淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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第五十九話「不破へ続く道」

 京から観音寺城へ戻って数日が過ぎた頃、坂田郡から届いていた報告も、ようやく一通り整理することが出来た。年貢の取り決めや寺社の所領、市の扱いなど、確認すべきことは少なくなかったが、いずれも後藤但馬守、目賀田次郎左衛門尉、三雲対馬守がそれぞれ仕事を進めている。父上とも相談し、当面は旧来の取り決めを大きく変えず、問題が生じたところから順に対応することになった。坂田九万石を受け取ったとはいえ、土地の主が替わっただけで全てが片付くわけではない。今後も報告を受けながら、必要な判断を重ねていくことになるだろう。

 

 それよりも、今の俺には気に掛かることがあった。坂田の東に位置する美濃、不破郡の情勢である。浅井が滅び、坂田が六角の領地となったことで、美濃との間を行き来する人や荷の動きを以前より詳しく知ることが出来るようになった。京へ向かう前から篠、弥七、宗兵衛へそれぞれ調査を命じていたが、帰国してから新しい報告が届き始めている。

 

 その日も、弥太郎が机の上へ三人からの書付を並べていた。開け放した障子の向こうでは蝉が鳴いており、庭の木々を揺らす風にもまだ夏の暑さが残っている。俺は茶を一口飲んでから、最初に弥七の報告へ目を通した。

 

 坂田から不破へ通じる道は、以前から商人や旅人が使っているものだった。荷馬で通るには支障のない場所が多いものの、荷車を使う場合は道幅や川の水量によって経路を変える必要があるらしい。また、最近になって、それまで使っていた道を避け、多少遠回りになる経路を選ぶ商人がいるという。道が崩れたわけでもなく、通行を妨げるような出来事が確認されたわけでもない。弥七自身、理由までは掴めていなかった。

 

 宗兵衛の報告にも似た話が記されていた。美濃から坂田の市へ来る商人の中に、道中の様子を気にする者が増えているという。ただし、全ての商人が道を変えているわけではなく、以前と変わらず往来している者もいるらしい。荷の種類や取引相手によっても使う道は異なるため、今のところ特別な変化が起きているとは言い切れなかった。

 

 俺は二枚の書付を並べ、不破へ延びる道を地図の上で確かめた。商人が道を変える理由など幾つも考えられる。通行に掛かる銭が変わったのかもしれないし、取引相手の都合で経路を選び直しただけかもしれない。美濃の国人たちの間で何かが起きている可能性もあるが、それを裏付ける報告はまだ届いていなかった。

 

「弥太郎。宗兵衛には、実際に道を通った商人から話を聞けるか確かめてもらおう。ただし、無理に事情を聞き出す必要はない。普段の付き合いの中で分かることだけで十分だ」

 

「承知いたしました。商人も取引の相手まで知られるのは嫌がりましょうから、そのように伝えておきます」

 

 弥太郎は指示を書き留めると、書付を文箱へ収めた。俺も次の報告へ手を伸ばしかけたが、ちょうどその時、篠が戻ったという知らせが届いたため、先に話を聞くことにした。

 

 篠が持参したのは、不破郡の国人たちについてまとめた書付だった。領内の有力な家々の名や所領、縁組による繋がりなどが記されている。ただし、現在の関係については確かなことばかりではないらしい。ある家が一色家と折り合いを悪くしているという噂があっても、実際に対立しているのか、それとも一時的な行き違いなのかまでは分からなかった。

 

 俺は書付に記された竹中氏の名へ目を留めた。前世で知っている竹中半兵衛の名が頭を過ったものの、今の美濃で本人がどのような立場にあるのか、俺はまだ十分に知らない。後に知られる働きを、今も同じように期待出来るとは限らなかった。俺は竹中氏だけを特別扱いすることはせず、他の国人と同じように家中の事情を調べてもらうことにした。

 

「不破の国人たちの間で、大きな争いが起きたという話は聞こえておりません。ただ、以前と付き合いが変わったと申す者はいるようにございます」

 

 篠はそう述べた後、商人たちの動きについても似た噂を聞いたと付け加えた。もっとも、宗兵衛の報告と同じ話が伝わっているだけかもしれない。俺はそれぞれの情報がどこから出たものなのかを確かめるよう命じ、国人たちへこちらから働きかけることは控えさせた。

 

「もし向こうから何か話を持ち掛けられたなら、まずは聞いてきてくれ。誰の意向なのかも分からないうちに、六角として約束する必要はない」

 

 篠は承知したと答え、静かに部屋を辞していった。俺は残された書付を文箱へ収めると、弥太郎へ坂田へ赴く支度を頼んだ。道を変える商人がいるという話は気になるが、机の上で考え続けても、それ以上のことは分からない。まずは実際に道を見て、宗兵衛が普段から付き合っている商人たちの様子を確かめておきたかった。

 

 *

 

 坂田へ向かったのは、それから数日後のことだった。観音寺を発った朝は薄い雲が広がっていたが、北へ進むにつれて空は明るくなり、昼前には馬上でも背中へ汗が滲むようになった。道の両側には色付き始めた稲が広がり、農具を担いだ百姓たちが畦道を行き来している。俺の後ろには弥太郎をはじめ数人の近習が付き、案内役として弥七と宗兵衛も同行していた。

 

 坂田へ入ると、街道の様子は場所によって随分違っていた。荷馬同士がすれ違えるほど広い道もあれば、田の間を抜ける細い道もある。弥七の説明によれば、商人たちは荷の重さや天候によって経路を選んでおり、必ずしも最も近い道を通るわけではないらしい。途中には雨の後にぬかるみやすい場所もあったが、いずれも以前から知られているもので、最近になって急に通れなくなったという話ではなかった。

 

 俺は道の端に残る轍を確かめ、川や水路の位置を地図と照らし合わせながら進んだ。晴れている今なら問題なく通れる場所でも、米俵を積んだ荷車を通すとなれば苦労するところはあるだろう。もっとも、それだけで商人たちが経路を変えた理由を説明出来るわけではない。弥七には引き続き道の状態を確かめてもらうことにし、俺たちは街道沿いの市へ向かった。

 

 昼を少し回った頃に入った市では、道の両側に筵を広げた商人たちが米や塩、干した魚、布などを売っていた。荷を積んだ馬が通り、買い物に来た百姓たちが店先で足を止めている。大きな城下ほどの賑わいではないが、商いが滞っているようには見えなかった。

 

 宗兵衛はその中から顔見知りの商人を見つけ、近頃の道中について話を聞いてくれた。男は最初こそ大きな変わりはないと答えていたが、美濃へ通じる道について尋ねられると、少し返事をためらった。

 

「通れぬわけではございませぬ。ただ、以前より気を使うことが増えましてな。少々遠回りでも、馴染みのある道を選ぶ者はおります」

 

 それ以上の事情について、男は詳しく話そうとしなかった。俺は宗兵衛が問いを重ねようとするのを止め、今の話だけで十分だと伝えた。商人にとって大切なのは無事に荷を運ぶことであり、取引相手や道中の事情を何もかも明かす必要はない。無理に聞き出せば、かえってこちらを警戒するようになるだろう。

 

 男が荷馬を引いて去った後、俺は宗兵衛へ、今後も普段通りの付き合いを続けるよう頼んだ。美濃から来る商人が道を変えているという話には、何か理由があるのかもしれない。しかし、それが国人たちの動きと関係しているのかどうかは、まだ確かめられていなかった。

 

 市を離れる頃には、日が西へ傾き始めていた。俺たちは坂田の東へ延びる街道へ出て、遠くに重なる山々を眺めた。あの向こうへ進めば不破があり、さらにその先には美濃の国人たちが治める土地が広がっている。今はまだ、その内側で何が起きているのかを知るには情報が足りなかった。

 

 俺は弥七と宗兵衛へ、今日確かめられなかったことを引き続き調べるよう伝えた。篠から届く報告とも照らし合わせ、そのうえで改めて父上へ相談すればよいだろう。帰路へ向かうため馬首を巡らせると、街道の先から荷馬を引く一行が近付いてきた。俺たちは道の端へ寄ってその一行を通し、夕日に照らされた坂田の田へ向かって馬を進めた。

 

 坂田から観音寺城へ戻ったのは、それから二日後のことだった。帰路でも幾つかの村や市を通ったが、特に足を止めて調べるようなことはしなかった。弥七からは道の状態について、宗兵衛からは商人たちの往来について、引き続き報告を受けることになっている。俺が現地で確かめたことも、今すぐ何かを決めなければならないほどのものではなかった。ただ、美濃から近江へ入ってくる者たちの中に、以前とは違う道を選ぶ者がいることだけは確かめられた。その理由については、まだ幾つかの可能性が残っている。

 

 城へ戻ると、弥太郎が留守中に届いた書付を整理してくれた。坂田の統治に関わるものは後藤たちへ回されており、急ぎの判断を求める報告もなかった。俺は旅装を解いて一息ついてから、今回の視察で確かめたことを簡単に書き留めた。道の状態、市で聞いた商人の話、宗兵衛へ引き続き調べさせること。それぞれを分けて記していくと、実際に確かめられたことが思っていたより少ないのが分かった。道を変える商人がいるという話は聞けたものの、何を避けているのかについては、結局はっきりしないままだった。

 

 もっとも、今回の目的は美濃の情勢を一度に明らかにすることではない。坂田から不破へ通じる道を確かめ、その道を使う者たちの話を聞くことが出来たのなら、無駄足だったとは思わなかった。俺は書き終えたものを弥太郎へ渡し、明日にでも父上へ報告するつもりだと伝えた。弥太郎は書付を文箱へ収めると、少しばかり安心したような顔をした。

 

「若様。此度は、現地で新たな仕事をお引き受けにならなかったようでございますな」

 

「父上にも言われていたからな。それに、道を見ただけで何を直すかまで決められるわけでもない」

 

「それなら何よりでございます。坂田から戻るたびに新しい御用が増えては、後藤様方もお困りになりましょう」

 

 弥太郎はそう言いながら机の端を片付け始めた。俺としては、必要があれば現地で判断することもあると思っているのだが、今回はその必要がなかっただけだ。もっとも、ここで言い返せば、また何か余計なことを考えていると受け取られそうだったので、黙って茶を飲むことにした。

 

 翌日、父上のもとを訪ねると、ちょうど手元の書状を読み終えたところだった。取り次ぎの者が退出するのを待って座につき、坂田で確かめたことを順に報告する。道の状態については弥七の書付と大きな違いがなかったこと、市についても以前と変わらず商いが行われていたこと、その一方で、美濃から来る商人の中には道を変える者がいることを伝えた。父上は途中で口を挟まず、俺が話し終えるまで静かに聞いておられた。

 

「それで、四郎。そなたは美濃で何か起きておると思うか」

 

 父上に問われ、俺は少し考えてから答えた。商人たちの動きが変わっていることは気になるが、それだけで美濃の国人たちが争っているとは言えない。取引相手が変わったのかもしれないし、道中で徴収される銭や荷の扱いに違いが生じた可能性もある。今の段階では、どれが理由なのかを判断出来るだけの話が集まっていなかった。

 

「何か変わったことはあるのかもしれませぬ。しかし、それが国人たちの動きによるものなのかまでは分かりませぬ。宗兵衛には商人の話を、篠には国人同士の関係を引き続き調べさせておりますので、もう少し様子を見たいと考えております」

 

 父上は頷くと、机の上に置かれた坂田の地図へ視線を向けた。以前なら浅井の領地だった坂田が、今では六角の治める土地として描かれている。父上はその東側を指で示し、美濃の情勢を知っておくこと自体には意味があると認められた。ただし、今の六角が優先すべきことは、新しく得た坂田を落ち着かせることだとも仰った。朽木との関係も安定している以上、こちらから急いで新たな争いへ踏み込む必要はないという。

 

「美濃の内で何か起これば、いずれ坂田にも影響が及ぼう。ゆえに知らずにおるわけにはいかぬ。されど、向こうの者が騒いでおるからと、こちらまで慌てる必要はない。まずは何が起きておるのかを確かめることじゃ」

 

 俺もその考えに異存はなかった。六角が美濃へ関心を持っていることは、公方様との対面でも父上が認めておられる。しかし、関心を持っていることと、実際に兵を進めることは別の話だった。坂田の統治もまだ始まったばかりであり、近江の内側にも確認すべきことは残っている。美濃の国人たちがどのような関係にあるのかを知らないまま、その争いへ関わろうとするのは避けたかった。

 

 父上は俺から篠へ出している指示についても確かめられた。国人たちの所領や縁組を調べること、向こうから話を持ち掛けられた場合には相手の立場を確かめること、六角として勝手な約束をしないこと。そこまで説明すると、父上は特に改めるよう命じることなく、しばらくそのまま続けさせればよいと仰った。

 

 報告を終えて部屋を辞した時には、すでに日が高くなっていた。廊下を歩いていると、庭の向こうから木刀を打ち合わせる音が聞こえてくる。馬場の方へ向かっていた次郎が途中で稽古を始めたのかと思ったが、姿までは見えなかった。俺は足を止めずに自室へ戻り、弥太郎へ篠と宗兵衛から新しい報告が届いたら知らせるよう頼んだ。

 

 それからしばらくの間、不破について目立った動きは伝わってこなかった。宗兵衛からは商人たちの往来について幾つかの報告が届いたものの、道を変える理由は人によって異なり、特定の国人が通行を妨げているといった話も確認出来なかった。篠も国人同士の関係について引き続き調べていたが、噂として聞こえてくる話と、実際に確かめられたことを分けて報告してきている。俺はそれらを読み比べ、判断出来ないものについては無理に結論を出さず、次の報告を待つことにした。

 

 ある日の夕刻、部屋へ戻ると、弥太郎が新しい書付を一通持ってきた。差出人は篠だった。いつものように不破の国人たちについて記されていたが、その末尾には、これまでの報告にはなかった話が添えられている。坂田へ出入りする者の中に、不破の国人と繋がりを持つ人物がいるらしく、近頃の六角の様子を尋ねていたという。ただし、その人物が誰の意向で動いているのかまでは分かっていなかった。

 

 俺はその部分をもう一度読み返した。商人や旅人が六角の動きを気にすること自体は珍しくないだろう。坂田の領主が浅井から六角へ替わった以上、隣国の者たちがこちらの方針を知りたがるのも当然だった。しかし、国人と繋がりのある人物がわざわざ様子を尋ねていたとなれば、少なくとも篠が気に留めるだけの事情はあったらしい。

 

 弥太郎へ筆と紙を用意してもらい、俺は篠への返事を書き始めた。まずはその人物が誰と関わり、何を尋ねていたのかを確かめること。ただし、こちらから接触を求めたり、六角の考えを伝えたりする必要はない。もし相手から改めて話があれば、その内容を聞いて知らせるようにと記した。

 

 書き終えた紙を弥太郎へ渡すと、障子の向こうでは日が傾き、庭の木々が長い影を落としていた。俺は机に広げた不破の地図を畳もうとしたが、篠の報告に記されていた人物のことが気になり、もう一度だけその名へ目を落とした。今のところ相手が何を望んでいるのかは分からない。それでも、美濃について調べているこちらと同じように、向こうにも六角の動きを知ろうとする者がいるらしかった。

 

 俺は書付を文箱へ収め、弥太郎へ返書を届けるよう頼んだ。やがて小姓が廊下を遠ざかっていく足音が聞こえ、部屋には再び静けさが戻った。

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