淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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2026/10/22 文章整理


第六十話「六角の兵を動かす」

 篠への返書を送り出した翌朝、俺は書院に坂田の地図を広げていた。先日、現地を巡った際に確かめた道や橋の位置を、弥七から届いていた書付と照らし合わせるためだ。

 

 坂田を南北に通る街道からは村や市へ向かう道が幾つも分かれ、東へ目を向ければ不破を経て美濃へ続いている。描かれた道筋は出立前と何も変わっていないが、一度その上を馬で進み、荷車の轍や道幅、川や水路の位置を自分の目で確かめた後では、以前なら気にも留めなかった場所が随分と目に付くようになっていた。

 

 特に引っ掛かっていたのは、荷を運ぶ際の不便さだった。晴れた日なら荷馬が難なく通れる道でも、雨の後には荷車の車輪が泥へ沈む場所がある。道を広げようにも、片側には田が広がり、反対側には水路が通っているため、簡単に手を加えられるとは限らない。途中で荷車が立ち往生すれば後続も足を止めることになるし、無理に田へ乗り入れれば、今度は土地を耕す者たちとの揉め事になりかねなかった。

 

 商人が荷の重さや天候によって道を選んでいることは、宗兵衛からも聞いていた。だが実際にその場所へ立ってみると、地図の上で最も近い道が必ずしも使いやすいとは限らない理由がよく分かる。

 

 もっとも、美濃から来る商人の一部が経路を変えている理由については、まだ分かっていない。昨日送った返書でも、篠には新たに聞こえてきた話を確かめるよう命じただけだった。不破の国人たちが何を考えているのか、今の六角には十分な情報がない。商人が遠回りしているからといって、それだけで向こうに争いが起きていると決め付けるわけにもいかなかった。

 

 俺は地図の東側へ向けていた視線を戻し、机の脇に置いてあった別の書付を引き寄せた。野良田の戦の後から進めている、六角家中の兵についてまとめたものである。

 

 必要になるたび百姓を集める従来のやり方だけに頼らず、命を受ければ速やかに動ける兵を普段から抱える。その考え自体は以前から変わっていないが、坂田で道を見てからは、兵の人数や武具とは別のところが気になり始めていた。

 

 兵を揃えることと、必要な場所へ動かせることは同じではない。

 

 例えば武具を持った兵が百人いたとしても、命が届くまでに半日掛かり、そこから各家が人を呼び集め、兵糧を用意し、荷を運ぶ馬を揃えていれば、実際に動き始めるのは翌日になるかもしれない。反対に兵だけを急いで出したとしても、食う物や必要な道具が後から来るのでは、長く動かし続けることは難しいだろう。

 

 これまで俺は、六角が必要に応じて何人の兵を集められるのかを重視してきた。朽木が普段から兵を抱えていると聞いた時にも、まず考えたのは動員に掛かる時間だった。しかし、兵を集めて出立させれば、それで仕事が終わるわけではない。

 

 坂田まで兵を進めるのであれば、途中で米を食わせ、馬を休ませ、道の狭いところでは隊列を整えなければならない。先頭の兵が目的地へ着いたとしても、後ろの荷駄が何処かで止まっていれば、軍全体が到着したことにはならないだろう。

 

 坂田を新しく得た今だからこそ、そうしたことを確かめておく必要があるように思えた。美濃で何が起きているのか分からない以上、急いで坂田へ兵を向かわせなければならない時が来るかもしれない。無論、今すぐ美濃へ攻め込むつもりはなく、そのために軍勢を集めようという話でもない。知りたいのは、六角が現在どのような手順で兵を集め、どれほどの時間を掛けて必要な場所まで動かしているのかということだった。

 

「また難しい顔をしておりますな」

 

 声に顔を上げると、弥太郎が湯気の立つ茶を運んできたところだった。その後ろでは小姓が昨夜届いた書状を日付ごとに分け、文箱へ収めている。弥太郎は俺の前へ茶を置くと、広げられた坂田の地図と兵についての書付を交互に眺め、少し呆れたように口元を緩めた。

 

「坂田から戻られて、まだ幾日も経っておりませぬ。少しはお身体を休められてもよろしいと思いますが」

 

「この数日は城にいただろう。十分休んでいる」

 

「その間も、朝から晩まで書付を読んでおられましたが」

 

「……それは仕事だからな」

 

「存じております。ですから、休んでおられないと申し上げているのです」

 

 何とも答えにくいことを言われ、俺は茶へ手を伸ばした。

 

 確かに坂田から戻ってからも、朝から帳面を広げていることは多かった。ただ、以前のように何もかも自分で調べようとしているわけではない。坂田の統治については後藤但馬守たちが仕事を進めているし、美濃の調べも篠らへ任せてある。今考えているのは、それらとは別の問題なのだが、弥太郎にしてみれば、結局は新しい仕事を見付けているようにしか見えないのだろう。

 

 弥太郎はそれ以上からかうことなく、整理を終えた書状を机の端へ置いた。俺はもう一度、地図と兵の書付へ目を向けた。

 

 道の状態と兵の動員は、これまで別々に考えていたことだった。しかし坂田へ実際に兵を動かすとなれば、切り離して考えることはできない。六角が兵を集められることは分かっている。だが、集めた後の動きについては、まだ十分に確かめたことがなかった。

 

「弥太郎。父上は今日、城におられるな」

 

「はい。昼過ぎまでは、さほど御予定も詰まっていなかったはずにございます」

 

「時間を頂けるか聞いてくれ。兵のことで相談したい」

 

「兵でございますか。美濃について、何か新しい報せでも?」

 

「いや、美濃については篠たちの報告を待つ。今回は六角の兵が、今どの程度動けるのかを確かめたいのだ」

 

 弥太郎は少し考えるように俺を見たが、すぐに承知したと答えて立ち上がった。

 

 俺はその間に地図と書付をまとめ、父上へ相談する内容を簡単に書き出した。現地で道を見て気になったことは幾つもあるが、最初から全てを話せば、また説明が長くなる。まずは実際に兵を動かしてみたいということと、その際に何を確かめるつもりなのかを伝えればよい。

 

 何のために何をするのか。そこを整理してから父上のもとへ向かうことにした。

 

 *

 

「兵を動かしたい?」

 

 父上は俺の話を聞くと、手にしていた書状を脇へ置かれた。

 

 昼を少し過ぎた頃で、開け放たれた障子の向こうからは蝉の声が聞こえている。庭木の葉が風に揺れるたび、畳へ落ちる陽の光が細かく形を変えていた。

 

「はい。ただ、戦をするためではございませぬ。一度、実際に命を出してからどれほどで兵が集まり、そこからどのように動けるのかを見ておきとうございます」

 

「兵を集めることなら、これまでもしておろう」

 

「集まった人数を見るだけなら、それで十分かもしれませぬ。ですが、今回は命が届くまでの時間や、兵を出すまでの支度、兵糧と荷駄がどのように動くのかまで確かめたいのです」

 

 父上はすぐには答えず、俺が持参した地図へ目を落とされた。坂田から不破へ延びる道を指先でなぞり、その先にある美濃の方角へ視線を向ける。

 

「坂田で何かあったか」

 

「特別なことが起きたわけではございませぬ。ただ、道を見て参りました。晴れていれば荷馬が通れる場所でも、雨の後には荷車が難儀するところがございます。兵だけなら通れても、荷駄まで同じ速さで進めるとは限りませぬ。これまで兵を何人用意できるかは考えておりましたが、いざという時、本当にその人数を必要な場所まで動かせるのか、まだ確かめておりません」

 

「なるほどな」

 

 父上は短く答え、今度は俺の顔を見られた。

 

「では右衛門督、何人集まれば成功じゃ?」

 

 そう問われ、俺は少し考えた。

 

 これまで準備してきたものを基準にすれば、ある程度の人数を挙げることはできる。しかし、今回確かめたいのは兵の数ではない。命を受けた後にどのような手順を踏み、実際に動けるようになるまでどれほど掛かるのかということだった。

 

「人数だけでは決められませぬ。多く集まっても兵糧が後から来るのであれば、そのまま進ませることは難しゅうございますし、命が届くまでに時間が掛かれば、急な事には間に合いませぬ。今回は命を出してから、実際に一つの軍として動き出せるまでを見たいと考えております」

 

「ならば、そのために何を見るかを先に決めておけ。兵を集めた後で気になったものを片端から調べ始めれば、そなたのことじゃ、また仕事を十にも二十にも増やすであろう」

 

 反論しかけたが、父上の視線を受けて口を閉じた。

 

 坂田へ出る前にも、似たようなことを言われた覚えがある。確かに道の状態を調べたいと言い出してから、荷の支度や途中で休ませる場所など、次々と確かめたいものが増えていた。どれも必要なことではあるが、一度の訓練で何もかも明らかにしようとすれば、終わりの見えない仕事になってしまう。

 

「……命が届くまでの時間、各家が兵を揃えるまでの時間、武具と兵糧、それに荷駄の支度。あとは集合してから道をどの程度の速さで進めるか。まずはそれだけにいたしまする」

 

「それだけと申すには、少々多い気もするがな。まあよい」

 

 父上はそこで初めて僅かに口元を緩められたが、続く言葉には当主としての明確な線引きがあった。

 

「ただし、そなたから六人衆へ勝手に兵を出せとは命ずるな。まだ六角の当主は儂じゃ」

 

「承知しております」

 

「そこを即答する程度には成長したか」

 

「以前から勝手に兵を動かしていたかのような言い方は、お止めください」

 

「やらなかったと申せるか?」

 

 返事に詰まると、父上は小さく笑われた。

 

 以前の俺なら、兵を動かしてみたいと思った時点で、先に家臣たちへ話を持ち掛けていたかもしれない。六人衆へ直接命じるような真似はしなかったとしても、ある程度話を進めてから父上へ相談することくらいは考えられた。

 

 だが、今回は六角家中の兵を動かす話である。俺自身が兵の仕組みを考えているからといって、当主を通さず各家へ命令を出してよいわけではない。それくらいは分かっていた。

 

 父上もそれ以上からかうことなく、実際に兵を動かす方法へ話を戻された。

 

 最初に考えたのは、日時を知らせずに兵を集めるやり方だった。普段の状態から命を受けた時、各家がどれほど早く動けるのかを確かめるなら、抜き打ちにした方が実際の動きに近いものを見られるかもしれない。

 

 しかし、父上と話すうちに、完全な抜き打ちは避けることになった。

 

 突然まとまった兵を動かせば、事情を知らない周辺の国人や商人が、本当の出陣だと受け取りかねない。坂田を得たばかりで、その東には一色家の治める美濃がある。今のところ不破で大きな争いが起きたという確かな報告はないものの、六角が兵を集めているという話だけが広まれば、向こうが警戒する理由には十分だろう。

 

 京で公方様から、力を持つ家は何もせずとも疑われると仰られたことも、まだ記憶に新しかった。

 

 一方、何月何日の何刻に何処へ集まれと前もって知らせてしまえば、各家が十分に準備を整えた状態を見るだけになる。それでは普段の支度にどれほど時間が掛かるのかを確かめられない。

 

 俺が知りたいのは、あらかじめ全てを揃えておいた時の速さではなく、命を受けてから実際に兵を動かすまでの手順だった。

 

「近く兵を動かすことだけは知らせる。いつ、何処へ集めるかは直前まで伏せる。それならどうじゃ」

 

「それがよいと思います。訓練であることを隠すわけではなく、命を受けてからの動きを見ることができますので」

 

「では、そのように伝えよう。周囲へも訓練であることを知らせておく。後藤、蒲生、目賀田、三雲だけではない。今回動かす家には儂から命を出す。右衛門督は見ておれ」

 

「見ているだけでございますか?」

 

 思わず聞き返すと、父上の眉が僅かに上がった。

 

「そなたが見たいと申したのであろう。各家がどう兵を動かすか確かめる前に、そなたが横からあれをせよ、これをせよと口を出してどうする。まずは普段のやり方で動かせ。上手くいかぬところがあれば、それを見るためのものじゃ」

 

 言われてみれば当然だった。

 

 俺が各家へ細かく指図を出し、その通りに動かせば、分かるのは俺が考えたやり方でどれほど動けるかということだけである。六角家中が現在どのように兵を集め、何を揃えて出陣するのかを知るには、まず今までのやり方をそのまま見せてもらわなければならない。

 

 そこで不便なところが見付かれば、後から何故そうなったのかを確かめればよいのだ。

 

「分かりました。では、まずは結果を見ることにいたします」

 

「本当に見ておれるか、そちらも試してみるとしよう」

 

 父上の声には、兵の動きよりも、俺が途中で口を出さずにいられるかを面白がっているような響きが混じっていた。まったく信用されていないらしい。

 

 俺はそれ以上反論せず、訓練に使う場所や周辺への知らせについて必要なことを確かめてから、父上の部屋を辞した。

 

 *

 

 兵を動かすという話は、その日のうちに六角家中へ伝えられた。

 

 ただし、知らせたのは近く訓練を行うということまでで、日時も集合場所も伏せられている。何処かへ攻め込むための出陣ではないことも併せて伝え、周辺の村や国人たちへ余計な誤解を与えないようにした。

 

 特に坂田については、新たに六角領となったばかりである。美濃へ通じる道の周辺では、兵が動くという話だけでも商人たちが警戒するかもしれない。訓練のためとはいえ、そこへまとまった軍勢を向かわせれば、何かが始まると受け取られても不思議ではなかった。

 

 そこで今回の訓練は観音寺から比較的近い場所で行い、坂田や不破へ実際に軍を進めることは避けることになった。父上も、向こうの様子が分からないうちに、六角から余計な動きを見せる必要はないと仰っていた。

 

 各家へは訓練が近いことを知らせてあるため、普段より支度を意識する者もいるだろう。それでも、いつ何処へ集まるのか分からなければ、兵を揃えたまま何日も待たせておくわけにはいかない。各家がどのような備えをしているのかも含めて、今の六角の動きを見ることができるはずだった。

 

 そうして数日が過ぎ、父上が実際に命を発したのは、朝靄がまだ観音寺城の麓に残っている時刻だった。

 

 使者が城門から次々と出ていく。馬へ跨った者たちはそれぞれの家へ向かって道を分かれ、蹄の音が朝の空気の中へ遠ざかっていった。

 

 俺は書院に広げた紙へ、父上が命を出された時刻と使者が城を出た時刻を書き込んだ。今日見るのは戦の勝ち負けではない。使者が各家へ着き、そこから兵が動き、指定された場所へ集まるまでの流れそのものだった。

 

 周囲では弥太郎を含めた近習や小姓が忙しく動いている。帰ってきた使者を取り次ぐ者、各家からの報告を受け取る者、知らせが届いた時刻を書き留める者。それぞれ役目を分け、誰からどの順番で報告が来たのか、後から確かめられるようにしてあった。

 

 途中で伝えられた内容が食い違わないよう、書付には報告した者の名も添えさせた。兵が実際に動いている場所はここから見えないため、今は届く知らせを繋いでいくしかない。

 

 最初の報告が戻ったのは、思っていたより早かった。

 

「蒲生家、使者到着。直ちに兵を集め始めたとのことにございます」

 

 小姓の声を聞き、俺は時刻を書き留めた。ほどなくして三雲からも報せが入り、少し遅れて後藤、目賀田と続く。

 

 使者の向かった距離も違う以上、到着の早い遅いだけで優劣は決められないが、今のところ大きな混乱はないらしい。各家が命を受け、兵を集め始めたことを確認しながら、俺は次の報告を待った。

 

 ところが、実際に兵が動き始めたという知らせが入り出すと、紙の上へ少しずつ違いが現れた。

 

 命を受けるとすぐに兵を集め始めた家もあれば、先に組頭を呼び、そこからそれぞれの者へ伝えた家もある。武具を蔵から出すのに手間取ったところもあれば、兵そのものは早く揃ったものの、荷を運ぶ馬が集まらず出立を待っているところもあった。

 

 兵を集めよという命令は同じでも、実際に軍勢が動き始めるまでの手順は家によって随分と異なっている。

 

 報告を聞いているうちに、何故その順番にしているのか詳しく確かめたくなるところもあった。兵を先に集める方が早いのか、それとも組頭へ命を伝えてから動かした方が混乱が少ないのか。武具を出すのに手間取る理由も、蔵の場所なのか管理の仕方なのか、実際に話を聞かなければ分からない。

 

 だが、今ここで使者を送り直して細かな事情を尋ねれば、かえって各家の動きを妨げることになる。俺は気になるところへ印を付けるだけに留め、届いた報告を時刻順に並べていった。

 

 昼を待たずして、最初の兵が集合地点へ姿を現した。

 

 俺も現地へ移り、少し離れたところから隊列の様子を眺めていた。

 

 最初に到着した一隊は、人数だけを見れば申し分なかった。槍を持つ者たちの列も大きく乱れておらず、先頭に立つ武士の声に従って兵が止まり、後続は道を空けながら脇へ寄っていく。命を受けてからここまで掛かった時間も、手元の書付と照らせば早い方に入っていた。

 

 だが、列の後ろまで目を向けたところで違和感を覚えた。

 

 兵の姿は続いているのに、荷を積んだ馬がほとんど見えない。炊事に使う道具も少なく、兵糧を載せているらしい荷も、人数に対して明らかに足りていなかった。

 

 兵だけを先に送り、荷は後から運ぶつもりなのだろうか。

 

「荷駄はどうした?」

 

 側にいた近習へ尋ねると、その者は先頭の武士へ確認に走った。

 

 しばらくして戻ってきた近習によれば、到着を急いだため荷駄は後から来るという。まず兵を指定された場所へ送ることを優先したらしい。

 

 その判断自体は筋が通っていた。

 

 命じられた場所へ一刻も早く兵を送れと言われれば、支度に時間の掛かる荷駄を待たず、動ける者から出すという考えもある。敵が城へ迫っており、とにかく先に兵を入れたいのであれば、それが正しい場合もあるだろう。

 

 しかし今回は、ここへ着くことだけが目的ではなかった。

 

「このまま坂田まで行けと命じたら、どうなる?」

 

 誰かに答えを求めたわけではなかったが、隣にいた弥太郎が到着した兵の列を眺めながら口を開いた。

 

「今日中に進むだけならできましょうが、その先となれば後ろを待つことになりますな。腹を空かせたまま、何日も歩かせるわけにも参りませぬ」

 

「そうなるな」

 

 到着時刻だけなら、この隊は優秀と書ける。兵を揃える速さにも、ここまでの道を進む間にも、目立った問題はなかったように見える。

 

 だが、早く着いたという一行だけを父上へ報告すれば、荷駄が後ろへ残っていることは分からない。兵を先に送るべき場合もある以上、それだけで失敗とするつもりはないが、今すぐ次の命を受けた時に何処まで動けるのかは、別に考える必要があった。

 

 俺は到着時刻の横へ、兵糧と荷駄は後着と書き加えた。

 

 ほどなく別の家の兵も姿を見せた。こちらは最初の隊より遅かったが、兵の後ろには荷馬が続いている。槍や弓だけでなく、予備の武具らしい荷もまとめられ、到着すると指揮を執る者が兵を休ませる場所と荷を置く場所を分け始めた。

 

 最初の隊より人数は少ない。それでも、今から先へ進めと命じられた場合、どちらが早く動き出せるかは簡単には決められなかった。

 

 さらに別の一隊は、兵も荷駄も揃えて来たものの、集合場所へ入る直前で動きが鈍った。

 

 先に到着していた兵と後から来た荷馬が同じ道へ入り、そこへ新しい一隊まで重なったためだった。道幅そのものは決して狭くない。普段なら馬も荷車も問題なく行き交える場所だ。それでも数百の人間と馬が短い間に集中すれば、話は変わる。

 

 先へ進もうとする兵の列と、荷を置く場所を探している者たちが同じ道へ集まり、後続が次第に詰まり始めていた。

 

 坂田で見た道が頭へ浮かんだ。

 

 晴れた日に荷馬が通れるというだけでは、大勢の兵が通れる道かどうかは分からない。兵が一人ずつ歩けることと、百人、二百人が荷を伴って続けて通れることも違う。まして複数の家の軍勢が同じ場所へ集まれば、それぞれの指揮役が自分の兵を動かそうとするため、互いの動きが邪魔になることもあるのだろう。

 

 俺は馬へ乗り、詰まり始めた場所へ近付いた。

 

 道の中央では、先に着いた隊の荷馬を脇へ寄せようとする者と、後から来た兵を先へ通そうとする者の声が重なっていた。

 

 喧嘩になっているわけではない。互いに必要なことを命じているだけなのだが、それぞれが自分の隊を先へ進めようとするため、かえって動きが遅くなっている。

 

 道の片側には田が広がり、反対側には細い水路が通っていた。兵だけなら畦へ避けることもできるだろうが、荷馬まで無理に押し込めば畦を崩しかねない。

 

「先に荷馬を──」

 

 そこまで口にして、俺は止めた。

 

 今ここで順番を決めれば、詰まりは解消できるかもしれない。先に荷を脇へ寄せて兵を通し、その後に荷馬を動かす。あるいは到着する隊ごとに待たせる場所を変えればよい。目の前の状況だけなら、幾つかやり方が浮かんでいた。

 

 だが、それを俺がやってしまえば、今回見ようとしていたものが分からなくなる。

 

 そもそも各家の兵を集めた時、誰が全体を見て、どう動かすのかを知るための訓練だ。俺が横から指図を出せば、今の六角がどのように軍勢を扱っているのかではなく、俺の考えたやり方で動かした結果を見ることになる。

 

 父上からも、普段のやり方を見ておけと言われたばかりだった。

 

「若様?」

 

 弥太郎がこちらを見る。俺は手綱を握ったまま、道の上で声を掛け合っている者たちへ視線を戻した。

 

「いや、手を出すな。誰がどう収めるかを見る」

 

 弥太郎は承知したと頷き、側の近習にも今は指図を出さないよう伝えた。

 

 しばらくすると、最初に到着していた家の武士が前へ出て、後から来た隊の者と何か話し始めた。互いに何度か道を指し、兵と荷馬をどちらへ動かすか確かめている。

 

 やがて先にいた兵を少しずつ脇へ寄せ、荷馬の一部を手前で止めることにしたらしい。すぐに整ったわけではなく、道が空くまでには相応の時間が掛かった。その間、後続の兵は立ったまま待たされ、先へ進めるのかどうか分からず、指揮役の方を何度も見ている者もいた。

 

 俺はその時間も記録させた。

 

 兵が集まるまでの速さだけではない。集まった兵同士が一緒になった時、誰が全体を動かすのか。各家の中では命令が通っていても、家が違えば指揮する者も異なる。それぞれが自分の役目を果たそうとしているからといって、全体が上手く動くとは限らない。

 

 六角の軍勢として一つの場所へ集まった時に必要となるものが、各家の支度だけを見ていては分からなかった。

 

 昼を過ぎる頃には、指定していた兵の大半が集まった。

 

 人数を数えれば、それなりの数になっている。遠くから眺めれば槍が並び、旗が立ち、六角が一声掛ければこれだけの兵を集められるのだと満足してもおかしくない光景だった。

 

 けれど、その中へ入れば違うものが見えた。

 

 すでに飯を炊く支度をしている隊がある一方で、まだ荷駄を待っている隊がいる。予備の武具までまとめて持ってきた家もあれば、兵一人一人が持つもの以外はほとんどない家もあった。

 

 集合した後の指図を待って整然と休んでいる者たちの隣で、何処へ座らせるか決まらず、道端に固まっている兵もいる。兵を率いる武士たちも、それぞれ自分の家の者へは指図を出していたが、他家の兵と場所を分けることまでは、十分に考えていなかったようだった。

 

 俺は最初に作らせた到着時刻の一覧を見た。そこにはすでに幾つもの書き込みが加わり、余白が少なくなっている。

 

 早い、遅いという違いだけでは足りない。何を揃えて出たのか、何を後から送ったのか、集合した後すぐ動けるのか。紙へ記された時刻だけでは分からなかったことが、目の前の兵たちの様子から少しずつ見えてきていた。

 

「右衛門督」

 

 後ろから父上の声がした。

 

 振り返ると、父上が数人の供を連れてこちらへ来ていた。初めから全てを見るつもりではなかったらしく、兵がある程度集まったところで様子を見に来られたようだ。

 

 俺が馬から下りて挨拶すると、父上は並んだ兵たちへ一度目を向け、それからこちらへ顔を向けられた。

 

「どうじゃ。望んだだけの兵は集まったか」

 

「人数だけなら、十分かと」

 

「随分と歯切れが悪いな」

 

 父上はそう言いながら、俺の手にある書付へ目を落とされた。説明するより先に、まだ荷駄の到着を待っている一隊と、道の脇へ荷をまとめ終えた一隊を順に眺める。

 

「なるほど。数は同じ兵でも、中身までは同じではないというところか」

 

「はい。早く着いた家が、そのまま早く次へ動けるとも限りませぬ。逆に少し遅れても、兵と荷を一緒に揃えて来た家は、到着後の支度が早いように見えます。それに、普段なら問題なく通れる道でも、幾つもの隊が同時に入ったことで詰まりました」

 

「それで、どう直す?」

 

 問い掛けられ、俺は書付へ目を落とした。

 

 頭の中にはすでに幾つか案が浮かんでいる。荷駄を兵と同時に出すよう決めれば、到着後の支度は早くなるかもしれない。集合場所へ入る道を家ごとに分け、到着順に兵を置く場所を指定することも考えられる。各家が持つ兵糧や予備の武具について、ある程度の基準を揃えておけば、軍勢全体を扱いやすくなるだろう。

 

「まず荷駄について、各家で──」

 

「四郎」

 

 父上の呼び方が変わった。

 

 周囲から少し離れて話しているとはいえ、完全に二人きりではない。だが、声を落とした父上は、当主として命じるというより、息子へ言い聞かせる時の顔をしていた。

 

「今日だけ上手く動けばよいのか?」

 

 俺は口を閉じた。

 

「そなたが一つずつ直し方を決め、それを各家へ渡せば、次は今日より上手く動くかもしれぬ。だが、その次に別のところで詰まったらどうする。またそなたが見に来て、答えを考えるのか」

 

「……それでは、以前と変わりませぬな」

 

「そういうことじゃ。そなたは見ることを覚えた。人へ任せることも、以前よりは覚えた。ならば最後までやってみよ」

 

 父上はそれだけ言うと、俺の返事を待たずに兵の方へ視線を戻された。

 

 俺も手元の書付へ目を落とした。余白には、先ほどから浮かんでいた直し方を書き加えようとしていたところだった。

 

 各家の支度が違うことも、複数の隊が集まった時に指図が行き届かなくなることも、今日初めて分かったことだ。そこへ俺がすぐ答えを書き込めば、確かに次の訓練は今より整うかもしれない。しかし、各家が何故今のやり方をしているのかも知らないうちに、一律の方法を決めてしまってよいのだろうか。

 

 俺は書き掛けていた改善案を筆先で塗り潰し、代わりに見た事実だけを残した。

 

 荷駄後着。集合地点手前で停滞。家ごとに支度の差。

 

 後から理由を確かめられるよう、どの隊で何が起きたのかも書き添える。今ここで何が正しいのかを決めるより、実際に兵を動かしていた者たちがどう考えているのかを聞く方が先なのだろう。

 

 ただ、まだ確かめておきたいことが一つ残っていた。

 

「父上。この後、兵を少し動かしてもよろしいでしょうか」

 

「何処へじゃ」

 

「遠くへは参りませぬ。ここへ集まって終わりでは、集まった後に本当に一つの軍として動けるか分かりませぬ。坂田へ向かう道を、途中まで進ませたいと思います」

 

 父上は東の方角へ一度目を向けられた。

 

 兵を集めるまでの手順については、すでに幾つもの違いが見えている。だが、集まった軍勢を改めて動かした時、同じように指図が通るのかどうかは、まだ確かめていなかった。各家が自分の兵を連れて来ることと、複数の家の兵が一つの軍として進むことは別だろう。

 

「よかろう。ただし、坂田まで行かせる必要はない。今日見たいものが見えたところで戻せ。兵を疲れさせることが目的ではあるまい」

 

「はい。承知いたしました」

 

 父上の許しを得て、俺は近習へ命を伝えさせた。

 

 今日集まった兵を、坂田へ向かう道の途中まで進ませる。ただし、実際に坂田へ入るわけではなく、あくまで集合した軍勢がどのように動くのかを見るためのものだ。各家には従来のやり方で兵と荷をまとめてもらい、その動きを記録することにした。

 

 命が伝わると、休んでいた兵たちが再び動き始めた。

 

 ここでも家ごとの差が出た。

 

 すでに兵と荷をまとめていた隊は立ち上がるのが早く、指揮する者の声が掛かると順に道へ出ていく。対して、荷駄が遅れて到着した隊は、兵と荷を改めてまとめるところから始めなければならない。荷馬を集め、何処へ何を積んだのかを確かめ、兵の列へ合流させる。それぞれの作業に時間が掛かり、集合までは最も早かったはずの隊が、再出発では後ろへ回ることになった。

 

 俺はその様子を馬上から見届けた後、動き出した隊列の脇を進んだ。

 

 今回も各家の者たちへ細かな指図を出すつもりはない。兵をどのように並べ、荷駄を何処へ置くのかは、実際に率いている者たちへ任せる。その上で、先頭から最後尾までがどのように動いているのかを確かめることにした。

 

 最初のうちは順調だった。先頭の兵が道へ入り、後続もそれに従って歩み始める。各家の旗が風に揺れ、槍を担いだ兵たちが列を作って進んでいく様子は、遠くから見れば整った軍勢に見えただろう。

 

 だが人と馬が長く連なれば、先頭と最後尾の間は想像以上に開いていく。前が歩みを速めても、後ろが同じように速くなるわけではない。先頭が何の支障もなく通り過ぎた場所でも、後続が集中すれば動きが鈍り、そのたびに列の間隔が変わっていった。

 

 特に目立ったのは、途中にある小さな橋だった。

 

 普段なら荷馬が一頭ずつ渡れば済む場所だが、今は兵と荷駄が幾つも続いている。兵は比較的早く渡れるものの、荷馬は足元を確かめながら進むため、どうしても時間が掛かる。橋の手前で荷馬が止まれば、その後ろに続く兵も歩みを緩めなければならない。

 

 先頭の隊はすでに橋から随分離れたところまで進んでいるのに、後方ではまだ渡る順番を待っている者たちがいた。

 

 坂田で道を見た時には、雨の後に荷車が通れるか、川が増水しても渡れるかといったことを気にしていた。しかし、今目の前で起きていることは、それとは少し違っている。

 

 道が兵を止めるのは、何も泥や崩れた場所だけではなかった。橋一本、曲がり角一つ、村の中を抜ける狭い道一つ。それぞれは普段なら大した障害にならないものでも、大勢を一度に動かせば、軍全体の進む速さを決める場所になる。

 

 先頭の兵が何の問題もなく進めたからといって、後ろまで同じように通れるわけではないのだ。

 

 俺は馬を止め、橋の手前に溜まった兵たちを眺めた。

 

 指揮する者が声を掛け、順番を整えようとしているが、先に渡った隊との間は少しずつ開いていく。後続にしてみれば、前の兵が何処まで進んでいるのかさえ分からないだろう。反対に先頭の者たちも、自分たちが順調に進んでいるため、後ろが橋で足止めされていることに気付いていないかもしれなかった。

 

 やがて先頭から、予定していた場所へ着いたという知らせが届いた。

 

 俺は馬上から後ろを振り返った。最後尾の姿はまだ見えず、道の曲がりを幾つも越えた先にいるらしい。

 

 先頭が着いたからといって、軍全体が着いたことにはならない。先に到着した兵は槍を置き、汗を拭いながら水を飲んでいる。それなのに、後方からはまだ兵が途切れず歩いてきており、さらにその向こうには荷駄が続いているはずだった。

 

「先頭が着いた時刻だけでなく、最後の荷駄が着いた時刻も記しておいてくれ」

 

 近くにいた小姓へ告げると、少年は抱えていた書付へ筆を走らせた。

 

 到着した兵の数を確認していた別の近習にも、隊ごとに兵と荷が揃った時刻を分けて残すよう頼む。各家が集合地点へ着いた時刻と、再び動き始めた時刻も照らし合わせれば、途中でどれほど時間を使ったのかが分かるだろう。

 

 もっとも、そこまで書き加え始めると、最初に用意した一覧では欄が足りなくなってきた。

 

 紙を継ぎ足している小姓の姿を見ていると、出発前に見るものを絞れと言った父上の言葉が少し身に染みる。あらかじめ確かめたいものは決めていたつもりだったが、実際に兵を動かしてみれば、同じ時間を記録するにしても、何を基準にするのかによって随分と意味が変わるらしい。

 

 やがて後続の兵が到着し、その後から荷馬が姿を見せた。

 

 額から汗を流している者も多く、兵より荷馬の方が疲れている隊もある。途中の橋で待たされたため、そこで間が開いたらしい。先に到着した指揮役は後ろを待ちながら何度も道の方を見ており、全てが揃ったと知らせを受けた時には、先頭が到着してからかなりの時間が経っていた。

 

「これで全部か?」

 

「はい。最後の荷駄まで到着しておりまする」

 

 報告を受け、俺は書付に記された時刻を確認した。

 

 父上が命を出されてから最初の兵が集合場所へ着くまで。各家の兵が集まり、そこから再び動き出すまで。さらに、目的地へ先頭が着いてから最後の荷駄が届くまで。それぞれを別に見れば、同じ一日の中でも随分な差があることが分かった。

 

 もし最初の到着だけを記録していれば、この軍はもっと早く動いたことになっていただろう。

 

 兵が指定された場所へ着くまでの速さだけなら十分だった家も、その後に荷を待つ時間が長く掛かっている。反対に、最初の集合には時間を要したものの、出発してからは兵と荷が大きく離れずに進んだ家もあった。どちらを良しとするかは、何のために兵を動かすのかによって変わるはずだ。

 

 敵が城へ迫っている時には、兵だけでも先に送り込む必要があるかもしれない。一方、何日も進軍するのであれば、兵糧を置き去りにするわけにはいかない。

 

 全ての家へ同じ支度を求めれば分かりやすくはなるが、急いで動かなければならない時に余計な手間を掛けることにもなりかねなかった。

 

 今日の結果だけで何が正しいと決めるのではなく、まず今の六角がどこまでできるのかを知り、その上で実際の役目に応じた動かし方を考えるべきなのだろう。

 

「若様、戻しますか?」

 

 弥太郎が馬を寄せてきた。

 

 空を見ると、日はまだ十分に高い。もう少し先まで進ませることもできるだろうが、父上から言われたことを思い出した。

 

 兵を疲れさせることが目的ではない。

 

 命を受けてから兵が集まるまでの手順も、荷駄の支度も、集合した軍勢が動いた時に生じる問題も、すでに幾つか確かめられた。ここからさらに距離を延ばしたところで、今度は疲労の影響まで加わり、別の話になってしまうかもしれなかった。

 

「ああ。ここまででよい。帰りも同じように時刻を取れ。ただし、速さを競わせるな。今度は各隊に、自分たちが何処で待たされたのかを覚えておくよう伝えてくれ」

 

「戻ってから聞くのでございますか?」

 

「見えていない場所もあるからな。先頭にいた者には、後ろが橋で止まっていたことなど分からぬだろう。逆も同じだ。実際に何処で困ったのかは、それぞれの隊に聞いた方がよい」

 

 弥太郎は頷くと、近習の一人へ伝言を任せた。

 

 やがて帰還の命が伝わり、休んでいた兵たちが再び立ち上がる。各家の指揮役が自分の兵へ声を掛け、荷馬の縄を確かめる者や、置いていた槍を担ぎ直す者が動き始めた。

 

 今度は来る時ほど慌ただしくはなかった。

 

 各隊も一度詰まった場所を覚えていたのか、橋の手前で前との間を取る者や、荷馬を先にまとめる者がいる。到着した時に混雑した場所でも、互いに道を譲り合うような動きが見られた。

 

 誰かが全体へ細かく命じたわけではなく、それぞれが先ほどの経験を踏まえて動きを変えているらしい。

 

 無論、一度通った道だからできることもあるだろうし、次に違う場所へ兵を進めれば、また別の問題が起きるはずだ。それでも、実際に困ったことを覚え、次の動きへ生かそうとしている者がいることは確かだった。

 

 俺はそれを見ても口を出さず、帰りの隊列がどのように進むのかを見届けることにした。

 

 *

 

 観音寺へ戻った頃には、日は山の端へ近付いていた。

 

 城へ入る兵たちの声が遠くから聞こえ、馬場では戻ってきた者たちが馬を引き渡している。汗と土の匂いに混じって、夕餉の支度を始めた煙が漂っていた。

 

 朝から兵の動きを追い掛けていたため、俺自身も随分疲れていたが、書院へ戻れば今日の報告が集まっているはずだった。兵を動かした結果は、見てきたことと書付を照らし合わせなければ分からない。気になるところも幾つかあったので、先にそちらを確かめておきたかった。

 

 廊下へ上がったところで、向こうから次郎が歩いてきた。

 

 稽古帰りらしく、側には同じ年頃の若者が二人付き、本人は肩に木刀を担いでいる。俺の泥の付いた袴を見るなり、次郎は足を止めた。

 

「兄上も兵と一緒に走ってきたのですか?」

 

「馬で付いていただけだ」

 

「ならば随分楽をしておられる」

 

「今度そなただけ走らせてやろうか」

 

「それなら兵より先に着いてみせます」

 

 何を競っているのか分からない。

 

 次郎は本気なのか冗談なのか判別しにくい顔で笑い、そのまま馬場の方へ歩いていった。後ろの若者たちが俺へ頭を下げてから慌てて追っていく。

 

 元気なことは結構だが、次郎に今日の訓練を見せていたなら、兵と一緒に走りたいと言い出したかもしれない。そう思うと少し可笑しくなり、朝から張り詰めていた肩の力も幾分抜けた。

 

 書院へ戻ると、昼間使っていた紙がすでに運び込まれていた。弥太郎たちが受け取った報告も加わり、机の上には朝より遥かに多くの書付が並んでいる。

 

 命が届いた時刻、兵が動き始めた時刻、集合した時刻。荷駄が遅れた家、武具を出すのに手間取った家、途中で道が詰まった場所。帰路で各隊から聞き取った話も、簡単にまとめられていた。

 

 俺は座ると、まず家ごとに紙を並べた。

 

 報告を見比べれば、何処で時間を使ったのかが少しずつ分かる。兵を集めるまでが早かった家でも、荷駄を揃えるために足を止めているところがあり、武具を出すのに時間が掛かった家では、その後の動きは比較的順調だった。複数の隊が同じ道へ入った時に起きた混雑についても、実際にその場にいた者たちの話が添えられている。

 

 自然と手が筆へ伸びた。

 

 荷駄が遅れた家には、兵糧と馬を先に用意しておくよう決めればよい。武具の支度に時間が掛かった家は、置き場所や管理の仕方を改める。橋で詰まったのなら、通る順番をあらかじめ決めておけばよいだろう。集合場所へ入る道も家ごとに分け、到着した兵を休ませる場所を指定すれば、今日のような混乱は減らせるかもしれない。

 

 頭の中では次々と直し方が浮かんでくる。

 

 今夜のうちに案をまとめ、明日にでも父上へ見せれば、訓練の結果を早く形にできるだろう。そう考えて筆先を紙へ近付けたところで、昼間の父上の言葉が頭へ戻ってきた。

 

 ──今日だけ上手く動けばよいのか。

 

 俺が一つずつ答えを書き、それを各家へ渡せば、少なくとも次の訓練では今日より整うだろう。しかし、それでは各家は俺が決めたやり方を守るだけになる。新しい問題が起きれば、またこちらへ判断を求めることになるかもしれない。

 

 それに、今考えている直し方が本当に適しているのかどうかも、まだ分からなかった。

 

 例えば荷駄が遅れた家についても、兵を急いで出すことを優先した結果なのか、馬そのものが足りなかったのか、荷をまとめる者への命が遅れたのかによって、必要な対応は変わってくる。兵と荷駄を同時に出せと決めれば済むように見えても、それができない理由を確かめなければ、別の無理を生むことになるだろう。

 

 武具を出すのに時間が掛かった家も同じである。蔵の場所が悪いのか、管理の仕方に問題があるのか、それとも普段から少ない人数で支度をしているためなのか。今手元にある報告だけでは、そこまで判断できなかった。

 

 俺は筆を置き、家ごとの紙をもう一度分け直した。

 

 今度は直し方ではなく、確認したいことだけを短く書き添える。

 

 何故荷駄が遅れたのか。武具の支度に時間が掛かった理由は何か。集合後、他家と一緒に動く際には誰の命を待ったのか。道で詰まった時、現場では何が原因だと見ていたのか。

 

 それぞれを分けて書いていくと、同じ問題に見えていたものでも、家によって確かめるべきところが違うことが分かった。

 

「弥太郎」

 

「はい」

 

「明日、今日兵を出した家から、それぞれ話を聞けるようにしてくれ。ただし、一人ずつ呼び付ける形にはしない。父上へお願いして、今日の結果を確かめる場を設けていただく」

 

 弥太郎は机の上を見てから、俺の手元へ目を移した。

 

「直し方を書かれないので?」

 

「書きたくて仕方がない」

 

「でしょうな」

 

「そこは否定しろ」

 

「無理にございます」

 

 即答され、俺は思わず睨んだが、弥太郎は涼しい顔で紙をまとめ始めた。

 

 どうせ俺が答えを書きたがっていたことなど、机へ向かった時から分かっていたのだろう。実際、弥太郎がこれまで俺の考えを整理するのに付き合わされてきた回数を思えば、今さら隠しても仕方のないことだった。

 

 ただ、今回は各家の者たちが何を考えるのかを聞いてみたいと思っていた。

 

 兵を率いているのは俺ではなく、実際に家中の者を集め、武具や兵糧の支度をさせている者たちである。今日の訓練で何に困ったのか、その原因をどう見ているのかについては、本人たちの方が詳しいところもあるはずだった。

 

 *

 

 翌日の昼、父上の前には昨日兵を出した家々から主だった者が集まっていた。

 

 後藤但馬守、蒲生下野守、目賀田次郎左衛門尉、三雲対馬守らも座を占め、それぞれの家から上がった報告が並べられている。昨日実際に兵を率いていた者たちも、家中で事情をまとめ、その内容を当主たちへ伝えていた。

 

 ここで全ての兵を動かした者から直接話を聞くわけにはいかないが、少なくとも各家が何処で時間を使い、どのような問題を感じたのかは、ある程度分かるようになっていた。

 

 父上は細かな結果を俺に説明させることはしなかった。座にいる者たちを見渡し、机の上へ置かれていた書付に一度目を向ける。

 

「昨日、兵を動かして見えたことが幾つかある。右衛門督」

 

 公の席で官途を呼ばれ、俺は頭を下げてから口を開いた。

 

「はい。まず申し上げておきたいのは、早かった家と遅かった家を並べて優劣を決めるつもりはございませぬ。早く兵を出したため荷駄が後れたところもあれば、支度を揃えたため出立が遅くなったところもございました。昨日見えたものだけで、どちらが良いとは決められませぬ」

 

 座にいる者たちの視線がこちらへ集まる。

 

 俺は机の上に置いた紙へ一度目を落としたが、細かな時刻を読み上げることはしなかった。各家の報告にはすでにそれぞれの数字が記されているし、ここで一番早かった家や遅かった家の名を挙げても、今回確かめたかったことの説明にはならないだろう。

 

「各家には、命を受けてから兵を出すまでの手順と、実際に何処で時間を使ったのかを改めて見ていただきたく存じます。こちらから一つのやり方を押し付ける前に、まず家ごとに直せるところを出していただきたい。それとは別に、家を跨いだ時に起きたこと、集合場所へ入る道の混雑や、複数の隊が一緒になった後の指図については、六角全体の問題として考える必要がございます」

 

 家ごとの事情を全て同じものとして扱うつもりはなかった。

 

 抱えている兵の数も、普段から用意している武具や馬の数も違う以上、一つの方法をそのまま当てはめればよいとは限らない。だからといって、各家が自分の兵だけを整えていれば、軍勢全体が上手く動くわけでもない。昨日の集合場所で起きた混雑が、その違いをよく示していた。

 

 後藤但馬守が顎へ手を当て、少し考えてから口を開いた。

 

「兵を出すまでのことは、各家で確かめられましょう。ただ、集まった後となれば、確かに一つの家だけでは直せませぬな。昨日も、どの家の兵が悪い、誰それの荷駄が悪いと分ければ済む話ではございますまい」

 

 蒲生下野守も頷いた。

 

「出立を急げば荷が遅れ、荷を待てば兵が遅れる。どこまでを最初から揃えるべきかは、何処まで兵を動かすつもりなのかでも変わりましょう。城一つへ駆け付けるのと、数日進むのでは支度も同じにはできませぬ」

 

 その言葉を聞き、俺は昨日から感じていた引っ掛かりの理由を一つ掴めたように思った。

 

 兵を集める速さだけを求めれば、荷駄が遅れてしまうこともある。反対に、何日も進むための支度を初めから全て揃えようとすれば、急いで兵を出したい時には重荷になる。どちらか一つを正しいと決めるのではなく、何のために動かすのかによって必要な支度を考えるべきなのだろう。

 

 もっとも、そこで急に二種類、三種類と動かし方を決め始めれば、また俺が細かなところまで仕組みを作ることになる。実際に兵を率いる者たちの事情も聞かず、その場で新しい形を決める必要はなかった。

 

「その点も含めて、一度それぞれの家で考えていただきたいと思います。昨日と同じ命を受けた時、次なら何を変えるか。それを持ち寄った上で、六角として揃える必要があるところだけを決めたいと考えております」

 

 三雲対馬守が俺を見た。いつものように表情の変化は小さいが、口元には僅かな笑みが浮かんでいるようにも見える。

 

「右衛門督様が全てお決めになるのではございませぬか?」

 

「そうした方が考えるのは楽しいのですが、父上から止められました」

 

 一瞬、座が静かになった。

 

 父上が横から低い声を挟まれる。

 

「止めて正解であったと思っておる」

 

 今度は何人かが俯いた。口元を隠している者までいる。後藤但馬守も僅かに肩を揺らしていたが、わざわざ指摘するつもりはなかった。

 

 俺自身、昨日の夕方には各家へ渡す直し方を次々と考えていたのだから、父上の言葉を否定することもできない。

 

 少しだけ息を吐き、俺は話を戻した。

 

「昨日一度で形を決めるつもりはございませぬ。ただ、次に兵を動かす時、昨日と同じところで同じように止まるのだけは避けたいと思っております。そのために何を変えるかは、実際に兵を持つ皆にも考えていただきたい。各家でできることと、六角全体で決めなければならぬことを分けた上で、改めて相談させていただきたく存じます」

 

 父上はそれ以上付け加えられなかった。

 

 後藤但馬守たちも異存はないようで、各家で昨日の動きを洗い直し、必要なものを後日持ち寄ることになった。兵を集めた時刻や荷駄の支度については、すでに記録がある。それを基に実際に動いていた者たちから事情を聞き、何処を改めればよいのか考えてもらう。

 

 複数の家に関わる問題については、その報告が揃ったところで六角としての方針を決めることになり、その日の話は終わった。

 

 座を立つ者たちが、それぞれ書付を持ち帰っていく。

 

 後藤但馬守は蒲生下野守と短く言葉を交わしてから部屋を辞し、三雲対馬守も持参した紙をまとめて立ち上がった。目賀田次郎左衛門尉は自家の報告へもう一度目を通し、気になるところがあったのか、側にいた者へ何かを確かめている。

 

 昨日実際に兵を動かした者たちから話を聞くことになれば、今日の席では見えなかったことも出てくるだろう。

 

 やがて俺の前に積まれていた書付も少しずつ減り、最後には一束だけが残った。

 

 昨日の時刻を並べた、最初の記録だった。

 

 父上が命を出された時刻、使者が各家へ着いた時刻、兵が動き始めた時刻、集合場所へ到着した時刻。そこから再び出発し、先頭が目的地へ着いた時刻。そして、その後に書き加えた最後の荷駄が到着した時刻までが、順に記されている。

 

 最初にこの紙を用意した時には、各家の兵がどれほど早く集まるのかを確かめられればよいと思っていた。実際に動かしてみれば、それだけでは分からないことが幾つもあった。

 

 兵が先に着いても荷駄が遅れれば、そこから先へは進みにくい。各家の支度が整っていても、同じ場所へ集まれば道が詰まることがある。先頭が目的地へ着いたとしても、その後ろにいる兵や荷馬まで揃わなければ、軍勢全体が到着したことにはならない。

 

 どれも話として聞けば難しいことではない。しかし、実際に兵を動かすまでは、俺自身がその違いを十分に考えられていなかった。

 

 まして、一度の訓練で見付かった問題へ俺が片端から答えを出していけば、各家の者たちはその指図を守ることへ意識を向け、別の問題が起きた時にも同じように答えを待つことになるかもしれない。

 

 以前なら、この紙の横へ次のやり方まで書き込んでいただろう。兵糧や荷駄の支度を揃え、集合場所へ入る順番を決め、途中の橋ではどのように隊列を通すのか、細かなところまで考えることができたはずだ。

 

 今でも、そのようなことを考えるのは嫌いではない。むしろ、できることなら今すぐ机へ向かい、昨日の記録を基に一つずつ案をまとめたいくらいだった。

 

 だが、今回は各家から何が出てくるのかを待つことにした。

 

 後藤但馬守や蒲生下野守、目賀田次郎左衛門尉、三雲対馬守らがそれぞれの家中で昨日の動きを確かめれば、俺が気付かなかったことも出てくるかもしれない。実際に兵を率いていた者たちなら、道で詰まった時にどのような指図を出したのか、その場で何に困ったのかも覚えているだろう。

 

 そうした話を聞いた上で、六角全体として何を揃えるべきなのかを考える方が、俺一人で答えを作るよりも確かなものになるはずだった。

 

 俺は筆を取らず、手元に残った記録を二つに折った。

 

 紙の端には朝のうちに書き込んだ時刻が並び、その下には昼から夕方にかけて加えた細かな記録が続いている。最初は兵が何人集まるかを見ようとして始めた訓練だったが、終わってみれば、兵を集めるだけでは軍を動かしたことにならないのだと改めて知ることになった。

 

 次に兵を動かす時、俺が道の脇に立って一つ一つ指図しなくても、昨日より滑らかに列が進むかどうか。

 

 各家の者たちが自分たちの動きを確かめ、必要なところを改めた上で六角の軍勢として集まった時、どれほど違いが出るのか。

 

 今は、その結果を見てみたかった。

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