京へ上る日が決まってから、観音寺城では俺の周りだけが妙に落ち着かない日々が続いていた。兵の仕組みを改める話も、坂田郡の受け入れも、途中で止まったわけではない。家臣たちはそれぞれの役目を進め、甲賀の者たちからは坂田の道や村についての報告が届き、常に動かせる兵を集めるための候補も少しずつ増えている。
俺が京へ出ている間に判断を求められたらどうするのか。以前なら気になって仕方がなかっただろう。だが今回は、出立までに必要な指図を整え、細かな判断は担当する者へ任せることにした。急ぎの話は父上や重臣たちへ通せばよいし、戻ってから確かめても差し支えないものまで、今ここで全て決める必要はない。数日城を離れた程度で仕事が止まるようでは、それこそ仕組みとして問題がある。
そう頭では納得していても、出立の朝に厩から引き出された馬や、供をする者たちが荷を整える姿を見ていると、意識は坂田や兵のことから自然と京へ移っていった。
これまでにも人と会うために緊張したことはある。父上や六人衆を相手に自分の考えを述べる時には、どのような問いが飛んでくるのか分からず、気が重くなることもあった。しかし今回向かう先は、それらとはまるで違う。
帝へ拝謁し、その後には公方様へ挨拶する。
言葉にすればそれだけのことなのに、いざ自分が御前へ進む姿を思い浮かべると、普段なら考えられるはずの受け答えまで頼りなくなってくる。
前世でも、天皇という存在は歴史の中にも現代にもあった。どのような制度の下にあり、それぞれの時代でいかなる立場に置かれていたのか、教師だった頃には一通り知っていたつもりだ。だが知識として理解していることと、その御前へ実際に出ることは別だった。
教科書で名を見たことのある御方と同じ場に進み、直接言葉を掛けられるかもしれない。そう考えるだけで、歴史を知っているという感覚が急に当てにならなくなる。そもそも今の俺は、歴史を外から眺める人間ではない。六角家の嫡男として、その歴史の中にいるのだ。
支度を終えた俺を見た弥太郎は、そんな胸の内を察したらしい。馬へ乗る前、こちらの顔をしばらく眺めた後で余計なことを言い出した。
「若様でも、そのようなお顔をなさるのですね」
「どういう顔だ」
「評定へ向かわれる時より、よほど固うございます。帝に算術を問われるわけでもありますまいに」
「それは分かっておる。だから余計に困るのだ。何を聞かれるか分からぬ」
「聞かれたことにお答えすればよろしいのでは?」
「それが簡単なら苦労せぬ」
弥太郎は笑いを堪えるように口元を押さえた。こちらとしては真面目な話なのだが、どうも普段と違う様子が面白いらしい。
言い返そうとしたところで、少し離れた場所に父上がいることへ気付いた。こちらへ声を掛けるでもなく、供の支度を見ながら僅かに口元を上げている。俺が緊張していることなど、とっくに見抜いているのだろう。
父上が平然としていることへ、少しばかり腹立たしさを覚えた。
もっとも、父上にとって上洛も御所も初めてではない。幕府や朝廷との関わりを長く持ち、実際に京で政を動かす者たちとも渡り合ってきた人だ。こちらとは経験が違う。自分だけが大事として構えているのだと思うと少し馬鹿らしくもなったが、だからといって緊張が消えるわけでもなかった。
観音寺を出てから京までの道中は、戦へ向かう時の行軍とは随分違っていた。供の数は必要なだけに抑えられ、街道を進む足取りも急ぎ過ぎない。梅雨の名残を含んだ空気は朝から湿っていたが、雲の切れ間から陽が差すたび、雨に洗われた木々の葉が鮮やかに光った。
道沿いの田では百姓たちが腰を曲げて働き、荷を積んだ馬とすれ違えば、こちらに気付いた者が脇へ寄って頭を下げる。浅井が滅び、坂田郡が六角へ入ったことで近江の勢力関係は大きく変わったというのに、街道を行き交う人々の暮らしは以前とほとんど変わらぬ様子で続いていた。
その光景を眺めているうちに、また兵のことが頭へ浮かびかけた。
今の季節に村から人を集めれば、田へどの程度影響が出るだろう。常に動かせる兵を置くとして、坂田の道を守らせるなら何処がよい。
そんな考えが続きそうになったところで、意識して止めた。これから京へ向かうというのに、頭の中まで観音寺へ置いておく必要はない。兵については任せた者たちが調べを進めているし、坂田のことも必要な報告を受け取れるようにしてある。戻ってから考えればよいものまで、今この場で抱え続けることはないだろう。
以前なら、そう割り切ること自体が難しかったのかもしれなかった。
*
京へ入って最初に感じたのは、人の多さだった。
もちろん前世の都市とは比べようもなく、道幅も建物の数も高さも、何もかも現代とは違う。それでも、この時代の俺が見慣れている観音寺城下とは、明らかに人の集まり方が違っていた。
荷を担ぐ商人、寺へ向かう僧、武家の供、車を引く者、道端で声を張る売り手。町家が軒を連ねる通りでは、店先へ並べた品を選ぶ客の間を荷運びの男たちが行き交い、そこへ馬や駕籠まで通ろうとする。荷車がすれ違えず声を掛け合う場所もあれば、軒先の商人が通り掛かった者を呼び止め、そのすぐ隣では職人らしい男が仕事に使う道具を抱えて急いでいる。槌を打つ音や、家々の奥から聞こえてくる機織りの音まで重なり、歩いているだけで様々な商いが営まれていることが分かった。
京が幾度も戦に巻き込まれてきたことは知っている。応仁の乱によって都が荒廃したことも、その後の天文年間に寺社や町衆を巻き込む大きな争いがあったことも、以前から耳にしていた。
しかし少なくとも今通っている辺りには、そうした過去を一時忘れさせるほどの賑わいがある。人の往来が多い場所では、店先に並ぶ品も観音寺城下より種類が豊かで、遠方から運ばれてきたらしい荷も見掛けた。何処から来た品なのか、誰が運んでいるのかを確かめたくなるところだったが、今は父上の供として京へ来ている。勝手に列を離れ、商人を捕まえて話を聞くわけにもいかなかった。
もっとも、その賑わいが京の町全体へ続いているわけではない。
人家の密集した通りを抜けると、急に建物の間隔が開き、畑や草の伸びた空き地が現れる場所もあった。古い塀が途中から崩れ、その内側に建物のない土地が広がっているかと思えば、隣には比較的新しく建てられたらしい町家が並び、人々が当たり前のように暮らしている。
応仁の乱から相当な年月が経っている以上、目に入る荒れた土地の全てが当時の傷跡というわけではないだろう。その後も幾度となく争いが起こり、壊されては人が戻り、建て直せるところから町を取り戻してきた。その積み重ねが、今の京なのだと思った。
道の脇には堀の跡らしい窪みが残り、町の出入り口と思われる場所には木戸を構えたところもある。今も守りのために使われているのか、それとも以前の名残なのかは分からない。ただ、商人や職人が集まる町であっても、戦となれば自分たちの暮らしを守らなければならないことは変わらないのだろう。
観音寺城下にも守りを考えた道や屋敷の配置はある。しかしこの京では、賑やかな町そのものが幾度も争いの場となってきた。人の多さに圧倒される一方で、少し道を外れれば荒れた土地が現れることに、都が置かれてきた厳しさも感じられた。
寺社の屋根は家々の向こうからでも目に付き、御所や公家の屋敷がある辺りへ近付けば、町家の続く通りとは違った景色が広がった。長い築地塀が道に沿って伸び、立派な門を構えた屋敷がある一方で、少し離れれば質素な家や畑も見える。
観音寺であれば、城とその周囲にいる者たちの関係から物事を考えればよい場合が多い。だが京はそう単純ではなかった。ここには御所があり、公方様がおり、公家が住み、寺社が力を持ち、商人も集まっている。それぞれが異なる立場と利害によって動きながら、同じ町の中に存在しているのだ。
武力だけで全てを決められる場所ではない。近江では六角が多くの兵を動かせるとしても、その力が京でそのまま通じるとは限らず、朝廷や幕府、寺社との関係には別の理屈がある。
そう考えると、父上が上洛を急いだ理由も少し分かる気がした。近江でどれほど土地を得ようとも、京の者たちが六角をどう見ているのかを無視することはできない。誰かに命じられるからではなく、ここにはここで無視できない力がある。それを知らずに近江の中だけで物事が収まるつもりになれば、いずれ思わぬところで足を取られるのだろう。
街道を進むにつれ、こちらへ向けられる視線が多いことにも気付いた。父上の率いる一行である以上、六角の者だと分かる者もいるらしい。露骨に指を差されることはないが、商人が話の途中で目を向けたり、武家の供らしい者が父上の姿を確かめるように眺めたりしている。
浅井が滅び、坂田郡が六角へ入ったという報せは、当然京にも届いているはずだ。六角が近江で何をしているのかは、俺たちだけの話ではない。普段は書状の向こうにいる相手から、今は直接こちらが見られているのだと思うと、少しばかり居心地が悪かった。
宿へ入って一息ついた後、翌日の拝謁について父上から確認を受けた。
作法そのものは観音寺でも何度か教え込まれている。何処まで進み、何処で止まり、どのように頭を下げるのか。今さら一から教わることではないが、それでも俺は頭の中で何度も手順を確かめていたらしい。父上はそんな様子を見て、呆れたように息を吐いた。
「何をそんなに考えておる。所作は教わった通りにすればよい。余計なことを言おうとするな」
「余計なこととは、どのようなことでございましょう」
「賢く見せようとすることじゃ。問われたことへ答えればよい。御前で己を大きく見せようとする者ほど、見ていて分かりやすいものはない」
痛いところを突かれた気がした。
別に帝の御前で、自分が優れていると誇示したいわけではない。しかし問われたなら正しく答えたい。できれば気の利いた言葉を返したい。父上に恥をかかせたくない。そんな気持ちは確かにあった。それを突き詰めれば、結局は良く見られたいということなのだろう。
父上の言う通り、分からないことまで分かったふりをする必要はない。作法を守り、聞かれたことへ誠実に答える。それ以上を考えても、今の俺にはかえって余計な力が入るだけなのかもしれなかった。
*
御所へ向かった日の朝、京の空には薄い雲が広がっていた。雨になるほど重くはないものの陽射しは弱く、町を吹き抜ける風には湿り気が残っている。
宿を出た俺は、前日よりも落ち着いた気持ちで馬へ乗ったつもりだったが、御所へ近付くにつれて腹の奥が僅かに固くなっていくのが分かった。朝の通りでは商人たちが店を開き始め、荷車の軋む音や人を呼び止める声が聞こえていた。だが御所のある一角へ近付くと、そうした賑わいも次第に遠ざかっていった。町家の並ぶ通りから築地塀の続く道へ入り、門を構えた屋敷の前を通るうちに、同じ京でも場所によって随分と空気が違うことを感じた。
観音寺城へ戻れば、俺は六角家の嫡男として相応の立場にある。人から頭を下げられることも多くなり、評定の場で意見を求められることにも慣れてきた。だが、ここではその感覚が逆転する。
御所へ入り、案内されるまま進むにつれて、まず感じたのは静けさだった。
観音寺城にも静かな場所はある。しかしあちらは軍勢を動かすための城であり、人が暮らす場所でもある。武具を運ぶ音や馬のいななき、小姓や近習の足音が常にどこかから聞こえ、どれほど静かな時でも、その向こうには城の日常がある。
御所は違った。
人がいないわけではなく、案内する者も控えている者もいる。それでも声を張る者はおらず、歩く音さえ自然と抑えられているように感じる。長く使われてきた建物の木の色、庭の整えられ方、衣擦れの音。目に入るものが全て豪華というわけではないのに、ここには観音寺とは異なる重みがあった。
武力による圧力ではないのだろう。幾代にもわたって受け継がれてきたものが、今もここにあるという事実そのものの重さだった。
前世で権威という言葉を使ったことは何度もあり、その意味も説明できるつもりでいた。しかし実際にこの場へ来てみると、知識として理解するよりも先に身体が反応するものなのだと思い知らされる。俺が教壇で生徒へ説明していた頃には、こうした感覚までは考えたこともなかった。
御前へ進む頃には、作法を間違えないことだけを考える余裕さえなくなっていた。案内に従って進み、定められた位置で止まり、教わった通りに頭を下げる。父上が傍にいることは分かっているが、そちらへ目を向けることもできない。どれほど繰り返して覚えた所作でも、実際にその場へ出れば、身体へ染み込ませておいたものに任せるしかなかった。
やがて、御声が掛かった。
想像していたよりも穏やかな声だった。
父上が受け答えするのを聞きながら、俺は俯いたまま耳を澄ませた。近江の情勢、浅井が滅びたこと、坂田郡が六角へ入ったこと。その辺りへ話が及ぶだろうとは予想していたし、実際にそうしたことも話題となった。
しかし少し意外だったのは、帝の御関心が戦の勝敗そのものへ向かなかったことだった。
「坂田は、騒がしくはないのか」
父上が、今のところ大きな乱れはない旨を申し上げる。続いて問われたのは、田畑が荒れていないか、民は元の暮らしへ戻っているかということだった。
思わず顔を上げたくなった。
聞かれると思っていたのは、浅井をどう滅ぼしたのか、朽木がどれほど力を増したのか、六角が坂田を得てどこまで領地を広げたのかということだった。少なくとも京へ来るまで、俺自身が気にしていたのはその辺りの話である。
だが帝が尋ねられたのは、戦の後にそこで暮らしている者たちのことだった。浅井が滅びたという報告を聞き、その先で田を耕す者がどうなっているのかを案じられている。
父上が答えを終えると、今度は俺へ言葉が向けられた。
「右衛門督も、坂田のことを見ておるそうじゃな」
一瞬、返事が遅れそうになったが、すぐに頭を下げた。
「はい。まだ書状や報せによって知ることの方が多うございますが、道や村、国人衆について調べておりまする」
「新しく得た土地は、どのように治めるつもりか」
簡単には答えられない問いだった。
六角の法を行き渡らせますと申し上げるのは容易いが、実際にはまだそこまで進んでいない。父上からは現地の仕組みを不用意に壊すなと言われているし、俺自身もまず土地の事情を知るべきだと考えていた。ここで立派なことを言おうとすれば、実際にはできていないものまで、できるかのように話してしまいかねない。
父上の言葉を思い出した。
賢く見せようとするな。聞かれたことへ答えればよい。
「未だ、全てを改めるつもりはございませぬ。坂田の者たちへ、昨日までは浅井に従っていたものを、今日から六角の土地となったゆえ全て改めよと命じても、混乱を招くばかりと考えております。まずは誰が何処を治め、どの道を使い、村々でどのような暮らしが営まれているのかを確かめ、その上で必要なところを改める所存にございます」
言い切った後で、もっと立派な答えがあったのではないかという考えが頭を過った。六角の力をもって民を安んじる。乱れた土地を治める。そのような言い方もできただろう。
だが実際にしているのは、村や道についての報告を集め、浅井の頃の取り決めを調べているところまでだ。それを偽らずに申し上げた以上、今さら別の言葉を足す必要もない。
帝はすぐには何も仰らなかった。
僅かな沈黙が妙に長く感じられた後、穏やかな御声が返ってきた。
「そうか。土地だけを得ても、国を得たことにはならぬのであろうな」
その言葉は、思っていた以上に深く胸へ残った。
意味そのものは難しくない。父上からも似たようなことを教えられてきたし、坂田を受け取る時には、地図の色を変えるだけでは土地を治めたことにはならないと考えていた。しかし帝の御口から聞くと、これまで自分が考えてきたことを、改めて別の立場から示されたように感じられた。
俺は坂田郡を九万石として見ていた。美濃へ向かう足場として考え、兵を置く場所として見て、道や城の位置を調べてきた。もちろん村や人についても気にしていたつもりだったが、考える順番の最初にあったのは、やはり土地と力だった。
九万石という数字が六角へ加わり、その土地を守るためには兵が必要になる。その考え自体が間違っているわけではない。だが、その九万石は、そこに人が暮らし、田を耕し、米を作って初めて成り立つ。数字が先に存在しているのではなく、人々が営む暮らしの積み重ねを、石高という一つの数字で表しているに過ぎない。
当たり前のことなのに、御前で改めて問われるまで、その順番を十分に意識していなかったのかもしれなかった。
「民が離れれば、田も荒れるであろう。田が荒れれば、兵も養えぬ。武家は戦うことを考えるのが役目なのであろうが、戦わずに済む時のことも考えてやってほしい」
「……肝に銘じまする」
それ以上、気の利いた言葉は出なかった。だが無理に何かを付け足そうとも思わなかった。
帝の御言葉は、新しい制度や知らなかった知識を教えるものではなかった。むしろ、これまで知っていたはずのことを、別の立場から見せられたのだと思う。その方が、かえって強く胸に残った。
*
拝謁を終えて御所を出た時には、来る前よりも空が明るくなっていた。雲の切れ間から薄い陽射しが落ち、庭木の葉を照らしている。緊張から解放されたはずなのに、不思議と胸の内は軽くなり切らなかった。
御前で作法を間違えたわけでもなく、父上から何か注意されたわけでもない。問われたことには自分なりに答えられたと思う。それでも、これまで考えてきたことの中に何か見落としていたものがあるような感覚が残っていた。
御所を出てしばらく歩いたところで、父上がこちらを見た。
「思っていたのと違ったか」
「……もっと近江のことを問われると思っておりました。戦や領地のことにございます。浅井をどうしたか、朽木がどうなったか、その辺りを聞かれるものと」
「問われておったではないか。民や田畑のことは、近江のことではないのか」
返す言葉がなかった。
確かにその通りだった。俺が勝手に戦や領地の話を政の中心へ置き、そこで暮らしている者たちのことを別に考えていただけなのかもしれない。
父上は俺の返事を待つことなく続けた。
「帝が問われたことも政じゃ。誰が勝った、何処を取ったという話だけが政ではない」
それ以上の説明はなかったが、今の俺には十分だった。
京へ来る前は兵をどのように変えるかを考え、坂田をどう守り、美濃へどう備えるかについても頭を使っていた。どれも六角にとって必要なことだ。だが兵を養うには米が要り、その米を作るのは田を耕す百姓である。街道を整えるのも、そこで荷を運ぶ者がいて初めて意味を持つ。土地を治めるために城や兵が必要なのは確かでも、その土地で暮らす者たちが疲弊すれば、得られるはずの米も銭も減っていく。
国を強くするために行ったことが、結果としてその国を弱らせるのでは意味がなかった。
父上から新たな兵について許可を得た時にも、民を苦しめるような真似はするなと言われている。あの時は、兵を抱えるための米や銭を村々から無理に取り立てることを戒められたのだと思っていた。もちろん、それも間違いではない。しかし今日の御言葉を聞いた後では、兵や年貢の話だけに限らないものとして受け止められる。民が暮らしを続けられること自体が、六角の力を支えているのだ。
京の宿へ戻る道すがら、行き交う人々へ自然と目が向いた。
荷車を押す男、店先で客を呼ぶ商人、子供の手を引く女、寺の前を掃く小僧。町家の軒先には布が干され、その下を荷を担いだ者たちが行き交っている。賑わう通りを外れれば、家々の途切れたところに畑があり、古い塀の残る一角では草を刈る男の姿も見えた。
昨日も同じような景色を眺めていたはずなのに、今日は町の賑わいや荒れた土地そのものより、そこで何をしている人間がいるのかという方が気になった。
名も知らぬ者たちばかりだが、この京を形作っているのは、そうした日々の営みなのだろう。観音寺も坂田も変わらない。城や町を整え、道を守り、兵を置くことは必要だとしても、そのために人々が暮らせなくなれば、守るべきものまで失ってしまう。
九万石という数字が、随分と大き過ぎる括りに感じられた。
*
宿へ戻った頃には、日が西へ傾き始めていた。町家の軒が連なる通りでは、屋根と屋根の間から差し込む夕暮れの光が道を細く照らし、店じまいを始める者や最後の荷を運び込む男たちの影が長く伸びている。少し離れたところから寺の鐘が聞こえ、家々の向こうに見える空は、観音寺で眺めるものより幾分狭く感じられた。
部屋へ入り、ようやく腰を下ろしたところで弥太郎が茶を持ってきた。俺が黙ったまま湯気を眺めていると、向こうから声を掛けてきた。
「若様。何か失敗なされましたか」
「何故そうなる」
「御所から戻られてから、ずっと難しい顔をしておられます。何か難しいことでも問われたのでございますか」
「難しいというより……簡単過ぎて困った」
弥太郎が不思議そうな顔をしたので、帝から坂田の田畑や民の暮らしについて問われたことを話した。
浅井が滅び、領地が増えたということよりも、そこで人々がどう暮らしているのかを気に掛けられていたこと。そして、土地だけを得ても国を得たことにはならないと仰られたことを伝えると、弥太郎は特に驚く様子もなく頷いた。
「民がおらねば、年貢もございませぬし」
「それは分かっておる」
「では、何を悩んでおられるので?」
「分かっていたつもりだったからだ」
そう答えると、自分が何に引っ掛かっていたのか、少しはっきりした気がした。
知らなかったのなら、教わったことを覚えればよい。だが今回は違う。知っているはずだった。それでも坂田郡を得た時、まず考えたのは九万石という数字であり、美濃へ繋がる道や、そこを守るための兵だった。人々の暮らしを軽んじていたつもりはないが、何を先に見るべきなのかという点で、まだ考えの及ばないところがあったのだろう。
話を聞き終えた弥太郎は、茶を置きながら少し笑った。
「ならば、次から先に思い出されればよろしいのでは」
「簡単に言うな」
「簡単なことなのでしょう?」
また返す言葉がなくなった。
この男は時々、こちらが難しく考えているところへ何の遠慮もなく踏み込んでくる。もっとも、今の話に限っては間違っているとも言い切れなかった。
「……そうかもしれぬな」
知っていたことを十分に考えられていなかったのなら、次から気を付ければよい。御前で何か大きな悟りを得たわけではなく、これまでの考えを全て捨てる必要もない。兵を整えることも坂田を守ることも、六角にとって必要な仕事だ。ただ、そのために誰が働き、何を負担するのかまで同じように見なければならない。
そう考え直すと、胸の中へ残っていた重さが少しだけ薄れた。
ちょうどその時、父上の使いがやって来た。
明日の予定を伝えに来たというので話を聞くと、公方様への挨拶に向かうという、以前から聞いていた通りの内容だった。使いが戻った後には父上自身も部屋へ顔を出し、こちらの様子を見るなり口元を緩めた。
「今日は随分考え込んでおったようじゃな」
「父上まで弥太郎と同じことを申されるのですか」
「分かりやすい顔をしておるからじゃ。まあ、今日はそれでよい。だが明日は、もう少し気を張っておけ」
「帝の御前より、でございますか」
「人によってはな」
その言い方が気になった。
帝への拝謁を終えたばかりだというのに、父上は明日の方が気を張る必要があると仰る。公方様とは武家の棟梁であり、六角も幕府との関わりを持つ家だ。父上が幕府の政へ深く関わってきたことも承知している。しかし、何故そこまで念を押されるのか、今の俺には分からなかった。
「公方様は、そのように難しい御方なのでございましょうか」
「会えば分かる。以前、警護に付いた時と同じように考えるでないぞ」
父上はそれだけ言い残して部屋を出ていった。
詳しく教えてくれてもよいものを、あえてこちらに考えさせるような言葉だけを残すところが、いかにも父上らしい。とはいえ、今からあれこれ想像したところで、明日の公方様がその通りに振る舞われるとは限らない。父上の言葉が気にならないわけではなかったが、今夜は余計なことを考え過ぎない方がよいのだろう。
閉じられた襖をしばらく見つめた後、俺は諦めて茶碗を手に取った。
帝への拝謁は終わったが、京での用事はまだ続いている。明日は公方様へ挨拶する。近江では土地と兵を考え、今日は民の暮らしと国を治めることについて考えさせられた。今度は武家の頂点に立つ御方と直接話すことになる。
その場で何を見聞きするのかは分からないが、父上がわざわざ気を張れと仰る以上、単に挨拶を済ませるだけでは終わらないのかもしれなかった。
茶を飲み終える頃には、窓の外もすっかり暗くなっていた。京の町からはまだ人の声や荷車の音が聞こえてくる。観音寺ではこの時刻になると城内の人の動きも少なくなるが、都には都の暮らしがあり、夜になったからといって全てが静まるわけではないらしい。
俺はその音へ少し耳を傾けてから、明日に備えて休むことにした。
京へ来る前には、浅井が滅び、坂田郡を得た六角が都でどのように見られているのかを確かめるつもりだった。実際に足を運んでみれば、こちらが何を伝えるかだけではなく、都にいる者たちが何を気に掛け、どのような立場から近江を見ているのかまで知ることになる。帝の御前で聞いた言葉も、その一つだった。
明日は公方様へ会う。父上が以前とは違う心構えを求めた理由も、その時には分かるのだろう。
少なくとも、京へ来る前に想像していたより、この上洛で見聞きすることは多くなりそうだった。
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