助かりますぅうううううう!!
なんか、長くなってしまったので三部構成にしてみました。
初夏の観音寺城は、朝から随分と明るかった。少し前までは山を渡る風にも涼しさが残っていたというのに、今では日が高くなるにつれて肌にまとわりつくような暑さを感じる。開け放たれた戸から吹き込んでくる風だけはまだ心地よく、庭の木々が揺れるたびに葉の擦れる音が聞こえていた。
そんな中、俺は一人で帳面を眺めていた。
この三年間で随分と増えたものだ。関を通った商人や荷駄の数、市へ出入りする者の数、銭の動き。最初は俺自身が見やすいように書き始めただけだったものが、今では以前との違いを確かめるために欠かせないものになっている。もっとも、帳面そのものが目的になっては意味がない。数字はあくまで、何が起きているのかを知るためのものだ。
「……遅いな」
帳面から顔を上げる。
いつもなら、とっくに千代丸が来ている頃だった。
俺の小姓になったばかりの頃ならともかく、今ではこちらが呼ばなくとも決まった頃合いには姿を見せる。それが今日は来ない。何か用でも言いつけられたのだろうかと思い、近くにいた者へ尋ねてみると、千代丸は朝から平井の方へ行っているという。
「父親のところか?」
「いえ。浅井の御方様と猿夜叉丸殿のところにございます」
猿夜叉丸。
聞き覚えのある名に、少しだけ意識が向いた。
浅井久政の嫡男。母である阿古の方と共に六角のもとへ置かれている少年だ。後に浅井家を継ぐことになる人物だが、俺はまだ一度も直接会ったことがない。同じ観音寺城にいながら顔を合わせなかったのは、俺が父上の評定や自分の試みにばかり時間を使っていたせいもあるだろう。
千代丸がそちらへ行っているのなら、少し顔を出してみるか。
そう思って帳面を閉じた。
外へ出ると、部屋の中から眺めていた以上に日差しが強かった。石の上に落ちた光が白く照り返し、歩いているだけでも額に薄く汗が滲んでくる。それでも山の上にあるだけあって、風が吹けば暑さはいくらか和らいだ。供を連れて城内を歩きながら、改めて周囲へ目を向ける。観音寺城は一つの大きな建物が山頂に鎮座しているような城ではない。山中のあちらこちらに曲輪があり、そこに重臣たちの居館が置かれている。幼い頃から暮らしている俺には見慣れた景色だが、考えてみれば随分と変わった城だ。
平井の居館がある方へ向かうと、やがて見慣れた千代丸の姿を見つけた。ただし一人ではない。
千代丸より少し幼く見える少年と、その傍にさらに幼い少女がいた。
あれが猿夜叉丸か。
俺が近付いていることに最初に気付いたのは千代丸だった。
「若様」
呼ばれたことで、二人もこちらを見る。
その瞬間、少年の様子が変わった。
それまで千代丸と何か話していたらしいが、表情から子供らしい柔らかさが消え、背筋を伸ばして俺へ向き直る。露骨に怯えたわけではない。ただ、今までとは明らかに違う。
なるほど。
俺は六角の嫡男で、向こうは六角に従う証として母親と共に置かれている浅井の嫡男だ。
同じ子供でも、立場はまるで違う。
「千代丸。今日は来ぬと思ったら、ここにおったのか」
「申し訳ございませぬ。父上より、こちらを手伝うよう言われておりました」
「別に責めておらぬ」
そう答えてから少年へ目を向ける。
「そなたが猿夜叉丸か?」
「はい。浅井猿夜叉丸にございます」
丁寧に頭を下げる。
年齢を考えれば随分と堅い。
もっとも、俺を前にして普段通りに振る舞えという方が無理なのだろう。
「俺は亀松丸じゃ」
「存じております。亀松丸様」
「そうか」
当然と言えば当然だ。六角のもとに置かれている以上、その嫡男の名を知らないはずもない。
さて、どうしたものか。
会ってみようと思って来たものの、特に用事があるわけではない。じろじろ観察するのも失礼だろう。そんなことを考えていると、猿夜叉丸の隣にいた少女が俺をじっと見ていることに気付いた。
「そなたは?」
「小夜にございます」
やはり。
平井小夜。
千代丸から妹の名を聞いた時点で分かっていたことだが、こうして本人を目の前にすると妙な感覚があった。前世の記憶では、この少女がいずれ朽木へ嫁ぐことを知っている。しかし目の前にいる小夜は、当然ながらそんな未来など知るはずもない。ただ珍しいものを見るように俺を見上げているだけだ。
「亀松丸様は、千代丸兄様より偉いのでございますか?」
「小夜!」
千代丸が慌てて妹を止めた。
俺は一瞬何を聞かれたのか分からず、それから笑いそうになった。
「まあ、そうなるのだろうな」
「では、千代丸兄様は亀松丸様の言うことを何でも聞くのでございますか?」
「小夜、もうよい」
「何でもというわけではないぞ」
俺が答えると、千代丸が何とも言えない顔をした。
「少なくとも、俺が間違っておれば千代丸は文句を言う」
「若様が妙なことをなされようとすれば止めるのも、小姓の務めかと存じます」
「ほらな」
小夜は感心したように兄を見た。
何故そこで感心する。
俺がそう言うと、小夜は笑った。つられたのか千代丸も苦笑し、その横で猿夜叉丸の口元が僅かに緩む。だが俺と目が合うと、すぐに表情を戻した。
「何故止める」
「……は?」
「今、笑ったであろう」
猿夜叉丸の身体が僅かに固くなった。
「申し訳ございませぬ」
謝られた。
怒っていないのだが。
「いや、謝れと言ったのではない。笑いたければ笑えばよい」
「……はい」
返事はしたものの、どう見ても困っている。
俺が思っている以上に、六角の嫡男という立場はこの少年にとって重いらしい。
その後は千代丸と小夜が間に入る形で話をした。猿夜叉丸も最初こそ俺の言葉一つ一つに気を遣っていたが、小夜が遠慮なく話へ割り込み、千代丸がそれを止め、その千代丸を俺がからかっているうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。話してみれば特別変わった少年ではない。千代丸と張り合うこともあれば、小夜に何か言われて困った顔をすることもある。ただ俺へ言葉を返す時だけ、どうしても一度考えてから口を開く。
ふと、明日は特に予定がなかったことを思い出した。
最近は帳面と向き合っている時間も長かった。久しぶりに釣りへ行こうと思っていたのだ。
「猿夜叉丸」
「はい」
「明日、釣りへ行かぬか?」
猿夜叉丸が目を瞬いた。
「……某が、でございますか?」
「他に誰がおる」
「某も御一緒してよろしいのでございますか?」
「ああ。千代丸も連れて行くつもりじゃ」
そう言って千代丸を見ると、本人は初耳だったらしく驚いた顔をしていた。だが嫌ではないらしい。すぐに頷いた。
猿夜叉丸の顔にも、ほんの僅かだが明るさが浮かぶ。
「参りとうございます」
「ならば決まりじゃな」
「私も参ります」
すぐ横から声がした。
見ると、小夜が当然のような顔をしている。
「小夜もか?」
「はい」
「釣りをするのか?」
「見ております」
釣るわけではないらしい。
それでも行きたいというのであれば、俺としては構わない。ただし、俺だけで決められることではなかった。小夜は平井家の娘だし、何より猿夜叉丸は浅井の嫡男として母親と共に六角のもとへ置かれている。俺が勝手に城の外へ連れ出してよいはずがない。
「分かった。だが、俺だけでは決められぬ。父上たちに聞いてみよう」
「はい!」
小夜は嬉しそうに返事をした。猿夜叉丸も頷いたが、その顔には先ほどとは違って少し迷いがあった。釣りへ行きたい気持ちはある。だが、自分が自由に出掛けられる立場ではないことも分かっているのだろう。
その時の俺は、その表情の意味を分かったつもりになっていた。
だが、本当に分かっていたのかと問われれば――おそらく、まだ分かっていなかった。
平井家の者たちに別れを告げると、俺はその足で父上のもとへ向かった。猿夜叉丸と小夜を明日の釣りへ誘ったものの、考えてみれば二人を勝手に連れ出してよいはずがない。小夜については平井加賀守の許しを得ればよいのだろうが、猿夜叉丸は事情が違う。浅井の嫡男であり、母親と共に六角のもとへ置かれている身だ。阿古の方が許したとしても、それだけで観音寺城の外へ連れ出してよいものなのか、俺には判断がつかなかった。ならば最初から父上に聞いた方が早い。
父上のいる部屋へ向かう途中、先ほどの猿夜叉丸の顔が何度か頭に浮かんだ。最初に俺を見た時の固い表情と、小夜や千代丸とのやり取りを見て僅かに笑った時の顔。そして釣りへ誘った瞬間に浮かんだ嬉しそうな表情。それだけなら、どこにでもいる子供と変わらない。だが、その直後には迷うような色が浮かんでいた。行きたいと言えば済む俺と、そうではない猿夜叉丸。その違いについて考えながら歩いているうちに父上の部屋へ着き、取り次ぎを頼むと、ほどなく中へ通された。
部屋へ入ると、父上は机を前にいくつもの書状へ目を通していた。脇には既に読み終えたらしいものが積まれ、反対側にはまだ手を付けていない書状が残っている。俺が関銭や市について一つのことを考えている間にも、父上のもとには領内のあちらこちらからこうして話が集まってくるのだろう。三年間、評定へ顔を出し続けたことで以前より分かるようになった。六角の当主というのは、俺が想像していた以上に多くのことを同時に見なければならない。
「父上。お願いがございます」
父上はすぐには答えず、手にしていた書状を最後まで読んでから脇へ置いた。それから俺を見る。その目に、何故か僅かな警戒が浮かんだような気がした。
「……今度は何をするつもりじゃ」
「何故、最初から何かすると思われるのでございます」
「この三年を思い返してから申せ」
言われて口を閉じた。関銭を弄りたいと言い出し、商人と荷駄の数を調べ、市にも手を入れた。俺としてはどれも必要だと思って始めたことだが、父上から見れば、俺が何か頼みに来るたびに新しい面倒事を持ち込んでいるように見えるのかもしれない。
「今回は、そのような話ではございませぬ」
「ほう」
「明日、釣りへ行こうと思っております」
父上が僅かに眉を上げた。予想していたものと随分違ったらしい。
「それで?」
「千代丸と、猿夜叉丸、それに小夜も連れて行きとうございます」
「猿夜叉丸と、平井の娘をか?」
「はい」
「何故じゃ」
「一緒に釣りをしたいからにございます」
そのまま答えると、父上は何も言わずに俺を見た。何か別の目的があるのではないかと疑われているような気がする。俺としては本当にそれだけなのだが、この三年間の行動が自分の信用を妙な方向へ削っていたらしい。しばらくして、父上の口元が僅かに緩んだ。
「何でございます」
「いや。そなたにも、歳相応のことを言い出す時があるのだと思うてな」
「失礼ではございませぬか」
「誰のせいじゃと思うておる」
また何も言えなくなった。父上は少し楽しそうに笑った後、表情を戻して考え込んだ。俺が千代丸と釣りへ行くだけなら、おそらくここまで考える必要はないのだろう。だが今回は猿夜叉丸がいる。やはり簡単には決められないのかと思っていると、父上が口を開いた。
「遠くへは行くな。供も付ける」
「はい」
「平井の娘については加賀守へ話を通す。猿夜叉丸については阿古の方にもな。それで双方が良いと申すのであれば構わぬ」
「ありがとうございます」
思っていたよりあっさり許可が出た。これなら猿夜叉丸も喜ぶだろう。そう思いながら頭を下げ、立ち上がろうとした時だった。
「亀松丸」
父上の声に、浮かせかけた腰を戻した。先ほどまでとは声の調子が違う。
「猿夜叉丸は、そなたとは立場が違う。それは分かっておるな」
「……はい」
「本当に分かっておるか?」
そう聞かれると、すぐには答えられなかった。
浅井久政の嫡男。母親と共に六角へ預けられている。浅井が六角に従う証としてここにいるのだから、言葉を選ばずに言えば人質だ。そのこと自体は以前から知っている。だが今日、実際に猿夜叉丸と会ってみて、知識として知っていることと、目の前の人間を通して理解することは別なのだと感じ始めていた。
「……今日、少しだけ分かったように思います」
「申してみよ」
「猿夜叉丸は、俺と同じようには出来ませぬ」
父上は何も言わず、続きを待っている。
「俺が釣りへ行きたいと思えば、父上へお願いすることが出来ます。駄目だと言われれば諦めればよいだけです。ですが、猿夜叉丸は自分から外へ出たいとも言いづらいのでしょう。それに……俺が何気なく申したことでも、あちらには断りづらいことがあるのだと思います」
今日のことを思い返す。俺が近付いただけで背筋を伸ばした。少し笑っただけで謝った。釣りへ誘った時には確かに嬉しそうな顔をしたのに、すぐに自分の立場を思い出したような表情になった。俺はただ、一緒に釣りへ行こうと言っただけだ。けれど猿夜叉丸にとって、それは同じ年頃の子供から遊びに誘われたというだけでは済まないのかもしれない。
「そうじゃ」
父上が静かに頷いた。
「ならば、よく覚えておけ。そなたが大きくなるほど、そのような者は増える」
開け放たれた戸から風が入り、机の端に置かれた紙が僅かに揺れた。先ほどまで聞こえていた外の声が、急に遠くなったように感じる。
「今はまだ幼いゆえ、そなたの言葉を子供の言葉として聞く者もおる。だが、いつまでもそうではない。そなたは六角の嫡男じゃ。いずれ儂の後を継ぐ。六角の嫡男が欲しいと言えば、それを命と受け取る者も出よう。そなたが頼んだつもりでも、相手には命じられたとしか聞こえぬこともある」
胸の奥に、少し重いものが落ちた。
言われてみれば、既にその兆しはいくらでもある。城内を歩けば人が道を空ける。俺が何か尋ねれば、相手は手を止めて答える。関銭について調べたいと言えば家臣たちが動き、商人や荷駄の数を記録するよう頼めば、そのために人が使われた。俺自身にそれだけの価値があるわけではない。六角家に生まれ、その嫡男だからそうされているだけだ。
「ならば、何も頼まぬ方がよいのでございますか?」
「そうは申しておらぬ」
父上は首を振った。
「上に立つ者が何も命じず、何も求めずに国が動くものか。必要なことは命じればよい。欲しいものがあれば求めることもあろう。だが、自分の言葉が相手にとってどれほどの重さを持つのか、それを知らずに口を開くなということじゃ」
父上の言葉を聞きながら、俺は三年間のことを思い返していた。関銭を下げたいと言った時も、市へ手を入れようとした時も、俺はどうすれば結果が出るかを考えていた。銭がどれだけ動くのか、人がどれだけ増えるのか、以前と比べてどう変わったのか。数字にすれば見えるものは多いし、比較すれば間違いにも気付きやすい。それ自体は今でも正しいと思っている。
けれど、人は数字ではない。
同じ言葉を掛けても、千代丸と猿夜叉丸では受け取り方が違う。俺が同じつもりで接したところで、相手の立場が違えば意味まで変わってしまう。そんな当たり前のことを、俺は今日初めて実感したのかもしれない。
「己の言葉が、相手にどう聞こえるかを考えよ」
父上はそう言ってから、一度言葉を切った。
「人の上に立つとは、好きなことを好きなように命じることではない」
「……はい」
短く答えた。
関銭や市について教えられた時とは違う。数字も銭も出てこない。帳面に書き付けて、後から比較出来るようなものでもない。それでも、これも父上が俺に教えようとしている「国を動かす」ということの一つなのだろう。前世で教師をしていた頃だって、同じ言葉を掛ければ全ての生徒が同じように受け取ったわけではなかった。分かっていたはずなのに、立場が変わった途端、その感覚が抜け落ちていた。
「覚えておきます」
「うむ」
父上はそれだけ言うと、机の上の書状へ手を伸ばした。今度こそ話は終わりらしい。俺も頭を下げて部屋を出た。
外へ出ると、傾き始めた日が観音寺城の山肌を照らしていた。昼間ほどの暑さはなく、木々の間を抜けてきた風が汗ばんだ頬に心地よい。廊下を歩きながら、俺はもう一度猿夜叉丸の顔を思い出した。
俺にとっては、一緒に釣りへ行こうと誘っただけだった。
それだけのことだ。
だが、その「それだけ」が、相手にとっても同じ重さとは限らない。
父上に言われなければ、俺はそこまで深く考えなかっただろう。猿夜叉丸が嬉しそうだったから、それで良いと思っていたかもしれない。相手が笑っているから問題ないとは限らないし、断らなかったから望んでいるとも限らない。これから俺の立場が大きくなればなるほど、父上の言ったようなことは増えていくのだろう。
まだまだだな。
そう思いながら自分の部屋へ戻った。
その日の夕刻、父上から返事が届いた。阿古の方も平井加賀守も、明日の釣りについて了承したらしい。ただし供を付けること、観音寺城からあまり離れないこと、そして昼を過ぎる頃には戻ること。それが条件だった。
俺に異論はなかった。
窓の外を見ると、山の向こうへ沈みかけた日が空を赤く染めている。明日も晴れそうだ。久しぶりに竿を持つことを考えると、前世で休みの前日に釣り道具を準備していた時の感覚が少しだけ蘇ってきた。
明日は久しぶりの釣りだ。
それも、前世とは違って一人ではない。
そのことを考えると、少しだけ楽しみになった。