やがて謁見を終えることになり、父上が深く頭を下げると、俺もそれに倣った。公方様は最後に、近江へ戻ってからも息災でいるようにと声を掛けられ、父上は恭しく礼を述べた。俺が顔を上げた時には、公方様はすでに別の幕臣へ何かを話しておられた。先ほどまで六角と朽木の行く末について問われていたことが嘘のように、部屋の中では次の用件へ向けて人が動き始めていた。
案内に従って廊下へ出ると、閉じられた襖の向こうから微かな話し声が続いて聞こえてきた。磨かれた板の上を歩く足音は思ったより大きく響き、先を行く案内の者が曲がり角で足を止めるたび、俺たちもそれに合わせて歩みを緩めた。父上はすぐには口を開かず、背筋を伸ばしたまま進んでいる。俺もその後ろを歩きながら、先ほど父上が公方様の問いへ答えていた様子を思い返していた。朽木を従わせるつもりがあるのか、美濃へ兵を進めるつもりなのか。どちらも六角のこれからを問うものだったが、父上はその場で新たな約束をすることなく、今決まっていることと今後判断すべきことを分けて話していた。
門の近くまで進むと、外から人の声と馬の蹄が石を打つ音が届いてきた。供の者たちはすでに支度を整えて待っており、父上が姿を見せると揃って頭を下げた。俺もその傍へ進み、用意された履物へ足を通す。屋敷の内側に漂っていた香の匂いが薄れ、代わりに外の冷たい空気が頬へ触れた。道を行く荷車の軋む音や、遠くで商人が人を呼ぶ声が聞こえる。公方様の前では気にならなかった肩の重さが、そこでようやく身体へ戻ってきた。
父上は供の者へ短く指示を出した後、俺へ顔を向けた。その表情には、先ほどまでの公の席で見せていた硬さが少し薄れている。屋敷の門を離れて少し進んだところで、父上は俺の顔を見て僅かに笑った。
「四郎。随分と静かにしておったな。公方様から直接問われた時も、いつもより言葉が少なかったではないか」
「父上がお話しになっておられましたから。俺が余計なことを申し上げる必要はないでしょう。それに、あの場で父上と違うことを言うつもりもありませんでした」
俺がそう答えると、父上は少しは考えるようになったかと笑い、再び前へ視線を戻した。褒めているのか、からかっているのか分からない声だったが、公方様の前で見せていた慎重さは薄れている。俺が何か言い返そうとしたところで、父上は道の先を指して供の者へ歩みを進めるよう促した。馬を引く者たちが動き始め、俺も父上に並んで歩き出したが、結局その場では何も言わなかった。
屋敷の並ぶ通りを離れるにつれ、京の町の賑わいが少しずつ近付いてきた。道端には薪を積んだ荷車が止まり、店先では商人が通り掛かった男と値を掛け合っている。建物の軒からは乾いた布が下がり、昼を過ぎた日の光がその端を照らしていた。昨日は帝への拝謁を終えた後、こうした人々の姿を眺めながら土地を治めることの意味を考えていたが、今日は店の前で立ち話をする武士や、こちらの一行に気付いて道を譲る者の姿が妙に気になった。
もっとも、その一人一人が何を考えているかなど分かるはずもない。六角の一行だと気付いたから道を譲ったのか、単に供の者が多かったから避けただけなのかさえ確かめようがなかった。俺は通りの向こうを一度見渡した後、前を歩く父上へ目を戻した。公方様から掛けられた言葉はまだ頭に残っていたが、それよりも、先ほど父上が実際にどのように答えを選んでいたのかについて、確かめておきたいことがあった。
人通りの多い場所では供の者たちも近くにいるため、俺はしばらく口を開かなかった。父上も特に話し掛けてくることはなく、道の先を眺めながら歩いている。やがて商家の並ぶ通りを離れ、武家の屋敷が続く場所へ入ると、周囲の声が少し遠ざかった。道幅にも余裕が生まれ、供の者たちが前後へ離れたところで、父上がこちらへ顔を向けた。
「四郎。何か聞きたいことがあるのであろう。御所を辞してから、随分と考え込んでおるようだが」
父上に言われ、俺は少しだけ返事に迷った。聞きたいことはいくつかあったが、公方様が何を考えておられたのかを尋ねたところで、父上にも分からないことはあるだろう。それよりも、先ほど実際に目の前で見た父上の受け答えについて確かめておきたかった。とりわけ気になっていたのは、朽木を従わせるつもりはないのかと問われた時のことだった。父上はすぐに答えず、僅かに間を置いてから口を開いている。あの時、どのような言葉を選ぶべきか考えておられたのなら、今後のためにも聞いておきたい。
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか。公方様が朽木を六角へ従わせるつもりはないのかと尋ねられた時、父上は少し間を置かれました。あれは、どこまで話すべきか考えておられたのですか」
父上は俺の顔を一度見てから、前へ視線を戻した。すぐに返事をすることなく、道の端へ寄ってきた荷車が通り過ぎるのを待つ。車輪が乾いた土を踏み、積まれていた薪が小さく揺れた。荷車を引く男が頭を下げると、父上は軽く頷いて道を譲り、その姿が少し離れたところで口を開いた。
「どこまで話すかというより、何を答えるべきか考えておった。公方様は朽木を従わせるつもりがあるのかと尋ねられたが、従わせられるかどうかと、従わせる必要があるかどうかは同じではあるまい。今の六角が朽木をどう扱うつもりなのか、それを伝えればよいのじゃ」
父上はそう答えると、再び歩き始めた。俺もその隣へ並び、先ほどの会話を思い返した。確かに父上は、六角に朽木を従わせるだけの力があるのかという話には踏み込まなかった。従わせることが出来ないと答えれば、六角にはその力がないと受け取る者もいただろう。反対に、従わせられるが今はそうしないと答えれば、将来は朽木を下へ置くつもりがあると思われたかもしれない。いずれにしても、公方様の問いに含まれていた上下関係を前提として答えることになる。父上はそこから話を進めず、今の両家が互いに協力することの利を示していた。
考えてみれば、六角と朽木の関係は単純なものではない。かつての朽木は近江の中でも限られた土地を治める家だったが、弥五郎が当主となってから少しずつ力を伸ばし、今では北近江の広い範囲を押さえている。六角にとって、その変化を無視することは出来ないだろう。しかし、だからといって朽木を従わせなければならない理由があるわけでもなかった。少なくとも今は、両家がそれぞれの領地を治め、必要に応じて協力することで、互いに得られるものがある。父上はその関係を守るために、将来の主従について余計な言葉を口にしなかったのだろう。
「四郎。そなたは、あの問いにどう答えるつもりでおった」
不意に尋ねられ、俺は返事を考えた。父上が公方様へ答えている間、自分ならどうするかを考えてはいたものの、実際に言葉へまとめていたわけではない。朽木を従わせようとすれば両家の関係が悪くなること、弥五郎が簡単に他家へ従う人物ではないこと、そして六角が朽木の力を無視出来なくなっていること。頭へ浮かんだものは幾つもあったが、それらをそのまま説明していけば、相手に何を伝えたいのかが曖昧になってしまいそうだった。
「恐らく、今の朽木を従わせようとすれば、両家の関係が悪くなると答えたと思います。弥五郎殿が六角へ従うとは思えませんし、無理に求める必要もないと考えておりますので」
「間違いではない。だが、それだけでは朽木が従わぬから諦めておるようにも聞こえるな。相手の問いをよく聞くことは大切じゃが、その言葉に引きずられ過ぎるな。何を伝えるべきなのかを、先に考えることじゃ」
父上はそれ以上説明を重ねなかった。俺もすぐには返事をせず、道の先へ目を向けた。しばらく歩くうちに、先ほどの返答をもう一度頭の中で組み立ててみたが、どうしても弥五郎が六角に従うかどうかという話へ意識が向いてしまう。おそらく俺は、公方様の問いへ正面から答えようとするあまり、その問いがどのような前提で成り立っているのかまで十分に考えられていなかったのだろう。父上は長く他家と交渉し、近江の国人たちを相手にしてきた。その経験があるからこそ、問いの中に含まれるものを見極め、必要なところだけを答えられるのかもしれない。
もっとも、それを単に経験の違いとして片付けてしまえば、俺が今後も同じところで迷うことになる。公方様の前では家の方針を答えるのが父上の役目だったが、いずれ俺自身が他家の当主と向き合う時には、隣に父上がいるとは限らない。俺はしばらく考えた後、もう一つ気になっていたことについて尋ねた。美濃への関心を公方様の前で認めた理由である。まだ出兵を決めていないとはいえ、隣国の情勢を調べていることまで明らかにしてよかったのか、先ほどから気になっていた。
父上はその話を聞くと、坂田を得た六角が美濃へ目を向けていないなどと言ったところで、誰も信じまいと答えた。近江と美濃の間には昔から人や荷の往来があり、国境に近い土地を治める家が、その向こうの情勢を気にするのは当然のことだった。こちらが関心を持っている事実を隠そうとすれば、かえって何か企んでいるのではないかと疑われることもある。ただし、関心を持っていることと、実際に何を調べ、誰と話を進めているのかを明らかにすることは別だという。
「知っておることを何でも話せばよいというものではない。公方様が確かめようとしておられたのは、六角が美濃へ兵を進めるつもりなのかということじゃ。それなら、今はそのつもりがないと答えれば足りる。そなたも、道について尋ねられた時には必要なことを答えておった。あれで構わぬ」
父上はそこで一度こちらを見た。言葉そのものは穏やかだったが、聞かれてもいないことまで話し始めれば別の問題になるとも付け加えられた。俺は篠や弥七、宗兵衛へ命じている調査の内容を思い返した。いずれもまだ情報を集めている段階であり、国人同士の関係についても確かなことばかりではない。もし公方様の前で不破の国人について詳しく話していれば、それが六角の考えとして受け取られた可能性もある。調査の途中で得た話と、家として判断を下したことを混同させないためにも、口にする内容は選ばなければならないのだろう。
父上との話が途切れると、道の先から商人たちの声が聞こえてきた。宿のある通りが近付いているらしく、見覚えのある店の軒先では、男たちが縄を使って荷をまとめていた。積み上げられた俵の横では別の者が帳面を広げ、運び出す数を確かめている。俺はその光景を見ながら、坂田で進めている仕事のことを思い出した。観音寺へ戻れば、後藤から新しい報告が届いているはずだった。今のところ大きな混乱は伝えられていないが、村々の取り決めや寺社の所領については、これからも確認を重ねる必要がある。美濃についての調査も、集めた情報を一度整理してから次の指示を考えた方がよいだろう。
父上は宿の門が見えるところまで来ると、再び俺へ声を掛けた。
「四郎。今日のことを、今すぐ全て分かろうとする必要はない。某とて、公方様が何を考えておられるのか、その全てを知っておるわけではないからな。今日聞いたことを覚えておき、いずれ同じような場に立った時に役立てればよい」
「はい。ですが、父上が公方様の前でどのようにお話しになるのかを見られたのは、よい勉強になりました」
「それなら、連れてきた甲斐があったというものじゃ。もっとも、そなたは考え始めると止まらぬからな。今日は少し休んでおけ」
父上はそう言って笑った。公方様の前でも似たようなことを言われたばかりだったので、俺は思わず苦笑したが、ここで反論しても仕方がない。宿へ着くと供の者たちが取り次ぎの支度を整えており、父上は幾つか用件を確かめた後、自分の部屋へ戻っていった。俺もその背を見送ってから、別の廊下を通って自室へ向かった。
*
部屋へ戻ると、弥太郎が机の上に書状を並べていた。俺の姿に気付くと手を止め、傍にいた小姓へ茶を運ぶよう伝えてから、こちらへ向き直る。届いていたのは観音寺からの報告と、坂田の仕事についての書付だった。急ぎの判断を求めるものはなく、すでに父上のもとへ届けられている内容の控えも含まれているという。俺は衣服を緩めて座り、差し出された茶を一口飲んでから、手前に置かれていた書状を広げた。
坂田からの報告には、年貢米を納める場所について確認を続けている村の名が記されていた。道が悪いと申し出ていたところでは、現地の役人が別の経路を調べているらしい。報告の端には後藤の指示によって確認を進めている旨が添えられており、今すぐこちらから新たな命令を出す必要はなさそうだった。俺は一通り目を通した後、後で改めて確かめたいところへ印を付け、次の書状へ手を伸ばした。
弥太郎は俺の様子を見ながら、今日は昨日より随分と早く戻ったのですねと話し掛けてきた。帝への拝謁を終えた昨日は、部屋へ戻ってからもしばらく考え事をしていたため、弥太郎もこちらの様子を気にしていたらしい。俺が今日はそれほど難しい話ではなかったと答えると、弥太郎は少し意外そうな顔をした。
「若様、公方様との御対面でございますよね。御屋形様から何かお叱りを受けるようなことはございませんでしたか」
「どうして俺が叱られることになるんだ。父上が主にお話しになっていたし、俺は直接尋ねられたことへ答えただけだ」
「それなら何よりでございます。若様は気になることがございますと、つい御自身で確かめようとなさいますから」
弥太郎は真面目な顔でそう言ったが、最後には僅かに口元を緩めていた。父上だけでなく弥太郎まで同じようなことを言うのだから、普段の俺はよほど考え事をしているように見えるらしい。もっとも、今日の俺が父上の話を聞くことに徹していたのは事実だった。俺は弥太郎の軽口に言い返すことなく、残っていた書状へ目を通した。
公方様との対面については、弥太郎から幾つか尋ねられたので、朽木との関係や美濃についての話が出たことを簡単に伝えた。ただし、公方様と父上の間で交わされた言葉を全て説明するつもりはなかった。公の席でのやり取りには、相手の言葉だけでなく、その前後の事情も関わっている。俺が一部だけを取り出して話せば、父上の意図とは違う形で伝わることもあるだろう。弥太郎には美濃の道について尋ねられたことと、今後も調査を続ける必要があることを伝え、帰国後に篠たちから届く報告を整理する際には手伝ってもらうよう頼んだ。
弥太郎は承知したと答え、机の端へ置いていた文箱の蓋を開けた。中には不破について集めた書付の控えも収められており、京へ来てから届いたものは別にまとめてあるという。俺はそのうちの一通を取り出しかけたが、昼過ぎから続けていた考え事が再び始まりそうになり、結局そのまま戻した。今のところ急いで判断を求められているわけではない。父上からも休むよう言われているのだから、今日くらいは無理に仕事を増やす必要もないだろう。
机の上が片付く頃には、障子越しの光が少し傾いていた。廊下では夕餉の支度を始める者たちが行き交い、遠くから膳を運ぶ音が聞こえている。弥太郎が茶器を下げようとしたところで、別の小姓が部屋の前へ姿を見せた。父上のもとへ使者が訪れており、取り次ぎのために人を呼んでいるらしい。俺は特に気に留めなかった。京へ来てから父上を訪ねる者は少なくなく、公方様との対面を終えた今日も、別の家から用件が届くことはあるだろう。
ところが、しばらくすると父上の使いが俺の部屋へやって来た。父上が呼んでおられるというので、俺は冷めかけた茶を置き、弥太郎へ文箱を任せて立ち上がった。急ぎの用件であれば使いの者が内容を伝えるはずだが、今回は特に何も聞かされなかった。俺は衣服を軽く整えると、案内に従って父上の部屋へ向かった。
父上の部屋では、すでに使者との話が済んでいたらしい。俺が入ると、父上は手元へ置いていた文を畳み、座るよう促した。傍には取り次ぎを務めた者が控えていたが、用件を伝え終えたところだったようで、父上の指示を受けて部屋を辞していった。俺はその姿を見送ってから改めて父上へ向き直った。公方様との対面について、まだ何か聞いておきたいことがあるのだろうか。
「四郎。明日のことじゃが、近衛家へ顔を出すことになった。そなたも一緒に来い」
近衛家という名を聞き、俺は思わず姿勢を正した。五摂家の一つであり、朝廷でも大きな力を持つ家だ。父上が上洛した以上、そうした公家へ挨拶に出向くこと自体は不思議ではない。しかし、昨日は帝への拝謁、今日は公方様との対面と続いており、明日はようやく少し落ち着けるものと思っていた。それに、父上が近衛家を訪ねるとしても、俺まで同行する必要があるのかは分からなかった。
俺がそのことを尋ねると、父上は嫡男を連れて上洛している以上、顔を見せておいて損はないと答えた。六角は近江の守護として幕府との関係を持つ一方、朝廷や公家とも無関係ではいられない。今後、俺が六角を継ぐことになれば、京の公家と顔を合わせる機会も増えるだろう。そう考えれば、早いうちから近衛家の者に顔を覚えてもらうことには意味がある。しかし、父上はそれだけではないような口振りで、先方も俺を連れてくるよう望んでいると付け加えた。
そこで俺は少しばかり首を傾げた。近衛家の方々と特別に親しいわけでもなく、俺自身が何か用件を持っているわけでもない。先方からわざわざ同行を求められる理由が見当たらなかった。父上は俺の様子を眺めながら、手元の文を指先で軽く押さえている。その口元には僅かな笑みがあり、どうにも何かを知っておられるように見えた。
「父上。明日は何か特別な御話でもあるのでしょうか」
「まずは御挨拶じゃ。そなたも京の公家と顔を合わせておく必要があろう」
父上はそれだけ答え、詳しい説明をするつもりはなさそうだった。俺がさらに尋ねようとすると、今度は先に笑みを浮かべ、明日になれば分かると告げられた。どうやら、ここで何を聞いても教えてもらえそうにない。俺はそれ以上問いを重ねるのを諦め、訪問の時刻と支度についてだけ確かめた。父上は出発の時刻を追って伝えると答え、今日は早めに休むようにと言い添えた。
部屋を辞するために頭を下げると、父上はもう一度こちらへ声を掛けた。
「四郎。明日は公方様の前ほど堅くなる必要はない。無論、礼を欠いてよいということではないがな。先方から何か尋ねられたなら、そなたの考えを素直に話せばよい」
父上はそう言うと、文箱へ手を伸ばした。俺は承知した旨を答えて立ち上がったが、廊下へ出る直前、父上がまだ僅かに笑っておられるのが目に入った。今日の公方様との対面では、あれほど言葉を慎重に選んでおられたというのに、今は随分と楽しそうではないか。何があるのか教えてもらえない以上、明日の訪問へ備えるしかないのだが、その表情だけはどうにも気になった。
自室へ戻ると、弥太郎がちょうど夕餉の支度を整えていた。俺が明日は近衛家へ同行することになったと伝えると、弥太郎は驚いた様子もなく、衣服の支度を確かめるために別の小姓へ声を掛けた。どうやら本人にとっては、訪問の理由よりも明日の支度が間に合うかどうかの方が大切らしい。俺が父上から詳しい話を聞かされていないことを伝えても、弥太郎は明日になれば分かるのでございましょうと、あっさり答えただけだった。
俺は何とも言えない気分のまま膳の前へ座った。夕餉には温かな汁物と幾つかの料理が並び、昼からほとんど何も口にしていなかったこともあって、思いのほか箸が進んだ。廊下では明日の支度について小姓たちが声を交わしており、弥太郎も食事の邪魔にならないよう、時折部屋を出て指示を伝えていた。
やがて膳が下げられ、部屋へ静けさが戻る頃には、障子の向こうもすっかり暗くなっていた。俺は机の上に残っていた文箱へ一度目を向けたものの、今夜は開かないことにした。代わりに明日の衣服が整えられているのを確かめ、弥太郎へ朝の支度を任せると、灯明の火を少し弱めた。
寝具へ入ってからも、父上が最後に見せた表情が頭の片隅に残っていた。近衛家で何を尋ねられるのか、誰と顔を合わせることになるのか。考え始めれば幾つも疑問は浮かんできたが、今の俺には確かめる手立てがない。父上の言葉を思い出し、明日は明日で考えればよいと自分に言い聞かせたところで、廊下を歩く小姓の足音が遠ざかっていった。
俺は寝返りを打ち、障子越しに微かに見える庭の暗がりへ目を向けた。近衛家の使者が何を伝えてきたのかは分からない。ただ、父上があれほど楽しそうにしていた理由くらいは、明日になれば聞かずとも分かるのだろう。
そう考えて目を閉じたが、最後まで父上のあの笑みだけは、どうにも引っ掛かったままだった。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
-
このまま
-
5000文字前後
-
15000文字前後
-
1~5000文字