淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/22 文章整理


第七章 東へ向けた布石
第五十七話「近衛家の姫君」ー前編ー


 翌朝、宿を出る頃には、前日までの曇り空が嘘のようによく晴れていた。雨に洗われた京の町には朝の陽が差し、軒先に残っていた雫が風に揺れている。俺は父上と並んで近衛家へ向かいながら、昨夜から何度も頭に浮かんでいた問いを、結局この朝も口には出さなかった。近衛家からわざわざ声が掛かった理由について、父上は最後まで何も教えてくれなかったからだ。

 

 昨夜尋ねても返ってきたのは、明日になれば分かるという言葉だけだった。そのくせ今朝の父上は、普段より幾分機嫌が良いように見える。帝への拝謁、公方様との対面と続いた後だけに、近衛家ほどの家から改めて招かれれば、単なる挨拶だけとも思いにくい。父上は朝から何通かの文へ目を通し、供の者たちへ指図を出していたが、俺が近衛家について尋ねる機会を窺っていることなど気付いていないかのように振る舞っていた。いや、昨夜の様子を思い返せば、分かった上で何も言わないつもりなのだろう。

 

 もっとも、太閤殿下と初めて顔を合わせるわけではない。最初に御目に掛かったのは、以前、公方様が京へお戻りになった際の道中だった。あの時、父上は同行しておらず、俺は公方様の帰京へ付き従う中で太閤殿下とも顔を合わせ、短く挨拶を申し上げた。ただ、道中には多くの者がおり、互いに腰を据えて話すような場ではなかった。六角の嫡男として名を知っていただくことはできたものの、俺の方から太閤殿下の人となりを知るほどの機会はなかったのだ。

 

 二日前、帝へ拝謁した折にも、父上と俺は太閤殿下と顔を合わせている。その時には改めて挨拶を交わしたが、あそこは帝の御前であり、近況をゆっくり語り合うような場ではない。つまり、互いに名も顔も知ってはいるものの、俺にとって太閤殿下は、まだ人となりまで知る相手ではなかった。公方様とは以前の道中でも何度か直接言葉を交わしていたが、太閤殿下とまともに向き合って話すのは、今日が初めてと言ってもよいのだろう。

 

 ただ、それと今日招かれた理由は別の話だった。

 

 浅井が滅び、六角は坂田郡を得た。朽木は北近江へ大きく領地を広げ、その当主には父上の養女となった小夜が嫁いでいる。昨日は公方様から、その朽木との関係や美濃について、随分と踏み込んだところまで尋ねられた。近江で起きたことは近江だけで終わらず、京にいる者たちもそれぞれの立場から意味を読み取っている。そのことを、ここ数日で十分に思い知らされたばかりだ。

 

 ならば近衛家でも、何かを確かめられるのかもしれない。父上を通して今の六角を見るのか、俺を見て次代の六角を測るのか。それとも、まったく別の用件があるのか。考え始めれば幾らでも可能性は浮かぶが、どれも俺が勝手に思い描いたものに過ぎなかった。

 

 昨日、公方様との対面を終えた帰り道、父上から教えられたことを思い出す。相手の問いへ正面から答えようとするあまり、その問いに含まれる前提へ引きずられるな、と。あらかじめ何を聞かれるのか知れば、俺は答えを用意することへ意識を向け過ぎて、実際に相手が何を確かめようとしているのかを見るのが遅れるのかもしれない。癪ではあるが、完全には否定できなかった。

 

 俺は父上の横顔を一度だけ見てから、道の先へ視線を戻した。何かあるのなら、まずは自分の目で確かめればよい。

 

 近衛家の屋敷へ着いて最初に感じたのは、昨日まで出入りしていた武家の屋敷とは随分と空気が違うということだった。

 

 門前には訪問者の取り次ぎをする者がおり、人の出入りも決して少なくない。しかし、武家の屋敷で感じるような張り詰めた空気はなく、行き交う者たちの所作には落ち着きがあった。案内の声も必要以上に大きくならない。庭の木々や建物はよく整えられているが、何もかもを新しく豪華に見せようとしているわけでもなく、長く続いてきた家に相応しいものが、それぞれの場所へ収まっているように感じられた。

 

 御所でも似たような静けさを感じたが、あちらとはまた違う。帝の御前では、何代にもわたって受け継がれてきた権威の前へ進むのだと、嫌でも意識させられた。ここでは近衛家という一つの家が積み重ねてきた時間が、建物や庭、そこで働く者たちの振る舞いに表れているのだろう。どちらが上という話ではなく、観音寺城とも幕府の御所とも異なる場所へ来たことを、案内される間に自然と感じていた。

 

 父上と並んで通された座敷へ腰を下ろし、太閤殿下を待った。二日前にも御目に掛かっているとはいえ、帝の御前と近衛家の座敷とでは、同じ相手であっても立場が違う。あの場では俺たちも太閤殿下も、帝の前へ出る者の一人だった。ここでは近衛家の屋敷へ六角の親子が客として招かれている。

 

 そうした違いを考えているうちに、廊下の向こうから衣擦れの音が近付き、やがて太閤殿下が姿を見せられた。父上が深く頭を下げたので、俺もそれに倣う。

 

「一昨日は帝の御前であったゆえ、ゆるりと話す暇もなかったな。左京大夫殿も右衛門督殿も、今日はそれほど堅くならずともよい。わざわざ呼び立てたのはこちらなのだから、まずは顔を上げてもらわねば話もできぬ」

 

「一昨日に続き、こうしてお時間をいただけましたこと、恐悦に存じます。帝の御前では御挨拶を申し上げるだけで精一杯にございましたので、本日は改めて御礼を申し上げに参りました」

 

 父上がそう答えると、太閤殿下は少し笑いながら頷かれた。

 

「左京大夫殿は相変わらず堅いな。一昨日にも顔を合わせたばかりなのだから、そこまで改まらずともよかろう。もっとも、右衛門督殿とはあの折もほとんど話せなかったからの。以前、公方様が京へ戻られた折にも一度会うておるが、あの時も挨拶をした程度であったと覚えておる」

 

「はい。公方様の御帰京の折に初めて御目に掛かり、二日前にも帝の御前で御挨拶を申し上げました。ただ、こうしてゆるりと御話をさせていただくのは、本日が初めてに近いかと存じます」

 

「やはりそうであったな。顔だけなら何度か見ておるのに、まともに話すのは今日が初めてというのも妙なものじゃ。それにしても、最初に見た頃と比べれば随分と立場も変わった。今では官位を得て、父親の横で近江の政へ口を出しておるそうではないか」

 

「まだ父上の横で学んでいる身にございます。政へ関わらせていただいてはおりますが、最後には父上から考えることを増やし過ぎると叱られることの方が多うございますので、どこまでお役に立てているのかは自信がございませぬ」

 

 そう答えると、父上が横から小さく息を吐いた。

 

「増やし過ぎておる自覚があるのなら、少しは減らしてほしいところにございます。市を見れば道を調べ、道を見れば湖へ手を伸ばし、兵を調べれば今度は田や米まで帳面へ加える。本人は一つずつ順に見ているつもりなのでしょうが、そのたびに周りへ調べさせることまで増えておりまする」

 

「父上。そこまで太閤殿下へ申し上げなくともよろしいでしょう。何も思い付きだけで増やしているわけではございませぬ」

 

「ならば、何処まで行けば調べ終わるのか儂にも教えてほしいものじゃな。そなたの場合、一つ分かるたびに次の分からぬものを見付けるので、終わりが見えぬ」

 

 即座に返され、言葉に詰まった。調べるべきことには理由があるし、闇雲に仕事を増やしているつもりもない。だが、一つの疑問が解ければ別の疑問が出てくるのは事実だった。太閤殿下は俺と父上を見比べた後、楽しそうに声を立てて笑われた。

 

「なるほど。公方様から右衛門督殿は考える方が先に立つと聞いておったが、父君から見ても同じか。もっとも、自分の家のことを何も考えぬよりは余程よかろう。それに、分からぬものを見付けるうちは、まだ見ておるということでもある。左京大夫殿が困っておる間は、好き勝手を許されているわけでもなさそうだしな」

 

「そのように仰られますと、本人が妙なところで自信を持ちますので、あまり褒めないでいただきたいところにございます」

 

「父上まで、いったい何をすると思っておられるのです。少なくとも、褒められたからといって翌日から何か一つ増やすほど単純ではございませぬ」

 

「翌日ではなく、その日のうちに増やすから困っておるのじゃ」

 

 太閤殿下の笑いがまた大きくなった。

 

 一昨日、帝の御前で会った時とはまるで違う。あの場では太閤殿下の表情をじっくり見る余裕もなく、こちらから不用意に話すこともできなかった。だが今は、父上とのやり取りを見ながら声を上げて笑い、俺へも気軽に言葉を向けてくださる。

 

 公方様も正式な対面の席で冗談を仰ることはあったが、太閤殿下の言葉にはまた違った親しみやすさがある。場所が変われば見える相手の顔も変わるのだと、改めて感じられた。

 

 形式的な挨拶が済むと、話は自然と近江へ移った。

 

 浅井が滅び、朽木が伊香郡と浅井郡を押さえ、坂田郡が六角へ渡ったこと。北近江の形を大きく変えた一連の動きについて、太閤殿下も当然のように把握しておられた。京へ来てから何度も感じたことだが、近江の外にいる者たちも、浅井の滅亡が何を変えたのかをよく見ているらしい。

 

「しかし、近江の北も随分と変わったものじゃ。少し前までは浅井の名を聞かぬ日の方が珍しいほどであったのに、今では朽木がその領地を押さえ、六角は坂田を得た。外から眺めれば、左京大夫殿の家がまた一段と大きくなったようにも見える。実際に受け取った側は、如何に考えておる?」

 

 父上はすぐには答えず、ほんの僅かに目を伏せた。

 

「土地を得たというだけで申せば、確かに以前より大きくなりました。しかし、土地というものは受け取ればそのまま六角の力になるわけではございませぬ。そこには以前から人が暮らし、土地ごとの仕組みがあり、寺社や国人との繋がりもございます。それらを六角の名になったからと壊してしまえば、かえって治めにくくなりましょう。まず何を残し、何を改めねばならぬのかを知る。その後でなければ、増えた土地を力へ変えたとは言えぬと考えておりまする」

 

「相変わらず慎重じゃな。では右衛門督殿はどう思う。若い者なら九万石もの土地が一度に増えたと聞けば、まずは喜ぶものかと思うたが、父君と同じような答えになるのか?」

 

 太閤殿下の視線がこちらへ向いた。帝の御前でも似たところを問われたが、その時に聞いた御言葉をそのまま借りて答えるのも違う。俺は坂田について最初に何を考え、実際に報告を読み始めてから何を見るようになったのかを思い返した。

 

「正直に申し上げれば、九万石と聞いた時には、まず喜びました。坂田を得れば六角の力は増え、美濃とも直接向き合うことになりますから、その先に何ができるのかばかりを考えていたのです。ですが実際に調べ始めると、道も人も土地ごとの決まりも、知らぬものが幾らでも出てまいりました。今では九万石を得たというより、九万石分だけ考えねばならぬことが増えた、と申した方が近いように感じておりまする」

 

「土地を取ったと思っておったら、仕事を九万石分増やされたということか。右衛門督殿にしてみれば、とんだ褒美であったな」

 

「そこまで申されると随分悲しく聞こえますが、手元へ来る報せの量を見る限り、まったく否定もできませぬ。九万石という数字だけを見ていた頃の方が、随分気楽ではございました」

 

 太閤殿下は面白そうに笑われた。

 

 その後は父上と京の話へ移り、近江から持参した品について尋ねられたり、昨年の戦について軽く触れられたりと、思っていた以上に穏やかな時間が続いた。昨日の公方様との対面のように次々と問いを向けられるわけでもなく、話題が変われば父上がそれに応じ、時には太閤殿下の方から昔の話をされることもある。俺も尋ねられれば答えたが、初めから何かを説明しなければならないという雰囲気ではなかった。

 

 それが、かえって少し落ち着かなかった。

 

 何かあるのではないかと思って来たのに、これといって特別な話が出てこない。太閤殿下と顔を合わせ、近江のことを話すだけでも十分に意味はあるのだろう。だが、昨夜の父上の表情や、わざわざ俺の同行を望まれたという話を思い返すと、それだけで終わるとも思いにくい。

 

 だからといって、こちらから探るような真似をするのも違う。分からないことを勝手に埋めるなと何度も考えてきたはずなのに、いざ待つ側になると、何も分からないまま座っているのは随分居心地が悪かった。

 

 そんな俺の内心を知ってか知らずか、太閤殿下は父上との話が一段落したところで、ふと思い出したように寿姫の名を出された。

 

「そうじゃ。寿にも顔を出させよう。以前から近江のことには少し興味を持っておってな。浅井が滅び、朽木が北へ伸び、その上で六角が坂田を受け取ったと聞いてから、随分と様子が変わったものだと申しておった。今日は実際にその中へおる者が来ているのだから、右衛門督殿から話を聞けば、儂から聞くより分かることもあろう」

 

 寿姫という名を聞き、俺は父上へ視線を向けた。

 

 驚いた様子はない。むしろ昨夜、近衛家からの招きを告げた時と同じように、口元がほんの少しだけ緩んでいる。その表情を見た途端、昨日から感じていた引っ掛かりがまた強くなった。

 

「父上。昨日から、寿姫がいらっしゃることまで御存じだったのではございませぬか。先ほどから随分と落ち着いておられるように見えますが」

 

「太閤殿下が今お呼びになると仰ったばかりであろう。人様の屋敷で、まだ顔も見ておらぬ御方について勝手に先へ話を進めるでない。昨日も同じことを申したはずじゃぞ」

 

 言っていることだけを聞けば正論だった。ただ、その顔が正論だけを口にしている者のものには見えない。

 

 昨日の「明日になれば分かる」という言葉まで思い出せば、父上が何か知っていたのではないかという疑いは、むしろ強くなった。それでも、ここで問い詰めて答えが返ってくるとは思えない。俺はそれ以上追及せず、まず寿姫本人と顔を合わせることにした。

 

 ほどなく、廊下の向こうから衣擦れの音が近付いた。襖の前で人の気配が止まり、それから静かに開かれる。女房を伴って入ってきた寿姫を見て、俺は無意識に思い描いていた姿と、少し違っていることに気付いた。

 

 最初に目へ入ったのは、整った顔立ちだった。

 

 綺麗な人だと思った。若さそのものが先に立つ華やかさというより、落ち着いた表情や身のこなしまで含めて目を引くような美しさだった。

 

 部屋へ入る動作にも慌ただしさがなく、太閤殿下、父上、そして俺へと自然に視線を移してから、定められた場所へ腰を下ろす。その一連の所作に無理がなく、誰かへ自分を良く見せようとしているというより、普段から身に付いているものなのだと感じられた。

 

 そこでようやく、思っていたより随分年上の御方なのではないかと考えた。

 

 もちろん正確な年齢など知らない。本人へ尋ねられることでもないし、顔立ちだけで女の年を決め付けるほど無神経なつもりもない。ただ、目元や話し始める前の落ち着き、周囲の空気へ自然に馴染む所作を見ていると、少なくとも俺と同じような年頃には見えなかった。二つ三つ上という程度でもないように感じる。もしかすると十歳以上離れていてもおかしくないのではないか、とまで思った。

 

 だからといって、年長に見えることが老けて見えるという意味ではない。華やかさは十分にあり、その上に大人びた静けさが重なっている。最初に美しいと感じ、その後で年齢差を意識したのも、そのためだろう。

 

 考えてみれば、近衛家の姫と聞いただけで勝手に年の近い女性を想像していたこと自体がおかしい。姫と呼ばれていることと、俺と年齢が近いことには何の繋がりもない。

 

 それなのに、いつの間にかこちらが話題を選び、相手へ説明する側になるような姿を思い描いていたらしい。実際に寿姫を目の前にすると、そうした考えはすぐに消えた。少なくとも、こちらが一方的に話を聞かせるような相手ではなさそうだった。

 

「寿。こちらは一昨日にも帝の御前で顔を合わせておる六角左京大夫殿。それから御嫡男の右衛門督殿じゃ。左京大夫殿とは以前にも面識があろうが、右衛門督殿とはこうしてゆるりと言葉を交わすのは初めてであったな」

 

「はい。左京大夫様には以前にも御挨拶申し上げております。右衛門督殿についても御名前は何度も伺っておりましたが、こうして御話しする機会は初めてにございます」

 

 寿姫は父上へ頭を下げ、それからこちらへ視線を向けた。

 

「近衛寿にございます。改めまして御目に掛かれましたこと、嬉しく存じます。右衛門督殿は近江では随分とお忙しくしておられると伺っておりますのに、京へお越しになってからも帝や公方様のもとへ出向かれているとのこと。一昨日もそうでしたが、こちらへいらして少しお休みになれる、というわけにはいかないようでございますね」

 

 穏やかな口調だった。こちらを値踏みするような鋭さはないが、ただ愛想よく言葉を並べているわけでもない。俺のことをある程度聞いた上で話題を選んでいるのが分かる。相手がどう答えるかを急かすこともなく、自然に言葉を向けてくる。

 

 その落ち着きも、先ほど感じた年齢差の印象を強くしていたが、結局は俺の想像に過ぎない。今はそんなことより、この人がどのような話をするのかを見る方が先だろう。

 

「六角右衛門督義治にございます。こちらこそ、こうして改めて御目に掛かれて光栄に存じます。近江にいれば近江で仕事が増え、京へ参れば京で別のことを覚えねばならなくなりました。どうやら場所を変えれば暇になるというものでもないようです。むしろ近江へ戻ってから考えねばならぬことまで増えておりますので、少々困っておりまする」

 

「それでは、旅へ出られたのに休むどころか、戻られた後の御仕事まで持ち帰ることになったのですね。それは本当に御役目がお忙しいのか、それとも右衛門督殿が御自分で考えることを増やしておられるのか、少し判断に迷うところでございますね」

 

 寿姫の口元が僅かに緩んだ。

 

 一瞬、返事が遅れた。初めてまともに言葉を交わす相手から、こうも柔らかく切り返されるとは思っていなかったこともある。だが、それ以上に、その言葉の置き方に余裕を感じたからだった。

 

 俺の言葉をただ受け取って頷くのでも、相手を困らせようと強く踏み込むのでもない。こちらが冗談として返せるところを選び、自然に言葉を置いてくる。その距離の取り方にも、先ほどから感じていた落ち着きが表れているように思えた。

 

「……父上にも似たようなことを言われております。必要なことが増えただけのつもりなのですが、周囲から見るとそうは見えないらしいのです」

 

「でしたら、右衛門督殿御本人のお話だけでなく、左京大夫様にも一度伺った方がよさそうですね。人は自分がどれだけ忙しくしているかより、周りをどれだけ忙しくさせているかの方が見えにくいこともございますから」

 

 父上が小さく笑った。

 

「寿姫、よく分かっておられる。息子にも聞かせてやっていただきたい」

 

「父上。御会いして早々、寿姫までそちら側へ引き込まないでください。これでは一人だけ、自分は悪くないと申しているようではありませぬか」

 

「実際そう見えるから仕方あるまい。そなたが一人で忙しくなるだけなら儂も何も申さぬが、そなたが一つ疑問を持つたび、家中の誰かが調べ物を増やされるのだからな」

 

 太閤殿下まで声を上げて笑われた。

 

 寿姫はその様子を見ながら、僅かに目を細めている。こちらを諭すような態度ではない。ただ、返す言葉には常に余裕があった。

 

 俺が何かを言えば、すぐに同じ勢いで言い返すのではなく、一度受け取ってから必要なところだけを選んで返してくる。まだ幾つも話したわけではないが、その違いは俺にも分かった。軽口を交わしているうちに、いつの間にかこちらが言い訳をしているような形になっているのだから、なかなか侮れない相手らしい。

 

 同時に、俺は視界の端で父上と太閤殿下を見た。

 

 二人とも妙に楽しそうだったため、一瞬だけ別の可能性が頭を過ったが、すぐに考えるのをやめた。寿姫の正確な年齢は知らない。それでも、見た目と雰囲気だけなら俺よりかなり年上に思える。少なくとも、年頃の近い男女を引き合わせるという単純な場には見えなかった。

 

 だからこそ、太閤殿下が仰った通り、寿姫へ近江の話を聞かせるために呼ばれたという可能性も十分にある。今の段階で、それ以上を勝手に決める材料はない。俺は父上たちの表情について考えるのをやめ、寿姫へ向き直った。

 

「寿。先ほど右衛門督殿と話しておったのだがな。六角は坂田郡を得て、九万石ほど領地が増えたそうじゃ。それでも本人は、喜ぶより考えることが増えたようだと申しておる。そなたも近江のことを聞きたがっておったであろう。実際にその中へおる者が来ているのだから、聞きたいことがあれば尋ねてみるがよい」

 

 太閤殿下がそう仰ると、寿姫はすぐには口を開かなかった。こちらへ一度視線を向けた後、僅かに考えてから改めて顔を上げる。先ほどまでの軽口とは違い、何を尋ねるべきか確かめているように見えた。

 

「九万石という数字だけを聞けば、大きなものを得られたのだろうと思います。ただ、先ほど右衛門督殿は『考えることが増えた』と仰いましたね。土地が増えることは、六角家にとって単純に喜ばしいことではないのでしょうか。武家の領地については詳しくございませんので、その辺りから伺えればと思います」

 

 問いそのものは難しくなかった。だが、自分が知らないことを隠そうとせず、その上で何を知りたいのかをはっきりさせている。こちらも余計なことを考えず、実際に坂田を受け取ることが決まってから見聞きしたものを話せばよいのだろう。

 

「嬉しくないわけではございませぬ。土地が増えれば六角にできることも増えますし、坂田を得たことで美濃へ近付き、以前とは違う備え方もできるようになります。ただ、その土地には最初から人が住んでおります。田を耕し、市を開き、寺社や国人にも長く続いてきた関係がございます。六角が土地を得たからといって、翌日から全てをこちらの望む形へ変えられるわけではございませぬ」

 

 俺はそこで一度言葉を切り、坂田から届いていた報告を思い返した。

 

 年貢の納入先を確かめたい村もあれば、浅井の頃の取り決めを当面残してほしいという村もある。道が傷んでいるため、別の経路を使いたいという申し出もあった。土地を受け取るまでは地図の上でその範囲を知っているつもりだったが、実際に治めようとすれば、そうした一つ一つの事情へ向き合わなければならない。

 

「今はまず、誰が何処を治め、どの村がどれほどの年貢を納め、何処の道を使って人や荷が行き来しているのかを調べております。以前からの取り決めを残した方がよいところもあれば、改めなければならぬところもあるでしょう。そうしたことを確かめてからでなければ、得た土地を六角の力として使えるようにはなりませぬ。ですから今は、九万石を得たというより、九万石分だけ守るものと考えることが増えた、という方が近いように感じておりまする」

 

 話し終えると、寿姫は一度視線を下げた。

 

 しかし、その沈黙を難しく話し過ぎたからだと、すぐに結び付ける気にはならなかった。先ほどから見ていれば、聞いたものを一度自分の中で考えてから返す人なのだろう。実際、少しの間を置いて顔を上げた寿姫は、困った様子ではなかった。

 

「それでしたら……九万石増えたというより、九万石分お忙しくなられた、と考えた方が私には分かりやすそうです。土地そのものが六角の力になるのではなく、そこにいる人や昔からの関係まで含めて、これから六角の中へ馴染ませていかなければならないのでしょう?」

 

 その言葉を聞いて、俺は一瞬考えた。

 

 そして、思わず笑ってしまった。

 

「……そう言われると、その通りにございます。随分長く説明したつもりなのですが、そこまで短くまとめられると、最初からそう申し上げればよかったのではないかという気がしてまいります」

 

 実際、寿姫の言葉は、俺が幾つも例を挙げて説明したことを随分と簡潔にまとめていた。

 

 土地を得た後に何をしなければならないのか、帳面の話から始めれば幾らでも説明できる。しかし寿姫が最初に尋ねたのは、六角にとって領地が増えることは喜ばしいことではないのか、という一点だった。その問いへ答えるだけなら、もっと短くてもよかったのかもしれない。

 

 ところが寿姫は、少し考えてから穏やかに答えた。

 

「それでは少し違うと思いますよ。右衛門督殿が長く話してくださったから、私も何を短くすればよいのか分かったのです。最初から『九万石分忙しくなった』とだけ聞けば、何故お忙しいのかまでは分かりませんもの。長い話が無駄なのではなく、聞く側が最後に自分の分かる形へ直せばよいだけなのではございませんか」

 

 今度は、こちらが少し考えさせられた。

 

 俺はこれまで、話が長いと言われることはあっても、その長さにも意味があると言われたことはあまりなかった。父上は考えをまとめてから話せと仰るし、弥太郎は途中で話を整理しながら、結局何を確かめたいのかと尋ねてくる。それぞれにもっともな理由があり、俺自身も必要以上に説明してしまう癖があることは自覚している。

 

 だから寿姫の言葉を聞いた時、すぐにはどう受け取ればよいのか分からなかった。

 

 だが、何でも長く話せばよいと言っているわけではないのだろう。話した内容を聞く側が理解し、自分なりに整理できるなら、それまでの説明にも意味がある。寿姫は俺が挙げた村や道、寺社との関係についての話を聞いたからこそ、九万石分忙しくなったという短い言葉へまとめられたのだ。

 

「……それならば、長くお話ししたことも無駄ではなかったということでしょうか」

 

「少なくとも私は、理由まで伺えた方が分かりやすうございました。ただ、右衛門督殿は御話を始めると、少し先まで説明しようとなさるのですね。おそらく、途中だけを取られて違う意味に受け取られることがお嫌なのではないかと思いました」

 

 返事が一瞬遅れた。

 

 そこまで見られていたとは思わなかった。

 

 話が長くなるのは、細かなことまで考える癖があるからでもある。だが、それだけではない。途中の説明を省けば、こちらが考えていることとは違う意味に受け取られるかもしれない。相手が何処を疑問に思うのか分からないから、先に理由を説明しておきたい。そう考えるうちに、最初の問いから少し離れたところまで話が進んでしまうことも確かに多かった。

 

 父上や弥太郎には、そうして話を広げ過ぎるところを何度も指摘されている。しかし寿姫は、まだ幾つか言葉を交わしただけだ。坂田についての説明も、俺が普段どのように帳面を広げているのかも知らない。それなのに、話し方からそこまで考えたらしい。

 

 俺は僅かに居住まいを正した。先ほどまでの軽口とは違い、今度は曖昧に笑って済ませるより、率直に答えた方がよいように思えた。

 

「……否定はできませぬ。説明が足りなかったために、こちらの意図とは違う意味へ取られるのは、できるだけ避けたいと思っております。ですから、つい理由や前提まで話そうとしてしまうのでしょう」

 

 寿姫はその答えを聞くと、特に意外そうな顔をするでもなく、静かに頷いた。俺の言葉が予想していたものと大きく違わなかったのか、それとも単に話を受け取っただけなのかは分からない。

 

 ただ、先ほどから感じていた落ち着きは変わらず、その目には相手の話を急いで終わらせようとする様子もなかった。

 

「でしたら、無理に短くなさらなくてもよいのではございませんか。聞く方が途中で分からなくなれば、その時に尋ねればよいでしょう。少なくとも私は、分かったふりをして最後まで聞くより、その方が楽にございます」

 

 寿姫はそう言って、小さく笑った。

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