の考えがまだ完全に固まっていない部分も見えてきたが、そこを分かったふりで埋めるつもりはなかった。結局、俺が言いたかったことは一つだった。
「六角でも、百姓とは別に、いつでも動かせる兵を持つべきだと思います。ただ、朽木の真似をして六角全体を変えたいわけではありませぬ。国人衆を無くすつもりもございませぬし、大きな戦になればこれまで通り集まる兵も必要です。その上で、何か起きた時に国中へ触れを出し、集まるのを待たずとも先に動ける者が欲しいのです」
父上は驚かなかった。むしろ、いずれ俺が言い出すと考えていたような顔で腕を組み、「弥五郎がやっておるから欲しくなった、というだけではあるまいな。強い兵が欲しいのか、それとも早く動ける兵が欲しいのか」と、こちらの考えをまとめて確かめるように聞いてきた。
強い兵が欲しくないわけではない。訓練された兵の方が戦では使いやすいだろうし、同じ人数なら農兵より常備の兵の方が戦える可能性も高い。だが、それを目的の中心へ置くと、自分が考えていたものと少しずれる。
「強さも必要だとは思います。ただ、それだけではございませぬ。戦になった後に勝つためというより、戦になる前、あるいは大軍が集まる前に動ける兵が欲しいのです。坂田で騒ぎが起きた時、美濃から兵が入った時、城や街道を急いで押さえなければならぬ時、国人へ触れを出して村から人を集め、準備が整うまで何も出来ぬ状態だけは変えたいと思っています」
言葉にしてみると、自分が欲しいものがさらに明確になった。六角の軍そのものを丸ごと作り直したいのではなく、今ある仕組みの横へ別の仕組みを一つ足したい。大軍を集める力は残し、その大軍が揃うまでの時間を埋められる兵を持つ。それなら六角が長く使ってきた国人衆との関係を壊さず、朽木から学んだ利点だけを取り込めるかもしれない。
父上はしばらく黙っていたが、やがて机の上の文を横へ置き、「ならば、いくつ集める」と聞いた。
「まだ決めておりませぬ。人数を先に決めれば、その数を集めること自体が目的になりそうです。それよりも先に、どういう者なら常に兵として抱えられるのかを見たいと思っています。家を継ぐ者を田から引き離せば、その家が困ります。次男や三男、浪人、すでに足軽として戦を渡り歩いている者など、兵になることで暮らしを成り立たせられる者から考えるべきかと」
「銭も要るぞ」
「それも調べさせます。ただ、一年に米が何石、草鞋が何足と最初から細かく詰めるより、まず六角で続けられる形になるかを見るつもりです」
父上はそこで小さく息を吐き、「以前なら先に数を書いて、その数をどう揃えるか考えておっただろうな」と笑った。
「否定出来ませぬ」
「随分慎重になったものじゃ」
「一度に全部決めても、間違えるだけだと思うようになりました」
「それを慎重になったと言うのだ」
からかわれているのは分かったが、以前とは考え方が変わってきていることも自覚していた。前世の知識があるからこそ、俺は「兵農分離」という言葉を知っているし、その後にどういう軍制へ繋がるかも知識としては知っている。しかし、名前を知っていることと、この時代の六角で実際に動かせる仕組みを作ることは別だった。歴史の教科書なら一行で済む制度でも、その中で生きる人間にとっては、仕事も暮らしも家族も変わる話になる。
何より、俺が知っている兵農分離と、弥五郎が実際に作っている仕組みが完全に同じだという保証もない。ならば名称を真似るのではなく、六角に必要な機能から考えるべきだった。
父上は俺の話を聞き終えると、少し考え込んだ後で「やってみよ」と答えた。思っていたより早い許可に一瞬驚いたが、父上はすぐに続きを加えた。
「ただし、全部を変えようとするな。六角には六角の家臣がおり、六角の土地があり、六角の戦の仕方がある。朽木で上手くいったからというだけで同じものを持ち込めば、必ずどこかで歪む。それに、兵を抱えるために民を苦しめるような真似もするな。人数が増えれば、人は都合の良い理屈を思い付くものじゃ」
そこまで言ってから父上は俺を真っ直ぐ見た。
「そなたが欲しいのは朽木の兵ではあるまい。六角の兵を作れ」
その言葉は、思っていた以上に強く残った。俺自身、朽木の仕組みに惹かれていることは否定出来ない。弥五郎が短い時間で兵を動かし、浅井を滅ぼしたのを見れば、同じものが欲しいと思うのは自然だった。しかし、それだけでは真似に過ぎない。六角が必要としているものは何なのか、その答えを基準にしなければならない。
「承知いたしました。民の負担を増やして兵だけを便利にするような形には致しませぬ」
「今はそう思っておるだろう。だからこそ、後でも忘れるな」
目的を達成することばかり考え始めれば、そのために誰が負担しているのかを見なくなる。梅酸丸の時も、関の噂の時も、数字だけを見ていたら気付かなかったものがあった。兵も同じなのだろう。俺は父上へもう一度頭を下げて、その言葉を胸に残した。
*
それから数日、兵を新しく集めるための準備が始まった。とはいっても、城下へ触れを出して「兵になりたい者は集まれ」とやったわけではない。まずは家臣や甲賀の者を通じ、どのような人間なら田畑へ強く縛られず、継続して兵として働けるのかを調べさせた。
予想していた通り、候補になりそうな者はいくつかいた。家を継ぐ必要のない次男や三男、主家を失って浪人となった者、戦がある度に足軽として雇われ、その日その日の銭を得ている者。土地をほとんど持たず、村に残っていても食べていくのが難しい者もいる。
ただ、その話を聞いているうちに、一つ気を付けなければならないことにも気付いた。生活に困っている者なら誰でも兵にすればよいわけではない。食うために来ること自体が悪いわけではなく、仕事として兵になるのなら、それはむしろ自然な理由だろう。しかし、命令を守れない者、すぐ揉め事を起こす者、戦場で勝手に略奪する者まで抱えれば、六角が自分で火種を増やすことになる。
武芸の巧拙だけを見るのも違う。槍が上手い、力が強い、足が速いという長所は確かに役立つが、命令を聞かず勝手に動く者がどれほど腕に優れていても、集団で動かす兵として使いやすいとは限らない。誰を兵として抱えるかという段階から、すでにその後の戦い方まで決まっていくのだと思うと、人数を急いで決めなかったことに少し安心した。
弥太郎は俺の横で候補者についての報告を聞きながら、時折気になる点を書き留めていた。俺より字が綺麗なのが少し腹立たしい。報告が一段落したところで、「人数は、いつ決められます」と聞かれたので、まだ決めないつもりだと答えると、弥太郎は妙に納得した顔をした。
「御屋形様にも同じことを申されたので?」
「ああ。随分慎重になったと笑われた」
「某も同じことを思いました。以前なら、最初に五百とでも書いておられそうでしたので」
「何故五百なんだ」
「若様は切りの良い数がお好きですから」
反論しようとしたが、思い当たるところが多過ぎて言葉が止まった。弥太郎はそれを見て笑い、俺も呆れながら息を吐いた。その軽いやり取りのおかげで、兵を作るという言葉に自分で付けていた余計な力が少し抜けた気がした。
大きな制度を始めるように聞こえても、実際にやることは、誰を集めるかを決め、どう食わせるかを考え、何を教えるかを決めることの積み重ねなのだろう。一度に完成させる必要はなく、まず動かせる形を一つ作り、悪いところが見えれば直す。それくらいでいいと考えられるようになったこと自体、以前の俺からすればかなり大きな変化だった。
*
兵を集める準備を家臣たちへ任せてから、俺自身がそこへ付ききりになることはなかった。候補となる者の数、どこから来たのか、今までどんな暮らしをしていたのか。必要な報告は受けるが、全員を自分で探しに行くようなことはしない。誰に何を任せ、その結果のどこを自分が確かめるかを考える方が、今では重要だと思えるようになっていた。
数日経つ頃には、まだ小さな規模ではあるものの、新しい兵の仕組みを試す準備が形になり始めた。六角の全軍を変えるのではなく、国人衆から兵を集める従来のやり方も残し、その横に普段から六角の下に置き、必要な時にはすぐ動ける兵を作る。今の段階ではそれで十分で、仕組みが本当に役に立つかどうかは、実際に動かしてから見ればいい。
そう考え始めた頃、その日の夕方に父上から再び呼び出しが来た。坂田から上がってきた報告へ目を通していたところだったので、また兵のことか、あるいは坂田郡の国人について何か問題が起きたのだろうと思いながら父の部屋へ向かった。
ところが、部屋へ入って最初に目へ入ったのは坂田の地図でも兵についての帳面でもなく、机の上に置かれた何通かの文だった。そのうち一通には京からのものと分かる書付があり、俺が座るのを待って父上はそれを手に取った。
「右衛門督。近く京へ上る。支度をしておけ」
予想していなかった言葉に、一瞬意味が飲み込めず、「京へ、でございますか」と聞き返すと、父上は当然のことを告げるように頷いた。
「浅井が滅び、坂田がこちらへ入った。近江の形が変われば、京で六角を見る目も変わる。向こうから何か言われる前に、こちらから顔を出しておいた方がよい。そなたも連れて行く」
そこまで聞いて、ようやく意味が見えてきた。六角が坂田郡を得たことは、近江の中だけで終わる話ではない。朽木が北近江へ伸び、六角も領地を広げた。その動きを京が見ていないはずがなく、むしろ何も言わずにいる方が余計な疑いを招くのかもしれない。
「父上だけではなく、俺もですか」
「そなたを置いて行ってどうする。どうせ頭の中は、まだ兵と坂田で一杯なのだろう」
図星だったので黙ると、父上は面白そうに笑い、「ちょうどよい。しばらく帳面と兵から離れよ。遊びに行くわけではないがな」と続けた。そこまでは軽い調子だったが、次の言葉では表情が少し引き締まった。
「帝へ拝謁する。公方様にも挨拶へ行く。近江で何をしておるかだけ考えておればよい立場ではなくなってきたということじゃ」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が自然と伸びた。帝、公方、京。前世なら歴史の中でしか見なかった人々と、実際に顔を合わせることになる。ついさっきまで観音寺で兵の仕組みをどう変えるか考えていたというのに、急に話の大きさが変わったように感じた。
だが、それも六角家の嫡男として避けて通れるものではないのだろう。領地が増えれば見るべき土地が増え、力が増えれば、その力を見ている者も増える。近江の中でどう動くかだけではなく、京から六角がどう見えるのかまで考えなければならない。
父上の前を辞した後、廊下へ出ると、夕暮れの光が観音寺城の屋根を赤く染めていた。ほんの少し前まで俺の頭の中にあったのは、坂田をどう守るか、六角の兵をどう変えるかということばかりだった。それが今では、その先に京まで加わっている。
全てを一度に抱える必要はない。兵のことは任せた者たちに進めてもらい、坂田も必要な報告を受ければいい。その間、俺自身は京へ行き、今度は近江の外から六角がどう見られているのかを知る。
何が待っているのかはまだ分からない。ただ、六角家の中だけを見ていればよかった時期が、少しずつ終わり始めていることだけは分かった。
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