淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第五十七話「近衛家の姫君」ー前編ー

 翌朝、宿を出る頃には空こそよく晴れていた。俺は父上と並んで近衛家へ向かいながら、昨夜から何度も頭へ浮かんでは消えていた問いを、この朝も結局口には出さなかった。近衛家から声が掛かった理由について、父上は最後まで何も教えてくれなかったからだ。

 

 昨夜尋ねても返ってきたのは「明日になれば分かる」という言葉だけで、そのくせ今朝の父上は普段より僅かに機嫌が良いように見える。帝への拝謁、公方様との対面と続いた後だけに、近衛家ほどの家から改めて招かれれば、ただ年始の挨拶だけとも思いにくい。もっとも、太閤殿下そのものと初めて顔を合わせるわけではなかった。最初に御目に掛かったのは、以前、公方様が京へお戻りになった際の道中である。あの時、父上は同行しておらず、俺は公方様の帰京へ付き従う中で太閤殿下とも顔を合わせ、短く挨拶を申し上げた。ただ、人も多く、互いに腰を据えて話すような場ではなかった。

 

 二日前、帝へ拝謁した折にも、父上と俺は太閤殿下と顔を合わせている。その時には互いに挨拶も交わしたが、あそこは帝の御前であり、近況をゆっくり語り合うような場ではない。俺たちも拝謁そのものへ意識を向けていたし、太閤殿下も同じだっただろう。つまり顔を合わせるのは今日が初めてではなく、互いに名も顔も知っている。それでも俺にとって太閤殿下は、まだ人となりまで知る相手ではなかった。公方様については以前の道中でも何度か直接言葉を交わしていたが、太閤殿下とは、今日が初めてまともに向き合って話す機会になると言ってよかった。

 

 ただ、それと今日呼ばれた理由は別の話だ。浅井が滅び、六角は坂田郡を得た。朽木は北近江へ大きく領地を広げ、その当主には父上の養女となった小夜が嫁いでいる。昨日は公方様から、その朽木との関係や美濃について随分踏み込んだところまで尋ねられた。近江で起きたことは近江だけでは終わらず、京にいる者たちもそれぞれの立場から意味を読み取っている。そのことを、ここ数日で嫌というほど見せられたばかりだった。

 

 ならば近衛家でも何かを見られるのかもしれない。父上を通して六角を見るのか、俺を見て次の六角を測るのか、それともまったく別の用件なのか。考え始めれば幾らでも先へ進めるが、どれもまだ俺の頭の中で作った答えでしかない。昨日、公方様との対面を終えた帰り道、父上から言われたことを思い出す。先に何を聞かれるか知れば、俺は答えを作り、その答えを口にすることへ意識を向け過ぎて、相手が何故その問いを選んだのかを見るのが遅れるのだと。癪ではあるが完全には否定出来ず、俺は父上の横顔を一度だけ見てから道の先へ視線を戻した。何かあるのなら、まず自分の目で見てから考えればいい。

 

 近衛家の屋敷へ着いて最初に感じたのは、昨日まで出入りしていた武家の屋敷とは空気が違うということだった。門前にも人はおり、出入りする者も決して少なくない。それでも、訪れた者の身分や意図をすぐ見極めようとする武家特有の鋭さが、そのまま表へ出てはいない。庭も建物も整えられ、行き交う者の足音や声までどこか抑えられているようで、その静けさそのものが家の格を示しているようにも感じられた。

 

 案内されるまま奥へ進み、父上と並んで通された座敷へ腰を下ろす。二日前にも太閤殿下とは会っている。それでも、帝の御前と近衛家の座敷とでは、同じ相手であってもまるで違って感じられた。あの場では俺たちも太閤殿下も、帝の前へ出る者の一人だった。ここでは近衛家の屋敷へ、俺たち六角の親子が客として招かれている。その違いを考えているうちに廊下の向こうから人の気配が近付き、やがて太閤殿下が姿を見せたため、俺と父上は揃って頭を下げた。

 

「一昨日は帝の御前であったゆえ、ゆるりと話す暇もなかったな。左京大夫殿も右衛門督殿も、今日はそれほど堅くならずともよい。わざわざ呼び立てたのはこちらなのだから、まずは顔を上げてもらわねば話も出来ぬ」

 

「一昨日に続き、こうしてお時間をいただけましたこと、恐悦に存じます。帝の御前では御挨拶を申し上げるだけで精一杯にございましたので、本日は改めて御礼を申し上げに参りました」

 

 父上がそう答えると、太閤殿下は少し笑いながら頷いた。

 

「左京大夫殿は相変わらず堅いな。一昨日にも顔を合わせたばかりなのだから、そこまで改まらずともよかろう。もっとも、右衛門督殿とはあの折もほとんど話せなかったからの。以前、公方様が京へ戻られた折にも一度会うておるが、あの時も挨拶をした程度であったと覚えておる」

 

「はい。公方様の御帰京の折に初めて御目に掛かり、二日前にも帝の御前で御挨拶を申し上げました。ただ、こうしてゆるりと御話をさせていただくのは、本日が初めてに近いかと存じます」

 

「やはりそうであったな。顔だけなら何度か見ておるのに、まともに話すのは今日が初めてというのも妙なものじゃ。それにしても、最初に見た頃から比べれば随分と立場も変わった。今では官位を得て、父親の横で近江の政へ口を出しておるそうではないか」

 

「まだ父上の横で学んでいる身にございます。自分では政へ関わっているつもりでも、最後には父上から考えることを増やし過ぎると叱られることの方が多うございますので、どこまで役に立っているのかは自信がございませぬ」

 

 そう答えると、父上が横から静かに息を吐いた。

 

「増やし過ぎている自覚があるのなら、少しは減らしてほしいところです。市を見れば道を調べ、道を見れば湖へ手を伸ばし、兵を調べれば今度は田や米まで帳面へ加える。本人は一つのことを順に見ているつもりなのでしょうが、そのたびに周りへ調べさせることまで増えておりまする」

 

「父上。そこまで太閤殿下へ申し上げなくともよろしいでしょう。何も思い付きだけで増やしているわけではございませぬ」

 

「ならば、どこまで行けば調べ終わるのか儂にも教えてほしいものじゃな。そなたの場合、一つ分かるたびに次の分からぬものを見付けるので、終わりが見えぬ」

 

 即座に返され、言葉に詰まった。太閤殿下は俺と父上を見比べた後、楽しそうに声を立てて笑う。

 

「なるほど。公方様から右衛門督殿は考える方が先に立つと聞いておったが、父君から見ても同じか。もっとも、自分の家のことを何も考えぬよりは余程よかろう。それに、分からぬものを見付けるうちは、まだ見ておるということでもある。左京大夫殿が困っておる間は、好き勝手を許されているわけでもなさそうだしな」

 

「そのように仰られますと、本人が妙なところで自信を持ちますので、あまり褒めないでいただきたいところにございます」

 

「父上まで、私は一体何をすると思っておられるのです。少なくとも、褒められたからといって翌日から何か一つ増やすほど単純ではございませぬ」

 

「翌日ではなく、その日のうちに増やすから困っておるのだ」

 

 太閤殿下の笑いがまた大きくなった。一昨日、帝の御前で会った時とはまるで違う。あの場では太閤殿下の表情をじっくり見る余裕もなく、こちらから不用意に話すことも出来なかった。だが今は、父上とのやり取りを見ながら声を上げて笑い、俺へも気軽に言葉を向けてくる。場所が変われば、見える相手の顔も変わる。そんな当たり前のことが、妙に印象へ残った。

 

 形式的な挨拶が済むと、話は自然に近江へ移った。浅井が滅び、朽木が伊香と浅井を押さえ、坂田郡が六角へ渡ったこと。北近江の形を大きく変えた一連の動きについて、太閤殿下も当然のように把握している。

 

「しかし、近江の北も随分と変わったものじゃ。少し前までは浅井の名を聞かぬ日の方が珍しいほどであったのに、今では朽木がその領地を押さえ、六角は坂田を得た。外から眺めれば、左京大夫殿の家がまた一段と大きくなったようにも見える。実際に受け取った側は、如何に考えておる?」

 

 父上はすぐには答えず、ほんの僅かに目を伏せた。

 

「土地を得たというだけで申せば、確かに以前より大きくなりました。しかし、土地というものは受け取ればそのまま六角の力になるわけではございませぬ。そこには以前から人が暮らし、土地ごとの仕組みがあり、寺社や国人との繋がりもございます。それらを六角の名になったからと壊して押し込めれば、かえって治めにくくなりましょう。まず何があり、何を残し、何を改めねばならぬのかを知る。その後でなければ、増えた土地を力へ変えたとは言えぬと考えておりまする」

 

「相変わらず慎重じゃな。では右衛門督殿はどう思う。若い者なら九万石もの土地が一度に増えたと聞けば、まずは喜ぶものかと思うたが、父君と同じような答えになるのか?」

 

 太閤殿下の視線がこちらへ向いた。帝の御前でも似たところを問われたが、その場で聞いた言葉をそのまま借りて答えるのも違う。俺は坂田について最初に何を考え、その後で何を見るようになったのかを思い返してから口を開いた。

 

「正直に申し上げれば、九万石と聞いた時には私もまず喜びました。坂田を得れば六角の力は増え、美濃とも直接向き合うことになりますから、その先に何が出来るのかばかりを考えていたのです。ですが実際に調べ始めると、道も人も土地ごとの決まりも、知らぬものが幾らでも出てまいりました。今では九万石を得たというより、九万石分だけ考えねばならぬことが増えた、と申した方が近いように感じておりまする」

 

「土地を取ったと思っておったら、仕事を九万石分増やされたということか。右衛門督殿にしてみれば、とんだ褒美であったな」

 

「そこまで申されると随分悲しく聞こえますが、手元へ来る報せの量を見る限り、まったく否定も出来ませぬ。九万石という数字だけを見ていた頃の方が、随分気楽ではございました」

 

 太閤殿下は面白そうに笑った。その後は父上と京の話へ移り、近江から持参した品について尋ねられたり、昨年の戦について軽く触れられたりと、思っていた以上に穏やかな時間が続いた。昨日の公方様との対面のように次々と問いを投げられるわけでもなく、それがかえって少し落ち着かなかった。何かあるのではないかと思って来たのに、これといって大きな話が出てこない。だからといって、こちらから探るような真似をするのも違う。自分が知らないことを勝手に埋めるなと何度も考えてきたはずなのに、いざ待つ側になると、分からないまま座っているというのは随分居心地が悪かった。

 

 そんな俺の内心を知ってか知らずか、太閤殿下は父上との話が一段落したところで、ふと思い出したように寿姫の名を出した。

 

「そうじゃ。寿にも顔を出させよう。以前から近江のことには少し興味を持っておってな。浅井が滅び、朽木が北へ伸び、その上で六角が坂田を受け取ったと聞いてから、随分と様子が変わったものだと申しておった。今日は実際にその中へおる者が来ているのだから、右衛門督殿から話を聞けば、儂から聞くより分かることもあろう」

 

 寿姫という名を聞いて、俺は父上へ視線を向けた。驚いた様子はない。むしろ昨夜、近衛家からの招きを告げた時と同じように、口元がほんの少しだけ緩んでいる。その表情を見た途端、昨日から感じていた引っ掛かりが一つ増えた。

 

「父上。昨日から、寿姫がいらっしゃることまで御存じだったのではございませぬか。先ほどから随分と落ち着いておられるように見えますが」

 

「太閤殿下が今お呼びになると仰ったばかりであろう。人様の屋敷で、まだ顔も見ておらぬ御方について勝手に先へ話を進めるでない。昨日も同じことを申したはずじゃぞ」

 

 内容だけを聞けば正論だった。ただ、その顔が正論だけを口にしている者の顔には見えない。昨日の「明日になれば分かる」という言葉まで思い出せば、父上が何か知っていたのではないかという疑いはむしろ強くなる。それでも、ここで問い詰めても答える気がないことだけは分かったので、俺はそれ以上追及せず、まず寿姫本人を見ることにした。

 

 ほどなく、廊下の向こうから衣擦れの音が近付いた。襖の向こうで人の気配が止まり、それから静かに開かれる。女房を伴って入ってきた寿姫を見て、俺は太閤殿下から名を聞いた時に自分が無意識に抱いていた像が、少しずれていたことに気付いた。

 

 最初に目へ入ったのは、整った顔立ちだった。

 

 綺麗な人だと思った。それも、若さそのものが先に立つ華やかさというより、落ち着いた表情や身のこなしまで含めて目を引くような美しさだった。部屋へ入る動作にも慌ただしさがなく、太閤殿下、父上、そして俺へと自然に視線を移してから定められた場所へ腰を下ろす。その一連の所作に無理がなく、誰かへ自分を良く見せようとして整えているというより、それが普段から身に付いているように見えた。

 

 そこでようやく、思っていたより随分年上の御方なのではないかと考えた。

 

 もちろん、正確な年齢など知らない。本人へ尋ねられるようなことでもないし、顔立ちだけで女の年を決め付けるほど俺も無神経なつもりはない。ただ、目元や話す前の落ち着き、周囲の空気へ馴染む所作を見ていると、少なくとも俺と同じような年頃には見えなかった。二つ三つ上という程度でもないように感じる。もしかすると十歳以上離れていてもおかしくないのではないか、とまで思った。

 

 だからといって、年長に見えることが老けて見えるという意味ではなかった。むしろ逆だ。華やかさは十分にあり、その上に大人びた静けさが重なっている。その二つが同居しているからこそ、最初に「綺麗だ」と思った後で、遅れて年齢差を意識したのだろう。

 

 俺はそこで、自分が「近衛家の姫」と聞いた言葉だけで、勝手に年の近い女性を想像していたことにも気付いた。何の根拠もない。姫と呼ばれていることと年齢が近いことに、何の繋がりもない。それなのに、いつの間にかこちらが話題を選び、相手へ説明してやる側になるような姿をぼんやり作っていたらしい。

 

 実物を目の前にすれば、その考えはすぐ消えた。

 

 少なくとも、俺が一方的に話を聞かせる相手ではなさそうだった。

 

「寿。こちらは一昨日にも帝の御前で顔を合わせておる六角左京大夫殿。それから御嫡男の右衛門督殿じゃ。左京大夫殿とは以前にも面識があろうが、右衛門督殿とはこうしてゆるりと言葉を交わすのは初めてであったな」

 

「はい。左京大夫様には以前にも御挨拶申し上げております。右衛門督殿についても御名前は何度も伺っておりましたが、こうして御話しする機会は初めてにございます」

 

 寿姫は父上へ頭を下げ、それからこちらへ視線を向けた。

 

「近衛寿にございます。改めまして御目に掛かれましたこと、嬉しく存じます。右衛門督殿は近江では随分とお忙しくしておられると伺っておりますのに、京へお越しになってからも帝や公方様のもとへ出向かれているとのこと。一昨日もそうでしたが、こちらへいらして少しお休みになれる、というわけにはいかないようでございますね」

 

 穏やかな口調だった。こちらを値踏みするような鋭さはないが、ただ愛想よく言葉を並べているわけでもない。俺のことを何も知らない状態で話しているのではなく、ある程度聞いた上で話題を選んでいるのが分かる。その話し方まで含めると、先ほど感じた年齢差への予想はますます強くなったが、結局それは俺の想像でしかない。今は年齢そのものより、この人がどういう言葉を返してくるのかを見る方が先だと思い直した。

 

「六角右衛門督義治にございます。こちらこそ、こうして改めて御目に掛かれて光栄に存じます。近江にいれば近江で仕事が増え、京へ参れば京で別のことを覚えねばならなくなりましたので、どうやら場所を変えれば暇になるというものでもないようです。むしろ近江へ戻ってから考えねばならぬことまで増えておりますので、少し困っておりまする」

 

「それでは、旅へ出られたのに休むどころか、戻られた後の御仕事まで持ち帰ることになったのですね。それは本当に御役目がお忙しいのか、それとも右衛門督殿が御自分で考えることを増やしておられるのか、少し判断に迷うところでございますね」

 

 寿姫の口元が僅かに緩んだ。

 

 一瞬、返事が遅れた。初対面でいきなり柔らかく切り返されるとは思っていなかったこともあるが、それ以上に、その言葉の置き方に余裕を感じたからだ。年上だと断定するつもりはない。それでも、俺より長く人と話してきた者のように見える、という最初の印象はますます強くなった。

 

「……父上にも似たようなことを言われております。私としては必要なものが増えただけのつもりなのですが、周囲から見るとそうは見えないらしいのです」

 

「でしたら、右衛門督殿御本人のお話だけでなく、左京大夫様にも一度伺った方がよさそうですね。人は自分がどれだけ忙しくしているかより、周りをどれだけ忙しくさせているかの方が見えにくいこともございますから」

 

 父上が小さく笑った。

 

「寿姫、よく分かっておられる。息子にも聞かせてやっていただきたい」

 

「父上。御会いして早々、寿姫までそちら側へ引き込まないでください。これでは私一人だけが、自分は悪くないと申しているようではありませぬか」

 

「実際そう見えるから仕方あるまい。そなたが一人で忙しくなるだけなら儂も何も申さぬが、そなたが一つ疑問を持つたび、家中の誰かが調べ物を増やされるのだからな」

 

 太閤殿下まで声を上げて笑った。

 

 寿姫はその様子を見ながら、僅かに目を細めている。こちらを諭すような態度ではない。ただ、言葉に少し余裕があった。俺が一つ返せば同じ速さで返そうとするのではなく、一度受け取ってから、必要なところだけを選んで言葉にする。その違いは、話し始めて間もない俺にも分かった。

 

 同時に、俺は視界の端で父上と太閤殿下を見た。二人とも妙に楽しそうだったため、一瞬だけ別の可能性が頭を過ったが、すぐに止める。寿姫の正確な年齢は知らない。それでも、見た目と雰囲気だけなら俺よりかなり年上に思える。少なくとも、年頃の近い男女を引き合わせるという単純な場には見えなかった。

 

 だからこそ、太閤殿下が言った通り、寿姫へ近江の話を聞かせるためだけという可能性も十分ある。

 

 今の段階で、それ以上を勝手に決める材料はなかった。

 

「寿。先ほど右衛門督殿と話しておったのだがな。六角は坂田郡を得て九万石ほど領地が増えたそうじゃ。それでも本人は、喜ぶより考えることが増えたようだと申しておる。そなたも近江のことを聞きたがっておったであろう。本人がおるのだから、聞きたいことがあれば尋ねてみるがよい」

 

 寿姫はすぐには口を開かなかった。太閤殿下の言葉を受けて一度考え、それからこちらへ視線を向ける。

 

「九万石という数字だけを聞けば、大きなものを得られたのだろうと思います。ただ、先ほど右衛門督殿は『考えることが増えた』と仰いましたね。土地が増えることは、六角家にとって単純に喜ばしいことではないのでしょうか。私は武家の領地について詳しくございませんので、その辺りから伺えればと思います」

 

 問いそのものは難しくない。だが、聞き方は先ほどまでの軽口とは違っていた。分からないものは分からないと置き、その上で何を知りたいのかをはっきりさせている。こちらも曖昧な答えを返す必要はないだろう。

 

「嬉しくないわけではございませぬ。土地が増えれば六角に出来ることも増えますし、坂田を得たことで美濃へ近付き、以前とは違う備え方も出来るようになります。ただ、その土地には最初から人が住んでおります。田を耕し、市を開き、寺社や国人にも長く続いた関係がございます。六角が土地を得たからといって、翌日から全てをこちらの好きな形へ変えられるわけではございませぬ。ですから今は、九万石を得たというより、九万石分だけ守るものと考えることが増えた、という方が近いように感じておりまする」

 

 寿姫は一度視線を下げた。だが、その沈黙を「難しく話し過ぎた」とすぐ結び付ける気にはならなかった。先ほどから見ていれば、聞いたものを一度自分の中へ置いてから返す人なのだろう。実際、少しの間を置いた後に顔を上げた寿姫は、困った様子ではなく、むしろ何か一つ掴んだように見えた。

 

「それでしたら……九万石増えたというより、九万石分お忙しくなられた、と考えた方が私には分かりやすそうです。土地そのものが六角の力になるのではなく、そこにいる人や昔からの関係まで含めて、これから六角の中へ馴染ませていかなければならないのでしょう?」

 

 一瞬、その言葉を頭の中で繰り返した。

 

 そして、思わず笑ってしまった。

 

「……そう言われると、その通りにございます。私は今かなり長く説明したつもりなのですが、それをそこまで短くされると、最初からそう申せば良かったのではないかという気がしてきます」

 

「それでは少し違うと思いますよ。右衛門督殿が長く話してくださったから、私も何を短くすればよいのか分かったのです。最初から『九万石分忙しくなった』とだけ聞けば、何故お忙しいのかまでは分かりませんもの。長い話が無駄なのではなく、聞く側が最後に自分の分かる形へ直せばよいだけなのではございませんか」

 

 今度は、こちらが少し考えさせられた。

 

「……それならば、私の話も無駄ではなかったということでしょうか」

 

「少なくとも私は、理由まで伺えた方が分かりやすうございました。ただ、右衛門督殿は御話を始めると、少し先まで説明しようとなさるのですね。おそらく、途中だけを取られて違う意味に受け取られることがお嫌なのではないかと思いました」

 

 返事が一瞬遅れた。

 

 そこまで見られていたとは思わなかった。

 

 俺が長く話すのは、細かなことまで考える癖があるからでもある。だが、それだけではない。一部だけを切り取られて違う意味に受け取られるのが嫌で、前提や理由まで説明しようとして長くなることも確かに多い。

 

「……否定は出来ませぬ。説明が足りなかったために、こちらの意図とは違う意味へ取られるのは出来るだけ避けたいと思っておりますので、つい理由まで話そうとしてしまいます」

 

「でしたら、無理に短くなさらなくてもよいのではございませんか。聞く方が途中で分からなくなれば、その時に尋ねればよいでしょう。少なくとも私は、分かったふりをして最後まで聞くより、その方が楽にございます」

 

 寿姫はそう言って、小さく笑った。

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