公方様との対面を控えた朝、京の宿ではいつもより早くから人が動いていた。廊下の向こうでは小姓たちが衣服や持ち物を確かめ、庭に面した縁側からは馬の支度をする者たちの声が聞こえてくる。俺も夜明けからさほど間を置かずに起き出し、弥太郎が用意した衣服へ袖を通した。昨日は帝への拝謁という大きな務めを終えたばかりだが、今日も気を抜くわけにはいかない。父上と共に公方様へ挨拶に伺うことになっており、近江の情勢について直接尋ねられる可能性もあった。
もっとも、俺自身がどこまで話すことになるのかは分からなかった。六角家の当主として公方様へ近江の様子を伝えるのは父上の役目であり、嫡男である俺が横から口を挟む必要はない。以前、公方様の警護に付いた際には、もう少し気安く言葉を交わす機会もあった。しかし今回は正式な対面の席である。相手が同じ御方だからといって、以前と同じように振る舞ってよいわけではなかった。
父上も昨夜、以前に警護へ付いた時と同じように考えるなと仰っていた。その言葉の意味をまだ十分に掴めていなかったが、少なくとも今日の席では相応の慎みが必要なのだろう。
弥太郎は俺の帯を確かめながら、昨日ほど難しい顔をしていないと口にした。本人としては気を利かせたつもりなのだろうが、昨日も今日も自分ではそれほど表情を変えているつもりはない。そう答えると、弥太郎は余計な反論をせず、襟元の乱れを直してから一歩下がった。
小姓の一人が廊下へ出て支度の済んだことを伝えに行き、俺も机の上に置いていた書状を文箱へ収める。坂田からの報告にはまだ目を通したい部分が残っていたが、今から読み始めれば考え事を抱えたまま出掛けることになる。続きを確かめるのは宿へ戻ってからでよかった。
父上と合流した時には、すでに供の者たちが支度を整えていた。父上はいつものように落ち着いた様子で、近江から届いた報告について側近へ幾つか指図を出していたが、俺が挨拶すると手元の書状を畳んだ。昨日の帝への拝謁について改めて話すことはなく、今日の席では公方様から直接尋ねられた時にだけ答えればよいと告げられる。俺もそのつもりでいたので、素直に頷いた。
宿を出ると、京の町はすでに朝の賑わいに包まれていた。家々の軒先では商人が荷を運び出し、道を行く男たちが互いに声を掛けながら荷車を避けている。京へ入ったばかりの頃は人の多さに目を奪われたものだが、何日か滞在するうちに少しずつ見慣れてきた。
ただ、今日は供の者たちが普段より周囲へ注意を払っているらしい。道が狭くなる場所では先を進む者が歩みを緩め、その都度一行の間隔を整えている。父上はその動きへ口を出すこともなく、時折通りの様子へ目を向けながら進んでいた。
公方様のおられる御所へ着くと、俺たちは案内に従って奥へ通された。門を抜けてからは通りの賑わいが次第に遠ざかり、磨かれた廊下を進む足音や、襖の向こうで交わされる声が耳へ入ってくる。控えている幕臣たちは父上の姿を認めると丁重に挨拶し、父上も相手に応じて言葉を返していた。
以前から面識のある者もいるらしく、近江の様子を短く尋ねる声もあったが、正式な対面を控えているためか、長く立ち話をすることはなかった。父上と幕臣たちのやり取りを聞いているだけでも、六角と幕府の関係が一朝一夕にできたものではないことが分かる。
やがて対面の間へ案内され、父上と共に定められた座へ進んだ。俺は父上より少し後ろへ控え、教わった通りに頭を下げる。
公方様は以前お会いした時と変わらぬ御様子で、父上へ声を掛けられた後、俺にも顔を上げるよう仰った。かつて道中で言葉を交わしたことを覚えておられたらしく、右衛門督も息災であったかと尋ねられたので、俺は礼を述べて短く答えた。
対面はまず、父上の上洛と昨日の帝への拝謁についての話から始まった。公方様は近江から京までの道中に変わったことはなかったかと尋ねられ、父上は特に支障がなかったことを申し上げる。その後、京の様子や幕府の近況について幾つか言葉が交わされ、話題は自然と近江の情勢へ移っていった。
俺は父上の傍で耳を傾けながら、時折、公方様の手元へ目を向けていた。閉じた扇を膝へ置き、話の区切りで指先を動かされる様子は穏やかだったが、父上の返答を聞いてから次の問いを向けられるまでには、言葉の意味を一つずつ確かめておられるような慎重さも感じられた。
浅井との戦が終わり、北近江の情勢が大きく変わったことは、すでに京へも伝わっている。朽木が伊香郡と浅井郡を治め、坂田郡を六角が受け取ったことも、公方様は承知しておられた。
問題は、その結果として近江でどのような力関係が生まれ、六角が今後どう動くつもりなのかということなのだろう。父上は浅井との戦について必要な経緯を説明したが、朽木の働きを六角の功績であるかのように語ることはなかった。弥五郎が自ら兵を率いて浅井を滅ぼしたこと、その後の取り決めによって坂田郡を六角が受け取ったことを、順を追って伝えていた。
しばらく父上との話が続いた後、公方様は手元の扇を閉じ、膝の上へ置かれた。
「左京大夫。朽木は随分と大きくなったようじゃな。浅井を滅ぼし、北近江を押さえたとなれば、もはや以前の朽木とは違うであろう。そなたは、あの家を今後どうするつもりじゃ」
それまでの話よりも、一歩踏み込んだ問いだった。
父上は僅かに姿勢を正してから口を開こうとしたが、公方様が何を確かめようとしておられるのかは、俺にもおおよそ見当が付いた。
六角と朽木は婚姻によって結ばれているものの、朽木は六角の家臣ではない。弥五郎は自らの判断で兵を動かし、領地を治める当主であり、今回の戦でも父上の命令に従って動いたわけではなかった。
しかし近江守護である六角から見れば、かつて近江の一角を治めるに過ぎなかった朽木が、今では北近江の広い範囲を押さえる存在となっている。浅井が滅びたことで長年の敵が消えた一方、その場所には以前より力を増した朽木が立つことになった。公方様がその変化を六角はどう受け止めているのかと尋ねられるのも、不思議ではなかった。
「朽木とは、今後も良き関係を保ちたいと考えております。此度の戦におきましても、互いの利を損なわぬよう話を進めてまいりました。朽木が北近江を治めることは、六角にとっても決して悪いことではございませぬ」
父上は静かに答えたが、公方様はすぐには頷かれなかった。
朽木が大きくなったこと自体を六角が歓迎しているのか、それとも今は争う理由がないだけなのか。そこを確かめるように幾つか問いを重ねられた。父上は長々と説明することはせず、両家がこれまでどのような関係を築いてきたのか、今回の領地の取り決めが双方の合意によるものであったことを伝えていた。
俺はそのやり取りを聞きながら、浅井との戦が終わってから観音寺へ届いた報せや、坂田郡を受け取るまでの経緯を思い返していた。
朽木が浅井を滅ぼしたと知った時には、戦の結果そのものへ意識が向いていたが、その後に進められた領地の取り決めを見て、戦に勝つことと得た土地をどう扱うかは別の問題なのだと考えるようになった。
朽木は伊香と浅井を治め、坂田を六角へ渡した。弥五郎が何を考えてその判断を下したのか、俺は本人から詳しく聞いたわけではない。それでも、互いに独立した家でありながら領地の扱いについて合意に至ったという事実は、今の両家の関係を考える上で大きな意味を持っている。
弥五郎とは幼い頃から付き合いがあり、直接話す機会も少なくない。普段は気安く言葉を交わせる相手だが、朽木の当主としての判断には、こちらとの親しさだけで物事を決めないところがある。家臣や領地の事情を踏まえ、朽木にとって何が必要なのかを考える。その姿は正月に淡海乃海を眺めながら話した時にも感じられた。
だから坂田の譲渡についても、単に六角へ譲ったというより、朽木自身にも利があると見てのことだろう。もっとも、本人へ確かめたわけではない以上、俺が弥五郎の考えを全て理解しているつもりになるのは危うかった。
「だが、朽木は六角に従っておるわけではあるまい。北近江を得た今なら、なおのことであろう。左京大夫、そなたは朽木を従わせるつもりはないのか」
公方様がそう尋ねられると、父上は僅かに間を置いた。
俺はその横顔を見ながら、返答の難しい問いだと感じていた。六角には近江守護としての立場があるものの、それを理由に朽木へ服従を求めたところで、弥五郎が素直に受け入れるとは思えない。強く迫れば、これまで築いてきた関係が崩れることも十分に考えられる。
しかし公方様の前で、六角には朽木を従わせる力がないと答えるのも、家の立場を考えれば軽々しく口にできることではないだろう。
「朽木を従わせることは、今の六角にとって必要とは考えておりませぬ。朽木は自らの領地を治め、六角もまた己の領地を治める。その上で互いに力を貸すことができるのであれば、無理に上下を定める必要はございませぬ。従わせるために兵を動かし、今ある関係を損なう方が、よほど大きな損失となりましょう」
父上の返答を聞いて、公方様はしばらく目を細めておられた。近くに控える幕臣の一人が僅かに姿勢を変えたが、父上は気にすることなく次の言葉を待っている。
俺は、父上が朽木を従わせられるかどうかには触れず、その必要がないと答えたことに感心していた。問いの中にある前提をそのまま受け入れず、今の六角にとって何が利益になるのかを示したのだ。
もし同じ問いを俺が受けていたなら、弥五郎が簡単に従う相手ではないことを先に説明し、かえって六角の立場を弱く見せていたかもしれなかった。
公方様はやがて小さく笑われ、左京大夫は以前から言葉を選ぶのが上手いと仰った。父上は恐れ入りますと頭を下げたが、表情はほとんど変わらない。公方様もそれ以上、服従の可否について問いを重ねることはなく、今度は両家が独立したまま協力を続ける利について尋ねられた。
父上は、六角が坂田郡を得たことで美濃へ目を向けやすくなった一方、朽木は北近江を押さえ、越前と直接向き合う立場になったことを説明した。双方が同じ土地を取り合うのではなく、それぞれ異なる方面へ力を向けられるのであれば、今の関係は維持しやすい。無論、領地が接している以上、全ての利害が一致するわけではない。それでも、わざわざ争いを生むより、協力することで得られるものの方が大きいということだった。
俺も父上の言葉を聞きながら、坂田の地図を広げ、不破へ続く道を調べた時のことを思い出していた。六角が坂田を得たことで、美濃は以前より身近な土地となった。一方の朽木は、浅井を滅ぼしたことで北近江の広い範囲を治め、越前とも直接向き合っている。
両家がそれぞれ別の方向へ目を向けられることは、確かに今の関係を支える大きな利だった。
ただし、美濃の情勢が変われば六角の考えも変わり得るし、越前で新たな争いが起きれば朽木がどう動くかも分からない。弥五郎が今以上に領地を広げれば、六角との力関係そのものも変わってくるだろう。今は互いに背後を任せられる相手であっても、将来まで同じ関係が続くと約束できるわけではなかった。
そんなことを考えていると、公方様がまさに同じところへ問いを向けられた。
「それでは、朽木が六角より大きくなっても同じか」
公方様の言葉に、父上は僅かに目を細めた。
朽木が今以上に領地を広げ、六角を上回る力を持つようになった時にも、両家は今の関係を維持できるのか。問われているのは、単に将来の勢力図についてではないのだろう。六角が朽木の成長をどこまで認められるのか。あるいは相手が自家を凌ぐほど大きくなった時、これまでの友好を捨てて争うつもりがあるのか。
今の関係が双方に利益をもたらしているからといって、それが将来の争いを防ぐ保証にはならない。俺自身、弥五郎を友として信頼しているが、朽木が六角にとって不利益となる行動を取った場合にまで、その判断を支持できるとは限らなかった。
父上は膝の上へ置いていた手を僅かに動かし、公方様へ向き直った。答えに迷っているというより、どこまでを今の六角の考えとして述べるべきなのか、言葉を整えているように見える。
俺は父上の横顔から視線を外し、正面へ向き直った。これからどのように答えるのかは、六角と朽木の今後を考える上でも聞いておきたいことだった。
「その時の情勢次第にございます。朽木がさらに大きくなり、六角と利がぶつかることがあれば、改めて考えねばなりませぬ。されど、まだ起きておらぬことを恐れて、今ある関係を自ら壊す必要はございません。相手が大きくなることを案じるより、六角自身が今の領地を治め、家の力を整える方が先にございましょう」
父上の返答を聞き、公方様はしばらく黙っておられた。控えていた幕臣の一人が手元の書付へ目を落とし、別の者は父上の顔を見つめたまま動かない。庭から吹き込んだ風が襖の端を微かに揺らし、部屋の中では衣擦れの音まで大きく聞こえた。父上は姿勢を崩すことなく、公方様の次の言葉を待っている。
やがて公方様の口元に笑みが浮かんだ。利のあるうちは共に歩み、状況が変われば改めて考える。将来について必要以上の約束をしないところまで含めて父上らしいと、半ば呆れたように仰る。
父上が恐れ入りますと頭を下げると、公方様は褒めているかどうかは受け取り方次第だと笑われた。先ほどまで慎重に父上の言葉を聞いていた幕臣たちも、そこで僅かに表情を緩めていた。
俺は父上の答えを改めて考えていた。朽木が六角より大きくなっても構わないと約束したわけではなく、反対に、それを防ぐために手を打つとも言っていない。今の段階では両家の関係を壊す理由がないというだけのことだ。
しかし、それは曖昧な返答で問いを避けたのとも違う。父上は六角の将来を、まだ起きてもいない朽木との争いを前提にして決めるつもりがないのだろう。観音寺へ戻れば、坂田を治めるために片付けなければならない仕事が幾つも待っている。今持っている領地を確かに治め、その上で家の力を整えるという父上の答えは、実際に進めている政とも繋がっていた。
公方様は一度開きかけた扇をそのまま閉じ、今度は俺へ視線を向けられた。
それまで父上との間で進んでいた話が突然こちらへ移ったことで、自然と背筋が伸びる。父上は振り返ることもなく、静かに座っていた。
六角としての方針については、すでに当主である父上が答えている。ここで俺が同じことを繰り返す必要はないはずだ。そう考えながら、次の御言葉を待った。
「ところで右衛門督。そなたはどうじゃ。以前の道中でも、弥五郎のことを気にしておったであろう。左京大夫はこう申しておるが、そなたから見て朽木弥五郎基綱はどのような男じゃ」
尋ねられているのは、六角として朽木をどう扱うべきかではなく、実際に弥五郎と付き合ってきた者として、どのような人物だと見ているのかということなのだろう。
俺はこれまで弥五郎と顔を合わせ、言葉を交わしてきた時のことを思い返した。幼い頃からの付き合いではあるが、朽木の当主としての弥五郎と向き合うようになってからは、以前とは違った印象を持つことが増えている。
普段は気安く話せる相手でも、家のこととなれば、その場の親しさだけで物事を決めるようなことはしない。こちらの考えへ耳を傾ける一方で、朽木にとって何が必要なのかを確かめ、自らの立場を踏まえて判断するところがあった。
此度の浅井との戦についても、弥五郎の判断には考えさせられるものがある。木之本では兵数で劣り、雨によって鉄砲の多くが使えない状況に置かれながらも軍を保ち、浅井方から二家が離れたところで攻勢へ転じた。
その結果、朽木は北近江の広い領地を得たが、その全てを自家で抱え込もうとはせず、坂田郡を六角へ渡している。
無論、その判断に至るまでの考えを全て知っているわけではない。弥五郎から直接詳しい事情を聞いたわけでもなく、父上のもとで進められた取り決めや、観音寺へ届いた報告から判断できることには限りがある。
ただ、得られる土地を全て自家のものにすることばかり考えていたなら、坂田を渡すという選択には至らなかっただろう。新たに得た土地を治めるための人手や、六角との今後の関係についても、考えるところがあったのだと思う。
俺は膝の上に揃えていた手を僅かに握り直した。
公方様へ答える以上、弥五郎をよく知っていると見せようとして、確かめていないことまで話すわけにはいかない。これまでの付き合いで見てきた姿と、今回の戦や領地の取り決めから判断できることを分けた上で、自分なりの評価を伝えることにした。
「弥五郎殿は、先を見て動かれる方だと思っております。戦に勝つことだけでなく、その後に土地をどう治め、人をどう使うかまで考えておられるのでしょう。以前から幾度かお話しする機会がございましたが、目の前の利だけで判断される方ではないと感じております」
公方様は俺の返答を聞くと、父上と同じように弥五郎を信用しているのだなと確かめられた。
俺はそれを認めた上で、朽木には朽木の事情があり、六角の考えを何でも受け入れてくれる相手ではないと申し上げた。弥五郎と親しく話せることと、他家の当主として向き合うことは別である。小夜が朽木へ嫁いだ今、両家の関係は以前よりも深くなっているが、それによって利害が全て一致するわけではない。そこまでを伝え、それ以上は言葉を重ねなかった。
公方様は面白そうに笑われ、父と倅で申すことはそう違わぬかと父上へ話を向けられた。
父上は俺が以前から弥五郎と付き合いのあることへ触れ、若い者同士だからこそ見えているところもあるかもしれないと答えた。
そこまではよかったのだが、余計な一言まで付け加えられた。
「もっとも、右衛門督は考え過ぎる癖がございますゆえ、時に話を難しくすることもありますが」
何でもないことのように父上が言うので、思わずそちらへ顔を向けてしまった。
今まで真面目に朽木との関係について話していたというのに、わざわざそんなことまで公方様へ伝える必要があるのだろうか。
確かに自分でも物事を考え過ぎるところはあると思っている。篠や弥七から報告を受ける時にも、一つの話を確かめようとして別の疑問が浮かび、結局は最初に聞こうとしていたことより多くの時間を使ってしまうことがあった。しかし、それを公方様の前で披露しなくてもよいだろう。
父上は平然とした顔で座っており、こちらから向けた視線など気にしていなかった。
公方様もその一言を面白がられたらしく、右衛門督は父より慎重なのかと笑われた。
何と答えるべきか迷ったが、ここで否定すれば父上から別の話を持ち出されそうだった。かといって、自分から考え過ぎると認めるのも釈然としない。
返事をためらっていると、父上の口元が僅かに緩んだ。その様子を見て、これ以上付き合えばますます面白がられるだけだろうと判断し、姿勢を正して頭を下げた。
公方様はそれを見て一層楽しそうに笑われ、控えていた幕臣たちの間にも笑みが広がった。
以前の道中でも、公方様は相手の言葉を拾い、こうして冗談へ変えておられた。あの時には気さくな御方だという印象が強かったが、今日のような正式な対面の席では、冗談を向ける相手や時機にも目が向く。
父上はどのような問いにも姿勢を崩さず答えていた一方で、俺は思いがけない一言を聞いただけで、つい横を向いてしまった。公方様はその様子を見ておられたが、それ以上からかわれることはなく、扇を膝へ戻された。
控えていた幕臣の一人も、先ほどまで緩めていた表情を改め、手元の書付へ目を落としている。
気さくに話せる御方であることと、何を話してもよい相手であることは違う。こちらが冗談に気を取られ過ぎれば、思わぬことまで口にしてしまうかもしれない。
父上が昨夜、以前の道中と同じように考えるなと仰ったのは、こういうことも含んでいたのだろう。公方様は俺たちの受け答えを聞きながら、その言葉の向こうにある考えまで確かめておられるのかもしれなかった。
話題が変わったのは、それから間もなくのことだった。
公方様は朽木についての話を切り上げ、今度は六角が新たに得た坂田郡へ関心を向けられた。父上は膝の上へ置いていた手を揃え、改めて公方様へ向き直る。
俺も先ほどまでのやり取りから意識を切り替え、坂田から届いていた報告を思い返した。浅井との戦が終わり、六角が坂田を受け取ったことは京へも伝わっている。しかし、領地を引き受けてからどのような仕事が始まっているのか、その細かなところまで幕府が把握しているとは限らなかった。
「左京大夫。坂田まで得たとなれば、次は美濃か。近江の北を落ち着かせた後は、東へ目を向けるつもりなのであろう?」
公方様の声は先ほどまでと変わらず穏やかだったが、その問いに父上はすぐには答えなかった。
六角が坂田を得たことで、美濃へ通じる道を直接押さえられるようになったのは確かである。俺自身も篠や弥七、宗兵衛へそれぞれ調査を命じ、不破の国人や街道について情報を集め始めていた。
もっとも、調べていることと兵を進めることは別だ。今の段階で美濃への出兵が決まっているわけではなく、父上からもそのような命令は出ていない。六角が美濃の情勢を気にしていることは隠しようがないとしても、それを理由に戦を始めるつもりだと思われれば、相手の国人たちも警戒することになるだろう。
「美濃へ目を向けておることは確かにございます。ただし、今すぐ兵を進めるつもりはございませぬ。坂田は受け取ってからまだ日が浅く、村々の取り決めや寺社の所領について確認を進めているところにございます。まずは新たに得た土地を落ち着かせねばなりませぬ」
父上はそう答えると、坂田で進めている仕事について簡単に説明した。
浅井の頃から続いている年貢の取り決めを当面残す村があること。米を納める場所について確認を求める声が届いていること。寺社の所領や村々の権利についても、現地へ遣わした役人たちが事情を確かめていること。
俺が観音寺で帳面を広げて見ていた問題と同じものだったが、父上は細かな村の名や数字を並べず、今の六角が坂田で何を優先しているのかを伝えることに留めていた。
公方様は、領地を得たばかりでは次の戦へ出る余裕もないのかと尋ねられた。
父上は戦ができないわけではないと答えながらも、坂田の仕組みが整わぬうちに別の土地へ手を伸ばせば、得た領地を守るために余計な負担を抱えることになると説明した。
実際、坂田から届いた報告には、年貢を運ぶ道や寺社の所領について判断を求めるものが少なくない。以前からの取り決めを急に改めれば、役人の仕事が増えるだけでなく、村々から不満が出ることもあるだろう。そうした問題を残したまま新しい戦を始めれば、現地へ遣わせる人手も不足しかねない。
父上は個々の事情を詳しく挙げることはせず、今は新しい領地を確かに治めるための時間が必要なのだと伝えていた。
「では、美濃へ攻め込まぬと?」
「そうとも申し上げられませぬ。美濃の情勢が変われば、六角としても考えねばならぬことが出てまいりましょう。されど、今の段階で兵を進めると決めてしまえば、それを聞いた国人たちがどう動くか分かりませぬ。こちらから余計な争いを招く必要はございません」
公方様は閉じた扇の端で膝を軽く叩かれた。
攻めるとも攻めぬとも答えない父上を面白がっておられるようだったが、父上は表情を変えず、今決める必要のないことまで先に決めるつもりはないと付け加えた。
公方様は昔からそういうところがあると笑われ、控えていた幕臣の一人も僅かに口元を緩めた。ただ、父上の返答を書き留めていた者は、手元へ目を落としたまま筆を動かしている。
俺はその様子を見ながら、父上が美濃への関心を隠さなかったことに少し驚いていた。
幕府の前で隣国へ目を向けていると認めれば、こちらの意図を余計に疑われることにも繋がりそうだった。しかし坂田を得た六角が、美濃の情勢を気にしていないなどと言ったところで、誰も額面通りには受け取らないだろう。
近江と美濃を行き来する商人がおり、街道の先には不破の国人たちがいる。国境に接する土地を治める以上、その向こうで何が起きているのかを知らずに済ませるわけにはいかない。
父上は隠し切れないものを無理に隠さず、その一方で、まだ決めていないことについては約束をしない。その違いを明確にしているのだと思った。
その時、公方様の視線が再びこちらへ移った。
父上が美濃への関心を認めたことを受け、今度は実際に調査を進めている俺から話を聞くつもりなのかもしれない。父上は先ほどと同じように正面へ向き直ったままで、特に合図を送ることもなかった。
「右衛門督。そなたも美濃のことを調べておるそうじゃな。左京大夫から聞いたぞ。どのようなことを見ておる?」
俺は姿勢を正し、父上がどこまで伝えているのかを考えた。
調査を進めていること自体は隠す必要がないし、公方様も承知した上で尋ねておられる。ただ、篠が確かめている国人同士の関係や、宗兵衛が商人から集めている話まで詳しく説明する必要があるかは別だった。
報告の中にはまだ裏付けの取れていないものもあり、同じ国人について異なる話が届くことさえある。整理の済んでいない話をそのまま口にすれば、調査の途中で聞いた噂が、六角の判断であるかのように受け取られるかもしれない。
俺はまず、坂田を治めるためにも必要となる道や人の往来について答えることにした。
「坂田から美濃へ通じる道と、そこを行き来する商人の話を集めております。また、不破の国人についても、今分かっていることを整理しているところにございます。まだ確かなことは多くございませぬが、道や人の動きを知ることは、坂田を治める上でも必要と考えております」
公方様は俺の返答を聞くと、僅かに目を細められた。
父上が美濃への関心を認めた以上、その調査に俺が関わっていることも不自然ではない。しかし、道を調べているという説明だけでは、何を目的としているのかまでは分からないだろう。
実際、篠には不破の国人について、弥七には主要な道筋について、宗兵衛には商人たちの往来について調べさせているが、集まった報告はまだ十分に整理できていなかった。同じ場所を通った商人でも、荷の種類や季節によって使う道が違い、国人同士の関係についても、話を聞く相手によって随分と印象が異なる。
そこを確かめなければ、地図へ一本の線を引いただけで、その道がどのように使われているのかまで分かった気になってしまう。今の段階では、兵を進めるための具体的な準備が整っているわけでもなかった。
「兵を進めるための道を調べておるのではないのか」
公方様は閉じた扇を膝へ置いたまま、穏やかな声で尋ねられた。
周囲の幕臣たちは特に動かなかったが、父上の横顔へ一瞬だけ目を向けた者がいる。俺も反射的に父上の様子を確かめようとしたものの、途中で思い留まった。
すでに父上は六角の方針を説明している。ここで答えるべきなのは、その言葉を繰り返すことではなく、自分が何を命じ、どのような報告を受けているのかということだった。
弥七から届いた書付には、道幅や川の渡し場、雨が降った後に通りにくくなる場所などが記されている。そうした情報は兵を動かす際にも役立つが、荷車を通す時にも必要になる。
坂田からの報告には、年貢米を運ぶ道が悪く、これまで使っていた納入先を改めてほしいという申し出もあった。道を一つ変えれば済むように見えても、その先の村が荷を受け入れられるのか、何処で川を渡るのか、余計な人足が必要にならないかといった問題が生じる。
帳面の上で短く引かれた線が、実際には幾つもの村や人々の負担と繋がっていることを、俺も報告を読む中で知り始めていた。
「兵の動きと無関係とは申し上げられませぬ。ただ、今は普段どの道が使われ、何処で荷を休ませ、雨が降ればどの道が通りにくくなるのかを確かめております。坂田では年貢米を運ぶ道についても申し出がございまして、地図の上で近い道が、必ずしも荷を運ぶのに適しているとは限らぬことを知りました」
公方様はしばらく俺を見ておられたが、やがて父上へ顔を向けられた。
父上は、坂田がこれから六角にとって重要な土地になる以上、右衛門督にも帳面だけでなく、実際に人や荷が動く様子を知っておいてもらいたいと答えた。
公方様はそれを聞いて小さく頷かれ、土地を得ることと治めることは違うからな、と短く仰った。
それ以上、俺へ直接問いが向けられることはなく、話は坂田の市や、近江から京へ運ばれる荷へと移っていった。
父上は浅井の頃から続いていた商いを急に変えるつもりはないと説明し、現地へ遣わした役人たちにも、古くからの取り決めを確かめた上で必要なところから手を付けるよう命じていると伝えた。
公方様は京へ入ってくる米や薪、そのほかの品々が滞ることはないかと尋ねられたが、父上は今のところ大きな支障は出ていないと答えた。
もっとも、領主が替わったばかりの土地では、これから様々な問題が明らかになるだろう。坂田から届く報告も、最初は城や村の引き渡しに関わるものが多かったが、最近では年貢の納入先や寺社の所領、道の使い方など、日々の暮らしに関わる内容が増えている。
父上がそれらを細かく説明しなかったのは、まだ判断の済んでいない事柄も多いからだろう。今のところ大きな支障がないことと、この先も何も問題が起きないことは同じではなかった。
俺は二人の話を聞きながら、京へ来てから見掛けた荷車や商人たちの姿を思い返していた。
通りには米俵を積んだ車が行き交い、市には近江や他国から運ばれてきた品が並んでいる。買い手にとっては品がそこにあることが当たり前なのかもしれないが、坂田の一つの村から米を運び出すだけでも、道や渡し場、人足の都合を確かめなければならない。
前世では、店先に並ぶ品がどのような道を通ってきたのかまで、普段から気に掛けていたわけではなかった。しかし今は、帳面に記された村の名を見るだけでも、その周囲にどのような道があり、何処で川を渡るのかが気になるようになっている。
弥七へ命じた調査も、最初は美濃へ通じる道筋を知ることが主な目的だったが、集まる報告を読むうちに、普段の人や荷の往来を確かめることにも大きな意味があると考えるようになっていた。
公方様は父上の説明を聞き終えると、しばらく扇の端を指先で撫でておられた。
朽木との関係、美濃への関心、坂田の統治については、すでに一通り尋ねられている。俺は次にどのような話が出るのかを待っていたが、やがて公方様は扇を膝へ置き直し、それまでより少し低い声で父上へ呼び掛けられた。
「左京大夫。一つ覚えておけ。力を持つ家は、何もせずとも周りから疑われる。弱いうちは何を言っても笑われるが、強くなれば何も言わぬだけで恐れられる。そなたの家も、これからそうなるやもしれぬ」
父上は深く頭を下げたが、公方様はそこで話を終えられなかった。
六角が坂田を得たこと。その北で朽木が浅井を滅ぼしたこと。さらに両家が婚姻によって結ばれていることを順に挙げられる。
それぞれの出来事には事情があり、六角と朽木が初めから北近江を分け合うために動いていたわけではない。しかし近江の外から眺めれば、両家が協力して浅井を滅ぼし、その領地を分け合ったようにも映るだろう。さらに六角が美濃を、朽木が越前を窺っていると受け取られれば、周囲の家々が警戒する理由にもなる。
公方様は、実際に何を考えているかだけでなく、相手からどのように見られているかを忘れてはならぬと仰った。
父上はその言葉を遮らずに聞き、両家の関係が周囲へ大きな動きとして映ることは承知していると答えた。
公方様は頷かれたものの、ただ承知しているだけでは足りぬと続けられる。他家が六角の力を恐れて兵を集め、それを見た六角が相手の動きを警戒して備えを固めれば、互いに攻めるつもりがなかったとしても争いへ近付くことがある。
兵を集めた理由が守りのためであっても、相手が同じように受け取るとは限らない。公方様はそうしたことを、御自身も幾度となく見てこられたのかもしれなかった。
俺は六角の家中にいる者たちのことを考えた。
父上の近くで政務を担う者もいれば、領内の城を預かり、国境で兵を率いる者もいる。坂田へ新しく遣わした役人たちは、これまで六角の支配が及んでいなかった土地で仕事を始めたばかりだ。父上が慎重に他家との関係を考えていても、現地で働く者たちが同じように振る舞えるとは限らない。
例えば六角の威を借りて他家の者へ強い態度を取る者が現れれば、本人は自分の役目を果たしているつもりでも、相手には六角そのものが圧力を掛けてきたように見えるだろう。
美濃について調査を命じた篠や弥七、宗兵衛にしても、道や国人の事情を調べるうちに、相手から六角の意図を尋ねられることはあるかもしれない。こちらが単に情報を集めているつもりでも、その動きが相手の警戒を招く可能性はある。
篠たちはそうしたことへ気を配れる者たちだが、六角に仕える全ての者が同じように考えられるとは限らなかった。
「疑われるな、とは言わぬ。無理な話じゃ。ただ、自分がどう見られておるかを忘れるな。そなたは分かっておるようだが、六角に仕える者たち全てが同じように考えておるとは限らぬからな」
「御言葉、肝に銘じます。家中の者にも、その点はよく申し聞かせましょう」
父上は改めて深く頭を下げた。
公方様はその返答を聞いてしばらく父上を見ておられたが、やがて視線をこちらへ移された。俺は背筋を伸ばしたものの、今度は具体的な報告を求められているわけではないことが、その御様子から何となく分かった。
「右衛門督。そなたも聞いておったな。いずれそなたが六角を継ぐ。その時には、今の左京大夫よりも大きな家を預かることになるやもしれぬ。力を持つことばかり考えておってはならぬぞ」
「心得まする」
俺は深く頭を下げた。畳へ目を落とすと、長く座っていた膝に僅かな痺れを感じたが、姿勢を崩すわけにはいかない。
今は父上が六角の当主として判断し、俺はその傍らで話を聞くことができる。しかしいずれ自分が同じ席へ座ることになれば、家臣の行動も他家との関係も、最後には俺自身が責任を負わなければならない。
すでに篠たちへ調査を命じ、坂田からの報告について後藤但馬守らと話を進める立場にある以上、今の俺にも考えなければならないことは少なくなかった。
命じた内容が現地でどのように受け取られているのか。報告と実際の様子に食い違いはないか。たとえ命じた仕事が正しく行われていても、それが相手からどう見られるかまでは、こちらの考えだけでは決められない。
京へ来る前には調査を進めることばかり考えていたが、観音寺へ戻った時には、家臣たちへ出した指図を一度確かめ直しておく必要がありそうだった。
それからしばらく、京の情勢や幕府の近況について言葉が交わされた。
公方様は先ほどまでの厳しい調子を引きずることなく、父上が近江へ戻る時期や、京に滞在している間に済ませる用件についても尋ねられる。
父上は必要なことを答え、俺は傍で話を聞いていたが、控えている幕臣たちは次の用件へ向けて動き始めているらしい。書状を受け取る者や、部屋の隅で小声を交わす者が見え、先ほどまで父上の答えを書き留めていた者も筆を置いていた。
俺はその様子を目にしながら、今日の対面で交わされた言葉を思い返していた。
朽木との関係をどうするのか。美濃へ兵を進めるつもりはあるのか。坂田をどのように治めるのか。
公方様は一つずつ尋ねられたが、その中には六角が何を考えているのかを確かめる問いと、六角自身が気付いていないかもしれない危うさを示す言葉があった。
昨日の帝への拝謁では、田畑や民の暮らしについて改めて考えさせられた。今日の対面では、こちらが何をしようとしているかだけでなく、その振る舞いを他家がどう受け止めるかまで考える必要があると教えられたように思う。
もっとも、公方様の御言葉を聞いたからといって、全ての疑いを避けられるようになるわけではない。六角が力を持てば、それを恐れる者も現れるだろうし、こちらが戦を望まなくとも、相手の判断によって争いが起きることはある。
それでも、誰からどう見られているのかを確かめず、自分たちの考えだけで動いてしまうよりはよい。父上が公方様の問いへ必要以上の約束をせず、それでいて六角の考えを曖昧にしなかった理由も、今なら少し分かる気がした。
父上の横顔へ目を向けると、先ほどまでと変わらぬ落ち着いた様子で公方様の御言葉へ答えていた。
俺はその姿を見ながら、観音寺へ戻ったら坂田や兵のことをどの順序で確かめるべきか、頭の中で少しだけ整理した。今ここで細かな仕事の内容まで考える必要はない。ただ、京で見聞きしたことを、その場で感心して終わらせるのではなく、自分が命じた仕事へどう生かすのか。
それだけは忘れずに持ち帰ろうと思った。
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