## 改稿版・坂田の視察から兵の見直しへ
篠への返書を送り出した翌朝、俺は書院に坂田の地図を広げていた。先日、現地を歩いた時に確かめた道や橋の位置を、弥七から届いていた書付と照らし合わせるためである。坂田を南北に通る街道から村や市へ道が分かれ、東へ目を向ければ不破を経て美濃へ続いている。地図に描かれた道筋は出立前と何も変わっていないが、一度その上を馬で進み、荷車の轍や道幅を自分の目で確かめた後では、気になる場所も随分と増えていた。
特に引っ掛かっていたのは、荷を運ぶ際の不便さだった。晴れた日なら荷馬が難なく通れる道でも、雨の後には荷車の車輪が泥へ沈む場所がある。道を広げようにも片側は田、反対側には水路が通っており、簡単に手を加えられるとは限らない。途中で荷車が立ち往生すれば、後ろに続く者たちも足を止めることになる。商人が道を選ぶ際にそうした事情を考えていることは、宗兵衛からも聞いていた。
もっとも、美濃から来る商人の一部が経路を変えている理由については、まだ分かっていない。昨日送った返書でも、篠には新たに聞こえてきた話を確かめるよう命じただけだった。不破の国人たちがどのような考えで動いているのか、今の六角には十分な情報がない。商人が道を変えたというだけで、向こうに争いが起きていると決めつけるわけにもいかなかった。
俺は地図の東側へ目を向けた後、机の脇に置いてあった別の書付を引き寄せた。野良田の戦の後から進めている、六角家中の兵についてまとめたものである。百姓を必要になるたび一斉に集めるだけではなく、命を受ければ速やかに動ける兵を用意する。その考え自体は以前から変わっていないが、坂田で道を見てから、兵の人数や武具とは別のところが気になり始めていた。
兵を揃えることと、必要な場所へ動かせることは同じではない。
武具を持った兵が百人いても、命が届くまでに半日掛かり、そこから各家が人を呼び集め、兵糧を用意し、荷を運ぶ馬を揃えていれば、実際に動き始めるのは翌日になるかもしれない。反対に兵だけを急いで出したとしても、食う物や必要な道具が後から来るのでは、長く動かすことは難しいだろう。これまで俺は、必要な時に何人の兵を集められるかを重視していた。しかし、実際に兵を動かすとなれば、集めるまでの時間だけでなく、そこから先のことも考えなければならない。
坂田へ兵を送る場合なら、なおさらだった。新たに得た領地を守るため、急いで兵を進めなければならない時が来るかもしれない。美濃で何が起きているのか分からない今だからこそ、こちらの兵がどの程度動けるのかは確かめておきたい。ただし、それは美濃へ攻め込むための支度とは別の話である。俺が知りたいのは、六角が現在どのような手順で兵を集め、必要な場所まで動かしているのかということだった。
「また難しい顔をしておりますな」
声に顔を上げると、弥太郎が湯気の立つ茶を運んできたところだった。その後ろでは小姓が昨夜届いた書状を日付ごとに分け、文箱へ収めている。弥太郎は俺の前に茶を置くと、地図と兵の書付を交互に眺め、少し呆れたように口元を緩めた。
「坂田から戻って、まだ幾日も経っておりませぬ。少しはお身体を休められてもよろしいと思いますが」
「この数日は城にいただろう。十分休んでいる」
「その間も、朝から晩まで書付を読んでおられましたが」
「……それは仕事だからな」
「存じております。ですから、休んでおられないと申し上げているのです」
何とも答えにくいことを言われ、俺は茶へ手を伸ばした。弥太郎はそれ以上からかうこともなく、整理を終えた書状を机の端へ置いた。その横顔を見ながら、俺はもう一度地図と兵の書付へ目を向ける。道の状態と兵の動員は、これまで別々に考えていたことだった。しかし、坂田へ実際に兵を動かすとなれば、切り離して考えることは出来ない。
「弥太郎。父上は今日は城におられるな」
「はい。昼過ぎまでは、さほど御予定も詰まっていなかったはずにございます」
「時間を頂けるか聞いてくれ。兵のことで相談したい」
「兵でございますか。美濃のことで何か新しい報せでも?」
「いや、そうじゃない。美濃については篠たちの報告を待つ。今回は六角の兵が、今どの程度動けるのかを確かめたいんだ」
弥太郎は少し考えるように俺を見たが、すぐに承知したと答えて立ち上がった。俺はその間に地図と書付をまとめ、父上へ何を相談するのかを簡単に書き出した。現地の道を見て気になったことは幾つもあるが、最初から全てを話せば、また話が長くなる。まずは実際に兵を動かしてみたいということと、その際に何を確かめるつもりなのかを伝えればよいだろう。
*
「兵を動かしたい?」
父上は俺の話を聞くと、手にしていた書状を脇へ置かれた。昼を少し過ぎた頃で、開け放たれた障子の向こうからは蝉の声が聞こえている。庭木の葉が風に揺れるたび、畳へ落ちる陽の光が細かく形を変えていた。
「はい。ただ、戦をするためではございませぬ。一度、実際に命を出してからどれほどで兵が集まり、そこからどのように動けるのかを見ておきとうございます」
「兵を集めることなら、これまでもしておろう」
「集まった人数を見るだけなら、それで十分かもしれませぬ。ですが、今回は命が届くまでの時間や、兵を出すまでの支度、兵糧と荷駄がどのように動くのかまで確かめたいのです」
父上はすぐには答えず、俺の持参した地図へ目を落とされた。坂田から不破へ延びる道を指先でなぞり、少し考えてから顔を上げる。
「坂田で何かあったか」
「特別なことが起きたわけではございませぬ。ただ、道を見て参りました。晴れていれば荷馬が通れる場所でも、雨の後は荷車が難儀するところがございます。兵だけなら通れても、荷駄まで同じ速さで進めるとは限りませぬ。これまで兵を何人用意出来るかは考えておりましたが、いざという時、本当にその人数を必要な場所まで動かせるのか、まだ確かめておりません」
「なるほどな」
父上は短く答え、今度は俺の顔を見られた。
「では右衛門督、何人集まれば成功じゃ?」
そう問われ、俺は少し考えた。今まで準備してきたものを基準にすれば、ある程度の人数を挙げることは出来る。だが父上が聞いているのは、恐らくそこではないのだろう。
「人数だけでは決められませぬ。多く集まっても兵糧が後から来るのであれば動けませぬし、命が届くまでに時間が掛かれば急な事には間に合いませぬ。今回は、命を出してから実際に一つの軍として動き出せるまでを見たいと考えております」
「ならば、そのために何を見るかを先に決めておけ。兵を集めた後で気になったものを片端から調べ始めれば、そなたのことじゃ、また仕事を十にも二十にも増やすであろう」
坂田へ出る前にも似たようなことを言われた気がした。反論しようとしたものの、父上の視線が先にそれを止める。今回も自分が気になることを全て調べるつもりになっていたのは確かだった。
「……命が届くまでの時間、各家が兵を揃えるまでの時間、武具と兵糧、それに荷駄の支度。後は集合してから道をどの程度の速さで進めるか。まずはそれだけにいたしまする」
「それだけと申すには、少々多い気もするがな。まあよい」
父上はそこで初めて僅かに口元を緩められた。
「ただし、そなたから六人衆へ勝手に兵を出せとは命ずるな。まだ六角の当主は儂じゃ」
「承知しております」
「そこを即答する程度には成長したか」
「以前の俺なら勝手にやっていたような言い方はお止めください」
「やらなかったと申せるか?」
返事に詰まると、父上は小さく笑われた。だが、それ以上からかうことはなく、兵をどう動かすかへ話を戻された。
完全な抜き打ちにする案は、二人で話すうちに取りやめることになった。突然まとまった兵を動かせば、事情を知らない周辺の国人や商人が本当の出陣だと受け取りかねない。坂田を得たばかりで、その東には一色の美濃がある。今のところ不破で大きな争いが起きたという確かな報告はないものの、六角が兵を集めているという話だけが広まれば、向こうが警戒する理由には十分だろう。
一方で、何月何日の何刻にどこへ集まれと前もって知らせてしまえば、各家が十分に準備を整えた状態を見るだけになる。俺が確かめたいのは、普段の状態から命を受け、どれほどの時間で兵が動けるのかということだった。
「近く兵を動かすことだけは知らせる。いつ、どこへ集めるかは直前まで伏せる。それならどうじゃ」
「それがよいと思います。戦支度そのものを隠すわけではなく、命を受けてからの動きを見ることが出来ますので」
「では、そのように伝えよう。周囲へも訓練であることを知らせておく。後藤、蒲生、目賀田、三雲だけではない。今回動かす家には儂から命を出す。右衛門督は見ておれ」
「見ているだけでございますか?」
思わず聞き返すと、父上の眉が僅かに上がった。
「そなたが見たいと申したのであろう。各家がどう兵を動かすか確かめる前に、そなたが横からあれをせよ、これをせよと口を出してどうする。まずは普段のやり方で動かせ。上手くいかぬところがあれば、それを見るためのものじゃ」
言われてみれば当然だった。俺が各家へ細かく指示を出し、その通りに動かせば、分かるのは俺の指示が上手くいったかどうかだけである。六角家中が現在どのように兵を動かしているのかを知るには、まず今のやり方を見せてもらわなければならない。
「分かりました。では、俺は結果を見ることにいたします」
「本当に見ておれるか、そちらも試してみるとしよう」
父上の声には、兵の動きよりも俺が口を出さずにいられるかを面白がっているような響きが混じっていた。
*
兵を動かすという話は、その日のうちに六角家中へ伝えられた。ただし、知らせたのは近く訓練を行うことまでで、日時も集合場所も伏せられた。どこかへ攻め込むための出陣ではないことも併せて伝え、周辺の村や国人たちへも余計な誤解を与えないようにする。
特に坂田については、新たに六角領となったばかりである。美濃へ通じる道の周辺では、兵が動くという話だけでも商人たちが警戒するかもしれない。そこで今回の訓練は観音寺から比較的近い場所で行い、坂田や不破へ実際に軍を進めることは避けることになった。父上も、向こうの様子が分からないうちに、六角から余計な動きを見せる必要はないと仰っていた。
そうして数日が過ぎ、父上が実際に命を発したのは、朝靄がまだ観音寺城の麓に残っている時刻だった。
使者が城門から次々と出ていく。
蹄の音が遠ざかるのを聞きながら、俺は書院に広げた紙へ最初の時刻を書き込んだ。今日見るのは戦の勝ち負けではない。使者が各家へ着き、そこから兵が動き、指定した場所へ集まるまでの流れそのものだ。
俺の周囲では弥太郎を含めた近習や小姓が忙しく動いていた。帰ってきた使者を取り次ぐ者、報告を受け取る者、到着した時刻を記す者。それぞれ役目を分け、誰からどの順番で知らせが来たのか、後から確かめられるようにしてある。
最初の報告が戻ったのは、思っていたより早かった。
「蒲生家、使者到着。直ちに兵を集め始めたとのことにございます」
小姓の声を聞き、俺は時刻を書き留めた。ほどなくして三雲からも報せが入り、少し遅れて後藤、目賀田と続いた。ここまでは大きな差には見えない。だが、兵が動き始めたという次の報告が入り出すと、紙の上に少しずつ違いが現れた。
命を受けてすぐ兵を集め始めた家。先に組頭を呼び、そこからそれぞれへ伝えた家。武具を蔵から出すのに手間取ったところもあれば、兵そのものは早く揃ったものの、荷を運ぶ馬が集まらず出発を待っているところもある。兵を集める命令そのものは同じでも、実際に動き始めるまでの手順は家によって随分と異なっていた。
俺は一つ一つに口を挟みたくなるのを堪えながら、届いた報告を時刻順に並べていった。早く兵を出せた家については、その理由も知りたくなったが、今ここで使者を送り直して尋ねるようなことはしない。後から各家へ確かめればよいだろう。
昼を待たずして、最初の兵が集合地点へ姿を現した。
俺も現地へ移り、少し離れたところから隊列の様子を眺めていた。最初に到着した一隊は、人数だけを見れば申し分なかった。槍を持つ者の列も大きく乱れておらず、先頭に立つ武士の声に従って兵が止まり、後続が道を空けながら脇へ寄っていく。命を受けてからここまで掛かった時間も、手元の書付と照らせば早い方に入っていた。
だが、列の後ろまで目を移したところで、俺は違和感を覚えた。兵の姿は続いているのに、荷を積んだ馬がほとんど見えない。炊事に使う道具も少なく、兵糧を載せているらしい荷も、人数に対して明らかに足りていなかった。
「荷駄はどうした?」
側にいた者へ尋ねると、確認に走った近習がしばらくして戻ってきた。
「兵を急ぎ出したため、荷駄は後から参るとのことにございます。まず兵を集合場所へ送ることを優先した、と」
その説明自体は筋が通っている。命じられた場所へ一刻も早く兵を送れと言われれば、支度に時間の掛かる荷駄を待たず、動ける者から出す判断もあり得る。敵が城へ迫っていて、とにかく一人でも多く先に入れたいのであれば、それが正しい場合もあるだろう。
しかし今回は、ここへ着くことだけが目的ではない。
「このまま坂田まで行けと命じたら、どうなる?」
誰かに答えを求めたわけではなかったが、隣にいた弥太郎が到着した兵の列を見ながら口を開いた。
「今日中に進むだけなら出来ましょうが、その先となれば後ろを待つことになりますな。腹を空かせたまま何日も歩かせるわけにも参りませぬ」
「そうなるな」
到着時刻だけなら、この隊は優秀と書ける。だが、早く着いたという一行だけを父上へ出せば、荷駄が後ろへ残っていることは分からない。俺は時刻の横へ、兵糧と荷駄は後着、と書き加えた。
ほどなく別の家の兵も姿を見せた。こちらは最初の隊より遅かったが、兵の後ろには荷馬が続いている。槍や弓だけでなく、予備の武具らしい荷もまとめられ、到着すると指揮を執る者が兵を休ませる場所と荷を置く場所を分け始めた。最初の隊より人数は少ない。それでも、今から先へ進めと命じられた場合、どちらが早く動き出せるかは簡単には決められなかった。
さらに別の一隊は、兵も荷駄も揃えて来たものの、集合場所へ入る直前で動きが鈍った。先に到着していた兵と後から来た荷馬が同じ道へ入り、そこへ新しい一隊まで重なったためだった。道幅そのものは決して狭くない。普段なら馬も荷車も問題なく行き交える場所だ。それでも数百の人間と馬が短い間に集中すれば、話は変わる。
坂田で見た道が頭へ浮かんだ。晴れた日に荷馬が通れる。それだけでは、大勢の兵が通れる道かどうかは分からない。兵一人が歩けることと、百人、二百人が荷を伴って続けて通れることも違う。
俺は馬へ乗り、詰まり始めた場所へ近付いた。
道の中央では、先に着いた隊の荷馬を脇へ寄せようとする者と、後から来た兵を先へ通そうとする者の声が重なっている。喧嘩になっているわけではないが、互いに自分の隊を先へ進めようとするため、かえって動きが遅くなっていた。道の片側には田が広がり、反対側には細い水路がある。兵だけなら畦へ避けることも出来るだろうが、荷馬まで無理に押し込めば畦を崩しかねない。
「先に荷馬を――」
そこまで口にして、俺は止めた。
今ここで俺が順番を決めれば、詰まりは解消出来るかもしれない。先に荷を脇へ寄せ、兵を抜き、その後に荷を通す。あるいは到着する隊ごとに待たせる場所を変えればよい。目の前の状況だけなら幾つかやり方が浮かぶ。
だが、それを俺がやってしまえば、今回見ようとしていたものが分からなくなる。
「若様?」
弥太郎がこちらを見る。俺は手綱を握ったまま、道の上で声を掛け合っている者たちへ視線を戻した。
「いや。手を出すな。誰がどう収めるかを見る」
しばらくすると、最初に到着していた家の武士が前へ出て、後から来た隊の者と何か話し始めた。互いに何度か道を指し、やがて先にいた兵を少しずつ脇へ寄せ、荷馬の一部を手前で止めることにしたらしい。すぐに整ったわけではなく、道が空くまでには相応の時間が掛かった。その間、後続の兵は立ったまま待たされている。
俺はその時間も記録させた。
兵が集まるまでの時間だけではない。集まった兵同士が一緒になった時、誰が全体を動かすのか。各家の中では命令が通っていても、家が違えば指揮する者も違う。六角の軍として集まった時に必要になるものが、各家の支度だけを見ていては分からなかった。
昼を過ぎる頃には、指定していた兵の大半が集まった。
人数を数えれば、それなりの数になっている。遠くから眺めれば槍が並び、旗が立ち、六角が一声掛ければこれだけの兵を集められるのだと満足してもおかしくない光景だった。
けれど、その中へ入れば違うものが見える。既に飯を炊く支度をしている隊がある一方で、まだ荷駄を待っている隊がいる。予備の武具までまとめて持ってきた家もあれば、兵一人一人が持つもの以外はほとんどない家もある。集合した後の指示を待って整然と休んでいる者たちの隣で、どこへ座らせるか決まらず道端に固まっている兵もいた。
俺は最初に作らせていた到着時刻の一覧を見た。そこへ既に幾つもの書き込みが加わり、余白が少なくなっている。早い、遅いだけでは足りない。何を揃えて出たのか、何を後から送ったのか、集合した後すぐ動けるのか。紙へ記された数字だけでは分からなかったことが、目の前に並んでいた。
「右衛門督」
後ろから父上の声がした。
振り返ると、父上が数人の供を連れてこちらへ来ていた。初めから全てを見るつもりではなかったらしく、兵がある程度集まったところで様子を見に来られたようだ。
「どうじゃ。望んだだけの兵は集まったか」
「人数だけなら、十分かと」
「随分と歯切れが悪いな」
父上はそう言いながら、俺の手にある書付へ目を落とされた。俺が説明する前に、まだ荷駄の到着を待っている一隊と、道の脇へ荷をまとめ終えた一隊を順に眺める。
「なるほど。数は同じ兵でも、中身までは同じではないというところか」
「はい。早く着いた家が、そのまま早く次へ動けるとも限りませぬ。逆に少し遅れても、兵と荷を一緒に揃えて来た家は、到着後の支度が早い。道も、普段なら問題のない場所で詰まりました」
「それで、どう直す?」
問い掛けられ、俺は書付へ目を落とした。頭の中には既に幾つか案が浮かんでいる。荷駄を兵と同時に出すよう決める。集合場所へ入る道を家ごとに分ける。到着順に兵を置く場所を指定する。各家が持つ兵糧の基準を揃える。
「まず荷駄について、各家で――」
「四郎」
父上の呼び方が変わった。
周囲から少し離れて話しているとはいえ、完全に二人きりではない。だが声を落とした父上は、当主として命じるというより、息子へ言い聞かせる時の顔をしていた。
「今日だけ上手く動けばよいのか?」
俺は口を閉じた。
「そなたが一つずつ直し方を決め、それを各家へ渡せば、次は今日より上手く動くかもしれぬ。だが、その次に別のところで詰まったらどうする。またそなたが見に来て、答えを考えるのか」
「それでは、以前と変わりませぬな」
「そういうことじゃ。そなたは見ることを覚えた。人へ任せることも、以前よりは覚えた。ならば最後までやってみよ」
父上はそれだけ言うと、俺の返事を待たずに兵の方へ視線を戻された。
俺も手元の書付を見る。余白に書こうとしていた改善案を、筆先で塗り潰した。
代わりに、荷駄後着、集合地点手前で停滞、家ごとに支度の差、と見た事実だけを残す。
「父上。この後、兵を少し動かしてもよろしいでしょうか」
「どこへじゃ」
「遠くへは参りませぬ。ここへ集まって終わりでは、集まった後に本当に一つの軍として動けるか分かりませぬ。坂田へ向かう道を、途中まで進ませたいと思います」
父上は東の方角へ一度目を向けられた。
「よかろう。ただし、坂田まで行かせる必要はない。今日見たいものが見えたところで戻せ。兵を疲れさせることが目的ではあるまい」
「はい」
命が伝わると、休んでいた兵たちが再び動き始めた。
ここでも差が出た。既に兵と荷をまとめていた隊は立ち上がるのが早く、指揮する者の声が掛かると順に道へ出ていく。対して、荷駄が遅れて到着した隊は、兵と荷を改めてまとめるところから始めなければならない。集合までは最も早かったはずの隊が、出発では後ろへ回った。
俺はその様子を馬上から見届けた後、動き出した隊列の脇を進んだ。
最初のうちは順調だった。だが人と馬が長く連なれば、先頭と最後尾の間は想像以上に開く。前が歩みを速めても後ろが同じように速くなるわけではなく、一度狭い場所を通れば列は伸びる。小さな橋では荷馬が一頭ずつしか通れず、そのたび後ろに人が溜まった。先頭は既に橋の存在すら意識せず進んでいるのに、後方ではまだ渡る順番を待っている。
坂田で道を見た時、俺は雨の後に荷車が通れるかを考えていた。
だが、道が兵を止めるのは泥だけではなかった。
橋一本、曲がり角一つ、村の中を抜ける狭い場所一つ。それぞれは普段なら何でもない。それが大勢を一度に動かした途端、軍全体の速さを決める場所になる。
先頭から予定の場所へ着いたと知らせが来た時、俺は後ろを振り返った。最後尾はまだ見えず、道の曲がりを幾つも越えた先にいるらしい。先頭が着いたからといって、軍全体が着いたことにはならない。先に到着した兵は槍を置き、汗を拭いながら水を飲んでいる。それなのに、後方からはまだ兵が途切れず歩いてきており、さらにその向こうには荷駄が続いているはずだった。
「先頭が着いた時刻ではなく、最後の荷駄が着いた時刻も記しておいてくれ」
近くにいた小姓へ告げると、少年は抱えていた書付へ筆を走らせた。到着した兵の数を確認していた別の近習にも、隊ごとに兵と荷が揃った時刻を分けて残すよう頼む。ここまで来れば、最初に作った一覧では欄が足りない。紙を継ぎ足している姿を見ていると、出発前に見るものを絞れと言った父上の言葉が少し身に染みた。
やがて後続の兵が到着し、その後から荷馬が姿を見せた。額から汗を流している者も多く、兵より荷馬の方が疲れている隊もある。途中の橋で待たされたため、そこで間が開いたらしい。先に到着した指揮役は後ろを待ちながら何度も道の方を見ており、全てが揃ったと知らせを受けた時には、先頭の到着からかなりの時間が経っていた。
「これで全部か?」
「はい。最後の荷駄まで到着しておりまする」
報告を受け、俺は時刻を確認した。命を出してから最初の兵が集合場所へ着くまで、そこから再び動き出すまで、さらに目的地へ先頭が着いてから最後の荷駄が届くまで。それぞれを別に見ると、同じ一日の中でも随分な差があった。
もし最初の到着だけを記録していれば、この軍はもっと早く動いたことになっていただろう。
とはいえ、今日の結果だけで何が正しいと決めることも出来ない。急いで城へ入れる兵が必要な時もあれば、何日も進軍させるために兵糧を揃えなければならない時もある。どちらにも同じ支度を求めれば、かえって使いにくくなるかもしれない。まずは今の六角がどこまで出来るのかを知り、そのうえで何を改めるか考えるべきなのだろう。
「若様、戻しますか?」
弥太郎が馬を寄せてきた。
空を見ると、日はまだ十分に高い。もう少し先まで進ませることも出来るだろう。だが、父上から言われた言葉を思い出した。兵を疲れさせることが目的ではない。今日見たかったものは、既に目の前へ出ている。
「ああ。ここまででいい。帰りも同じように時刻を取れ。ただし、速さを競わせるな。今度は各隊に、自分たちがどこで待たされたかを覚えておくよう伝えてくれ」
「帰ってから聞くのでございますか?」
「俺が見えていない場所もあるからな。先頭にいた者には、後ろが橋で止まっていたことなど分からないだろう。逆も同じだ」
弥太郎は頷くと、近習の一人へ伝言を任せた。やがて帰還の命が伝わり、休んでいた兵たちが再び立ち上がる。
今度は来る時ほど慌ただしくはなかった。各隊も一度詰まった場所を覚えていたのか、橋の手前で間を取る者や、荷馬を先にまとめる者がいる。誰かが細かく命じたわけではない。それぞれが先ほどの経験を踏まえて、動きを変えているようだった。
俺はそれを見ても口を出さなかった。
*
観音寺へ戻った頃には、日は山の端へ近付いていた。城へ入る兵の声が遠くから聞こえ、馬場では戻ってきた者たちが馬を引き渡している。汗と土の匂いに混じって、夕餉の支度を始めた煙が漂っていた。俺もすぐ書院へ戻るつもりだったが、廊下へ上がったところで向こうから次郎が歩いてきた。
稽古帰りらしく、側には同じ年頃の若者が二人付き、本人は肩に木刀を担いでいる。俺の泥の付いた袴を見るなり、次郎は足を止めた。
「兄上も兵と一緒に走ってきたのですか?」
「俺は馬だ」
「ならば随分楽をしておられる」
「今度お前だけ走らせてやろうか」
「それなら兵より先に着いてみせます」
何を競っているのか分からない。次郎は本気なのか冗談なのか判別しにくい顔で笑い、そのまま馬場の方へ歩いていった。後ろの若者たちが俺へ頭を下げてから慌てて追っていく。その姿を見送り、少しだけ肩の力が抜けた。
書院へ戻ると、昼間使っていた紙が既に運び込まれていた。弥太郎たちが受け取った報告も加わり、机の上には朝より遥かに多くの書付が並んでいる。命が届いた時刻、兵が動き始めた時刻、集合した時刻。荷駄が遅れた家、武具を出すのに手間取った家、途中で道が詰まった場所。帰路で各隊から聞き取った話も、簡単にまとめられていた。
俺は座ると、まず家ごとに紙を並べた。自然と手が筆へ伸びる。荷駄が遅れた家には、兵糧と馬を先に用意しておくよう決めればいい。武具の支度に時間が掛かった家は、置き場所や管理の仕方を変える。橋で詰まったのなら、通る順番をあらかじめ決めておけばよい。頭の中では次々と直し方が浮かんでくる。
だが、筆先が紙へ触れる寸前で止まった。
昼間、父上に言われたことがそのまま頭へ戻ってきた。
今日だけ上手く動けばよいのか。
俺が一つずつ答えを書けば、少なくとも次の訓練では今日より整うだろう。しかし、それでは各家は俺が決めたやり方を守るだけになる。そもそも荷駄が遅れた理由も、まだ馬が揃わなかったというところまでしか聞いていない。馬そのものが足りなかったのか、集める者への命が遅かったのか、兵を先に出すことを優先した結果なのか。それを知らずに兵と荷駄は同時に出せと決めれば、別の無理が出るかもしれない。
俺は筆を置き、家ごとの紙をもう一度分け直した。
今度は答えではなく、確認したいことだけを短く書き添える。なぜ荷駄が遅れたのか。なぜ武具の支度に時間が掛かったのか。集合後、他家と一緒に動く際に誰の命を待ったのか。道で詰まった時、現場では何が原因だと見たのか。
「弥太郎」
「はい」
「明日、今日兵を出した家から、それぞれ話を聞けるようにしてくれ。ただし、俺が一人ずつ呼びつける形にはしない。父上へお願いして、今日の結果を確かめる場を設けていただく」
弥太郎は机の上を見てから、俺の手元へ目を移した。
「直し方を書かれないので?」
「書きたくて仕方がない」
「でしょうな」
「そこは否定しろ」
「無理にございます」
即答され、俺は睨んだが、弥太郎は涼しい顔で紙をまとめ始めた。
*
翌日の昼、父上の前には昨日兵を出した家々から主だった者が集まっていた。後藤但馬守、蒲生下野守、目賀田摂津守、三雲対馬守らも座を占め、それぞれの家から上がった報告が並べられている。昨日実際に兵を動かしていた者たちも家中で事情をまとめ、その内容が当主たちへ届いていた。
父上は細かな結果を俺に説明させることはしなかった。
「昨日、兵を動かして見えたことが幾つかある。右衛門督」
公の席で官位を呼ばれ、俺は頭を下げてから口を開いた。
「はい。まず申し上げておきたいのは、早かった家と遅かった家を並べて優劣を決めるつもりはございませぬ。早く兵を出したため荷駄が後れたところもあれば、支度を揃えたため出立が遅くなったところもございました。昨日見えたものだけで、どちらが良いとは決められませぬ」
座にいる者たちの視線がこちらへ集まる。俺は机の上に置いた紙へ一度目を落としたが、細かな時刻を読み上げることはしなかった。
「各家には、自分たちの兵がどこで止まり、何に時間を使ったのかを改めて見てもらいたく存じます。こちらから一つのやり方を押し付ける前に、まず家ごとに直せるところを出していただきたい。それとは別に、家を跨いだ時に起きたこと、集合場所へ入る道の混雑や、複数の隊が一緒になった後の指図については、六角全体の問題として考える必要がございます」
後藤但馬守が顎へ手を当て、少し考えてから口を開いた。
「兵を出すまでのことは、各家で確かめられましょう。ただ、集まった後となれば、確かに一つの家だけでは直せませぬな。昨日も、某の兵が悪い、誰それの荷駄が悪いと分ければ済む話ではございますまい」
蒲生下野守も頷いた。
「出立を急げば荷が遅れ、荷を待てば兵が遅れる。どこまでを最初から揃えるべきかは、どこまで兵を動かすつもりなのかでも変わりましょう。城一つへ駆け付けるのと、数日進むのでは支度も同じには出来ませぬ」
その言葉に、俺は昨日感じていた引っ掛かりの理由を一つ拾えた。全ての兵を常に同じ支度で動かそうとすれば、急ぐ時には重くなり、長く動く時には足りなくなる。だからといって今ここで二種類、三種類と形を決め始めれば、また俺が細部まで作ることになる。
「その点も含めて、一度それぞれの家で考えていただきたいと思います。昨日と同じ命を受けた時、次なら何を変えるか。それを持ち寄った上で、六角として揃える必要があるところだけを決めたい」
三雲対馬守が俺を見た。いつものように表情の変化は小さい。
「右衛門督様が全てお決めになるのではございませぬか?」
「そうした方が俺は楽しいのですが、父上から止められました」
一瞬、座が静かになり、父上が横から低い声を挟まれた。
「止めて正解であったと思っておる」
今度は何人かが俯いた。口元を隠している者までいる。
俺は少しだけ息を吐き、話を戻した。
「昨日一度で形を決めるつもりはございませぬ。ただ、次に兵を動かす時、昨日と同じところで同じように止まるのだけは避けたい。そのために何を変えるかは、実際に兵を持つ皆にも考えていただきたいと思いまする」
父上はそれ以上付け加えられなかった。各家で昨日の動きを洗い直し、必要なものを後日持ち寄ることだけを決め、その日の話は終わった。
座を立つ者たちがそれぞれ書付を持ち帰っていく。俺の前に積まれていた紙も少しずつ減り、最後には一束だけが残った。昨日の時刻を並べた最初の記録だった。
命が出た時刻、使者が着いた時刻、兵が動いた時刻、集合した時刻。再び出発した時刻、先頭が着いた時刻。そして、そのずっと後に書き加えた、最後の荷駄が着いた時刻。
以前なら、その横へ次のやり方まで書き込んでいただろう。だが、今は各家から何が出てくるのかを待つことにした。後藤や蒲生、目賀田、三雲たちがそれぞれの家中で昨日の動きを確かめれば、俺が気付かなかったことも出てくるかもしれない。
俺は筆を取らず、その紙を二つに折った。
次に兵を動かす時、俺が道の脇に立って一つ一つ指図しなくても、昨日より滑らかに列が進むかどうか。今はそれを確かめてみたかった。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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