淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第五十五話「公方との対面」ー前編ー

 公方様との対面を控えた朝、京の宿ではいつもより早くから人が動いていた。廊下の向こうでは小姓たちが衣服や持ち物を確かめ、庭に面した縁側からは馬の支度をする者たちの声が聞こえてくる。俺も夜明けからさほど間を置かずに起き出し、弥太郎が用意してくれた衣服へ袖を通した。昨日は帝への拝謁という大きな務めを終えたばかりだったが、今日もまた気を抜くわけにはいかない。父上と共に公方様へ挨拶に伺うことになっており、近江の情勢について尋ねられる可能性もあると聞かされていた。

 

 もっとも、俺自身がどこまで話すことになるのかは分からなかった。六角家の当主として公方様へ近江の様子を伝えるのは父上の役目であり、嫡男である俺がその横から口を挟む必要はない。以前、公方様と道中を共にした時には、もう少し気安く言葉を交わす機会もあったが、今回は正式な対面の席である。相手が同じ方だからといって、以前と同じように振る舞ってよいわけではなかった。

 

 弥太郎は俺の帯を確かめながら、昨日ほど難しい顔をしていないと口にした。本人としては気を利かせたつもりなのだろうが、昨日も今日も自分ではそれほど表情を変えているつもりはない。俺がそう答えると、弥太郎は余計な反論をせず、襟元の乱れを直してから一歩下がった。小姓の一人が廊下へ出て支度の済んだことを伝えに行き、俺も机の上に置いていた書状を文箱へ収めた。坂田からの報告にはまだ目を通したい部分が残っていたが、今から読み始めれば考え事を抱えたまま出掛けることになる。続きを確かめるのは宿へ戻ってからでよいだろう。

 

 父上と合流した時には、すでに供の者たちが支度を整えていた。父上はいつものように落ち着いた様子で、近江から届いた報告について側近へ幾つか指示を出していたが、俺が挨拶すると手元の書状を畳んだ。昨日の帝への拝謁について改めて話すことはなく、今日の席では公方様から直接尋ねられた時にだけ答えればよいと告げられた。俺もそのつもりでいたので、特に異存はなかった。

 

 宿を出ると、通りには朝の冷たい空気が残っていた。家々の軒先では商人が荷を運び出し、道を行く男たちが互いに声を掛けながら荷車を避けている。京へ入ったばかりの頃は、こうした人の多さに目を奪われることもあったが、何日か滞在するうちに少しずつ見慣れてきた。ただ、今日は供の者たちが普段よりも周囲へ注意を払っているらしく、道が狭くなる場所では先を進む者が歩みを緩め、その都度一行の間隔を整えていた。父上はその動きに口を出すこともなく、時折通りの様子へ目を向けながら進んでいる。

 

 公方様のおられる御所へ着くと、俺たちは案内に従って奥へ通された。門を抜けてからは通りの賑わいが次第に遠ざかり、磨かれた廊下を進む足音や、襖の向こうで交わされる声が耳へ入ってくる。控えている幕臣たちは父上の姿を認めると丁重に挨拶し、父上も相手に応じて言葉を返していた。以前から面識のある者もいるらしく、近江の様子を短く尋ねる声もあったが、正式な対面を控えているためか、長く立ち話をするようなことはなかった。

 

 やがて部屋へ案内され、父上と共に所定の座へ進んだ。俺は父上より少し後ろへ控え、周囲の様子を確かめながら頭を下げる。公方様は以前お会いした時と変わらぬ御様子で、父上へ声を掛けられた後、俺にも顔を上げるよう仰った。以前の道中で言葉を交わしたことを覚えておられたらしく、右衛門督も息災であったかと尋ねられたので、俺は礼を述べて短く答えた。

 

 対面はまず、父上の上洛と昨日の帝への拝謁についての話から始まった。公方様は近江から京までの道中に変わったことはなかったかと尋ねられ、父上は特に支障がなかったことを伝えた。その後、京の様子や幕府の近況について幾つか言葉が交わされ、話題は自然と近江の情勢へ移っていった。俺は父上の傍で話を聞きながら、時折、公方様の手元へ目を向けていた。閉じた扇を膝へ置き、話の区切りで指先を動かされる様子は穏やかだったが、父上の答えを聞いてから次の問いを向けられるまでの間には、こちらの言葉を確かめておられるような慎重さも感じられた。

 

 浅井との戦が終わり、北近江の情勢が大きく変わったことは、すでに京へも伝わっている。朽木が伊香と浅井を治め、坂田郡を六角が受け取ったことも、公方様は承知しておられた。問題は、その結果として近江でどのような力関係が生まれ、六角が今後どう動くつもりなのかということなのだろう。父上は浅井との戦について必要な経緯を説明したが、朽木の働きを六角の功績であるかのように語ることはなかった。弥五郎が自ら兵を率いて浅井を滅ぼしたこと、その後の話し合いによって坂田を六角が受け取ったことを、順を追って伝えていた。

 

 しばらく父上との話が続いた後、公方様は手元の扇を閉じ、膝の上へ置かれた。

 

「左京大夫。朽木は随分と大きくなったようじゃな。浅井を滅ぼし、北近江を押さえたとなれば、もはや以前の朽木とは違うであろう。そなたは、あの家を今後どうするつもりじゃ」

 

 それまでの話よりも、少し踏み込んだ問いだった。父上はすぐには答えず、僅かに姿勢を正してから口を開いた。公方様が何を尋ねておられるのかは、俺にもおおよそ見当が付いた。六角と朽木は婚姻によって結ばれているが、朽木は六角の家臣ではない。弥五郎は自らの判断で兵を動かし、領地を治める当主であり、今回の戦でも六角の命令に従って動いたわけではなかった。だが、近江の守護である六角から見れば、かつて近江の一角を治めるに過ぎなかった朽木が、今では北近江の広い範囲を押さえる存在となっている。その変化を六角がどのように受け止めているのか、公方様が関心を持たれるのも不思議ではなかった。

 

「朽木とは、今後も良き関係を保ちたいと考えております。此度の戦においても、互いの利を損なわぬよう話を進めてまいりました。朽木が北近江を治めることは、六角にとっても決して悪いことではございませぬ」

 

 父上は静かに答えたが、公方様はすぐに頷かれなかった。朽木が大きくなったこと自体を六角が喜んでいるのか、それとも今は争う理由がないだけなのかを確かめるように、幾つか言葉を重ねられた。父上はその一つ一つへ長々と説明することはせず、両家がこれまでどのような関係を築いてきたのか、また今回の領地の取り決めが双方の合意によるものであったことを伝えていた。

 

 俺はそのやり取りを聞きながら、浅井との戦が終わってから観音寺へ届いた知らせや、坂田郡を受け取るまでの経緯を思い返していた。朽木が浅井を滅ぼしたという知らせが届いた時には、戦の行方に気を取られていた俺も、ようやく北近江の情勢が大きく変わったことを実感したものだった。しかし、その後に父上のもとで進められた領地の取り決めを見ていると、戦に勝ったことと、その土地を今後どう扱うのかは別の問題なのだと分かってきた。朽木は伊香と浅井を治める一方、坂田を六角へ渡すことに同意した。弥五郎が何を考えてその判断を下したのか、俺は本人から詳しく聞いたわけではない。それでも、互いに独立した家でありながら、領地の扱いについて合意に至ったという事実は、今の両家の関係を考えるうえで無視出来ないものだった。

 

 弥五郎については、以前から顔を合わせ、言葉を交わしてきた中で知っていることもある。幼い頃からの付き合いがあるとはいえ、朽木の当主として話す時には、こちらとの親しさだけで物事を決める相手ではなかった。自家に関わることとなれば、家臣や領地の事情を踏まえて判断しようとするところがあり、俺もそれを承知している。だからこそ、今回の坂田の取り決めについても、単に六角へ譲ったというだけではなく、朽木にとっても何らかの利があると考えたのだろう。ただし、その詳しい事情までは知らない以上、俺が勝手に弥五郎の考えを決め付けるわけにはいかなかった。

 

「だが、朽木は六角に従っておるわけではあるまい。北近江を得た今なら、なおのことであろう。左京大夫、そなたは朽木を従わせるつもりはないのか」

 

 公方様がそう尋ねられると、父上は僅かに間を置いた。俺はその横顔を見ながら、返答が難しい問いだと考えていた。六角には近江守護としての立場があるものの、それを理由に朽木へ服従を求めたところで、弥五郎が素直に受け入れるとは思えない。仮に強く求めれば、これまで築いてきた関係が崩れることもあり得る。だが、公方様の前で六角には朽木を従わせられないと答えるのも、家の立場を考えれば軽々しく口に出来ることではないだろう。

 

「朽木を従わせることは、今の六角にとって必要とは考えておりませぬ。朽木は自らの領地を治め、六角もまた己の領地を治める。そのうえで互いに力を貸すことが出来るのであれば、無理に上下を定める必要はございません。従わせるために兵を動かし、今ある関係を損なう方が、よほど大きな損失となりましょう」

 

 父上の返答を聞いて、公方様はしばらく目を細めておられた。近くに控える幕臣の一人が僅かに姿勢を変えたが、父上はその様子を気にすることなく、静かに公方様の次の言葉を待っている。俺は父上が朽木を従わせられるかどうかには触れず、その必要がないと答えたことに目を留めていた。問いの中にある前提をそのまま受け入れず、今の六角にとって何が利益になるのかを示したのだ。もし俺が同じ問いを受けていたなら、弥五郎が簡単に従う相手ではないことを先に説明してしまったかもしれない。

 

 公方様はやがて小さく笑われ、左京大夫は以前から言葉を選ぶのが上手いと仰った。父上は恐れ入りますと頭を下げたが、表情はほとんど変わらなかった。公方様もそれ以上、服従の可否について問いを重ねることはなく、今度は両家が互いに独立したまま協力を続けることの利について尋ねられた。

 

 父上は、六角が坂田を得たことによって美濃へ目を向けやすくなった一方、朽木は北近江を治め、越前と直接向き合う立場になったことを説明した。双方が同じ土地を取り合うのではなく、それぞれ異なる方面に関心を向けられるなら、今の関係は維持しやすい。無論、互いの領地が接している以上、すべての利害が一致するわけではないが、わざわざ争いを生むより、協力することで得られるものの方が大きいということだった。

 

 俺は父上の言葉を頭の中で辿りながら、以前、坂田の地図を広げて不破へ続く道を調べた時のことを思い出していた。六角が坂田を得たことで、美濃は以前より身近な土地となった。一方の朽木は、浅井を滅ぼしたことで北近江の広い範囲を治め、越前とも直接向き合うようになっている。両家がそれぞれ別の方向へ目を向けられることは、確かに今の関係を支える大きな利だった。

 

 ただし、それがいつまでも続くとは限らない。美濃の情勢が変わることもあれば、越前で新たな争いが起きることもあるだろう。朽木が今以上に領地を広げれば、六角との力関係も変わってくる。今は互いに背後を任せられる相手であっても、将来まで同じ関係が続くと約束出来るわけではない。俺がそのことを考えていると、公方様がまさに同じ点へ問いを向けられた。

 

「それでは、朽木が六角より大きくなっても同じか」

 

 公方様の問いに、父上は僅かに目を細められたが、すぐに答えることはなかった。朽木が今以上に領地を広げ、六角を上回る力を持つようになった時にも、両家は今の関係を維持出来るのか。公方様が確かめようとしておられるのは、単に将来の勢力図についてではないのだろう。六角が朽木の成長をどこまで認められるのか、あるいは相手が自家を凌ぐほど大きくなった時、これまでの友好を捨てて争うつもりがあるのか。今の関係が双方に利益をもたらしているからといって、それが将来の争いを防ぐ保証にはならない。俺自身も弥五郎と親しくしているが、朽木が六角にとって不利益となる行動を取った場合にまで、その判断を支持出来るとは限らなかった。

 

 父上は膝の上に置いていた手を僅かに動かし、公方様へ向き直った。答えを探して迷っているというより、どこまでを今の六角の考えとして述べるべきなのか、言葉を整えておられるように見える。俺は父上の横顔から視線を外し、正面へ向き直った。ここで父上がどのように答えるのかは、六角と朽木の今後を考えるうえでも聞いておきたいことだった。

 

「その時の情勢次第にございます。朽木がさらに大きくなり、六角と利がぶつかることがあれば、改めて考えねばなりませぬ。されど、まだ起きておらぬことを恐れて今ある関係を自ら壊す必要はございません。相手が大きくなることを案じるより、六角自身が今の領地を治め、家の力を整える方が先にございましょう」

 

 父上の返答を聞き、公方様はしばらく黙っておられた。控えていた幕臣の一人が手元の書付へ目を落とし、別の者は父上の顔を見つめたまま動かない。庭から吹き込んだ風が襖の端を微かに揺らし、部屋の中では衣擦れの音さえ大きく聞こえた。父上は姿勢を崩すことなく、公方様の次の言葉を待っている。俺も膝へ落としかけた視線を戻し、正面を向いたまま二人の様子を見守った。

 

 やがて公方様の口元に笑みが浮かんだ。利のあるうちは共に歩み、状況が変われば改めて考える。将来について必要以上の約束をしないところまで含めて父上らしいと、半ば呆れたように仰る。父上が恐れ入りますと頭を下げると、公方様は褒めているかどうかは受け取り方次第だと笑われた。先ほどまで慎重に父上の言葉を聞いていた幕臣たちも、そこで僅かに表情を緩めている。

 

 俺は父上の答えを思い返していた。朽木が六角より大きくなっても構わないと約束したわけではなく、反対に、それを防ぐために手を打つとも言っていない。今の段階では、両家の関係を壊す理由がないというだけのことだ。しかし、それは曖昧に答えを避けたのとも違う。父上は六角の将来を、まだ起きてもいない朽木との争いだけで決めるつもりがないのだろう。観音寺へ戻れば、坂田を治めるために片付けなければならない仕事が幾つも待っている。父上が先ほど今の領地を治めることを優先すると答えたのも、単に聞こえのよい言葉を選んだからではなかった。

 

 公方様は一度開きかけた扇をそのまま閉じ、今度は俺へ視線を向けられた。それまで父上との間で進んでいた話が突然こちらへ向けられたことで、背筋が自然と伸びる。父上は特に振り返ることもなく、静かに座っていた。家の方針についてはすでに当主として答えているのだから、ここで俺が同じことを繰り返す必要はないはずだ。そう考えながら、公方様の次の言葉を待った。

 

「ところで右衛門督。そなたはどうじゃ。以前の道中でも、弥五郎のことを気にしておったであろう。左京大夫はこう申しておるが、そなたから見て朽木弥五郎基綱はどのような男じゃ」

 

 公方様が俺へ尋ねておられるのは、六角として朽木をどう扱うべきかではなく、実際に弥五郎と付き合ってきた者として、どのような人物だと見ているのかということなのだろう。俺はこれまで弥五郎と顔を合わせ、言葉を交わしてきた時のことを思い返した。幼い頃からの付き合いではあるが、朽木の当主としての弥五郎と向き合うようになってからは、以前とは少し違った印象を持つことが増えていた。普段は気安く話せる相手でも、家のこととなればその場の親しさだけで物事を決めるようなことはしない。こちらの考えへ耳を傾ける一方で、朽木にとって何が必要なのかを確かめ、自らの立場を踏まえて判断するところがあった。

 

 此度の浅井との戦についても、弥五郎の判断には考えさせられるところがある。浅井を滅ぼしたことで朽木は北近江の広い領地を得たが、その全てを自家で抱え込もうとはせず、話し合いの末に坂田郡を六角へ渡すことに同意している。無論、その判断に至るまでの考えを俺が全て知っているわけではない。弥五郎から直接詳しい事情を聞いたわけでもなく、父上のもとで進められた取り決めや、観音寺へ届いた知らせから分かることには限りがある。ただ、領地を得ることばかりに目を向けていたなら、坂田を渡すという判断には至らなかったかもしれない。新たに得た土地を治めるための人手や、六角との今後の関係についても考えるところがあったのだろう。

 

 俺は膝の上に揃えていた手を僅かに握り直した。公方様へ答える以上、弥五郎をよく知っていると見せようとして、確かめていないことまで話すわけにはいかない。これまでの付き合いで見てきた姿と、今回の領地の取り決めから判断出来ることを区別したうえで、俺自身の評価を伝えることにした。

 

「弥五郎殿は、先を見て動かれる方だと思っております。戦に勝つことだけでなく、その後に土地をどう治め、人をどう使うかまで考えておられるのでしょう。以前から幾度かお話しする機会がございましたが、目の前の利だけで判断される方ではないと感じております」

 

 公方様は俺の返答を聞くと、父上と同じように弥五郎を信用しているのだなと確かめられた。俺はそのことを認めたうえで、朽木には朽木の事情があり、六角の考えを何でも受け入れてくれる相手ではないと答えた。弥五郎と親しく話せることと、他家の当主として向き合うことは別である。小夜が朽木へ嫁いだ今、両家の関係は以前よりも深くなっているが、それによって利害が全て一致するわけではない。俺はそこまでを短く伝え、それ以上は言葉を重ねなかった。

 

 公方様は面白そうに笑われ、父と倅で申すことはそう違わぬかと父上へ話を向けられた。父上は、俺が以前から弥五郎と付き合いのあることに触れ、若い者同士だからこそ見えているところもあるかもしれないと答えた。ただ、そこで話を終えてくれればよかったものを、余計な一言まで付け加えられた。

 

「もっとも、右衛門督は考え過ぎる癖がございますゆえ、時に話を難しくすることもありますが」

 

 何でもないことのように父上が言うので、思わずそちらへ顔を向けてしまった。今まで真面目に朽木との関係について話していたところへ、わざわざそんなことを付け加える必要があるのだろうか。確かに自分でも物事を考え過ぎるところがあるとは思っている。篠や弥七から報告を受ける時にも、一つの話を確かめようとして別の疑問が浮かび、結局は最初に聞こうとしていたことよりも多くの時間を使ってしまうことがあった。しかし、それを公方様の前で披露しなくてもよいだろう。父上は平然とした顔で座っており、こちらからの視線など気にしていない。

 

 公方様もその一言を面白がられたらしく、右衛門督は父より慎重なのかと笑われた。何と答えるべきか迷ったものの、ここで否定すれば父上から別の話を持ち出されそうだった。かといって、自分から考え過ぎると認めるのも釈然としない。俺が返事をためらっていると、父上の口元が僅かに緩んだ。その様子を見て、これ以上付き合えばますます面白がられるだけだろうと判断し、姿勢を正して頭を下げた。公方様はそれを見て一層楽しそうに笑われ、控えていた幕臣たちの間にも笑みが広がった。

 

 以前の道中でも、公方様はこうして相手の言葉を拾い、冗談へ変えておられた。あの時には気さくな方だという印象が強かったが、今日のような正式な対面の席では、冗談の向けられる相手やタイミングにも目が向く。父上がどのような問いにも姿勢を崩さずに答える一方、俺は思いがけない一言で顔を向けてしまった。公方様はそんな俺の様子を見ておられたが、それ以上からかわれることはなく、扇を膝へ戻された。控えていた幕臣の一人も、先ほどまで緩めていた表情を改め、手元の書付へ目を落としている。

 

 話題が変わったのは、それから間もなくのことだった。公方様は朽木についての話を切り上げ、今度は六角が新たに得た坂田郡へ関心を向けられた。父上は膝の上へ置いていた手を揃え、改めて公方様へ向き直った。俺も先ほどまでのやり取りから意識を切り替え、坂田から届いていた報告を思い返す。浅井との戦が終わり、六角が坂田を受け取ったことは京へも伝わっている。しかし、実際に領地を受け取ってからどのような仕事が始まっているのかについては、幕府が詳しく把握しているとは限らなかった。

 

「左京大夫。坂田まで得たとなれば、次は美濃か。近江の北を落ち着かせた後は、東へ目を向けるつもりなのであろう?」

 

 公方様の声は先ほどまでと変わらず穏やかだったが、その問いに父上はすぐには答えなかった。六角が坂田を得たことで、美濃へ通じる道を直接押さえられるようになったのは確かである。俺自身も篠や弥七、宗兵衛へそれぞれ調査を命じ、不破の国人や街道について情報を集め始めている。もっとも、調べていることと兵を進めることは別だった。今の段階で美濃への出兵が決まっているわけではなく、父上からもそのような命令は出ていない。六角が美濃を気にしていることは隠しようがないとしても、それを理由に戦を始めるつもりだと思われれば、相手の国人たちも警戒することになるだろう。

 

「美濃へ目を向けておることは確かにございます。ただし、今すぐ兵を進めるつもりはございませぬ。坂田は受け取ってからまだ日が浅く、村々の取り決めや寺社の所領について確認を進めているところにございます。まずは新たに得た土地を落ち着かせねばなりませぬ」

 

 父上はそう答えると、坂田で進めている仕事について簡単に説明した。浅井の頃から続いている年貢の取り決めを当面残す村があること、米を納める場所について確認を求める声が届いていること、寺社の所領や村々の権利についても現地へ遣わした役人たちが事情を確かめていること。俺が観音寺で帳面を広げて見ていた問題と同じものだったが、父上は細かな村の名や数字を並べず、今の六角が坂田で何を優先しているのかを伝えることに留めていた。

 

 公方様は、領地を得たばかりでは次の戦へ出る余裕もないのかと尋ねられた。父上は戦が出来ないわけではないと答えながらも、坂田の仕組みが整わぬうちに別の土地へ手を伸ばせば、得た領地を守るために余計な負担を抱えることになると説明した。実際、坂田から届いた報告には、年貢を運ぶ道や寺社の所領について判断を求めるものが少なくない。以前からの取り決めを急に改めれば、役人の仕事が増えるだけでなく、村々から不満が出ることもあるだろう。そうした問題を残したまま新しい戦を始めれば、現地へ遣わせる人手も足りなくなるかもしれない。父上はそれらを一つずつ挙げることはせず、新たに得た土地を治めるための時間が必要であることを伝えていた。

「では、美濃へ攻め込まぬと?」

 

「そうとも申し上げられませぬ。美濃の情勢が変われば、六角としても考えねばならぬことが出てまいりましょう。されど、今の段階で兵を進めると決めてしまえば、それを聞いた国人たちがどう動くか分かりませぬ。こちらから余計な争いを招く必要はございません」

 

 公方様は閉じた扇の端で膝を軽く叩かれた。攻めるとも攻めぬとも答えない父上を面白がっておられるようだったが、父上は表情を変えず、今決める必要のないことまで先に決めるつもりはないと付け加えた。公方様は昔からそういうところがあると笑われ、控えていた幕臣の一人も僅かに口元を緩めた。ただ、父上の返答を書き留めていた者は、手元へ目を落としたまま筆を動かしている。

 

 俺はその様子を横目で見ながら、父上が美濃への関心を隠さなかったことに少し驚いていた。幕府の前で隣国へ目を向けていると認めれば、こちらの意図を余計に疑われることにも繋がりそうだった。しかし、坂田を得た六角が美濃の情勢を気にしていないなどと言ったところで、誰もその言葉を額面通りには受け取らないだろう。近江と美濃を行き来する商人がおり、街道の先には不破の国人たちがいる。国境に接する土地を治める以上、その向こうで何が起きているかを知らずに済ませるわけにはいかなかった。

 

 その時、公方様の視線が再びこちらへ移った。父上が美濃への関心を認めたことを受けて、今度は実際に調査を進めている俺から話を聞くつもりなのかもしれない。父上は先ほどと同じように正面へ向き直ったままで、特に俺へ合図を送ることもなかった。

 

「右衛門督。そなたも美濃のことを調べておるそうじゃな。左京大夫から聞いたぞ。どのようなことを見ておる?」

 

 俺は姿勢を正し、父上がどこまで伝えているのかを考えた。調査を進めていること自体は隠す必要がないし、公方様もそのことを承知したうえで尋ねておられる。ただ、篠が確かめている国人の関係や、宗兵衛が商人から集めている話まで詳しく説明する必要があるのかは別だった。報告の中にはまだ確かな裏付けが得られていないものもあり、同じ国人について異なる話が届くことさえある。そうした情報を十分に整理しないまま口にすれば、調査の途中で聞いた話が六角の判断であるかのように受け取られるかもしれない。俺はまず、坂田を治めるためにも必要となる道や人の往来について答えることにした。

 

「坂田から美濃へ通じる道と、そこを行き来する商人の話を集めております。また、不破の国人についても、今分かっていることを整理しているところにございます。まだ確かなことは多くございませぬが、道や人の動きを知ることは、坂田を治めるうえでも必要と考えております」

 

 公方様は俺の返答を聞くと、僅かに目を細められた。父上が美濃への関心を認めた以上、俺がその調査に関わっていることも不自然ではない。ただ、道を調べているという説明だけでは、何を目的としているのかまでは分からないだろう。実際、篠には不破の国人について、弥七には主要な道筋について、宗兵衛には商人たちの往来について調べさせているが、集まった話はまだ十分に整理出来ていなかった。同じ場所を通った商人でも、荷の種類や季節によって使う道が違い、国人同士の関係についても、話を聞く相手によって随分と印象が異なる。俺はそうした違いを確かめる必要を感じていたが、調査を始めてからまだ日が浅い。今の段階で、兵を進めるための具体的な準備が整っているわけではなかった。

 

「兵を進めるための道を調べておるのではないのか」

 

 公方様は閉じた扇を膝へ置いたまま、穏やかな声で尋ねられた。周囲の幕臣たちは特に動かなかったが、父上の横顔へ一瞬だけ目を向けた者がいた。俺も反射的に父上の様子を確かめようとしたものの、途中で思い留まった。すでに父上は六角の方針を説明している。ここで俺が答えるべきなのは、父上の言葉を繰り返すことではなく、自分が何を命じ、どのような報告を受けているのかということだった。

 

 弥七から届いた書付には、道幅や川の渡し場、雨が降った後に通りにくくなる場所などが記されていた。そうした情報は兵を動かす場合にも役立つが、荷車を通す時にも必要になる。坂田から届いた報告には、年貢米を運ぶ道が悪く、これまで使っていた納入先を改めてほしいという申し出もあった。道を一つ変えれば済むように見えても、その先の村が荷を受け入れられるか、どこで川を渡るのか、余計な人足が必要にならないかといった問題が生じる。帳面の上で短く引かれた線が、実際には幾つもの村や人々の負担と繋がっていることを、俺も報告を読む中で少しずつ知り始めていた。

 

「兵の動きと無関係とは申し上げられませぬ。ただ、今は普段どの道が使われ、どこで荷を休ませ、雨が降ればどの道が通りにくくなるのかを確かめております。坂田では年貢米を運ぶ道についても申し出がございまして、地図の上で近い道が、必ずしも荷を運ぶのに適しているとは限らぬことを知りました」

 

 公方様はしばらく俺を見ておられたが、やがて父上へ顔を向けられた。父上は、坂田がこれから六角にとって重要な土地になる以上、右衛門督にも帳面だけでなく、実際に人や荷が動く様子を知っておいてもらいたいと答えた。公方様はそれを聞いて小さく頷かれ、土地を得ることと治めることは違うからな、と短く仰った。

 

それ以上、俺へ問いが向けられることはなく、話は坂田の市や、近江から京へ運ばれる荷へと移っていった。父上は浅井の頃から続いていた商いを急に変えるつもりはないと説明し、現地へ遣わした役人たちにも、古くからの取り決めを確かめたうえで必要なところから手を付けるよう命じていると伝えた。公方様は京へ入ってくる米や薪、その他の品々が滞ることはないかと尋ねられたが、父上は今のところ大きな支障は出ていないと答えた。もっとも、領主が替わったばかりの土地では、これから様々な問題が明らかになるだろう。坂田から届く報告も、最初の頃は城や村の引き渡しに関わるものが多かったが、最近では年貢の納入先や寺社の所領、道の使い方など、日々の暮らしに関わる内容が増えている。

 

 俺は二人の話を聞きながら、京へ来てから見掛けた荷車や商人たちの姿を思い返していた。通りには米俵を積んだ車が行き交い、市には近江や他国から運ばれてきた品が並んでいる。買い手にとっては品がそこにあることが当たり前なのかもしれないが、坂田の一つの村から米を運び出すだけでも、道や渡し場、人足の都合を確かめなければならないことを俺は知り始めていた。前世では、店先に並ぶ品がどのような道を通ってきたのかまで、普段から気に掛けていたわけではない。しかし、今は帳面に記された村の名を見るだけでも、その周囲にどのような道があり、どこで川を渡るのかが気になる。弥七へ命じた調査も、最初は美濃へ通じる道筋を知ることが主な目的だったが、集まる報告を読むうちに、兵を動かす時だけではなく、普段の人や荷の往来を確かめることにも意味があると考えるようになっていた。

 

 公方様は父上の説明を聞き終えると、しばらく扇の端を指先で撫でておられた。朽木との関係、美濃への関心、坂田の統治についてはすでに一通り尋ねられている。俺は次にどのような話が出るのかを待っていたが、やがて公方様は扇を膝へ置き直し、それまでより少し低い声で父上へ呼び掛けられた。

 

「左京大夫。一つ覚えておけ。力を持つ家は、何もせずとも周りから疑われる。弱いうちは何を言っても笑われるが、強くなれば何も言わぬだけで恐れられる。そなたの家も、これからそうなるやもしれぬ」

 

 父上は深く頭を下げたが、公方様はそこで話を終えられなかった。六角が坂田を得たこと、その北で朽木が浅井を滅ぼしたこと、さらに両家が婚姻によって結ばれていることを順に挙げられた。それぞれの出来事には事情があり、六角と朽木が初めから北近江を分け合うために動いていたわけではない。しかし、近江の外から眺めれば、両家が協力して浅井を滅ぼし、その領地を分け合ったようにも映るだろう。さらに六角が美濃を、朽木が越前を窺っていると受け取られれば、周囲の家々が警戒する理由にもなる。公方様は、実際に何を考えているかだけでなく、相手からどのように見られているかを忘れてはならぬと仰った。

 

 父上はその言葉を遮らずに聞き、両家の関係が周囲へ大きな動きとして映ることは承知していると答えた。公方様は頷かれたものの、ただ承知しているだけでは足りぬと続けられた。他家が六角の力を恐れて兵を集め、それを見た六角が相手の動きを警戒して備えを固めれば、互いに攻めるつもりがなかったとしても争いへ近付くことがある。兵を集めた理由が守りのためであっても、相手が同じように受け取るとは限らない。公方様はそうしたことを、御自身も幾度となく見てこられたのかもしれなかった。

 

 俺は六角の家中にいる者たちのことを考えた。父上の近くで政務を担う者もいれば、領内の城を預かり、国境で兵を率いる者もいる。坂田へ新しく遣わした役人たちは、これまで六角の支配が及んでいなかった土地で仕事を始めたばかりだった。父上が慎重に他家との関係を考えていても、現地で働く者たちが同じように振る舞えるとは限らない。たとえば、六角の威を借りて他家の者へ強い態度を取る者が現れれば、本人は自分の役目を果たしているつもりでも、相手には六角そのものが圧力を掛けてきたように見えるだろう。美濃について調査を命じた篠や弥七、宗兵衛にしても、道や国人の事情を調べるうちに、相手から六角の意図を尋ねられることはあるかもしれない。こちらが単に情報を集めているつもりでも、その動きが相手の警戒を招く可能性はあった。

 

「疑われるな、とは言わぬ。無理な話じゃ。ただ、自分がどう見られておるかを忘れるな。そなたは分かっておるようだが、六角に仕える者たち全てが同じように考えておるとは限らぬからな」

 

「御言葉、肝に銘じます。家中の者にも、その点はよく申し聞かせましょう」

 

 父上は改めて深く頭を下げた。公方様はその返答を聞いてしばらく父上を見ておられたが、やがて視線をこちらへ移された。俺はそれを受けて背筋を伸ばしたものの、今度は具体的な報告を求められているわけではないことが、その言葉を聞く前から何となく分かった。

 

「右衛門督。そなたも聞いておったな。いずれそなたが六角を継ぐ。その時には、今の左京大夫よりも大きな家を預かることになるやもしれぬ。力を持つことばかり考えておってはならぬぞ」

 

「心得ます」

 

 俺は深く頭を下げた。畳へ目を落とすと、長く正座していた膝に僅かな痺れを感じたが、姿勢を崩すわけにはいかなかった。今は父上が六角の当主として判断し、俺はその傍らで話を聞くことが出来る。しかし、いずれ自分が同じ席へ座ることになれば、家臣の行動も他家との関係も、最後には俺自身が責任を負わなければならない。すでに篠たちへ調査を命じ、坂田からの報告について後藤と話を進める立場にある以上、今の俺にも考えなければならないことは少なくなかった。命じた内容が現地でどのように扱われているのか、受け取った報告と実際の様子に食い違いはないか。京へ来る前には仕事を進めることばかり考えていたが、戻った時には一度、家臣たちへ出した指示を確かめ直しておいた方がよさそうだった。

 

 それからしばらく、京の情勢や幕府の近況について言葉が交わされた。公方様は先ほどまでの厳しい調子を引きずることなく、父上が近江へ戻る時期や、京へ滞在している間に済ませる用件についても尋ねられた。父上は必要なことを答え、俺は傍で話を聞いていたが、控えている幕臣たちは次の用件へ向けて動き始めているらしい。書状を受け取る者や、部屋の隅で小声を交わす者が見え、先ほどまで父上の答えを書き留めていた者も筆を置いていた。

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