淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/21 文章整理


第五十六話「公方との対面」ー後編ー

 やがて謁見を終えることになり、父上が深く頭を下げると、俺もそれに倣った。

 

 公方様は最後に、近江へ戻ってからも息災でいるようにと御言葉を掛けられ、父上は恭しく礼を述べた。俺が顔を上げた時には、公方様はすでに別の幕臣へ何かを話しておられた。先ほどまで六角と朽木の行く末について問われていたことが嘘のように、部屋の中では次の用件へ向けて人が動き始めている。幕臣の一人が手元の書付をまとめ、別の者が公方様の傍へ進んで何事かを申し上げていた。一つの対面が終わったところで、幕府の政が止まるわけではないのだろう。

 

 案内に従って廊下へ出ると、閉じられた襖の向こうから微かな話し声が聞こえてきた。磨かれた板の上を歩く足音は思ったより大きく響き、先を行く案内の者が曲がり角で足を止めるたび、俺たちもそれに合わせて歩みを緩めた。父上はすぐには口を開かず、背筋を伸ばしたまま進んでいる。俺もその後ろを歩きながら、先ほど公方様の問いへ答えていた父上の姿を思い返していた。

 

 朽木を従わせるつもりがあるのか。美濃へ兵を進めるつもりなのか。どちらも六角の今後を問うものだったが、父上はその場で新たな約束をすることなく、すでに決めていることと今後の情勢によって判断すべきことを分けて話していた。朽木との関係については現在の利を示し、美濃については関心があることを隠さず、それでいて出兵を決めたわけではないと明言する。どの答えも聞いている時には自然に思えたが、もし自分が同じ問いを向けられていたなら、あれほど簡潔に答えられただろうか。

 

 門の近くまで進むと、外から人の声と馬の蹄が石を打つ音が届いてきた。供の者たちはすでに支度を整えて待っており、父上が姿を見せると揃って頭を下げた。俺も用意された履物へ足を通し、庭先へ出る。

 

 道を行く荷車の軋む音や、遠くで商人が人を呼ぶ声が聞こえ、御所の内側とは違う京の日常が戻ってきた。公方様の前では気にならなかった肩の重さを、そこでようやく感じた。長く姿勢を保っていたせいもあるのだろうが、それ以上に対面が終わったことで、知らず知らずのうちに入っていた力が抜けたらしい。

 

 父上は供の者へ短く指図を出した後、俺へ顔を向けた。その表情には、先ほどまで公の席で見せていた慎重さが少し薄れている。御所の門を離れ、供を従えてしばらく進んだところで、父上は俺の顔を見て僅かに笑った。

 

「四郎。随分と静かにしておったな。公方様から直接問われた時も、いつもより言葉が少なかったではないか」

 

「父上がお話しになっておられましたから、余計なことを申し上げる必要はないでしょう。それに、あの場で父上と違うことを申すつもりもございませなんだ」

 

「少しは考えるようになったか」

 

 父上はそう言って笑い、再び前へ視線を戻した。褒めているのか、からかっているのか分からない声だったが、公方様の前で見せていた慎重さは薄れている。

 

 何か言い返そうとしたところで、父上は道の先を指し、供の者へ歩みを進めるよう促した。馬を引く者たちが動き始め、俺も父上に並んで歩き出す。結局、その場では何も言わなかった。

 

 屋敷の並ぶ通りを離れるにつれ、京の町の賑わいが少しずつ近付いてきた。道端には薪を積んだ荷車が止まり、店先では商人が通り掛かった男と値を掛け合っている。建物の軒からは乾いた布が下がり、昼を過ぎた陽の光がその端を照らしていた。

 

 昨日は帝への拝謁を終えた後、こうした人々の姿を眺めながら土地を治めることの意味を考えていた。今日は同じ通りを歩いていても、店先で立ち話をする武士や、こちらの一行へ気付いて道を譲る者の様子が妙に気になった。

 

 公方様から、力を持つ家は何もせずとも疑われると教えられたからだろう。

 

 もっとも、目の前にいる者が何を考えているのかなど、外から見ただけで分かるはずもない。六角の一行だと気付いたから道を譲ったのか、単に供の者が多かったから避けただけなのかさえ確かめようがなかった。商人がこちらを見たとしても、近江の情勢を気にしているとは限らない。

 

 俺は通りの向こうを一度見渡した後、前を歩く父上へ目を戻した。公方様の御言葉はまだ頭に残っていたが、それとは別に、先ほど父上がどのように答えを選んでいたのか、確かめておきたいことがあった。

 

 人通りの多い場所では供の者たちも近くにいるため、俺はしばらく口を開かなかった。父上も特に話し掛けてくることはなく、道の先を眺めながら歩いている。やがて商家の並ぶ通りを離れ、武家の屋敷が続く場所へ入ると、周囲の声が少し遠ざかった。道幅にも余裕が生まれ、供の者たちが前後へ離れたところで、父上がこちらへ顔を向けた。

 

「四郎。何か聞きたいことがあるのであろう。御所を辞してから、随分と考え込んでおるようだが」

 

 父上に言われ、俺は少しだけ返事に迷った。聞きたいことは幾つかあったが、公方様が何を考えておられたのかを尋ねたところで、父上にも分からないことはあるだろう。それよりも、目の前で見た父上の受け答えについて確かめておきたかった。

 

 とりわけ気になっていたのは、朽木を従わせるつもりはないのかと問われた時のことだった。父上はすぐに答えず、僅かに間を置いてから口を開いている。あの時、どのような言葉を選ぶべきか考えておられたのなら、今後のためにも聞いておきたい。

 

「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。公方様が朽木を六角へ従わせるつもりはないのかと尋ねられた時、父上は少し間を置かれました。あれは、どこまで話すべきか考えておられたのですか」

 

 父上は俺の顔を一度見てから、前へ視線を戻した。すぐには返事をせず、道の端へ寄ってきた荷車が通り過ぎるのを待つ。車輪が乾いた土を踏み、積まれていた薪が小さく揺れた。荷車を引く男が頭を下げると、父上は軽く頷いて道を譲り、その姿が少し離れたところで口を開いた。

 

「どこまで話すかというより、何を答えるべきか考えておった。公方様は朽木を従わせるつもりがあるのかと尋ねられたが、従わせられるかどうかと、従わせる必要があるかどうかは同じではあるまい。今の六角が朽木をどう扱うつもりなのか。それを伝えればよいのじゃ」

 

 父上はそう答えると再び歩き始めた。俺も隣へ並び、先ほどの会話を思い返す。

 

 確かに父上は、六角に朽木を従わせるだけの力があるのかという話には踏み込まなかった。従わせることができないと答えれば、六角にはその力がないと受け取る者もいただろう。反対に、従わせられるが今はそうしないと答えれば、将来は朽木を下へ置くつもりがあると思われたかもしれない。いずれにしても、公方様の問いに含まれていた上下関係を前提として答えることになる。父上はそこから話を進めず、今の両家が協力することの利を示したのだ。

 

 考えてみれば、六角と朽木の関係は単純ではない。かつての朽木は近江の中でも限られた土地を治める家だったが、弥五郎が当主となってから少しずつ力を伸ばし、今では北近江の広い範囲を押さえている。六角にとって、その変化を無視することはできない。

 

 しかし、だからといって朽木を従わせなければならない理由があるわけでもなかった。少なくとも今は、両家がそれぞれの領地を治め、必要に応じて協力することで得られるものがある。父上はその関係を保つために、将来の主従について余計な言葉を口にしなかったのだろう。

 

「そなたは、あの問いにどう答えるつもりでおった」

 

 不意に尋ねられ、俺は返事を考えた。父上が公方様へ答えている間、自分ならどうするかを考えてはいたものの、実際に言葉へまとめていたわけではない。

 

 朽木を従わせようとすれば両家の関係が悪くなること。弥五郎が簡単に他家へ従う人物ではないこと。そして六角が朽木の力を無視できなくなっていること。頭へ浮かんだものは幾つもあったが、それらをそのまま説明すれば、何を伝えたいのかが曖昧になってしまいそうだった。

 

「恐らく、今の朽木を従わせようとすれば、両家の関係が悪くなると答えたと思います。弥五郎殿が六角へ従うとは思えませぬし、無理に求める必要もないと考えておりますので」

 

「間違いではない。だが、それだけでは朽木が従わぬから諦めておるようにも聞こえるな。相手の問いをよく聞くことは大切じゃが、その言葉に引きずられ過ぎるな。何を伝えるべきなのかを先に考えることじゃ」

 

 父上はそれ以上説明を重ねなかった。俺もすぐには返事をせず、道の先へ目を向ける。

 

 しばらく歩くうちに、先ほどの返答をもう一度頭の中で組み立ててみたが、どうしても弥五郎が六角に従うかどうかという話へ意識が向いてしまう。おそらく俺は、公方様の問いへ正面から答えようとするあまり、その問いがどのような前提で成り立っているのかまで考えられていなかったのだろう。

 

 父上は長く他家と交渉し、近江の国人たちを相手にしてきた。その経験があるからこそ、問いの中に含まれるものを見極め、必要なところだけを答えられるのかもしれない。

 

 もっとも、経験の違いとして片付けてしまえば、俺は今後も同じところで迷うことになる。公方様の前では家の方針を答えるのが父上の役目だったが、いずれ自分が他家の当主と向き合う時には、隣に父上がいるとは限らない。聞かれたことへただ答えるのではなく、相手が何を確かめようとしているのか、その答えを通じてこちらが何を伝えるべきなのか。そこまで考える必要があるのだろう。

 

 俺は少し考えた後、もう一つ気になっていたことを尋ねた。美濃への関心を、公方様の前で認めた理由である。まだ出兵を決めていないとはいえ、隣国の情勢を調べていることまで明らかにしてよかったのか、先ほどから気になっていた。

 

 その話を聞くと、父上は坂田を得た六角が美濃へ目を向けていないなどと言ったところで、誰も信じまいと答えた。

 

 近江と美濃の間には昔から人や荷の往来があり、国境に近い土地を治める家が、その向こうの情勢を気にするのは当然のことだった。こちらが関心を持っている事実まで隠そうとすれば、かえって何か企んでいるのではないかと疑われることもある。

 

 ただし、関心を持っていることと、実際に何を調べ、誰と話を進めているのかを明らかにすることは別だという。

 

「知っておることを何でも話せばよいというものではない。公方様が確かめようとしておられたのは、六角が美濃へ兵を進めるつもりなのかということじゃ。それなら、今はそのつもりがないと答えれば足りる。そなたも道について尋ねられた時には必要なことを答えておった。あれで構わぬ」

 

 父上はそこで一度こちらを見た。

 

「ただし、聞かれてもおらぬことまで自ら話し始めれば、別の問題になるぞ」

 

 俺は篠や弥七、宗兵衛へ命じている調査の内容を思い返した。いずれもまだ情報を集めている段階であり、国人同士の関係についても確かなことばかりではない。

 

 もし公方様の前で不破の国人について詳しく話していれば、それが六角の判断として受け取られた可能性もある。調査の途中で得た話と、家として判断を下したことを混同させないためにも、口にする内容は選ばなければならないのだろう。

 

 父上との話が途切れると、道の先から商人たちの声が聞こえてきた。宿のある通りが近付いているらしく、見覚えのある店の軒先では男たちが縄を使って荷をまとめている。積み上げられた俵の横では別の者が帳面を広げ、運び出す数を確かめていた。

 

 俺はその光景を見ながら、坂田で進めている仕事のことを思い出した。観音寺へ戻れば、後藤但馬守から新しい報告が届いているはずだ。

 

 今のところ大きな混乱は伝えられていないが、村々の取り決めや寺社の所領については、これからも確認を重ねる必要がある。美濃についての調査も、集めた情報を一度整理してから次の指図を考えた方がよいだろう。

 

 宿の門が見えるところまで来ると、父上が再び声を掛けてきた。

 

「今日のことを、今すぐ全て分かろうとする必要はない。儂とて、公方様が何を考えておられるのか、その全てを知っておるわけではないからな。今日聞いたことを覚えておき、いずれ同じような場に立った時に役立てればよい」

 

「はい。ですが、父上が公方様の前でどのようにお話しになるのかを拝見できたのは、よい勉強になりました」

 

「それなら、連れてきた甲斐があったというものじゃ。もっとも、そなたは考え始めると止まらぬからな。今日は少し休んでおけ」

 

 父上はそう言って笑った。

 

 公方様の前でも似たようなことを言われたばかりだったので、俺は思わず苦笑したが、ここで反論しても仕方がない。

 

 宿へ着くと供の者たちが取り次ぎの支度を整えており、父上は幾つか用件を確かめた後、自分の部屋へ戻っていった。俺もその背を見送ってから、別の廊下を通って自室へ向かった。

 

 *

 

 部屋へ戻ると、弥太郎が机の上に書状を並べていた。俺の姿に気付くと手を止め、傍にいた小姓へ茶を運ぶよう伝えてから、こちらへ向き直る。

 

 届いていたのは観音寺からの報告と、坂田の仕事についての書付だった。急ぎの判断を求めるものはなく、すでに父上のもとへ届けられている内容の控えも含まれているという。

 

 俺は衣服を少し緩めて腰を下ろし、差し出された茶を一口飲んでから、手前に置かれていた書状を広げた。

 

 坂田からの報告には、年貢米を納める場所について確認を続けている村の名が記されていた。道が悪いと申し出ていたところでは、現地の役人が別の経路を調べているらしい。報告の端には後藤但馬守の指図によって確認を進めている旨が添えられており、今すぐこちらから新たな命令を出す必要はなさそうだった。

 

 俺は一通り目を通した後、改めて確かめたいところへ印を付け、次の書状へ手を伸ばした。こちらも寺社の所領についての照会が主であり、現地で調べを進めているところだという。京へ来る前に仕事を割り振っておいたこともあり、少なくとも俺がいない間に政務が滞っている様子はなかった。

 

 弥太郎は俺の様子を見ながら、今日は昨日より随分と早く戻ったのですねと話し掛けてきた。帝への拝謁を終えた昨日は、宿へ戻ってからもしばらく考え事をしていたため、今日も同じようになると思っていたらしい。

 

 俺が今日はそれほど難しい話ではなかったと答えると、弥太郎は少し意外そうな顔をした。

 

「若様、公方様との御対面でございますよね。御屋形様から何かお叱りを受けるようなことはございませんでしたか」

 

「何故、叱られることになるのだ。父上が主にお話しになっていたし、直接尋ねられたことへ答えただけだ」

 

「それなら何よりでございます。若様は気になることがございますと、つい御自身で確かめようとなさいますから」

 

 弥太郎は真面目な顔でそう言ったが、最後には僅かに口元を緩めていた。

 

 父上だけでなく弥太郎まで同じようなことを言うのだから、普段の俺はよほど考え事をしているように見えるらしい。

 

 もっとも、今日の対面では父上の話を聞くことに徹していたのも事実だった。公方様から問われたことには答えたが、聞かれていない話まで持ち出すことはしなかったし、父上の返答へ口を挟むこともなかった。

 

 弥太郎の軽口に言い返すことなく、俺は残っていた書状へ目を通した。

 

 公方様との対面については、弥太郎から幾つか尋ねられたので、朽木との関係や美濃についての話が出たことを簡単に伝えた。

 

 ただし、公方様と父上の間で交わされた言葉を全て説明するつもりはなかった。公の席でのやり取りには、相手の言葉だけでなく、その前後の事情も関わっている。俺が一部だけを取り出して話せば、父上の意図とは違う形で伝わることもあるだろう。

 

 弥太郎には美濃の道について尋ねられたことと、今後も調査を続ける必要があることを伝え、帰国後に篠たちから届く報告を整理する際には手伝ってもらうよう頼んだ。

 

 弥太郎は承知したと答え、机の端へ置いていた文箱の蓋を開けた。中には不破について集めた書付の控えも収められており、京へ来てから届いたものは別にまとめてあるという。

 

 俺はそのうちの一通を取り出しかけたが、昼過ぎから続けていた考え事が再び始まりそうになり、結局そのまま戻した。今のところ急いで判断を求められているわけではない。父上からも休むよう言われているのだから、今日くらいは無理に仕事を増やす必要もないだろう。

 

「珍しいですな」

 

「何がだ」

 

「書付を手に取られて、読まずに戻されるとは」

 

「父上から休めと言われたのでな。急ぎでもないものを、今から読むこともあるまい」

 

「御屋形様のお言葉が、ようやく届いたようで何よりにございます」

 

「弥太郎。そなた、最近少し遠慮がなくなっておらぬか」

 

「以前からこのようなものでございます」

 

 平然と答えられ、俺は苦笑した。

 

 確かに、この男が俺を遠慮なく揶揄うのは今に始まったことではない。弥太郎は手際よく文箱の蓋を閉じ、書状を種類ごとに分けて片付け始めた。俺も残っていた茶を飲み、今日はひとまず仕事を終えることにした。

 

 机の上が片付く頃には、障子越しの光が少し傾いていた。廊下では夕餉の支度を始める者たちが行き交い、遠くから膳を運ぶ音が聞こえている。

 

 弥太郎が茶器を下げようとしたところで、別の小姓が部屋の前へ姿を見せた。父上のもとへ使者が訪れており、取り次ぎのために人を呼んでいるらしい。

 

 俺は特に気に留めなかった。京へ来てから父上を訪ねる者は少なくなく、公方様との対面を終えた今日も、別の家から用件が届くことはあるだろう。

 

 ところが、しばらくすると父上の使いが俺の部屋へやって来た。

 

 父上が呼んでおられるというので、俺は冷めかけた茶を置き、弥太郎へ文箱を任せて立ち上がった。急ぎの用件であれば使いの者が内容を伝えるはずだが、今回は特に何も聞かされなかった。

 

 公方様との対面についてまだ何か話があるのだろうか。それとも近江から新しい報告でも届いたのか。そう考えながら衣服を整え、案内に従って父上の部屋へ向かった。

 

 父上の部屋では、すでに使者との話が済んでいたらしい。俺が入ると、父上は手元へ置いていた文を畳み、座るよう促した。

 

 傍には取り次ぎを務めた者が控えていたが、用件を伝え終えたところだったようで、父上の指図を受けて部屋を辞していった。俺はその姿を見送ってから、改めて父上へ向き直った。

 

「明日のことじゃが、近衛家へ顔を出す。そなたも一緒に来い」

 

 近衛家という名を聞き、俺は思わず姿勢を正した。

 

 五摂家の一つであり、朝廷でも大きな力を持つ家だ。父上が上洛した以上、そうした公家へ挨拶に出向くこと自体は不思議ではない。

 

 しかし、昨日は帝への拝謁、今日は公方様との対面と続いており、明日はようやく少し落ち着けるものと思っていた。それに、父上が近衛家を訪ねるとしても、俺まで同行する必要があるのかは分からなかった。

 

「近衛家へ、でございますか。父上の御挨拶に、同行するのでしょうか」

 

「そうじゃ。嫡男を連れて上洛しておるのだから、顔を見せておいて損はあるまい」

 

 父上の説明はもっともだった。

 

 六角は近江の守護として幕府との関係を持つ一方、朝廷や公家とも無関係ではいられない。今後、俺が六角を継ぐことになれば、京の公家と顔を合わせる機会も増えるだろう。そう考えれば、早いうちから近衛家の者に顔を覚えてもらうことには意味がある。

 

 帝への拝謁や公方様との対面と同じく、いずれ当主となる者として必要な経験なのかもしれない。

 

 しかし、父上はそれだけではないような口振りで、先方も俺を連れてくるよう望んでいると付け加えた。

 

「先方からも、そなたを連れてくるようにと話があった」

 

「……近衛家から、そのような御話が?」

 

「うむ」

 

 俺は首を傾げた。

 

 近衛家の方々と特別に親しいわけでもなく、俺自身が何か用件を持っているわけでもない。先方からわざわざ同行を求められる理由が見当たらなかった。

 

 六角家の嫡男という立場を考えれば、会っておきたいと思われることはあるのかもしれないが、それならば父上も初めからそう説明すればよいはずだ。

 

 父上は俺の様子を眺めながら、手元の文を指先で軽く押さえていた。その口元には僅かな笑みがあり、どうにも何かを知っておられるように見える。普段から俺を揶揄う時にも似たような顔をされるが、今回は何かを隠しているようにも思えた。

 

「父上。明日は何か特別な御話でもあるのでしょうか」

 

「まずは御挨拶じゃ。そなたも京の公家と顔を合わせておく必要があろう」

 

「それは承知しております。ですが、先方からわざわざ同行を望まれたというのであれば、何か御用向きがあるのではございませぬか」

 

「さてな。明日になれば分かるであろう」

 

 父上はそれだけ答え、詳しい説明をするつもりはなさそうだった。

 

 さらに尋ねようとすると、今度は先に笑みを浮かべ、明日になれば分かると繰り返された。どうやら、ここで何を聞いても教えてもらえそうにない。

 

 俺はそれ以上問いを重ねるのを諦め、訪問の時刻と支度についてだけ確かめた。父上は出立の時刻を追って伝えると答え、今日は早めに休むようにと言い添えた。

 

 部屋を辞するために頭を下げると、父上はもう一度こちらへ声を掛けた。

 

「明日は公方様の前ほど堅くなる必要はない。無論、礼を欠いてよいということではないがな。先方から何か尋ねられたなら、そなたの考えを素直に話せばよい」

 

「承知いたしました」

 

 父上は頷くと、再び文箱へ手を伸ばした。

 

 俺も立ち上がり、部屋を辞することにしたが、廊下へ出る直前、父上がまだ僅かに笑っておられるのが目に入った。

 

 今日の公方様との対面では、あれほど慎重に言葉を選んでおられたというのに、今は随分と楽しそうではないか。何があるのか教えてもらえない以上、明日の訪問へ備えるしかないのだが、その表情だけはどうにも気になった。

 

 自室へ戻ると、弥太郎がちょうど夕餉の支度を整えていた。

 

 明日は近衛家へ同行することになったと伝えると、弥太郎は驚いた様子もなく、衣服の支度を確かめるために別の小姓へ声を掛けた。どうやら本人にとっては、訪問の理由よりも明日の支度が間に合うかどうかの方が大切らしい。

 

「近衛家への御挨拶でございますか。では、明日の衣服も改めて確かめておきます」

 

「頼む。もっとも、何故同行するのか詳しくは聞かされておらぬのだがな」

 

「御屋形様からは何も?」

 

「顔を見せておいて損はない、と。それに、先方からも同行を望まれているそうだ」

 

「左様でございますか。では、明日になれば分かるのでございましょう」

 

「そなたまで父上と同じことを言うのか」

 

「今ここで考えても、分からぬことは分からぬかと」

 

 あまりにもあっさり答えられ、俺は何とも言えない気分になった。

 

 父上ならともかく、弥太郎まで気にする様子を見せないのだから、こちらだけが妙に考え過ぎているようではないか。

 

 もっとも、先方からどのような話があったのか分からない以上、今の俺にできることは限られている。弥太郎の言う通り、明日になれば分かると考えておくしかないのだろう。

 

 俺は膳の前へ座り、ようやく夕餉へ手を付けた。

 

 温かな汁物と幾つかの料理が並び、昼からほとんど何も口にしていなかったこともあって、思いのほか箸が進む。

 

 廊下では明日の支度について小姓たちが声を交わしており、弥太郎も食事の邪魔にならないよう、時折部屋を出て指図を伝えていた。近衛家へ伺うのであれば、衣服だけでなく供の者たちの支度も必要になる。父上の予定に合わせて動く以上、俺が細かく口を出すより、弥太郎たちへ任せた方が早いだろう。

 

 やがて膳が下げられ、部屋へ静けさが戻る頃には、障子の向こうもすっかり暗くなっていた。

 

 俺は机の上に残っていた文箱へ一度目を向けたものの、今夜は開かないことにした。坂田の報告も不破についての書付も、急いで確かめなければならないものではない。父上からも早く休むよう言われているのだから、今から新しい仕事を始める必要はなかった。

 

 明日の衣服が整えられているのを確かめ、弥太郎へ朝の支度を任せると、灯明の火を少し弱めた。

 

 寝具へ入ってからも、父上が最後に見せた表情が頭の片隅に残っていた。

 

 近衛家で何を尋ねられるのか。誰と顔を合わせることになるのか。考え始めれば幾つも疑問は浮かんでくるが、今の俺には確かめる手立てがない。

 

 父上は先方も俺の同行を望んでいると仰った。それが単に六角家の嫡男へ会っておきたいという意味なのか、それとも別の用件があるのかさえ分からないのだから、いくら考えても答えが出るはずはなかった。

 

 父上の言葉を思い出し、明日は明日で考えればよいと自分に言い聞かせたところで、廊下を歩く小姓の足音が遠ざかっていった。

 

 俺は寝返りを打ち、障子越しに微かに見える庭の暗がりへ目を向ける。近衛家の使者が何を伝えてきたのかは分からない。ただ、父上があれほど楽しそうにしていた理由くらいは、明日になれば聞かずとも分かるのだろう。

 

 そう考えて目を閉じたが、最後まで父上のあの笑みだけは、どうにも引っ掛かったままだった。

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